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佛教大学仏教学部論集 99号(20150301) 055中御門敬教「文殊菩薩の浄土経典 : 蔵訳<文殊師利仏土厳浄経>第四函の和訳研究(下)」

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全文

(1)

文殊菩 の浄土経典

蔵訳 文殊師利仏土厳浄経> 第四函の和訳研究(下)

中御門 敬 教

〔抄 録〕 文殊菩 の浄土経典である蔵訳 文殊師利仏土厳浄経> の翻訳研究を行う。当経は 未翻訳であり、詳細な解題が存在しないため、その全体像の紹介を目的とする。今回 の論文をもって、ひとまずその全体像を紹介し終えたことになる。当経は浄土教を大 乗菩 道の展開として捉える際にも、重要な位置を占める。その展開の中心に位置す る、空性を基点にした壮大な文殊菩 の世界観を示したい。 キーワード 浄土経典、文殊師利仏土厳浄経、文殊菩 、菩提の現等覚、法の一相

はじめに

大宝積経 に所収される、文殊菩 の浄土経典である蔵訳 文殊師利仏土厳浄経>(以下、 文殊仏国経>)の翻訳研究を行う。当経は未翻訳であり、詳細な解題が存在しないため、そ の全体像の紹介を目的とする。この浄土経典を紹介することによって、壮大な文殊菩 の誓願 とそれによる世界を示したい。今回扱う範囲は当経蔵訳の全体四函のうち第四函の後半部 、 範囲は(P.Wi.331b-339a)(D.Ga.291b-297a)である(1)。本稿の掲載 をもって、蔵訳 文 殊仏国経> の全容を一応紹介し終えたことになる。今後の課題としては、何れも 大宝積経 所収の浄土経典であり、登場の年代が隣接する 無量寿経>、 阿 仏国経>(2)、そして文殊菩 の当経を、 合的に 察することが求められる。これによって大乗菩 道の展開としての浄 土教の位置付けが、より明らかになると える。 なお当経の第一函訳 は 佛教大学 合研究所紀要 21(2014)に、第二函訳 は 仏教文 化研究 58(2014)に、第三函訳 は 佛教大学仏教学部論集 98(2014)に、第四函前半訳 は 佛教大学佛教学会紀要 19(2014)に掲載した。今回の翻訳の方針は上記拙稿に従った。 解題的なものとしては 印度学仏教学研究 62-1(2013)に、 文殊の誓願行と浄土経典― 文殊師利仏土厳浄経> 所説の 菩 の学処 大波濤誓願 往生説 ― として掲載した。 本稿で扱う第四函後半部 の所説の特徴を示せば、以下のとおりである。

(2)

1. 菩提の現等覚を逆説的な表現を用いて説明する。 2. 空の説示である 法の一相として教示 を、十三名の菩 ・童子を登場させて説明する。 3. 永続的菩 行の実践者としての文殊の立場を、逆説的な表現を用いて説明する。また願求 の対象である 菩提 ですら 名 に過ぎない点、いわゆる 唯名論 (空性思想)が出る。 4. 阿弥陀仏と文殊との集会の比較が行われる。 5. 本経の主題である、文殊の誓願・発趣・大行が要約される。 6. 本経の 四種の法門の名 (題名)が出る。すなわち、 仏が遊戯する 、 不可思議な誓 願 、 マンジュシュリーの仏国土の功徳荘厳の教示 、 菩提心を正しく歓喜させる であ る。これらは本経の主題を示したものともいえる。

聖なる文殊の仏国土の功徳荘厳> と名付けられた大乗経典

菩提の現等覚 (P.Wi.331b)(D.Ga.291b)それから智上菩 は、マンジュシュリー童子に対してこのよう に述べた(smras pa)― マンジュシュリーよ、どのような菩提を現等覚すべきですか。 マンジュシュリーは述べた―(D.Ga.291a) 〔菩提は〕誰も得ることも無く、壊すことも無く、何かにおいて〔菩提が〕有る、あるいは 無いと貪著することは認得しえない。(3) 智上菩 は述べた― マンジュシュリーよ、その菩提はいかほどに有ることによっても得ないのですか。無いこと によっても得ないのですか。 〔マンジュシュリーは〕述べた― 良家の子よ、それはそのとおりです。それはなぜかといえば、一切法は本来生じていない。 〔実体としてこれまで〕有ることにならなかったし、〔これからも〕ならないであろうから、 それゆえに〔菩提は〕得ることにはなりません。 法の一相として教示① ―智上菩 〔智上菩 は述べた―〕

マンジュシュリーよ、一相の法の教示(tshul gcig pai chos bstan)(4)によって、そのよう

に教示するのですか。

マンジュシュリーが述べた―

良家の子よ、(P.Wi.332a) 一相の法の教示 というのは何ですか。

(3)

マンジュシュリーよ、〔実体として〕諸々の蘊も見ないし、諸々の界と処(6)も見ないし、

〔生来の〕盲者でもなく、肉眼のある者(shai mig can)でもなく、どんな法についても 別

しない。〔さらに〕どんな無 別と法についても(7)増大と減少とを見ないこと、これが 法の

一相としての教示(chos kyi tshul gcig tu bstan pa) という。 それから獅子勇猛雷音菩 が述べた―

真如(de bzhin nyid)と相違しないし、法性(chos nyid)と相違させないこと、 これらは 凡夫の法である。これらは声聞の法である。これらは独覚の法である。これらは仏の法であ

る。 といって区別しないし(8)。これが空寂である相(dben pai tshul)として一つの相(理

趣)に入ること、これが 法の一相としての教示 である。 法の一相として教示② ―喜見菩 喜見(mThong dga)(9)菩 が述べた― 真如にも入ったが、真如によっても慢心しないし、 これが甚深(zab po)である。(10)とい って 別しない(mi rtog)。 別しないそのように教示すること、それが 法の一相としての 教示 である。 法の一相として教示③ ―無尽辯菩

無尽辯(11)(sPobs pa mi zad pa)菩 が述べた―

一切法の尽きないこと(12)、それが尽きることである。一切法が尽きないよう法を教示する

こと、それが法性から相違させないことである。そのように教示すること、それが 法の一相 としての教示 である。(D.Ga.291b)

法の一相として教示④ ―善思惟菩

善思惟(13)(bSam pa legs par sems pa)菩 が述べた―

思惟することによって、思惟しえないことにも入ったし、思惟しえないことによっても思量 せず、認得しない(mi dmigs pa対象としない)〔である〕。そのように教示すること、それが

法の一相としての教示 である。(P.Wi.332b)

法の一相として教示⑤ ―離塵菩

離塵(14)(rDul dang bral ba)菩 が述べた―

貪欲( dod chags)を離れたこと、それはあらゆる兆相(mtshan ma)への貪欲もない。貪 を離れたこともなく、貪欲に従うこと(愛着)もなく、憤怒もなく、迷妄(rmongs pa)もな く、一とすることもなく、二とすることもなく、為すこともなく、為さないこともなく、取も なく、捨もない。それが 法の一相としての教示 である。

(4)

法の一相として教示⑥ ―海菩 海(15)(rGya mtsho)菩 が述べた― 海のように奥深く底は量り難い(16)法に入った者、〔その〕彼は法に対しても 別せず、無 別であり、〔法の〕住するとおりに法を教示し、自と他とを思量しない(17)。そのように教示す ること、それが 法の一相としての教示 である。 法の一相として教示⑦ ―月上童子

月上(Zla bai bla ma)童子(18)が述べた―

すべての衆生に対する平等心によって月のようになっていても、彼ら衆生に対しても思量が ない。そのように教示すること、それが 法の一相としての教示 である。

法の一相として教示⑧ ―摧一切憂闇菩

離一切憂闇(19)(Mya ngan gyi mun pa thams cad rnam par sel pa)菩 が述べた―

すべての憂いを断絶した(20)者、〔その〕彼は憂いがなく、萎縮するであろうことがない。衆

生たちは憂いの箭(21)が刺さっている。それについて憂いの根本は何かと問えば、それはこれ

は我だと執することと、我所だと執することである。我執と我所執との平等性に住し、法を教 示すること、それが 法の一相としての教示 である。

法の一相として教示⑨ ―無所縁菩

無所縁(22)(dMigs pa med pa)菩 が述べた―

欲界についても認得しない(mi dmigs pa)。色界と、無色界と、声聞の法(23)と、独覚の

法(24)について(D.Ga.292a)も認得しない。そのように教示すること、(P.Wi.333a)それが

法の一相としての教示 である。

法の一相として教示 ―普見菩

普見(25)(Kun tu lta ba)菩 が述べた―

法を教示するならば、これは空であることによる平等性によって平等であることを教示する。 空性によっても〔とらわれの〕思量とせず、平等性によっても認得しない。そのように教示す ること、それが 法の一相としての教示 である。

法の一相として教示 ―三輪清浄菩

三輪清浄(26)( Khor gsum yongs su dag pa)菩 が述べた―

法を教示する時、三輪と相違なくする。 三輪 は何かと問えば、我を認得しないことと、 聞法を認得しないことと、法についても思いこみがないことである。これを三輪清浄の法を教

(5)

示するという。そのように教示すること、それが 法の一相としての教示 である。

法の一相として教示 ―成就行菩

成就行(27)( Gro ba grub pa)菩 が述べた―

一切法が集合しないとも知り、知るとおりにまた教示する。すなわち、一切法は説きえない から一字も説かない。そのように教示すること、それが 法の一相としての教示 である。

法の一相として教示 ―深行菩

深行(28)(Zab mor spyod pa)菩 が述べた―

一切法の甚深たることも知って、その法も正しく随見しない。何が教示するのかと、何に教

示するのかと(29)、何を教示したのか、それも正しく随見しない。そのように教示すること、

それが 法の一相としての教示 である。

法の一相としての教示の功徳

同様に結びつけて、大威徳たる大威徳(30)(gZi brjid chen po gzi brjid chen po)菩 摩訶

たちが、各々に各自の辨才を教示した。この 一相としての教示の法門(tshul gcig tu bstan pa i chos kyi sgo) を教示した時、(P.Wi.333b)七十コーティの菩 が無生法忍を得た。八 百四十万コーティ・ナユタの生きもの(生類 srog chags)は無上正等覚に発心した。七千の

比丘は取(nye bar len pa)がなく、諸漏から心が解脱した(31)。(D.Ga.292b)天と人との衆

生(skye dgu)のうち九十六ナユタの者は、法に対する法の眼が塵を離れて垢無く清浄とな った。

マンジュシュリーの現等覚

それから世尊に対して、獅子勇猛雷音菩 摩訶 はこのように申し上げる―

世尊よ、かの普見(Kun tu gzigs pa)如来の菩 のサンガは、どれほどになるのでしょう か。彼の寿命の量はどれほどになるのでしょうか。マンジュシュリー童子はどのかぎりにおい て無上正等覚を現等覚するのですか。 と。 世尊が仰った― 良家の子よ、あなたはこのマンジュシュリー童子こそに尋ねなさい。 と。 それから、獅子勇猛雷音菩 摩訶 はマンジュシュリー童子にこのように述べた― マンジュシュリーよ、あなたはどのかぎりにおいて無上正等覚を現等覚するのですか。 と。 マンジュシュリーが述べた― 良家の子よ、いつか虚空界が色を有すること(gzugs can)になったその時(32)、私も菩提を

(6)

提を現等覚します。いつか漏を尽くした阿羅漢が(34)、(P.Wi.334a)菩提を現等覚するその時、

私も菩提を現等覚します。いつか夢〔中〕の人(rmi lam gyi skye bu)(35)と、こだまと、光影

(mig yor)と、水〔中の〕月と、如来の化作とが菩提を現等覚するその時、私も菩提を現等 覚します。いつか日光により夜となって、月光により昼となったその時、私も菩提を現等覚し ます。良家の子よ、そのとおりであるゆえに誰か菩提を願求する者(smon pa)、彼に尋ねな さい。 と。 マンジュシュリーによる菩提の願求 〔獅子勇猛雷音菩 摩訶 は〕述べた― マンジュシュリーよ、あなたは菩提を願求しないのですか。 と。 〔マンジュシュリーは〕述べた― 良家の子よ、それはそうではありません。(D.Ga.293a)それはなぜかといえば、マンジュ シュリーこそも菩提であり、菩提こそもマンジュシュリーです(36)。それはなぜかといえば、 良家の子よ、これが 菩提 といわれるもの、あるいは マンジュシュリー といわれるもの それは、名ほど(ming tsam)です。 名 〔である〕もの、それは空寂であり、無作であり、 空です(37)。〔究極的には〕空性なるもの、それが 菩提 です。 と。 無量光如来とマンジュシュリーとの集会① それから世尊は師子勇猛雷音菩 に対してこのように仰った― 良家の子よ、あなたは世尊・如来〔である〕無量光の菩 の集会( dus pa)と、声聞の集 会が見えましたか。聞こえましたか。 と。 〔師子勇猛雷音菩 は〕申し上げた― 世尊よ、私は見えました。聞こえました。 と。 〔世尊は〕仰った― 良家の子よ、これをどのように思いますか。 と。(P.Wi.334b) 〔師子勇猛雷音菩 は〕申し上げた― 世尊よ、それは不可思議です。善 よ、それは無数です。 と。 世尊は仰った―

良家の子よ、すなわち譬えば、マガダ国(38)の胡麻の〔貯蔵〕坑(til gyi dong)(39)から一粒の

胡麻(40)を取り出したなら、良家の子よ、その一粒の胡麻(bru gcig po)をそのままそのとお

り(41)如来〔である〕無量光の菩 の集会と、声聞の集会と見よう。〔一粒取り出した〕後(42)

の胡麻の残余の〔そのままの〕とおりに、マンジュシュリー童子が現等覚した〔時の、〕菩 衆の集会(tshogs dus pa)と見よう。良家の子よ、すなわち譬えば、この三千大千世界を灰

(7)

どかあるそれほどの劫において、かの如来〔である〕普見が居られたとしても(44)、百 〔の 一〕も述べることにならない。千 と、百千コーティ と、十万コーティ・ナユタ 〔の一〕 と、数と、 と、計量と、因とも述べることにならない。 仏の寿命の量① 良家の子よ、その観点(rnam grangs)(45)によっても、このようにかの世尊・如来・応供・ (D.Ga.293b)正等覚者の寿命の量は無量無数になると知る(rig pa)べきです。良家の子よ、 すなわち譬えば、この三千大千世界をある一人の 夫が極微細な塵に砕いた。〔その塵を〕灰 にして、そこから、ある一人の 夫が極微細な一塵を〔手に取って〕運んだ。極微細な塵〔の 数〕(P.Wi.335a)ほどの三千大千世界を過ぎて、そこに極微細な一塵を置いた。その 夫は そのやり方とおりに、東の方角においてそれら極微細な塵のすべてを尽きはてるよう配置した (zad zad du bkod par gyur la)。同様に二人目のある 夫が生まれた。彼も南の方角におい

て、それほどの(46)極微細なそれぞれの塵から(nas)、そのやり方とおりに置いた。同様に十 方においてそのような各々の 夫〔十人〕が、そのやり方と同じように、それに等しい極微細 な塵を尽き果てるよう、各々〔の塵〕から(nas)置いたならば、良家の子よ、それをどのよ うに思いますか。 それら三千大千世界は、百〔の単位〕は、これほどのものが有る。千〔の単位〕は、これほ どのものが有る。十万〔の単位〕は、これほどのものが有る。コーティ〔の単位〕は、これほ どのものが有る。百コーティ〔の単位〕は、これほどのものが有る。千コーティ〔の単位〕は、 これほどのものが有る。十万コーティ〔の単位〕は、これほどのものが有る。十万コーティ・ ナユタ〔の単位〕は、これほどのものが有る。カンカラ(Skt.kamkara,Tib.gtams)(47)〔の 単位〕は、これほどのものが有る。ビンバラ(Skt.bimbara,Tib.dkrigs)(48)〔の単位〕は、

これほどのものが有る。アクショーブヤ(Skt.aksobhya,Tib.mi khrugs pa)(49)〔の単位〕

は、これほどのものが有る。 というように量を捉えることはできますか。 と。 仏の寿命の量② 〔師子勇猛雷音菩 は〕申し上げた― 世尊よ、それはできません。善 よ、それはできません。 と。 世尊が仰った― 良家の子よ、彼ら〔十方の〕十人の 夫があらゆる三千大千世界を過ぎて、どこか〔の世 界〕に到った(phyin te)、それらの極微細な塵を置いたのと、どこか〔の世界〕を過ぎて、 極微細な塵を置かなかったそれら世界すべてを毀して(50)(P.Wi.335b)(D.Ga.294a)、極微 細な塵に砕いたならば(51)、良家の子よ、これをどのように思いますか。それらの極微細な塵

(8)

ほどのものが有る。千〔の単位〕は、これほどのものが有る。十万〔の単位〕は、これほどの ものが有る。コーティ〔の単位〕は、これほどのものが有る。百コーティ〔の単位〕は、これ ほどのものが有る。千コーティ〔の単位〕は、これほどのものが有る。十万コーティ〔の単 位〕は、これほどのものが有る。十万コーティ・ナユタ〔の単位〕は、これほどのものが有る。 カンカラ〔の単位〕は、これほどのものが有る。ビンバラ〔の単位〕は、これものが有る。ア クショーブヤ〔の単位〕は、これほどのものが有る。 というように知る、または(52)数える (bgrang ba)、または計量する(gzhal)、または量を捉えることができますか。 と。 〔師子勇猛雷音菩 は〕申し上げる― 世尊よ、その譬えにおいて、衆生たちは錯乱するでしょうが、義(もの、対象)を探求する こと(don tshal)、または計量すること、または量を捉えることはできません。 と。 世尊が仰った― 良家の子よ、如来は、それら極微細な塵を計量するやり方によって、 百〔の単位〕は、こ れほどのものが有る。千〔の単位〕は、これほどのものが有る。十万〔の単位〕は、これほど のものが有る。コーティ〔の単位〕は、これほどのものが有る。百コーティ〔の単位〕は、こ れほどのものが有る。千コーティ〔の単位〕は、これほどのものが有る。十万コーティ〔の単 位〕は、これほどのものが有る。十万コーティ・ナユタ〔の単位〕は、これほどのものが有る。 カンカラ〔の単位〕は、これほどのものが有る。ビンバラ〔の単位〕は、これほどのものが有 る。アクショーブヤ〔の単位〕は、これほどのものが有る。 というそれよりも、さらに優れ て如来は一切相に了解する(rnam pa thams cad du thugs su chud do)。 と。

マイトレーヤと大智

それから世尊に対して、(P.Wi.336a)マイトレーヤ菩 がこのように申し上げる― 世尊よ、もしそのような大智(ye shes chen po)の〔獲得の〕ために、菩 摩訶 が後の辺

際(未来)(53)のへり(phyi mai mthai mu)に至るまで、大有情地獄において(D.Ga.294b)

焼かれても、世尊よ、それをかの菩 摩訶 は耐えるでしょう。そのような 大智 を捨てま せん。 と。 世尊が仰った― マイトレーヤよ、それはそのとおりです。述べたそのとおりです。〔衆生のうち〕信解の劣 った者と、懈怠の大きな者と、精進の小さな者を除外して(54)、誰がそのような 大智 に対 して欲望( dod pa)を生じないでしょうか(55)。 と。

この仏智(sangs rgyas kyi ye shes)を教示した時、一万の生きもの(生類)は正覚へ発心 した。

(9)

マンジュシュリーの誓願、発趣、大行 それから世尊は、師子勇猛雷音菩 に対してこのように仰った― 良家の子よ、そのように十方における彼ら十人の 夫は、あらゆる三千大千世界を過ぎて、 どれかの世界に至った。極微細な塵を置いたのと、それらを過ぎて、置かなかったそのすべて を極微細な塵に砕いたそれらよりも多くの劫において、今なお、マンジュシュリー童子は、菩 行を行ずるでしょう。それはなぜかといえば、良家の子よ、マンジュシュリー童子の誓願は 不可思議であり、正しく発趣することは不可思議なので、彼が菩提を得た〔ときの〕寿命の(56) 量も不可思議であり、菩 のサンガ(57)も不可思議であるでしょう(58)。 と。 それから(P.Wi.336b)世尊に対して、師子勇猛雷音菩 はこのように申し上げた― 世尊よ、すなわち、マンジュシュリーがこのように、これほどの劫においても厭 (skyo

ba)を生じないその大発趣( jug pa chen po)は驚異です。世尊よ、大行(spyod chen po)(59)

は驚異です。 と。

虚空界、一切法、名の空寂 マンジュシュリーが述べた―

良家の子よ、これをどのように思いますか。虚空界は、このように、日(zhag)と、昼

(nyi ma)と、半月と(60)、時(dus)(61)と、年と(D.Ga.295a)、劫と、百劫と、千劫と、コー

ティ劫と、コーティ(62)・ナユタ劫と、十万コーティ・ナユタ劫と、カンカラと、ビンバラと、 アクショーブヤが過ぎたのかと思いますか。 と。 〔師子勇猛雷音菩 は〕述べた。 マンジュシュリーよ、それはそうではありません。それはなぜかといえば、虚空界において は 別が無いからです(63)。 と。 〔マンジュシュリーは〕述べた。 良家の子よ、それはそのとおりです。誰か菩 は一切法を虚空のようだと了解し(khong du chud de)、どこからも 別しなくて(64)、観察しない、そのように了解するそのことは、こ のように、 一日が過ぎた。昼一つが過ぎた。 といってから、前のように これほどの年が過 ぎた と 別しません。それはなぜかといえば、いかなる法についても、それ〔だと〕のいか なる想も起こることはない(65)。良家の子よ、すなわち、譬えば、虚空界が、ガンジス河の砂 〔の数〕ほどの〔無数の〕劫よりさらに過ぎていても、厭 なく、絶望はない。虚空界におい て生、あるいは滅、あるいは悩(66)、あるいは離( gyes pa)となることはない。それはなぜか といえば、虚空界において〔有為として存在する〕事物(dngos po)はないからです(67)。良

家の子よ、同様に、その菩 は、一切法は事物なしだ(dngos po med pa)と知る〔その〕彼 は、厭 と、(P.Wi.337a)絶望の心を生じません。良家の子よ、何かについて、虚空界とい

(10)

なく、死はなく、遷移( pho ba)はなく、生起( byung ba)はなく、来( ong ba)はなく、 去( gro ba)はありません。良家の子よ、同様に、何かについて、 マンジュシュリー とい うこの名においてまた、悩はなく、厭 はなく、疲労はなく、動はなく、生はなく、老はなく、 死はなく、遷移はなく、生起はなく、来はなく、去はありません。(D.Ga.295b)それはなぜ かといえば、その〔虚空界という〕 名 とはきわめて空寂であるからです。 と。 諸天の讃歎 この法門を教示した時、四大天王と、天王であるシャクラ(帝釈天)とサハー〔世界〕の主 〔である〕ブラフマー(梵天)と、他のまた天子であっても 大自在の者、大自在の者 と呼 ばれる天子たち(69)が、声を一つにしてこのように述べた― 世尊よ、誰かこの法門を聞いた衆生、彼らも、利得を良く得た者である。〔それ〕なら、誰 か聞いてから受持し執持する者と、読誦し、すべてを精通する者と、他者にも広汎に教示する 者は言うまでもありません。 世尊よ、誰か衆生がこのように―、 私たちは、およそこの(70)、仏の法を完全に摂持するた めに、この法門を受持しましょう。保持しましょう。読誦しましょう。すべてを精通しましょ う。他者たちにも広汎に正しく教示しましょう。 と句に述べる彼らは、劣った善根(dge

ba i rtsa ngan ngon(71))を具えた者ではありません(72)。 と。

マンジュシュリーへの随学、発心の福徳 それから世尊に対して、師子勇猛雷音菩 摩訶 はこのように申し上げる― 世尊よ、誰か良家の息子あるいは良家の娘が、この法門を聞いてから受持する、あるいは執 持する、あるいは読誦する、あるいはすべてを精通する、あるいは発趣する、あるいは他者に も広汎に教示すると、 マンジュシュリー(P.Wi.337b)童子に随学しよう(73)。 と、発心す る者、彼はどれほどの福徳(74)を生ずることになるのでしょうか。 と。 世尊は仰った―

良家の子よ、およそある菩 が(byang chub sems dpa gang la las)、十方における如来が

障碍のない仏眼(75)によってあらゆる仏国土(76)をご覧になった、それらすべて〔の仏国土〕を

七種の宝によって満たし、個々の如来に対して献上し、同じ形で(rnam grangs de bzhin du)

すべての衆生に対して等しい心によって、すべての戒の律儀(tshul khrims kyi sdom pa)(77)

〔、すなわち〕(D.Ga.296a)正しく受けたものに住して(78)、後の辺際(未来)のへりに至る

まで布施を施したのより、他の菩 がこの法門を聞いてから、受持し、あるいは執持し、ある いは読誦し、あるいはすべてを精通し、あるいは発趣し、あるいは他者にも広汎に教示し、あ

るいは マンジュシュリーに随学しよう。 というまで発心し、七歩を踏み出すならば(79)、そ

(11)

せん。十万 〔の一〕にも及びません。コーティ 〔の一〕にも及びません。百コーティ 〔の一〕にも及びません。千コーティ 〔の一〕にも及びません。十万コーティ 〔の一〕に も及びません。十万コーティ・ナユタ 〔の一〕にも及びません。数と、 と、計算と、譬え と、類比(80)にも及びません。 と。 菩 の一切の現れが幻のように生じたという三昧(菩 平等照曜如幻相三摩地) それからマンジュシュリー童子はその時、 普く現れが幻のように(P.Wi.338a)生ずる

〔という〕菩 の三昧(81)(byang chub sems dpai ting nge dzing kun nas snang ba sgyu ma

lta bur byung(82)

ba) に等至した(snyom par zhugs so)。そのようにマンジュシュリー童子 がその三昧に等至するやいなや、その衆会( khor)に集まっていたほどの菩 彼らは、無辺

であり、へりのない十方の〔諸々の〕世界の仏・世尊たちが見えた(83)。彼ら如来すべての面

前にマンジュシュリー童子が居り、自身の仏国土の功徳荘厳を教示するのが見えてから(84)、彼

らはこのように思う―

このマンジュシュリーが、そのように、多くの十万のコーティ・ナユタの世界において、一

斉に現れた(snang bar gyur pa)のは、殊勝な誓願と三昧と智慧(85)との大変な驚異です(86)

と心に驚異の想いを生じた。

四種の法門名(流通 )(87)

それから(D.Ga.296b)世尊に対して、マイトレーヤ菩 摩訶 はこのように申し上げた― 世尊よ、この法門の名は何でしょう。これはどのように受持するべきでしょうか。 と。 世尊は仰った―

マイトレーヤよ、ゆえに、この法門の名は、 仏が遊戯する(Sangs rgyas rnam par rol

pa)(88)というように受持しなさい。 不可思議な誓願(sMon lam bsam gyis mi khyab pa)(89)

というようにも受持しなさい。 マンジュシュリーの(P.Wi.338b)仏国土の功徳荘厳の教示

( Jam dpal gyi sagns rgyas kyi zhing yon tan bkod pa bstan pa)(90)というようにも受持し

なさい。 菩提心を正しく歓喜させる(Byang chub kyi sems yang dag par dga ba byed

pa)(91)というようにも受持しなさい。 と。

それからその時、その衆会( khor)に十方から無量無数の菩 が集まっていた、彼らすべ てが、如来とこの法門を供養するために、花の大雨を降らし、世尊の両足に礼拝した。各自の

仏国土に還り(92)、このように―

ああ(93)(kye ma)仏よ、ああ仏よ。今日(94)、私たちはマンジュシュリーの獅子吼と、不可

思議な荘厳を聞いた。 と繰り返し自説した(ched du brjod ched du brjod de)。

この法門を教示した時、ガンジス河の砂〔の数〕ほどの菩 は、無上正等覚から不退転とな った。無量の衆生も善根が成就した。

(12)

仏がそのように仰ってから、マンジュシュリー童子と、マイトレーヤ菩 と、師子勇猛雷音

菩 と、十方から集まった彼ら菩 摩訶 と、(P.Wi.339a)彼ら比丘と、天と、人と、(D.

Ga.297a)アシュラ(阿修羅)と、ガンダルヴァ(乾 婆)をともなった世間(95)が喜悦し、世

尊が(96)お説きになったものを賞讃した。

奥書

聖なる大宝積法門十万章( Phags pa dkon mchog brtsegs pa chen poi rnam grangs leu stong phrag brgya pa) から、 マンジュシュリーの仏国土の功徳荘厳の教示の章( Jam dpal gyi sangs rgyas kyi zhing gyi yon tan bkod pa bstan pa i leu) といわれるもの、第十五章 が終了した。

インドの親教師(mkhan po)〔である〕シレンドラボーディ(97)と、ジナミトラと、主任翻

訳師尊者イェシェデとが翻訳し、 正した。新定訳語(skad gsar chad)(98)によってまた改訂

し、確定した。 〔注〕 ⑴ 漢訳の対応箇所は以下のとおりである。 ・西晋竺法護訳 文殊師利仏土厳浄経 ( 大正蔵 11,No.318,pp.898b24-902a28) ・唐 実 叉 難 陀 訳 大 宝 積 経 文 殊 師 利 授 記 会 ( 大 正 蔵 11.No.310-15,pp.349a21-350 c19) ・唐不空訳 大聖文殊師利菩 仏刹功徳荘厳経 ( 大正蔵 11,No.319,pp.917a1-918c28) ⑵ 佐藤直実氏による多数の研究業績によって、近年その全容が明らかにされつつある。その代表 的な研究に、佐藤直実 蔵漢訳 阿 仏国経 研究 (山喜房仏書林、2008)がある。 ⑶ 実叉難陀訳:此菩提者非是可得。亦非可壊非可住著(者)、不空訳:無所得亦無所壊。於無無所 著於有無所得 ⑷ 一つの法のあり方 程度の意味。要点は何かと問うている。一乗思想の表明にも繫がる。 浄 土論 には 入一法句 とある。Tib.tshul gcig の原語は eka-laksana / eka-rupa。 実叉難陀訳,不空訳:一相法門実叉難陀訳,不空訳:一相法門

⑸ 実叉難陀訳:弥勒菩 曰、不空訳:智上菩 答曰 ⑹ 古来、蘊界処を一切法と呼んでいる。

⑺ 知るもの(無 別あるいは智恵)と、知られるもの(法)という図式。

⑻ P.tha dad du mi jed cing,D.tha dad du mi byed cing デルゲ版の読みを採用した。 ⑼ 実叉難陀訳:楽見菩 、不空訳:喜見菩

増上慢を諌めている。

実叉難陀訳:無礙辯、不空訳:無尽辯

P.chos thams cad kyi mi zad pa,D.chos thams cad mi zad pa 実叉難陀訳:善思、不空訳:善思惟

実叉難陀訳:妙離塵、不空訳:離塵 実叉難陀訳:娑竭羅、不空訳:娑 羅

P.gting dpag bka ,D.gting dpag dka デルゲ版の読みを採用した。

(13)

に Tib.rlom semsが対応し、漢訳では 挙、 慢、思量となる(Cf.横山絋一、広沢隆之 伽師地論に基づく梵蔵漢対照・蔵梵漢対照 仏教語辞典 山喜房、1997)。 Cf.谷口不二夫 現観体験の研究 (山喜房仏書林、2002年、p.211 84) 実叉難陀訳:月上菩 、不空訳:月上童真菩 実叉難陀訳:離憂闇、不空訳:摧一切憂闇 ここでは不空訳を採用した。蔵訳の意味は すべ ての憂いの闇を除く 。

P.rgyun gcad pa,D.rgyun chad pa 箭または矢は煩悩の別名である。 実叉難陀訳、不空訳:無所縁菩 いわゆる 教(agama) と 証(adhigama)である。 倶舎論> 定品 末尾に出る。 例えば凝然著 八宗綱要 倶舎宗 には、声聞は四諦を観じ、縁覚は十二因縁を観じ、菩 は 六波羅蜜を修すと述べられる(Cf.鎌田茂雄 八宗綱要 ―仏教を真によく知るための本― 講談社学術文庫、2006、pp.104-107)。 実叉難陀訳、不空訳:普見菩 竺法護訳:三品浄菩 、実叉難陀訳:浄三輪菩 、不空訳:三輪清浄菩 勒 摩提訳 究竟一乗宝性論 には 三輪清浄(Skt.tri-mandala-parisuddhi) という用例が ある( 大正蔵 31,No.1611)。竺法護訳 光讃経 ( 大正蔵 8,No.222)には布施波羅蜜と の関係で、 浄三品 が出る。初期の 般若経> にはこの概念はあまりでないが、後世の 大般 若経> 系統には 出する。当経のこの箇所は説法との関係で説かれることが特徴的である。法 施という え方である。竺法護訳には 三品浄菩 曰。其講説法浄三品場。何謂三場。不得吾 我。不想法会。不倚諸法。是曰三場清浄之業宣布法訓。 とある。ここの 三品場 三場 に 出る 場 の原語は Skt.manda(曼荼) と えられる。Skt.bodhimanda(道場)と同じ 訳し方。

実叉難陀訳、不空訳:成就行菩 蔵訳の意味を 趣の成就 である。 実叉難陀訳、不空訳:深行菩

D.gang la ston pa dang,P.gang la bston pa dang デルゲ版の読みを採用した。

実叉難陀訳:能説所説及与所為、不空訳:於彼若説若無説者於法無二 蔵訳は実叉難陀訳に近 い。 実叉難陀訳:無量諸菩 、不空訳:無量大威徳菩 等 大威徳 の繰り返しをどう理解するのか不明であるが、仮訳しておいた。 縁起説の還滅門を前提にした表現。 五位七十五法の無為法では、虚空(Skt.akasa)は抵触する色の欠如として定義されるので、 ここでは ありえない という含意。 実叉難陀訳:幻人、不空訳:幻師所幻 夫 漏尽の阿羅漢は、 維摩経> では 敗種 とされるように、現等覚する能力がない。 般若経> などに、六神通でなく五神通が出て、菩 が第六の漏尽通を証得しないのも同じことである。 阿羅漢は能力・資質の上で成仏できないし、菩 は利他心によって成仏しない。 実叉難陀訳:夢、不空訳:夢中 夫 いわゆる 色即是空、空即是色 という構文。

P.stong pa zhe bya o,D.stong pa o デルゲ版の読みを採用した。

P.yul ma ga da,D.yul ma ga dha 実叉難陀訳:摩竭国、不空訳:摩伽陀国 実叉難陀訳:如摩竭国量一 油麻、不空訳:摩伽陀国量一婆訶胡麻

マガダ国の胡麻についての計量は、 倶舎論> 世間品 の器世間の章に出る(Cf.山口益、舟 橋一哉 倶舎論の原典解明 世間品 法蔵館、pp.438-439、1955)。

P.til gyis bru gcig cig,D.til gyi bru gcig cig デルゲ版の読みを採用した。 P.ji lta ba de lta bur ni,D.ji lta ba de bzhin du ni

(14)

P.phyi na,D.phyin デルゲ版の読みを採用た。 P.rlags,D.brlags デルゲ版の読みを採用した。

P.bzhugs par kyang byas kyang,D.bzhugs par byas kyang デルゲ版の読みを採用した。 伝統的漢訳では 異門 である。

P.des snyed,D.de snyed デルゲ版の読みを採用した。 実叉難陀訳:なし、不空訳:仰 羅

実叉難陀訳:なし、不空訳: 末羅 実叉難陀訳:なし、不空訳:阿 婆

P.brtags te,D.btags te thag pa より、デルゲ版の読みを採用した。 P.rlags na,D.brlags na デルゲ版の読みを採用した。

P.zhes am / bya bar shes ba am,D.zhes bya bar shes pa am / デルゲ版の読みを採用し た。

phyi ma i mtha で未来を意味する。

P.rtogs par,D.gtogs par デルゲ版の読みを採用した。不空訳:唯除

実叉難陀訳:何有於此大智慧中不生欲楽。唯除下劣及怠者、不空訳:豈有於仏無尽大智不起 望。唯除下劣勝解及懈怠者。

無量寿経> では所謂 唯除五逆誹謗正法 と説かれるが、当経では 唯除下劣勝解及懈怠者 (不空訳)と説かれる。共に 大宝積経 所収の浄土経典であるが、両者の立場の相違がよく 出た箇所といえよう。

P.tshe tshad,D.tshei tshad デルゲ版の読みを採用した。

通常は声聞はサンガ、菩 はガナと関係する。ここでは 菩 のサンガ を出すので、出家を 中心とした菩 像である。当経に見られる出家の菩 像は、例えば 1.菩 が具えるべき一法 に確認できる(Cf.拙稿 文殊菩 の浄土経典 ―蔵訳 文殊師利仏土厳浄経> 第二函の和訳 研究― ( 仏教文化研究 58、2014、p.29ff.))。 因と果の不可思議を述べている。 実叉難陀訳:文殊師利大願不可思議。趣向亦不可思議。得菩提已寿量亦不可思議。菩 衆会亦 不可思議、不空訳:文殊師利不可思議。願亦不可思議。趣向亦不可思議。証菩提已寿命亦不可 思議。菩 衆会亦不可思議。 行動 の意味。実叉難陀訳:所修之行亦復広大、不空訳:所修行大

P.zla ba dang / phyed dang,D.zla ba phyed dang デルゲ版の読みを採用した。不空訳: 昼夜半月月時歳劫

時節、季節といった含意。

P.bye ba,D.なし 北京版の読みを採用した。

P.nam mkha i khams la rnams par rtog pa med pa i phyir ro,D.nam mkha i khams la rnam par rtog pa med pa i phyir ro デルゲ版の読みを採用した。

P.ci nas kyang mi rtogs,D.ci nas kyang mi rogs デルゲ版の読みを採用した。 実叉難陀訳:彼於諸法無想念故、不空訳:無有少想於法起者

P.tshig pa,D. tshig pa デルゲ版の読みを採用した。二十随煩悩の一つ。 虚空界は無為として存在する。

P.kye ba,D.skye ba デルゲ版の読みを採用した。 P.bdag,D.dag デルゲ版の読みを採用した。

Cf.Mvp.6411(149)Mahesakhya-mahesakhyah、〔漢〕大 自 在、或 称 大 自 在、〔蔵〕Dbang-che-ba ham dbang che bar grags、〔和〕Maha+ısa+akhya 大福徳の人と呼ばれるもの、大 福の人(Cf. 亮三郎 梵蔵漢和四訳対 翻訳名義大集 、国書刊行会、1981、p.414) 実叉難陀訳,不空訳:余大威徳諸天子等

(15)

【ngan ne ngon ne】ngan pa dang nyung ngui tshul(Cf.ZK.p.647a) 実叉難陀訳:なし、不空訳:当知不以少善根而能成就

不空訳を見ると、少善根の者が極楽往生できないという 阿弥陀経> の表現と類似する。 ・鳩摩羅什訳 阿弥陀経 舎利弗、不可以少善根、福徳因縁、得生彼国

・Skt.navaramatrakena saliputra kusalamulenamitayusas tathagasya buddhaksetre sattva upapadyante(Cf. 浄土宗全書 23、p.202) 普賢行願讃> や 入法界品 からは、文殊菩 の誓願行に随順する菩 が普通名詞 普く賢れ た菩 と読み替えられ、固有名詞化していく道筋が確認できる。 文殊と発心儀礼の関係を扱った論文に、山本侍弘(弘 ) Ambararaja(文殊師利)の発菩提 心 ―中観儀礼の一側面― ( 論集 32、2005)がある。 五眼(肉眼、天眼、慧眼、法眼、仏眼)の一つ。

P.sangs rgyas kyi chos kyi zhing,D.sangs rgyas kyi zhing デルゲ版の読みを採用した。実 叉難陀訳:世界、不空訳:諸仏及彼刹土

実叉難陀訳:浄戒、不空訳:浄戒律儀 不空訳:安住浄戒律儀

出家ないし阿蘭若の住への意欲のみでも勧めるときの定型表現。 三昧王経> を出典とし、 集 学論> に引用される。Cf.ツルティム、藤仲〔2007〕p.223,p.347 21

Skt.upanisad(類比)が Tib.rgyu(因)と訳されることは、ツルティム・ケサン、藤仲孝司 チベット 述金剛般若経 解脱に往く善き道・甚深なる義の明らかな太陽 ―チョネ・タ クパシェードップ著の和訳研究― (成田山新勝寺、2010、p.213)を参照。

実叉難陀訳:なし、不空訳:菩 平等照曜如幻相三摩地

P.byung ba,D. byung ba デルゲ版の読みを採用した。例えば 入法界品 での様々な善知識 の三昧を えるなら、現在時制が適していよう。 P. gyur te,D.gyur te デルゲ版の読みを採用した。 実叉難陀訳:一一仏前皆有文殊師利。説自仏刹功徳荘厳。衆会見已、不空訳:一仏前皆有文殊 師利。説自仏刹功徳荘厳。衆会見已。 本経典は、誓願、三昧、智慧の三つの内容とすることになる。 実叉難陀訳:於文殊師利殊勝大願生希有心、不空訳:於文殊師利勝願三摩地智而生奇特 後世に教法を流布伝持させるための委嘱が漢訳で流通 と称される。当経はここからである。 実叉難陀訳:なし、不空訳:諸仏遊戯 実叉難陀訳:なし、不空訳:不可思議願 実叉難陀訳:なし、不空訳:仏刹功徳荘厳 実叉難陀訳:なし、不空訳:発菩提心令歓喜 実叉難陀訳:なし、不空訳:各還本土 不空訳:奇哉 P.dang,D.deng デルゲ版の読みを採用した。 有情の生の 体 を 世間(Skt.loka) と呼ぶ点については、櫻部 有情・人間・業 ( 阿含の仏教 、文栄堂、2002、p.42)を参照のこと。 P.kyis,D.kyi 北京版の読みを採用した。 P.shi len dra na bo dhi,D.shılen dra bo dhi

このあたりの事情は、御牧克己 チベット語仏典概観 ( 北村甫教授退官記念論文集 チベッ トの言語と文化 、冬樹社、1987、pp.279-280)を参照のこと。以下のとおりである。

翻訳名義大集 に用いられた訳語を決定訳語として以後これに従うべきことが勅令によ って決定されたので、これらの訳語を 決定訳語(skad gsar bcad) といい、これ以前に 訳出されていた経典も改めてこの欽定の 決定訳語 により改訂を受けることになった。 当経の翻訳者の一人であるイェシェデは、 翻訳名義大集 の編纂者の一人でもある。彼は 翻

(16)

訳名義大集 の編纂完成以前から当経の翻訳に従事しており、編纂完成後に改めて当経を 訂 したことになる。 〔主な参 文献〕 香川孝雄 ・ 無量寿経の諸本対照研究 (永田文昌堂、1984) ツルティム・ケサン、藤仲孝司 ・ 悟りへの階梯 (UNIO、2005) ・ 解脱の宝飾 (UNIO、2007) 長井真琴訳 ・ 宝積部三 ( 国訳一切経印度 述部 、大東出版、1971(初版1930)pp.257-303)→唐実叉難 陀訳を扱う。 中村元、増谷文雄 ・ 大乗仏典抄(二)本願と浄土 ( 仏教説話体系 29、鈴木出版、1985) 藤田宏達 ・ 梵文和訳 無量寿経・阿弥陀経 (法蔵館、1975) ・ 浄土三部経の研究 (岩波書店、2007) 光川豊藝 ・ 文殊菩 とその仏国土 ― 文殊師利仏土厳浄経 を中心に― ( 仏教学研究 45・46合併号、 pp.1-32、1990) 望月信亨 ・ 浄土教の起源及発達 (山喜房仏書林、1972) 山本侍弘(弘 ) ・ Ambararaja(文殊師利)の発菩提心 ―中観儀礼の一側面― ( 論集 32、2005) 〔付記〕 藤仲孝司氏に数々の御教示を頂戴した。 (なかみかど けいきょう 非常勤講師) 2014年10月21日受理

参照

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