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佛教学研究 第60・61号 020藤田, 祥道「大乗の諸経論に見られる大乗仏説論の系譜 : II.『迦葉品』 : 仏陀の説法とその理解」

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全文

(1)

大乗の諸経論に見られる大乗仏説諭の系譜

一-II.

IF迦葉品dI

.仏陀の説法とその理解一一

藤 田 祥 道

『般若経』が空・無自性の思想、を内容とする「智慧の完成」の教説を宣布 するにあたって抱えた課題,すなわち,

1

.

この教説を拒絶し誹誘する者た ちに対してはその非難を阻止し, 2.これを恐怖する者たちに対してはたくみ に教導すること,をみずからの問題として引き継いだ大乗経典に F迦葉品

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JI が あ る 。 同 経 典 に は , 『 道 行 』 と 同 じ 支 婁 迦 議

Lokaksema

によって後漢光和年間

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に訳された最言の漢訳 f仏説遺日摩尼宝経』があるから,その成立は f道行』とさ江ど離れている と辻考えられない。以下, f般若経』が抱えた課題に対して,同経典より少 し後に成立した F迦葉品』がいかに取り組み,また新たな言説を加えていっ たかを検証してゆくことにしよう。

I

I

.

1

.大乗菩薩や大乗経典を誹誘する書薩

智慧の完成の教説を初めて説いた大乗経典と考えられる F八千頚』は,そ の第四地獄章において,この教説を誹誘する「菩薩」たちに言及し,彼らが この教説を「仏語でない」と誹諺することがもたらす災祷を説くことによっ て,そうした破壊行為を在家主者も行なわないようにと戒めていたo f迦 葉 品J はこうした智慧の完成ないし大乗を誹諒する「菩薩J について,どのよ うに言及しているであろうか。 『迦葉品』なる大乗経典がすでに最古の漢訳の時点でさまざまな要素を複

(2)

大乗の諸経論に見られる大乗仏説論の系譜 合的に説く形態をなしていることは従来指掃されていることである。その中 で,冒頭の~ 1-21は文章形式からしても内容からしても一つのまとまりをな しているといってよいが,特に~ 1-16は,まず菩薩の誤ったあり方を四季重説 いたのに続いて正しいあり方を四種説くとい7統ーした文章形式で叙述をし つつ,大乗を誹諺するような悪しき菩護のあり方についても言及している点 でわれわれの注意を引く。ここで泣,その中でも特に

33-4

35-6

の言説 の一部分をとりあげることにしよう。引用に際しては,まず支婁迦識による 最古訳{略号[漢

J

)

を挙げたのち,サンスクリット文とそれからの和訳を 提 示 す る が , こ れ ら の 箇 所 に つ い て は 『 シ ク シ ャ ー ・ サ ム ッ チ ャ ヤ

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に経文が引用されているので

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の不完全かつ韓渋な文 章を補うべしこれも挙げておくことにする。まず

S3-4

に説かれる菩薩の 四種の誤ったあり方と正しいあり方のうち,第三の部分を中心に引用してみ よう。 [引用 12J [漢J:菩薩喜四事。世世亡菩藍道意。何等第四。…・・・三者壌 敗菩薩道。西者罵雪矯菩薩道者。是第四。

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3

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カーシャパよ,菩薩が次のような四つの性震を備えているとき,さとワ を求める心(菩提心)は昏迷する。西つとは何かといえば〔すなわち

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. ((1)(2)省略〕…(3)また,大乗において出立した有情たちに対して,設 ば り ざ ん ぼ う 誘・侮辱・罵雲譲誘を浴ぴせることを〔備えているときに〕である。…

(

(

4

)

省 略

J.

[漢

J

:菩薩有四事堂世所生念菩薩道不忘。及自致至備。何謂四事。

(3)

大乗の諸経論に見られる大乗仏説論の系譜

-三者慈心於入不念入悪。四者視諸菩藍知見館。及初登意無異。是震 西。

KP

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4

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カーシャパよ,菩龍辻,次のような四つの性質を備えているとき,いか なる生においても,生まれるやいなや,さとりを求める心(菩提心〉が 現前して,ないし菩提産に坐るまでの間, (その心が〕昏迷することは ない。四つとは何かといえば,すなわち,…

(

(

1

)

(

2

)

省略〕…

(

3

)

また,す べての菩薩に対して教師でるるとの思いを起こし,そしていたるところ で彼らを称讃する〔ことを犠えているときにである〕。…

(

(

4

)

省略)・ 菩藍たる者は,大乗において出立した有

i

育たち(菩薩)を誹誇してはなら ないのであり,すべての菩薩を教諦と思って称讃せよ,という。『迦葉品』 もまた,大乗において出立した有情たちを誹諒するようなある種の「菩薩J たちについて言及しているのである。これまで,部派仏教において菩薩とい えば成道する以前のシャーキャムニ等の仏詑やマイトレーヤ(拡鞍)菩薩と いった特定の超越者に援定され,普通の有情が菩薩として自ら発菩提心して 無上正等覚を求めるような菩藍観は大乗のみに特徴的なものと考える見方が 学界において有力であった。しかしわれわれが『般若経』などから推知した インドにおける大乗興起時代の菩薩運動の実態は,一方で、は智慧の完成ない

(4)

大乗の諸経論に見られる大乗仏説論の系譜 し大乗経典に準拠して無上正等覚を求める大乗菩譲が活動するとともに,地 方では原始仏教経典などの旧来の部派所伝の典籍に準拠して無上正等覚を求 めるようないわ江部派仏教的な菩薩も幸子在しえたのであり,両者は多分に対 立していたことが窺われたのであった。ここで言及される「菩襲j について も,すくなくとも彼を大乗菩薩と限定する必要はないのである。 F迦葉品」 における新たな展開 さらに,本経典のいう大乗菩薩を誹誘す る「菩薩」の正体を明らかにするために,関連する記述として特に重要な文 章を

S5-6

から抜き出してみよう。 [引用

1

3

J

[

J

:菩薩有四事。法中道新絶矯菩薩日滅。何謂第四。 三者反自憎菩薩還昌幸目誇。四者人有来常所閉経妄止令断絶。是潟西。

KP

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5

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カーシャパよ,菩薩が〔次のような〕四つの性質を錆えているとき, 次々と生じていた善法が消失して,それらの善法によって成長すること がない。四つの性賓とは何かといえば,すなわち,…〔任)(2)省略)…(3) 菩薩を憎悪し中傷することと, (4)聞き学んだことがなく,説示されたこ とがない諸経典を拒否することを〔備えているときに〕である。

[漢]

:菩薩石田事。求経道及有所求索不中断。何語四事。……

(

4

)

所 不

(5)

大乗の諸経論に克られる大乗仏説論の系譜 関経不隈イ弗智色。随其所喜経者各自需得。是震四。

KP

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カーシャパよ, (次のような〕四つの性震を備えている菩薩は,よりす ぐれたものとなって,退失しない性質の者となる。四つとは何か。… 〔江)(2)(3)省略〕…(4)また,この者にとって覚知が及ばない〔甚深なる〕 ことについては,如来だけが証人であると考えて,拒否しない〔で,次 のように考える

J

0 i如来だけがお知りになるのであワ,私は知らない。 仏陀のさとり辻限りがないのであって, (如来たちの〕説法は,種々の 信解為る有靖たちに対して, (彼らに種々なる〕信解があることに応じ て転ぜられるJ (と〕。

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5

(

3

)

では,先の例と同様に,他の菩譲を増悪し中傷するような「菩寵j が言及されるが,さらにその

(

4

)

では,そうした f菩薩」が,開き学んだこと がなく説示されたことがないような藷経典を拒否していることが明らかにさ れている,と考えられる。後述するように, f迦葉品』が f般若経』を前提 として成立していることは疑問の余地がないことであるから,この点を踏ま えると, F迦葉品』がここで言及する大乗菩譲を誹諺・憎悪・中傷するよう な「菩薩J とは,『般若経』などの記述からその存在が示唆される irB来の 部派の典籍に準拠する菩薩」であり,彼らが拒否するという諸経典と辻 r殻

(6)

大乗の諸経論に見られる大乗仏説議の系議 若経』等の大乗の諸経典であると推定してよいだろう。こうした「菩薩」は 大乗の諸経典を「開き学んだことがなく,説示されたことがない」という理 由で拒否しているのであるが,いうまでもなくそれは,部派に伝承されてき た原始経典(ないし部派の三蔵等の典籍〉が開き学

i

まれてきたものであり, よく説示されたものであるという了解を前提にしている。大乗の諸経典は, 従来聞き学んできた原始経典(ないし部派の三蔵等の典籍)には屠さない非 正統的な経典であるという批判がそこにはあるはずで、ある。本経典の註釈書 によれ江,彼らがそれらを拒否するというのは,仏説ではないもの・権威な きものと見なして拒否することにはかならない。ただしこうした批判は,た んに大乗の諸経典が部派の原始経典等には属さないというような形式的な批 判であるばか号でなく,大乗経典が説く教説に対する思想的批判にまで及び うるものであった可能性も考えておくべきであろう。「あらゆるもの・こと 〈一切法) ,ま空・無自性である」というような教説

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i

,開き学ばれてきた部 派所伝の典籍のどこにも見あたらないではないか(したがってそれは仏説で はない〉という批判である。 「菩薩」からのこのような大乗経典批判に対して, F迦葉品Jl ,ま

9

6

(引のよ うに返答しているのであるが,これはきわめて重要な内容をもっているとい ってよい。その論旨辻,菩薩たる者は未聞の経典だからといって自分の判断 にもとづいて軽々しく拒否すべきではなく,自分の覚知の及ばないことにつ いては如来だけが証人であると考えて,まずは開き学んで善を巨指すべきで ある,というものである。 f迦葉品』は,さとりを得ていない者の能力の限 界を示すことによって批判に応えようとするのであるが,興味深いのは最後 の文章である。「仏詑のさとりは限りがないのであって, (如来たちの〕説法 は,種々の信解ある存情たちに対して, (彼らに種々なる〕信解があること に応じて転ぜられるj というこの文章は,イム詑のさとりの無限性一ーすなわ ち超越性一ーをその説法のあり方もしくは能力に即して説明するものである。 つまり,ここでいう弘陀のさとりの無張性とは,彼がさまざまな信解の有

i

言 のためにそれぞれの信解に「応じて」説法をするというその説法の仕方や龍

(7)

大乗の諸経論に見られる大乗仏説論の系譜 力を指すのであり,さとりを得ていない者はこの点について覚知が及ばない のだから伎は仏陀の説法(経典)を自らの判軒で拒否することはできないの だ, というのである。 しかしそうすると,ここには,「秘められた意図

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,密意」という宇jij語(以後し試しばこれらを略して「意 密」と記すことにしたい)こそ出てこないが,ほとんどそれに肉薄する考え が提出されていることにはならないだろうか。 f迦葉品dJ !ま,大乗経典を批 判する「菩薩J に対して,彼の詑力の誤界を示すことによって応容したが, しかしその応答は「仏陀の説法における意図」という問題につながるもので みった。この『迦葉品dJ~

6

(

4

)

の文章が後代の大乗仏説論にとって非常に重 要なのは,それが,大乗経典の「権威性行

1

説 論)Jの問題を経典ないし教 説の「理解」や「解釈」の問題へと展開させてゆく方向を用意していること にもよる。 f迦葉品J の応答は,受けとりようによっては,大乗の諸経典, 特に「智慧の完成」の空・無自性の教説がどのような意図をもって仏陀によ って説法されたのかを知らずして,これを誹諺中傷することはまったく不適 切である,と言っているのに等しいものとなろう。 しかしそれなら

i

えその教説に準拠して仏詑の全知者性あるいは無上正等 覚を求めようとする大乗菩薩は,教説に秘められた「意図」までも正しく知 る必要があることにはならないか。 F迦葉品dJ ,まこの点について慎重である。 りきE葉品』は引き続いて,純正な菩薩は「意味に拠るのであって文字に拠る のではない

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a-vivaranataJ によって菩薩誌障害のない知を得ることができる (~22) と説 くが,これらは,菩薩が仏詑の説法における「意図」を知る必要を暗に説い たものと受けとることができょう。しかしその一方で, f迦葉品』は r般 若 経』の空・無告,',宝説iこ「意図J があるというようなことは一一少なくとも文 字上は一一明言しないのである。とはいえ, f迦葉品』が, F般若経』の空・ 無自"生の教説を正しく説き示そうとしていることは,同経典の以後の言説か

(8)

大乗の諸経論に晃られる大乗仏説論の系謡 らも容易に読み取ることができる。関経典は, 空性を観念的にとらえて恐れ るのは愚かであり,存在〈諸法) そのものが本来的に空であること, また, その空Jl'宝の実梧を観ずることによって無知がなくなることを詳しく説く (s 63-71)。 そこには, 「じつにカーシャノマよ, 空性の思想、 (空見) を足場にし て思い上がっている者よりは, スメール山ほどにも大きな個我の思想 (我 見)に依拠している者のほうが, ま だ ま し で あ る

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というよく知られた経文も見いだせるわけであ るカf

こうした言言昆からは, 「般若経』 の空性説について誤解を排除して正 しく宣布しようとする f迦葉品五 の意圏を明瞭に読み取ることができるであ ろう。 つまワ, f迦葉品』は, 空性に対して有情が誤解するのは彼らの愚かさに よることを十旨摘すること誌あっても, 『般若経』 の 空 ・ 無 自 性 の 教 説 に は 「秘められた意図」や「言外の意図」があるというようなことは表向きには 言わない。それは F般若経』が未了義な教説であると確言することにつなが るからであろうし, f迦葉品』には F般若経』をそのように位童づけるつも りはないように思われる。 しかしそうはいっても, 句通葉品』は先行する 『般若経』を完全無欠の教説と受けとっていたわけではない。 そのことは, 以下に言及する「空性の教説を恐れる五百人の比丘」の挿話からも明らかと なるであろう。

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.

2

.空・無自性の教説を恐れる者たち

『般若経』 七宝、 その「智慧の完成」を宣布するにあたって抱えたもう一つ の問題, すなわち, この空・無自性の教説を恐れる者をどのように教導すべ きか, という課題について 『迦葉品dI ,まどのような言説を残しているのであ ろうか。 先に見たように, f迦葉品dIs63-71は,不生とか空・無自性の教説を観念

(9)

大乗の諸経論に見られる大乗仏説諭の系譜 的にとらえて恐れるようなある種の沙門やノぐラモンの愚かさを示しつつ,空 性の正しい理解と観察を説こうとしていたが,さらに

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には, 空・無自性の教説を恐れるようなある種の比丘について, f恐れおののき恐 怖に陥る

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という「般若経』の 表現をそのまま措用しつつ言及する文章が見られる。特に

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は一つの 持話としてまとまった内容を持ち,非常に興味深いので,以下,そのあらす じを一部経文を引用しつつ追ってみることにしよう。 空性の教説を恐れる五盲人の比丘たちの話 この挿話は,その直前(S136

-

1

3

7

)

に,本当の持戒とは形式的な戒律を守ることで誌なくて空性の智慧を 体得することであることを世尊が十のイ易額をもって説いたのを承けて蛤まる。 すなわち,世尊によってこの甚深なる空性の教説が説かれたとき,それを開 いた者たちのうち八百人の比丘たちは心解説し,三万二千の生命あるもの辻 法 眼 を 得 た の で あ る が , 「 禅 定 を 得 た 五 百 人 の 比 丘 た ち

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はこれを信解することができずに説法の座か ら退去してしまった。 このことを長老の大カーシャパが世尊に伝えると,世尊は以下のように花、 えるのであるが,ここは経文をそのまま引用しておこう。漢訳については支 婁 迦 識 訳 [ 漢 ] と こ れ に 次 ぐ 古 訳 の 晋 代 (A.D. 265-420)失 訳 F仏 説 摩 詞 街宝厳経jJ [晋]との二種の漢訳を挙げ,またサンスク 1)ット文については fプラサンナパダ-

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jJ に引用された悶箇所の経文も挙げて,

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のテキストを読解するための参考としたい。 [引月

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1

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[漢]保語迦葉。是五百守緯比丘イ言吉宗衆多。関深法教不解不 信。 [晋]世尊告大迦葉目。此五百比丘貢高慢故。不能解此無漏持戒。是所 説法甚深徴妙。諸{弗之道極甚深妙。非是未種善根。輿悪知識共和隠者所 能解了。

(10)

大乗の諸経論に見られる大乗仏説論の系譜

KP

~ 139:bhagavan aha / tatha hy ete kasyapa bhik!?av

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anad -himanika te manadhimucyamana ima

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anadhimuktibahule satvair adhimucyitu

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Pras: bhagavan aha / tatha hy ete kおyapabhik!?ava互bhimanika

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navataranti navagahante nad -himucyanta uttrasyanti sarptrasyanti sa

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trasam apadyante / gambhirat kおyapa g亘thabhinirharo gambhira ca buddhana

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bhagavat忌中 bodhi

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sa na sakya (1)'navaropitakusalamulait

sattvait (2) papamitraparigrhitair (3)a n a d h i m u k t i b a h u 1 a i r adhimoktum / / 世尊辻仰せられた。「カーシャパよ,まことに,これらの高慢な比丘た ちは,この甚深なる働項の発現を信解しないで,清浄戒についての無読書 なる説示を開いても理解せず,

1

言解せず,入り込まないで, (恐れおの のき恐怖に陥って〕いる。それはなぜか。カーシャパよ,この倍額の発 現は甚深であり,諸仏世尊のさとりは甚深であるが,それを,

(

1

)

いまだ 善根を植えたことがなく, (2)悪しき師友にとりかこまれ, (3)信解の多く ない有情たちは,

1

言解することも得ることも理解することも出来ないの で、ある」 挿話の以下に続く部分については,その概要のみを示しておくことにす る: ~140 世尊は続けていう一一これらの五百人の比丘たちは,かつてカーシ ャパ如来在世の持,異教徒の弟子であったが,如来の説法を開いて浄信を得

(11)

大乗の諸経論に晃られる大乗仏説論の系議 たことにより,この世では私の教えにおいて出家者となった。この五百人の 比丘たちはこの甚深の説法を信解し得なかったが, しかし,彼らはこの説法 によって錬棄されたことによってこれ以上の苦の生存を受けることなし浬 奨するであろう,と。

H41

そのとき世尊は,長老スブーティに呼びかけられる一一「スブーテ ィよ,あなたが行って,これらの比丘たちにわからせよ

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と。これに対してスブーティは,「これら の比丘たち辻世尊が説かれたことでさえ従わなかったのに,まして私の言葉 にどうして従いましょうか」と言って拒む。そこで世尊は,五百人の比丘た ちが歩いている途上に二人の比丘を化作して,この二人記説得の任務を託す。 五百人の比丘たちは二人の比丘に会うと,どちらへ行くのかと問う。二人 は答える, fわれわれは山林

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に仔って禅定の楽しみを味わい たい。なぜなら,われわれは,世尊がなされた説法を理解せず,信解せず, 恐 れ お の の き 恐 需 に 陥 い つ ま し た ほ

rasavahsamtrasavah samtrasam

apady

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。だからわれわれは山林で楽しみにひたりたいので、す」と。 ~142-144 これに対して,五百人は,わ h われもまた世尊の説法を理解せ ず,信解せず,恐れおののき恐?布に括ったために山林に行こうとしているの だと,二人の比丘に告げる。すると,イヒ作された二人は,それならばわれわ れはともに行動しましようと五百人にもちかけ,次いで、,空性のことわりを 願々に教え論してゆく。

H45-148

北作された二人の比丘のたくみな教導によって,五百人の比丘 たちは,ついに,む解脱し

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,世尊のもとに戻る。すると,説法 の会座にいたスブーティが彼らに問いかける。五百人はスブーティの数々の 震聞に対して,空性のことわりをもって答える。

H49

この問答によって,会座にいた入吉入の比丘たちと五百人の比丘尼 たちは心解説し,三万二干の生命ある者たちは法眼を得た一一 挿話が意味するもの 以上の挿話が,一体,どういう背景のもとで,何を

(12)

大乗の諸経論に見られる大乗仏説論の系議 意図して説かれたものであるかについて,十分に理解し得ていないことを承 知しつつ,気が付いた点のみを記しておきたい。まずこの一段が f般若経』 と関連を持っていることは,ここで使用された術語やフレーズなどから疑問 の余地がないであろう。たとえば[引用14JのS139の文中で,五百人の比豆 が甚深の教法を信解しえないことの理由として挙げられた宍

1

)

善根を植えた ことがなく, (2)悪しき師友にとりかこまれ, (3)信解が多くなしつの三国は, すでに本稿

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として示した r八千頚』第百一理章の記述を本源 とする。そこでは,善男子や善女人が智慧の完成を拒絶する理由をいくつか 述べていたので、あった。ただしこの『迦葉品Jl S139に説かれる三因について は,最古の[漢]にはまったく見えず, [晋]に至って(1)(2)の二因を説く文 章が付加されていることがわかる(さらに言えば,秦代 (A.D. 350-431) 失訳『普明菩薩会』になると三因が論って説かれるようになる)。ところで, (1)の「未種善根」の因は,本稿Iで述べたように, F八千頚』では408年訳の f小品」以前の諸漢訳には説かれていないのに対して,『二万五千頚』の漢 訳ではお1年訳の『放光』にすでにこれを見ることができる。つまり, F迦葉 品』の晋代 (A.D. 265-420年)の漢訳に(1)の菌が説かれるのは,年代的に いって, 11)¥千ノ項Jlよりもむしろ r二万五千頚』からの影響である可能性が 高い。加えて,これも本稿 Iで指摘したように, F二万五千頚J は r八千頭』 の[ヲ│用 5Jに担当する部分を「善男子や善女人j が「智慧の完成」を拒絶 する理由を説く一段としてで誌なし出家の比丘たちと誰定される「愚かな 人々」が「智慧の完成」を拒絶する理由を説く一段と読みかえていた。いま f迦葉品Jl~139 が,五吾入の「比丘J が空性の教説を信解しない理由として 三思を挙げているのも, F二万五千r項』の文娠に近いのである。こうしたこ とからすると, T八千頚』の問題を承けて f迦葉品』が成立してゆく過程に おいて,少なくともある段階から, F二万五千頚」が介在し影響を及ぽした 可詑性を考えることができるだろう。 さて,この挿話は, r五百人の比丘」を空性の教説に導き入れることを主 題とするものであるが,興味深いの

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まその教導の仕方である。『迦葉品』の

(13)

大乗の諸経論に見られる大乗仏説論の系譜 対告者は,その経題どおりカーシャパで、あるのが本来であり, じじつ,註尊 は本経の冒頭からH40にいたるまでもっぱらカーシャパを相手に教説を説い ているのであるが, S141において突如として註尊はスブーティに対して語り かけること iこなる。このスブーティの登場泣きわめて異様であるといわねば ならない。 IF立

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葉品」は,空思想、に基づく持戒についての説法を信解しえな かった五百人の比丘たちを説得する役割を「解空第一」のスブーティー一役 の登場はもちろん『般若経』を示唆する一ーに託するが,驚いたことに,ス ブーティはこの世尊の要請を拒否してしまう。結局,この挿話においてスブ ーティがしたことといえば,i:!t尊がイヒ作した二人の辻丘によって教導され心 解説した五百人の比丘たちに費問をすることによって,彼らが空性をよく理 解するにいたったことを追認したにすぎない。この挿話において『迦葉品』 は,スブーティー一つまり f殻若経』一ーによっては拒否され,教化されな かったで、あろう五百人の比丘を,空性の教説に導き入れようとしているかの ようである。すでに見たように, z八千頚』第百章(および f二万五千頚J の対応部分)では,智慧の完成の教説を語る世尊の会座から退去した璃者た ちは,その後,智慧の完成を拒否・講義し,ないし果てしない地獄の苦を受 けるほかはないとされた。それに対して f迦葉品』は,五百人の比丘たちは 甚深の説法を信解できずに会産から退去したけれども,彼らは過去世におい てカーシャパ如来のもとでその説法を開き浄信を得た者たちでみるからこの 世において浬繋を実現することができるであろうとの釈明をS140で施すこと によって,彼らに甚深の空性の教説を信解しうる機会を与えている。五百人 の比丘たちは,註尊の甚深なる説法に対して「恐れおののき恐

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布に陥ったJ ものの,二人の比丘の巧みな教導によって,ついに空性の洞察に達し{,¥解脱 を果たすのである。 以上のように, F遍葉品.Jl

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1

38-149ほ,『殻若経」に説かれた空・無自性の 教説を「恐れおののき恐d怖に陥るJ 者たちの問題を融承し進展させようとし ている一段である。ただし,本積 Iで検討したように,『般若経』では, 空・無副主の教説を開いて「恐れおののき恐

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霜に括るJ のは,新たに大乗に

(14)

大乗の諸経論に見られる大乗仏説諭の系議 おいて出立した菩薩たちか,あるいは善男子・善女人たちであったのに対し て,この挿話では「禅定を得た五百人の比丘たちj が恐れる者たちであると している。五百人の比丘たちは,結局のところ,空性を洞察して心解脱を果 たすのであるから大乗菩薩になったといってよいのであろうが, しかし経典 は,彼らが以前から「大乗において出立した菩薩j であったとは述べていな い。経典は,彼らのことを「禅定を得た比丘」と述べるにすぎないし,また 彼らはそれまで空・無自性の教説を開き親しんできたょっに辻搭写されてい ない。むしろ, もっぱら部派の旧来の典籍に準拠しつつ禅定にいそしむ出家 修行者のイメージこそ,彼らにはふさわしいょっに思われる (IF迦葉品』は この挿話に先立つS1

3

4

において,

1

,皮羅提木叉をIJ頂守し,ないし頭陀行を身に っけながらも有身見にとらわれる者,あるいは法の不生を説き関かされて恐 れおののき恐'捕に陥るような者を破戒者・似非持戒者として非難するが,こ のように非難された者こそ,後の挿話における五百入の比丘のモデルとなっ たであろう)。そうであるならば, Z般 若 経sが「新たに大乗において出立し た菩薩」が空・無自性の教説を恐れないように教導することに腐心していた のに対して,『迦葉品』は,なしろ,未だ大乗において出立していない比丘 たちを大乗へと教導することの方に意を注いで、いるということができょうか。 先に見たように,「空・無自性の教説を恐れる五百人の比丘J の挿話には, 甚深の教法を信解し得ない三国をそこから借用していることからも部証され るように, F八千頚』第百

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軍章(為るいほ F二万五千頚』の相当部分)との 関連が明白であるが,これらの F般若経』の記述は,「智慧の完成」の教説 を恐れる者についてのものではなく,むしろこれを拒絶し誹諒する者につい てのものであった。つまつ, F迦葉品』は空・無自性の教説を恐れる者とし て特にある種のよ七丘たちを取りあげたが,そうした比丘たちは,空・無自性 ないし「智慧の完成」の教説を拒絶し誹誘する者たちと多分 iこ重なり合うよ うな存在として搭かれているのである。

(15)

大乗の諸経論に見られる大乗仏説論の系譜

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迦葉品」が残した課題

以上, f迦葉品J が, f般若経J が「智慧の完成」の教説を宣布するにあた って抱えた二つの課題を引き継ぎつつ,独自の言説を展開していることを概 観した。そのうち, 1.ある種の「菩薩」が f殻若経』ないし大乗経典を拒 否・誹諒する開題について,ず建E葉品dJ~ 6 (4)は,これを経典や教説の「理 解」ないし「解釈j の問題へと展開しうるような仕方で志答したのであった。 f迦葉品J はまた, f般若経J に見られたもう一つの課題,すなわち, 2. 空・無畠性の教説を恐怖する者たちをいかに教導するか,について, f五 百 人の比丘」の挿話において独自の返答を試みている。同経典はここで,空・ 無自性の教説を恐れる者について,「般若経』のいうように「新たに大乗に おいて出立した」未熟な菩薩ではなくて,大乗の教説に未だ慣れ親しんでい ないばかりか拒否するような「禅定を得た比丘j を問題とし,こうした, F般若経』では教化されなかったはずの者たちが F迦葉品』において辻教導 されうることを説く。「禅定を得た五百人の比丘J がいかなる者なのか,つ まり,彼らは阿羅漢果を昌指す声開なのか,それとも先に ~3-6 に関連して 言及したような部派仏教的な菩薩であるのかはさだかではないが,彼らが部

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の戒律をIJ展守して,ないし頭陀行iこ励むような比丘として考えられている ことはほぼ寵違いない。 f迦葉品J が空・無自性の教説を恐れる者としてこ うした比丘たちを取りあげたとき, 1. 2 .の二つの課題は,どちらも,部派 の

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来の典籍に準拠する比丘が空・無言性読ないし大乗経典に対して示す拒 否反正、の問題として連結し,不可分のものとなった。「禅定を得た五百人の 比丘j の挿話のうちに 1.に関する『般若経』由来の記述が見られるのは, そのことを端的に示すであろう。 このように, f迦葉品』では, 1. 2 .の課題は連結してとらえられること になったが,それとともに,二つの課題への対処の仕方も一つに集約されて ゆく方向を示している,と考えられる。経典の言説は決して組織だったもの

(16)

大乗の諸経論に見られる大乗仏説諭の系譜 で

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まないが, しかし要約すれば,『迦葉品』辻, F殻 若 経s等を誹誇するにせ よ空・無自性の教説を恐れるにせよ,これらの拒否反応に対しては,結局の ところ f般若経』の空・無自性説を正しく需示することが重要で、あると示唆 しているように受けとれる。

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6 (4)では,如来の説法という覚知の及ばない ことについて,さとつを得ていない「菩薩」は自己の判軒にもとづいて拒 否・誹諺すべきでないと述べていたが,そのことは『般若経』における空・ 無自性の説法には仏陀にしか知ちえない「意図(密意)Jがみることを暗示 するものであった。じじっ『迦葉品』は, i (悪しき〕空性の思想(空晃)J という誤解が広まつ,空・無骨

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主の教説を恐怖する者が存在する状況にあっ て,あらためて仏陀のことばとして空・無自性説の正しい理解を示そうとし ている。と

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まいえ『迦葉品』では, F殻若経』の空・無自性の教説が「意図」 を持ったものであるとまで明言することはついになしそこに本経典の露踏 を読み取ることができるであろう。 ところで,この『般若経』から F逝葉品J へと引き継がれた問題をさらに 継承し,空・無自性読における仏陀の「意国」を明瞭に開示しようとする大 乗経典が後に現れることになる。文字どおり,仏陀の説法の「秘められた意 図を解きほぐす経典

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の題名を持つ,『解深密経』 で あ る 。 本 穣 は 引 き 続 い て , こ の 議 伽 行 派 の 根 本 経 典 が , ま さ し く 『 迦 葉 品dJ

S

6 (4)の言説をいわば跳躍台として, f殻若経』の空・無自性説を三無自 性説によって「解深密」し,そうすることによって,この教説に対する誹誘 や恐怖を克服しようとしていることを確認してゆきたい。 註 (1) 本稿IIは,『般若経sにおける大乗仏説論に関して論じた本稿1(藤田祥道 [2006aJ)の続編であり,その第II部にあたる。以下の『迦葉品』に関する 論述については Iの考察を前提としているので,併せてご参照いただきたい。 また文献の培号などについても, 1で示した分については,これを踏襲するも のとする。 (2) Ii迦葉品』の党・漢・蔵の諸本については,KPのまえがきで校訂者ホルシ ュタインが解説をしているが,さらに長尾雅人 [1973Jは,漢訳についてホル

(17)

大乗の諸経論に見られる大乗仏説諭の系譜 シュタイン指摘の 4本に加えて新たに 2本の異訳を指捕し,また『迦葉品J の 原形ないし F宝積経』なる叢書の成立に関して考察する論孜として重要である。 なお,以下の本文で言及する T迦葉品去の節番号は,もと辻

KP

が付したも ので,長尾・接部訳もこれを踏襲している。 (3) この F迦葉品s冒頭部のうちS1-20については,ナーガールジュナ(龍樹) の著作と伝えられる f十住毘婆沙論j (鳩摩羅什訳〉に誌とんど引用といえる 対応文が見られる。この点を明らかにした長谷間一也 [1954Jによれば, S 3 -4を除く S1 -20は,罰論書の「毘法品J (1'26,pp.65c23-67b2)に引用され, またS3-4については「課伏心品J (1'26, pp. 37c6-38a2)に引用されるという。 ただしS4の内容は省略されておっ,文字どおりに対応する記述はないという べきである。

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4

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KP

, pp.5-9.cf.1'12, p.189b18-26;Si

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s, pp. 52.12-53.2.また,上註に述べ たように,この『迦葉品j S3は『十住毘婆沙論j r調伏心品J (1'26, pp.37c6 -25)に対応文がある。ただし r十住毘婆沙論J は,こうした f迦葉品Jl

S

3が 説く酉謹の菩提心を昏迷させる性震に先んじて,これとは別に,菩提心を昏迷 させる西種の性賓(失菩提心法)を西度挙げている。つまワ,四種の失菩提心 法を五つ提起するのであるから,合計二十の失菩提心法を説いているのである。 詳組は省くが,この『十全昆婆沙論』が付加した部分辻, F迦葉品j S 1 -16の

5

3以外の記述に対応、関係があると同時に,明らかに f般若経』を前提としてい ると考えられる記述がある。たとえば,「諸の魔事を覚らない(不覚諸魔事)J という「失菩提心法」に関する『十住毘婆沙論』の記述(1'26,p. 37a17-b27) ti,本稿Iでも取ワ上げた『八千頚』第E魔 行 章Marakarrnaparivartaの大 半部分の叙述 (cf.梶 山 ・ 丹 治 訳1,pp.283-306)を要約したような内容とな っている。こうした F十住昆婆沙論』の記述を見ると,同論書では,「般若経J と r迦葉品』との関連性誌自白互のことと理解されているように受けとれる。 (5) 先に本稿I註57において, [引用1誌の『道仔』に見られる「行壊敗菩薩」 の文章に関連して,毘じ支婁迦議訳の用例として注意したのがこの「壊敗菩薩 道Jの文章である。この文章泣, &うる種の「菩薩Jが地の大乗菩薩の歩む菩薩 道を「壌敗J することが,「菩襲」の菩提心を昏迷させることであると述べて いるものと理解される。 (6)

KP

, pp. 10-15.cf.1'12, p . 189b26-c7;Sik$, p. 148. 8-12, p. 55.3-5.また f十f主昆婆沙論JJ (1'26, p. 66a12-21) も参患。なお,KPS5~こ対応する Siお の引用文中の第二文は, yait [caturbhir rnuktat] na vardhante kusalair dharrnait / (p. 148. 9)であるが,括弧舟の二語はマージンに書き込まれたも のであっ,しかもチベット訳にも晃られないものとして,校訂者もその存在を 疑問援している。

KP

と比較しても括弧内の二語は不要で、あるから,本文にお

(18)

大乗の諸経論に見られる大乗仏説論の系議 けるSik$の引用において誌,この二語を削除し,さらに最初の戸地に対しては 連声法を適用して yairと改めている。 (7) ただしより厳密に『迩葉品』にしたがうならば,この諸経典誌, f六つの完 成〔を説く〕菩薩蔵 ?atparamitabodhisatvapitakaJ (cf.KP ~ 6江))という べきである。 (8) If迦葉品』には一本の註釈書が,葉訳(菩提流支訳) Ii大宝穣経論』およびチ ベサ¥議ア主η6・Mah忍γα:tna同:tad)如何陥争αη5ヲα:saiぬ'Siihasγi恥 同 匂 ゆ ゆα市 制atiktt (KPTiktt)として伝存するが,同書はいまの

9

5 (4)に対して,非常に興味深い 註釈を施している。以下,ホルスタインによる本註釈書の議漢校罫本から,該 当部分を引用した上で試訳を示しておこう(ただしチベット訳のローマ字表記 はワイリ一方式に換える)0 KPTikii, p.43. 7-28. Cf.Ii大宝積経論Jl T26, p.208 c2-9: 遠離滅菌故。未開未曾受持諸惰多羅法。語能誘誘。未開者未至耳議道故。 未曾受持者。難至耳識道不言語持。諸頭説教及諸

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者多羅法誘。以是義故。如 来説此鰭多羅。大阿波提合中亦説此義。若有部師。能溺量如来意者。役人 得大援護

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法之事。是故後遠離諸蚤法故。諸白等法令滅。

rgyang bsrings pas yongs su zad par 'gyur ba'i rgyu ni ma白ospa dang / m a zin pa'i mdo sde rnams spong ba ste / ma thos pa zhes bya ba ni thos pa'i lam du ma gyur pa'o / / ma zin pa zhes bya ba ni thos pa'i lam du gyur kyang m a zin pa ste / nges pa'i don gyi mdo sde rnams spong zhing / 'di las dgongs nas / bcom ldan 'das kyis mdo ' di gsungs so zhes bya ba ste / chen po bstan pa chos nyid las dgongs te gsungs pa'i don de bzhin gshegs pa'i dgongs pa la su log pas 'jal ba de'i dam pa'i chos la skur pa cher btab pas gnod pa出ob ste / de'i dkar po'i chos rnams rgyang bsring ba'i yongs su zad pas yongs su zad par 'gyur ro /

〔菩薩が善法を〕遠離することによって出失する pariv版原因は,「開き 学んだことがなく説示されたことがない諸経典を拒否すること」である。 「開き学んだことがない asrutaJ とは,未だ開き学ぶ道となっていない, ということである。「説示されたことがない anuddistむ と は , 聞 き 学 ぶ 道とはなっているが未だ説示されていない,ということである。諸々の

7

義 経 nitarthasiitraを拒否して,「このことを意麗して問中dhaya-tlt尊はこ の経典を説かれた」と言って,「大いなる教説 mah主padesむ と い う 法 性 dharma誌を意図して説かれたものの意味を,如来の意図についてある者 は部錯して推し量り,その正法 saddharmaを大いに援滅することによっ て〔正法からの〕福絶可Tasanaを 得 る 。 そ の 諸 々 の 正 白 な る 法 sul王

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rad-大乗の諸経論に見られる大乗仏説諭の系譜 harmaを遠離し消失するから「消失するJことになるのである。 i主巨されるべき後半部分はいささか難解であるが,筆者辻その内容を次のよ うに理解したい。註釈者辻,みる種の「菩薩」が「聞き学んだことがなく説示 されたことがない諸経典を拒否する」ことについて,そのような「菩薩」がそ れらの rT 義経j を拒否 pratik~epa する壊拠として「大いなる教説 ma­ hapadesむを持ち出していることを指摘する。「大いなる教説」とはlF

i

呈繋 経』等の原始経典に示された「仏語の定義」一一つまり,ある教説が「経に入 っているか,律に見られるか,法性に反していないか」の三条件のいづれかを 満たすならば仏語であることーーを説くものである。逆にいえば,これらの三 条件のいづれも満たさないものは仏語でないことがそれによって認定されるも のである。つまり,この「菩藍」がここで「大いなる教説」を持ち出している ということは,こうした「仏語の定義」に照らせばこれらの未聞の諸経典は仏 説としては認められない,と設が王張していることを意味している。これに対 する註釈者の返答は次のようなものであろう:如来が「大いなる教説」を説か れた意図は,ある教説が法性に反しないものであるならば仏説として認められ るという第三の条件を示すためのものであるのに,この「菩薩」はそうした如 来の意図を倒錯して推し量っているために,正法を損減してしまっているので 為る〈しかし,これらの「了義経」は法性に反しないものであり, したがって 仏説である),と。 「大いなる教説mahapadesaJの詳細について辻藤田祥道 [1998Jおよびそ こに示した諸軒究を参照していただきたいが,この「大いなる教説」とは,声 関と稔されるような部探の比丘たちが他部派の教説や大乗経典を「非仏説」と して否定するための根拠として常套的に用いられるものであったということ誌 注意してよい。部派の声開たちによれば,その「仏語の定義J ,こ示される三条 件は, I}員次, 自派に伝承された原始経典と律とアピ夕、/レマの三蔵のみが仏語で あることを認定するものと解釈されるから,自派の三蔵に見られないような他 部派の教説や大乗経典は「大いなる教説」に照らして仏説ではないと断定しえ たのである。註釈によれば,いまの「菩薩」もまたその同じ根拠をもって未聞 の諸経典を拒否しているので為り,つまり註釈者の娘からすると,部派の声開 といまの「菩薩」とは,同じき長拠をもって大乗経典を非難するようなきわめて 近い関係、にあるものと映っているのである。こうした,「大いなる教説」に説 かれる「仏語の定義j を根拠に未需の諸経典(つまり大乗経典〉を拒否するよ うな「菩藍」とは,声聞と同じく,部派に伝承されてきた典籍に準拠して,大 乗経典を認めようとしないような比丘としか考えられないだろう。 なお,KPTikiiの著者とその年代についてであるが,チベット伝はこれを Blo bstanすなわちスティラマティ Sthiramati(安慧〉とするものの,このス

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大乗の諸経論に見られる大乗仏説論の系譜 ティラマティ辻菩提流支 (A.D. 508年来支)の年代からして,議伽唯議論書 の註釈家として著名なスティラマティ (A.D.510-570) より吉い持代の混入 と考えられている (cf.長尾雅人 [1973: 14-15J)。とiまいえ,本註釈書は 8世 紀までは下らないもののそれほど古いものと辻考えられず, したがってこの註 釈が必ずしも『迦葉品J の成立当時の状況を正確に反映しているとは摂らない ことは心得ておかねばなるまい。しかし見方を変えれば,そのように時代が下 がっても,「仏語の定義j を根拠に大乗経典を仏説ではないと拒否するような 「菩薩」の存在が考えられていることがこの註釈書から読み取れるということ は,それはそれで重要な意味を持つだろう。本稿 Iでも指摘したように,部派 内部において部派仏教的な菩薩のあり方が後代まで認められていたことを示す 一例としても,この註釈は重要で、ある。 (9) r如来だけが証人で為る」とは,さとりを得ていない者の側には未開の経典 を拒否するだけの能力や資格はない,ということを意味するであろう。仏世尊 が 証 人 組 匂mであるということが,亘ちに基準pram拘aという語によって言 いかえられる例が, Fシクシャー・サムッチャヤ』所引の『三品経Ji (Siks, p. 170.9-10)や,『無量寿経』中の讃イム告の吊例 (LSukh, p. 8.14)等に見られ ることが袴谷憲昭 [2002: 96-97Jに指摘されているが,いまの『迦葉品』の 「証人Jの語も,直ちに「基準」と言いかえられるような意味を担っていると みてよいだろう。経典の価値判翫については,如来だけを基準とする廷かはな い, ということである。 (10) このり蓮葉品JJ ~ 6 (4)と比較すべき資料に f法 華 経Saddharmapufu;lari初3 方寵品があるが,同品には,「如来たちが意図をもって語られることばを知る

ことは容易ではない durvijñeyarp …sarpdhabha~yarp tath亘gatanamJ(SP, p. 29.7:cf.松涛・長尾・丹治訳, p.39)のであり,また, r如来のみがあらゆる

j去を知る sarvadharmanapi tath亘gataeva jan亘tiJ (30. 3-4: 40)のであって

声関や独覚たちははもとよワ菩譲たちにも知ワがたいとか,あるいは,諸弘は 「種々の信解や種々の葉西や意向を持った有'措たちの意海を知って教法を説か れるであろう nanadhimukt忌lam sattvanam n孟nadhatvasay註n呈m 芸品ayarp

viditv亘dharmam缶詰ayu;;yantiJ (41. 13-14: 53),といった言説が見られる。 このように f法華経』は f遜葉品』と非常に近接した文章を説きながら,「意 図J という概念を明確に示しているのである。なお,このように近似した文章 を有する両経典であるが,本文に述べるように, F迦葉品』が以下の叙述にお いて空・無岳性の教説を教化対象に説き示そうとしているのに対して, f法 華 経』の場合は,このような理解しがたい教法を説く仏陀に対する信をひたすら 強調している点に,両者の性格の違いが晃られるであろう。 白1) たびたび、指請されているように, F議{指揮地論s本 地 分 中 菩 薩 地 (T30,p.

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大乗の諸経論に見られる大乗仏説諭の系譜 488c10-1l;BBh, p. 46. 20-22)は,この経文を受け継いで,「悪しく誤解され た空性durgrhitasunyata(悪取空性)Jを否定しつつ「正しく理解された空 性 sugrhitas.(善取空性)Jを説くことになる。同経文のヲi用についてiまさら に『仏性論J] (T31, p. 797b20-21)にも見られる。 (12) KP, 3139, p. 201. 19-25. Cf.IF仏説遺日摩尼宝経J]T12, 193b16-17;IF仏説摩 言明汀宝議経J]T12, 199b29-c4;Pras, p. 337. 3-6;長尾・桜部訳, pp.104-105.な お『プラサンナノマダー』は,KPで、いえば3138の途中から3143の途中までの範 冨の F迦葉品』の経文をヲ

i

用している。 締 ただし,スコイエン・コレクションに含まれる,クシャーン期以捧のものと推 定されている『八千頚sの第羽章から第四章にわたる断片にparittakusala盟 国a の語が見られることの問題については,本稿Iの註17で 【略号表および参考文献の追加分} BBhニ Bodhisattvabhumi (党文菩藍地経), Wogihara,U. (ed.), Tokyo, 1930 -1936; rep. 1971. KPT:tkii= A Commentaη to the KiJ.匂ゆゆαγ'zvαγtα;editedぬ Tuるetanαγ試 問 Chinese,豆olstein,S.(ed.

Peking,1933.

L Sukhニ Sukhiivat:tvyu,}ω,Ashikaga,A. (ed.), Kyoto, 1965.

幹 部 二 話ulamadhyam回hα(karikiis

0

盟 弱rhyai符z漁 民;flt:γas) de Nii;

ε

arjuna, avec la

Pras,αnnapada Commentaire de Candrak:trti, de La Vallee Poussin,L.(ed.), St.

Petersburg, 1903-1913; rep. Delhi, 1992.

Sik$= Si$iisamuccaya, Bendall,C (edよ St.Petersburg, 1897-1902; rep. Delhi,

1992.

SP = Saddharmapu

1

J

r

J

art:ka, Kern,H. and Nanjio,B. (eds.), St. Petersburg,

1897-1902; rep. Delhi, 1992. 長 尾 ・ 桜 部 訳 = 長 屠 雅 人 ・ 桜 部 建 訳 f迦葉品dl (大乗弘典号所収入中央公論社, 1974. 松涛・長尾・丹治訳=松涛誠莱・長尾雅人・丹治昭義訳

r

法 華 経 Idl (大乗仏典 4所収),中央公論社, 1975. 長尾雅人 [1973JflF迦葉品J の諸本と F大宝積経』成立の問題J IF鈴 木 学 術 財 毘 研 究 年 報dl 10, pp. 13-25. 袴谷憲昭 [2002JIF仏教教団史論J],大蔵出版. 長谷周一也

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大乗の諸経論に見られる大乗仏説論の系議 [1954Jr十住昆婆沙論に於ける E主主cyapaparivartaの引用についてJ 11印夏学 仏教学研究.s2-2, pp.553-556. 藤田祥道 [2006a] r大乗の諸経論に見られる大乗仏説論の系譜_--1.11般 若 経 ぶ 智 慧 の 完 成 を 誹 誘 す る 菩 蓬 と 恐 れ る 菩 薩 一 -J 11イ ン ド 学 チ ベ ッ ト 学 研 究 』 次 号 (本稿1).

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