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真宗研究19号 013奥付・広告・CONTENTS・裏表紙

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第一条 第二条 第三条 第四条 第五条 第六条 第七条 第八条 第九条 真 宗 連 合 学 会 規 約 ︵名称︶本会は真宗連ム川学会と称する c ︵目的︶本会は真宗に関係ある学術の研究発ん涯を凶るをもって白的とする。 ︵事業︶本会は前条の

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的を E 足 す る た め に 亙 の 事 業 を / 汀 う 。 一 、 大 会 ︵ 年 一 回 ︶ 二、資料の展観並に出版 三 、 そ の 他 必 建 ∼ 川 口 事 ! 官 一 ︵会員︶真宗に閃係ある学術団体、及び研究者並びに本会の岡崎己日に賛同する ものをもって会員とする。会員は別に定める会費を納めるものとする。 ︵役員︶本会には左の役員をおく。 一、理事長一名理事巾より互選し、本会を代表しで会務を統埋する。 二、理事若干名評議只中より、立選し、会械を処理する。 三、−評議員若干名会員より選出する。 役員の任期は二カ年とする。但し重任を妨げない。 ︵顧問・参与︶本会に顧問及び参与をおく。顧問及び参与は評議員の会議に おいて推挙する。 ︵経費︶本会の経費は会費及び助成金その他の収入による。 ︵年度︶本会の年度は毎年四月一日に始リ翌年三月三十一日に終る。 ︵規約の変更︶規約の変更は評議員の会議に府し、大会の忌認を受けること を 要 す る 。 附則この規約は昭和二十九年十一月十四日より実施する。 昭和49年10月20日 印刷 昭和49年:0月25日 発 行 真宗研究・第十九輯 同 朋 舎 京郎市下京区壬生川瓦条南 印 刷 所 望 者 書 真 宗 連 合 学 会 代 表 者 石 田 充 之 ↑口︼町番番 寸 f g ノ 屋 花 。 通 6 4 茸 寸 堀 72 沼 b J 5 0 ・ 下 町 京 百 糊 話 替 京電振 発 売 所 京都市下京区七条通大宮 竜谷大学真宗学研究室内 振 替 京 都55490番 真 宗 連 合 学 会 発 行 所

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総 項 目 五 五 七 五 索 引 付 送 五

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円 宮本正尊先生真宗辞典には小冊子ながら便利なものが一二あるようであるが、大辞典となる と、本書を挙げるほかない。教義安心はもちろん、人名、書名、寺院名等歴史的事項ゃ、行事 作法その他の項目、約五千五百余についてやわしく説明を施している。たいへんな努力であっ たろうと敬服にたえない。このたび復刊が企画されたことは、新しい真宗学を樹立せねばなら ぬ今日、まことに時宜を得たもので、広く江湖に推薦するゆえんである。 内 容 竃谷大学仏教学 研 究 室 編

雑誌論文分類目録叫判

昭和三十一年 J 四十四年 一、収録論文、仏教系大学、各種研究所発行の雑誌及び各種記念論文集に発表された仏教学関 係︵印度学を含む﹀論文を収録。 て収録論文数、九三三六 一、目録及び索引、論文目録、件名索引、著者名索引、収集雑誌名、記念論文集名各一覧表。 一、論文各項の記載事項、通番号、論文題目、著者名、雑誌名或いは記念論文集名、巻号数、 頁 数 、 発 行 年 月 。

仏教学

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賠由

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畔親鷺聖人著作用語索引糊謀議でお邸問

宮本正尊先生今回竜谷大学真宗学会が多くの困難にうちかつて、先きに出版された﹁教行信 証の部﹂に続いて、﹁和漢撰述の部﹂の索引を完成されたことは、世界の親驚研究熱の高まり つつある今日、機宜にかなった刊行であり、まことに慶賀にたえない。親臨時の全著作の索引が できあがったのは、仏教史上、これが最初のことであって、日本の諸階層に、親驚研究の手近 かな道を開いたばかりでなく、ひろく世界の文運に寄与することも測りしれないほど大きい。 宗教と人生に心あるどの人々も座右におくべき良き手引き書として、ひろく推奨する次第であ 4 Q

仏教図書出版永田文畠堂諮詰躍語持見君!空襲罰金

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わが仏教学界の第一人者山口博士を首班とする専門学者 の長年月にわたる学問的検討と良心的訳業の成果。仏教 思想史の最新の研究成果をふまえた一貫した編集体系の もとに、理代最高の水準をゆく内容解説と明快な現代語 訳をもって編集。この本がひろく仏教を求める人々の要 望に応えて、ながく人々の心の糧となることを期待する

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京都市下京区正面烏丸東 振 替 京 都 27 4 3番 −本全集の特色 一、すべての真蹟をの乙らず収録﹃西方舟南抄﹄や ﹃ 見 聞 集 ﹄ な ど 、 全 容 を は じ め て 公 刊 す る も の や 、 ﹃皇太子聖徳奉讃﹄のように断簡として散在してい る も の も 残 ら ず 収 め た 。 二、坂東本の朱点の復元原本を拝見し、丹山本を参 考にして、関東大震災不明になったげなぞの訓点 μ 復 元 に つ と め た 。 =一、全巻すべて原本からの撮影製版・印刷にも配慮 を重ね、原本の筆致や風格を再現することに意を用 い た 。 口 絵 は カ ラ i 写 真 と し た 。 −体裁および刊行

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円 .全巻の内容 ー ・ 2 教行信証上・下︵坂東本︶ 3 三帖和讃浄土三経往生文類 4尊号亙︵像銘文︵広本・略本ご念多念文意真蹟書簡 5 ・ 6 西方指南抄上・下 7 観・阿弥陀経集註浄土論註 8 唯 信 抄 ︵ 信 証 本 ︶ 唯 信 抄 ︵ ひ ら か な 木 ︶ 9 見聞集・浬奨 j経皇太子聖徳奉讃 蹟拾遺断簡ほか 唯信抄文意 名号集・真

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コ コ 日 体 裁 未公聞の真宗の根本典籍、高田派本山の特別のご配慮と多数読者の熱望により、ここに公刊/本書は聖 人八十三才当時のものとして学界に定評ある書写本。坂東本との比較研究により、今後の教行信一証研究に 一般の進展をみることとなろう。限定出版につき、この機会をのがさずお申込を乞う。 発 行 昭 和 五

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(7)

焚文『無量寿経』におけるー,この問題 の理解が,これらの問題に対する重要なキー・ポイントであることを指摘して おくにとどめる。 註(敬称は省略する〉 (1) buddh坊 と bhagavantal;tは,党文では,「buddhabhagavanta与…」と, 3回 とも重ねてあらわされているものであるが,ここでは分けた。 (2)藤堂明保『漢字語源辞典j97頁。 (3) 以上,称名については,拙論「党文『無量寿経』における諸仏と衆生の呼応(上〉 一特に称名と開名に関して一」(『同朋仏教

J

第5号所収〉参照。 (4) 以上,閲名については,上記の拙論の「(中〉」(『向胡仏教』第6・7合併号所収〉 参照o (5)香川孝雄「称名思想、の形成」(『印度学仏教学研究

J

第11巻・第 l号) 46頁下段。 (6)藤田宏達『原始浄土思想、の研究』 549頁,註同。

(7) The Kyogyoshinsho,translated by Daisetz Teitaro Suzuki, Shinshii Otaniha・ Kyoto, 1973, p. 276. {8) 向上, p.60. (9) 向上, p.125. {1Q 中村元『東西文化の交流』(『選集』第9巻) 161頁, 藤田宏達,前掲書, 546一 547頁参照0 (11) 荻原雲来『荻原雲来文集.11279頁0 {1争藤田宏達,前掲書, 545頁参照。 紳坪井俊映『改訂増補浄土三部経概説』 88頁に,十念の念の語義として, 「念と は党語 Smrtiの訳で,憶とも訳されている。」というのは,正しくない。 凶津田左右吉『シナ仏教の研究』所収「念仏と称名」参照。 帥 「願成就文焚漢対弁」(『真宗全書』第6巻65頁参照。再版,昭和49年6月)。

M

香月院深励『仏説無量寿経講義』(『仏教大系浄土三部経第二』 1167頁, 1223頁参 照。 (49. 6. 20〕

(8)

党文『無量寿経

J

におけるー,二の問題 を,より適切に表現するにふさわしい語であると思われる。

なお,これも既に荻原博士が述べていられるのであるが,この一念の念(citta)

は,念仏の念(「随念」((sam幽) anu・下/sm:rC憶念する〉→(sam-)anusmarati;

anusm:rti)と「作意J(manasi−干/k:r乙思念する〕→manasikaroti; manasikara〕)

とは異なる語である。 『大経』第十八願の「十念

J

,

その成就文の「一念」の念と,三輩段に見ら れる念仏をあらわす「一向専念無量寿仏」の念は,サンスクりットでは異なる 語であるが,ツナ訳ではどちらも「念」という語によってあらわされているの である。異なる語であるにもかかわらず,どちらも「念

J

という語であるとこ ろに,「諸仏の称名」の称と[一向専念」のi舎が, ツナにおいて結びつけられ (14) ることになり,称名念仏が唱導せられる限日の一つになるのであるが,少なく とも究文『無量寿経』によってあらわされるインド浄土思想においては, 「諸 仏が〔buddha恥称讃する( parikirta yante)アミターノミ〔無量光)如来の名号を

(namadheyam〕,衆生たちが:〔sattval).)聞き(訂1_1vanti),lことし、一念(ekacittaと

いうきわめて短い時間,ーたびの心)の発起でも,信心を( prasadasahagata:th 。 時 cittam)発起するならば,誰れでも( sarve)パ現生において)無上なる正等覚よ り退転しない状態に安住する( sa血ti::ithante).。

J

C

『大経』のいわゆる第十七・ 十八願成就文に相応する党文の取意)としづ潮流と,[衆生たちが( sattval).)ア ミターパ如来を繰り返し形相について(akarato)念じ(manasikari (:lyanti),多 数・無量の善根を植え,菩提に心(citta)を廻向し,極楽に生まれたいと願うで あろうならば,かのアミターパ如来は,かれらの臨終の時が到来したときに,

多くの比丘集団(bhik宇uga早a)によってとりまかれ,恭敬されて,(その前

に)立つであろう。それから, かれら衆生たちはかの世尊を見て,澄浄な心 ( prasannaci tta)となり,(死して)極楽に生まれるであろう。」(『大経』三輩 段の上輩に相応する党文の取意)としづ潮流とは,真宗教学において,例えば 香月院深励師が前者を「念仏往生」の中に,後者を「諸行往生」の中に配当し ているように,説意の中心が異なる二潮流であるように思われるが,この事に ついては,他日,稿をあらためて発表することとする。ここでは,一念なる語 17

(9)

党文『無量寿経』におけるー,二の問題 引文個所から窺っても, ekacittaの方であることが判る。 さて,この ekacitta (一念〕 としづ語は,党文『無量寿経』の第十九願中 〔p.14,l.6)の, ・・・・, antaso dasabhis cittotpadaparivartai];i,- -下輩段相応個所中(p.43,l.5)の, .... dasacittotpadat ... とある da匂citta(十念〕という語とともに,唐の時代から今日にし、たるまで, さまさwまな問題を提起してきたのであるが,現存の寛文『無量寿経」そのもの だけによるならば, やはりかつて荻原博士が「十念の研究

J

C特にその所論中 の「参,正しく十念を弁ず」(『文集』 pp.279-281の所説のみに限る)におい て「cittaの念は甚だ短時を詮す。……(中略)……是の如く党漢ともに念を以 かんがえ て甚短時の意義を詮はさしむるは,蓋しーの念あれば必ず若干の時を伴ふ。 故に念より時間を分離すべからず。本来の字に短時の義あるに非ざれども,此 の不可分離の点より斯く念を以て利那を詮はすことあるなり。故に質多の念に は,往々にして甚短時の概念を伴なふものと知るべし。…・・(中略)…ーと十 とは計数の基と云ふべし。故に小数の極を其の単位にて示し,十若しくはーと 言ひしものなるべし。此の外に何等探き意味あるべからず。」と述べていられ る見解が今でも支持せられるであろう。 この荻原博士の所説で特に注意せられるのは,

1

念を以て利那を詮はすjと 述べられている点である。単なる時間であれば, ekak和平a

C

一利那)なる語で 足りるであろうが,あえて ekacitta(一念または一心)なる語をもって,甚短 時をあらわしてある所にζそ,この語のもつ重要なる意義があるのである。 故に英訳『教行信証』グロッサリィ 230の一念のサンスグリットはeka-k宇al).a ではなく, eka-citta とするほうが, 鈴木博士の解説及びその補足の解説の意

(10)

党文『無量寿経

J

におけるー,この問題 この「一念」なる語は,英訳『教行信証J本文中においては,先づ「行巻」 の「行一念釈」に見られ,行の一念は“onethought of practice",信の一念は “one thought of faith,,と訳され,この行の一念の“onethought of practice

の onethought の右肩の所に230と付され〔すなわち“one thought280 of practice,,とある〕,グロッサリィで取りあげられ,以下一念という語に対して は,例えば,「信末巻」の最初の所に見える「信一念釈」にも,「“one thought" is the shortest possible moment・・ ・H・−」というように訳されている。 この一念が,行一念釈の場合には,『大経』流通分の, いわゆる弥勅附属の 文のはじめの一念に,信一念釈の場合には,第十八願成就文の一念に根拠をお も、ているものであることは,それぞれの経文引証によって明らかであろう。 そこで,『大経』弥勅附属の文と第十八願成就文に相応する究文を見てみる と,マックス ミュラー・南条本も,大谷本も,足利本もすべて, ekacittaと ある。 所で究文『無量寿経』には, ekacittaなる語は, antasa伽 仰k宇a宅 凶vena(p.11,l.16)- 於一念頃(関今 I) antasa伽 ittotpadamapy (p. 42, l. 6)- 乃至一念(開会

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antasaekaci antasa伽 ittaprasadamapi〔p.62,l.21)・・・乃至一念(間合

)

I

ekacittotpadamapi vipratisaro na kartavyal). (p. 63,l. 2) … ....・H・−−(シナ訳相応個所なし〕 の 5つの個所にあり, ekak和平a なる語も, ek仰 仰vyatihare (p.肌 l.21,p.瓜 l.15

}一発意頃(;吉芦

2

)

と売文第四十一,四十四願の2つの個所, γナ訳『大経』第四十二願の「住定 供仏の願」に見られるが,『教行信証』にあらわされている一念は,『大経』の 15

(11)

焚文『無量寿経』におけるー,二の問題 れている状態である。 従ってイソド学・仏教学の分野において称名の問題を再考するためには,死 文『無量寿経』では,し、かなる場合でも,称名の主語は諸仏または釈尊である ことを確認したいのである。

2

.

一念について 〈最近,東本願寺より出版された英訳『教行信証』のグロッサりィには,一 念の琵語を, eka北宇al).aをもってあてであるが, eka-cittaの方がより適当す るのではなかろうか。〉 真宗大谷派から,昨年(昭和48年〕 6月,親驚聖人御誕生八百年,立教開宗 七百五十年の記念事業のーっとして,故鈴木大拙博士を中心に翻訳がすすめら れてきた英訳『教行信証』が出版せられた。 本書をざっと一見しただけでも,この出版がもっ意義の大きいことが充分感 ぜられるのであるが,今後の真宗学・仏教学へもいろいろ示唆を与えているよ うに思われ,それだけにそれぞれの分野からの本書への意見もこれから出され ることであろう。 所で本書には, 203頁から329頁にわたって,これは本書全体の約4分の lと しづ量であるが,『教行信証』の中の重要な語句442が取り出され,詳しい解説 が付せられたグロッサりィが,一段と光彩を放っている。 その230番目には, onethought ; one moment of thoughtとして,[一念

J

が取りあげられていて,鈴木博士の解説と補足の解説が見られるのであるが, 楚語には eka−同al).aがあてられ,鈴木博士の解説の冒頭の所にも,

One Thought" is a momentous term in the philosophy of Shin and Jodo. Its Sanskrit original iseka-k$a仰 meaning

one instant" or

one moment

(12)

党文『無量寿経』におけるー,二の問題

aivarttikatayarnm血ti科hante'nuttarayaJ::i samyaksarhbodheJ::i

※ 藤田宏達『党交無量寿経試訳』所収補正表による。 ・京※同上。 (Sukhavativyuhaく足利本>・ 4P 1,l.25-p. 42,l.8〕 〔また,実に,アーナンダよ,十方の各々の方角にあるガンジス河の砂(の 数)に等しい(ほどの多くの数の)仏国土において,ガンジス河の砂(の数) に等しい(ほどの多くの数の)諸仏( buddhal:i)諸世尊は,かの世尊アミタ

三三よ型車

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竺予号室〔tasyabhagavato

mitabhasya tathagatasya namadhcyam)亦讃し( parikirta yante),讃歎を説き,名声を説き明かし功 徳を称揚する。 それは何故であるか。 およそし、かなる衆生たち( sattval_l)であっても,かの世尊アミターパ如来

の名号を(tasya bhaga vato

mitabhasya t2_thagatasya namadheyam)聞き

(訂平V孔nti),聞きおわって, たとい一念(ekacitねというきわめて短い時 間, ーたびの心)の発起でも,深い志向によって,浄信にともなわれた心を 発起するならば,かれらすべては,無上なる正等覚より退転しない状態に安 住するからである。

7

ここでは,「それは何故であるか。Jという言葉を中間にはさんで,諸仏の称 名と衆生の聞名が対応していることになっている。称名は聞名との対応におい て,はじめて明瞭なる姿をあらわしてくるのである。 所で,従来,イソド学・仏教学における称名についての諸学者の考え方の根 底には,すべて称名の称は,口称の称,すなわち人間の行為として阿弥陀仏の 名号を称えることという了解があって研究がすすめられてきたので,この「諸 仏の称名」ということが少しも注意されず,極端な意見によれば,「無量寿経 をはじめとして党語原典の存在する経典では決定的な「称名」の原語は見当 らず, …・・…Jとする説や, 『金光明経』の党文を引用して, 名号を口称する (namadheyam uccarayitavyam)例もあるから, i称名の原語がサンスグリ ット経典に見当らないとするのは, なお検討を要するであろうりなどといわ 13

(13)

党文『無量寿経』におけるー,二の問題 sattva年(諸衆生は)……・−−…...・H ・...・H ・−−−……−…".・ H ・H・H ・−−…・8回 bodhisattvaち(諸菩薩は)…−….."・H・−…ー………・・・・…""・ H・−・・… 7回 striyaち(諸女人は) ".・H ・−…・・…・…" .・.H ・...・H ・−………ー…l回 という結果になる。 これを,先ほどの称名の場合と同じように頻出度の最も高いもので,要約的 iこ一文に再構成してみると, sattvas tasya bhagavato

mitabhasyc1】 tathagat2_sya namadhcyarh srnvant1. 〈衆生たちはかの世尊アミターパ (;ff'J\量光)如来の名号を聞く。ご

I

二のように あらわすことができると忠われる。そしてその主語が諸衆生,諸菩&

i

,諸女人 であることが,注意せられる。 従って、ンナ訳『無量寿佳Jにおける i/え]名

l

に相当する党文は, 名号をほめることのできるのは,諸仏であ その諸仏のほめる名号を聞くのは,諸衆生であるミとがわかったのである これをまさに端的にあらわしているのがツナ訳「無量寿経』のいわゆる十 以上のことから,名号を介して, り,

七, 十八願成就文に相応する死文の個所である。

tasya khalu punarムnandabhagavato

mitabhasya tathagatasya

dasasu dik宇v ekaikasyaril di品iGanganadivalukasame宇u

k:;;etre号uGanganadivalukasama buddha bhagavanto namadheyaril

buddha・ gu早am prakasayanti, ya三al). bha:;;ante, varna1n e 十L n a 一 V J 仁

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引 な 1 3 唱k a − I r − − I a , G D l u tat kasya heto

ye kecit sattvas tasya bhagavato※ ラmitabhasyatathagatasya apy sarve te ekacittotpadam adhyaぬyena prasadasahagataril cittam※※ utpadayanti, cantasa srutva 三rnvanti, namadheyaril

(14)

党文『無量寿経』におけるー,二の問題

下/stu(讃美する)・H ・H ・H ・H ・−−…...・H・...・H ・...・H ・...・H ・...・H ・−−…… 1回

としづ結果になる。この主語,目的語の部分,動調の部分のうち,最も頻出度 の高いもので,要約的に一文に再構成してみると,

buddhas tasya bhagavato

mitabhasya tathagatasya namadheyarh parikirtayante. 〈諸仏はかの世尊アミターパ〔無量光)如来の名号を称讃する。〉 となる。 従って、ンナ訳『無量寿経』における称名に相当する死文の称名は,上のよう にあらわすことができると思われる。 所で党文『無量寿経』における「名号を称讃する」としづ意味の個所は,こ の4例と寛文のみに見られる 1例の合せて5例であるが,それらの主語は,諸 仏,諸世尊,諸如来,釈尊である。また称(このγナ語は,語源からみると, となえる意味はなく,ほめるという意味の語である〉にあたる pari-,/ kirtに は,「ほめる,ほめて説く,一つ一つ取りあげてほめて説く」の意味があるが, 口でとなえる意味はない。 すなわち死文『無量寿経』においては「ほめる」,「ほめて説く」行為は,す べて諸仏世尊の行為であり,「アミターパ如来の名号をほめる」のは諸仏であ るというのが,説相上の規定である。 さて次に,ツナ訳『無量寿経』から「名号を聞く」,すなわち「聞名」の意が あらわされている語句を取り出してみると,ほぽ17の個所にあり,これら 17の 個所のうち, 16の個所が党文『無量寿経』に相応個所を持っているので,、ンナ 訳と党文とを対照してみると, γナ訳の聞名に相当する斑文は, namadheyarh

ruであることがわかる。 そこで斑文『無量寿経』に namadheyarh予/重ruの含まれている個所をすべ て調べてみると,その主語は 11

(15)

党文『無量寿経』におけるー,二の問題 これらの称及びその類語と思われるもののなかで,死文『無量寿経』に相応 個所を持つものを調べてみると, 10の個所にある。 この10の個所の一つ一つについて, シナ訳と党文とを対照してみると, namadheya

C

名号)が含まれている党文は,この10の個所のうち, 4例ある。 この 4例の党文から,主語,目的語の部分,動調の部分を取り出し,共通す る語または語句の頻出度を調べてみると, く 主 語 > buddhal).〔諸仏は〕...・H ・−−………...・H ・−−…………...・H ・−−…… 3回 bhagavanta与(諸世尊は)…・……....・H・−−………・・………...・H ・...・H ・・3回 tathagata与(諸如来は〕……...・H・H ・H ・−…...・H ・...・H・...・H ・....・H ・...1回 く目的語>の部分 namadheyam C名号を)…・……・・…...・H ・−−−……−……...・H ・....・H−・ l・ 回

tasya bhagavato

mitabhasya tathagatasya namadheyam〔かの

世尊アミターパ〔無量光)如来の名号を〕...・H ・....・H ・...・H ・...・H ・..1回 tasyamitabhasya tathagatasya namadheyam (かのアミターパ如 来の名号を〉・H ・H ・H ・H・...・H ・...・H ・...・H ・...・H ・....・H・H ・H・−…...・H ・.1回 tam namadheyam〔かの名号を〕……・…....・H ・−…H ・H・....・H ・...・H ・.1回 く動詞>の部分 pari−干/kirt

C

称讃する) ...・H ・−…・…H ・H・−…...・H ・...・H・H ・H ・...・H ・3回 van;ia血下/bha宇(讃歎を説く)・…....・H ・H・H ・...……・…...・H ・....2回 var明 白 下 /gho甲(讃歎を宣べる) ....・H ・...・H ・−…...・H ・...・H ・...・H ・..1回 下/varn(讃歎する)…...・H・...・H ・...・H ・....・H ・−…H・H ・−−・…・...・H・...1回 pra白 血samabhy・ud--i/ir(讃辞を宣揚する〕...・H・...・H ・...・H ・−…2回 pra--v匂 出sC賞揚する)…...・H・...・H・H ・H ・...・H ・....・H ・...・H ・・……・1回 sam-ud・下/ir〔高揚する)………...・H ・−−………...・H ・H・H ・...・H・..1回 ya

pra・干/k話(名声を説き明す)…...・H・−−…...・H・−−…...・H・−−……l回 gul).am ud--v ir(功徳を称揚する)…・…・…・・・H ・H ・−−……...・H ・...・H・.1回

(16)

党 文 『 無 量 寿 経 』 に お け る 一 二 , の 問 題 一一称名と一念に関して一一ー うね べ とし ひで

畝 部 俊 英

( 同 朋 大 学 ) は じ め に 本稿は,真宗連合学会第21回大会における研究発表の原稿である。従って, 論文として発表するには充分でない点があるが,述べてみたいことだけは,一 応要約してあると思うので,このまま『真宗研究』誌上に発表し,御批判を仰 ぐこととした。 なお本稿の意図するところを少しでも明らかにするために,研究発表のとき 提出した要旨を問題の最初のところに掲げ「〈〉で示す),以下は,紙数も制 限されているので,現存の’

5

'

t

文『無量寿経』(足利本)の上に窺われることだ けにとどめた。 1. 称名について 〈従来,インド学・仏教学の分野では,称名の「称」は,口称の称,即ち人 間(きわめて常識的意味での人間)の行為の一つであって,名を「口で称える こと」としづ了解のもとに考究せられてきたが,究文『無量寿経」において は,いかなる場合でも,称名の主語は,すべて諸仏または釈尊である。〉 浄土真宗正依の経である『大無量寿経』,即ちツナ訳『無量寿経』から,

i

称」 及びその類語と思われるもの,「名Jまたは「名号」と結びついている称の類 語と思われるものを,『真宗聖教全書』本によって取り出してみると,ほぽ28 の個所に見出される。 9

(17)

インド仏教における信体raddha/saddha)の研究 ⑧ P. Hacker, op. cit. p. 176fn. 3. ② P. Hacker, op. cit. p. 179. @ 註 ⑮ cf. 0 0 ⑫ 成 唯 識 論 op.cit. p .245. 云何為信。於実徳能深忍楽欲心浄為性。 p.246. 楽欲 謂欲。即是信果。註⑬ cf.楽欲とも欲とも云う。

② Sik号asamuccayal),ed. by P. L. Vaidya, Darbha時a 1961, p. 6.

aryada-白sutramからの引用。 ⑧ ibid. p. 6.

durlabha sattva pfthagjanakaya ye imi生raddadhiidr品idharman I ye tu subhopacit劫 krtap叫 yaste imi sraddadhi hetubalena II ② Milindapafiha, op. cit. p. 33 f.

⑧ 芳村修基:仏教初学入門書残巻考,西域文化研究第一巻 p. 224 cf.イ曽紙律(大 正22. 228c), 六者不信者令得信故。 七者己信者増益信故。十諦律(大正23. lc)。四分律〔大正22. 570c〕。

@註⑫に同じ。

⑨ K. N. Jayatilleke : Early Buddhist Theory of Knowledge, London 1963. p.384 f.

⑧ ibid. p. 400. @ ibid. p. 394 f. @註③と同じ。

@ A科asahasrikaprajfiaparamita, ed. by P. L. Vaidya, Darbhanga, 1960, p.30.

③ ibid. p. 8.

R

Har Dayal : Bodhisattva Doctrine in Buddhist Sanskrit Literature, London, 1932, Reprint 1970, Delhi, pp. 31-32.

⑨ 平川彰:初期大乗仏教の研究,東京.昭和44年. p. 19 f. ⑧ P. Hacker, op. cit. pp. 180-181.

(18)

インド仏教における信作raddhii/saddhii)の研究 Knowledge, London 1963.p.396f.藤田宏達;原始浄土思想の研究,東京. 昭和45年.p.603 f. ② 西 義 雄 : 仏 教 に お け る 「 信 」 重raddhiiの意義一特に原始仏教を焦点としてー, 干潟博士古稀記念論文集,福岡.昭和39年. p.35 f.Jayatilleke, op. cit. p. 396f. ③ 藤 田 op.cit. p.604. ④ 藤 田 ibid. p.604.

⑤ Mircea Eliade : Yoga Immortality and Freedom, London Second Ed 1969.p.191 f.

⑥藤田氏は知的な信と浄土経典の信との共通性を追求されるが故に, 仏への信仰と いう面の検討に欠けると筆者は考える。藤田 op.cit. p.614f.cf.

⑦ Hans Werbin Kohler: Srad-dhii・inder vedischen und altbuddhistischen Literature

iesbaden1973,p.3. ③ Kohler, ibid. p.59f. ⑨ Kohler, ibid. p.29 f. ⑮新導成唯識論,奈良.昭和15年. p.245. 心浄為性。対治不信楽善為業。 ⑬三信有能。謂於一切世出世善。深信有力能得能成起希望故。成唯識論. p.245. ζの文章は,善因を実行すれば好ましい結果が得られることを信じて,善因を実 行して,好ましい結果を達成しようとする希望(=欲求〉を起こす, ということ を意味する。 ⑫ 宗 教 学 研 究 217,星野英紀:四国遍路における接待の意味 p.84-85.cf.S.

J

.

Tambiah: Buddhist and Spirit Cult in North-east Thailand, pp.53-54. Tambiah氏の言は星野英紀氏の訳による。筆者未見。

⑬ Kol巾 r,op. c仏 p.65.

⑭ 藤 田 op. cit. p.603, 604.『 ス ッ タ ニ パ ー タ

J

の訳は藤田氏訳.但し点を除い

た。 ⑮ Sn.191 傷

⑮ Milindapafiha, ed. by V. Trencker, London, PTS. p.36. Sarμy. N. I, 214からの引用。

⑫ Milindapafil叫 op. cit. pp. 34-36.

⑬ riijii iiha : bhante niigasena kirμlakkhai:ia saddhii’ti. sampasiidanalakkhai:ia ca mahiiriija saddhii sampakkhandanalakkhai:iii cii’ti.

⑫ Paul Hacker :昔raddhiiWZKSO Band VII, 1963.p.177.

@ 藤 回 op.cit. p.609 fn.2.cf.大正 29.p.19b.倶舎論 cf.この面は成唯識論 では信の自体と考えられている。

(19)

インド仏教における信(重rapdhii/saddhii)の研究 又,『ミりγダ王の聞い』や『聖十法経』に見られる如く,先行する仏教 徒を見習って,業困と業果を信じ,好ましい結果に向って行動するのであっ て,知識にもとづく信によって,行動するのではない。 『八千頭般若』も,知識にもとづく信((avetya prasada)を有する者が少 ⑧ ⑨ ないことを認め,凡夫は真実の法を信じない者とされる。もし,仏教における 信が,知識にもとづく信,又は,理性的な信のみであるならば,大乗仏教に現 われる凡夫による仏への信仰はどこから来るのか。 Har Dayal氏は,大乗仏 教徒が『パーガヴァッド・ギーター』のようなヒンドゥーの聖典の誠信(bhakti) の教理から影響されて,仏への信仰を形成したのだとする諸説に反対し,仏教 ⑩ 徒は独自の信仰を仏教の伝統そのものの中から形成したと主張している。又, ⑨ 平川彰氏も同様な見解を示している。大乗仏教の信が外部からの影響でなく, 仏教の伝統そのものの中から形成されたと考えるならば,初期仏教及び部派仏 教の信が知識にもとづく信等の知的な信のみでないことを認めなければならな 七、。換言すれば,欲求としての信,即ち,能度としての信が初期仏教及び部派 仏教において認められなければならなし、。又, Hacker氏の指摘の如く, 『ミ リンダ、王の聞い』の信の欲求としての特質がむしろ『パーガヴァッド・ギータ @ ー』の信に影響を与えたのだということに注意する必要がある。

5

.

結 舌五 口口 信に重点、を置く人々の立場に視点を置いて,信の問題を考えるならば,能度 としての信が初期仏教,部派仏教,大乗仏教において認められることが明らか となった。そして,この能度としての信は信の欲求としての特質と関係するも のであり,布施の実行と関係して現われる。それは,業困と業果を信じ,好ま しい結果を楽欲することである。そして,この能度としての信は知識にもとづ く信ではなく,仏の権威にもとづくか,先輩達を範例として,好ましい結果へ と志向する信である。又,この信はよき行為を実行することからの功徳の力に よって得られ,又,深められる。 註 ①最近のものとして, K. N. Jayatilleke : Early Buddhist Theory of

(20)

インド仏教における信らraddhii/saddhii)の研究 @ 前に戒(=よき行為〕の陳述があった。信は実践体系の最初に置かれることが 一般的であるが, ζの場合,戒が信に先行している。戒が信に先行すること @ は,僧祇律,十諦律, 四分律等によっても知られる。即ち,戒律を実行する ことによる十種の利益の中に,不信のものをして信を得せしむとしづ利益があ る。このことは,小乗仏教において,戒が信に先行するものとして一般的に認 められていたことを意味する。即ち,布施等の実行と関係する信の場合,戒が 信に先行すると考えられる。なぜなら,戒は一切の善法を確立するとしづ特質 @ を有するものであるから。 能度として信を考える思想、が初期仏教及び大乗仏教において見い出せること は明らかとなった。そこで,このような信と知的な信との関係について検討を 進めるべきであろう。

4

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信と知識

K.N. Jayatilleke氏は彼の労作『EarlyBuddhist Theory of Knowledge』 @ の中で,仏教における信が知的な信であることを力説している。しかし,この J a yatilleke氏においても, 仏陀が全知者とされ,仏陀と阿羅漢の聞にうめが たいギャップが存するようになった時,阿羅漢は業と再生との事実を証明する ことが出来ず,唯だ,仏の権威にもとづいて,仏教のほとんどの理論を受け入 れたとされる。確かに,仏教の信が理性的なものであり,又,知識にうらづけ @ られた信(aveccappasada,不壊浄)であるとの主張は資料的にも妥当性を有 しているように見える。しかし,業因,業果の教説を知識にうらづけられて信 ずることは凡夫には困難であったと推定される。因果の道理は知者にとって, 自明であっても,凡夫にとって,自明なものではなし、。その凡夫にとって,布 施と布施の結果を信ずる為には,日常の行為を節度あるものにして,その功徳 によって,自然、に布施を喜ぶ心を得るというプロセスが必要とされたと考えら れる。それが,信に先行するものとして戒を認めたという事実によって知られ る。この様な信は知識にうらづけられた信でもなく,理性的な信(akaravati ⑩ saddha)でもなし、。仏の権威にもとづく信である。 5

(21)

インド仏教における信(量raddhii/saddhii)の研究 るという意味で“mit”(一緒に)と訳したとする。即ち,範例の人と一緒にの @ 意味である。 Hacker氏の独語訳を受けて,ここでは sampakkhandanaを一 緒に飛び越すことと訳した。 Hacker 氏はこの一緒に飛び越すことという信 の特質は,ヴェーダ文献の信の二要素の一つである,欲することの変形である とする。そして,範例を考慮しないという条件つきで,信のこの意味はウパニ ② ツャッドの神の道に関係する陳述の中に見い出すことが可能だとする。この一 緒に飛び越すことという信の特質を『ミリンダ王の閉し、』は大雨により氾濫し た河を向う岸に渡るという警えで説明し,問題の『スッタニパータ』と同文の ⑫ 『サンユッタ・エカーャ』の句を引用している。この『ミリンダ王の聞い』の 「ひとは信によって激流を渡り,云々」の意味は警えによって知られる如〈, 能度としての信により激流を飛び越すことである。即ち,或る結果(=目的) に向って行動するとしづ特質を信は有している。換言すれば,信は目的への志 向性を有すると云いうる。確かに,この信の特賞はヴェーダ文献に見られる。 好ましい結果への欲求と同一線とのものである。信の二構戎要素の第二の欲求 ⑧ に相当する。仏教用語では欲に当る。 この様な信の特質は初期仏教に見い出されるのみならず,大乗の経典にも見 ⑮ む、出し得る。ここに,一例を検討する。 『聖十法経

J

は次の如く述べる。 実に信は最高の乗物である。信によって, (仏教の)指導者達は(この世 から)離脱する。だから,かしこき人は仏を信奉すべし。 言raddhahi paramaiμ yanaiμ yena niryanti nayakal). I tasmad buddhanusaritvaiμ bhajeta matiman nara年||

ここで,信件raddha)は最高の乗物(paramaiμ yanaiμ)とされている。即 ち,能度とされている。この経は『Sik手samuccayaj]に引用されているものだ が,この引用の直前の記述に於て,凡夫にとって,仏法を信ずることが困難で あることを述べ,よき行為(釦bha)を積み,功徳(pu平ya)を積みたる人は, それらのよき行為と功徳の力によって,仏法を信ずることが出来るとされてい ⑮ る。このことは,凡夫が能度としての信を得る為に,よき行為をする必要があ ることを意味している。 『ミリソダ王の問し、』においても,信の説明個所の直

(22)

インド仏教における信(sraddha/saddha)の研究

3

.

能 度 と し て の 信 藤田宏達氏は『スッタニパータ』の ひとは信〔saddha)によって激流を渡り,不放逸〔appamada)によって海 を〈渡る〉。精進(viriya)によって苦しみを越え,慧(pafi.fi.a)によって 全く浄らかとなる。 なる文章を引用し,「すでに古くハリヴアノレマソ(Harivarman詞梨蹴摩・三 ∼四世紀)が注意しているように,激流は実際には書、を以て始めて渡り得るの で,信等を以て渡るのではないのである。信等はあくまで慧に至る過程として ⑭ の意義を担っているに過ぎない。」とされる。確かに慧(=般若)に重点を置い てこの文章を読めばそうも読めるが,信でもって,世の激流を渡ると表面的に 読んでどうして悪いのか理解し難し、。この文章の後の第 191備で布施とその偉 ⑮ 大なる果報を信じさす為に仏陀がおいでになったことが知られる。そこで,こ の文章を業因業果を信じ,布施をする喜びで,布施を実行する人は世の激流を 渡ると読み得る。又,この『スッタニパータ』の文章と同文のものが『ミリソ ⑬ ダ王の問い』に引用され,信(saddha)の説明の経証とされている。そこで, ⑫ この『ミリソダ王の問い』の信の説明部分を検討する。 「王は問う,尊者ナーガセーナよ,何が信の特質ですか。大王よ,信の特質 ⑬ は一方では清澄で‘あり,他方では一緒に飛び越すことである。 清澄(sam pasadana〕は心澄浄〔citta-prasada〕と同じ意味内容のものであ る。 Paul Hacker氏はこの『ミリンダ、王の聞い』の信の説明を検討し, 清澄 (sampasadana)がヨーガ・パージャの信の定義,信とは心の清澄(sraddha ceta

sarμprasada];i)と同じであるとし,ヨーガ思想に仏教の信の解釈が影 ⑬ 響を与えたとする。この心の清澄は有部では「令心澄浄

J

〔cetasal;iprasadal;i) @ として知られ,禅定と関係する信の一面である。能度としての信と特に関係す るのは,信の他の面,却ち,一緒に飛び越すこと(sampakkhandana)である。

Hacker氏は sam_pakkhandanaをMithiniiberspringenと独語訳し,‘sam’

(23)

イγド仏教における信 Csraddhii/ saddha)の研究 の二構成要素が存する。 Hans-WerbinKohler氏はヴェーダと古い仏教文献 ⑦ における信付rad-dh立〕を研究して,この信の二構成要素を指摘している。そ して,パーリ・ニカーヤにおけるヴェーダ的思考の系列に属する信(saddhii) の用例として,“布施をする喜び(saddhii)”の意味における文章を摘出してい ① る。一例を検討することにしよう。 布施をする喜びで,与える食事は, うれしい気持と一緒に,この世においても,あの世においても,その後そ の人のあとを追う。 ye naiμ dadanti saddhiiya [ vippasannena田tasii[

tam eva annaiμ bhajati

I

asmiiμ loke paramhi ca [ (Saiμy. N. I, 32〕 この文章は,信(saddhii〕を以って,布施を実行すると,その結果として, うれしい気持〔vippasannena cetasii〕と一緒に,布施した食事がその人につい て廻ることを意味している。 ③ ヴェーダ文献において,信(重raddhii〕なき供犠が無効であった。仏教にお いても,業因と業果とを信じて,即ち布施する喜びで,布施をするならば,所 欲の好ましい結果が得られる。又,うれしい気持,即ち,浄らかな心を得る。 ⑮ このことを後代の『成唯識論』第六は,信とは心を浄らかならしむるを性とな す,不信を対治し,善を楽うをもって業となすと述べている。又,信とは業因 @ 業果を信ずることとも述べている。又, S.

J

.

Tambiah氏は,「タイ人にとっ てく功徳を積む>ことの結果とは,具体的には,幸福で富裕な来世(輪廻の次 段階)を迎えることやこの世での心の安らぎを得ることである。」と述べてい ⑫ る。この陳述は初期仏教や『成唯識論』のものと一致する。 勿論, Kohler氏も指摘する如く,パーリ・ユカーヤでは,布施をする喜び としての saddhii〔信〉の用例は少なく,三宝を信ずるとしづ信頼の意味での ⑬ saddhiiの用例が多し、。

(24)

インド仏教における信(

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saddha

)の研究

み 乙 カ ヌ み え しよう

神 子 上 恵 生

( 竜 谷 大 学 )

1

.

は じ め に 初期仏教における信の諸研究は,初期仏教の実践体系の最初に信が置かれて ① いること,並びに,信が般若の先行者であることを指摘する。そして,竜樹の ① 『大智度論』における陳述, 「仏法の大海には,信を能入と為し,智を能度と ① 為す」が初期仏教における信と慧との関係を正確に言い当てたものとする。 又,たとえ「ひとは信によって激流を渡るJとしづ表現が見い出されても,激 流は実際には般若を以て始めて渡り得るもので,信等を以て渡るのではないと す

2

。しかるに,

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民は,知識に重点を置く人々,ョーガの実践 に重点を置く人々,信に重点を置く人々が仏教の歴史を通じて一貫して争った ① と,考えている。この

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氏の考えに刺激され,信に重点を置く人々の立 場に視点を置いて,信の問題を研究しようと考えた。この視点から「ひとは信 によって激流を渡る」としづ表現は,信が激流を渡らしめる能度であることを 示していると考えられる。ここでは,イソドの仏教における能度としての信の 思想を検討することを通じて,信に重点を置く人々の思想の一端を明らかにし @

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こし、。

2

.

信(品

raddha/

saddha)の二構成要素

ヴェーダ文献において,祭式の信は,人間の所欲の目的を満してくれる神を 信ずることである。或いは,実行された供犠が所欲の目的を満してくれること を信ずることである。この場合,信には,‘信頼すること’と‘欲すること’と

(25)

CONTENTS

A Report on the Heresy at N agaoka in Echigo in Modern

Times・・・

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・・Takeshikikuchi・・・・・・ 1

On the Passage of Advantage and Disadvantage concerning the Two Practices in the Ojo Raisan

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H

Jitsuen Hisamoto・・・

13 An Introduction to the Study of the hα11iarity~'Betsuzu’別途〉 of Shin Buddhist Teachings

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H

SokusuiMurakami・・・・・・29 Critique of the

1mnson the Prince Shotoku

.

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H

1ichimaroTokiwai・・・・・

41

A Report on an Urban Missionary Work

-Principle and Activity of the Missionary Center of Osaka District of Higashi Honganjiー

.

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.

H

Makoto Terabayashi・・

55

Dating the Six Volume Form of Kyo-Gyo-Shin-Sho -Sel!-king for the original manuscript of Sonren

s

copy-・

KazuyukiShigemi・・

65 The Meaning of‘Yuijo’(唯除,‘exceptfor') in theEighteenth Vow

-The Study of Shinran

s View of Man (1)ー

.

.

.

H

Jiirou Yamamoto・・・

78 A Study of the National Treasure Copy of the Sanjo W asan ・ ・ Reizo Hiramatsu・・・・・

89 Rennyo

s Letter telling of the

Establishment of Osaka

・・Gyδshin Hosokawa・・・ ・・・96 A Form of Modernizing the Shinshu Religious Body

KoucHδHukuma・・・ 104 A Study of品‘raddha’/‘saddha'in Indian Buddhism

・ Esho Mikogami ・

l

Some Problems on Sanskrit text of the Sukhavativyiiha-siitra

−Utteranceof the Name and a Single Mindfulness・ーー

(26)

THE

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H

I

N

S

H

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KENKYU

JOURNAL

OF

SHINSHU STUDIES

No.19 October 1974 Published by

SHINSHU RENGO GAKKAI The Research Association of Shinshu Studies

参照

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