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i l社 会 主 義 社 会 に お け る 「 分 業 廃 棄 」 の 問 題 の 検 討 の た め に | |

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(1)

研究ノ!卜

分業についての経済学的考察(前編)

i l

社 会 主 義 社 会 に お け る

﹁ 分 業 廃 棄

﹂ の 問 題 の 検 討 の た め に

まえがき一︑山内一男氏のマルクス分業論の解釈について

二︑山内一男の社会主義社会における﹁分業廃棄﹂の﹁理論構成﹂につ

いて・(以上︑本号所載)

三︑商品生産と分業:・:︿以下︑次号所載予定﹀

四︑資本主義的生産と分業

(1

( 2 )

機械制大工業と分業 五︑社会主義社会における﹁分業廃棄﹂のための若干の基本的方策につ

六︑要約

分業についての経済学的考察(前編)

原・

まえがき

分業の発展と社会の発展は︑同じ事柄の別様な表現であると

いっていいほど密接不可分な関連を有している︒したがって︑

経済学が経済的諸範鴎の単なる論理的関連を明らかにするので

はなく︑現実の社会の運動︑発展を解明する科学として成立し

た以上︑分業の問題は経済学のなかできわめて重要な問題とし

て論じられてきたのは︑至極当然のことといえよう︒しかし︑

分業についてもっとも詳細な考察をし︑これと社会発展の関連

について最初の理論的解明を与えたのは︑いうまでもなく科学

的経済理論の創始者︑マルクス︑エンゲルスである︒

周知のごとく︑マルクス︑エンゲルスはそれにおいてはじめ

一 八 一 一

(2)

分業についての経済学的考察(前編﹀

て科学的経済理論の礎石を打ちたてた﹃ドイツ・イデオロギ

ー﹄で分業について立入った考察を行い︑分業の発展を中軸と

して社会の発展を説明している︒またエンゲルスの著作﹃家

族︑私有財産および国家の起源﹄においても同様の考察が行わ

れている︒そして︑彼らは分業についてのこうした歴史的考察

に基づいて︑将来の社会においては﹁分業の廃棄﹂が不可避で

あること矛展望した︒彼らは︑高度に発達した共産主義社会を

特徴づける主要なメルクマールとして︑それが︑生産手段のい

っさいの私的所有が廃絶されているばかりでなく︑個人の分業

への奴隷的従属がなくなり︑それとともに都市と農村︑農業と

工業︑肉体労働と精神労働の対立がなくなり︑全面的に発達し

た人間によって構成される社会であることを明らかにした︒

科学的経済理論の創始者︑マルクス︑ェンゲルスがこれまで

の社会を分析し︑上述した共産主義社会の到来の必然性を立証

してから百余年を経過し︑すでに相当数の社会主義国が存在す

る今日︑﹁分業の廃棄﹂は実践的な課題となっており︑いくつ

かの社会主義諸国においてその意識的︑合目的的な追求が試み

られているようである︒しかし︑他方では︑この間題の追求を

おろそかにし︑看過することのできない否定的傾向も生まれて

きている︒今日︑社会主義社会のあり方︑共産主義社会の建設

をめぐっての激烈な論争は︑直接には﹁分業廃棄﹂の問題とし

ては論じられてはいないようであるが︑しかし背後にこの問題

が大きな問題として潜んでいることは疑いない︒﹁分業廃棄﹂

一八

についての詳細な理論的解明は︑最終的にはそれを真剣に推し

進めている諸国の実践的解決をまつほかはないが︑しかしこれ

までの分業の発展およびそれと社会発展の係わりを考察するこ

とによって﹁分業廃棄﹂についての若干の基本的方策は導きだ

すことはできるし︑またそうすることは︑この問題が今日社会

主義社会のあり方︑共産主義社会の建設をめぐっての論争と密

接な関連を有する以上︑実践的に見ても重要な意味をもってい

ると

思わ

れる

われわれは︑まず手がかりとして山内一男氏の所説﹁中国社

円1

v

会主義における﹃分業の廃棄﹄﹂を検討することにしたいと思

う︒氏の所説は︑﹁中国社会主義における﹃分業の廃棄﹄﹂とい

う表題になっているが︑その内容は単に現在中国で進められて

いる﹁分業廃棄﹂の過程を紹介するに留まらず︑むしろそれを

一つの素材としながらマルクス︑エンゲルスの分業論について

立入った検討をくわえ︑社会主義社会における﹁分業廃棄﹂の

問題について独自の﹁理論構成﹂を試みたものであり︑われわ

れに重要な問題を提起していると息われたからである︒

( 1 )

﹃経済志林﹄第四O巻一号

一︑山内一男氏のマルグス分業論の解釈に

ついて

山内氏の所説︑﹁中国社会主義における﹃分業の廃棄﹄﹂は︑

(3)

﹁一︑マルクス主義における分業の論理﹂︑﹁二︑中国社会主義

における﹃分業廃棄﹄への模索﹂︑﹁三︑分業をめぐる二つの路

線﹂︑﹁四︑若干の理論的検討﹂の四節から構成されているが︑

本稿では主として第一節と第四節について︑目次に示されるご

とく二つの項目にわけて検討したいと思う︒そこで早速氏の所

説の検討に入ることにしよう︒

氏は︑まず第一節の冒頭で﹁マルクス︑エンゲルスはその初

期の著作以来一貫して︑将来の共産主義社会創出のための要件

の一つとして﹃分業の廃棄﹄という課題を明確にかかげた

L

ハ前

出囚

頁﹀

とし

て︑

﹃ド

イツ

・イ

デオ

ロギ

ー﹄

︑﹃

共産

党宣

言﹄

﹃ ゴ

ll綱領批判﹄から四つの引用をしたあと︑﹁マルクス

主義における分業の論理﹂についてつぎのごとく述べている︒

﹁そこで︑わろわれは︑そもそも分業とはなにか︑マルクス主

義においては分業はどのように理解されていたか︑ということ

を問題にしなければならない︒マルクス主義における分業の論

理は︑これをきわめて概括的に要約すれば︑つぎの二つの商か

ら構成されていることができよう﹂(前出四頁)

ここで早くも︑われわれは︑﹁分業の論理は・::二つの側面

から構成される﹂という奇妙な文章にぶつつかるのであるが︑

これについてはいずれ行論で検討するとして︑﹁二つの側面﹂

のそれぞれについて見てみよう︒

﹁その第一の側面は︑分業が労働の生産力を高めるうえでの基

本的な環である︑ということである︒マルクス主義理論におけ

分業についての経済学的考察(前編﹀ る生産力カテゴリーの位置づけからみて︑この第一の側面についての認識はきわめて重要な意味をもっ﹂︒(前出回頁)そして︑

この﹁側面﹂を示したものとして︑﹃ドイツ・イデオロギー﹄︑

﹃資本論﹄よりつぎの三つの引用が行われている︒

﹁ある民族の生産諸力がどれほど発展しているかは︑分業の発

達がどの程度かによって一目瞭然にしめされる﹂(﹃ドイツ・イ

デロ

オギ

l﹄

花崎

訳︑

合同

出版

社三

二│

三三

頁)

﹁ある一つの作業から他の作業に移ることは︑労働の流れを中

断し︑いわば彼の労働日のなかのすさまをなしている︒彼が一

日中一つ同じの作業を続けて行うようになれば︑これらのすき

まは圧縮されるか︑または彼の作業の転換が少なくなるにした

がってなくなってゆく︒生産性の上昇はこのばあいには︑あた

えられた時間内の労働力の支出の増加︑つまり︑労働の強度の

増大のおかげか︑または労働力の不生産的消費の減少のわかげ

である︒すなわち静止から運動に移るたびに必要になる余分な

力の消耗が︑ひとたび到達した標準速度の持続が長くなること

によ

って

補わ

れる

ので

ある

﹂(

﹃資

本論

﹂全

集二

三巻

・四

四七

頁)

﹁いろいろな個別労働者が結合されてできている全体労働者

は︑道具で武装された彼のたくさんの手のなかの︑一つの部分

では針金をつくっており︑同時に別の手では針金をまっすぐに

のばしており︑さらに別の子ではそれを切ったりとがらせたり

している︒いろいろな段階的過程が時間的継起から空間的並列

に変えられてい.る︒それだからこそ同じ時間でより多くの完成

一八

(4)

分業についての経済学的考察(前編)

品が供給されるのである︒﹂ハ前出四五二頁)

以上の引用は︑﹁分業が労働の生産力を高めるうえでの基本

的な環である﹂という山内氏の主張を裏づけるであろうか︒ま

ず︑﹃ドイツ・イデオロギー﹄の引用から見てみよう︒この叙

述は︑見られるとおり﹁生産諸力がどれほど発展しているか

は︑分業の発達がどの程度かによって一目瞭然に示される﹂と

述べているだけあって︑この叙述から﹁分業が労働の生産力を

発展させる基本的な環である﹂ということを決して導き出しう

るものではない︒すなわち︑マルクスは︑生産力の発展は分業

の発展をもたらすと述べているのであって︑逆に分業によって

生産力の発展が推し進められるということを述べているのでは

ないのである︒このことは右の引用にすぐ引続く︑﹁どんなに

あたらしい生産力も︑それが従来既知の生産諸力のたんなる量

的拡大(たとえばあたらしい土地の開墾)でないかぎり︑結果

︑ ︑ ︑

としてあらたな分業をもたらす﹂(前出三三頁傍点│原因﹀という

説明からも明らかである︒もちろん︑分業のあらたな発展は︑

今度は反対に生産力の発展を推し進めるであろうが︑しかし︑

それにしても﹁基本的な環である﹂ということはできないであ

ろう︒﹁基本的な環﹂というのは種々の﹁環﹂のうちで﹁基本

的﹂なものという意味である︒そこで︑﹁労働の生産力を高め

る環﹂としてはどういう﹁環﹂があるか︑ということが当然問

題になる︒マルクスはこれについてつぎのごとく述べている︒

﹁労働の生産力は多種な多様な事情によって規定されており︑

一八

なかでも特に①労働者の熟練の平均度︑②科学とその技術的応

用可能性との発展段階︑‑生産過程の社会的結合︑①生産手段

の規模および作用能力によって︑さらにまた⑤自然事情によっ

て︑

規定

され

てい

る︒

Q資

本論

﹄前

出五

四頁

①②

::

:①

は原

因﹀

られるごとく︑マルクスは﹁労働の生産力は多種多様な事情に

よって規定されて﹂いるとしながら︑その主なものとして五つ

の要因をあげている︒これらの要因はそれぞれ密接に絡みあっ

ており︑相互に作用しあうものであるが︑しかしそれぞれはま

た独自の意義をもっている︒では︑これらの要因のうちもっと

も決定的要因はどれであろうか︒いうまでもなく︑最初の﹁労

働者の熟練の平均度﹂である︒このことは生産

l!

生産という

のは人間労働力と生産手段の結合を意味している

li

における

人間労働力の決定的役割という点から考えても明らかである︒

﹁労働者の熟練の平均度﹂というのは人間労働力の精神的力能

および肉体的力能の歴史的な発展水準を表わすものであり︑そ

してこの人間労働力の発展こそ﹁労働の生産力を発展させる基

本的な環﹂なのである︒

さて︑以上によって﹁分業は労働の生産力を高めるうえでの

基本的な環である﹂という山内氏の主張が誤りであるというこ

とは明確だと思われるので︑もはや﹃資本論﹄からの引用につ

いては検討する必要もないかと思われるが︑しかし念のため簡

単に検討しておこう︒二つの引用はいずれも﹃資本論﹄の第一

巻第二一章﹁分業とマニュフアクチュア﹂のなかの一節であ

(5)

り︑マルクスが工場内分業について述べたものであるが︑この

分業は︑周知のごとく協業の一特殊形態であり︑したがって生

産力の相当高度な発展段階を前提しており︑そして歴史的には

資本主義生産ものとでマニユブアクチュア的分業としてはじめ

て広範に採用されたものである︒したがって︑この分業が﹁労

働の生産力を高めるうえで基本的な環﹂ではなく︑一つの﹁環﹂

であるとしても︑それが妥当するのは︑生産力の一定の発展段

階において︑すなわち生産手段および労働者の集積を前提して

はじめていいうるにすぎないのである︒しかし︑氏は︑生産力

の一定の発展段階における︑したがって特殊歴史的社会におけ

る﹁労働の生産力を高めるうえでの環﹂を問題にしているので

はなく︑あらゆる社会に貫く環を問題にしているのであるか

ら︑ここで右の例をもってくるのは︑明らかに不適当であると

いわざるをえない︒

以上︑われわれは︑氏のいわれる﹁分業の第一の側面﹂につ

いて見てきたのであるが︑つぎに﹁分業のもう一つの側面﹂に

つい

て見

てみ

よう

氏はいわれる︒﹁分業のもう一つの側面︑すなわち︑第二の

側面は分業が人間をあまりにも単純化し︑疎外を生み︑人聞を

かたわにし︑人間性を破壊するということであり︑またはそれ

は人間の不平等な関係を生み︑さらには社会における階級を形

成する根源になるということである︒マルクス主義の将来社会

像が全体的人聞の形成におかれていることからみて︑分業のこ

分業についての経済学的考察(前一線) の側面の認識もまた同じように重要な意味をもっている﹂(前出五頁)そして︑氏はこれを裏づけるために︑やはり﹃ドイツ・イデオロギー﹄よりつぎの二つの引用をされている︒

①﹁労働が分割されはじめるやいなや︑名人はある特定の

活動範囲だけにととまるようにしいられ︑そこからぬけだすこ

とができなくなる︒かれは猟師︑漁夫︑または牧夫︑または批

判的批判家のいずれかであって︑生活のてだてを失うまいと思

えば︑どこまでもそのいずれかでありつづけねばならない︒﹂

ハ﹃

ドイ

ツ・

イデ

オロ

ギー

﹂前

出六

七頁

)

②﹁社会的活動の自己謬着︑われわれ自身の産物の︑われ

われを支配する︑ある物的な強制力のこうした凝固化︑すなわ

ち︑われわれの統制をはみだし︑われわれの期待をうらぎり︑

われわれの白算をまったく狂わせてしまう強制力への凝固化

が︑これまでの発展における主要契機の一つである︒社会的な

力︑つまり分業によって条件づけられる種々の個人の協働によ

って生ずる︑幾倍にもなった生産力は︑これらの諸個人には︑

その協働そのものが自由意志的でなくて︑自然成長的であるた

め︑かれら自身の結合された力としてはあらわれず︑むしろな

にか疎遠な︑かれらの外に立つ強制力としてのあらわれる︒そ

して︑この力については︑かれらはその来しかた行くすえが全

然わからず︑したがってもはやこれを駆使することはできない

ばかりか︑逆に︑いまやこの力のほうがそれに固有の︑一連の

局面と発展段階を││それは︑人間の願望や行動に依存しな

一八

(6)

分業についての経済学的考察(前編)

ぃ︑いやむしろこのような願望や行動に方向をあたえる働きさ

えする

ii

通過

する

ので

ある

︒﹂

(前

出六

九頁

)

まず①から検討しよう︒この文章は︑見られるように﹁労働

の分

割﹂

U分業が始まることによって︑人聞は︑その分割され

た特定の活動領域に固定させられ︑したがって一面的な発展を

強制されざるをえなかった︑ということを述べたものである︒

しかし︑このことから人間の一面的な発展

ll

山内氏のことば

でいえば︑﹁人間労働をあまりに単純化し︑人聞をかたわにし

人間性を破壊するということ﹂ーーは︑﹁労働の分割﹂から不可

避的に生ずるものであり︑したがって分業そのものに内在する

﹁一つの側面﹂である︑ということができるであろうか︒なる

ほど︑分業日労働分割が︑各人をある特定の活動範囲にしばり

つけることによって広範に発展してきたことは歴史的事実であ

り︑この点についてはまったく問題はない︒しかし︑分業が歴

史的に見てそのようにして発展してきたということと︑あるい

はそのようにしてしか発展することができなかったということ

と︑人間労働力の一面的発展が分業

1

労働の分割やそのものの

うちに内在する﹁一つの側面﹂であるということとは︑決して

同じ事柄ではない︒では︑右の﹃ドイツ・イデオロギー﹄の叙

述は前者のことについて述べたものであろうか︒それとも後者

のことについて述べたものであろうか?明らかに前者のこと

についてである︒マルクスは右の引用の前でつぎのごとく述べ

ている︒﹁そして︑最後に︑分業はわれわれにとって︑まさにつ

ざのことの最初の例証である︒すなわち︑人間たちが自然成長

的な社会に住むかぎり︑またしたがって特殊利害と共同利害と

の分裂が存在するかぎり︑活動もそれゆえに自由意志的でな

く︑自然成長的に分割されているかぎり︑人間の自己本来の行

為が︑かれにとって疎遠な︑対抗的な力となり︑かれがその力

を支配するかわりに︑その力がかれをしめつける最初の例証で

ある﹂︒このように述べて︑﹁すなわち︑労働の分割:::﹂とし

て先の引用に続いているのである︒マルクスは︑見られるよう

に﹁人間たちが自然成長的な社会に住むかぎり

L

あるいは﹁自

然成長的に分割されているかぎり﹂││分業は自然成長的な分

割を通じてのみ発展することができたのであるがーーという条

件もしくは限定をつけて︑そのような条件のもとでは﹁各人は

ある特定の活動範囲だけにとどまるようにしいられ﹂ると述べ

ているのである︒

つぎに引用①について見てみよう︒ここでも﹁分業が疎外を

生み﹂だすのは︑つまり︑﹁分業によって条件づけられる種々

の個人の協働によって生ずる幾倍にもなった生産力﹂が﹁かれ

ら自身の結合された力としてはあらわれず︑むしろなにか疎遠

な︑かれらの外にたつ強制力としてあらわれる﹂のは︑﹁その

協働そのものが︑自由意志的でなく︑自然成長的であるため﹂

である︒このようにマルクス︑エンゲルスは︑歴史的に規定さ

れた分業について述べているのに︑氏はその規定をいっさいは

ずしてしまい︑﹁人間労働をあまりに単純化し︑人聞をかたわ

(7)

にし︑人間性を破壊する﹂ということが︑分業

U労働の分割そ

のものに内在する﹁一つの側面﹂である︑とされるのである︒

さらに︑氏は︑﹁階級の存在は分業からくる﹂(﹃共産主義の原理 全集四巻三九二貰)︑﹁階級区分の基礎にあるのは分業の法則で

ある

﹂(

﹃反

デュ

lリ

ング

論﹄

全集

O巻

二九

O頁)というエンゲル

スの叙述に依拠して分業日労働の分割そのもののうちに﹁階級 形成の根源﹂があるということを主張されているが︑しかしエ ンゲルスは分業日労働の分割によって人聞がある特定の活動領 域に固定され︑その固定されるところに﹁階級発生の根源﹂が あると主張しているのであって︑分業

u労働の分割そのものに

﹁階級発生の根源﹂があるということを主張しているのではな い︒だが︑もちろん︑このことは︑分業日労働分割が人聞を特 定の活動領域に固定化させ︑したがって階級を形成することに よってのみ広範に発展してきたし︑またすることができたとい う分業発展の歴史的必然性を否定するものではない︒しかし︑

これはあくまで分業の歴史的必然であって自然的必然ではない

2

ので

ある

1

﹀﹁

最初

の大

きな

社会

分業

は︑

労働

の生

産性

を向

上さ

せ︑

した

って富を増大させるとともに︑また生産分野を拡大させるととも

に︑当時の会歴史的条件のもとでは︑必然的に奴隷制をもたらし

た︒

最初

の大

きな

社会

的分

業か

ら︑

二つ

の階

級へ

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最初

の大

分裂

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家族

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産お

よび

国家

の起

源﹄

国民

文庫

一二

O頁︑傍点原

分業についての経済学的考察(前編)

国 ﹀

さて︑以上の考察によって︑山内氏の主張される﹁分業の二 つの側面﹂はいずれも成りたちえないと思われるが︑しかし︑

この点はしばらく措いて︑もう少し氏の﹁論理﹂を追求しよ う︒氏は︑これまで展開してきた﹁分業の論理﹂を要約されて

つぎのごとく述べる︒

﹁第一には分業が︑労働の生産力を高めるうえでの基本的な環 である︑ということである︒第二には︑分業が人聞を細分化 し︑人間性を破壊し︑社会における不平等をつくりだし︑さら に階級発生の根源となる︑ということである︒

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

問題は︑分業の論理における以上二つの側面

l i

積極的な側︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

面と否定的な側面ーーが二律背反的な矛盾を構成しているかに みえるところにある︒一方において分業は共産主義に到達する ための基底的要因である生産力の飛躍的発展を実現するために 不可欠であり︑他方において全的人間の形成と階級の消滅のた めには分業は廃棄されなくてはならない︒この限りにおいてい

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

えば︑マルクス主義の論理は出口のない矛盾におちいったかに

みえ

る︒

この二律背反的矛盾の解決について︑マルクス︑エンゲルス は現代の諸情況からみて︑かなり楽観的な見解にたっていたよ うに思われる︒マルクス︑ェンゲルスは︑第一に機械制大工業 の発展そのものが﹁分業の廃棄﹂のための前提的諸条件を創出 すると考え︑第二に私有制の廃棄が︑すくなくとも分業の否定

一八

(8)

分業についての経済学的考察(前編﹀

的な側面を克服する条件をつくりだす︑

われわれが︑これまで検討してきたところによれば︑氏が問

題にしてきたのは﹁分業の二つの側面﹂である︒このことは︑

これまで度々でてきた﹁分業のこの側面﹂とか︑﹁分業のもう

一つの側面﹂とかいう言葉からも明らかである︒ところが︑ここでは﹁分業の二つの側面﹂が﹁分業の掛酌山か小か二つの側

面﹂とされている︒﹁分業の論理﹂というのは︑強いて解釈す

れば分業についての論理的把握︑あるいは論理的叙述というこ

とで窃ろう︒とすれば︑分業についての論理的把握が﹁二つの

側面﹂を有するということがまともに問題にしうるであろうか︒

さらに氏は︑﹁共産主義に到達するために﹂一方では分業が

﹁不可欠﹂であるとし︑他方では﹁分業は廃棄されなくてはな

らない﹂とし︑そしてこの﹁矛盾﹂を﹁解決﹂するものとし

て︑マルクス︑エンゲルスは﹁第一に機械制大工業の発展その

もの﹂と﹁第二に私有制の廃棄﹂をあげたといわれるが︑しか

しこれも氏の﹁論理﹂の混乱を示しているといわなければなら

ない︒氏も明言されているようにこの﹁矛盾﹂は論理の矛盾で

ある︒では︑論理の矛盾と何か︒それは︑対象についての混乱

した認識︑矛盾した判断である︒したがって論理の矛盾は対象

の諸側面︑諸関連を正確に把握すれば白から解消してしまい︑

首尾一貫した論理を展開することができるのである︒すなわち

論理の矛盾は︑対象の現実の運動︑変化︑発展

l l

これは対象

と考

えた

(

t

一九

O

そのものに内在する矛盾の抗争を通じて行われる

l i

によって

解決されるのではなく︑認識する主体︑つまり人間の側に問題

があるのである︒もちろん︑人聞の認識は対象の現実の運動︑

変化︑発展を通じてより深く︑より正確なものとなり︑したが

ってその聞に密接な関連を有するとはいえ︑しかし対象そのも

のに内在する現実の矛盾と対象についての矛盾した認識︑判断

とは別個の事柄であるということはき弓7までもない︒誰も自分

の認識︑判断は矛盾しているが︑その矛盾は対象の現実の運動

の発展によって解決されるであろう︑というものはいないであ

ろう︒したがって︑﹁一方において分業は共産主義に到達する

ための基底的要因である生産力の飛躍的発展を実現するために

不可欠であり︑他方において全体的人間の形成と階級の消滅の

ためには分業は廃棄されなくてはならない﹂という﹁マルクス

主義の論理﹂の﹁矛盾﹂は︑それが論理の矛盾であるかぎり︑

機械制大工業の発展や私有制の廃棄によって解決されうるもの

ではないのである︒それは︑分業についての矛盾した認識ーー

といってもそれはマルクスやヱンゲルスのではなくて山内氏の

であるがーーから生ずるのである︒しかし︑もし分業について

の山内氏の把握が正しいとすれば︑マルクスの共産主義理論は

右の矛盾によって完全に崩壊しなければならないのである︒こ

の二つのうちのどちらかであるが︑しかし前者であることはい

うまでもない︒なるほど氏のいわれるとおり︑分業は﹁労働の

生産力を高めるうえでの基本的な環﹂ではないけれども︑﹁共

(9)

産主義に到達するため﹂に﹁不可欠﹂のものである︒他方で

﹁共産主義に到達するため﹂には﹁分業は廃棄﹂されなくては

ならない︒しかし﹁共産主義に到達するため﹂に﹁不可欠﹂な

分業とはどういう分業であろうか︒それは︑社会的労働の分

割︑配分という意味での分業である︒社会全体においてであろ

うと工場内においてであろうと一定の割合で労働が配分されな

くてはならないということは︑共産主義社会においても当然行

(3

) 

われなければならない︒では︑﹁廃棄されなければならない﹂

分業とはどういう分業であろうか︒それは︑特定の活動領域へ

の封じこめ︑つまり労働の固定化︑専門化という意味での分

業である︒この二つの分業に共通するのは︑分業という字だけ

であって内容はまったく異なったものである︒それとも氏は︑

労働の分割そのものが必然的に労働を固定化させると考えられ

るのであろうか︒しかし︑そうではないということはすでに検

討したとおりである︒かくして︑﹁マルクス主義の論理の出口

のない矛盾﹂は︑氏の分業についてのまったく混乱した把握か

らくるものであることが明らかにされ︑したがって﹁矛盾﹂も

自ずから解消してしまったわけである︒

( 3 )

﹁どの国民も一年とはいわず一一︑三週間でも労働をやめれば死

んでしまうであろうということは︑どんな子供でも知っています︒

また︑種々の欲望量に対応する生産物量が社会的総労働の種々の量 的に規定された量を必要とすることも︑知っています︒この︑‑定 の割合での社会的労働の分割の必要は︑けっして社会的生度の特定

分業についての経済学的考察(前編)

の形態によってなされうるものではなく︑ただその現象様式を変え うるだけということは自明です︒自然法則は一般に廃棄されうるの でない︒歴史的に種々に異なる諸状態のもとで変化しうるのは︑か の諸法則が貫かれる形態だけですよ(﹃資本論にかんする手紙﹄国

民文庫二一五頁)

これまでわれわれは︑山内氏の分業そのものについての理

解︑およびそこから生ずる問題提起の不当性について検討して

きた︒しかし︑分業の問題は︑機械制大工業および私有制の問

題と密接な関連をもっている︒そこで︑山内氏がこれらの関連

についてマルクス︑エンゲルスの理論をどのように理解され︑

どのように批判されているかを見ていくことにしよう︒

まず︑分業と機械制大工業の関連については︑﹃哲学の貧困﹄

﹃反

デュ

i

リング論﹄より二つの引用がされているが︑氏の以

後の論理展開において重要な意味をもっているのは﹃反デュl

リング論﹄からの引用のようである︒そこで﹃反デュlリング

論﹄からの引用のみをここにかかげることにしよう︒

﹁旧来の分業を廃止するということは︑労働の生産性を犠牲に

しなければ実行できない要求でもない︒それどころか大工業に

よって生産そのものの一条件とされているのである︒﹃機械経

営では︑同じ労働者をつねに同じ機能に所属させ︑そうするこ

とでマニュファクチュア式にさまざまな機械への労働者群の配

(10)

分業についての経済学的考察(前編)

分を固定化することは︑必要でなくなる︒工場の全運動が︑労

働者からでなく機械から出発するから︑労働過程を中断するこ

となしに︑たえず人員を交代させることができる︒:::最後

に︑機械を使う作業が年少時には急速に習得されることから

も︑同様に︑特別な一部類の労働者をもっぱら機械労働者とし

て養成する必要がなくなる︒﹄だが特殊性を化石化させる旧来

の分業は︑技術的には不用になったにもかかわらず︑機械の資

本主義的な利用方法のためにいまなお維持せざるをえないので

あるが︑その一方で︑機械そのものがこの時代錯誤に対して反

逆する︒大工業の技術的基礎は草命的なものである︒﹃機械や

化学的製造法やその他の方法によって︑近代工業は︑生産の技

術的基礎を変革するとともに︑労働者の機能ゃ︑労働者の社会

的結合を絶えず変草する︒大工業は︑そうすることによって︑

また社会内部における分業をも絶えず変革し︑大量の資本と労

働者の大群とをたえまなく一つの生産部門からほうりだして他

の生産部門へなげいれる︒したがって︑大工業の本性が︑労働

の転換︑機能の流動︑労働者の全面的機動性を条件守つけるので

ある

︒﹄

﹂(

全集

O巻

O三頁なお二軍指強内は﹃資本論﹄からの

引用

であ

る︒

右のエンゲルスの叙述の引用にすぐ引続いて︑氏はつぎのご

とく

述べ

る︒

﹁マルクス︑ェンゲルスは大工業︑労働過程をきわめて単純化

し︑また労働者の急速な技術習得も可能となり︑それによって

これまでの固定的な分業のメカニズムの変革がおこり︑労働者

の流動化︑すなわち﹃労働の転換﹄(巧

R E o ‑

仏 R

k r 5 2 3

可能となる︑という論点をくりかえし強調した︒

そこで︑問題は大工業の発展にともなう﹃労働の転換﹄がは

たして﹃分業の廃棄﹄をもたらしうるか︑という問題を最近の

技術的諸条件の新しい発展のなかで検討することである︒①ま

ず第一に︑大工業の発展日技術水準の飛躍的向上が︑もともと

本源的に固定的性格をもった分業にそうした完全な流動性を付

与しうるかどうか︑疑問といわなければならない︒②技術水準

の向上と大工業の発展によって︑かりに労働過程が高度に単純

化されたとしても︑そうした単純な労働過程がひき起す労働疎

外の問題は解決できないであろう︒たとえある労働者が一つの

単純な労働過程から別の単純な労働過程に自由に転換できたと

しても︑そのいずれの過程においても労働者はすくいがたい疎

外からまぬがれうるという保証はない︒また技術水準の高度化

は︑たしかに大多数の労働者の労働過程を平準化することはあ

りうるけれども︑同時にその他方の極に︑生産と技術の全過程

を管理し︑統制し︑また技術体系金般の開発を担当する少数の

管理︑技術エリートを析出せざるをえないであろう︒したがっ

てこのことだけでは管理と被管理の構造︑精神労働と肉体労働

の差別を克服することにはならないのである︒﹂(前出一

O

一 一

頁①②③i

原田)

見られるように︑氏は︑﹁大工業の発展にともなう﹃労働の

(11)

転換﹄がはたして﹃分業の廃棄﹄をもたらしうるか﹂というよ

うに問題を提起して︑これについて三点にわたって﹁疑問﹂を

だされている︒われわれはこの三点についてそれぞれ立入った

検討をしていかなければならないが︑その前に氏の問題提起そ

のものの不当性について一言しておかなければならない︒

氏のこの問題提起は︑資本主義のもとでのことなのか︑それ

とも社会主義のもとでのことなのであろうか︒エンゲルスの叙

述の引用に基づいて問題を提起されているところをみると資本

主義のもとでのことと考えてさしっかえないようである︒それ

ならば︑﹁大工業の発展にともなう﹃労働の転換﹄が﹃分業の

廃棄﹄をもたらし﹂えないことは︑自明のことではなかろう

か︒なるほど︑マルクス︑エンゲルスは︑﹁特殊性を化石化さ

せる旧来の分業は︑技術的には不用になったにもかかわらず︑

機械の資本主義的な利用方法のためにいまなお維持せざるをえ

ないのであるが﹂としながらも︑﹁その一方で︑機械そのもの

がこの時代錯誤に対して反逆﹂し︑したがって﹁大工業の本性

が労働の転換︑機能の流動︑労働者の全面的機動性を条件づ

け﹂︑かくして﹁いろいろな社会的機能を自分のいろいろな活

動様式としてかわるがわる行なうような全体的に発達した個人

をもってくることを︑一つの生死の問題にする﹂Q

資本

論﹄

出一一三巻糾六三四頁)と述べている︒しかし︑これによって資本

主義生産様式のもとで﹁分業が廃棄﹂されるとはどこにも述べ

ていない︒逆に︑右の叙述にすぐ引続いて﹁疑う余地のないこ

分業についての経済学的考察(前編﹀ とは︑資本主義生産形態とそれに対応する労働者の経済的諸岡︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑係はこのような変革の酵素と古い分業の廃棄というその目的と︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑に真正面から矛盾するということである︒とはいえ︑一つの歴史的な生産形態の諸矛盾の発展は︑その解体と新形成とへの唯一の歴史的な道である﹂(﹃資本論﹄前出六三五頁傍点原因)と述べている︒以上の叙述を説明すればこうである︒すなわち︑機械制大工業は︑その資本主義的な利用にもかかわらず︑﹁労働の転換︑機能の流動︑労働者の全面的可動性を﹂必然的にし︑したがって否応なく﹁全体的に発達した個人﹂を形成せざるをえないが︑しかしこの過程は︑資本主義生産内部の矛盾を激化させ︑﹁資本主義生産形態とそれに照応する労働者の経済的諸関係﹂を止揚するための物質的条件および主体的条件をつくりだす過程であり︑そしてこの両条件の十分な成熟とともに﹁資本主義生産形態とそれに対応する労働者の経済的諸関係﹂が止揚され︑新たな﹁生産形態﹂が打ちたてられ︑その新たな﹁生産形態﹂のもとでのみはじめて﹁古い分業﹂もまた十分に﹁廃棄﹂されうるということを述べたものである︒したがって氏は︑﹁大工業の発展にともなう﹃労働の転換﹄がはたして﹃分業の廃棄﹄の和トをもたしうるか︑というように問題を提起しなければならなかったはずである︒そこで︑氏の問題提起をこのように理解して︑以下三つの疑問について検討することに

しよ

う︒

①大工業の発展が分業に完全な流動性を付与しうるかどう

一九

(12)

分業についての経済学的考察(前編)

か︑という問題について︒

氏は︑この問題について﹁最近のわが国における技術研究の

分野におけるいくつかの労作は豊富な証言を提供している﹂

(前出一一頁)として︑テレピ工場の女子労働者について星野

芳郎氏の﹃技術と人間﹄からつ︑ぎに見られる引用をされ︑マル

クス︑エンゲルスの指摘は︑少くとも﹁最近の技術的諸条件の

新しい発展﹂のもとでは妥当しえないということを主張されて

いる

﹁短い時間に確実にハンダ付けをするにはそれなりの訓練が ︒

必要である︒しかし一度おぼえてしまえば︑それ以上の進歩は

なくなってしまう︒ましてや受像機のメカニズムや設計原理な

︑︑

︑︑

ど理解する程度の余裕などはまったくない︒中学卒の女子労働

者は︑一般に結婚して退職するまで︑組立ラインにそのまま配

置されているから︑十代のなかばから二十代の初めまでという

青春の時期を労働をつうじてはなんの成長もえられない作業に

従事しつづけているわけである︒﹂(前出二頁傍点原因)

氏は︑このほかにも中岡哲郎氏の著作からもいくつかの引用

をされているが︑①の問題に直接係わりのあるのは右の引用だ

けである︒つまり︑氏は︑﹁最近の技術的諸条件の新しい発展

のなかで検討する﹂といいながら︑それについてたった一個の

事例をあげ︑マルクスの﹁大工業の本性が︑労働の転換︑機能

の流動︑労働者の全面的機動性を条件づけるのである﹂という

説明は︑今日で妥当しないと主張されているのである︒マルク

一九

スは︑もちろん︑右のような例が機械制大工業のもとでも存在

することを否定していない︒たとえば︑つぎのように述べてい

﹁大工業は︑一人の人間の全身を一生︑涯一つの細部機能に縛り る ︒

つけるマニュファクチュア的分業を技術的に廃棄するのである

が︑それと同時に︑大工業の資本主義形態はそのような分業を

さらにいっそう奇快なかたちで再生産するのであって︑この再

生産は︑本来の工場では労働者を一つの部分機械の自己意識あ

る付属物にしてしまうことによって行われ︑そのほかはどこで

も︑一部は機械や機械労働のまばらな使用によって︑また一部︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑は婦人労働や児童労働や不熟練労働を分業の新しい基礎として︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑取り入れることによって︑行われるのである︒﹂(﹃資本論﹄前出二

三巻仲六二二頁傍点│原因)

氏があげている例については傍点を付した個所が妥当するで

あろう︒また︑﹁全面的機動性﹂といい︑﹁完全な流動化﹂とい

っても︑ある与えられた瞬間をとりあげるならば︑労働者はな

んらかの種類の労働に従事し︑それに固定されているわけであ

るから︑相対的または傾向的にいいうることは自明である︒旧

来の独立生産者がある一つの種類の具体的有用労働に︑またマ

ニュファクチュアにおいては︑ある細目労働に労働者が一生涯

従事するのに比較すれば︑機械制大工業が﹁労働者の全面的機

動性を条件づける﹂ということは当然すぎるほど当然のことで

あって︑これを証明するのに新めてマルクスの説明を借りてく

(13)

る必要もないであろう︒不断の機械化︑合理化の進展にともな う労働者の配置転換︑首切り︑景気循環過程における労働者の

吸引︑反発︑これはまさしく機械制大工業に固有のことであり︑

今日においても繰返し見られることではなかろうか︒氏が︑少 しでも今日の資本主義社会の実情に通じていたならば︑このよ

うな﹁疑問﹂はおよそ問題になりえないであろう︒

@労働過程が高度に単純化されたとしても︑単純な労働過 程がひき起す労働疎外の問題は解決できない︑という問題につ

いて

これはまったく見当ちがいの疑問といわなければならない ︒

0

マルクスは﹁大工業の本牲が労働の転換︑機能の流動︑労働者

の全面的機動性を条件守つける

L

と述べているのであって︑それ

によって﹁単純な労働過程がひき起す労働疎外の問題を﹂﹁解 決﹂できるなどということはどこにも述べていないし︑また述 へるはずもないのである︒(おそらく︑ここでいう﹁単純な労 働過程﹂というのは︑生産過程の特定の社会的形態を捨象した どの生産過程にも共通する人間と自然との間の一過程︑すなわ ち︑人聞が︑人間との自然の質料変換を自分じしんの行為によ って媒介し︑規制し︑統制する一過程という意味のものではな

く︑機械によって単純化された労働U機械労働ということを意

味していると思われる︒しかし︑それにしても﹁単純な労働過 程がひき起す労働疎外﹂というのは正確な表現ではない︒﹁労 働疎外﹂は資本制的生産関係によって﹁ひき起され﹂︑機械制

分業についての経済学的考察(前編)

大工業のもとで完成するめであるかあるいはいい換えれば一機 械をまって初めて技術的︑感覚的な現実性を受けとる﹂(﹃資本 論﹄全集二三巻例五五二頁)のである︒そして︑これは単に表現 上の問題に留まらないようである︒というのは︑氏の所説に基

づいて行われている﹁討論

ll

l山内論文をめぐって│iしのな

かで︑氏は︑尾形憲氏の﹁疎外という一言葉が先ほどからでてき ているのですが︑僕は疎外論というのはあまりやっていないの だが︑そういう点から単純労働をやることが疎外だ︑悪だ︑け しからんみたいな︑このごろの学生は疎外々々というが︑そう

いうことなのかどうなのか﹂(前出六一頁﹀という質問に答えて︑

山内氏は﹁そうですねえ︒学生がいっているのとだいぶん似て

くるのですがねえ

L

(

六二頁﹀と述べているからである︒単純な

労働をすることそれ自体が疎外であれば︑社会主義のもとでの 単純な労働は存在するのであるから︑したがって疎外もまた当 然存在しなければならないということになる︒そして︑氏もそ

ういうことを主張されているように思われる︒)

﹁ある労働者が一つの単純な労働過程から別の単純な労働過 程に自由に転換できたとしても︑そのいずれの過程においても 労働者はすくいがたい疎外からまぬがれる保証はない﹂のは当 然であって︑﹁労働の転換﹂によってそうした保証があれば︑

資本主義社会の変草︑社会主義への移行の必然性などおよそ問

題になりえないであろうdどの生産部面においても﹁労働者は

すくいがたい疎外﹂のもとにあるからこそ︑そしてこれを﹁労

一九

(14)

分業についての経済学的考察(前編)

働の

転換

l i

決して労働者の自由意志的な﹁転換﹂ではな

く︑資本主義生産の発展とともに否応なく強制される﹁転換﹂︑

したがってまた﹁労働者階級の不断の犠牲と労働力の無際限の

乱費と社会的無政府性の荒廃﹂Q

資本

論﹄

前出

三三

巻例

六三

四頁

をともなう﹁転換﹂

1

1

によって学びとることができるからこ

そ︑労働者は資本主義社会の本質を認識することができ︑資本

主義社会の変革の担い手として成長することができるのであ

①技術水準の高度化が技術体系全般の開発を担当する少数 る ︒

の管理・技術エリートを析出する︑という問題について︒

これも﹁労働の転換﹂とは直接関係ないといってよい︒﹁技 術水準の高度化﹂が︑資本主義のもとでは︑﹁生産と技術の全 過程を管理し︑統制し︑また技術体系全般の開発を担当する少 数の管理︑技術エリートを析出せざるをえないしのは当然のこ とであって︑この点については氏の指摘をまつまでもなくすで にマルクスが述べていることである︒たとえば︑マルクスはつ ぎのように述べている︒

﹁自動的な工場のなかで分業が再現するかぎりでは︑それ

は︑まず第一に︑専門化された機械のあいだに労働者を配分す ることであり︑また︑労働者群を︑といっても編成された組を なしていない群を︑工場のいろいろな部門に配分することであ って︑そこではこれらの労働者群は並列する同種の道具機につ いて作業するのであり︑したがって︑彼らのあいだではただ単

一九

六 純な協業が行なわれるだけである︒マニュファクチュアにおけ る編成された組に代って︑主要労働者と少数助手の関係が現わ れている︒本質的な区別は︑現実に道具機について働いている 労働者(これには動力機の見張りゃ給炭する何人かの労働者も 加わる)と︑この機械労働者の単なる手伝い(ほとんど子供ば かり)との区別である︒この手伝いのうちには︑多かれ少かれ

すべての

42

骨円こ(ただ機械に作業材料を渡すだけのもの)

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

が数えられる︒これらの主要部類のほかに︑機械装置全体の調

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

整や平常の修理に従事しているその数から見ればとるに足りな

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

い人員がいる︒技師や機械工や指物工などがそれである︒それ

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

は︑かなり高級な︑一部分は科学教育を受けた︒一部分は手工

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

業的な労働者部類であって︑工場労働者の範囲にはいらないで

︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑

ただ工場労働者に混じっているだけである︒この分業は純粋に

技術

で的

ある

︒﹂

︿﹃

資本

論﹄

前出

二三

巻同

五四

九頁

傍点

因原

) 見られるように︑マルクスは︑﹁工場労働者﹂と﹁技師や機 械エや指物工など﹂のような﹁工場労働者の範囲にはいらない でただ工場労働者に混じっている﹁﹁かなり高級な﹂﹁科学的教 育を受けた﹂︑山内氏のいわれる﹁技術エリート﹂の存在を指 摘している︒なお︑﹁機械工﹂﹁指物工﹂が﹁工場労働者の範囲 から除かれるのは︑当時のことであって今日では再検討されな ければならないであろう︒かつては﹁エリート﹂であった職種 も︑技術水準の向上とともにその地位を失うのは当然のことで ある︒それはちょうど︑かつては読み︑書き︑ソロパンができ

(15)

れば︑﹁エリート﹂であったが︑今日ではそうでないのと同じ

であ

る︒

さらに﹁管理エリートの析出﹂についてはつぎのように述べ

てい

る︒

﹁労働手段の一様な働きへの労働者の技術的隷属と︑男女の両 性および非常にさまざまな年齢層の個人から成っている労働体 の独特な構成とは︑一つの兵営的な規律をつくりだすのであっ て︑この規律は︑完全な工場体制に仕上げられて︑すでに前に も述べた監督労働を︑したがって同時に筋肉労働者と労働監督 者とへの︑産業兵卒と産業下士官とへの︑労働者の分割を十分

に発展させるのである︒﹂Q

資本

論﹄

前出

五五

四頁

) 以上検討したように︑山内氏は﹁大工業の本性が労働の転 換︑機能の流動︑労働者の全面的機動性を条件づける﹂とい︑7 マルクスの叙述を︑﹁労働疎外の解決﹂﹁肉体労働と精神労働の 差別︑管理と被管理の差別の克服﹂のことをいっているのだと 誤解し︑このきわめて初歩的な誤解に基づいて︑マルクスのい っていることは︑﹁最近の技術的諸条件の新しい発展﹂という 状況のもとでは妥当しない︑マルクスはあまりにも﹁楽観的な 見解にたっていた﹂という結論に到達されたわけである︒だ が︑氏が﹁最近の技術的諸条件の新しい発展のなかで検討﹂し た結果得られた結論は︑すでにマルクスの指摘ずみのことであ って││氏は︑残念ながらそれを理解されなかったのであるが ーーしたがって氏の意図に係わりなく︑客観的にはマルクスの

分業についての経済学的考察ハ前編)

指摘が﹁最近の技術的諸条件の新しい発展のなか﹂においても 依然として妥当するもらであることを裏づけられるものとなっ てしまったのである︒とはいえ︑氏が︑﹁労働疎外﹂の進展︑

﹁少数の管理・技術エリートの折出﹂の原因を︑機械制大工業 あるいは技術そのものの発展のうちに求めるのにたいして︑マ ルクスは機械︑技術の資本主義的利用のうちに求めている︑と いう点で決定的な相違が存在するのである︒

(4

﹀いわゆる﹁新左翼﹂系統の学生に一定の影響力を与え︑山内氏

の論

稿も

それ

に負

うと

ころ

の多

い中

岡哲

郎氏

の著

作﹃

工場

の哲

学﹄

のな

かに

︑つ

ぎの

よう

な叙

述が

見ら

れる

﹁た

だ機

械が

人聞

を裏

切る

(こ

の言

葉が

どう

いう

こと

を意

味す

かはしかと理解しがたいが︑前後関係から推測すると機械による人

間支配という意味のようである

ll

原田)瞬間は︑﹃機械の資本制

的充用﹄だけに集約しつくすことはできないと私は感じている︒こ

れは当然の事実である︒その当然の事実を私が強調するのがある種

の人々にはたいへんカンにさわることであるらしいのだが︑別に他

意はない︒対象化されたものの客観的運動における﹃技術﹄の役割

をできるだけ正確につかみたいというだけである︒私がこの本の中

で︑そして他の文章の中でも一貫してとってきた立場は︑技術的可

能性と︑経済的な過程と︑社会的な条件という三つのモメント︑が

現実の生産過程の運動をつらぬいているという立場であった︒対象

化されたものの客観的運動が︑自己の意志や期待を裏切ってゆく瞬

間を的確につかみとるためには︑三つのモメントのかかわり方を正

確にとらえなければならない︒私が︑あらかじめ体制批判の位置に

一九

(16)

分業についての経済学的考察(前編﹀

立場を設定することを過度に警戒するのは︑そのような立場の人々

がしばしば用いる︑資本主義国におけるすべての悪は﹃技術の資本

制的充用﹄に︑そして社会主義国に発生する同様な悪は﹃社会主義

体制の未成熟﹄に帰する︑素朴な解釈学的手法が︑明らかにこの三

つのモメントの構造的解明から彼らの眼をそらし︑かえって︑真の

体制批判から彼らをとおざけているのを見るからにすぎない︒﹂(﹃工

場の哲学﹄平凡社二四一頁傍点原田﹀

見られるようにきわめて難解な文章である︒﹁技術的な可能性﹂

が何の﹁技術的な可能性﹂か︑﹁経済的な過程﹂が何の﹁経済的な

過程﹂か︑﹁社会的な条件﹂が何の﹁社会的な条件﹂かを理解でき

るのは︑中岡氏を措いては他にありえないであろう︒前後関係から

すると︑﹁対象化されたもの(おそらく機械であろう│原因﹀の

客観的運動﹂がそれに相当すると思われるが︑しかし︑﹁対象化さ

れたものの客観的運動﹂の﹁技術的な可能性と︑経済的な過程と︑

社会的な条件という三つのモメント﹂などということが一体まとも

に考えられるであろうか︒さらに︑﹁可能性﹂や﹁過程﹂や﹁条件﹂

が﹁現実の生産過程の運動をつらぬ﹂くなどという文章が日本語と

して成りたつものであろうか︒このように︑ただ論理的に見ただけ

でも問題のある文章であるが︑それは措いて問わな﹂いことにしよ

う︒氏は︑﹁機械が人間を裏切る﹂のは﹁機械の資本制的充用だけ

に集約しつくすことできない︑それは当然の事実だ﹂と述べてい

る︒なぜ︑﹁当然の事実﹂かは十分な論証がないので理解しがたい

が︑﹁社会主義国に発生する同様な悪﹂という文章から推測する

と︑﹁機械が人間を裏切る悪﹂が資本主義国のみならず﹁社会主義

国﹂にも﹁発生﹂しているという事実にあるようである︒この﹁社

一九

会主義国﹂がどこの﹁社会主義国﹂を指すかは明示されていない

が︑氏は別の個所で﹁中国の文化革命のなかでとられている方向は

教訓的である﹂(前出二四七頁)と述べているから︑中国以外の﹁社

会主義国﹂︑主としてソビエト︑東欧諸国を指していると断定して

さしっかえないようである︒ならば︑氏の指摘どおりこれらの諸国

にも資本主義国と﹁同様な悪﹂が﹁発生﹂していることは疑いをい

れない︒そして︑この﹁悪﹂を﹁社会主義体制の未成熟に帰する﹂

こともできない︒というのは︑これらの諸国においては︑この﹁悪﹂

が消滅していくのではなく︑拡大再生産されているようだからであ

る︒しかし︑これは﹁機械﹂あるいは﹁技術

L

そのものに問題があ

るのであろうか︒それとも﹁体制﹂に︑したがって生産関係に問題

があるのであろうか︒氏は一方では﹁機械﹂あるいは﹁技術﹂そ

のものに﹁悪﹂を﹁発生﹂させる要因があるという︒しかし他方で

は︑中国のプロレタリア文化大革命を高く評価され︑﹁労働者︑技

術者︑管理者の三結合﹂(前出二四七頁)によって︑つまり﹁体

制﹂によって﹁悪﹂の発生を防ぎうると述べている︒これは明らか

に論理的矛盾ではなかろうか︒技術︑機械の発展そのものに﹁悪﹂

を発生させる原因があるならば︑どのような﹁体制﹂をとろうと︑

﹁体制﹂に係わりなく﹁悪﹂は生ずるであろうし︑また生じなけれ

ばならない︒そうでなければ︑技術︑機械そのものの発展に﹁悪﹂

を発生させる原因があるということはできない︒﹁体制﹂によって

それを防ぎうるならば︑それを防ぐ﹁体制﹂をとらないところに問

題があるのであって︑技術︑機械に問題があるわけではない︒氏の

この論理的矛盾は︑﹁体制﹂の問題をもっぱら所有制の問題として

のみ︑それも法的な点からのみ考えているところに原因があるよう

(17)

であ

る︒

もち

ろん

︑所

有税

の問

題は

﹁体

制﹂

のも

っと

も重

要な

問題

であ

るが

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直接

生産過程の諸結果﹄・国民文庫二ニ四頁﹀せざるをえないのであ

る ︒

つぎに︑分業と﹁私有制の廃棄﹂の関連について山内氏が︑

マルクス︑エンゲルスの説明をどのように理解されているかに ついて検討しよう︒氏は︑﹁分業の否定的影響は私有制の廃棄 によって克服されるということはすでに﹃共産主義の原理﹄の なかでつぎのように明確に指摘されている﹂(前出一一ニ頁)とし

て︑つぎの引用をされている︒

﹁階級と階級対立とが全くなくなること︒これまでのような分 業をなくすことによって︑産業教育および仕事の交替によっ て︑すべての人の生産した利益にあらゆる人があずかることに よって︑都市と農村との融合によって︑全社会成員の能力を会

分業についての経済学的考察(前編)

面的に発展させること︒

l i

以上が私的所有生廃止したおもな

結果

であ

る︒

﹂(

全集

四巻

三九

三頁

)

同様に﹃反デュl

リング論﹄よりつぎの引用がされている︒

﹁旧来の分業を︑都市と農村の分離もろとも一掃し︑生産全体 を変革する革命的諸要素︑この諸要素はすでに近代の大工業の 生産諸条件のうちに蔚芽としてふくまれており︑ただ今日の資 本主義的生産様式のためにその展開をさまたげられている﹂

(

OO

六頁

﹀ これについて︑氏はつぎのような批判をくだされる︒

﹁この問題についても︑現代社会主義体制の現実が︑私有制の

︑︑

︑︑

廃絶はただちに分業の否定的作用を克服するものでないことを しめしているといわなくてはならないであろう︒スターリンの 著名な一九五二年の論文(﹃ソ同盟における社会主義の経済的諸問 題 ﹄

I

原田)は︑社会的分業のもっとも普遍的な形態である都

市と農村︑工業と農業︑精神労働と肉体労働の対立の問題をと りあげ︑これらの諸対立は社会主義のもとでは消滅するが︑そ れぞれのあいだの﹃差別﹄はのこるとした︒﹃対立﹄と﹃差別﹄

のあいだに明確に一線を商し︑両者を確然と対置したこと︑さ らに﹃本質的な差別﹄はなくさなくてはならないが﹃非本質的 な差別﹄は当然残存するとしたところにスターリンの認識の問 題があるにしても︑社会主義のもとで分業の否定的作用がかか

︑ ちになくなるものでないとこを︑このようなかたちでみとめた (あるいはみとめざるをえなかった)ところにスターリン論文

一九

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