ロシア・バレエ史の一側面としての 独立したディヴェルティスマン
大 林 貴 子
はじめに
1.独立したディヴェルティスマンの概要
2.演劇的バレエと独立したディヴェルティスマンの上演の相関関係 3.19世紀後半のバレエの改訂と独立したディヴェルティスマンの関係性 おわりに
はじめに
近代バレエはフランスを中心とするヨーロッパで盛んになり、ロシアはそれを取り入れて 発展させていった。その後、西側のバレエは19世紀末に向けて次第に衰退していったが、ロ シア・バレエの中心地、サンクトペテルブルグ帝室劇場ではさらに発展が続き、非常に高い 水準で繁栄した。そして、19世紀末には『眠れる森の美女』を代表するようなクラシック・
バレエが誕生したのである。このロシアのバレエ発展の中には、独立したディヴェルティス マンの上演の歴史があった。これは西欧には見られないロシア独自のものである。にもかか わらず、これまで研究された事例は極めてわずかである。さらに、独立したディヴェルティ スマンは19世紀を通して帝室劇場で上演され続け、しかもその上演数は無視できないほどに 多かったのである。
一般的には、ディヴェルティスマン(divertissement/ дивертисмент)とは「娯楽」「気晴ら し」の意味を持つ語であるが、18世紀の演劇では幕間の余興を指した。バレエにおいては、
2人以上のダンサーが短い踊りを次々に踊り、小曲集のような一つのまとまりとなった場面 を指す。したがって、物語のあるバレエの中のディヴェルティスマンの場面では、物語は進 行せず、ある程度作品から独立した箇所ということになる。
だが、本稿で扱うのは前述のようなバレエ作品中のディヴェルティスマンではなく、オペ ラやバレエのように一つの独立した演目として上演された、独立したディヴェルティスマン である。内容は、バレエと同じダンス・アカデミックの基礎に基づいた技術を用い、3曲か
ら6曲ほどの踊りが続く、というものである。つまり、バレエのように物語を伝えるものでは ないのである。踊り手はバレエの舞台に立った帝室劇場のダンサーたちであった。この独立し たディヴェルティスマンは、19世紀初頭のナポレオン戦争を機にサンクトペテルブルグ帝室劇 場のレパートリーに定着し、その後時代を経て内容を変化させながら、上演され続けた。
本研究の狙いは、19世紀全体のサンクトペテルブルグ帝室劇場で上演されたバレエに関す る公演をすべて把握し、独立したディヴェルティスマンをロシア・バレエ史に位置付け、体 系化することにある。これは、19世紀を通してロシア・バレエは舞踊数を増やし、19世紀末 には『眠れる森の美女』などのディヴェルティスマンを含むバレエが作られるようになった という歴史的事実を前提にし、このようなロシア・バレエ史の発展過程において、独立した ディヴェルティスマンがバレエの中へ取り入れられていったという側面があったのではない か、という仮定に基づいている。
本研究は、ロシア・バレエ史の発展の中で、独立したディヴェルティスマンがバレエとど のような関わりを持っていたのを明らかにすることを目指している。その取り組みの一部と して、本稿では独立したディヴェルティスマンが帝室劇場に定着した時期、すなわち1830年 代から、マリウス・プティパの創作中期に当たる1885年までの期間を対象とし、特に数値的 データを用いて公演回数に注目し、バレエと独立したディヴェルティスマン公演の相関関係 を明らかにするものである。なお、本稿で述べられる詳細は、特にことわりのない限り公演 情報ポスターを閲覧、分析して明らかになったことである。
1.独立したディヴェルティスマンの概要
1.1. ロシア独自の独立したディヴェルティスマンの発生と変容
本稿は、サンクトペテルブルグ帝室劇場で上演されていた独立したディヴェルティスマン に関するものである。これは、これまで研究されてこなかった新たな研究領域であるため、
本章ではまず、独立したディヴェルティスマンの発生と変容を概略し、19世紀を通して独立 したディヴェルティスマンが同劇場で上演され続けていたという歴史的事実を確認したい。
グラフ1は、1818年から1885年の間に帝室劇場で上演されたオペラ、バレエ、独立した ディヴェルティスマンの上演回数の推移を示したものである。(1834年以前に関しては上 演情報の欠損があるためグラフの数値は不確かであるが1)グラフ1からは、独立したディ ヴェルティスマンが途切れることなく上演され続けていたこと、そして上演数が決してわず かでないことが明らかとなっている。
1 現時点でわかる1834年以前の上演数の詳細は、大林貴子(2019)「19世紀サンクトペテルブルグ 帝室劇場のバレエレパートリーにおけるディヴェルティスマンの変容」『早稲田大学大学院文 学研究科紀要 第65輯』、443頁を参照。
ロシアで確認できる最初の独立したディヴェルティスマンは、1758年に2、ペテルブル グの夏の庭園のボリショイ歌劇場(Большой оперный дом у Летнего сада)で、イタリア 人ダンサー、振付家のジョヴァンニ・アントニオ・サッコ3が振付けた『英国のバレエ』
(Английский балет)と題されたものであった。ロシア最初のバレエは、
1673年の『オルフェ
ウスとエウリディケーのバレエ』4であるから、最初のバレエから85年後に上演されたという ことになる。しかし、当時は古代ギリシャの神話などを主題にした物語のある演劇的バレエ が主流であったため、物語がなく演者が技術のみを披露するディヴェルティスマンは低俗な ものとして好まれず、なかなか劇場の正式な演目としては定着しなかった5。独立したディヴェルティスマンが帝室劇場のレパートリーとして定着するようになったの は、ディヴェルティスマン『英国のバレエ』初演から約半世紀後の1818年以降である。1818 年11月24日、スラヴ民族舞踊や民族楽器、歌を取り入れたディヴェルティスマン『セミー
2 公演日は明記されていないが、1758年の1月上旬に上演されたようである(Петербургский балет. Три века : Хроника. Том I. XVIII век /Авт.-сост. И. А. Боглачева. Спб.: академия русского балета, 2014. С. 74.)
3 Giovanni Antonio Sacco (1707-1788). 彼はジョヴァンニ・バティスタ・ロカテッリのカンパニーで 企画、経営を任されてもいた。1757年から1761年の間はペテルブルグ帝室バレエ団のバレエマ スターとして雇われていた。
4 (Балет об Орфее и Евридике)モスクワ東部のヤウザ川ほとりにあるモスクワ大公アレクセイ・
ミハイロヴィチの夏の離宮、プレオブラジェンスコエで上演された。
5 ディヴェルティスマン『英国のバレエ』はその後も演劇作品と一緒に上演されたが、演 劇とも関係がなければ、ディヴェルティスマンそれ自体にも筋がないことが批判された。
(Петербургский балет.Три века : Хроника. Том I. XVIII век /Авт.-сост. И. А. Боглачева. Спб.:
академия русского балета, 2014. С.93.)
※全幕上演だけでなく一場面(幕)上演の数も計上している。
グラフ1 オペラ、バレエ、独立したディヴェルティスマンの 上演回数推移(1815-1885)
ク、またはマリアの森の遊楽』のサンクトペテルブルグ初演6を皮切りに、以後次々とロシ ア・スラヴ地域のキャラクター・ダンスで構成されたディヴェルティスマンが振付けられ、
上演されるようになったのであった。
スラヴ民族的ディヴェルティスマン誕生のきっかけを概略しておこう。これには、1812年 のナポレオン戦争の影響を受けたロシア愛国主義の高揚が深く関わっていた。ナポレオン率 いるフランス軍を破ったロシアは、1812年に戦争勝利を祝したバレエ『祖国への愛』7を上演 し、翌1813年には『ドイツのロシア人、または祖国への愛の結果』8、さらに1814年には『ロ シアの勝利、またはパリのロシア人』9などのバレエを上演した。こうしたバレエの成功に よって、観客の愛国心が呼び覚まされたと
Y・バフルシンは述べている
10。さらにv・クラ ソフスカヤは、祖国戦争中に実際に起こった「ロシア農民の英雄化」がここに表れている という11。そして、ロシア農民に焦点を当てたバレエの成功が、ロシア・スラヴ民族的ディ ヴェルティスマンの創作に影響を与えたというわけである12。つまり、これらのバレエの上 演は、これまで西欧の模倣にとどまっていたロシア・バレエの世界に、スラヴ民族の要素を 取り入れるという新たな息吹がもたらされた瞬間でもあった13。話をディヴェルティスマンへ戻そう。ロシア・スラヴ民族的な要素を持つ独立したディ ヴェルティスマン14は、ロシアのダンス、タタールのパ、コサックのダンスなどのスラヴ地 域内の民族舞踊をもとにしたキャラクター・ダンスで構成され、主に1820年代から1830年代
6 『セミーク、またはマリアの森の遊楽』(Семик, или Гулянье в Марьиной роще)は1815年にイ サーク・アブレツが振付けたモスクワ帝室劇場初演版をもとに、ペテルブルグで活躍したフラ ンス人バレエダンサー、振付家のオーギュスト・ポアロが振付けたものである。モスクワ版と ペテルブルグ版の上演内容については大林貴子(2019)「19世紀サンクトペテルブルグ帝室劇 場のバレエレパートリーにおけるディヴェルティスマンの変容」『早稲田大学大学院文学研究 科紀要 第65輯』、441、442頁を参照。
7 «Любовь к отечеству».全1幕のバレエ。K・カヴォス作曲、I.ワリベルフ、O. ポアロ振付。
8 «Русские в Германии, или Следствие любви к отечеству».全4幕のパントマイム・アネグドートバ レエ。I. ワリベルフ、O. ポアロ振付。
9 «Торжество России, или Русские в Париже». 全3幕の歴史バレエ。I. ワリベルフ、O. ポアロ振付、
K. カヴォス作曲。
10 Бахрушин Ю. А. История русского балета : Учеб. пособие для ин-тов культуры, театр., хореограф.
и культ.-просвет. училищ-М.: Просвещение, 1997. С. 65.
11 Красовская В. М. Русский балетный театр: От возникновения до середины XIX в. - СПб.:
Планета музыки, 2008. С. 169.
12 つまり、ナポレオン戦争後のロシア・バレエには2つの潮流があり、一つは西欧からもたらさ れたバレエ・ダクシオン、もう一つが愛国主義テーマのバレエということになる。
13 A・グルシュコフスキーによれば、『セミーク、またはマリアの森の遊楽』上演に際して ダンサーたちはロシアのダンスをロマに習いに行き、フランス流の踊りはしなかった。
(Красовская В. М. Русский балетный театр: От возникновения до середины XIX в. - СПб.:
Планета музыки, 2008.С.164.)
14 多くはスラヴ地域に関連しており、帝室劇場にディヴェルティスマンを定着させたのがオー
ギュスト・ポアロである。主な代表作は次の通り。«Русский деревенский праздник» (1812), « Гулянье на Крестовском острове, или Сюрпризы» (1820), «Праздник в польской деревне»(1823),
«Русский праздник» (1832).
にかけて上演された。だが、1830年代後半から1840年代には、キャラクター・ダンスだけで なくダンス・アカデミックの要素が強い舞踊(パ・ド・ドゥやパ・ド・トロワなど)を含む ディヴェルティスマンが取って代わるようになる。つまり、キャラクター・ダンスだけでな い様々なバレエの技術を用いたダンスの小品集のような形となった。出演は帝室劇場のダン サーらで、稀ではあったがマリー・タリオーニやカルロッタ・グリジなどのスターバレリー ナも出演した。また、マリウス・プティパはペテルブルグへやって来た1847年から出演して いる。そして、『くるみ割り人形』を振付けたレフ・イワノフは帝室学校生徒であった1850 年から出演しており、
1880年代までの間に非常に多くのディヴェルティスマン公演に出演し、
様々なダンスを踊っていた。
このようなスラヴ地域にこだわらないディヴェルティスマン公演には演目名も振付家の名 も記載されず、ただ『ディヴェルティスマン』とあり、そのダンスの内容とダンサーの名前 が記されるだけだった。このような独立したディヴェルティスマンについて、V・クラソフ スカヤが「国民の生活の課題から遠く離れた無思想な見世物15」と述べている通り、確かに ナポレオン戦争後の民族性豊かなものではなくなっているが、独立したディヴェルティスマ ンを構成していた世界中のキャラクター・ダンス(スペイン、イタリア、中国、アラビア、
そしてロシアなどのダンス)は、当時のバレエ作品やオペラ作品にも多用されていったとい う事実を加えておきたい。詳しくは第3章で述べるが、19世紀後半にはディヴェルティスマ ンの場面を含むバレエ作品が作られるようになり、そこでスラヴ地域や、それ以外の地域の キャラクター・ダンスが取り入れられたのである。あるいは、ロシア・オペラの中では特に バレエシーンが設けられ、そこではスラヴのキャラクター・ダンスが踊られていた。
このように、独立したディヴェルティスマンは19世紀を通して上演され続けた過程で、構 成内容を時代によって変化させ、バレエやオペラと関係し合いながら帝室劇場で上演され、
発展していったのであった。
1.2. 資料
本研究の基礎は、19世紀のサンクトペテルブルグ帝室劇場で上演されていたバレエに関す る公演のすべてを整理することである。19世紀サンクトペテルブルグには複数の帝室劇場が あり、毎晩様々な劇場で演劇やヴォードヴィル、ドラマ、オペラ、バレエ、ディヴェルティ スマン、パントマイムやサーカスが上演されていた。そして、公演情報ポスター(Афиши
императорских театров)がその告知媒体であった。ただし、ポスターとは言っても、現在の
ような写真や絵などで人の目を引くようなものではなく、新聞記事のように活字だけで記さ れたものである(図1)。公演情報ポスターには非常に細かな情報まで書かれているため、19世紀のペテルブルグの 劇場で上演された上演場所、上演日時、上演演目タイトルだけでなく、制作・上演に関わっ
15 Красовская В. М. Русский балетный театр: От возникновения до середины XIX в. - СПб.:
Планета музыки, 2008. С. 175, С. 177.
た人物や出演者、配役なども知ることができる。例えば、バレエ公演であれば詳細は次の通 りである。台本、振付、作曲、舞台美術、舞台装置、衣装などの担当・制作者、そして作品 の構成(幕・場)、踊りがある場面とそのタイトルと内容、出演者である。また、作品がア ボネメント制度のある作品であればその番号が書かれ、作品の上演回数や、改訂されて何度 目の上演かも記載された。さらに、恩典公演(ベネフィス公演)や、出演者のデビュー等の 情報も大きくタイトルの上に記載された。オペラの中のバレエシーンに関しても同様に、踊 りのある場面とその踊りの名前、出演者が記された。なお、オペラや演劇、ヴォードヴィル 等の場合には翻訳者の名前も記載されていた。表記言語は、作品の出演団体の国の言葉が選 ばれ、ロシア語、フランス語、ドイツ語、イタリア語で記載されていた。
この資料のオリジナル(一部はマイクロフィルム)はロシア国立図書館に所蔵されてお
*法政大学図書館所蔵(Programs of the Russian Royal theaters = Programmy imperatorskikh teatrov.)
図1 サンクトペテルブルグ帝室劇場の公演情報ポスター(1863 年 1 月 27 日より)*
り16、1809年から1880年は法政大学図書館にマイクロフィルムが所蔵されている17。ただし、
当該資料には欠落している年があるため、当時の文芸新聞(Северная пчела18)に掲載され た劇場上演情報欄を用いて情報を補った。当該欄には公演情報ポスターのような詳細情報は なく、場所、ジャンル、作品タイトル、恩典公演(ベネフィス公演)の際にはその旨が記さ れた簡易的なものである(有名ダンサーが出演する際はその旨も記載されていたが、ごく一 部である)。また、『ペテルブルグのバレエ 3世紀』19を参照することによって、全期間にわ たって初演や改訂に関する情報を漏れなく得ることができた。本稿作成に当たって使用した 情報源の一覧は表1の通りである。
年
情報源 公演情報 備考
ポスター
『ペテルブル グのバレエ
3世紀』
(Северная 新聞
пчела)
1809-1834 〇 〇 一部欠損在り
1835 〇 〇
1836 〇 〇 1月分欠損**
1837 〇 〇
1838-1849 〇 〇
1850 〇 〇 〇
(1月~3月)
1851-1854 〇 〇 1855 〇
(1月) 〇 〇
(4月~ 12月) 劇場閉鎖
(2月末~8月)***
1856 〇 〇
1857 〇 〇
1858-1859 〇 〇
1860 〇 〇 劇場閉鎖
(10月末~ 11月)****
1861-1885 〇 〇 劇場閉鎖(1881年3月~9月2日)*****
16 [Афиши государственных петроградских театров : ежедн. справ. театр. орган с прил. объявл. част.
театров и концертов]. - Петроград, 1809 - 1917
17 Programs of the Russian Royal theaters= Programmy imperatorskikh teatrov.(所蔵巻号はロシア国立 図書館と同様1809年~1837年、1847年~1859年、1861年~1880年)
18 ロシア国立図書館オンラインアーカイヴ(Газеты в сети и вне её)を閲覧。(http://nlr.ru/res/inv/
ukazat55/record_full.php?record_ID=119425)
19 Петербургский балет. Три века: хроника. Акад. Рус. Балета им. А. Я. Вагановой. В 6 т. 新作バレ エや改訂等に関す上演情報がすべて整理されている。
表1 サンクトペテルブルグ帝室劇場の上演情報源一覧
※ 1881 年から 1885 年の公演情報ポスターは、ロシア国立図書館にて筆者が独自に入手した。
** 1834 年以前に関しては情報の欠損があるので、今後補っていく予定である。
***ニコライ1世逝去による。
****アレクサンドラ・フョードロヴナ(ニコライ1世皇后)逝去による。
***** アレクサンドル2世暗殺による。
本研究は、このような豊富な情報が載っている公演情報ポスターを一次資料として用い、
不足がある場合は新聞等の他の資料を用いることによって、19世紀全体のバレエに関する上 演を全て蓄積、整理し、研究基盤としている。分析の基礎には、主に
V・クラソフスカヤの
ロシア・バレエ史研究を基本文献として用いている。2.演劇的バレエと独立したディヴェルティスマンの上演の相関関係
概して、19世紀のロシア・バレエ発展の性質はロマンティック・バレエ以前、以後で分 けることができる。つまり、ジュール・ペロー20が発展させたロマンティック・バレエの時 代、そして1860年代以降の舞踊要素の多いバレエを発展させたアルトゥール・サン=レオ ン21、マリウス・プティパ22の時代という、二つの潮流である。帝室劇場では彼らが振付け たバレエの上演と並行して、独立したディヴェルティスマンも途切れることなく上演され続 けていたのである。
本章では、特に演劇的要素の強いロマンティック・バレエが流行した1830年代末から1850 年代半ばにかけてのバレエと独立したディヴェルティスマンの上演数の変化と、その要因 について考察する。当該時期を含む19世紀の全幕バレエ23の上演回数と独立したディヴェル ティスマンの上演回数は、グラフ2に示した通りである。
上演数の推移を考察する前に1点確認しておきたいことがある。当該時期のバレエ上演回 数が、西側から招かれて帝室劇場の舞台に出演したスターバレリーナたちの人気と直接的 に結びついていたことである。グラフからもわかるように、マリー・タリオーニ(1837年~
1842年滞在)とファニー・エルスラー(1848年~ 1850年滞在)、カルロッタ・グリジ(1850
年~
1853年滞在)、ファニー・チェリート(1855年~ 1856年滞在)らの出演は上演数の増加
に結びついていた。反対に、スターバレリーナ不在時には(1842年~
1848年、タリオーニ
不在)、バレエの上演回数が減少している。なお、1855年に上演数が急激に減少したのは、ニコライ1世逝去に伴って劇場が閉鎖された24ことが原因となっているが、その後、見事に 上演数を回復させたチェリートの活躍と人気を伺うことができる。
20 バレエマスター在任期間は1848年から1859年。
21 バレエマスター在任期間は1859年から1869年。
22 バレエマスター在任期間は1869年から1903年。
23 バレエ上演形態には、全幕上演と、ある場面や幕だけを取り出して上演する一部上演形式が
あった。後者は物語を見せるためというよりも、作品の「見せ場」を抽出した上演形式であ る。したがって、物語要素の強いロマンティック・バレエが流行した時代のバレエと、その 性質として対極にある独立したディヴェルティスマンの上演数を比較するためには、バレエ の一部上演を除外し、全幕バレエだけの上演数と比較せねばならないのである。なお、1825 年から1838年の間はバレエの一部上演が行われなかった。
24 1855年2月18日から9月1日まで(Петербургский балет. Три века: хроника. Том II. 1851-1890 ― СПб.: Акад. Рус. Балета им. А. Я. Вагановой, 2015. С.42)
さて、グラフ2からは次の2つの時期に注目したい。まず、1830年代後半から1840年代初 めにかけて、そして次は1840年代半ばである。まず、バレエ上演数が著しく増加した1830年 代後半から1840年代初めにかけては、独立したディヴェルティスマンの上演数が減少してい ることが分かる。次に、タリオーニが去ってバレエ上演数が急激に減少した1840年代半ばに は、独立したディヴェルティスマンの上演数がバレエ上演数を上回ったのである。
バレエと独立したディヴェルティスマンの上演数が最もはっきりと反比例している、1838 年から1848年の10年間にバレエマスターを務めたのは、アントワーヌ・ティテュス25であ る。フランス人のダンサーであり振付家のティテュスは、『ジゼル』をペテルブルグの劇場 に振付けたバレエマスターとして知られている。そしてフィリッポ・タリオーニがペテルブ ルグを去った後にも彼のバレエの上演を続け、時には改訂をしながらペテルブルグでロマン ティック・バレエの上演を続けた。また、オペラ『皇帝に捧けし命』や『ルスランとリュド ミラ』のバレエシーンも彼が振付けて初演するなどして劇場の発展に寄与した。
ティテュスの在任期間にバレエ上演数が激しく増減している原因は、その期間からして、
ティテュスの振付活動ではなく前項で述べた通りマリー・タリオーニの滞在と出演が関係し ていると考えるのが妥当である。また、ティテュスがディヴェルティスマンの上演を否定し ていたというよりは、バレエマスターはバレエを振付け、ディヴェルティスマンはバレエマ スター以外の振付家や助手につくらせていたと考えるのが正しい。これは19世紀初頭からの 通例で、ディドロ26がバレエマスターを務めていた時期には助手の
O.
ポアロが27、ペローの25 Antoine-Titus. ベルリンで活動後にペテルブルグへやって来た。自作のバレエには«Кесарь в
Египте»(1834), «Две волшебницы»(1846)などがある。
26 フランス人ダンサー、振付家。帝室劇場でのバレエマスター。ロシア・バレエの基礎を築いた 重要人物。
27 本稿第1章の脚注6,14を参照。
グラフ2 全幕バレエと独立したディヴェルティスマンの上演数(1834-1885)
時代には
F.
クシェシンスキー28が、サン=レオンの時代には主にA.
ボグダノフ29がディヴェ ルティスマンを振付けていた。実際、A.ブラーシュ30の助手をしていた1834年に、ティテュ スは『劇場の仮面舞踏会』(«Маскарад в театре»)というディヴェルティスマンを振付けて おり、翌1835年には改訂し2度上演されている。しかし、自身がバレエマスターの地位に就 いた後には、彼がディヴェルティスマンを振付けたという記録はない。したがって、バレエとディヴェルティスマンの上演数が反比例した(ディエルティスマン がバレエ上演数を上回った)要因に関しては劇場の運営方針等の事情も調査する必要性があ るだろうが、やはりタリオーニ不在によるバレエの低迷状況を打開する策の一つとして、独 立したディヴェルティスマンを上演し、バレエの演目を補っていたのではないかと考えられ る。
ところで、ティテュスに次いで1848年から1859年までの約10年間バレエマスターを務め たジュール・ペローの時代には、バレエとディヴェルティスマンの上演数が共に増加して いった31。ペローはバレエマスターに着任すると、ティテュスの時代に頻繁に上演されてい た数々のロマンティック・バレエをレパートリーから外し、『エスメラルダ』や『カタリー ナ、あるいは盗賊の娘』、『女たちの戦争』等のバレエを新たに振付け、上演した。例えば、
『ラ・シルフィード』は1849年から1853年の5年間、『ジゼル』は1851年から1854年までの4 年間レパートリーから外されてしまった。しかし、一方で、ペローはタリオーニ、グリジ、
チェリート、グラーンというスターバレリーナのために、バレエ・ディヴェルティスマン とも言われる物語のないバレエ『パ・ド・カトル』32を振付けたのである。したがって、ス ターバレリーナの登場は、バレエの上演回数の増加とディヴェルティスマンの上演回数の減 少を生み出しただけでなく、振付家にとってバレエのディヴェルティスマンとしての特質を 生かす可能性をも提示したということにもなる。
そこで次章では、ペローの作品を含む19世紀後半のバレエを中心に、バレエと独立した ディヴェルティスマンの上演の相関関係について考察したい。
3.19世紀後半のバレエの改訂と独立したディヴェルティスマンの関係性
19世紀の帝室劇場で上演されたバレエは数多いが、そのほとんどが失われてしまい、現在
28 Феликс Кшесинский (1823-1903).ポーランド出身のダンサー、振付家。キャラクター・ダンス
を得意とした。マチルダ・クシェシンスカヤ(1872-1971)の父にあたる。
29 Алексей Богданов (1830-1907).
30 バレエマスター在任期間は1832年から1838年。
31 1849年にはディヴェルティスマン上演数が減少しているが、この年はペローのバレエマスター 着任直後であり、新たなバレエの振付に集中的に取り組んだことが原因の一つなのではない かと思われるが、詳しい調査が必要だろう。
32 1854年初演(ロンドン)。帝室劇場では上演されなかった。
まで残っているのは、ほんのわずかな作品だけである。公演情報ポスターにはバレエやディ ヴェルティスマンの踊りのタイトルや出演者、順番が記されている。したがって、時代ごと に比較してみることによって、改訂内容等も明らかにすることができる。さらに、帝室劇場 ではバレエマスターが交代するタイミングで過去の作品がレパートリーから外れ、新しいバ レエマスターの作品が上演されていたことが具体的に明らかとなった。また、一度レパート リーから外れた作品も、後のバレエマスターが改訂して再上演をしたことで、レパートリー に戻るというパターンもいくつか見受けられた。
さて、1860年以降になると、バレエの舞踊場面が拡大し作品中で構造化していく傾向が見 られるようになる。一方で、独立したディヴェルティスマンの上演数は減少傾向にあった
(グラフ2)。この減少の理由を紐解く一つの手がかりとして、バレエとディヴェルティス マンの力関係を明らかにする必要がある。そこで本章では、1800年から1885年までの間で最 も上演回数の多かった10 のバレエ作品を抽出し、バレエの舞踊場面の規模や性質の変化と ディヴェルティスマンの関連性を明らかにする。
上演数10位以内に入ったバレエは表2の通りとなった。第1位のサン = レオンの『せむし の仔馬』は、最終場面にディヴェルティスマンを含んでおり33、1860年以降のロシア・バレ エの方向性を示した作品の一例と言えるだろう。第2位の『ファラオの娘』はプティパの 最初のグランド・バレエである。その他には現在にも残る作品がいくつか順位表に入った。
『ラ・フィーユ・マル・ガルデ』は(ロンドンの)初演が18世紀末、ロシア初演は1818年と、
古くから上演され続けたバレエである。そして、ロマンティック・バレエ作品もいくつか含 まれており、それはすべてペローが深く関わったバレエである(上位から順に『ファウス ト』、『エスメラルダ』、『海賊』、『ジゼル』)ことから、やはりディヴェルティスマンとバレ エの関係に変化を与えたペローの作品を見ていく必要がある。
順位 作品名 総上演回数 初演年 , 改訂年
1 せむしの仔馬 217 1864, 1878
2 ファラオの娘 179 1862, 1885
3 農民の婚宴 149 1851, 1853
4 ファウスト 144 1854, 1867, 1872
5 エスメラルダ 119 1848, 1856, 1860, 1868, 1870 6 ロベールとベルトラン、または二人の泥棒 112 1858, 1868
7 ラ・フィーユ・マル・ガルデ(無用な用心) 109 1800, 1853, 1870, 1885
8 海賊 108 1858, 1859, 1863, 1868, 1880
9 ジゼル 97 1843, 1847, 1862, 1868,
1872, 1875,1884
10 ドン・キホーテ 92 1871
33 大林貴子(2019)「19世紀サンクトペテルブルグ帝室劇場のバレエレパートリーにおけるディ
ヴェルティスマンの変容」『早稲田大学大学院文学研究科紀要 第65輯』。
表2 バレエ上演数トップ 10 (1800-1885)
また、初演作品ごとの作品構造や性格等に注目すると、上位以外の古いバレエ作品がラン クインした理由が分からない。ゆえに、ペローが関わったバレエであり、その後のサン = レ オンとプティパによって繰り返し改訂されたバレエ作品から舞踊場面拡大の様相を見ていく べきだろう。よって、本章では振付改訂の詳細は割愛するが、ペローの作品からは『ファウ スト』と『海賊』を、そしてディヴェルティスマンの性質が非常によく表れているバレエか ら『農民の婚宴』を選び、考察していく。
3.1. 『ファウスト』の振付改訂とキャラクター・ダンス
ファウスト博士の伝説は、古くは18世紀からのバレエ化されてきた。サンクトペテルブル グ帝室劇場で上演され続けた『ファウスト』はジュール・ペローがゲーテの戯曲をもとに振 付けたもので、1848年にミラノ・スカラ座で初演された3幕7場のバレエである(ジャコモ・
パニッツァ作曲)。サンクトペテルブルグ帝室劇場での初演は1854年で、スカラ座初演時も ペテルブルグ初演時も、ペローはメフィストフェレス役を演じた。ここではペテルブルグ初 演以降の内容を見ていきたい。
ペローの『ファウスト』の舞踊場面は多く、言語を用いないバレエならではの役も あった。それが7人の女性ダンサーに与えられた「七つの大罪」、怠惰(Леность)、嫉妬
(Зависть)、虚栄心(Гордость)、憤怒(Злость)、強欲(Скупость)、貪欲(Жадность)、贅 沢(Роскошь)の7つの役である。7つの大罪たちは作品を通して登場し、第2幕第2場に 初演時から舞踊場面34が設置された。この場面はその後プティパによる振付改訂(1861年、
1867年、1872年、1875年)にも、そのまま引き継がれている。
特に興味深い振付改訂は、1867年のプティパ版に見られる。第2幕第3場にパ・ド・ドゥ とマズルカの2つの踊りを挿入したのだ。これらはキャラクター・ダンスによる舞踊場面
(Danse de Caractère d'ensemble)に後続している。パ・ド・ドゥはプリフノワ35と
N. レガー
ト36が、そしてマズルカはリャドワ37とF. クシェシンスキーが踊ったと記載されている。厳
密には、パ・ド・ドゥは初演時には同じ場面にあった踊りなので、1861年のプティパ版では 一時削除されていたものが1867年版で復活したということになる。だが、この4人は配役に は掲載されておらず、また、踊りの名称からも物語の内容に直接関係しているとは考えにく い。さらに、クシェシンスキーはマズルカやクラコヴャックを得意とし、同時期の独立した ディヴェルティスマン公演でもリャドワとともにマズルカを踊っていた。いささか根拠には 欠けるが、名キャラクター・ダンサーの踊りを挿入することで舞踊場面を盛り上げ、観客 から好印象を得るなどの効果を狙ったのではないかと考えられる。なお、この2つの踊りは 34 Grand scène dansante les Sept Péchés capitaux. 公演情報ポスターにはこのように記され、メフィストフェレスと7つの大罪の踊りとなっていた。
35 現時点では詳細不明。
36 Николай Густавович Легат (1869-1937). 公演情報ポスターにはЛегат 1.と表記された。コリ フェ・ダンサーを経て、帝室劇場舞踊教師、第2バレエマスターも務めた。
37 現時点では詳細不明。公演情報ポスターにはЛядова 2と記されている。
1872年、1875年の振付改訂(どちらもプティパ)でも残り、マズルカはクシェシンスキーが
踊り続けた。『ファウスト』では、大規模な舞踊場面の挿入は見られなかったが、独立したディヴェル ティスマンで頻繁に踊られていたマズルカが加えられたことが確認できた。
3.2. 『海賊』の振付改訂に見られる女性中心の大規模な群舞
『海賊』は現在も非常に高い人気を誇るバレエのひとつだが、ペテルブルグでは1858年に ペローの振付によって初演された(パリ・オペラ座でジョゼフ・マジリエが1856年に初演し たものをもとにしている)。本作における振付の変遷は次の通りである。
まず、1859年にサン
=
レオンが第3場に主役メドーラが踊る東洋のキャラクター・ダンス「ムスリムのダンス」(La Musulmane, pas de caractere oriental)38を加えた。その後、プティパ が(1885年までに)3回にわたって改訂を加えた。プティパは1863年39の第1回目の改定で作 品構成を3幕5場から4幕5場に変更し、第2場にメドーラの踊りを2つ加えた(1859年にサン
=
レオンが加えた「ムスリムのダンス」は削除)。メドーラと男性1人40、女学生4人の計6人 で踊られるパ・ド・シス(Pas de six)と、メドーラのソロとなる海賊のパ(Pas du corsaire)である(図1)。ただし、プティパはこの2つの踊りを1868年の改訂で削除している(つま り、ペローの初演版第2場と同じ形に戻った)。
大きな変更は1868年の2度目のプティパの改訂に起きた。第1幕第3場に新たに大規模な舞 踊場面「生ける花園」(Le Jardin animé)が加えられたのだ。物語の筋はマジリエのものと変 わらず、パシャの邸宅に、メッカの巡礼に向かう途中のスーフィーの修道僧に扮したコン ラッドがやって来て、メドーラとギュルナーラ達を救い出すというものである。だが、修 道僧に扮したコンラッドが若く美しい奴隷女たちを前に恥じらいを見せるのを面白がったパ シャが、彼をもてなす目的も含めて奴隷女たちに踊るよう命じる、という場面設定が加えら れたのである。踊りの直前に、奴隷として連れてこられたばかりのメドーラが踊りを拒む が、修道僧がコンラッドと分かると安堵し、一緒に踊りを始めるという流れもある。
ロシア語で
Оживлённый сад
と呼ばれるこの場面に関してゴーロス紙41は、主演のグラン ツォワの見事な足さばきと、生き生きとした花をほうふつさせ魔法の庭を表象した80人の 群舞を称賛した。公演情報ポスターによれば、「生ける花園」の群舞は84人で構成され(メ ドーラとギュルナーラを除外)、そのうちの約3分の2が女性ダンサーであった。内訳は次の 通り。38 1859年11月8日、ボリショイ劇場で上演され、ロザティが初めてメドーラ役を演じた公演。
39 1863年1月24日、ボリショイ劇場。プティパの妻のマリヤが初めてメドーラ役を演じた。マリ ヤ・プティパの恩典公演。
40 クリスチャン・ヨハンソン(1817-1903)が踊った。配役表に彼の名はない。
41 Петербургский балет. Три века: хроника. Том II. 1851-1890 ― СПб.: Акад. Рус. Балета им. А. Я.
Вагановой, 2015. С.134.
メドーラ(主演)、ギュルナーラ(ソリスト)
女性ダンサー 18 名42
女性コール・ド・バレエ・ダンサー 24 名 男性ダンサー 18 名
帝室学校の女子生徒 12 名 帝室学校の男子生徒 12 名
1880年の3回目の改訂では、第2場に海賊たちが踊る活発なキャラクター・ダンスを加え た(Форбан)。踊りは海賊の副頭領ビルバント(ソリスト)を含む3人の男性と女性3人が 踊った。また、2回目の改訂の際に削除したメドーラのソロ(Le petit corsaire)と、メドー ラとコンラッドのダンス(Сцена с танцами/ Scène dansante)の二つの踊りを復活させた。
プティパが既存の作品に手を加えていったことは周知のとおりだが、『海賊』の振付改訂 の例からは、女性中心に舞踊規模を拡大させるとともに、キャラクター・ダンスも加え、作 品全体に色彩を与えて舞踊を拡大するという手法を用いたことを確認できた。
ではこの振付改訂と独立したディヴェルティスマンに、どのような類似や差異があるだろ うか。
まず、ダンサーの人数、舞踊規模が圧倒的に異なる。独立したディヴェルティスマンで は、6人以上のダンサーが一度に舞台に立って踊るというような大規模な踊りはなかった。
一方で、『海賊』に加えられた「生ける花園」のような大規模で女性を中心とした舞踊場面 は、バレエ・ブランの延長にあるといった方が正しい。プティパが自作にバレエ・ブラン を取り入れた最初のバレエは『ファラオの娘』だろう。1862年初演の『ファラオの娘』第1 幕第2場において、すでに女性群舞中心の舞踊場面があった(構成はソリスト女性3人、女 性コール・ド・バレエ・ダンサー
18人、帝室学校の女子生徒18名、帝室学校の男子生徒18
名)。この場面はピラミッド内部でアヘンを吸った主人公が夢を見るというもので、やはり ロマンティック・バレエ時代の幻想的なバレエ・ブランを継承していることが分かる。つ まり、『海賊』の「生ける花園」では夢や死の世界ではなく、現実的な場面設定の中でバレ エ・ブランを踏襲したというべきである。話をディヴェルティスマンとの比較に戻そう。上記の通り、人数規模ではディヴェルティ スマンと「生ける花園」には類似は見られない。だが、「生ける花園」にはマジリエとペ ローの『海賊』にはなく、作品全体のあらすじに大きく関与していない場面であり、この場 面が表象しているのは、パシャの豪華絢爛な生活に見られる祭典の要素である。
バレエ作品中における祭典の要素は他の作品にも多々見受けられ、例えば『ファウスト』
には舞踏会や地獄のバッカナーレ(Bacchanale infernale)の場面があった。祝祭的側面は、第 3位にランクインした『農民の婚礼』にも当てはまる要素なので、次節で詳しく紹介したい。
42 公演情報ポスターには18人の出演者名が記載されているが、ここでは割愛する。
3.3. 『農民の婚宴』に見られる祝祭的要素
19世紀後半に初演され、ほとんど手が加えられないまま上演され続けたバレエが『農民の 婚宴』(第3位)である(このバレエは現在上演されていない)。同作は小さなバレエ作品 で、単独で上演されることはなく、独立したディヴェルティスマンと同様に他のバレエ作品 やオペラ、ヴォードヴィルの前後に上演されたバレエであった。また、独立したディヴェ ルティスマンと同様に夏季シーズン(全幕バレエの上演が減少する期間)にも上演され続け たバレエである。そして、複雑な物語がない点や、踊りの内容、上演形態からして、バレエ というよりも独立したディヴェルティスマンの性質に近い。本節では特に上演数の多かった
『農民の婚宴』と独立したディヴェルティスマンにおける祝祭的側面の類似に関して考察し たい。
『農民の婚宴』(Крестьянская свадьба/ Wesele w Ojcowie)は、フランス人の振付家モーリ ス・ピオン43が振付けた全1幕のバレエである。初演は1851年2月6日、ボリショイ劇場で ポーランドのバレエ団によって初演された。物語は極めて単純で、農民のマトフェイが娘の ソフィアをオルガン奏者の息子スタニスラフに嫁がせるというものである。1853年1月30日 の改訂では、ポーランド出身のキャラクター・ダンサー、フェリクス・クシェシンスキーが 振付けたクラコヴャックが加えられた。この公演が彼の帝室劇場デビュー作である。
1853年版の結婚式の場面の踊りは次の通り。
クラコヴャック(女性ダンサー 18 名、男性ダンサー 18 名)
マズルカ(女性ダンサー8名、男性ダンサー8名)
クラクフのパ・ド・ドゥ(スタニスラフとソフィア)
マズルカのソロ(女性ダンサー1名)
クラコヴャックのパ・ド・トロワ(男性ダンサー2名、女性ダンサー1名)
フィナーレ
物語中で結婚する二人はクラクフのパ・ド・ドゥを踊り、その結婚式の参列者という枠組 みで様々なポーランドのダンスが踊られたと思われる。クシェシンスキーはクラコヴャック とマズルカ、そしてクラコヴャックのパ・ド・トロワの3曲を踊った。クシェシンスキーの 見事なキャラクター・ダンスはペテルブルグの貴族の間で話題となり、マズルカが社会の流 行になり、彼のダンスレッスンを受ける婦人たちが増えたという44。
43 Maurice Pion (1801-1869). 1818年からポーランドで活動を始めた。F. タリオーニの後を継いで
ポーランドのバレエ発展に寄与し、F. クシェシンスキーなどのポーランド人ダンサーを育成 した。ポーランドの個性ある作品を奨励した。
44 А. Вольф.Хроника петербургских театров с конца 1826 до начала 1855 года. СПб. , 1877.
(Петербургский балет. Три века: хроника. Том II. 1851-1890 ― СПб.: Акад. Рус. Балета им. А. Я.
Вагановой, 2015. С.25.
本作の特徴に関しては、1851年の公演批評から次の一節を引用したい45。
この小さなバレエ(『農民の婚宴』)、あるいはメタファーなしに言えばディヴェルティ スマンは、(中略)内容は問題ではなく、重要なのは結婚式の場面で生き生きとマズル カを踊り、威勢よくクラコヴャックを踊ったワルシャワのダンサー達であった。(中略)
最も巧妙で優れているのはポーランドのダンスであった。(下線筆者強調)
『農民の婚宴』で踊られたダンスは、独立したディヴェルティスマンの構成内容と等しく、
キャラクター・ダンスであった。そして、登場人物のドラマを描いたバレエというよりも、
むしろ舞踊小品集としての性格が強かったということになる。また、農民の生活風景と結婚 式という祝祭的要素は、『セミーク、またはマリアの森の遊楽』などのロシア最初期の独立 したディヴェルティスマンと同様の特徴であることを強調したい。そしてこの『農民の婚 宴』の要素は、踊りそのものを祝祭的場面で見せるという、バレエにおけるディヴェルティ スマン的要素に限りなく近い立場にある。本作が1851年から1885年までの約30年間の間に、
これほどまでの上演数を記録したという事実は、帝室劇場では踊りそのものを楽しむ演目が 好まれていたということを裏付けていると言えるだろう。
おわりに
本稿では、ロシアのサンクトペテルブルグ帝室劇場においてロマンティック・バレ エ が 移 入 さ れ 始 め た
1830年 代 か ら1885年 ま で を 対 象 に、 公 演 情 報 ポ ス タ ー(Афишии цмператорских театров)を一次資料として用い、バレエと独立したディヴェルティスマンの
上演数を提示し、それぞれの関係性について考察を行った。第1章ではロシア独自の独立したディヴェルティスマンの概要を概略し、第2章ではス ターバレリーナの活躍とバレエ、ディヴェルティスマンの上演数の変化と関係性について論 じた。特に、マリー・タリオーニ不在時には独立したディヴェルティスマンの上演がバレエ の上演数を上回り、バレエの演目を補っていた可能性を示した。そして、ロマンティック・
バレエの時代の1848年から約10年間帝室劇場のバレエマスターを務めたジュール・ペロー は、バレエだけでなく独立したディヴェルティスマンの上演も共に増加させ、バレエの振付 にもディヴェルティスマンの性質を取り入れ始めた。例えば、初期のロマンティック・バレ エ『ラ・シルフィード』や『ジゼル』をレパートリーから外し、『パ・ド・カトル』という バレエ・ディヴェルティスマンを振付けたのであった。
第3章では最も上演回数が多かった10のバレエを提示したが、その中にもペローが深く 45 Пантеон и репертуар русской сцены. Кн. 2.СПб. , 1851.(Петербургский балет. Три века: хроника.
Том II. 1851-1890 ― СПб.: Акад. Рус. Балета им. А. Я. Вагановой, 2015. С.17.)
関わったバレエが多かったことが明らかとなった。そして、『セミーク、またはマリアの森 の遊楽』のようなロシア最初期の独立したディヴェルティスマンの特徴である祝祭性が、最 も上演数が多かったバレエ第4位の『ファウスト』や第8位の『海賊』においても見られ た。今後は、ペローの他の創作に見られるディヴェルティスマン的要素をさらに抽出し、19 世紀末へ向けたバレエの舞踊場面拡大とその構造化との関係性を分析していく必要があるだ ろう。
1860年代以降のバレエ改訂の特徴は、アルトゥール・サン=レオンとマリウス・プティパ によって舞踊数が増加し、舞踊規模が拡大したことである。『海賊』の改訂においては、プ ティパは物語に直接関わらない新たな一節を加えて大規模な舞踊場面「生ける花園」を設置 し、そこでは女性を中心とした群舞が主要な要素となっていた。これが19世紀末へ向けて構 造化し、『眠れる森の美女』等のクラシック・バレエにも受け継がれていった可能性を考慮 して、研究を進めていく必要があるだろう。
バレエは元来踊ることそのもの、踊りを見せる、技術を披露することに重点が置かれ、16 世紀以降のオペラの作品の中の祝祭的場面で踊られた。しかし、18世紀にオペラから独立し て、一貫した物語を持ち登場人物のドラマを伝える舞台舞踊芸術へと生まれ変わった。そし て、その延長線上に発展したロマンティック・バレエのような物語性の強いバレエが流行し たわけだが、ロシアでは踊ることそのものに対する関心が、独立したディヴェルティスマン とバレエの両方の劇場演目において続いていたということを、数値的に確認することができ た。さらに、ロシア・バレエ史の発展は、バレエだけでなく、バレエと独立したディヴェル ティスマンの両者が共に関係しあって発展したということも確認することもできた。
本研究は、バレエ作品の中に独立したディヴェルティスマンが取り込まれていった可能性 があるという仮説のもとに成り立っている。そのため、19世紀末へ向けては、独立したディ ヴェルティスマンの上演数が減少していくことが予想されるが、この上演数の推移や内容の 変化の分析と併せて、ロシアのバレエ上演史の分析を進め、独立したディヴェルティスマン を19世紀全体のバレエ史に位置付けていかなくてはならないだろう。
参考文献
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Cohen, Selma Jeanne (Founding Editor), International Encyclopedia of Dance, 6 vols. (Oxford UP, 1998).
【付記】本稿は、創価大学ロシア・スラヴ学会研究大会(2020)での研究発表を発展させた ものです。ご指導いただいた先生方に心より感謝申し上げます。
本研究は