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明治初期の福島県で作成された実測管内図

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1. 「地図」Vol.57 No.2 2019 *元国土地理院. 1.はじめに 明治 4 年の廃藩置県によって府県制が敷かれて以. 降,各府県はその管轄域を示した地図を適時作成して きた。府県管内図と呼ばれるこれらの地図は,明治元 年の太政官令による管轄地図の差出し要請,同 3 年の 国絵図改正,同 5 年の皇国地誌編纂等の国の施策との 関りの中で作成されてきた。特に明治 10 年代以降は, 石版や銅版による印刷技術の広がりとともに民間によ るものを含めて多くの府県で管内図が作成され,刊行 されるようになった。府県管内図は当時の内務省地理 局によって収集され,現在は国立公文書館や東京大学 史料編纂所に所蔵されている(千葉,2004)。師橋は これらの資料から府県が版権を所有するものを整理 し,全国の官版府県図の表にまとめている(師橋, 1970)。. 武田(2013;2014)は,同様の整理を行った上で, 府県が最初に管内図を刊行する時期は明治 10 年代前 半に集中しており,明治 10 年代半ば以降に作成され た多くの管内図には,明治 11 年に内務省地理局が刊 行した測絵図譜による地図表現が適用されており,内 務省地理局における地図作成・収集の動向との関連性 が認められると分析している。. 一方,明治 9 年の府県の大規模統合の前にも各府県 では手書きによる管内図の作成を行っている。この時 期の管内図については,全体を俯瞰するような整理が 未だなされておらず,幾つかの県が県史の中で取り上. 【資 料】. げている程度である。限られたこれらの例を見る限 り,この時期に作成された管内図の地図表現には明治 以前の国絵図の要素が色濃く残されている(三重県, 1994;福井県,1990)。. 現在の福島県を含む地域は,廃藩置県によって磐前 県,福島県及び若松県の 3 県が置かれ,明治 9 年の大 規模な府県の統合によって新制福島県となった。・こ れらの県では地元の測量技術者によって早い段階から 実測による地図作成が行われていた。. 本稿では,明治初期に現在の福島県に属する統合前 の各県及び統合後の新制福島県で作成された実測管内 図について,その作成過程と共に地図表現の特徴を紹 介する。. 2.福島県の管内図とその作成過程 明治 4 年の廃藩置県以降,明治 9 年の統合前の磐前. 県,若松県及び統合後の新制福島県において明治 20 年までに作成された管内図は表 1 に示すとおりであ る。表には郡及び明治初期の地方制度である大区の管 内図を含んでいる。. 現存する最初の管内図は明治 5 年に磐前県が作成し た「磐前県管轄全図」である。本図は福島県立図書館 が所蔵する明治国絵図「磐城国絵図(白河県)」と内容, 表現がほぼ一致することから,既存の国絵図を参照 し,当座の県政用として応急的に作成されたものと考 えられる。若松県でも明治 6 年に,国絵図を資料とし た「岩代国若松県管内地理之絵図」が作成されている。. この 2 図以外は実測によって作成された地図及びそ れからの編集によって作成された地図であり,福島県 下では廃藩置県後の極めて早い時期から実測によって 管内図が作成されてきた状況がわかる。. 明治 12 年作成の「磐城岩代両国全図」(以下「両国 全図」という。)の識語には,磐前県及び若松県の管 内図並びに両国全図の作者として伊藤直記,植田藤 作,大江保の名前が記されている。中でも伊藤は,磐 前県,若松県,新制福島県に出仕し,一連の管内図作 成に中心的に携わったほか,福島と米沢を結ぶ中野新. 明治初期の福島県で作成された実測管内図 菱山 剛秀*・塚原 弘一*. キーワード:福島県,磐前県,若松県,伊藤直記,府県管内図. 図 1 統合前の磐前県,福島県,若松県. 2. <「地図」Vol.57 No.2 2019 >. 道(万世大路)の測量及び国家事業として進められた 安積疎水の調査・測量に従事して県のインフラ整備に 大きな功績を残している(福島県教育委員会,1986; 山岡,2012)。. 以下,伊藤が存命中の明治 44 年に孫らによって編纂 された「伊藤直記陸山翁家系並履歴」に準拠して伊藤 の経歴に触れながら,各管内図の作成過程を述べる。. 伊藤直記が学んだ最上流佐久間派は,幕末期及び明 治初期に福島県田村郡を中心に隆盛し,その算術は円 理,貫通術 1)とともに測量術に特徴があった。直記 の師であった佐久間庸軒は,「測量集成」を著した福 田理軒と親交を結ぶなど和算他派や洋算にも積極的に 学問を求める一方で,実学としての測量術の実践にも 力を注いだ(佐久間庸軒和算保存会,2012)。佐久間 派からは明治初期に多くの測量技術者が輩出してお り,仲澤(2009)は,地租改正や安積疎水事業での佐 久間庸軒塾門下生の活躍に触れ,測量術が和算と洋算 を繋ぐ役目を果たし,明治前期の国家形成に大きく貢 献したと論じている。. 三春藩に任官した伊藤は,明治 2 年 11 月から明 3 年 3 月まで 2 度に渡り上京し,海軍操練所(明治 3 年 11 月から兵学寮)の大得業生であった福村周義の下で西 洋数学及び航海測量等を学んだ(福島県教育委員会, 1986)。明治 2 年から 4 年に,三春藩(明治 4 年 7 月 より三春県)では,佐久間庸軒の下で伊藤,植田ら門 下生によって導線法による管内町村の実測図(縮尺 6 千分の 1)作成が行われている(富原,2004)。この 事業が以後の管内図作成の下地になったと思われる。. 明治 4 年 11 月に三春県等を統合して磐前県が成立 すると,県は伊藤らに管内図作成を命じた。明治 5 年. 6 月 3 日の磐前県日誌には,郡ごとに縮尺 1 町 1 分(3 万 6 千分の 1)の地図作成のため平町から測量を開始 する旨の伊藤(当時の名は直幸),植田連名の届出書 が残されている(図 2)。. 「磐前県管内七郡分図」(以下,「七郡分図」という。) は,こうして明治 6 年頃に完成したと思われる各郡の 実測図のうち,南部の磐前郡,菊多郡,白川郡を除く 7 郡(標葉郡,田村郡,宇多郡,石川郡,行方郡,磐 城郡,楢葉郡)の管内図である。同時に磐前県全域を 表す管内図として,七郡分図の 1/3 の縮尺で「磐城国 磐前県下縮図」(以下,「縮図」という。)が作成された。. 明治 6 年 8 月に若松県に異動となった伊藤は,若松 県の管内図作成中の明治 7 年 5 月から 9 月に上京し, 内務省測量司で担当官から測量順序等の口頭試験,実 測製図等の実地試験を受け合格している。これは,当 時の各府県における地図作成の動きに対して,測量司 が一定の基準や技量の下に作業が行われることを意図. 表 1�福島県下で作成された管内図(地図名で太字は伊藤直記が作成に直接携わったもの) 備考に所蔵先があるもの以外は福島県立図書館及び会津若松市立会津図書館所蔵. 図 2 磐前県日誌に記録された測量開始の届出書. <「地図」Vol.57 No.2 2019 >. 明治初期の福島県で作成された実測管内図(菱山 剛秀・塚原 弘一) 3. し,測量主任者の試験によって免許を与える旨の布達 (内務省達丙第 19 号)を発したことによる。. 明治 9 年に若松県は伊藤及び大江によって「岩代国 若松県第一~四大区全図」(以下,「大区全図」という。) を完成させた。若松県全体を一面とする管内図は作成 されなかったが,下図が作成された可能性は高い 2)。. 同じ頃,磐前県は「縮図」に宮城県から編入となっ た伊具,刈田,亘理 3 郡を追加した形で「磐城国磐前 県管内全図」を作成している。. 明治 9 年に新制福島県が成立すると,伊藤らは地理 課に配属された。管内図の作成には磐前県と若松県が 既に作成していた管内図とこの間の未作成部を測量し て結合する方式が採られた。伊藤の履歴には明治 10 年 8 月に管内図を整頓したことが記されているので, 測量原図はこの時期に完成したと思われる。. 新制福島県の最初の管内図である 「両国全図」は明治 12 年に銅版によ る印刷図として刊行された。その後 の県域の変更に伴い,明治 15 年に 地理課,明治 20 年に農商課によっ て,「両国全図」を縮小編集した「福 島県管内全図」(以下,「管内全図」 という。)が刊行された。武田(2014) の府県管内図一覧表に掲載されてい るものは明治20年作成のものである。. 3.管内図の地図表現 1)磐前県の管内図 「縮図」は,縮尺が 1 分 3 町(10. 万 8 千分の 1)で,大きさは 78 × 114cm,和紙に 3 色の手書きで折り 図になっている。. 地図の例言には,「縮図」が既存 の地図に依拠せず現地の測量によっ て作成されたこと,全体の作業期間 が 300 余日であったことが記されて いる。また,限られた期間や現地調 査の制約によって村落の境界,小径 あるいは道路河川の広狭などは省略 したものや現地と一致しないものが あると説明されている。 「縮図」には以下に示すように近. 代的な地図表現への萌芽が随所に認 められる。. ・経緯度の表示 地図には縦横の方眼線(画線)が引かれており,そ. こに「東京ヨリ東経 1 度ノ線」,「英国ヨリ東経 141 度ノ 線」及び「赤道ヨリ北緯 37 度ノ線」の記載がある(図 4)。. 一方で例言には,画線は 1 度の 18/509 の度線で幅 が 1 里であると記されている。緯度の 1 度の幅は地表. 図 3 磐城国磐前県下縮図(福島県立図書館蔵,仲澤氏撮影). 図 4 磐城国磐前県下縮図に描かれた経緯度の表示. 4. <「地図」Vol.57 No.2 2019 >. 距離で約 111km に当たるので,その 18/509=2.12 分 はほぼ 1 里(3.927km)に相当する。ただし,経度の 場合は緯度に応じ 1 度の距離が異なり,磐前県が位置 する北緯 37 ~ 38 度付近では 1 里が 2.64 分~ 2.68 分 となるので,この記述は適用できない。実際に方眼線 の幅を測ると縦横とも地上距離で 1 里の長さである。. このことから,「縮図」に描かれた方眼線は,経緯 度を示す線というより,一義的には南北及び東西方向 の里程を表す線と言える。従って「縮図」は,地図を 描く際に特定の図法は考慮されておらず,測量結果を そのまま平面に展開した地図になっている。 ・地図の表現 「縮図」の地図表現がそれまでの国絵図と一見して. 異なるのは集落及び山岳の表現である。国絵図では, 集落は俵型の記号で代表され,その間が道路で結ばれ る里程図のような表現をしている。「縮図」では,道路, 河川などの骨格的な地物の位置及び形状が優先され, 集落はそれらの余白に村名を記すことで表現されてい る(図 5)。. 山岳にはケバと呼ばれる短線の集合(暈滃式:うん のうしき)による表現法が採用されている。単独の山 体だけでなく,必ずしも正確とはいえないが山々の連 なりの地形がケバで巧みに表現されている。. 以上のような地図表現は,測絵図譜が刊行された明 治11年以降は他の府県管内図でも一般的になるが,「縮 図」の特徴はその先行性にある。一方で,地図記号に は従来の国絵図的な表現が踏襲されているところがあ り,村名,宿駅として明治元年太政官布達別紙で示さ れた村々,宿駅の俵型の記号(図 6)が使用されている。. ・河川延長と山岳高の表示 「縮図」には,地図の余白に管内の主要な河川延長. と山岳高が図とグラフで表現されている。河川延長は 長さが比較できるように流路の形状が模式的に図示さ れ,水源地及び延長距離が付されている。山岳高は目 盛り線が引かれたグラフの中に側面から見た山形の絵 で描かれ,高さの比較とともに概略値が読み取れるよ うに工夫されている。 ・方位の問題 「縮図」には方眼線上の 2 か所に方位盤が描かれて. いるが,現在の地形図と比較すると方位が時計回りに 6 ~ 7 度程度回転し,図全体が東側に傾いている。当 時の日本付近の磁北は,ナウマンらの観測で磁気偏角 図が作成されており(山田ら,2014),この図から測 量時は磐城付近が 3.5 ~ 4 度,会津地方が 4.5 ~ 5 度 程度西偏していたことが分かる。ところが「縮図」の 傾きとずれの大きさはその方位を磁北または真北のど ちらに採ってもうまく説明ができない。 ・磐城国磐前県下縮図と磐前県管内七郡分図との関係 「七郡分図」は,縮尺がいずれも 1 分 1 町(3 万 6. 千分の 1)で,和紙に 3 色で手書きされている。. 図 5 磐城国磐前県下縮図(左図)と磐城国絵図(右図)の矢祭山周辺の地図表現(いずれも福島県立図書館蔵). 図 6 磐城国磐前県下縮図の地図記号. <「地図」Vol.57 No.2 2019 >. 明治初期の福島県で作成された実測管内図(菱山 剛秀・塚原 弘一) 5. 地図の表現法は「縮図」と同じで内容もほぼ一致し ているが,道路や河川には「縮図」でデフォルメされ る前の形状が見られる。また,「七郡分図」には,「縮 図」に記載されていない山岳高の表記がある。標葉郡 分図を例にとると,主要な山岳にはその名称とともに. 「三森山 真高百七十九丈一尺三寸下浅見川村ヨリ」な どの記載がある。このように「七郡分図」には 1/3 縮 小編集により取捨選択する以前の情報が含まれている。. 2)若松県の管内図 若松県は当時の地方制度で 4 つの大区(第 1 大区:・. 会津郡,第 2 大区:大沼郡,第 3 大区:河沼郡及び蒲 原郡の一部,第 4 大区:耶麻郡と安積郡の一部)に分 けられており,この大区ごとに作成されたのが「大区 全図」である。. 現在までに所在が明らかになっているのは,第一大 区全図,第三大区全図及び第四大区全図である。この うち,「南会津山の会」によって複製された「第一大 区全図」及び福島県立図書館所蔵の「第四大区全図」(図 7)のみ一般の閲覧が可能である。 「大区全図」は,縮尺が 1 分 1 町(3 万 6 千分の 1)で,. 厚手の和紙に 4 色または 5 色で手書きされている。こ のうち,「第一大区全図」は,大きさが 190 × 230cm, 折図で表紙及び裏表紙が付いている。また,この図に は,4 枚の「大区全図」を総括する形で凡例や図表が 掲載されている。. 凡例にある説明に は,山岳,河川,道路 等の位置計測は現地で 測量機器を用いて行わ れ,磁針方位(偏角) は正午(南中)方向を 基準にした観測から求 められたことが記され ている。 ・・経緯度線と方眼線の. 区別 地図の図法は,磐前. 県の「縮図」と同様に 測量結果をそのまま平 面図に展開したもので ある。方眼線は磁北方 向を縦軸にして,1 桝 が東西南北 1 里幅の里. 程を示す線であることが明示されており,若松県庁を 通る等緯度線及び等経度線は方眼線と磁針偏角分(西 偏 4 度 40 分 3))の傾きをもって引かれている。この ように「縮図」にみられた方眼線と経緯度線の混同や 方位のずれの問題は「大区全図」では解消されている。 ・地図の表現 「大区全図」の地図記号(図 8)では,明治の新制. 度により全国に設置されるようになった小学校,中学 校,内国通運会社,郵便局などの公共的施設のほか に,殖産興業のために重要であった鉱山の記号が加 わった。また,大道,枝道,国界,郡界及び村界の区 分及び表現には明治 8 年 6 月太政官達「皇国地誌の例. 図 7 岩代国若松県第四大区全図(168× 174cm,福島県立図書館蔵). 図 8 岩代国若松県第一~四大区全図の地図記号. 6. <「地図」Vol.57 No.2 2019 >. 則」が参照されており,管内図作成が国の施策と関連 性をもって進められていたことを伺わせる。. 道路は集落を結ぶ枝道まで詳細に描かれており,城 下町であった若松町ではかぎ型に交差する道路の形状 まで精確に表現されている(図 9)。一方,山の尾根. 筋や細流の位置・形状は正確さを欠き,推測を交えて 描かれたと思われる。. 3)�新制福島県の管内図 「両国全図」(図 10)は,縮尺が 10 万 8 千分の 1 で,. 図 9 岩代国若松県第一大区全図の一部(左図)と 5万分の 1地形図(大正 2年製図,右図) 5万分の 1地形図には第一大区全図と同定できた道路を赤で表示している。. 図 10 磐城岩代両国全図(福島県立図書館蔵). <「地図」Vol.57 No.2 2019 >. 明治初期の福島県で作成された実測管内図(菱山 剛秀・塚原 弘一) 7. 図 12 磐城岩代両国全図の地図記号. 大きさは 139 × 158cm,表紙付きの折りたたみ図(25 × 19cm)となっている。全域を 8 つに分割し,黒及 び青の 2 色で印刷した部分図を貼り合わせて作成され ている。印刷会社は前年の明治 11 年に「神奈川県管 内図」の印刷を行った東京の玄々堂である。定価 1 円 25 銭と表示されているので,行政のみならず民間で の利用も想定して印刷,刊行されたものと思われる。 「両国全図」には,作成された当時の行政事情を反. 映し,東蒲原郡(現新潟県)及び伊具,刈田,亘理の 三郡(現宮城県)が含まれている。 ・経緯度座標による位置表示. 前述の 2 県の管内図と異なり,「両国全図」には 10 分間隔の緯度,経度の線が描かれ,図郭枠には 1 分単 位の目盛りが表示されている(図 11)。緯度は赤道を 零度とした北緯で示され,経度は東京を通る子午線を 零度とした東経及び西経で示されている。. 図法についての記載はないが,緯度線は等間隔の平 行な直線で,経度線は間隔が北に行くほど若干狭くな る直線で表現されているようにも見える。実際にデジ タルアーカイブの画像を使用して緯度 37 度と 38 度の 緯線上で経度幅を計測すると,緯度 38 度の方が 0.8% ほど短い。この経度間隔が緯度に応じて cos φ(φ = 緯度)の割合で短くなるように表現されたと仮定する と,緯度 38 度では経度幅が 1.3%短くなるはずである が,計測結果とは差がある。このため,現時点で具体 的な地図の図法を特定することはできていない。 ・銅版印刷による地図表現 「両国全図」では銅版 2 色印刷ならではの地図表現. の工夫が見られる。黒色で表現される記号は,後年の 陸地測量部の 1/50,000 地形図に見られるような線種 の違いによる道路種別の表現や人家稠密な市街地の総. 描表現が採用されている(図 12)。また,青色で表現 される湖沼や海域の水部は,これまでのような塗りつ ぶしではなく,波状水線と呼ばれる水面の波を模した 線画表現が採用されている。. 山岳地形は,山体及び山並みの形状がケバで表現さ れ,主要な山には名称が付されている。 「両国全図」は 2 色の印刷図にもかかわらず,上述. したような地図表現により,地形や地物の判読性が極 めて高くなっている。 ・地理的情報の掲載 「両国全図」には,地図の余白に①各郡方里比較図,. ②各街道路程表,③山河比較図が掲載されている。 「各郡方里比較図」は,福島県下各郡の面積を正四. 角形の桝の大きさで示し,「各街道路程表」は県内の 国道及び県道について主要な町村間の路程を数値(里 町間尺)で示している。また,「山河比較図」は,山 岳高をグラフで,河川延長を支流,水源地地名ととも に図で示している。. このほか地図の余白には,主要な 8 都市(若松町な ど旧城下町)の市街図が 1 万 8 千分の 1 の統一した縮 尺で掲載されている。 ・磐城岩代両国全図と福島県管内全図との関係 「管内全図」は「両国全図」を 2 分の 1 に縮小して. 作成された。「両国全図」と同じ黒,青 2 色で描かれ た地図の上に 4 色で郡域を色分けして各管轄域をわか りやすく表現している。 「両国全図」に比べると地図記号の種類が少なく,市. 街地を四辺形で表現するなどの総描や省略が多く見ら れる。また,掲載する図表が郵便路線図,各郡の郡役 所地・県庁までの距離・戸数・人口・有祖地・地価の 表に替わり,「両国全図」が自然地理的な情報を掲載. 図 11 磐城岩代両国全図の経度表示. 8. <「地図」Vol.57 No.2 2019 >. していたのに対して,社会地理的な情報が重視され, 行政用地図としての性格が濃いものとなっている。. 4.まとめ 明治初期の福島県下で作成された一連の実測管内図. について作成順に地図表現を見てきたが,そこには和 算家で明治になって近代の測量学を学んだ地方の測量 技術者の存在があり,その技術者たちによる西洋技術 導入の進展に合わせ,位置を示す座標表現の変化,手 書きから印刷図への移行に伴う地物表現の変化といっ た地図表現の発達過程が認められた。. このような過程を経て完成した「両国全図」は明治 初期の福島県の管内図作成の集大成である。その特徴 は,①道路,河川など骨格的な地物の位置・形状の正 確な表現,②近代的な地図表現,③多彩な地理的情報 の掲載にある。. これらの特徴により,「両国全図」は,一義的に県 土の形状を正確に表す基本図としての性格を持つ一方 で,県土の地理的概況を視覚的に示す統計地図の機能 を有した地図となっている。明治期の福島県管内図と して一般に知られている「管内全図」は「両国全図」 をベースに作成されたものである。 . 廃藩置県と共に新たな体制で地方の行政を行うに当 たり,地図は管轄する地域の状況を客観的に把握する ために必要不可欠な情報源であり,新行政府にとって もその整備が急務であった。管内図はそうした要請に 基づき全国的に整備が進められたが,当初は地図作り の技術的な統一基準が存在せず,地方独自の方法によ らざるを得なかったと思われる。本稿では福島県の管 内図の作成過程と地図表現について整理したが,今後 他府県の事情が明らかになることで,明治初期の地方 における地図発達の実態が鮮明になることを願うもの である。. 謝辞 本資料の作成にあたり,田村市在住の仲澤市雄氏,. 福島市史編纂室の守谷早苗氏には伊藤直記に関する貴 重な資料の提供とともに数々のご教示を頂いた。また, 福島市在住の目黒実氏には所蔵資料の閲覧,複製使用 の許可を頂いた。ここに記して厚く御礼申し上げる。. 注 ・ 1)・貫通術は最上流の奥義とされ,演繹法的に「次々. に幾何図形の関係を発見していく方法」で,佐久. 間庸軒の研究の中心的領域とされている(佐久間 庸軒和算保存会 2012)。. ・ 2)・福島県歴史資料館が所蔵する「旧若松県引継目録 並演説書」の地図掛分の引継ぎ資料に「当管内分 間下図」,「同野帳」,「同三分ノ一縮図草稿」等の 記載が見え,管内全体を表す縮図の作成が準備さ れていたことが伺える。. ・3)・「大区全図」に数値の記載はないが,前年の明治 8 年に測量結果の一部を用いて作成された「若松 県一覧概表付図」には磁針方位として西偏 4 度 40 分の値が記載されている。. 文献 佐久間庸軒和算保存会 2012.『最上流佐久間派資料. 集』佐久間庸軒和算保存会. 武田周一郎 2013.橘忠助氏旧蔵美術資料群と明治期. 府県管内図.神奈川県立博物館研究報告人文科学・ 39 神奈川県立歴史博物館:29-42.. 武田周一郎 2014.明治期府県管内図の作成主体につ いて―神奈川県を事例として―.神奈川県立博物 館研究報告人文科学 41 神奈川県立歴史博物 館:43-58.. 千葉真由美 2004.皇国地誌編纂過程における地図目 録と地図主管の移動―東京大学史料編纂所所蔵. 「内務省引継地図」と関連地図目録の検討から― 東京大学史料編纂所研究紀要 14:・99-133.. 富原道晴 2004.明治四年三春藩絵図方測量記録.古 地図研究 312:19-39.. 仲澤市雄 2009.和算と安積疎水.船引地方史研究 14:43-53.. 福井県 1990.『福井県史資料編 16 上 絵図・地図』 福井県.. 福島県教育委員会 1986.『安積開拓と安積疎水総合 調査報告』福島県教育委員会.. 三重県・・1994.『三重県史別編絵図・地図』三重県. 師橋辰夫・1970.官版府県図,月間古地図研究 4:. 58-60. 山田直利・矢島道子 2014.E. ナウマン著「日本に. おける地磁気偏角の永年変化に関する覚書」全訳. GSJ 地質ニュース・3:334-345.・. 山岡光治・・2012.・地図測量の 300 人(2018 年 6 月 22 日版).http://www5a.biglobe.ne.jp/kaempfer/ archive/ac-otona/300nin-1.pdf. ・(受付け:2019 年 5 月 7 日 受理:2019 年 6 月 17 日)

図 12 磐城岩代両国全図の地図記号大きさは 139 × 158cm,表紙付きの折りたたみ図(25× 19cm)となっている。全域を 8 つに分割し,黒及び青の 2 色で印刷した部分図を貼り合わせて作成されている。印刷会社は前年の明治 11 年に「神奈川県管内図」の印刷を行った東京の玄々堂である。定価 1 円25 銭と表示されているので,行政のみならず民間での利用も想定して印刷,刊行されたものと思われる。「両国全図」には,作成された当時の行政事情を反映し,東蒲原郡(現新潟県)及び伊具,刈田,亘理の三郡(現宮

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