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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

山の神古墳の研究 : 「雄略朝」期前後における地域 社会と人制に関する考古学的研究 : 北部九州を中心 に

辻田, 淳一郎

九州大学大学院人文科学研究院 : 准教授 : 日本考古学

http://hdl.handle.net/2324/1515740

出版情報:2015-03-23. 九州大学大学院人文科学研究院考古学研究室 バージョン:

権利関係:

(2)

第 章 山の神古墳出土遺物の

第 節 墳丘と横穴式石室

辻田 淳一郎

の 古墳の と ・

 本節では,山の神古墳の の ・ について整理し,これまで 表されてこなかった横穴式 石室実 や墳丘・地形略 などを に,遺跡としての山の神古墳の全体像を明らかにすることを 目的として検討を行う。その上で,第

2

節において出土遺物の検討を行うこととしたい。

 山の神古墳は福岡県 塚 大 石 に所在する。2006年に 塚 と合 する前までは嘉穂 穂 町に属していた。 約35m 前後の東西に がる 丘 (平 部との 約15m)の南側

26m 前後に位置している( )。後述するように,現在は墳丘の大半が 平されて の 中に埋もれた状 である。

石室の と遺物の  山の神古墳は1 33(

8

)年に された。以下, の を 古墳 (2001)より 用する:「明 時代以降 は 地として し,穂 町においても例外な く多くの が営まれた。 地区は として の石 を 出していた。明 30年に は福 岡県 に「 営製鉄所」を し, 料供 のため石 部 として を , 営

「 出 所」が した。後述する には「 地」の 載が 所に られる。 では 県にある大おおやまづみ神社から分 を けた神社を することが多く,通 山の神神社と ばれていた。

10年 , 出 所が大山 神社 のため造成を行った ,山の神古墳の石室が された。

石室内から大量の副葬品が出土し,九州大学により改 され,現在も大学に 管されている」(穂 町 2001: 1 )。山の神古墳の「山の神」はこの大山 神社の分 に するもので, 15

(1 40)年 行の 全 山と大山 神社 (第一 )には「 年 現在」の「大山 神社 御神 全 山 」の中に「嘉穂 穂 大 」の「 本製鉄 式会社 所中央

」が え(西 2013),後述の鏡山氏資料には「山神社」(さ じ じ ,やまじ じ ,やまのか みし )と 載されている。以下本節では「山神社」と表 する。また上 の 章中で「 10年」

とあり,他の 献でもこの年代での とする 述が されるが,梅原 ・小 行雄 氏による 年の寿命王塚古墳 に関する以下の 述や東 の梅原資料からも「

8

年」と 正さ れる:「 等の遺跡が く世に られる になったのは, 近一 が工 地 し, の採 の 行 と連関していて,それは 合に近年の事である。 年 塚 に近い穂 山 神所在の一前 方後円墳の石室が かれて遺物を出したことに を し, 続いて同九年に,右の王塚古墳の石室が 土 の採 に って 出され,その壁 に な の かれてあった点で, しく世人の注目を くに ったのである」(梅原・小 1 40:

2

)。以上のように,1 20年代~30年代の本地域における

・土 採 に伴って山の神古墳・王塚古墳が されたことがわかる。また第 3 章で検討す る桂川町金 山古墳についてもこの に存在が確認されている。山の神古墳については,当時九州 大学法 学部副手を され, 史学 室に していた鏡山 氏(1 08~1 84)によって遺 物が回 され,後述するような墳丘・石室の略 が として された。遺物はその後1 58(

(3)

33)年に 置された考古学 室(初代 :鏡山 氏)に き継がれ,現在も九州大学大学 人 学 考古学 室に 管されている。

  10(1 35)年には 大学により寿命王塚古墳の が行われており, 15(1 40)年 には報告 が 行されている。この中に上述の 章がみられ,王塚古墳の を行った梅原 氏と 鏡山氏との に 接な交 があったことが われる。後述する東 資料から,梅原氏が 12

(1 37)年と 23(1 48)年の

2

にわたって遺物 を行ったことが確認でき,王塚古墳とあわ せて非常に い関心を持っていたものと考えられる。 者が 正 氏から ったところによると,

後者の 23年時の は梅原氏が九州大学に集中 に れた に実 されたものであったとのこ とであり,多くの遺物実 が されている。

石室の と の  石室 の後, 前から 後にかけて,山の神古墳の現地は,石室 の周 が で まれ,山神社の 内に 存されていたようである。 2 1は, 時が不明である が山神社 内の である。 と参 が え,正 に中央 の が える。右側の参 は 手に 分かれており,右手に木製の が確認できるが,おそらくこれが横穴式石室の位置を示しているもの と られる。 は山神社の 内から東方向を向いて されたもので,右手側に横穴式石室が存在 したことを示している。 には「 年三 」の がみえる。 2 2は,1 30年前後 の周辺地 であり,左手に山神社と「古墳」が える( )。東側から階段を上り参 を に左 手に横穴式石室があったものとみられ,上 の と位置関係が一 している。

  穂 町 (1 6 )では, 島 平氏により「山の神古墳 」と題して次のように報告されてい る:「墳丘は,先述したように 神社 内造成のため, しく 平をうけ,原形の 定が であ るが,石室の位置,円筒埴輪列の一部の 存状 から,前方部を西側に位置した全長約 の東西 長軸の前方後円墳であると 定される。円筒埴輪の 片はこの地域一 にみられるが,特に南側の

には で,一部分列をなしているところもある。石室の構造は,石室の 当時に実 した人た の で,横穴式石室とも 穴式石室ともいう つの 解があるだけで,詳細は不明である。た , この地方の 世紀後半代に られる 穴式石室 の横穴式石室であると考えられる。副葬されていた 遺物は, 当時, に 事した人 によって一 持 出されており,学 的な も行われてい ず,石室内にどのように配置されていたか らない。遺物の中には,石室内にとり されたものがあ るようである。…(中略)…このように山の神古墳からは な遺物が出土しており,古墳の 年に おいて 的な内 をもっていて,この古墳は 世紀 から 世紀初頭にかけての年代が考えられ る」( 島1 6 : 44 45)。以上のように埴輪列の存在を示す 述があるが,九州大学所 資料の中 には埴輪類が確認できず,また 塚 会・ 穂 町 会でも埴輪類は 管されていな いことから, 島氏に2014年 4 に直接お いしたところ,当時一部の表採資料が嘉穂 土部に 持 まれ 管されていたようであるが,その後 の などに伴い所在不明になった可能性があ るとのことであった。 島氏にお いしたところでは,当時墳丘はすでに 部で 平が でおり,

石室が で ってあった辺りから下方をの き ように墳丘 ( 平された )を るとそこ に円筒埴輪列が に 出した状 で 認できたとのことである。埴輪列の や円筒埴輪の大きさ がどの であったかといった点については不明である。

2

墳   島氏の 述には,山の神古墳の内 と せて,もう 1 つの石室の存在が されて いる:「 三 年当初に された石室から ほど れた所で,石室の 井部が して,

(4)

2 1 中央 山神社

2 2 「大正 期~ の中央

(5)

石室の 井の一部を地表に 出した たな横穴式石室が された。石室の 出部は直 に埋めもど されたので,副葬品など,石室の内部の詳細は不明である。これを山の神 墳とよ でいる。古墳 の 近で いた古 の によると,もともとこの地には つの小山が であって, 神社を する に, 方の山を り, の を埋めて神社の 内にしたとのことである。このことが確かであ るなら,前後して された 石室は別 の古墳のものであると される」( 島1 6 : 44)。こ の「山の神 墳」に関して,2014年に九州 史資料 の 原正 氏から, 32(1 67)年当時の 福岡県 会への が存在することについて御 示をいただいた。それによれば, は

32年 23 であり,「山の神 内」「山神社 内に約 角の穴が出 たる どもの びに と 埋 を ふのに状況を らふと,の きたるところ 穴式石槨古墳を した」とあり,

「 を ふ理 」として「山神社 内は どもの 地として 用している 現在の では であり 副葬品の を るる 」とされ, 鉄 所中央 係長 で10 1 に(福 岡県) 長 に が 出されている。その後,11

8

に県と 合わせ,11 10 に「 次郎先 ・県社 係長」の 氏が現地 を実 したことが されて いる。その直後,11 11 には福岡県 社会 課長 で福岡県 嘉穂出 所長 に「山の 神石室の 存について」の要 が 出されている。その内 は,「 のものとともに考古学上 重な遺跡でありますから 鉄 所と連 の上左 要 により 存の 置を られるようお いします。なお の必要にせまられたときは せ行う必要がありますので 今の所は 存を主にして考えております」とあり,「 存と のため 部をス ト , ト

,その他 しないものにて い, 土をつめその上に 動場に した土 を し,要すれば 等かの 示をすること」というもので,「 32年11 1 鉄 所 課 と 接し詳 細な 合わせを行います」と結ばれている。以上から, たに された横穴式石室が やかに

次郎氏らによって現地 され, 存 置がはかられたことが る。ただし,この に関して も, の存在等が 確認であり,山の神古墳( 1 墳)の主体部との位置関係が不明である。 島 氏(1 6 )の 述では「 ほど れた所」とあることから,実 に別の墳丘であったのか,例え ば山の神古墳の前方部などであった可能性があるのかどうかといった点は現状で確認することが である。この「山の神

2

墳」についてはその後福岡県遺跡分 (福岡県 1 80)にもこの で されており,本 でも し当たりこの理解に うが,「

2

墳」の石室の位置や墳丘への帰属 については今後の課題としておきたい。

の と  1 73( 48)年には, 島 人・藤田等 氏の 集によ り 嘉穂地方史 先史 が 行され, 時代から古代に る嘉穂地域の考古学的遺跡が 的に 集成・ された。山の神古墳についても, 島 人氏により次のような報告がなされている:「山

神古墳  塚 前から 方 に向かう 中が穂 町 地区である。この辺はかつて 鉄 の事 所として,石 の 時には と する 者の が でいたところである。

その一段 い地形の所に工 所の山 神を る神社が てられていたが今はない。その 地 平工事 の に古墳の石室が されて,多量の副葬品が出土した。当時,現地を検分された鏡山氏も実 に に われたわけでもなかったためであろうか, の後詳しく報告されたものとしては 当た らない。……現在は神社も り かれて付近は梅 に わった。現在でも付近から円筒埴輪の 片が り出されて 乱している。この古墳が された後, 30年代に,その同じ神社 内で横穴式石

(6)

室 1 基が 出した。これを山 神

2

墳 と し て い る 」

( 島1 73: 384 386)。こ の報告と せて遺物の と 墳丘の が されている

( 2 3)。現地の地形は,南 側の が く,前方部側の 北側が くなる地形であるの で,中央の まりが後円部で 右側に前方部が びる状況を したものかとも想定され

るが の域を出ない。なお当該 所 の馬具類の 葉の中には,福岡県番塚古墳出土の 形 鏡

2

点と剣 形杏葉

2

点が 在しており,注 が必要である。この墳丘 が されたのが いつであるのか不明であるが, 41(1 66)年の の 山に伴い周辺の 平・ 地 が 行 したものと想定される。先の 穂 町 の 行が 42(1 67)年であり, 島氏(1 73: 48 年)の 述においても「神社が り かれて付近は梅 に わった」とあることから, 40年代

~ 50年代以降に墳丘の が だものと想定される。その ,先に 存 置が じられた「山 の神

2

墳」の石室や 石室(山の神古墳の石室)がどのように われたのかを した資料は現時点 で確認されておらず,これらの石室のその後については不明である。墳丘付近は 地 が み,周辺 の地形は 状をとどめていない。 かに東側から山の神神社に参 する参 の階段が 存するのみで あり( ),この階段の存在から,階段を上った地点が後円部および石室 部に近い位置にあた るものと される。

と の  1 0年代以降,穂 町・ 塚 周辺では 地 が し,多くの遺跡の が行われた。その中でも,1 6年(平成

8

年)には,山の神古墳の西南約1 8 m の丘 部付近に 位置する小正西古墳で横穴式石室が され,1 年には県史跡に 定された。北部九州型初期横穴 式石室を

2

基 えた円墳であり,山の神古墳や櫨山古墳との時期的近接性も含めて注目された。2001 年には,穂 町 会から 古墳 の報告 が 行され,その中で山の神古墳の遺物の一 部と, たに された が された( 2 14)。これにより,墳丘主軸が北西 南東方向に びることが明らかにされ,墳丘 も 島氏(1 67)や 島氏(1 73)によって論じられた「約 80m の前方後円墳」という点が追認された。またそれと せて,東 の梅原 氏資料の中に横 穴式石室の略 が存在していること,また石室の や形 が小正西古墳 1 石室と近いことなど について 及がなされたが(穂 町 2001: 22), については されないまま現在に っ ていた。出土遺物については 穂 町 (1 67)や 嘉穂地方史 (1 73)において と 要が

され,また特に馬具 の分 では金 装の 形鏡 付 と剣 形杏葉の

2

つのセットを含 資 料として注目され, くから が行われてきた。小田 雄氏にお いしたところ,氏が 手を められていた時代に 大学の小 行雄氏や小 山節氏が のため九州大学に 学され,実 され ていたとのことである。馬具に関しては,その後も な形で資料 が行われ,検討が められて きた。1 3年に九州大学考古学 室により 番塚古墳 が 行された ,報告 成に参 されて

2 3 山の神古墳

(7)

いた重藤 行氏や 氏らにより,鉄鏃や小札甲をはじめとした遺物について,時期的にも近接 する山の神古墳の資料整理が部分的に行われ,それが今回の整理報告の基 になっている。また先の 穂 町 会により 古墳 が 行される前後に,当時福岡県 事 所に在 して いた 同氏・穂 町 会の 氏と九州大学の西 正 ・ 本一 (当 時)を中心として,穂 町と九州大学と共同で山の神古墳の遺物の整理・報告を行う が 行して いたが,小正西古墳の と 存・整 のため中 された状況となっていた。ここまでが本

以前の状況である。

 2011年に 学 が採 され,本 を するにあたり, 塚 会の 田 一氏,

氏らとともに,藤田等氏にお を う 会を得,その で現地の現況確認と関連資料の確認 を行った。その , たに確認されたのが先に挙げた 2 1である。また本章で検討される円筒埴輪 片は,この 田氏・ 氏とともに2011年 6 に現地を した に,前方部 近の 地で表 した ものである。ただし表採とはいえ の中に がっていたのではなく,以前に かが表採したものが 地の に集積されたような状 で確認したものであり, には山の神古墳の遺物かどうかも含めて 参考資料とされるものである。また嘉穂 土部でも所 資料を 学させていただき,現在の所 資料の中に山の神古墳出土と われるような円筒埴輪片などは確認することができなかった。その後,

九州大学考古学 室の 列室所 の遺物について確認を行い,全体像の を行った上で,具体的 な遺物整理・実 を した。

  当時の ・ ・ 類については,現在までのところ考古学 室には 管されていない ようである。ただし,上述のように 法人東 の梅原 氏資料(以下梅原資料)の中に,山 の神古墳関連の資料が含まれていることが されており(東 1 4: 51),先の 古墳 での 及もそれについてであった。またそれ以外に,鏡山 氏所 資料(以下鏡山資料)の一部 が2006年に九州大学 合 物 に寄 されており,その中に山の神古墳の資料が含まれているこ とを確認した。東 の梅原資料についても内 を全て確認する 会を得たため,以下にこの

2

つ の資料について するとともに,それをもとに山の神古墳周辺の 地形・墳丘形 ・横穴式石室・

遺物出土状況の情報について整理することにしたい。

の 古墳 の   山の神古墳については,「山の神古墳」および「山 神古墳」の

2

つの表 があった。確認したところ,鏡山資料や梅原資料では「山 神古墳」として されてい るが, 室所 のラ には「山の神古墳」の表 もみられ 者が 在している。馬具 などで は「山 神古墳」出土資料として ・検討されてきたこともあり,「山 神古墳」の表 が一 的 であったようである。一方で地 での遺跡 としては, 穂 町 (1 67)では「山の神古墳 」,

嘉穂地方史 (1 73)では「山 神古墳」として 述され, 40年代においても表 が れている。

先の大山 神社の分 としての「山神社」については,「 山の神 を る場」として 明されること が多く, 32年の「

2

墳」 の も には「山の神神社」として 載されており, 出 所の地 の 当者の では「山の神」と表 されていたことがわかる。この を けてかどう かは不明であるが,その後,1 80年の福岡県 会 成 福岡県遺跡分 地 では「山の神 1

墳」「山の神

2

墳」として され,現在に っている。その上で 古墳 (2001)では

「山の神古墳」として報告された もあり,本共同 においてはこれまで「山の神古墳」の表 を採用してきた。また現在の 塚 会の 報告 でも,遺跡 として「山の神古墳」の表

(8)

が定 している。以上を まえ,本報告 では 1 墳として されてきた

8

年 の前 方後円墳および初期横穴式石室について,「山の神古墳」として表 することとしたい。

 まず九州大学 合 物 所 の鏡山資料について検討する。具体的には横穴式石室の き 1 と,方 に された横穴式石室遺物出土状況 (表),そして出土遺物の ( ) がある。

  2 4は,「 山 所山神神社 内古墳 三 分 一」である。北部九州型初期横穴式石 室を したもので,中央には遺物出土状況が 載されている。これについては後述する。

  2 5は,「山神社」と された遺物出土状況 (A 4 の方 2 6 の )で, 2 4と 載内 が一 している。これについても後述する。

  2 6は,A 4 方 に された遺物の きであり,三輪玉・ 形杏葉などから山の神古墳出 土遺物についての であることが できる。その 載内 は,鋳造鉄斧・「ガラス小玉 」「出

石 九 管玉」・三輪玉・ 札・剣 形杏葉・ 形鏡 (「大小一対」)・「 鏃約 本」・「直刀 本・剣一本」・輪 (一対)となっている。現存が確認できる遺物との いで特に注 しておく必 要があるのは,「出 石 九 管玉」と「直刀 本・剣一本」の

2

点である。玉類についてはガラス小 玉・銀製空玉が存在するものの,所謂碧玉製管玉は現存しておらず,これらが 当時は存在してい たことを示す 重な である。また直刀については 4 本 な状 で 管されているが,それ以外 に刀装具が 含まれており, 直刀 7 本が存在していた可能性について考 する必要がある。な お本 の上に く で区 された に と しき が かれているが,これが遺物であるのか

に きであるのかについては不明である。

 鏡山資料の中では,横穴式石室の実 原 は確認できていないが,次に検討する梅原資料の中に含 まれる石室略 と石 の外形 が一 することから, き 以外に原 が存在した可能性があ る。上 の 以外の 章原 等も 確認であり,存在する可能性も含めて を継続したい。

・ の

 東 の梅原資料の中に含まれる山の神古墳関連資料としては,大きく分けて 鏡山氏からの とそれに付 する ・ ・ 本類, 梅原 氏自 による遺物実 , 正 氏による 鏡の 本等の寄 資料がある。 は にいえば現地での検分や遺物の回 にあたった鏡山 氏によ る 資料であるが,梅原資料に含まれることから本項で する。以下では の関係もあり 要 の にとどまるが, と の一部について検討する。

鏡山氏の に伴う ・ 類

1 )「 前嘉穂 穂 本製鉄会社構内山 神古墳実 分の一」

・梅原資料地形 量 ( K13 1 5630 )

・梅原資料横穴式石室略 ( K13 1 5630 )

 鏡山氏から梅原氏に てて られた に,山の神古墳の墳丘周辺地形 量 と横穴式石室実 が付してある。 に「 一 」とあるが 年のことであるか不明である。以下の内 が

(9)

載されている(山の神古墳関係の 所のみ )。

「…… の古墳は 製鉄( 用者 :現 本製鉄 式会社)の 出 所 構内ですが古墳 の所在地は穂 に入って ますので 通 町と していますが地 を詳しく しますと町 に近 いのですが穂 ですから御 下さい。古墳 近の地形 に 量が 分出 ていませ ので

で ず現して置きました。石槨は 井を いて 入ったので の 等は不明です。鏡 も 不 明な上に い ですから御注 下さい。 右 先は御 事まで」(下 部 用者)。

 横穴式石室の が 部付近ではなく 井部であること, 部付近の 状況等については であることが されている点にここでは注 しておきたい。

 地形 量 ( 2 7)については, 付 の実物を実 したところ,方 ではなく 地で 手 の に直接 で き まれており, イ の などは確認できなかった。 って略 と るか,原 が別にあってそれを らかの形でト スした正確な であるかのいずれかの可能性が

いと考えられる。この 量 で問題となるのは,全体の方位である。この 量 では,参 に向か 2 4 鏡山資料 :横穴式石室

(10)

う階段が「北西」方向に びているが,先に た や現状での階段の位置から考えると,この の方位は南北 とみた方が実情に している。その場合,石室が「東側」ではなく「西側」に す ることになるが, 2 4・2 5の石室実 では 方向が「西側」となっている点とも しない。

以上から,本 量 については南北方向が であるものと理解し,石室や神社の位置関係については 後述したい。

2 5 鏡山資料 :横穴式石室遺物出土状況略

(11)

2 6 鏡山資料 :遺物略

(12)

2 7 梅原資料地形 (鏡山

2 8 梅原資料横穴式石室実 (鏡山

(13)

 横穴式石室実 ( 2 8)は,先述のように鏡山資料の石 の外形 とほぼ一 しており,同一 の原 に基づくものとみてよい。側壁の表現において壁体のみならず, 石・前壁・ 井石などを

として組み でいる点が鏡山資料の と異なっている。内 については後述する。

梅原氏自 による遺物実 等

 ここでは多 存在する遺物実 ・ のう , 4 点を する( 2 ~12)。

1 )梅原資料( K13 1 5631)「九州 大学法 学部   ・ ・   年 出土」

(梅原 氏による 資料): 2

2

)梅原資料遺物 ( K13 1 5634): 2 10

3 )梅原資料遺物実 ( K13 1 563 )胡籙方 金具: 2 11 4 )梅原資料遺物実 ( K13 1 5642)瓢形杏葉: 2 12

  1 )の中には,出土年や 年とともに,墳丘の略 ,捩り環,三輪玉, 鏡

2

などが され ている。 の実物は B 4 イ で 5 mm 方 である。このう 墳丘略 については,前方部をやや 西に れた北向きに位置づける点は実情に近いが,石室の 方向が東向きになっている点で先の鏡 山氏の とは する。資料 の に鏡山氏から き きした であるとすれば,鏡山氏の

いであった可能性も想定される。また捩り環は環体 約 1 m,全体の 存 約4 5 m であり,「内 部木心」「銀 り」の 述がある。また三輪玉は「 片」「金 小

2

」「少なくも 分あり」の 述がみられた。このう 捩り環については 穂 町 でも 嘉穂地方史 でも がなく,また 章中でも 載がないことから られていない資料であった。今回,

2

)の 資料( 2 10)の 中に他の鋳造鉄斧などとともに されていることから,山の神古墳出土資料として いないもの と われる。これについては 者が 当した本章の鉄製刀剣・鉾類の項目(第

2

節第 3 項)で具体的 に検討する。

 ここでは他に,胡籙の方 金具と馬具の瓢形杏葉の実 について 載している。方 金具につい ては現在までほぼ同 の配置で 管されてきたが,梅原氏が すように,鏡山氏の が基 にある ものと想定される。ここで した は梅原資料の中の山の神古墳関連資料全体のう の一部に ず,多くの実 が含まれている。梅原氏の実 の中では,他に 鏡類をはじめ,武具類では籠手 がみられ,また馬具類や 形 先,鋳造鉄斧や 状鉄斧などについては されているが,多 存 在した鉄鏃類や刀剣類,小札類,また衝角付冑などは されていないようである。本報告 では

の関係もあり梅原資料の全てを 示することはできず,これについては他 を期したい。

の 古墳の墳丘と横穴式石室

 以上の鏡山資料・梅原資料を含めた山の神古墳の墳丘および横穴式石室に関する情報について,こ こで整理して現時点での理解として 示したい。

と墳丘 ここであらためて山の神古墳の現在の周辺地 と を 載する( 2 13・14)。 周辺は 地 が み,墳丘は参 の階段付近を いて 状をとどめていない。 の が山神社で その南側( の付近)に横穴式石室が位置していたものとみられる。 2 13は,現在 存している参 の階段( )と 2 14の から びる参 の向きが一 すると仮定して,位置と を合わせ て現在の 地 (穂 町 会2001)に重 たものである。前方部の前 に東西方向の が

(14)

2  梅原資料遺物実 ・略

(15)

2 10 梅原資料遺物

2 11 梅原資料胡籙方 金具実 2 12 梅原資料瓢形杏葉実

(16)

位置することになり,これは後述するように 2 2の位置関係と一 している。 2 15は梅原資料

( 2 7)にもとづき ト スした地形 量 である。 2 14の との対 や現存する参 の階 段が南東側にとりつくことからも,原資料( 2 7)での方位は南北 で,北西側の の い方に 前方部が び,南東側に後円部が位置する前方後円墳と 定される。墳丘全長は 80m と想定され てきたが,この 上で80m とした場合,ある 墳丘形 が 存しながら,南西・北東のくびれ部・

側 部を中心として 平が 行していたものと される。 北側から南側・南東側に くなる地 形の上に築かれており,その場合に後円部が 下側に位置する形で築造が行われたことになる。先 に げた 2 2では,古墳(山神社)の北側に石 を する「 ス」が東西に っている状 況が かれているが,この「 ス」の位置が うど前方部 付近に該当するという点で,

2 2・2 15および2 13の 3 者は 一 しており,これによりある 古墳の位置と を特定する ことが可能となった。

 横穴式石室は後円部西側からくびれ部にかけての位置に存在していたとみられ,西側に する形 で構築されていたものと想定される。ただし, 2 7の石室は他の 2 2などにみられる山神社との位 置関係が に合っておらず,現状で不明であるため 示していない。もし横穴式石室実 ( 2 4)にあるように 方向がほぼ 西に向くということであるならば,くびれ部において主軸に対 して め方向に していたか,後円部南西側 で主軸に対して めもしくは横方向に してい たかのいずれかの可能性が想定されるが,この点については 定する 拠はない。

2 13 山の神古墳位置 2 14 山の神古墳周辺

(17)

 墳丘が 土によって構築されたかどうかについては情報がないが,地形に った墳丘形 となって いることから, 地形を 大 用した地山整形を基 としながら,部分的に 土を す形で構築さ れた可能性が いものと考えられる。段築については不明であるが,石室直下の に円筒埴輪列が 出していたことから考えれば,後円部に 3 段ないし

2

段の段築を しており,その平 上に円筒 埴輪が られていた可能性が想定される。前方部については不明である。現状では形 埴輪等の存 在は られていない。

横穴式石室と遺物出土状況 横穴式石室の実 を 2 16に示す。遺物出土状況については 入して おらず,先の 2 4・5などを御参照いただきたい。 2 16は鏡山資料の き に,梅原資料の側

を合成してト スしたものである。具体的な石室の法量は次の通りである。

   石室全長:14 4 4 32m 石室奥壁 :7 8 2 34m 前壁 :5 5 1 65m 2 15 山の神古墳 地形 (1 600)

0 20m

(18)

2 16 山の神古墳横穴式石室実 (1 60)

0 2m

(19)

    :2 5 0 75m  室 :8 5 2 55m

 石室の 井石は 3 の 石を用いている。西側に する横穴式石室であり,前壁を 3 段の石 に よって構成している。奥壁も同 で,大型の 石の上に 3 段の石 を積み上げてその上に 井石を 構している。奥壁の 石の大きさに対して側壁では基 石はそれほど大きくない。 部は 側に 石を 石状に てていたようであり,重藤 行氏のいう北部九州型初期横穴式石室 A 類の特徴を示 している(第 5 章第

2

節参照)。また側 の 情報と,鏡山資料の方 の の から,

に 細な が表現されていることから, は礫 であったものと される。なお先に たよ うに,鏡山氏の梅原氏 の中に,「石槨は 井を いて 入ったので の 等は不明です」

とあることから, や追葬がどのように行われたのか,あるいは墓 に須恵器が供献された可能性 の などについては不明であるが,実 から 石が北部九州型初期横穴式石室に通 の 石 1

によるものであることが確認できる。

 遺物の出土状況については,鏡山資料の

2

の石室 ( 2 4・5)が参考になる。この遺物出土状 況 が,遺物がすでに石室から り出された後のいわば き りに基づく によるものであるのか,

鏡山氏が実 した 石室の中に遺物が部分的に っていた上での であるのかといった点について は不明である。 2 4・5の 者で共通しているのは,奥壁と平行して刀剣類が

2

に分けて配置され ていること,その手前に刀剣類の

2

に対 するかのように鏡が 1 ずつ副葬されている点である。

それ以外にはいくつか異なる点がある。まず き ( 2 4)では,中央に「 馬具」という い が

2

つあり,左側にはその に「 他」,右側は鏡の下方に細かい 角形の集合がある。後者は 次の方 の出土状況 ( 2 5)からすると,玉類を表現している可能性がある。この 2 5で は,向かって左右 側に刀剣類・鏡をそれ れ配置する点は共通であるが,中央部分が「馬具 在 鏃」とあって

2

に区分したような形跡が認められない。向かって右側には「玉」とあり,玉類が右 側の位置に集中していた可能性がある。 き をもとに同 に鏃が左側に集中していたとまで 定 できるかどうかは しく, は せ るを得ない。刀剣類については, 大の鉄刀(後述,刀 4 )が約120 m 前後あり,それ以外にも 1 m 前後の大刀が含まれていることから,石室の奥壁 2 34 m という からいえば,奥壁に った形で刀剣類を

2

に分けて配置するのは り り可能な長さと みられる。鏡については, 2 5では

2

の鏡がほぼ同じ大きさで かれているが,一方で 2 4では 右側の鏡がやや大きめに かれており,この点に注 を っておきたい。

 以上のように

2

の出土状況 からは,共通項として

2

の鏡と

2

の刀剣類の存在,中央付近に 馬具類・鉄製武具類・鉄鏃などが集中し,やや右寄りの位置に玉類がまとまって副葬されていた状況 を み ることができる。ここにおいて, されてきた馬具の

2

セットとの対 関係が問題と なる。これについては馬具類をはじめとした 別の遺物の検討を まえた上で本章第 3 節にて 検 討することとしたい。

 以上,山の神古墳の ・ 史と, たに確認された資料をもとに墳丘形 ・周辺地形の と 横穴式石室について可能な り を みた。 後に山の神古墳の 要をまとめると次のようになる。

・全長約80m の前方後円墳, 石・段築等不明,円筒埴輪列を伴う

・主体部:北部九州型初期横穴式石室:全長4 32m,奥壁 2 34m,前壁 1 65m

(20)

・出土遺物の内 : 鏡

2

,玉類(碧玉製管玉,ガラス小玉,空玉),鉄製武器類(刀,剣,鉾,

鏃),鉄製武具類(衝角付冑,小札甲,襟甲,籠手等),胡籙金具,馬具類( 形鏡 付 ,剣 形 杏葉等:

2

セット),農工具類(鋳造鉄斧等)

 以下,上 の内 を まえた上で,現存する 遺物について検討を行う。

をなすにあたり以下の方 には資料 供や資料の などに しまして大 お世 になりました。 く御 し上げます。

  三,小田 雄, 一,重藤 行, 一, 原正 平,藤田等,

同, ,山 照, ,九州大学 法人東

略)

参考 献

梅原 ・小 行雄 1 40  嘉穂 王塚装飾古墳 , 大学 学部考古学 報告第15 人 1 73 「山 神古墳」 嘉穂地方史 先史 ,嘉穂地方史

人・藤田等  1 73  嘉穂地方史 先史 ,嘉穂地方史 平 1 6  「山の神古墳 」 穂 ,穂

考古学 会 1 4  東 梅原考古資料目 部・中 法人東

西  2013 「資料 山と大山 神社(第一 )( 大社大山 神社 所,一九 年) 28, 213 260

福岡県 会 1 80  福岡県遺跡分 ,福岡県

 1 6   穂 ,穂

 1 8  穂 町ものがたり ,穂

会 2001  古墳 ,穂 報告 第13集

2 1:

2 2:穂 会(1 8)より改 2 3: 島・藤田 (1 73)より改 2 4~6:九州大学 2 7~12: 法人東

2 13:穂 会(2001)をもとに辻田 2 14:穂 会(2001)より改 2 15: 2 7をもとに辻田一部改 ・ト 2 16: 2 4と2 8をもとに辻田一部改 ・ト

(21)

第 節 出土遺物

辻田 淳一郎

 山の神古墳出土遺物の中で 鏡は

2

が られている。第

1

節でみた出土状況 においても

2

以 上の出土があったとする はみられず,

2

のみの副葬であったものと想定される。以下,そ れ れの内 について報告する。

  15 0 m である。本鏡は,内区外区ともに一部 している。いわ る同型鏡 のう , 環状 神 鏡 A として位置づけられてきた一 に属する。

1

鏡も含めて全部で10 の同型鏡が られている( ・持田20 墳 本・ 古墳 本・ 田 山古墳 本・ 平 6 墳 福岡・

山の神古墳 川・ 頭西古墳 岡山・西 古墳 ・ 塚古墳 木・ 木神社周辺古墳

・中央 鏡( 2013))。

 本鏡の 構成については,鋳造段階で が不 明であるのに え,表 の の付 と によ り, が となっているが,川西 氏の (2004)において他の同型鏡にもとづき詳細が 明されており, 正 氏の (2003)なども参照しつつ 略を述 る。内区は 節重 の を えた が中心にあり,全体を環状 により

8

つに区分した 神 配置である。 は鋳上がり が く,特に 方向で した 上では 節重 の 部が不明確である。左右に西王 ・東 王 ,上段に ・ 期,下段に が配置される。その に ( )を 4 体の 像が配さ れる。内区外周には12区分の半円方形 が配され,その周 に 点に を持つ (

)がめ る。方形の は, 氏(2013)により報告された 中央 鏡を参照すると

「 王 」の り しとみられる。 の周 には 時 回りで がめ る。右上に位置する

( )を 6 体の が き,左下の位置に をもつ ,その前方に

2

体の ,

1

体の が 配され,その前方(右横)の位置に をもつ常 が配される。 外周には が配される。以下,

この配置を正位置として論を める。本鏡は,上 史氏(2000)による神 鏡分類によれば, 神 配置で 型式 A

2

(方 内 4 で「 王 」の り し)という点から,氏の 類 に該当する。その場合,原鏡の製 年代は

2

世紀後半~ 3 世紀初頭(上 氏の第 ~第三期)と考え られる。

  方向は, 方向を時 の分 に てると, 45分 15分である。 形 は10mm 6 mm の半円形で 者分類(2013)でいう

1

類に該当し,同型鏡 に通 のものである。横長の 円 形中 で, 部は一方が半円形で一方はやや長方形 である。またあまり明 ではないが, る と 上 がやや平 になっており,環状 神 鏡 A の他の資料との共通性がみられる(辻田2015)。 表 が で われており詳細不明であるが,現状では 跡は確認できない。 部の りが約 6 mm と非常に大きい点が特徴である。鏡 側は全 的に で われており, の上 にも の付 がみられ, にも一部 が被さっているが 内に の 存などはみられない。また鏡 側には

料の付 はみられない。鏡 側は が で土と一部に 料の付 がみられる。鏡 側に

(22)

も一部で の付 がみられることから, に われた状 で副葬されたものと考えられる。

 環状 神 鏡 A においては,左側の半円方形 ( )と右下の の内側( )に がある一 と ない一 の 者が存在することが られ,山の神

1

鏡はこのう ・ を持たない一 に属して

2 17 

1

鏡: 環状 鏡(1 1)

0 5cm

(23)

いる( 川・ 1 1 川西2004)。現状では,現物不明の 木県 木神社付近出土鏡および 中 央 物 鏡を く

8

は全て「第

2

次 み し鏡」とされる同一世代に属するものと想定されてい る。本鏡 の 的な特徴については別 にて論じているので せて御参照いただければ いである

(辻田2015)。

0 5cm

2 18 

2

鏡: 鏡(1 1)

(24)

  12 5~ 7 m である。 を で大きく右向きの

2

頭の が細長い 体を捩らせながら対置され,

それ れ した 部の一部が の下に れる形である。頭部は一 の角上の表現が頭 から左側に びる形で,目は大きい

2

点の で表現している。内区外周には と があり,「王氏 」 が されるがそれ以外は不明である。外区は一段 くなり,内側から

1

1

がめ り, の外 部に続く。外区の りはそれほど大きくなく,

2

mm 前後となる。外 部 は鏡 側・鏡 側のいずれも く している。 は一段 い位置に半円形の があるが 通 で,同型鏡 の一 的な とは異なる。鏡 には 料の が認められ,特に 周辺で の 存状 が である。鏡 は をよく しているが, れにより表 の が だ 所 が みられる。

1

鏡とは異なり, の な 跡等は認められない。本鏡は, ・鋳上がりが

で後 鏡一 と共通した特徴を示す。

 型式は 氏分類(1 7 )の 回式,上 史氏分類(2003)の型式2 1,辻田分類(200 ) の 類に該当する。岡 氏分類(1 3)の外区の ( 1)と内区の から氏の 鏡 B 式に該当し,類例として,平 大同 出土鏡( 1 7 : 14 )などが挙げられる。

山の神

2

鏡の 像と うど左右が正 対・対 の位置に配置されており,構 等ほぼ共通した資 料である。

 以上,

2

の資料について検討してきた。

1

鏡は,大型鏡が多く存在する同型鏡 の中では中型 鏡に位置づけられる。

2

鏡は,同型鏡 の 形 一 とは異なる を する 回式の 鏡で あった。この 者が山の神古墳で共伴したことの については第 5 章の考 にて検討したい。

参考 献

史 2000 「神 鏡の 鏡系 とその 」 史 83 4

史 2003  鏡の 系列」 報告 110

 1 3 「後 鏡の 年」 報告 55

川西  2004  同型鏡と ,同成社

 2003 「稲荷山古墳出土の環状 鏡を考える」 大王とその時代 ,山川出

平・  1 1  塚古墳表採の 鏡について」 77

 2013 「古墳時代中後期に られる同型鏡 の一 中央 環状

鏡の観 から 6

辻田淳一郎 200   古墳出土 鏡の 問題」 古墳 , 報告 第 5集

辻田淳一郎 2012 「九州出土の中 鏡と対外交渉 同型鏡 を中心に と九州 の対外交渉 , 第15回九州前方後円墳 会北九州大会 表要 ・資料集

辻田淳一郎 2013 「古墳時代中期における同型鏡 の系 と製 」 史 150

辻田淳一郎 2015 「同型鏡 環状 鏡 A を中心に 」 史 152  1 7   古鏡 ,

下章  2011  古墳出土鏡と東アジア」 分 ・ 大前方後円墳の実像を

(25)

2 1  鏡 (上:

1

鏡,下:

2

鏡)

(26)

玉類および装飾品

 鏡山資料より,石室内からはガラス小玉 点,碧玉製管玉

9

点が出土していることが られる。

このう のガラス小玉21点が現存するほか,空玉

3

点,金 製品に り付けられたとみられるガラス 装飾

3

点を確認することができる。

 鏡山資料より

9

点の出土が られる。現存しないため詳細は不明であるが,「出 石」との 載か ら 山 碧玉製と される。この点から,TK23期以降に 及する 形片 管玉( 1 2,

田2000,大 200 )であった可能性が できる。

2-20:1

 鏡山資料より,石室内南側から,管玉とともにまとまって出土したことが される。 嘉穂地方 史 に が 載された17点に えて 4 点が たに確認され, 21点となる。いずれも を する大型のガラス小玉であるが,製 法から 4 種類を認めることができる。

番 器種 直 (mm)全長(mm) さ(mm) 考

2 20 1 ガラス小玉 8 80 6 20 - き ばし

2 20 2 ガラス小玉 8 40 5.85 - き ばし

2 20 3 ガラス小玉 7 60 6 15 - き ばし

2 20 4 ガラス小玉 8 45 5 0 - き ばし

2 20 5 ガラス小玉 8 50 6 40 - き ばし

2 20 6 ガラス小玉 8.35 5 20 - き ばし

2 20 7 ガラス小玉 20 6 80 - き ばし

2 20 8 ガラス小玉 12 50 8 00 - き ばし

2 20 9 ガラス小玉 40 8.55 - き ばし

2 20 10 ガラス小玉 8 40 6 0 - き ばし

2 20 11 ガラス小玉 8.85 7 65 - き ばし

2 20 12 ガラス小玉 9.35 5 70 - き ばし

2 20 13 ガラス小玉 8 10 7 45 - き ばし

2 20 14 ガラス小玉 10 6 20 - き ばし

2 20 15 ガラス小玉 8 60 7 45 - き ばし

2 20 16 ガラス小玉 70 6.85 - き ばし

2 20 17 ガラス小玉 8 40 6 00 - き ばし

2 20 18 ガラス小玉 75 7 40 - 連

2 20 1 ガラス小玉 11 00 8 50 - み き

2 20 20 ガラス小玉 11 00 70 - み き

2 20 21 ガラス小玉 13 00 10 20 - 点 ト 玉

2 20 22 空玉(銀製平玉) 10 40 12 20 5 75

2 20 23 空玉(銀製平玉) 11 00 12 70 4 45 つ れて 形する 2 20 24 空玉(銀製平玉) 10 40 12 00 3 1 存 半 品

2 20 25 ガラス装飾 6 00 - - 金状金具・金 片付

2 20 26 ガラス装飾 5 60 - - 金状金具・金 片付

2 20 27 ガラス装飾 6 20 - - 金状金具付

25~27の法量はガラス部分の

表2 2 1 山の神古墳出土

(27)

  1 ~17の17点は, に する に平行な空 や, と平行方向の 配置が確認され, き ばし 法で製 されたものである。法量はおお 直

8

~10mm におさまり, を平 に する。

 18は,上下非対 なタ 形を し, を 状にとりまくような の動きが確認される。連 法で製 されたものである。連 後の は されている。法量は直 75mm,全長 7 40mm で, き ばし 法によるガラス小玉の分 域におさまる。

 1 ・20は,一方の では正円形の が大きく するのに対し,もう一方の では な 円形 の となり, に直交してガラスが接 したような 跡が認められる。ガラス内部の は方向性 を み りづらいが, に平行する部分も認められる。以上より,ガラス片を軸上で み くような 製 法が想定される。法量は直 11 0mm,全長8 50~ 70mm と, き ばし 法によるものより も一回り大きい。 は平 に されている。

 21は資料中で も大型の 体で, の地玉に の異なるガラスの 入 跡が る。 入 跡 は

8

所が認められるが,現状では を す。以上より,当資料は 点 ト 玉として 可 能である。

 なお, の結果から,ガラス小玉の となった ガラスは,いずれも ガ に し いタイ の ト で された 石 ガラスと考えられる(第 4 章第 2 節)。

  1 ~17は製 法や ,細部の形状からも,大 分類(2002)の「B 型」のなかでも,「 というよりも空 が に平行して 長するために の細い が え,しかも空 が を く タイ 」(大 2002:136)に相当する。このタイ のガラス小玉は 本列島では古墳時代中期後半か ら後期前半に 行することが されている(大 2002)。近年,このタイ のガラス小玉の が 朝のガラスとされる 物 ガラスであることが明らかにされており, の を 通 したものが 地域を として列島へと 入した可能性が されている(田 2012)。また,こ の 入には,同 の で連 法によるガラス小玉も伴うことが されており(田 2012),山の 神古墳出土の18も 1 ~17に付 して 通したものと えることができる。

 一方,21が該当する 点 ト 玉はやや特 な資料である。 (2006)の集成を参考にすると,

点 ト 玉は,古墳時代中期後半には出現しているが,資料 が するのは後期以降となる。

また,重 ガラス玉のような舶載品であることが明 な特 なガラス製玉類とは分 の 向が異なる ことから,近 で製 された可能性が されている(大 2010)。このなかには本 の や の 跡から,地玉は 物 ガラスの き ばし小玉を に, 点 部分は の き ばしガラス小玉を に製 されたことが明確な資料が多 みられる。しかし,山の神古墳出土の 21では,このような 跡は明確でなく,第 4 章第 2 節で述 るように, 点 部分のガラスも

の き ばしガラス小玉に通 なものとはやや異なっており,その位置づけには,さらなる検 討が められる。

2

 鏡山資料には 載がなく,出土位置等は不明である。「 玉」と 載されたラ を伴うが,

により銀製であることを確認した(第 4 章第 2 節)。 長の 円 を側 から しつ したよう な形状の平玉で, い 円半 状の銀 を接 して製 されている。 は接合部 に 円半 の一

(28)

2 20 山の神古墳出土玉類および装飾品

1 2 3 4 5 6 7 8

9 10 11 12 13 14 15 16

17 18 19 20 21

22 23 24 25 26 27

0 5

1 2 3 4 5 6 7 8

9 10 11 12 13 14 15 16

17 18 19 20 21

22 23 24 25 26 27

0 5

1 2 3 4 5 6 7 8

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17 18 19 20 21

22 23 24 25 26 27

0 5

1 2 3 4 5 6 7 8

9 10 11 12 13 14 15 16

17 18 19 20 21

22 23 24 25 26 27

0 5

(29)

方に って される。側 には明 な平 を 出しない。

 金属製の玉類は,古墳時代中期から 的に出土し後期に 及するが,半 を接合しその 部に する 玉がより一 的である。接合部 に するものは多くなく,側 に明 な平 をもたな い資料はより 定される(西 2012)。 本列島において,銀製の平玉は TK10期から TK43期に 行す ることが されている(大 2012)が,側 形が正円~やや横長の 円形となるものが多いようで ある。山の神古墳出土の22~24は,側 に平 をもたない点,側 形が 長 円形となる点で,類 例に しい資料といえる。

2

 25~27は 金をはさ で金 製品に り付けられていたとみられる のガラス である。25・

26は金 が遺存する。25では金 を く金具が確認され, り 式で装 されたと考えられる。

装 されたガラスは,ガラス小玉と同 , ガ に しいタイ の ト で された 石 ガラスと考えられる(第 4 章第 2 節)。これらが り付けられた可能性のある製品として は, ,飾 などが想定される。

 山の神古墳出土の玉類および装飾品のう ,多 を めるガラス小玉( 1 ~18)は古墳時代中期後 半から後期前半に一 的な種類である。一方で, 点 ト 玉(21)や空玉(22~24),ガラス装 飾(25~27)は古墳時代後期以降により一 的となる種類であり,初葬に伴うものか追葬に伴うもの かが問題となろう。山の神古墳出土の 点 ト 玉や空玉は,後期以降に 及するものとは異なる 特徴をもっており,追葬に伴うと必ずしも 定できるわけではなく,後期以降に定型 し 及する前 段階の資料として できる可能性も っている。

参考 献

周平2006「 古墳出土の装飾付ガラス玉(通 玉)について」田中 一( 古墳   報告 第 7 集  会, 3 104

2002「 本列島におけるガラス小玉の 」古川 ) 小 山古墳   町埋 報告

  会,127 145

200 「山 系玉類の基 」深田 ) 出 の特 に関する  古代出 における玉

 島 県古代 ・島 県埋

9

62

2012「正 山古墳 出土の玉類」正 山古墳 報告 会( ) 正 山古墳  

会,305 308

1 2「 と出 玉つくり」 島 考古学会

9

集,15 30

2012「 本列島における ガラスの出現と 所( 学論集

60周年 念論 集   所学報第 2   所,1367 1384

西 2012「正 山古墳 出土空玉に関する検討」正 山古墳 報告 会( ) 正

山古墳   会,31 326

1 2「碧玉製管玉の分類と碧玉原 地」 古代 第22集,33 61

(30)

3 鉄製刀剣・鉾

辻田 淳一郎

 山の神古墳からは多くの鉄製刀剣類が出土しているが,先に第

1

節で検討した鏡山資料には,「直 刀 本・剣一本」という 述がみられる。現在九州大学に 管されている資料では,鉄刀 4 本,鉄剣

2

本がみられ,それ以外に鉄鉾

2

+石 き

1

,刀装具多 が確認できる。以下,具体的に鉄製刀剣・

鉾とそれ以外の装具等について報告する。

  存長41 m, 3 2 m, さ1 0 m である。一部に の木 が 存する。 部が して おり,現状ではど らが 先なのか特定出 ていない。 示した左側の先 部は 0 手前側に れ がった状 で 存されている。

  存長65 3 m。 3 4 m, さ1 0 m である。剣 部は全体として の木 が に 存し ている。現状で大きく 3 片に分かれている。 部・ 部周辺が も に が遺存しており

( 2 22に 部片の 大 あり), は中央が一段 く り上がる形で整形されているようである。こ の 部の表 には一部 かとみられる 料の付 が認められる。

  には 角製装具が用いられており,中央の細い で大きく

2

段に区 している。 部分は木 で の 角製装具の中に 入する形で装 されている。目

1

点が確認でき, 部の は約2 4 m である。

  存長60 4 m,刀 部 2 8 m, さ7 5mm。 の木 が部分的に遺存している。 先, 部側 の が である。 部分の木 が に 存しており, との 目が確認できるが,関部以 下の が で, 部がどの びるかは不明である。現状で片関とみられ,中細 もしくは直

のいずれかの可能性が想定される。

  存長 6 m で, 長は 7 2~ 3 m で 存に近い。 部 3 4 m, さ mm である。 T の結果, 部には 3 所の目 と, 近くに 約 7 ~ 8 mm の が確認された。全体的 に の木 が 存し,特に 部付近の木 は に遺存する。 は しているが,直角片関で 直 とみられる。

3

  存長 1 m, 部 3 8~4 0 m である。関部以下が しているが, は

1

m を す大刀 であったものとみられる。全体的に刀 部の が でおり,全体の大きさを 定するに まる。

関部に かながら が確認できる。関部・ 部形 は しており不明であるが, 角片関で 中細 もしくは直 の可能性などが想定される。 部先 の 部では, 約

1

m,長さ

2

m の 部分が180 内側に れ がった状 で 存されている。

4

  存長116 2 m でほぼ 存に近く,現存する山の神古墳出土刀剣類の中で 大の資料である。

部 は約 5 m である。刀 部で部分的に木 が観 されることから, 入りとみられる。 部は T による の結果,目 が 3 所に されていた。関部は不明 であるが,片関でやや み を びているものとみられ,中細 の可能性が い。関部には が存在している。この が

(31)

ある位置を で 角装具の 跡が確認できることから, と のそれ れに 角装具を装 し たものと考えられる。 は しており形状は不明であるが, の 頭が装 されていたとす れば,本 の全長は118~120 m に近いものであったものと想定される。

 多 の刀装具片が 存しているが,本報告 ではそのう 8 点を している( 2 22)。  

1

は刀 部と の木 であり, 存長14 5 m,刀 部 は2 1 m, さは 5 mm である。

 

2

は を した 部で 付近の 片である。 存長5 0 m, 部 は1 3 m, さは 4 mm であり,

一部空 がみられる。

  3 も同 に を した 部で 付近の 片であるが, の から

2

とは別 体とみられる。

存長4 2 m, 部 は1 8 m, さ 3 mm である。

2

と同 , の部分に空 がみられる。

  4 は刀 部と 部・関部付近の 片である。 存長6 8 m で, 部 は2 1 m, さ 5 mm である。

片関とみられ, 部に一部 角製装具の 存がみられる。

  5 は鉄刀の 先片であり, 存長4 5 m, 1 4 m, さ約 4 mm である。

  6 は ・ の装具片であり, 存長4 m である。 が でおり, 部は 存しない。

  7 ・ 8 はいずれも の 装具である。 7 は 存長11 6 m, 2 7 m, さ約

1

m である。 8 は 存長5 1 m, 2 2 m, さ 8 mm である。

 以上の中で,特に同一 体の可能性が いのは

1

2

・ 4 ・ 5 であり,刀 部長25~30 m 前後,

部10 m 前後で全体で40~50 m 前後の 刀となるものとみられる。他の装具や 部片が先にみた刀 剣類とは別 体である可能性を想定した場合,刀は少なくとも 5 本+ ということになる。

  穂 町 などに 載された によって,三輪玉が存在することがこれまでも られており,

鏡山資料や梅原資料においても実 が されていることから, くから注目されていたことがわか る。今回,正式報告にあたり接合関係等を確認したところ, 2 23のように され,全体で 6 点の 三輪玉が存在するものと想定される。内 は, 5 点が 地銀 りで,

1

点が金 製である。

  大 は現存3 6 m, 約 4 m。中央部長は3 4 m で,左側の 部長は2 4 m を る。

中央部 は2 0 m で,左側の 部 は1 4 m である。 の地 を 出したもので,左側 部と中央部との 付近では,表 が れている。外 のみに い銀 を被せており,ところどころ 表 にしわが寄っている。 部下 において,銀 を内側に かに り げて 上げていることが 観 できる。

  大 は現存3 2 m, 約 4 m。中央部長は3 4 m,右側の 部長は2 35 m,中央部 は1 8 m, 部 は1 25 m である。三輪玉

1

と同 に の地 を 出して外 に銀 を被せ たものである。右側の 部下 では銀被せが部分的に れている。

3

  大 は現存 3 7 m。中央部長は3 4 m で,左の 部長は2 25 m,右の 部長は 定2 2~2 3 m である。中央部 は1 m, 部 は左右ともに1 3 m である。三輪玉

1

2

と同 の 地銀 りである。下 は内側に銀 を り でいるのが確認できることから,一部 する ものの,側 形は の形状をとどめているとみられる。

(32)

0 20

刀 4

刀 3

刀 2

刀 1

剣 2

剣 1

2 21 鉄製刀剣類(1 4)

(33)

4

  大 は現存2 m で 約3 5~3 6 m で

1

~ 3 と してやや細 である。中央部長は 3 4 m, 右 側 の 部 長 は 現 存 1 m で 約2 0 m である。中 央部 は1 5 m で,右側の 部 は1 1 m である。三輪玉

1

3 と同 の 地銀 りで,表 と 右側 部では一部銀 の が みられる。中央部下 では を 内側に り げているのが確認で き,側 形は 状をとどめている。

5

  大で 3 点の 片で構 成される。三輪玉

1

~ 4 と同 の 地銀 りである。左の 部片 は,三輪玉 2 や三輪玉 4 などに属 する可能性もある。右 片と中 央部との接続部分には一 の 状の段が付く。地の の部分は 平 であることから,表 の銀被 せの に く り げて配したも のである可能性もある。 大 ・ 中央部長は

1

~ 4 とほぼ同 と

される。左の 部長は2 1 m,

右の 部長は2 2 m である。中 央部 は1 8 m で している。

左の 部 は1 35 m,右 部 は1 3 m である。

6

 この

1

点のみ金 製品 であり,中央部を中心とした 片 として 存している。

1

~ 5 が全 て 地に銀 被せであるのに対し,

この三輪玉 6 のみ を 2 重 たもので,上に被せたものが金 となっている。 部と中央部の の一 の段は空 になって いる。全 金 装かどうかは不明であるが,少なくとも中央部 より内側の中央部は確実に金 装で ある。接続部と中央部 との が 8 mm 以上あることから,他の三輪玉

1

~ 5 とほぼ同 の大き さの可能性が想定される。一部表 が している。

2 22 刀装具・鉄剣 2 (1 2)

0 10cm

1

2

3

4

5

6

7

8

剣 2 部 大

(34)

2 23 三輪玉実 (1 1)

0 5cm

1 2

3

4

5

6

参照

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