ベルリンの仏教事情
ベルリンの仏教事情
谷 真 澄
はじめに
本『仏教学研究』は,龍谷大学文学部を退職された桂紹降教授の退行記念 号として出版されるものである。筆者は現在,本学国際文化学部に所属しつ つ.文学部仏教学科の演開を担当している。 桂教授は広島大学から本学に着任されたが,筆者自身が学部時代を通して 薫陶を受けた恩師こそ杭教授に他ならない。インド哲学講座の助教授として 公私とも多忙な rj:t,熱心に御指導をいただいたことは終生忘れることはでき ない。サンスクリット語は宇野惇教授より,古典チベット語は桂教授より御 指導を受けた。桂教授が1'1筆で作成されたテキストを使つての授業は,厳し くも楽しいものであった。卒業論文のテーマに選んだ『中諭」の注釈古:の研 究では,ご自宅に毎週お邪魔してチベット訳『仏護註』第17章を読む機会を いただいた。当時は未開拓で翻訳もなかった当該テキストの和訳研究は,そ れ白身がチャレンジであり,読み終えたときの充足感は何ものにも替えがた いものがあった。大学の教員は,最新の成果を志向しつづける研究者である とともに,学生を指導する教育者でありつづけなければならない。桂教授は. そのことを身を以て示して下さった。教員と学生という立場で直接的な御指 導をいただいたのは4年間のみであったが,その経験は筆者の礎となってい る。 龍谷大学大学院進学後ふ学会や夏季合宿等でお会いする機会もあったが. 桂教授のご紹介で1991年度より広烏大学文学部非常勤講師として古典チベッ F h u o o n r uベルリンの仏教感情ー トす!?を教えることになり.多くの在学
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1
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,卒業生との交流を後押ししていた だし、た。縁有って本学に着任された後も種々のご教示を賜り,筆者が,仏教 学り研究者として歩を進められてい.るとすれば,その第一歩は校教授の御指 導のおかげである。 筆者は現在.2012年度長期 I~ 外研究員としてドイツ・ベルリンに滞在して いる。本稿が,その学思に報いるものとなるか脊か危倶するところであるが. 3年前に仏教学科教室代表として,筆者・のベルリン関学を後押ししていただ いたことに対する感謝の意を去し,一般にはあまり知られていないであろう 「ベルリンの仏教事情」について記したいと思う。ベルリンと仏教研究
f持者の主要なfJ的は,ベルリン市内に分!哉されるIjl央アジア11'.土の仏教漢 文資料を通覧することであった。ベルリン・プランデンプルク州立科学アカ デミー(
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,以下BBAW)
のトルファン研究所を拠点として,「ゲッテインゲン科学アカデミ ー・ドイツ所蔵東洋写本f
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録編纂J(
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,以下KOHD)
の研究員として,ハルトムート・オルトヴィーン・フアイステル (I-Ia
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氏やジモネ・クリスティアーネ・ラシュマン(
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Raschmann)
氏の研究保証の下,住│立[1<1書 館 や ト ル ファン研究所,アジア美術館などの関係者による全IfrH
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句協力によって,当事JJ のけ的をほぼ果たすことができた。 本稿は,その実体験に基づく「研究ノートJ,あるいは今後lI'r版予定の総 介1
1
録に向けた作業過程として位置づけられるものである。ドイツと中央アジア出土資料
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紀 初 版 の1
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年から1
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年にかけ, ド イ ツ で は ト ル フ ァ ン 探 検 隊 p o n δ つ 白ベルリンの仏教事情 (German Turfan Expedition)が派遣された。その概要は以下の通りであ る。 第1次隊:1902年11Jj-1903年3JJ 隊長:グリュンヴェーデル (AlbertGrunwedel) 隊員:フス (G.Huth)、バルトゥス (Th.Bartus) 経路:イーニンーウルムチ-トルファンオアシス(カラホージャ・ベゼ クリク・センギム・トヨク).北シルクロード(トクスンーカラ シヤールークチャークムトラ近くの遺跡・キジルーアクスートゥ ムシュクーマラルバシーカシュガル) 収集品:46箱 第2次隊:1904年llfl-1905年12月 (-1906年6月) 隊長:ルコック (AlbertAugust von Le Coq) 隊員:バルトゥス 経路:ウルムチ-トルファンオアシス(カラホージャとその周辺・ヤル ホト1904年11月-1905年8月・ハミ1905年8月・トルファン)I 北シルクロードーカシュガル(1905年10月一12月)
.
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..1906年6 月までは第3次隊と合同。 収集品:103箱 第3次隊:1905年12日-1907年4J
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隊長:グリュンヴェーデル 隊員:ルコック.ポールト (H.Pohrt)I バルトゥス 経路:カシュガルートゥムシュク(1906年1)J)ーキジルークチャーク ムトラ(1906年2月)ーキジル石窟寺院・キリシュ(1906年2J
j-5
月)ーコルラ/ショルチュク石窟寺院ートルファンオアシス (1906年7
J J) ーウルムチーハミートヨク(1907年1)J) ーショル チュク(1907年2月・3J
1)ートルファン(ウルムチを経て帰路. 1907年4月) 収集品:118箱 円 i o o 内 Lペルりンの仏教 lj~怖 第4次隊:1913年6月-1914年1月 隊長:ルコック 隊員:バルトゥス 経路:カシュガルークチャーキジル(1913年6月-9月)ーキリシュ, シムシムークムトラ(1913年11月)ートゥムシュク(1913年12月 -1914年1}'J)ーカシュガル 収集品:156箱 この探検隊は,日本の大谷探検隊(Otanimission)の活動年時 (1902-1914) と一致する。大谷探検隊はトルファン地域だけではなく,敦健やインド,チ ベットなどを合むアジア全域を視野に入れた広範な仏教伝播の状況調査を行 ったが,この地域に関しては調査地がかなり重複する。大谷探検隊収集資料 は,出土地(あるいは入手地)が不明のものが多いのに対して, ドイツ隊収 集資料の多くは,出土地を明確に示してあり,大谷探検隊資料の出土地を類 推するための,有用な情報を提供してくれる資料でもある。
ベルリンと漢字文献資料
ドイツは,第二次大戦後,政治体制の異なるドイツ民主共和凶(東ドイ ツ). ドイツ連邦共和国(凶ドイツ)に分断されただけでなく,ベルリン市 も,ソ辿によって統治される東ドイツの肖都としての京ベルリンと,東ドイ ツ国内の飛ぴ地として,英・仏・米によって分割統治される西ベルリンに分 断されていた。束ベルリン側から西ベルリン側への亡命を防ぐため, 1961年 8月から東ドイツから凶ベルリンを隔離するための療の建設が始まり,この 「ベルリンの壁dieBerliner Mauer Jが長く,冷戦の象徴として存在してき たのは周知の通りである。この壁は1989年11月10日に破壊され,翌年の東西 ドイツ統一後に,ベルリンは, ドイツ述邦共和国の首都として再出発した。 このようにドイツあるいはベルリンには4
・年異な歴史的経緯・があり, 1973年の 国交正常化まで,東ドイツの首都・ベルリンを訪問することの附難であった -288-ベルリンの仏教事情 時代に,所蔵資料を閲覧することは至難の業であったと思われる。 国交のなかった早い時期から,ベルリンにある中央アジア出土資料には特 に仏教関係の写本が多いことを重視され,本学西域文化研究会のメンパーが 中心となって.1965年に発足したトルファン研究所をたびたび訪れ,漢文仏 教写本を中心として同定作業が進められた。その成果は,後に挙げる目録に 結実している。 筆者は,本学や旅
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原博物館に所1議される大谷探検隊収集資料の調査研究と 同時放行的に,ベルリンはじめH
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コレクション,イスタンプル大学図書-館 といったドイツトルファン隊収集の仏教文献資料の研究に参画してきた。そ のような経緯があって,筆者は.2
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年度に長期│司外研究員としてベルリン に滞在することになった。トルファン出土資料の所蔵状況
トルファン写本は,寺院跡などから出土した資料であるため‘漢字写本の 場合,首尾の一貫した完本はほとんどなく.破損したり天地が欠損した断片 が多く,1
cm四方にも満たない極小断片もある。そこで. ドイツでは.二枚 のガラスの間に資料を爽入して黒色粘着テープで周囲を固定して保管してい る。両面に文字の書写された資料も簡便に閲覧できるような工夫が施されて いる。注意すべきは. 1)点t ラス資料の中に2
点点;もしくは数点'さらに希にではあるが,数十点、の断片が 爽入されている場合があることである。 当初の番号は,いつどこで収集したのかを基準に番号が付されていた。す なわち,旧番号では,T
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という具合に,1
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頃にトルファン 隊第一次,第二次,第三次,第四次の将来であることを示す記号と, B (プ ライク), D (ダキアヌスシャフリ).M (ムルトク).S (センギム).S (ショルチュク), T (トヨク).y
(ヤルホト)等,採取地の頭文字,及ぴ 数字を組み合わせて.管理されていた。それに対して.新番号は.言語別に 分類された通し番号が付されており.番号の前のCh.U.So等の記号が何語-
289-ベルリンの仏教 'I~m であるかを示している。ドイツ隊収集の文献資料は r24種の文字・ 17種の言 語」と言われるように,文字と言請が複雑に入り組んで‘いる。中央アジア
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土資料を扱うには,文字・言語レベルで分類することが相応しいと考えられ る。 その中でも6,000点以上と言われる漢字・古典中国語資料については,い くつかの分類にまたがるだけでなく,凶立図書館(
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とBBAW
トルファン研究所,さらにアジア美術館(Museumf
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に分蔵されているのである。そして,そのほとんどは仏教に関係し たものである。 2000年に試行本として刊行された『ベルリン所蔵束トルキスタン出土漢文 文献目録』によれば,当時,r
ベルリンの1
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¥1立図書館の第1分館(Haus
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8)と第 2分館(
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2:Potsdamer S
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33)に分 蔵されている。」とされているが,現在は,国立図書:館のHaus
1には当該資 料・はなく,BBA
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22-23) に所蔵されている。そしてアジア 美術館(
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40) は同立凶書館とは別の管轄となっているが,参 考のために最後に記しておく。 また,漢字を合む断片(同m
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の場介はTI'!D
の数については,現時点で確認 できた数値を記しておくが,今後増減する可能性もある。ベルリンコレクションにおける漢字資料の概要
Ch
・H ・H ・..漢文の資料。(写本と)坂本。漢字を合むもの約5,300面)Ch
1-3960.5501-5557.5600-5647,6000-6003,7000-7008Haus 2 (
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………サンスクリット詩文の資料。(漢字を含むもの70点)Haus 2
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・H ・H ・..トカラ語文の資料。(漢字を合むもの25点)Haus
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・H ・H ・..チベット詩文の資料。(漢字を合むもの26点)Haus
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が併整理されたもの。SyrHT
・H ・H ・..シリア語文の資料。(漢字を合むもの1
点)Haus 2
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ベルIJンの仏教事情 Ch/U ………表面が漢文・裏面がウイグル語の資料(漢字を含むもの約 2.390
,
.
1
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Ch/U 3909-3917.6000-7774. 8000-8224 BBAW Ch/So・H ・H ・..去而が漢文・表而i
がゾグド語の資料。 BBAW So ...・H ・-・ソグド語の資料。(漢字を合むものもある)BBAW (Ch/SoとSoは共通の通し番号が与えられており, Ch/So は.漢字面があることがl明かな資料を示す。両者を合め漢 字を合むもの約110点) U ………古代トルコ語の資料。(漢字を合むもの86点)BBAW M ...・H ・..マニ文字中期イラン語資料。(漢字を合むもの50点) BBAW bs ...・H・-・ブラーフミ一文字ソグド語資料。(漢字を合むもの l点) BBAW h ...・H ・-・エフタル文字パクトリア語資料。(漢字を含むもの2点) BBAW n ………ネストリウス文字ゾグド語キリスト教資料。 (漢字を合むもの3点)BBAW Mainz .・.H ・...第二次世界大戦中にマインツに疎開していた資料。ブラー フミー,チベット,ウイグル.ソグド、漢字など多岐に亘 る。後にマールブルク,ベルリンに移された。 BBAW(漢字を合むもの約44点)及ぴHaus 2 (同約10点)MIK 1
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・H ・-アジア美術館独1'1の整理番号(
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1)で登録されてい る資料o
英字を合むもの約100点)アジア美術館 なお現在、ベルリントルファンコレクションの総数4万点のうち, 3万 5000点がデジタル化され,漢字資料についても.ほとんどがインターネット 上で、公開され,閲覧可能となっている。詳細は, トルファン研究所のホームベルリンの仏教事情 ページ
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を参照されたい。 特に,漢字資料の大多数を占める Chに分類されたデータについては, n~1 │探敦健フ。ロジェクト(ln
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lDunhuang P
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と提携してリンク されており,日本語ページからも検索・閲覧することができる。科学アカデミーとトルファン研究所
トルファン研究所は,BBAW
に置かれている4
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の学術研究フ。ロジェクト の一部門である。BBAW
は, 1700年創設のプランデンブルク選帝侠科学協 会(
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を哨矢 とし,プロイセン王立科学協会,プロイセン科学アカデミー, ドイツ科学ア カデミ一等と改称や組織改編を経て, 1992年に現在の名称、と組織が創設され ている。 トルファン研究(T
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は, 1965年に,ヴォルフカン ク・シュタイニッツ(Wo
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氏とゲオルク・ハザイ(
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i)氏との尽力によって,当時のドイツ科学アカデミーのオリエン卜研 究室にトルファン研究グループ(
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として開設さ れた。現在は,BBAW
に置かれている27のLongterm p
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の一つでは あるが,一定期間のrjlで研究成果を出して行く必要があり,現在は, 2021年 を最終年とする11年間の時限的研究期間の中にある。本フ。ロジェクトでは, ベルリントルファンコレクションのうち,全ての11-1期イラン語・古代トルコ 和の文献資料を解説し,発表することを│ごl
的としている。研究室は,ベルリ ン市内の]
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22-23にある科学アカデミーの2階(日本式には3 階)にあり,研究員の研究室の他,図書室, トルファン出土資料の収蔵庫が 置かれ,ウイグル語,'
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1期イラン語の文献資料の解説作業が続けられている。トルファン研究所の組織と活動
研究組長哉としては,セミフ・テツジャン(
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氏をフ。ロジェ クトリーダーとし,研究グループの長は,デスモンド・ダーキン・マイステ レルンスト(DesmondD
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氏が務められ,実質的にトル ワ 臼 n 可 d ワ 白ベルリンの仏教事情
フ ァ ン 研 究 所 ・ 所 長 と 言 っ て よ い 。 専 任 研 究 員 は 笠 井 幸 代 (Yukiyo Kasai)氏と,アブドウルシッド・ヤクップ (AbdurishidYakup)氏であ
る。その他.研究自体にはかかわらないが,周辺の種々の業務に携わるスタ ッフとしてスーザン・ラブスケ (SusannRabuske)氏が勤務している。 す で に 退 職 さ れ て い る が . 歴 代 所 長 で あ る ヴ ェ ル ナ ー ・ ズ ン ダ ー マ ン
(Werner Sundermann :欣人)氏とぺーター・ツィーメ (PeterZieme :東 京在住)氏の名前も挙げられている。 BBAWのメンバーは以上の通りであるが.写本の目録編纂 (KOHD)の スタッフも
2
名常駐している。一人は.ラシュマン氏であり.ウイグル語文 献の目録化を担当しており, 2005年に大述市で開催された旅順博物館所蔵資 料に関する国際学術研討会や20日年に龍谷大学で開催された「中央アジアの 仏教写本」と題したシンポジウムでも発表していただいた。また, もう一人 は中期イラン話文献の目録化を担当するクリスティアーネ・レック (Chris -tiane Reck)氏である。両名は同じ階に研究室を置いて,情報交流を密にし ながら共同作業を行っておられ, 2015年を最終年とする目録編纂事業が進行 中である。 トルファン研究所では,毎年数回の研究会や講演会を開催し特に内外の 研究者によるCollegiumTurfanicumは, 1999年以来すでに63回 (2012年 末)を数えている。その第1岡は,龍谷大学の百済康義氏が1997年9月に行 った講演であり,第631111は本学理工学部名誉教授の江南平u
幸氏であった。筆 者は2005年6)-jに開催されたワークショップで,ベルリン所蔵の漢字資料目 録 最 新 巻 の 概 要 に つ い て 発 表 し 2009年11月には第45阿CollegiumTur -fa凶cumにて,旅順博物館と龍谷大学との共同研究の経緯と成果について 発表した。 また,毎年開催される BBAW研究の一般公開事業への参加も挙げられる。 本年度は2013年1月19日に「学問と愛 (DIEWISSENSCHAFT UND DIE LIEBE)Jという斬新なテーマで、開催され, 2,300人が米場されたとのこと である。 トルファン研究所では.テーマに相応しい各種言話・文字資料を選ベルりンの仏教'IC情 定し,研究室の公開や,現物資料の展示,一般への研究紹介,ビデオプロジ ェクタを使用してのプレゼンテーションなどを行われた。また,テーマに沿 ったトカラ語文献のドイツ語訳 (r機械仕掛けの少久・J)を朗読され,好評を博 した。
龍谷大学との研究交流
このトルファンliJl=究所と龍谷大学凶域文化研究会とは長い学術交流の伝統 がある。1
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年の開設より早く,1
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年に,西域文化研究会のメンパーであ った京都大学人文科学研究所の藤枝晃氏が,後にトルファン研究所長となる ツィーメ氏を桶瑞超氏の実家へ案内されたといっ。橘氏は,大谷探検隊の第 二次・第三次隊員で,最初期のウイグル諮仏典研究者である。そのことに端 を発し,開設問もない-19
6
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年には,国交のないIj1, ~藤枝晃氏, J::
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J口泰淳氏 が東ドイツの中にあったベルリンを訪問された。その後も竺沙雅章氏,古泉 ! 日1)1国氏,京戸惑光氏,釈舎幸紀氏,上山大峻氏,石塚H青道氏,宇野1)恒治氏,n
川淳三氏ら,研究会のメンパーが訪れ,写本のl
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定研究に従事された。そ の結果として,1
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年にK
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件の!日]定r1録),1
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年 に,K
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Band 2
(l,2
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件の同定目録)が刊行された。さらに,百済成-義氏や蓮池利│年氏をはじめとする研究会メンバーの尽力によって2
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年に 『ベルリン所!城東トルキスタン出土漢文文献1
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録』が刊行された。この目録 には,大正新怖大蔵経に同定し得たものだけでなく,未同定のものを合め, 卜ルファンコレクションに合まれる,ほぽ全ての漢字資料の整哩番号や害:誌 情報が盛り込まれ,非常に有!日なものであった。しかし,配布が研究者の一 部に限られたこともあり,その後の同定作業や研究成果などの追加情報を盛 り込んだ正式な刊行が待ち望まれているところである。 このような研究交流の成果として,2
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年には, ドイツ隊派遣1
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周年記 念事業としてベルリン会識が開催され,翌2
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年には大谷隊1
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年記念事 業の最後を飾るI
司際学術会議が龍谷大学で開催された。日本とドイツそれぞ れの研究者を合む,中央アジア研究者が一堂に会しての研究集会となった。-
294-ベルリンの仏教事情
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5
年には, ドイツ隊収集資料の一部であるI
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日常順。lIi (元四天王寺管 長)所有の1
3
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点のコレクションの研究成果が出版された。I
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日師がベルリ ン留学中(19
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)
に入手された資料は,図版IIlt
の配布(19
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年)以来.藤 枝氏が研究を進め.1
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とに逝去された後,遺稿を西域文化研究会のメンパ ーがヲ│き継ぎ『トルファン出土仏典の研究一高日残影釈録』として刊行され た。本書は.新たに策定されたトルファン出土写本の年代分期法 (AA,A, A',C,D)によって,年代1)闘に写本が列べられている点が特筆される。 同じ2
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年.前年5
月に逝去された故百済康義氏が準備されていた原稿を 基 にK
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g Band 3
(
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,1
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件 の 同 定 日 録 ) が 刊 行 さ れ た 。Band
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,Band 2
出版以降に新規l
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定されたCh
分類の資料に.大正械の同定結果を 基本とする目録であった。当初は,先述したトルファン写本の年代分期法に 従って整理が進められたが,既刊目録では敦健出士写本の年代分期法(A
,B
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.
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)
が採川されていたため,最新巻のみ新しい年代分W
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法を採用して 混乱の生じることをおそれ,近い将来.全ての漢字資料について, トルファ ン出士写本の年代分期を付して掲載することを期した。今後の研究計画
KOHD
では,2
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1
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年までにK
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gBand 4
(漢字文献資料総合11録) が刊行される予定であるが.その際には,新規同定分の情報提示にとどまら ず.既刊目録掲載情報の修正に加え、未同定もしくは同定不能分を合めた漢 字資料の全点日鉢として11',版し‘ AA,A.A',C,Dの年代分却1
法(写本)と P (版本)の記号を掲載することを構想しているところである。 AA・H ・H ・..北朝前期 3世紀末一5世紀前半(北涼時代まで)A
・H ・H ・..北朝後期J5
世紀前半-6
世紀1
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JtJ)(麹氏I印1
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岡前期jまで)A
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………商品国期6
世紀前半-7
世紀中期(麹氏高白岡滅亡まで)c
・・H ・H ・-府代(7
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世紀)D
...・H ・..ウイグル期(
9
世紀中期-11
世紀)2
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1
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年度にベルリンでの在外研究中に,ベルリン市内にある漢字資料につ F D n u J ワ 白ベルリンの仏教事情 いてはほぼ通覧することができた。すでに百済康義氏によって
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年時点で 整理されていた目録と,その後,凶j成文化研究会メンバーの尽力によって判 明したい]定結果を基とし,中華屯予備典協舎(
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のテキストデータベース(大正蔵第1
巻から第5
5
巻,及ぴ第8
5
巻など)と検索ソフトを活用して,さらなる同定作業を行った 他,最新の研究成果によって,千点以上の同定結果が追加された。また,既 刊目録に誤りが有れば修正し,新たに策定したトルファン写本の書写年代を 記し,さらに他の断片との接合状況等の注記を入れるべく調査も進めている。 ドイツトルファン隊と同時期に同地域を調査した大谷探検隊の収集品との接 合断片も発見されており,龍谷大学図書-館や旅1I眠博物館所蔵資料との関連ふ できる│保り盛り込む予定である。ドイツトルファン隊収集漢文仏典資料の研究リスト
ベルリンコレクション:龍谷大学西域研究会協力による目録作成• G
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膏康義責任編集『ベルリン所蔵東トルキスタン出土漢文文献目録(試 行本)J]龍谷大学仏教文化研究所西域研究会.2
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(未刊)• KOGI KUDARA:
CHINESISCI-lE UND MAl
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ゲURISC1IE HANDS. CHRIFTEN UND SELTENE DRUCKE TEIL4 (
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volume 3
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p h v n H d ヮ , “ベル1)ンの仏教事情
compiled by KOGI KUDARA • edited by TOSHIT AKA HASUIKE and MAZUMI MIT ANL Franz Steiner Verlag Stuttgart, 2005
関連日録 -西脇常記 rドイツ将来の卜ルファン漢語ズ書"J京都大学学術出版会. 2002 (第
2
章「ゾ速から返還された文書」末尾に「返還されたトルファン文 書一覧表J(pp.88-95)が掲}披されている。) ・栄新江主編0",吐魯番文書総日(欧美収蔵巻)J(武漢大学学術叢書)武漢 大学出版社.2007 ・小口雅史編『在ベルリン・トルファン文書の比較史的分析による古代ア ジア律令制の研究〔平成17年度 平成19年度科学研究費補助金(基盤研 究 (B))研究成果報告書)J2008の中に, r在ベルリン川:魯番出土漢文 世俗文書デジタルカタログ」の情報が掲載されている。 出日常1)慎師コレクション . O"高昌残影JJ(コロタイプ写真閃版)法蔵館, 1978(未刊) • r高昌残影J(図版・解説)法蔵館, 2005 ・藤枝晃編著『トルファン出土仏典の研究一高昌残影釈録J(編集協力 者:西域研究会)法蔵館, 2005 イスタンブル大学問書館コレクション• Osman Sertkaya and Kogi Kudara:
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, 1987 (未fリ
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ベルリンの「花祭り」
トルファン隊派遣の前年, 1901年4月88
,ベルリンで釈尊の誕生を祝う 「花祭り」が行われた。現代のH本でも,寺院はもとより,保育協!・幼稚閑 や日曜学校(日校),小学校から大学にいたる,数多くの仏教系教育機関で. -297-ベルリンの仏教 ~I~'rl'i ほぽいっせいに同名の行事が行われる。しかし,実は,その哨矢がヨーロッ パのドイツ・ベルリンにあることはほとんど知られていない。 20世紀の始ま りの年に,ベルリンで行われた行事の呼称が, 日本に逆輸入される形で定着 したのである。 呪代11本でも,伝統的な「濯仏会」ではなく,むしろ「花然り」の名称の 方が定着しているように忠われる。Ii'[J:本71?紀』推古天皇
6
0
6
年間月八日の条 には, r是年より初めて寺毎に四月八1=1.七月十五日に斎を設く」とあり,6
世紀半ばの仏教公伝からそれほど経たない早い時期に「漉仏会Jと「孟繭 説会」が行なわれている。しかし,この記事は,釈尊の誕生を機縁とした法 会が行われた事実を示すだけで.r花祭り」と呼称されているわけではない。 その後,仏教儀礼は国家仏教の中で定着し宗派仏教では,仏教各宗派の本 11I・寺院カf中心となって行ってきた。 言うまでもなく釈尊は仏教の開祖であるから,その誕生は仏教各宗にとっ て重要である。しかしlりJ?台以前は,どちらかと言えば,宗t.1
1
や宗派が拠り処 とする大乗経典に説かれる救済仏や説法仏の方に関心が寄せられ,宗祖の忌 Hの法要,例えば,天台宗では山家会,真言宗では正御影供,曹洞宗では両 組忌,臨済宗では各山開I
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J
忌,浄土宗では御忌,真宗では報恩講,日蓮宗で はお会式を最も重要なj去要として行ってきた。 その怠味で, r港仏会」は,仏教各宗共通に常める数少ない仏教法会であ るにもかかわらず,あまり一般には知られていなかったのではないかと忠わ れる。 しかし,一方,ヨーロッパでは,キリストの生誕を祝う「クリスマス」が, 非常に盛大に行われている。その事実を FI の当たりにした lリ J~fì の H 本人や仏 教者は驚侍したのではないかと推測される。その事態に対して, 日本仏教各 宗が宗派の枠を越えて共通に行える仏教儀礼として釈尊の誕生を祝う行事に 白羽の矢を立てたのは蒋易に理解できる。そしてその行事を rBlumenFest (花然り)Jと名付けたのは卓見であった。その名称、は泌を越えて日本にも たらされ,現代なおその名称が生きているのである。そして,だれもそれが-
298-ベルリンの仏教貧l叶内 ベルリン発であることを意識しないままで…
「花祭り」の状況
1
9
0
1
年に行われたこの行事の様子について.白須浮虞氏は.薗田宗恵の 『米国開教日誌』収録の「滞欧H誌」等を引!日しながら‘以下のように紹介 されている。 「当時のベルリンには百名を越える邦人が在留しており,彼らのうち森 孝三,池山栄吉,近角常観,そして薗問宗恵、が,3
月3
1R
.
花祭りを立 案 し 彼 ら を 合 む1
8
名の発起人を募って開催したものであるという。」 また,発起人の一人・巌谷小波の『小波洋行土産』によって, rIr一面H本の風俗を示し.一面外人のi
眼識を広めさせてやろう』とJ、目 い,『我が日本国の昆│威にも関すると.何れも車輪の本葬で』準備し 『プルメンフェスト(花祭).0と名付けて.会場を『当地一流の.n 11"ホテ ル,フヰーヤ,ネヤーレス.ツアイテン,訳せば日本部に四季館』をと り,五百枚の招待状を配って開催したものであるという。」 とされ、在留日本人はいうまでもなく,現地ベルリンヨーロッパの人々にも 紹待状を配布して,かなり大規模に行われたことがわかる。 「ベルリンで働く日本人の花祭りJ(秋山公道『絵はがき物語』紀伊図版 書底,1
9
8
8
)
の絵葉書には,以下の1
3
人が写っているという。 ①池山栄吉(東本願寺の留学生) ②巌谷季雄(けは小波,ベルリン大学付)品東洋語学校講川i,児童文学者・ 小説家・俳人。東京帝大講師,児童文学) ③吉田静致(東京大学出身.文部省在外研究員としてドイツ留学。倫理 学) ④姉崎正治(東京大学H
'
.
身,東京帝大教授。宗教学) ⑤玉井喜作 (Ost-Asenの編集者) ⑥近角常観(東京大学出身.東本願寺の間学生。宗教家) ⑦薗田宗忠 (IH姓浅井。東京大学出身,北米関教の晴矢,西本願寺ドイツ- 2
9
9
一
ペルりンの仏教事情 駐イ
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,インド探検,仏教大学(現龍谷大学)学長) ③松本文三郎(東京大学出身.インド哲学・仏教学) ⑨倉知鉄宵(ドイツ駐在公使井上勝之助下の書:記官もしくは書記生) ⑬宵本叔(東京帝大教授,伝染病理学) ⑪藤代納車IIJ(京都帝大教授 ドイツ文学) ⑫美濃部達吉(東京大学出身,東大教授,天皇機関説により弾圧) ⑬森孝三(台湾総督府関係者) この中には,東京大学出身者が多いが,姉崎や松本という宗教学,仏教学 の重鎮となる人物もかかわり,東本願寺の留学生と西本願寺の留学生であっ た池111・近角と薗田が,その中で重要な役割l
を果たしていたことが分かる。r
四季館
Jのその後
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年に花祭りがおこなわれたr
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(四季館)Jは, どこにあるのか, もし営業していないとすれば,その跡地はどこなのか,を 知りたいという意志を持って,筆者は,2
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1
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年4)oj,ベルリンに足を踏み入 れた。 そして,数々の研究者やベルリン在住の方に,ホテル名を出して尋ねてみ た。しかし, 30年ベルリンに住んでいるという )jや,研究者に閉しEても,そ の名前をご存じでない。H
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というホテルがベルリン にあるが,新しいホテルのようで,この四季館とは関係が無い。 ドイツ園内 に多くの系列をもっホテルのホームページによると, ミュンへンや.ハンブ ルク, リューベック,ハイデルベルクなど他のドイツの都市に2
9
の同名ホテ ルがあるけれども,ベルリンにはないということであった。 名前が変わっている可能性も有りうるし一方で‘,同ホテル系列の別名ホ テルがベルリンにあることがわかったが,それは,創設年時が新しく,1
9
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1
年には存在しないことが分かつた。それでは,どうすれば良いのか。 そのような中,縁有って,1
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2
年当時の旅行ガイド7
.
ックがあることを紹 介され迎。しかし,そこには,残念ながらV
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出n
の名前のホテ - 300-ベルリンの仏教・I~m ルは掲載されていなかった。
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年版が国立図書館に所蔵されていないこと もあり,再ぴ暗礁に乗り上げたことになった。1
9
0
1
年にはあったホテルが, 1年後にはすでになくなったのか,あるいは名前を変えて常業を統けたのか. 手がかりのないまま数か月が経過した。 この件については司解決できないのではないかと途方に暮れていた矢先, 大谷光瑞日i
J
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の動向について.広く深く調1'iされているJ
,
'IIJ章雄氏がベルリン に来られた。その際,このことについて削ったところ.四季館は,「アルブ レヒト親王館J に名称が変わっていると~¥う巌谷の記述があるというご教示 をいただいた。その名称に該当するホテルは,1
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年のガイドブックに掲載 されており,P
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という名称で,住所(当時の住所表示)は,P
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と記載されていた。そして,その通り名は,現在 は.N
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と名前を変えて存在していることが分かった。 早速現地に行ってみると.そこには.現;(E. ホテルはなく,別の建物が建 っていた。つまり,1
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年、ヨーロッパではじめて行われた「花祭り」の会 場となった「問季館」は.現在は存在せず,跡地が確認できるのみというこ とになる。 「四季館」の推移H
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ベルリンの真宗サンガ
ベルリンはまた.ヨーロッパ念仏者の発作の地でもある。ハリー・ピーパ ー師(
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年にー西本願寺大谷光照前門主 より帰敬式を受け,ヨーロッパで初の信徒となり, 2年後に「浄土真宗仏教 協会」を創立した場所なのである。師は「稗勝厳」として, ヨーロッパ各地 に多くの念仏者を育て.刊-しまれながら1
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年に亡くなった。大谷光照前門- 3
0
1一
ベルリンの仏教M自 主も参列して建碑された墓も現存している。
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年6
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, ベ ル リ ン 真 宗 サ ン ガ 代 表 の イ ロ ー ナ ・ エ ヴ ア ー ス (Ilona E
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年生)氏,とともに,ベルリン市凶部のシュテークリッ ツ地区にある公共墓地を訪れ,同師の墓を参拝した。名サを安置し,尊前に 灯時jをともし,事-・線香を供えて讃仏備をお勤めした。 ハリー・ビーバー削jの墓碑 墓地:F
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(公共墓地) 住所:B
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ベルリンでは,2
0
年を過ぎると,契約更新されない│恨り,墓碑が墓地から 一掃されるという規定があるとのことである。場合によれば,早ければ2
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1
6
年にもヨーロッパ念仏者のパイオニアであるビーバー附の墓がなくなる可能 性もあり ,f
(L1'日される。 イローナ氏もそのことに心を痛め,遺族や契約業者との連絡を密にしてい くことを約束され,契約が更新されなかった場合,墓碑の移転を合め検討し ていくことになっている。真宗サンガの現状
ヨーロッパ念仏者の伝統は今も息づき,イローナ氏の臼宅を開放してはぽ 毎月定例会を開催されている。お勤めは11本式である。呪在デュッセルドル フのEKO-Haus
(慧光寺.仏教伝道協会)に勤務されているノッテルマン (Jan Marc N
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)
氏がドイツ語に逐行翻訳された正信備などの勤 行川聖典IrS
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uGongyoshu
.]J (国際仏教文化協会制II,
I纂・出版)を使H
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さ れ,お勤めが終わった後は,お茶を飲みながらご法義談義や仏教に関係した- 3
0
2
一
ベルリンの仏教事情 題材を基にした話をして散会する。 ちょうど
2
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1
2
年は.イローナ氏が長年希望されながら.種々の事情で叶わ なかった「得度」をされたことも重要である。本年,デュッセルドルフのEKO-Haus
で開催された, I~ 際仏教文化協会第 16 回ヨーロッパ真宗会議(
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)
に参加の後,空路H
本 へ行かれ,京都・西山別院で得度習礼を受けられた。そして,2
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年9
)-J1
5
Ij,浄土真宗本願寺派の僧侶である証である「度牒」を受けて帰国された。 法名は「縛好行」で.ベルリン真宗サンガの代表は. ドイツ述邦共和国の本 願寺至心教堂所属の僧侶として.名実ともに,ベルリンの念仏者のリーダー として l呼スタートを切られることとなった。同時に得度されたフランク・コ ップス(
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氏も「ドイツ点.京協会」の代表として.2
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年よ りr
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・DOJ(安心堂)を拠点として活動中である。 ドイツに於ける現在の規模としてはEKO
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年制立)やA
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に比較すると,及ばないかも知れないが.ヨーロッパの念仏者を輩出す る契機となった伝統を有するのが,ベルリンの真宗サンガである。 ベルリンでは,定期的に仏教関連の情報誌も発r
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されるが.一瞥しただけ でZ
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(神)やチベット仏教,T
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(上座仏教)の勢力が大きいこ とが分かる。その中で,イローナ氏は,仏教アカデミー(
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に名前を連ね,仏教講演会を行うなど,精力的に活動しておら れる。浄土真宗への認知度が低い中で,一般への関心をどのように喚起して いくのか,今後の迷信・やメンパーの問題も合め.l
I
HJ屈は山相しているが.今 後も継続して応援・協力していきたいと思っている。2
0
1
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年4
J]より2
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:
年1
月までの定例会2
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1
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年4
月2
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午後7
時より 定例会(讃仏偽・念仏・I
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向)終了後茶 話会2
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年5
月2
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時より 降誕会としてJ
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白J)終了後茶話会2
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日午後1
時より ハリー・ビーバー師の墓参(讃仏偶・念 q ミ u n υ q δベルリンの仏教事情 仏・
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l])終了後茶話会2
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時より 定例会(正信侃・和讃六円i
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・念仏・凹 IQ])終了後茶話会2
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年8)
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第1
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ヨーロッパ真宗会議に参加(会員の 一部は帰敬式を受式)2
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年1
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月2
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日午後3
時より 定例会:得度披露法要として開催(正信 イ局・和讃六首引・念仏・回向)終了後茶話会・会食2
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年11H23
日-25
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年1
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月8
日午後3
時より成道会および報思講として開催(正信 偽-布l讃六首引・念仏・回向)終了後茶話会2
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年1
月1
日午後3
時より 修正会として開催(讃仏偶・念仏・I
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向)終了後茶話会・会食 なお,ベルリン真宗サンガの連絡先は以下の通りである。 Shin-Buddhistische Gemeinschaften: KogyoI
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ona Evers Friedrich-Franz-Str
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,1
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Berlin Tel:0
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:
[email protected] www.jodoshinshu.deおわりに
以上に記したように,ベルリンには,2
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世紀初頭にドイツトルファン隊が 収集した膨大な'11央アジア出土の仏教資料が所蔵されている。一方,1
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1
年 に,ヨーロッパで初の「花祭り」が,日本人によって市内のホテルで行われ, その行事が逆輸入されて, H本の「花祭り」として定着-している。また,1
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5
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年にハリー・ビーバー師によってともされた浄土真宗の法灯は,現在も- 3
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ベルリンの仏教事情 受け継がれている。 ベルリンは,ヨーロッパにあってキリスト教,特にプロテスタントが蝶ん な都市である。年間の休祝Hにもキリスト教関連のものが多い。そのような キリスト教的伝統の中で, 20世紀をベルリンに生きた人々が仏教の重要性に 気づき,仏教の復権を志向した人々がいたことを知り得たことは「縁」と言 うほかな ~'o 長く継続している研究交流によって,それらを垣間見ることが できたと言っても過言ではない。 その中で.忘れてはならない出来事があった。長年,龍谷大学と交流のあ ったズンダーマン博士が, 2012年10)]12日,ご逝去された。 トルファン研究 所の所長として日本にも来られ,研究発表を行われた姿は今でも覚えている。 1960年代半ばから藤枝晃氏を始め,
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口泰淳氏,上山大峻氏,百i
膏康義氏 らと進めてこられた龍谷大学との研究交流は.多くの成果となって結実して いる。中でも百i
卸業義氏,古山豊氏との共著になる『イラン話断片集.成』は, 特筆すべきもののひとつで.その中に, l=I本の龍谷大学とドイツのトルファ ン研究所とロシアのサンクトペテルブルクの写本が接合しているl
同像が掲載 C lQ されている。まさしく国の枠を越えた国際的研究による成果を一枚の写真が 象徴しているように思う。今も共同研究の伝統は,双方の研究者に受け継が れている。今後も.その人々と協力して研究成果を挙げていくことこそ司ご 逝去されたズンダーマン氏への報恩にもなろう。 先述したように, 2014年までにベルリントルファンコレクションの漢文文 献総目録を出版することを期しているが, 2014年はドイツ隊と大谷探検隊の 両者が本凶に帰還して100周年にあたる。当該EJ録はこれまでの龍谷大学と の研究交流の総決算とも言うべきものであり.100年を経過したドイツ隊と 大谷隊の両コレクションの研究の一里塚ともなれば幸いである。 まさに希有な「縁」の中で筆者はこの1
年をベルリンで過ごすことになっ た。「縁」という言葉は,故長尾雅人教授によるとユーロ語(英語, ドイツ 語などヨーロッパの言葉、長尾教授の造語)にはない言葉であるとされてい 聞 る。校教授を始め多くの先学との出遇いによっていただいてきた「縁」を大-
305-ペルリンの仏教事情 事に,その縁が新たな出過いを呼ぶような研究交流を進めていきたいと思う。 註 (1) IJ~ 立凶書館 (Staatsbibliothek zu Berlin)の東洋学部門東洋写本セクショ ンに勤務されるMelittaMultarti氏には.こちらの閲覧に種々の便宜を図って いただいた。また.同セクションのリーデイングルームに勤務されるNicole FUrtig氏, Baysa Berhanu氏らにも大変お111:却になった。 (2) トルファン研究所については.本文に詳細を記すが.笠井幸代氏には.慣れ ないドイツ生活の中,研究由面.のサポ一トやドイツ人研究者との定意;忠疎j通邑など' こちらの不備をあらゆる lげ耐而h自
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で 者がドイツ留竿学:を決断する肋縁ともなつた。 (3) アジア美術館では,中央アジア管理部門のLillaRussell-Smith氏に,漢文 資料の閲覧に格別のご配慮をいただいた。また,同氏のドで研究を進めている 檎山智美氏には.意,也、疎通などの点でお世話になった。 (4) Berlin-Brandenburug Academiy of Science and Humanities:TurfanS
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, 2007, p.5参照。 H本語訳は, http://idp.afc.ryukoku.ac.jp/pages/ collections_de.a4dも参照し筆者がまとめた。 (5) トルファン研究所と記したTurfanforschungは.正確には,科学アカデミ 一内の研究組織であるので. rトルファン研究(部門)Jまたは, rトルファン 研究(プロジェクト)Jとすべきであろうが,本学との交流では常に「トルフ ァン研究所」と呼称しており.本稿でもそのように統一する。 (6) 文字と言語の分類は非常に困難な作業であるが司 トルファン研究所では,以 ドのように鞍理されている。 http://www.bbaw.de/bbaw/Forschung/Fors. chungsprojekte/turfanforschung/de/DigitalesTurfanArchiv (7) 百済康義責任編集『ベルリン所蔵東トルキスタンm-I'.漢文文献H録(試行 本).0龍谷大学仏教文化研究所西域研究会, 2000r凡例」参照。 (8) 2000年の日鉢凡例には「漢字のみが書かれている資料」とある。資料の整理 1 1寺に漢字文献として分類された資料であるため,ほとんどは表面に漢字のみが 書写または印刷されている資料であるが,希に.ウイグル文字など非漢字が苦 かれている場合がある。 (9) 2000年のH
録にはー「ベルリン・ダーレムのインド美術館所蔵の資料」とさ れていたが, Museum fUr lndische Kunst(インド美術館)は2006年に組織改 編にともない改称され.現在は,いくつかの美術館を統合したMuseumfur Asiatische Kunst (アジア美術館)となづている。数年の内に,ベルリン中心 部に移転するとのことであったが,数年を経過した現時点でもその時期は明か でない。 (10) http://www.bbaw.de/forschung/ turfanforschung/ dta/index.html -306-ベルリンの仏教事情
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http://idp.afc.ryukoku.ac.jp/ ( 12) http://www.bbaw.de/en/ research/ turfanforschung ( 13) [f.J際仏教文化協会編 r念仏西漸ー欧州念仏伝播小史〈噌補改訂版).0永田文 昌常.2000. pp. 10-11参J!日。ここには.r花まつり(ブルーメンフェスト)当 日の記念写真」と「記念寄せ書き(端書)仏教大年鑑・l昭和40年版」の写真が 掲載されている。 (14) 以ドの文章は.Iヲ須待~ r資料紹介 ベルリンの花祭り一大谷探検隊員・酷i
田宗忠に関する写真資料一Jr吐慮番出土文物研究会会報J(研究特集 II)68号. 1991年9月15日号, p.9参照。なおこの記事は.白須i
手民『大谷探検隊とそ の II~千代J (勉誠ti'.版.2002年10月)の中で r9ベルリンの化祭り」として再録 されているが, ドイツ在外研究中のため参照できなかったため.ネッ卜公開さ れている1991年の記事を参照した。 http://www.human.niigata-u.ac.jp/-ssekio/turfan/PDF /Turfan068. pdf (15) 1'1;賄事虞上掲記事pp.9-10を参考とし。筆者がまとめたものである。 (16) http://www.hotelvierjahreszeiten.com/ (l司 BERLINUND UMGEBUNGEN HANDBUCH FUR FEISENDE VON K. BAEDEKER MIT 4 KARTEN, 4 PLANEN UND 15 GRUNDRISSEN ZWOLFTE AUFLAGE, LEIPZIG VERLAG VON KARL BAEDEKER 1902 というガイドブックであるが.近代日本人とベルリンのかかわりに関心を持つ 文筆家の六草いちか(六平敦千)氏から提供いただいた情縦である。 ( 18) ,'..山章雄「ヨーロッパの大谷光瑞Jr東海大学紀要文学部.178, 2002, pp. 130-131参照。 ( 19) I天│みに. ヨーロッパではじめて親嬬聖人の忌日である「搬思講」が行われた のは,パリのギメ東洋美術館であるが‘法要が行われた1891年当時の「ギメ宗 教博物館J 11晴(日本式には2階)の図書室ホールは,現存している。 側 インターネット(-_で. r四季館Jrアルブレヒト親王舘」の写真を見ることが できる。以下のURLを参照。 http://www.potsdamer-platz.org/hotel-prinz -albrecht.htm (2010/10/27)
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ハリー・ビーバー師の経歴.交j
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業績,墓碑等については. [国際仏教文化 協会2000: pp. 18-45]に詳細が記載されている。また,ビーバー(:Iilの影響を 受けたヨーロッパの念仏者は多いが,スイスにおいて.カトリック教会の司祭 職から浄土真宗の僧侶となったジャン・エラクル氏の自伝が制訳出版されてい る。ジャン・エラクル普,金児慈訳 r~十字架から 1'-: 陀利幸i へ』岡際仏教文化協 会.永田文日常 ~J. 1992. pp.266-271参照。ω
同サンガ会員でベルリン在住の竹原敦子氏も同行された。 (23) BuBB-Buddhistische Zentren in Berlin&
Brandenburg: Buddhistischer Veranstaltungskalender (2013年11-1)参照。なお,巻頭にはイローナ氏の文 -307-ペルリンの仏教事情 主主が記載されている。 (24) 2012年は, 3月8Hに「愛と慈悲(Liebeund MitgeflihI)Jというテーマで 講演されたのをはじめ, 5月311::1, 12月6日にも講演や対話を行っておられる。 側 2012年の場合, 4川6日「受難の金曜日 (Karfreitag)J, 4月9日「復活祭 の月|曜日 (Ost~rmontag)J, 5