• 検索結果がありません。

対抗的生存戦略の先で切りひらかれる生

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "対抗的生存戦略の先で切りひらかれる生"

Copied!
21
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

論 文

対抗的生存戦略の先で切りひらかれる生

―梨屋アリエ『スリースターズ』における三つの在り方の相違から―

小 林 夏美

はじめに

ヤングアダルトという位置取りは、子どもから大人へ、という成長過程に過渡的 存在を見出し、その存在を子ども・大人のカテゴリーから差異化することで出現 するものである。アメリカの思春期文学研究者であるRoberta Seelinger Tritesは、

このヤングアダルトという位置取りに置かれた若者を扱うヤングアダルト文学を、

より広い思春期文学というジャンルの一部と捉え、そこに描かれる「思春期の若者 は、思春期の間に、権力構造の中での自らの立場[place]を学ばねばならない」1 という課題を負っていると論じた。

Tritesの議論は、社会的位置取りをめぐる権力と抑圧とのかかわりからヤングア

ダルトの若者の姿を捉え、同観点からヤングアダルト文学を読み解く端緒を開いた という点で、重要なものである。だが他方、この議論は、思春期の若者が学ぶ課題 とされる「自らの立場」が、単に既存の社会内に包摂されたものとしてしか捉え得 ないものなのか、それとも、位置取りの再配備とともに、常に既に在るのではない4 4 4 4 4 ものとして思考し得る可能性を有しているかの見極めについては、踏み込んでいな い。Tritesの指摘した、思春期の若者が学ぶべきとされる課題の根底に、Trites 身も「アメリカでは、思春期の若者は、ある居心地の悪い境界的な[liminal]位置 を占めている」2と述べているような、存在を不安定化させる世界からの疎外感が あるとすれば、その状況の打破にかかわる前述の二点を見極めることは、重要であ ると考える。

本論文の扱う梨屋アリエ『スリースターズ』(講談社、2007、以下、本作品と記 す)は、宮入弥生、浜田愛弓、鈴木水き ら ら晶という三人の女子中学生が、家でも学校で も疎外感を覚え、死への意識にさらされて生きる中、携帯電話を通じて知り合い、

やがては自分たちを疎外する間違った世界を革命するために自爆テロを行おうとす る展開を、三人称で語るものである。弥生の先導によって進行する自爆テロの企て は、疎外感からくる存在の不安定化を、世界への意趣返しによる自己肯定という形 で解決しようとするものと考えられる。自らの生存を賭け、社会内への包摂に対し

(2)

て明白な拒絶を示しているという点で、弥生のこの戦略を読み解くことは重要であ る。だが、本作品は展開をここで終わりにせず、その先に、水晶のさらなる思考の 変化を描いている。この変化によって水晶がつかむ生は、単に既存の社会に包摂さ れるのでも、また、弥生のように社会をひとまとまりに拒絶するのでもない、第三 の方向性を示すものと考えられるが、この在り方を読み解くには、Tritesの踏み込 んでいない、前述の二点の相違を見分けることが重要となる。

本論文では、本作品が焦点化している三人のうち、特に弥生と水晶の二人に焦点 をあて、両者のとる在り方の相違を検討することで、本作品が疎外感からくる存在 の不安定化の打破を、いかなる形で描いているかを論じる。その際、起点として、

本作品冒頭で弥生の怒りの対象として提示される、藤崎三咲季という、いま一人の 中学生の選んだ在り方をまず確認したい。その上で、弥生と水晶のとる在り方の相 違を読み解くことを中心に、三咲季も含めた三者それぞれの在り方の相違を論ずる ことを通じて、思春期の若者が学ぶべきとされる「自らの立場」にかかわる、前述 の二点の相違を考察する。これにより、Tritesの議論をさらに一歩、深めることを 試みたい。

1. 三咲季の選択

本作品の展開の大半は、弥生が中学二年生、愛弓と水晶が中学三年生の時点での ものだが、全七章中はじめの一章のみ、弥生が小学五年生の夏休みに、近くに住む 中学一年生の藤崎三咲季に誘われて行った家出の顛末を語るものとなっている。冒 頭に置かれるこのエピソードは、三咲季との対比によって弥生の境遇を鮮明化する とともに、家出に誘っておきながら最終的には弥生を切り離す三咲季の姿を、弥生 の怒りの対象として描くことで、後に弥生がとる戦略、および、その先で水晶がつ かむ在り方のもととなる、問題の所在を提示していると考えられる。そのため本節 では、家出の結末で三咲季が選択する在り方を確認し、三咲季のその選択が、弥生 との関係においてどのような意味をもつかを検討する。

1–1.

 三咲季の断念

まず、家出の前提条件となる、三咲季の置かれた状況を確認する。三咲季は家出 の発起人ではあるものの、家族との間にとりたてて軋みはなく、友人も多く、一見 すると満たされた生活を送っている。この点は家出の顛末においても、両親が帰ら

(3)

ない娘を心配して捜索願を出し、娘からの電話を受けた後すぐに迎えにくるという 描写に表れており、三咲季は「寝ずに心配してくれる親がいて、愛に満たされた家 庭があって、友だちにも好かれている」(20)3人物とされている。三咲季自身、こ のことに自覚的であり、家出を諦めて家に電話し、その後警察に保護されたとき、

大人たちに胸中を吐露する中で、「とくに家族に不満はないし、きっかけになった トラブルも動機もない」(18)ことを認めている。

しかし、この満たされている現状を自覚していてなお、三咲季は家出をするに 至ったのであり、三咲季の身の内には、家出へと駆り立てる衝動も存在している。

三咲季は、家出につながる具体的な動機はない、という先の言葉に続けて、「きっ と、違う自分になりたかったんです。なんとなく、今の自分は“違う”と感じてい たから」(18-19)、「なんとなく、家出をしたら、変われそうな気がしたんです」(19)

とも述べる4。三咲季自身が自覚しているのはこの漠然とした違和感のみだが、本 作品の語りは、この違和感のもとに、三咲季が「センスの上ではちょっと変わって いた子」で、「みんなと同じようにしているつもりでも、いつの間にか違っている子」

(8)だということがあることを示唆している。「いつの間にか違って」しまうとい う、身の内に異質さを抱える経験は、周囲との間に軋みを生むには至らないとして も、そこはかとない疎外感として積み重なり得る。三咲季の家出は、この疎外感が、

弥生という道連れを得たことで顕在化したものと考えられる。

では、道連れとなる弥生はどのような状況にあるのか。弥生の境遇は、三咲季と は対照的なものとして描かれている。レストランチェーンの社長を父にもつ弥生は、

金銭的には何不自由なく暮らしているが、両親の興味は「会社を大きくすることと 自分のこと」(21-22)にばかり向いており、「パパやママから叱られたことがない。

抱きしめられた記憶も、ずいぶん遡らないとない」(21)という放任状態の中にいる。

弥生は時折両親への愛着をうかがわせる言動をみせるものの、基本的には周囲に冷 めた姿勢をとり、この家出以前にもそれなりの非行歴をもっている。そうした娘を 母は疎み、父は基本的に無関心で、警察沙汰になったときだけ部下を使って事務的 に処理をする。弥生自身も、両親が自分にほとんど関心を払っていないことを自覚 している。実際、この家出においても、両親は弥生が家出したことにさえ気づいて おらず、弥生はそれを察して、保護された際に家に電話をするよう促されても、連 絡を渋っている。非行が多く、嘘をよくつく弥生には友人もいない。

こうした状況下にある弥生が、多くの相違をもつ三咲季と接点をもち、家出の誘 いに応じたのは、三咲季との間に「夜のコンビニにひとりで来ている子という共通 点」(5)があったためとされる。この共通点は、前述した、三咲季の抱える疎外感 の存在を浮き彫りにするものと考えられる。弥生は、友人に囲まれた昼間の三咲季

(4)

の姿には強い隔たりを覚える一方、夜のコンビニでみる「家に帰りたくないなあと いう雰囲気」(19)で一人でいる姿に「同じ生き物っぽ」(5)さを覚えたことで、

三咲季と接点をもつことを受け入れている。隔たりを覚えるほど大きく異なる境遇 にある二人を結びつけた、三咲季の「夜のコンビニにひとりで来」るという行為は、

一見満たされてみえる三咲季の中に、弥生の境遇とつながり得る疎外感が存在して いることを暗示するものと捉え得よう。

既に述べたように、この「夜のコンビニにひとりで来」るという行為に示される、

三咲季の抱える疎外感は、弥生という道連れを得ることで、家出という形で顕在化 する。重要なのは、この疎外感の顕在化の舞台であったはずの家出が、三咲季がそ の日の夜に早々に家出を断念し、両親の庇護のもとでの、それまで通りの生活へと 自ら舞い戻るという結末を迎えたとき、むしろ、抱えていた違和感を気の迷いとし て片づける場へと転換されているという点である。警察に保護された二人のもとへ 三咲季の両親が駆けつけ、三咲季が先に帰ることになったとき、三咲季が「左右の 肩に両親の手をそれぞれ乗せられた姿で」、「ごめんね。あたし、ヤヨちゃんみたい に、強くなれればよかったのに」(20)と言う姿をみて、弥生が得る次のような「直 感」は、この転換を察知したものと考えられる。

三咲季はこの世界に違和感を感じながらも、きっとうまくやっていくのだろう、

と弥生は直感した。なぜなら、彼女は“違う”と感じていても、みんなに愛さ れているのだから。三咲季のしたかった家出は、愛されている子が愛情を確認 するためのイベントだったのだ。(20-21)

弥生のこの「直感」を裏づけるかのように、後日書かれた弥生宛の手紙の中で、

三咲季は、両親の愛情を軽視し、軽はずみに家出した自分の至らなさを反省してい る。家出によって一度は顕在化したはずの「世界」への「違和感」は、こうして三 咲季自身が家出を「愛されている子が愛情を確認するためのイベント」にしたとき、

再確認された愛によって、ふたたび形を失い、追いやられる。この愛自体は、もし かしたら世界への違和感の突きつめと両立し得るものかもしれないが、少なくとも 本作品の展開上、三咲季はその可能性を模索する労をとらない。現状ではそこなわ れているかもしれない「違う自分」の生存可能性を断念することを代償に、「愛さ れている子」という一定の安定が約束されたそれまでの位置取りを再確認し、それ をふたたび甘受することを選択するのである。

(5)

1–2. 置き去りにされる弥生

三咲季の行ったこの選択を、本作品全体の展開の中で考えたとき、重要なのは、

家出をめぐる三咲季のこうした行為が、三咲季個人のみにかかわるものではなく、

弥生をも巻き込んだものとして展開している点である。そもそも、本作品が焦点化 しているのは三咲季ではなく弥生の方であり、この家出の顛末も、基本的に弥生の 視点に添う形で語られている。そのことによって本作品が浮かび上がらせるのは、

家出の結末においてなされる三咲季の選択が、疎外感に苛まれる弥生にとって唯一 といってよい形で共通点を差し出すものであったはずの家出を、「愛されている子 が愛情を確認するためのイベント」(21)という「茶番劇」(16)に変えることで、

弥生を置き去りにするものとなっているということである。三咲季自身は、この選 択によって「愛されている子」という安定した地位を得ることができる一方、三咲 季のようには「愛情を確認」できない弥生は、むしろ不安定さを増した形でとり残 される。家出の結末において、両親の迎えを得た三咲季が発した「ごめんね。あた し、ヤヨちゃんみたいに、強くなれればよかったのに」(20)という言葉は、弥生 との相違を強調して二人の間の線引きをし直すことで、弥生を自身とは異なるもの として外部化し、切り離すことで自身の安定を図るものであると考えられる。

こうして弥生を切り離し、置き去りにする三咲季の選択に対し、弥生は当初、明 白な怒りを示す。弥生は、先に引用した三咲季の発言を耳にした直後、家出中に三 咲季と「ネイルシールでおそろいにした爪」(21)を目にしたとき、「突き上げるよ うな怒り」(21)を覚えるが、「一緒だね」(12、21)と二人で通じ合うものを確認 し合った証としての意味をもつネイルシールを契機に生じたこの怒りは、三咲季が 一度は弥生との共通点を認め、自分から家出に誘ったにもかかわらず4 4 4 4 4 4 4、それを茶番 化し、自らの保身と引き換えに弥生を置き去りにしたことに対するものであると考 えられる。そして、注目すべきは、このとき噴出した怒りが、「死んでしまえばいい。

みんな4 4 4、いなくなればいい!」(21、強調は引用者)という、三咲季だけではなく、

周囲の世界全体への呪詛として弥生の胸中に渦巻いているという点である。孤立無 援の疎外感に苛まれる中、自分に目を向け、共通性を差し出したかに思えた三咲季 の存在は、弥生にとり、疎外されずに生き延びる可能性を示唆する唯一のものであっ たといえる。怒りが世界への呪詛の形をとったのは、その可能性を三咲季の選択に よって断ち切られることが、その可能性が唯一のものであったがゆえに、三咲季と の間の単なる個別具体的な出来事としての意味を超え、世界全体が弥生を置き去り に進んでいくことを確証する行為として、弥生を襲ったためと考えられる。

(6)

1–3.

 死の恐怖

ここで、三咲季の選択の意味が世界全体による置き去りへと拡張されていること は、三咲季の選択が、家出の一件にとどまらず、弥生の在り方自体に大きな衝撃を 与えるものであることを示唆していると考えられる。家出の一件のみ、三咲季のみ に対しては怒りとして噴出したこの衝撃は、それが世界全体とのかかわりの中での 絶望をも意味するがゆえに、やがて諦念へと変わり、さらに後には、置き去りにさ れることで存在が不安定化され、社会的生が脅かされることへの恐怖を伴った、行 動力の衰退――生き延びるために存在を極力消すという在り方――へと転換され て、その後の弥生の生の根底に深く刻まれていく。

本作品の展開の大部分を占める、中学二年生の時点での弥生の当初の姿は、この 苦境下で、「世界中から置き去りにされたような心細さで、孤独に窒息して、気が 狂いそうになる」(98)瞬間に恐怖しながら生きるものとして提示されている。そ の中で、弥生は、たとえば、置き去りにされる意味を「弥生の特別さにちっとも気 づかない」(91)周囲の愚かさのせいに読み替え、周囲を見下す冷笑的態度をとる ことで自己肯定を行おうとし、あるいは数多くのメル友との膨大なメールによって、

置き去りにされる感覚を覚える瞬間を埋めようとし、またあるいは、見知らぬ人の 葬儀で遺体の写真を撮って自身の管理するブログ『死体写真館』にアップし、その 行為の「冒瀆」(88)性によって世界に干渉する自身の力を確認しようとすることで、

状況を打開しようとするが、それは裏を返せば、そうして払拭する努力をし続けね ばならないほど、常に恐怖が弥生を苛んでいるということである。弥生の生は、置 き去りにされることへの恐怖によって規定されているのであり、この恐怖は、弥生 の社会的な生死を左右する切実なものとして描出されている。

この点をより明示するのは、この恐怖が一つの極みに達する、三咲季の失火死に 直面したときの弥生の姿である。火事の現場を目にした弥生は、帰宅後、動揺を鎮 めようと、この火事に対し自分は「なにも感じていない」(106)のだと必死に自分 に言い聞かせるが、それでも払拭し得ないほど、強い死の恐怖に襲われている。こ れは、弥生が家出の一件を経てなお、三咲季に対して半ば無自覚に抱いていた、「い つかまた、あの一瞬を思い出した三咲季が目の前に現れて、「家出してみたくない?」

と弥生を誘ってくれる日」(313)がくるかもしれないという期待が、三咲季の死に よって完全に断ち切られたことで、置き去りにされる感覚が、より決定的なものと して弥生を襲ったためと考えられる。既にみたように、家出の結末で三咲季が行っ た選択は、弥生を外部化し、置き去りにするものだが、その一方、それを「直感」

した弥生の、「三咲季はこの世界に違和感を感じながらも4 4 4 4 4 4、きっとうまくやってい

(7)

くのだろう」(20、強調は引用者)という言葉に奇しくも表れているように、違和 感はそこで消滅するのではなく、三咲季の生の中に存在しながら4 4 4 4 4 4置き去りにされる ものとして想定されている。だが、三咲季が「あの一瞬を思い出」さないまま死ん でしまえば、違和感は、その可能性自体がなかったこととして、三咲季が「未来と 引き替えに」得た「無償で愛される地位」(148)の裏に葬られる。三咲季の死は、

弥生にとって、三咲季個人の死であると同時に、世界が弥生を置き去りにせずに在 る可能性を信じる最後の希望の消滅を意味し、弥生自身の社会的死をも暗示するも のであるといえよう。

三咲季の死以前に弥生が覚えていた恐怖においても、根底には、この生死にかか わる切実さが存在していると考えられる。本作品は、弥生を置き去りにする三咲季 の選択を描く家出のエピソードを冒頭に置き、それをこの弥生の恐怖の発端として 示すことで、三咲季の選択した在り方が内包する問題を、起点として提示している と考えられる。

2. 弥生の戦略

本作品の展開の一つの中心をなす、行動力を削がれ、死への恐怖に苛まれながら 生の基盤をつかもうとする弥生の苦境は、本作品が起点として示す、三咲季の選択 が抱える問題を身に引き受けた姿と捉え得る。この苦境下で、弥生は一つの生存戦 略を思い描くに至るが、それは、三咲季の選択した在り方に対する、一つの対抗的 な戦略として提示されていると考えられる。本節では、まず、生存戦略へとつなが る弥生の行動力の再起が何に支えられているかを確認し、その上で、弥生のとる生 存戦略がいかなるものであるかを検討する。

2–1. 愛弓と水晶への苛立ち

前節の最後でみたように、弥生の恐怖は三咲季の死に直面することで極みに達す るが、その一方、その後の展開では、弥生はこの恐怖を引きずりながらも、集団自 殺や自爆テロへと愛弓と水晶を誘導し、それを通じて世界への意趣返しを行おうと する行動力を得ている。家出の一件で既に行動力を削がれて消極的な在り方をとり、

三咲季の死によってさらなる絶望を経験した弥生が、こうして行動力を再起できた のはなぜなのだろうか。

弥生が意趣返しへと向かう原動力の一つには、弥生が三咲季の死を引きずる状況

(8)

の中、携帯電話を通じて目にした、愛弓と水晶の発する「生きててもしょうがない」

(104)、「もう死にたい」(108)といった死を示唆する言葉が、本当に死ぬ気はない と思えるような言動とともに用いられ、軽々しく感じられることへの苛立ちがある と考えられる。たとえば、メール越しにしか知らない弥生を男と勘違いして恋に落 ちた愛弓は、弥生宛のメールで死を示唆する言葉を綴る一方、「熱烈なラブメール」

(145)を幾通も送る。直接顔を合わせたときには、弥生の「ホントに死ぬ?」(151)

という質問に対し、「お、お望みとあれば……でも、死なないでって言われたら、

たぶんすぐには死なないと思うけど」(151)と優柔不断さをみせ、媚びを売る方便 に死を用いている可能性を匂わせている。また他方、水晶のブログには、弥生の目 からみれば「くだらない愚痴の形をした自慢」(109)に思えることばかりが書き連 ねてあり、「もう死にたい」と言う割に、水晶は「みんなは汚れても自分だけは汚 れない、と自信たっぷりで生きているタイプに見える」(109)。

愛弓や水晶による、こうした死を示唆する言葉の方便とも思える使用は、三咲季 の死を引きずり、死の恐怖にさらされて生きる弥生にとり、死の間際に佇む切実さ を軽々しいものにすることで、弥生を置き去りに進行していく世界に加担する意味 をもつと考えられる。弥生は、二人のそうした言動に対する「死にたかったら、さっ さと死ねよ」(147)という苛立ちを、二人を集団自殺という形で本当に自殺させ、

あわよくばその遺体の写真を撮ってブログに載せることで解消しようとする。自殺 の実現は、方便を現実のものにして発言の責任をとらせることで、二人への行為を 通じて、弥生を無視して進行する世の「不条理」(148)さに間接的に意趣返しする ものと考えられるが、この行動力のもとには、愛弓や水晶の言葉に覚えた苛立ちが あるのである5

2–2. 窮状の重なりによる存在肯定

だが、単に苛立ちを覚えただけでは、極力存在を消すと同時に周囲を見下し、冷 笑的態度で他人との間に距離を置いていた弥生に、明白な行動力を生じさせるまで には至らなかっただろう。やがては自爆テロの企てにまで発展する弥生の行動力の 再起には、はじめは愛弓との、そして後の展開においては水晶も含めた三人の間 の、社会的生死のかかった窮状にあるという重なりが下支えとなっていると考えら れる。前述したように、弥生は愛弓と水晶の死を示唆する言葉を信憑性のないもの と考えるが、一方、弥生だけでなく愛弓と水晶それぞれの境遇を、それぞれの視点 に添って語る展開をもつ本作品は、弥生が軽々しいものと断じた二人の姿勢の裏に、

死の意識と隣接した苦境があることを描出している。

(9)

愛弓は気まぐれな両親によるネグレクトの中で、満足な食事をとれず、愛情と食 事に飢えながら暮らしている。おごってくれる異性との恋愛は両方の飢えを満たし てくれるものであり、愛弓の関心は、学校でも、それ以外の場所でも異性との関係 へと向かっている。これは、「エロカワイ」(38)い容姿をもち、ノリのよさも培っ てきた愛弓が生き残りをかけてとる戦略と考えられるが、その一方、愛弓はお金の ために愛もなく性関係をもつことには忌避感を覚えている。この生存戦略と貞操観 念との間での板挟みによって、愛弓は混乱状態へと陥る。生き延びるための武器で ある異性の関心を惹く身体は、学校で多くの女子からの冷遇を招き、後には唯一の 親友である鈴との間にも亀裂を走らせて、「男と見れば、手当たり次第」(42)な女 だという噂を流される事態を招く。加えて、両親ともに愛弓を置いて長期間家を空 ける中、空腹に耐えかねた愛弓は、なりゆきで好きでもない知人男性と性関係をもっ てしまう。これを機に、愛弓は自分の身体を「汚れている」(153-154)と感じるよ うになり、他にも手段はあったはずなのに誘いに乗った「自分は根っからのいやら しい人間なのではないか」(153)との疑念を深めていく。一方で、愛弓は自分を受 け入れ救ってくれる運命の人を待ち望み、異性との恋愛に生き延びる可能性をつな ごうとするが、他方、「男子が大好き」(45)であることが、愛弓が「根っからのい やらしい人間」であることを証明するものに思えて絶望する。弥生には軽々しい態 度に思える愛弓の言動の一貫性のなさの裏には、こうして生と死の間を激しく行き 来する意識が存在している。

一方水晶は、「エリート夫婦の、たったひとりの子ども」(77)で、娘もエリート への道を歩むのが最上と信じている両親、特に母親の方針で、塾や多くの習い事に 通い、分刻みのスケジュールを送っている。努力は報われると信じ、実際に成果に 結びつけて一定の評価と信頼を築き上げてきた自負のある水晶は、当初は管理され た生活を両親の愛情として受けとめ、感謝していたが、合唱コンクールのピアノ伴 奏を引き受けたことをめぐって意見が対立したことをきっかけに、「自分は、お母 さんやお父さんが愛と呼んでいる暗闇に包まれている」(119)ことを自覚する。限 定的にしか自分の存在を認めてくれないこの「愛」の息苦しさへの自覚と並行して、

それまで優等生として自信をもって過ごしていた学校での生活も、友人関係のもつ れが深刻化し、居心地の悪さを増していく。弥生のみたブログの「もう死にたい」

(108)という言葉は、こうした状況下で精神的に追い詰められていく中、自分なん か「消えてしまえばいいのかもしれない。学校でも家でも、水晶を認めてくれる人 はいない。そんな鈴木水晶なんて目障りだ」(112)と思い、衝動的に学校の屋上の 時計台に上って飛び降りようとしたときに書き込んだものである。弥生が「くだら ない愚痴の形をした自慢」(109)と断じたものは、それ以外の在り方が許されない

(10)

中で生きてきた水晶にとって、おいそれとは棄てられない存立基盤であり、そのプ ライドがゆるがされることは、死の決意につながるほど存在を脅かすものとして描 写されている。

愛弓と水晶は、置かれている環境には大きな相違があるものの、二人とも、存在 を脅かされる中で生を求め、その生への希求が死への意識に反転するという、生と 死がもつれあった混乱状態に陥っている。弥生が軽々しいものと断じた二人の言動 の一貫性のなさは、この状態の反映と考えられ、苦境の中で、死への意識にさらさ れながら生き延びようと足掻いているという意味で、二人の陥っている状況は弥生 のそれと通じ得るものである。弥生は二人をうまく自殺させようと、ときに優しく 甘い言葉をかけるが、二人が弥生の言葉にすんなり釣られて掌握されるのは、どち らも弥生と通ずる窮状に陥っており、存在を認めてくれる言葉を渇望しているから こそだといえよう。

そして、弥生自身、この三人の窮状の重なりから、自己肯定の基盤を得ていると 考えられる。前節でみたように、弥生は三咲季の死によって恐怖の極みに達するが、

弥生をその極度の緊張から解き放つのは、愛弓から送られてきた「わたしは841(引 用者註:弥生のハンドルネーム)さんが好きです。好きになってしまいました」(106)

というメールである。弥生ははじめ、このメールに戸惑うが、すぐにこの戸惑いを 笑いに転換させ、その笑いによって緊張を解いて死の恐怖から逃れる。弥生がはじ めにみせた戸惑いは、愛弓がここで示しているような、弥生の存在を肯定する言葉 との出会いが、戸惑うほど稀有な経験であることを示唆している。死の恐怖が極み に達した状態で差し出された、この稀有な肯定が、弥生の行動力の再起の最も根底 にあると考えられる。

愛弓の差し出したこの好意は、弥生との窮状の重なりに支えられて生じていると 考えられる。愛弓は前述のメールの直前、弥生に、意にそまぬ性関係をもってしまっ たことを悲観して「生きててもしょうがない」(104)と嘆くメールを送り、弥生は それに「死んだほうがましなことって、いっぱいあるよ。死は最後の優しさだよ」

(105)と返信している。愛弓が弥生への好意を確信するひと押しとなったであろう 弥生のこの返信が、三咲季の死亡した火事をみた直後になされていることを考える と、愛弓の示した好意は、弥生の意図如何にかかわらず、二人の窮状が共鳴したこ とで生じたものと考えられる。弥生に対する愛弓のこの好意は、対面して弥生が同 性であると知ってから後も、恋愛の形こそとらなくなるものの存続する。また、後 に弥生の「重たかった気分」(175)を解消させ、弥生の自己肯定感を支えていく水 晶からの「リスペクト」(175)も、同様の形で醸成されたと考えられる。弥生自身 は無自覚であるものの、弥生の行動力の再起には、こうした三人の窮状の重なりか

(11)

ら生じた弥生への存在肯定が、重要な役割を果たしているといえよう。

2–3. 対抗的生存戦略

弥生は、こうして得た行動力をもとに、愛弓と水晶を集団自殺や自爆テロへと誘 導することで、自身を疎外する世界への意趣返しを企てる。自爆テロは、家出の一 件以来弥生の内に巣食っていた、「世界が、弥生に関係なく、動いている」(291 感覚からくる「死の恐怖」(234)を、テロという形で世界へと突き返し、反転させ て、今度は自身が畏怖を伴った注目――水晶の言葉を借りれば「リスペクト」――

を集める上位の地位につくことで、克服するものであると考えられる。この展開に おいて重要なのは、テロの計画を進める中で、弥生が、愛弓と水晶には内緒で自分 の分の爆弾だけ時限式にするよう画策し、自分だけが「世直しを企てた少女革命家 らの、たったひとりの生き残り」として「世界の注目する中で逮捕され、伝説にな る」(311)ことを目指すようになるという点である。弥生が最終的にとるこの戦略 は、単なる意趣返しとしてだけではなく、生存4 4戦略の意味をもつ。これは、それま での企てが、たとえ意趣返しの意味を多分に含んでいたとしても、意趣返しの代償 として、「どかんと華々しく死んでやろうじゃないの」(208)と自らの死を容認す る姿勢を含んでいるのに対し、この戦略は、自らが生き延びることを明確に志向す るものとなっているためである。こうして生き延びる方策として提示されることで、

弥生のこの戦略は、本作品が起点として示した、家出の結末において三咲季が選択 した在り方がはらむ問題に対する、ひとつの対抗的な在り方を示すものとなってい ると考えられる。

自らの死の容認から生への執着へという、弥生のこの意識変化に関して重要と思 われるのは、集団自殺から自爆テロへと作戦変更する際に弥生がした次の発言に示 される、ネガティヴからポジティヴへの思考の転換である。

「なんかさぁ。人に迷惑かけないように、ひっそり死んでいくって、違うと思 わない? だってさ、あたしらが死ぬのって、あたしらだけが悪いの? 今 どっかで誰かが死んでも、ほかのやつらはへとも思っちゃいないのと同じでさ、

自分に関係のないことなんて、あっという間に忘れられちゃうんだよ。そんな の死に損じゃないのかな。どうせ死ぬなら、自爆テロみたいなので、みんなを 巻き込んで華々しく死んだほうが、意味のある終わり方って感じじゃない?」

(198-199

(12)

この発言が示すように、集団自殺から自爆テロへの転換は、弥生を含めた三人そ れぞれが陥っている、死への意識を伴うほどの、苦痛をもたらす世界からの疎外感 の要因が、順応できずに疎外される自身にあるのではなく、世界自体にあるとする 思考の転換を伴っている。これは、疎外感を抱える自分への自分自身の4 4 4 4 4まなざしを、

否定的なものから肯定的なものへと読み替える契機となるものであり、実際、この 転換とともに、三人の集まりにつけられた名前は「ウザイの三人で、ウザ・サンズ」

182)というネガティヴなものから、「オリオン座の目印の星みたいに、三人のス ターっていう意味で、スリースターズ」(207)へと変更されている。前項で、弥生 の行動力の再起が、愛弓や水晶との窮状の重なりによって得た存在への肯定感に支 えられていることを確認したが、ここにみられる、自分(たち)を自分(たち)自 身が肯定的に捉えようとする姿勢は、そのさらなる顕在化といえよう。弥生の生存 戦略は、この自己肯定を極度に肥大化させたものと考えられる。この否定から肯定 への思考の転換は、三咲季が家出の結末において選択した、軽はずみに家出した自 分の未熟さを反省する、ネガティヴな姿勢を伴った在り方には見出し得ないもので あり、この点において、この転換の先にある弥生の戦略は、三咲季の選択した在り 方に対し、対抗的戦略として位置づけ得るものであるといえる。

だが、ここで注意したいのは、弥生の思い描く「世直しを企てた少女革命家らの、

たったひとりの生き残り」という地位は、たしかに一種の反転を伴うものの、弥生 自身が冷静に予想しているように、「逮捕者」(312)という形で、なお否定的位置 づけを含んでいるという点である。弥生は、逮捕されてもその後に自分たちを模倣 した事件が繰り返されるだろうことで、その反復性によって「永遠に生き延びてい く」(313)ことを夢想し、そこに肯定的可能性を見出そうとするが、弥生の夢想す るその模倣は、逮捕されることの反復でもあろう。弥生の戦略は、対抗的位置をと るがゆえにいわば進んで否定を身に帯びる行為であり、結局は、予め構造的に定め られた外部の位置取りを甘受しているに過ぎない。それゆえ、自己肯定を獲得した はずの弥生の戦略においても、世界から疎外されることで生じるネガティヴさは、

依然として存続している。世界からの疎外を打破するためには、こうして某かのネ ガティヴさを身に帯びることを受け入れねばならないのだろうか。

3. 水晶の変化

終盤の展開における水晶の思考の変化は、この問いの行方を担うものと考えられ る。既にみたように、水晶は皆の期待や要望に応えるべく全力で努力しているにも

(13)

かかわらず、「学校でも家でも、水晶を認めてくれる人はいない」(112)状況に絶望し、

集団自殺の誘いに応じて弥生や愛弓と出会う。当初の水晶は、その絶望を集団自殺 や自爆テロという形で社会的なものにする意識をもつ弥生に心酔し、計画を進める ことで自身の正当性を証明しようとするが、作品終盤で、三人の結束をゆるがすよ うな偽名疑惑――水晶と愛弓が、それまで呼び名に使っていたインターネット上の ハンドルネームではなく、本名を書いたスリースターズの誓約書に、弥生は藤崎三 咲季の名を借りて署名する――が浮上してから後、その真偽を探る過程で急速に思 考を変化させ、弥生とは異なった方向性を見出していく。本節では、そうした水晶 の変化に焦点をあてることで、弥生の生存戦略の限界の打破を本作品がどのような 形で提示しているかを検討する。

3–1.

 均質的世界像の打破

先に述べたように、水晶の思考の変化は、弥生(水晶や愛弓にとってはミサキ)

の偽名疑惑が浮上することを発端として展開する。疑惑は、弥生が名前を借りた藤 崎三咲季の失火死を伝える新聞記事が水晶と愛弓の手に渡ったことで生じるが、こ の疑惑は、それまでの水晶の行動力と自己正当化を支える基盤であったスリース ターズ、とりわけ、計画を先導しているミサキの絶対性に疑念を差し挟むものであ る。この疑念によって生きる支柱をゆるがされ、愛弓とともに事の真偽とミサキの 真意を探るようになることで、水晶はミサキや自爆テロの企て、そして、スリース ターズという、死を望むほどの苦境から自らを救い上げ、「生きてる意味」(275)

を保証した結びつきのことを、より客観的な形で再考することになる。この再考の 機会を得たことが、水晶の思考の変化を促し、やがては、自爆テロという形で、世 界を「わざわざ壊して顕示することが、わたしたちの何になるというんだろう」(324)

という思いを抱くことにつながっていく。

水晶のこの思考の変化を支えるものの一つとして考えられるのが、学校や家での 生に絶望し、自爆テロの正当性を信じていた頃には、均質的で、だからこそ水晶を 疎外するばかりに思えた世界が、実際は必ずしも首尾一貫しているわけではなく、

複数性を伴っていることへの気づきである。水晶は、ミサキの本名を探る一環とし て、ミサキと同じ中学に通う愛弓の元カレ(岩井紺)の弟と会う機会を得るため、

紺の曾祖父である名護の経営する古本屋で、愛弓と紺とともにアルバイトをする。

そこで「陽気で単純そうな夢想家の岩井紺や、少年のような目で文学論を語ってく れた名護さん」(296)と出会ったことで――とりわけ、学校で級友が水晶を攻撃す るために中傷した、スウィート・ミューズというバンドのメンバーであるユカを「い

(14)

つも一生懸命で、誰よりも前向きでガッツがあって、見ていて気持ちがイっすよ」

(284)と評価する紺と出会い、常に認められるとは限らなくとも、一生懸命さを「ちゃ んとわかる人がいる」(285)ことを実感したことで――水晶は、「意地悪な人はい るしズルイ人もいる。だけど、誰かを応援してあげたり、明るい気持ちにさせてく れる人だって、同じ世界にいる」(323)と考えるようになる。ここで水晶がつかん だ世界像は、それまで漠然と想定していた、「世の中というものは、家と学校と見 慣れた通学路と、そのまわりをずーっと遠くまで埋めているよどんだ空気みたいな もの」(324)という均質的な世界像とは対照的に、ひとくくりに断じることのでき ない、複数性を伴ったものとして思い描かれている。

この複数性を伴った世界像は、弥生の戦略が価値転換を行ってなお引きずってい た、ネガティヴさを払拭するものであると考えられる。自爆テロの末に「世直しを 企てた少女革命家らの、たったひとりの生き残り」(311)として生き延びるという 弥生の戦略は、自分を疎外する均質的な世界を想定し、それへの対抗的位置取りに つくという、二項対立的構図をもつ。その位置取りがいかに「革命」的なものであ ろうと、二項対立的構図に則った形である限り、対抗する相手の外部という位置取 りを甘受せねばならず、その外部性を賭け金に対抗する以上、構造的外部としての ネガティヴさを引きずらねばならない。一方、複数性への気づきによる均質的な世 界像の打破は、弥生の戦略が前提とする構図自体を崩壊させ、ネガティヴさを付与 する世界の特権的位置取りをも無効にする。依然として自身がネガティヴな存在と して扱われる可能性はあるものの、その価値づけは絶対的なものではなく、別な形 で再価値づけし直す可能性にひらかれたものとして扱い得る。そうして均質的世界 像を打破して「自分の中の閉じられた感覚」(324)を壊し、弥生の戦略がなお引き ずっていたネガティヴさを払拭できたからこそ、水晶は、自爆テロによって自身の 正当性を主張する道を手放し、別な形で生をつかみ直す一歩を踏み出したと考えら れる。

3–2. 怒りから応

リスポンシビリティ答責任へ

この世界像の転換による自爆テロへの志向の放棄は、水晶が世界を拒絶すること をやめ、世界とかかわりながら生きることを受け入れたことを示している。だが、

この姿勢は、既にみた、本作品冒頭の家出のエピソードにおいて三咲季が選択した 在り方のように、単に現状を甘受し、既存の枠組みに包摂されることを意味するわ けではない。この点を示すものとして重要なのは、水晶が世界像の転換とともに為 していく生のつかみ直しが、弥生の生を探りあてることと結びついたものとして描

(15)

かれているという点である。

世界像を転換させる機会を得るもととなった、ミサキの正体を探る過程の中で、

水晶は、それまで知らなかった弥生の境遇に間接的に触れていく。それぞれは断片 的な、弥生の学校の同輩から聞いた学校での弥生の姿や、実際にみた弥生の自宅の 雰囲気、弥生が爆弾の製作を依頼した中丸衣紋という少女の語る弥生像といった情 報を結び合わせていくうち、水晶は、「宮入弥生という人は、学校では幽霊みたい に“死んでいる”ということだろうか。じゃあ、どこでなら、“生きて”いられる のだろう? 子どもを食らう魔女の家(引用者註:弥生の自宅)のような、あの美 しい家の中では、どうだったのだろう?」(319)と、弥生の窮状へと考えをめぐら せるようになる。この思いは、弥生の境遇を自身のそれと重ね合わせつつ捉えてい ることによるものであると考えられるが、その窮状の重なりへの意識は、次のよう な思考へと展開されることで、明示されるに至る。

 わたしは孤独だ。と、水晶は思う。水晶は水晶の中で膝を抱える小さな水晶 を感じている。弥生も同じように、孤独を感じることはあるのだろうか。(中略)

弥生は、水晶の心の闇に開いた小さな光の穴だった。(中略)水晶も、弥生の 闇に光る、小さな光になれないだろうか。その星に気づいて、自分の位置を、

存在のあり方を、ゆっくり気づいていけないだろうか。

 わたしはなぜ生まれてきたんだろう。どう生きたらいいんだろう。答えはやっ ぱりわからないけれど、あの星たちのように、ただそこにあることに、そこで 光を発することに、悦びを見いだせる日がくるのだろうか。(320)

こうして弥生の窮状と響き合うものとして「自分の位置」を捉えたとき、水晶は、

弥生を置き去りにするのではなく、むしろ自己の内に弥生を抱えるような形で、自 らの生をつかもうとしているといえる。この述懐から数頁後のラストシーンを締め くくる、「明日の朝になったら、いちばんに弥生に会いに行こう。そして、弥生が 壊さなくてはならない何かを探りあててあげたいと思う」(325)という水晶の述懐 は、水晶のその姿勢をはっきりと示すものと考えられる。

では、水晶のこの、自身の生をつかむことと弥生の生を探りあてることとを結び つけ、弥生の声なき声を聞きとろうとするかのような姿勢は、先にみた均質的世界 像の打破と、どのようにかかわるのか。この点に関して示唆的なのは、水晶が世界 像の転換の途上で「スリースターズの自爆テロは、水晶が死ぬだけでなく、アユミ とミサキという仲間も、水晶は永遠に失うということだ」(296)という気づきを得 ている点である。単に犠牲者だけでなく、実行犯となる「仲間」をも自爆テロで失

(16)

う対象として捉えるこの意識は、水晶の自爆テロへの志向を支えた、なぜ正当性を 訴える声が聞きとられず、存在が認められないのか、という怒りが、では自らは聞 きとり、認めることができているのか、という応リスポンシビリティ答責任への問いに直面したがゆえ のものと考えられる。均質的世界像の打破によって世界とのかかわりを認めること は、今度は世界とかかわる者として、自らが応答責任を負うということでもある。

世界像の転換によってネガティヴさを払拭して生きる足がかりを得た上で、この応 答責任への意識に立ったとき、自爆テロの企ては、自分のみならず愛弓や弥生の生 の可能性をもそこで諦めるものとなる。この気づきが弥生と自身との窮状の重なり への意識と結びついたとき、水晶は、自身の生を弥生の生の可能性とともにあるも のとして見出したのではないだろうか。弥生を置き去りに、その声なき声を聞きと らないまま棄て置くことは、かつての自分の怒りをなおざりにすることであるから だ。換言すれば、自身の生と弥生の生との結びつきを明示するラストシーンの水晶 の姿は、かつての怒りを応答責任へと転換させることでなお忘れず、むしろそれを 抱えたまま生き抜く方法を模索するものであるといえよう。

3–3.

 聞きとる姿勢がひらく生の可能性

終盤の水晶の姿に読みとれる、応答責任という点を踏まえて考えたとき、前節で みた弥生の戦略は、一方で三人の窮状の重なりに支えられながら、水晶と愛弓だけ を自爆テロで死なせようとすることで、目の前にいる二人の声を聞きとることなく 置き去りにするものと考えられるが、この点において、本作品冒頭に示された三咲 季の姿を反復するものであるといえる。この戦略が二項対立的構図を前提としてい ることは既にみたが、その構図は、この戦略を進める行動力を支えている窮状の重 なりを無視し、水晶や愛弓を含めた自分以外を、ひとくくりに均質的世界に属する ものとして扱うことで成立している。弥生がこの構図を脱することができず、構造 的外部の位置を甘受することになったのは、三咲季の行った置き去りを弥生自身も 反復してしまったことによるといえよう。他方、水晶は世界像の転換によってこの 二項対立的構図を脱し、その転換に伴う応答責任への意識によって、外部化にさら され、置き去りにされかけている声を、自身の窮状との重なりの中に捉え、世界と のかかわりの中で聞きとろうとする姿勢をとることで、この反復を回避する。これ は、本論文冒頭で確認した三咲季が選択した在り方とも、また前節でみた弥生の戦 略が目指した在り方とも、異なる在り方である。この表れである、自身の生ととも に弥生の生を探りあてようとする水晶の姿を作品の結びとすることで、本作品は、

水晶のつかんだこの在り方を、新たな生を切りひらく一つの可能性として提示して

(17)

いると考えられる。

だが、結びにおいて示される水晶の姿は、なお危うさをはらむものでもある。こ の点をとりわけ示唆するのは、愛弓の言動に対する水晶のまなざしの在り方である。

水晶は、弥生に対する認識だけでなく、偽名疑惑をきっかけに愛弓とともに行動す ることが多くなる中で、その深く考えない姿勢にそれまで半ば無自覚に見下す態度 をとっていた愛弓への認識も改め、「生まれてきた本人にはどうすることもできな い環境の中で、アユミはアユミなりにがんばってアユミらしさで生き延びてきた」

(305)ことを、水晶自身「きょうまでがんばって生き延びてきた」(305)ことと重 ね合わせて受けとめるようになっている。このこと自体は、窮状の重なりへの意識 という点で、弥生に対するものと同様の在り方を示しているに過ぎない。問題は、

愛弓の在り方を肯定的に捉えるこの姿勢が、愛弓がその在り方を選択せざるを得な かったポリティカルな状況をまなざすことへはつながらず、単に肯定するにとどま ることで、むしろその状況を隠蔽する危険を冒すものとなっている点である。ラス トシーンで示される、そこまでの展開を経た上で「でもさー、うちら、何で自爆テ ロするんだっけ?」(324)と言い放ってしまえる愛弓の軽さを「本当におもしろい 人」(324)と肯定するだけで終わらせる水晶の姿は、この危険をはらんだものと考 えられる。

ここで注意しておきたいのは、水晶が最終的に見出した在り方にみられる、自身 の生をつかむことと弥生の生を探りあてることとの結びつきは、互いの窮状の重な りへの意識を基盤としながら、なおかつ両者の間の差異を意識した形でなされてい るという点である。水晶は、間接的に知った情報から弥生の姿を立体的に捉えよう とし、おぼろげに浮かび上がってきたその姿から、窮状の重なりをもとに声なき声 を聞きとろうとする姿勢を示すが、そうした聞きとりの行為は、両者の間に差異を 認め、なおかつ、窮状という共通性によってその差異の間に聞きとる必要を認める からこそ、なされるものである6。水晶の姿勢にみられる、弥生に対して差異を認 めるこの距離感は、スリースターズという結びつきが含んでいた、響き合う窮状を もってしてもなお重なり切らない、三人それぞれの間の差異を示唆するものと考え られる。この差異は、偽名疑惑がスリースターズの絶対性に疑念を差し挟むことで、

図らずも露になったものである。

弥生に対しての場合、水晶は聞きとる姿勢という形で、窮状の重なりという共通 性とともに差異をも認め、この二つの間の往還によって、単に自身の主張に従わせ るのではない、ひらかれた形で両者の生の在り方をかかわらせ、ともに生を探る可 能性を見出そうとしている。だが他方、愛弓の在り方を単に「おもしろい」ものと して肯定する姿勢には、共通性と差異との間の往還のような動態性をみることはで

(18)

きず、むしろ差異を固定することで、窮状の重なりという共通性が示唆していたは ずの、生の可能性にかかわるポリティクスは視野の外に置かれている。同種の危う さは、弥生に対する聞きとる姿勢においても、「弥生が壊さなくてはならない何か を探りあててあげたい4 4 4 4と思う」(325、強調は引用者)と、微かにだが自身を上位に 置くそぶりをみせている点に読みとれる。

これらの危うさを伴ってなお、本作品が、水晶の変化を通じて新たな生を切りひ らく一つの可能性を提示できたのは、本作品が、偽名疑惑が浮上してから後、水晶 と弥生が直接対面しないまま、また、両親との対面やその後の学校生活を描くこと もなく、その直前で結ばれていることによると考えられる。ラストシーンの水晶の 姿がはらむ危うさは、先に確認した水晶のつかんだ在り方の欠陥を示すというより、

その在り方を保持することの困難さを示唆するものである。その困難さにより明白 に向き合うことになるだろう、具体的なポリティクスに直面する手前で作品を結ぶ ことで、本作品は、水晶が変化の先でつかんだ在り方を、新たな生を切りひらく一 つの可能性として鮮明化することができたと考える。それにより、本作品は、具体 的な力のせめぎ合いにどう向き合うか、ということを、これから考えていくための4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 重要な端緒を示したといえるのではないだろうか。

おわりに

ここまで、本作品に描かれた、三咲季、弥生、水晶のとったそれぞれの在り方を 検討し、本作品が一つの新たな可能性として提示していると思われる、水晶が終盤 の変化の先でつかんだ在り方が、他の二つの在り方の内包する問題をいかに打破し たかを考察してきた。これを本論文冒頭で触れたTritesの議論とのかかわりでみ れば、三咲季の選択した、「違う自分」(18)の生存可能性の断念によって既存の安 定を手にする在り方は、Tritesの指摘する「権力構造の中での自らの立場を学」ぶ という課題を、「権力構造」に包摂される形で成し遂げた姿と捉え得る。一方、そ の選択の伴う外部化の作用によって置き去りにされた怒りをはらむ、自爆テロを通 じた弥生の生存戦略は、「権力構造」を破壊することで包摂されることを拒絶して 生き延びようとするものだが、その先に予想される生は、その戦略が前提とする二 項対立的構図によって構造的外部の位置をとるにとどまり、依然としてネガティヴ さを帯びたものとなっている。

これに対し、終盤で水晶がつかむ在り方は、弥生の戦略の二項対立的構図を成立 させている均質的世界像を複数性への気づきによって打破し、世界とのかかわりを

(19)

受け入れる。これは一見すると三咲季の選択した在り方と類似するものだが、その 世界とのかかわりが弥生の声なき声を聞きとる姿勢と結びつき、その声への応答責 任が自らの生に織り込まれることで、単に既存の枠組みに包摂されるのとは異なっ た在り方となり、他の二つの在り方がなし得なかった新たな生を切りひらこうとす るものとなっている。つまり、一方で「権力構造」とのかかわりを認め、その包摂 の力に身をさらすことを受け入れつつも、そのかかわりを応答責任として引き受け 直すことで、構造内での位置取りを再配備に向かってひらき、新たな生の可能性を ひらこうとするのである。

この水晶のつかんだ在り方は、Tritesの、ヤングアダルト文学に描かれる思春期 の若者の課題を単に「権力構造の中での自らの立場を学」ぶこととする議論の視点 からでは、見極めることができないと考える。既に述べたように、水晶のとる在り 方の重要性は、単に「自らの立場を学」ぶことで「権力構造」に包摂される在り 方、および、その在り方のはらむ問題に与しないために「権力構造」への包摂を完4 全に4 4拒絶しようとする在り方、双方との相違から浮かび上がるものである。Trites の述べる「自らの立場を学」ぶということが、「権力構造」を再配備に向けてひら くこととのかかわりについて踏み込まないものである以上、Tritesの議論の視点で は、この水晶の在り方は他の二つの在り方のどちらかに振り分けられることになる のではないか。だが、本作品の重要性は、世界とのかかわりを受け入れた水晶の姿 を、そのどちらとも異なるものとして描いたところにある。この見極めは、「権力 構造の中での自らの立場を学」ぶということがはらむ問題性を考えたとき、重要な ものなのではないだろうか。水晶の姿の示すこの第三の方向性を見極めるパースペ クティヴから、Tritesの議論をより詳細に検討することが、今後の重要な課題であ ると考える。

1 Trites, Roberta Seelinger. Disturbing the Universe: Power and Repression in Adolescent Literature, Iowa City: University of Iowa Press, 2000, p.x。同書からの 引用はすべて拙訳による。

2 Trites、前掲書、p.xi。

3 梨屋アリエ『スリースターズ』講談社、2007。以後、作品の引用はすべて同書 による。

4 この胸中の吐露は、三咲季の直接の発言としてではなく、三人称の地の文に続

参照

関連したドキュメント

人は何者なので︑これをみ心にとめられるのですか︒

戦略的パートナーシップは、 Cardano のブロックチェーンテクノロジーを DISH のテレコムサービスに 導入することを目的としています。これにより、

『台灣省行政長官公署公報』2:51946.01.30.出版,P.11 より編集、引用。

はある程度個人差はあっても、その対象l笑いの発生源にはそれ

この 文書 はコンピューターによって 英語 から 自動的 に 翻訳 されているため、 言語 が 不明瞭 になる 可能性 があります。.. このドキュメントは、 元 のドキュメントに 比 べて

存する当時の文献表から,この書がCremonaのGerardus(1187段)によってスペインの

はありますが、これまでの 40 人から 35

自発的な文の生成の場合には、何らかの方法で numeration formation が 行われて、Lexicon の中の語彙から numeration