近
世
日
本
密
教
教
學
史
(上
)
-特
に
室
町
時
代
以
降
-前 篇 東 密 概 貌 二 室 町 時 代 眞 言 宗 の 教 相 學 は 前 期 に つ い で 此 の 時 代 初 期 に 殆 ん ど 完 成 し、 そ れ 以 後 は 持 績 時 代 と し な く て は な ら ぬ。 事 相 學 は 位 階 高 き 京 都 各 山 の 門 跡 寺 院 に お け る 傳 承 と い う こ と 以 外 に 見 る べ き 牧 穫 を 出 し て い な い。 即 前 代 に 完 成 さ れ て 新 機 軸 を 出 す 蝕 地 を 失 つ た 形 で あ る。 ま た 京 都 の 教 相 學 は 前 代 の 末 期 に お け る い わ ゆ る 東 寺 三 寳 に よ り て 代 表 さ れ 完 成 さ れ た が、 そ れ 以 後 に は 見 る べ き も の が な い。 根 來 山 に は 頼 鍮 法 印 の 後 此 の 時 代 初 め に 及 び て 中 性 院 聖 憲 あ り 根 山 の 教 學 を 完 成 し た。 聖 憲 字 は 定 林、 幼 よ り し ゅ ん 逸 中 性 院 壇 喜 に 随 つ て 密 教 を 學 び そ の 顧 奥 庖 究 め、 法 場 の 論 題大
山
公
淳
事 義 繁 多 な る を 慮 り、 頼 鍮 の 愚 草 類 を 潤 色 敷 術 し て、 大 疏 百 條 第 三 重 十 巻 を 撰 し、 自 詮 読 法 十 八 段 論 草 二 巻 ・ 繹 論 百 條 第 三 重 十 巻 等 を 撰 し、 初 學 者 に 多 大 の 便 を 與 え た。 明 徳 三 年 (A. D. 13 9 2 ) 五 月 晦 日 遷 化 し た。 生 年 八 十 有 六。 聖 憲 公 の 著 述 は 上 記 の 如 く 論 草 類 の も の で あ る が、 そ れ だ け 當 時 の 根 山 に お け る 盛 大 な 論 議 も し の ば れ る。 さ れ ど 同 山 内 に 學 侶 方 と 行 人 方 と 封 立 し 各 僧 兵 を 養 い、 そ の 勢 力 増 大 す る に 從 つ て 漸 次 横 暴 の 度 を 加 う る に い た り、 途 に 豊 臣 秀 吉 の 憤 り に 鰯 れ、 天 正 十 三 年 (A. D. 15 85 ) 三 月 秀 吉 は 兵 火 を も つ て 根 來 山 の 堂 塔 伽 藍 を 次 儘 に 鶴 せ し め、 畳 銀 上 人 以 來 四 百 四 十 年、 二 千 七 百 盤 坊、 七 十 萬 石 の 地 領 と 稻 さ れ た 需 巫 地 も、 二 朝 に し て 燃 土 と 化 し た。 そ こ で 智 積 院 の 玄 宥 能 化 と 小 池 坊 妙 音 院 の 專 轡 能 化 と は、 各 女 學 侶 激 百 人 を 引 き 具 し て、 憔 滅 の 翌 日 高 野 山 へ 逃 れ た が 入 れ ら れ す、 專 春 能 化 は 故 郷 泉 州 へ 退 き、 天 正 十 五 年 秀 吉 の 肉 弟 大 納 言 秀 長 の 招 き に 鷹 じ て 大 和 長 谷 寺 に 佳 し、 近 世 口 本 密 教 教 學 史密 教 文 化 此 威 に 法 橦 を 建 て る こ とゝ な つ た。 長 谷 寺 は 天 武 天 皇 ( 67 3 -8 6) の 勅 願 に よ り、 弘 幅 寺 道 明 上 人 の 開 基 と 稻 さ れ、 聖 武 天 皇 (7 2 4 -4 8 ) の 朝 徳 道 上 人 が 二 丈 六 尺 の 十 二 面 観 音 を 安 置 し、 爾 來 観 音 璽. 場 と し て 榮 え た が、 中 世 巳 後 嚢 微 し て 振 わ な か つ た の で あ る。 玄 宥 能 化 は 高 野 山 を 去 り て 醍 醐 に 赴 き、 更 に 洛 外 北 野 に 假 屋 を か ま え 法 席 を 設 け て 學 徒 の 教 養 に つ く し、 途 に 京 都 の 地 に 智 積 院 を 創 立 す る よ う に な つ た。 專 春 は 和 泉 國 大 鳥 郡 の 人、 幼 よ り 根 來 山 に 入 り 玄 春 の 室 に 沙 彌 と な り、 興 禧 寺 ・ 園 城 寺 ・ 延 暦 寺 を 歴 問 し て 法 相 ・ 天 台 を 學 ぴ、 醍 醐 山 に 発 雅 並 に 聖 室 僧 正 を 訪 ラ て 事 相 を 受 け、 根 山 に 露 互 て 講 席 を 張 つ た。 根 來 滅 亡 の 後 高 野 山 よ り 韓 じ て 長 谷 寺 へ う つ 鎮、 豊 山 中 興 第 一 世 と な り、 慶 長 九 年 (1 60 4 ︶ 五 月 壽 七 十 五 に て 寂 し た 。 玄 宥 は 下 野 の 人、 七 歳 の 時 出 家、 後 根 山 に 登 り 智 積 院 日 秀 に つ い て 教 を 受 け、 更 に 興 幅 寺 ・ 東 大 寺 ・ 三 井 寺 ・ 延 暦 寺 に 學 び、 天 正 十 二 年 學 頭 職 に 任 ぜ ら れ た。 根 山 亡 滅 の 後 高 野 ・ 醍 醐 に う つ り、 途 に 京 都 豊 國 神 肚 境 内 に 上 記 の 如 く 智 積 院 を 興 し て 第 二 世 と な り、 慶 長 十 年 十 月 七 十 七 歳 に て 寂 し た。 醍 醐 山 に あ り て は 第 六 十 五 世 座 主 に 賢 俊 あ り、 足 利 尊 氏 に 通 じ、 そ の 天 下 と な る や 座 主 に 任 ぜ ら れ、 ま た 東 寺 百 二 十 代 長 者 法 務 と な り、 食 邑 六 萬 石 の 寄 進 を 得、 一 山 の 諸 伽 藍 を 悉 く 再 興 し、 そ の 勢 威 二 代 を 歴 し た。 延 文 二 年 (1 3 5 7 ︶ 七 月 寂、 壽 五 十 九 歳 で あ つ た。 爾 來 足 利 氏 の 榮 え る と と も に 醍 醐 山 の 盛 槻 を も た ら し た。 賢 俊 の 門 下 に 同 山 三 寳 院 門 跡 准 三 后 満 濟 あ り、 足 利 義 満 の 養 子 に し て 初 め て 賢 俊 大 信 正 の 室 に 入 り 得 度 し た。 そ の 時 は 實 に 盛 儀 を 極 め た と 傳 え ら れ て い る。 か く て 満 濟 は 足 利 氏 の 庇 護 を 得 て 當 時 教 界 第 二 の 檬 威 を 磯 揮 し、 黒 衣 の 宰 相 と い う 有 檬 で あ つ た。 後 義 演 大 僧 正 あ り、 天 正 七 年 ( 1 57 9 ) 廿 二 歳 に し て 大 僧 正 に 任 ぜ ら れ た と の こ と で あ る が、 秀 吉 の 編 依 を 受 け、 文 明 二 年 ( 14 7 0 ) 大 内 政 弘 の 兵 火 に 僥 か れ た 醍 醐 山 を 復 興 し、 そ の 全 盛 時 代 を 當 來 せ し め た。 高 野 山 に あ 玖 て は、 こ の 時 代 初 期 に 前 代 の 法 性 阿 閣 梨 の 學 系 を 受 け て 宕 快 法 印 現 れ、 鷹 永 義 學 の 大 成 を な し た。 法 印 は 京 都 の 人 に て 藤 賢 光 の 子、 寳 性 院 信 弘 阿 閣 梨 の 室 に 入 つ て 入 壇 受 法 し、 廣 く 古 書 を し渉 猟 し 深 く 密 敢 學 を 究 め、 懸 安 七 年 (1 37 4 ) 師 跡 寳 性 院 に 佳 し た。 法 印 は 廣 く 龍 樹 の 論 柔 り 善 無 畏 の 大 日 経 の 疏、 弘 法 大 師 の 章 書 に わ た り そ の 奥 旨 を 究 め、 文 理 の 糾 紛 せ る を 正 し、 義 理 の 通 ぜ ざ る を 通 ぜ し め、 義 學 興 隆 の 盛 観 こ 玉 に つ き る か と 思 わ し め る 程 の も の を 残 し た。 永 和 元 年 ( 13 7 5) 光 二 歳 の 時 寳 鏡 抄 二 雀 を 作 り、 聖 教 の 正 邪 を 明 に し 立 河 の 邪 流 に 大 鐵 槌 庖 加 え、 御 影 堂 の 前 に そ の 聖 教 を 悉 く 嶢 棄 し た。 永 和 三 年 山 城 國 山 科 安 鮮 寺 に 往 い て 興 雅 僧 正 に 謁 し、 そ の 函 底 を つ く し て 稟 受 し、 途 に 安 鮮 寺 二 流 の 大 事 を 悉 く 學 び つ く し、 こ れ を 高 野 ﹁山 寳 性 院 へ 傳 え た。 鷹 永 廿 三 年 (1 4 16 ) 七 月 十 七 日 寂、 壽 七 十 二 で あ つ た。 薯 述 に 宗 義 決 繹 集 廿 二 毬、 繹 論 決 揮 集 二 十 巻、 悉 曇 字 記 抄 五 巻、 大 日 経 疏
住 心 品 紗 三 十 二 巻、 繹 論 紗 四 + 五 巻、 十 巻 章 紗 四 十 五 巻、 其 他 事 教 二 相 に 通 じ 総 じ て 五 百 六 十 蝕 巻 を 述 作 し た と 傳 え ら れ る。 そ の 内 容 は 義 學 の 完 璽 を 示 し 南 山 の 教 學 は こ の 時 に 完 成 さ れ だ と い つ て よ い。 爾 後 の 南 山 學 徒 は 論 議 を 事 と し、 然 も 宥 快 法 印 の 所 読 を 襲 踏 し、 そ の 外 に 出 る こ と な き を 期 し、 も し 別 の 読 を 設 く る も の あ れ ば、 山 外 追 放 の 厄 を 受 け な け れ ば な ら ぬ ど い う 程 に、 宥 快 法 印 の 所 論 は 構 威 に さ れ た。 そ の 所 論 の 根 本 は 而 二 門 多 法 界 読 に あ り、 理 智 二 法 身 各 別 の 読 法 論 を 強 張 し、 頼 喩 の 加 持 身 読 や、 京 都 學 派 の 理 智 不 二 の 法 身 読 法 論 を 排 し た の で あ る。 清 快 法 印 と 同 時 代 無 量 壽 院 に 長 畳 師 あ り 羽 州 の 人、 資 性 重 厚、 し か も 義 辮 流 る 玉 如 く、 正 弔 五 年 (1 35 0︶ 十 二 歳 の 時 州 の 湯 殿 山 長 宣 師 の 室 に 投 じ て 弟 子 と な り、 十 六 歳 の 時 高 野 山 に 登 り 教 相 を 東 暉 院 義 宣、 繹 迦 南 院 の 賢 重、 無 量 壽 院 の 頼 圓 に 學 び、 事 相 は 中 院 流 ・ 理 性 院 流 ・ 金 剛 王 院 流 ・ 常 喜 院 流 ・ 華 藏 院 院 を 相 承 し、 特 に 西 院 元 喩 方 を 相 州 鎌 倉 無 量 壽 寺 の 俊 春 に 受 け て そ の 付 法 の 正 嫡 と な つ た。 窓 永 の 始 め に 頼 圓 の ゆ す り を 受 け で 無 量 壽 院 へ 入 り、 道 範 相 承 の 不 二 門 學 読 を 主 張 し た。 懸 永 廿 三 年 十 二 月 十 五 日 寂、 世 壽 七 十 七 歳、 そ の 著 述 に は 大 日 経 疏 指 南 砂 九 巻 ・ 繹 論 十 二 砂 十 巻 ・ 悉 曇 字 記 決 揮 五 巻 等 あ り、 か く 時 を 同 じ く し て 高 野 山 上 宥 快 ・ 長 髭 の 二 哲 あ り、 各 そ の 門 戸 を 張 り 一 世 の 盛 親 を 呈 し た。 そ の 両 哲 の 義 學 を た 玉 え て 鷹 永 の 大 成 と い う。 然 し て そ の 爾 哲 の 住 坊 た る 寳 性 院 ・ 無 量 壽 院 を 學 頭 寺 と な し、 二 山 の 學 侶 を 二 分 す る の 例 と な り、 二 を 寳 門 と 稻 し 他 を 壽 門 と い 玉、 論 議 法 談 講 読 す べ て こ の 二 院 を 本 山 と し 規 模 と す る よ う に な つ た。 そ れ と 共 に 高 野 山 の 教 學 は 固 定 化 し、 從 前 の よ う な は つ ら つ た る 意 氣 を 見 得 な く な つ た。 宥 快 法 印 の 門 下 に は 成 雄 ・ 宥 信 ・ 快 全 ・ 快 雅 な ど の 法 將 あ り、 長 畳 師 の 門 下 に は 長 響 あ り、 各 法 憧 を 高 く か 玉 げ た。 特 に 長 轡 と 快 全 と は 懸 永 十 三 年 五 月、 共 に 一 山 を 代 表 し て 南 都 興 輻 寺 に 赴 き、 維 摩 會 ・ 法 華 會 を 傳 脅 し て 露 山、 翌 年 五 月 三 日 よ り 初 め て 山 王 院 に 竪 精 論 議 と 稻 す る 宗 學 研 鐡 の 奥 義 を 披 涯 し、 論 難 決 揮 す る 法 會 を 起 し て 永 格 と し、 現 今 猫 綴 承 し て 二 山 講 席 の 規 模 と な つ て い る。 竪 精 と は 間 者 に 封 す る 竪 義 者 あ り、 更 に 精 義 者 を 立 て 瓦 宗 義 を 研 鑓 す る の で あ つ て、 前 代 の 勧 學 院 制 度 に 更 に 一 つ の 段 階 詮 設 け る に 到 つ た。 そ の 後、 世 は 職 國 の 時 代 と な り 懸 仁 ・ 文 明 の 齪 世 に 及 び、 信 長 の 比 叡 山 嶢 き 打 ち、 大 内 政 弘 の 兵 火 に よ る 醍 醐 山 の 嶢 亡、 秀 吉 の 根 來 山 兵 火 な ど 相 績 き、 殆 ん ど 敏 學 的 に 見 る べ き も の を 残 し て い な い 時 代 に あ た り、 高 野 山 の み 漸 く そ れ 等 の 兵 火 よ り ま ぬ が れ、 學 山 と し て の 面 目 を 維 持 し た。 こ れ 地 の 利 と 人 の 和 を 得 た る に ょ る か、 そ の 中 の 一 人 に 印 融 あ り、 武 州 の 入 に し て 廣 く 経 疏 を 渉 覧 し、 憶 持 す る と こ ろ ぴ ろ き も の あ り、 永 正 十 六 年 ( 151 9 ︶ 八 月 中 旬 壽 八 十 二 歳 寂、 そ の 述 作 に 杣 保 隠 遁 紗 二 十 巻 ・ 繹 論 指 南 砂 十 雀 の 大 日 脛 疏 指 南 紗 鉤 物 近 世 日 本 密 教 教 學 史
密 教 交 化 九 巻 ・ 繹 論 愚 案 砂 七 巻 ・ 古 筆 砂 六 巻 ・ 十 佳 心 論 廣 名 目 六 巻 等、 そ の 他 多 く の も の を 残 し た。 そ の 他 當 代 に 多 く の 學 匠 が あ つ た が、 宥 快 長 畳 の 二 徳 蝕 り に 大 で あ つ た た め か、 盤 多 の 人 六 は 太 陽 の 下 の 星 と な つ て し ま つ た 襯 が あ る。 但 し 印 融 師 の 前 に 名 古 屋 大 須 眞 輻 寺 寳 生 院 第 四 世 政 祝 あ り、 寂 年 を 詳 に し な い が、 永 享 十 一 年 (1 4 3 9) 七 十 二 歳 で あ つ た こ と は 明 で あ る。 著 作 に 四 度 次 第 肝 心 砂 四 巻 ・ 秘 藏 寳 鎗 私 記 三 巻 ・ 諸 流 灌 頂 秘 藏 砂 二 巻 な ど、 注 目 す べ き 要 書 を 淺 し た。 爾 部 聯 道 は 前 代 よ り 更 に 稜 展 し た も の を 見 ゐ が、 こ れ は 予 の 別 著 紳 佛 交 渉 史 に ゆ す る。 高 野 版 の 刊 行 も 績 い て 行 わ れ た が、 前 代 の 如 く 活 濃 で は な か つ た。 但 聲 明 本 の 刊 行 が 見 ら れ る の は 刊 行 技 術 の 進 歩 を 示 し た と 考 え 得 べ き で あ ろ う。 書 史 學 的 に 見 て 鎌 倉 期 よ り 此 の 時 代 に 及 ぶ 書 籍 の 多 く が 高 野 山 上 に 現 存 し て い る こ と は、 兵 火 に 遭 遇 し な か つ だ に よ る も の で、 こ の 山 の 大 き な 特 徴 を 物 語 る。 織 田 信 長 は 比 叡 山 を 澆 い て 後、 天 正 八 年 (1 5 80 ︶ 三 月 信 長 に 反 抗 し た 伊 丹 の 浪 人 池 田 三 郎 右 衛 門 等 五 人 が、 高 野 山 へ 逃 れ 込 ん だ の を 山 僧 が い ん と く し た と い う こ と に 端 を 嚢 し、 信 長 は 途 に 高 野 征 討 を 決 行 し よ う と し、 全 國 に 遊 化 し て い る 高 野 僧 千 三 百 八 十 三 人 を 捕 え て 京 都 七 條 磧 と 安 土 の 町 外 れ と 伊 勢 の 蛛 津 河 原 と の 三 ケ 所 に 殺 鐵 し、 天 正 九 年 (1 5 8 1) 九 月 十 三 萬 七 千 絵 め 大 軍 を 高 野 山 へ 向 け た が、 急 に 明 智 光 秀 の 難 に 遇 い て 止 ん だ。 後 天 正 十 三 年 根 來 山 を 滅 亡 せ し め た 秀 吉 は 更 に 兵 を 高 野 へ 向 け ん と し た が、 當 時 木 食 興 山 上 人 あ り、 愛 山 護 法 の 念 ほ ど ば し り て 二 山 を そ の 危 難 よ り 救 い、 返 つ て 興 山 上 人 に 封 す る 秀 吉 の 蹄 依 は、 二 暦 に 高 野 山 を 興 隆 せ し む る に い た つ た。 興 山 上 人 名 は 慮 其、 江 州 佐 々 木 の 黛 に て、 主 家 滅 亡 の 後 高 野 に 入 り、 寳 性 院 政 祝 阿 閣 梨 に つ い て 得 度 受 戒 し、 爾 來 服 を 草 衣 に か え、 松 實 に 命 を 養 い、 苦 修 練 行 す る こ と 十 三 年、 造 工 の 技 に 勝 れ、 一 山 の 興 隆 に つ く す こ と 鮮 少 な ら す、 秀 吉 の 意 を 受 け て 大 塔 ・ 金 堂 等 廿 五 宇 を 修 螢 し た。 天 正 十 四 年 に は 豊 公 が 洛 東 大 佛 殿 を 建 設 す る に 際 し、 造 螢 の 任 に 當 り、 豊 國 神 肚 の 建 立 に は 僧 坊 八 十 飴 宇 を 作 り、 東 寺 の 金 堂 ・ 五 重 塔 ・ 醍 醐 の 金 堂 ・ 嵯 峨 の 繹 迦 堂 ・ 石 山 の 観 音 堂 ・ 安 群 寺 の 青 龍 肚 等 は 皆 そ の 造 螢 に か 玉 る。 慶 長 十 三 年 ( 16 0 8 ) 十 月 七 十 二 歳 で 入 滅 し た。 二 徳 川 時 代 A 諸 山 の 復 興 江 戸 幕 府 創 立 以 後 の 佛 教 は、 徳 川 家 に よ る 京 都 の 寺 家 敬 遠 主 義 の 結 果 に よ る と い う べ き か、 京 都 に あ る 諸 宗 の 大 寺 に は 宮 門 跡 ・ 巖 家 門 跡 ・ 准 門 跡 等 の 別 を 設 け、 そ の 名 美 に し て 位 は 高 く さ れ た け れ ど、 多 く 衰 退 の 悲 蓮 に 向 う の 外 な き に 及 び、 返 つ て 江 戸 を 中 心 と し た 諸 宗 の 寺 院 が 新 興 す る よ う に な つ た。 日 本 密 教 と し て こ れ を 見 る に 江 戸 ( 今 の 東 京 ) の 寛 永
寺 や 書 羽 の 護 國 寺 が 新 に 興 り、 京 都 の 醍 醐 や 仁 和 寺 ・ 大 莞 寺 ・ 東 寺 ・ 勤 修 寺 の 如 き 大 寺 は、 秀 吉 の 興 立 以 來 漸 く そ の 勢 力 の 二 牛 を 持 綾 す る に 過 ぎ す、 仁 和 寺 ・ 大 畳 寺 時 代 は 代 女 総 法 務 の 職 を 葺、 威 構 は 行 わ る れ ど 教 學 的 な 新 し い も の を 生 み 出 す に 至 ら な か つ た。 そ の 中 に も 仁 和 寺 眞 乗 院 孝 源 大 借 正 は 傑 出 し た 入 で、 貞 享 元 年 (1 6 8 4 ) 四 月 東 寺 第 二 百 代 長 者 法 務 と な り、 大 僧 正 に 任 ぜ ら れ た。 こ の 時 代 事 相 廣 澤 派 の 亘 匠 で、 延 寳 二 年 河 内 延 命 寺 浮 嚴 和 樹 に そ の 法 流 の 極 位 を 授 け、 天 和 (1 6 8 1 -3) ・ 元 蘇 ( 16 88 -37 03 ) の 頃 豊 山 の 賢 廣 ・ 尊 如 ・ 亮 賢 ・ 卓 玄 ・ 亮 貞 ・ 秀 慶 ・ 快 意 な ど に 傳 法 院 流 並 に 西 院 流 等 を 授 け、 同 六 年 十 一 月 徳 川 桂 昌 院 殿 を 施 主 と し て、 東 寺 曼 茶 羅 を 修 覆 す る な ど 大 き な 足 跡 を 印 し た。 元 蘇 十 五 年 (1 7 0 2) 七 月 六 十 五 歳 寂。 傳 法 灌 頂 決 疑 抄 二 巻、 そ の 他 敷 部 の も の を 淺 し た。 醍 醐 に は 前 代 末 期 よ り 本 期 の 初 め に わ た り て、 第 八 十 代 座 主 義 演 大 僧 正 あ り、 賢 俊 大 信 正 の 門 よ り 出 で、 天 正 七 年 ( 15 79 ) 十 二 月 大 僧 正 の 任 に つ き、 寛 正 二 年 ( 14 6 1︶ 以 來 約 百 六 十 年 間 絶 え て 行 わ れ な か つ た 後 七 日 御 修 法 を 元 和 九 年 ( 16 2 3 ) に 再 興 し、 寛 永 三 年 ( 16 2 6 ︶ 四 月 廿 二 日 六 十 九 歳 で 寂 し た。 秀 吉 の 麟 依 を 受 く る こ と 厚 く、 前 章 に 記 し た よ う に 慮 仁 の 齪 の 頃 に 焼 か れ た 醍 醐 二 山 の 再 興 に 非 常 な 努 力 を 用 い た。 當 時 恭 畏 構 信 正 あ り、 京 都 の 人 に て 醍 醐 亮 深 僧 正 の 資 と な り て 事 相 を 傳 え、 慶 長 の 始 め 道 昌 僧 都 の 遺 跡 法 輪 寺 を 再 興 し、 義 演 大 信 正 を 請 待 し て 落 慶 の 供 養 を 行 う た。 後 同 寺 に 留 ま り て 事 相 の 研 究 を。 な し、 水 天 供 ・ 歓 喜 天 供 を 修 し、 露 験 あ る を も つ て 知 ら れ て い る。 寛 永 七 年 六 月 世 壽 六 十 六 に て 高 野 山 に 寂 し た。 そ の 著 に 邪 正 義 等 が あ る。 B 智 豊 爾 山 の 教 學 智 積 院 や 長 谷 寺 を 中 心 と し た 新 義, 眞 言 の 二 派 に は 刮 目 す べ き も の が 見 ら れ る。 專 響 ・ 玄 宥 の 雨 能 化 各 そ の 本 擦 地 を 定 む 惹 や、 互 に 相 競 う て 興 學 の 業 に 懸 命 の 努 力 を さ 玉 げ、 且 つ は 幕 府 が 學 制 を 示 し て 勧 奨 し た の で、 碩 學 高 徳 相 績 い て 現 わ れ 元 録 時 代 を 中 心 に そ の 黄 金 時 代 を 瀬 現 す る こ と 玉 な つ た。 長 谷 寺 の 系 統 を 受 け た 護 國 寺 が 江 戸 に 創 建 さ れ た の は 天 和 元 年 ( 16 8 1) 二 月 に し て、 そ の 年 の 五 月 に は 將 軍 よ り 寺 領 三 百 石 の 寄 進 あ り、 経 濟 上 に 大 き な 力 を 得、 加 う る に 仁 和 寺 院 室 を 象 精 し て 棲 力 的 に す ぐ れ た 地 位 を た も つ よ う に な つ た。 そ の 頃 の 豊 山 派 に は 護 國 寺 初 代 の 亮 賢、 脚 田 椿 外 護 持 院 ( 寛 永 三 年 16 2 6 創 立 ) 隆 光 あ り て、 徳 川 五 代 將 軍 綱 吉 並 に そ の 母 桂 昌 院 尼 公 の 鶴 依 を 受 け 二 代 を 風 靡 し た。 元 蘇 七 年 (1 6 9 4 ) 十 月 十 八 日 に は 綱 吉 並 に 桂 昌 院 尼 が 護 持 院 へ 参 拝 し、 更 に 寺 領 三 百 石 を 増 加 寄 進 し、 元 蘇 八 年 九 月 に は 隆 光 が 大 僧 正 忙 輔 さ れ、 新 義 眞 言 宗 二 派 の 総 緑 司 と な つ た。 現 在 の 豊 山 涙 の 勢 力 は 此 の 隆 光 の 力 に 負 う と こ ろ が 多 い。 隆 光 字 は 榮 春、 大 和 の 人 に て 慶 安 三 年 (1 6 50 ︶ に 生 れ 萬 治 近 世 日 本 密 教 教 學 史
密 教 丈 化 二 年 (1 6 59 ︶ 招 提 寺 朝 意 に 随 つ て 豊 山 に 登 り、 亮 汰 の 室 に 投 じ て 成 長 し た。 享 保 九 年 (1 7 2 4 ) 六 月 寂、 世 壽 七 十 六 で あ つ た。 貞 享 三 年 (1 6 8 6) 將 軍 綱 吉 の 命 に よ り、 筑 波 山 知 足 院 に 住 し た。 そ の 薯 述 に は 筑 波 山 縁 起 ・ 聖 無 動 経 慈 怒 砂 二 巻、 理 趣 経 解 嘲 二 巻 等 が あ る。 隆 光 の 師 亮 汰 は 土 佐 の 人、 字 は 俊 彦、 十 八 歳 の 時 東 上、 伊 勢 の 亮 典 ・ 内 山 の 亮 雄 に つ い て 學 び、 豊 山 に て 大 い に 講 席 を 張 り、 諸 種 の 経 典 を 分 科 註 繹 し、 理 趣 経 純 秘 砂 三 雀 ・ 住 心 品 科 註 三 巻 等、 総 じ て 八 十 六 巻 を 著 述 し た。 亮 汰 は 賓 暦 八 年 (1 7 58 ) 豊 山 第 十 六 世 化 主 と な り、 そ の 年 十 二 月 に 寂 し た。 亮 汰 の 門 下 よ り は 前 の 隆 光 の 外 第 十 四 世 能 化 英 岳、 次 い で 亮 貞 ・ 奪 砧 ・ 隆 慶 等 の 碩 學 相 績 き、 第 三 十 二 蝕 法 佳 に 及 ぶ。 法 佳 ぼ 弱 冠 に し て 豊 山 に 登 り、 無 等 に 随 つ て 事 相 の 秘 奥 を 受 け、 後 智 山 浮 室 に 秘 軌 を 學 び、 安 永 二 年、 (1 7 7 3 ) 南 都 二 乗 院 法 親 王 よ り 岡 寺 を 受 け た。 そ の 頃 紀 州 太 守 の 請 を も う て 根 來 た 住 し、 五 智 山 常 明 に 學 び て 大 い に 悟 る と こ ろ あ り、 管 絃 相 承 義 二 巻 を 述 作 し 自 誼 読 ・ 加 持 読 の 和 會 を 唱 え、 新 古 爾 派 の 教 學 的 和 融 設 を 出 し た。 寛 政 三 年 ( 17 9 1) 豊 山 化 主 と な る や 事 相 ・ 教 相 ・ 法 ・華 ・ 華 嚴 ・ 法 性 ・ 法 相 等 の 業 を 分 つ て 學 侶 を 指 導 し 大 い 藤 豊 山 の 學 風 を 振 起 し、 の み な ら す 寛 政 元 年 に 根 來 山 大 傳 法 院 復 興 の 志 を 起 し そ の こ と に 着 手。 か く て 同 十 二 年 五 月 七 十 八 歳 を も つ て 入 寂 し た。 ま た 寛 政 元 年 ( 17 8 9 ) 十 二 月 に 寂 し た 江 戸 根 生 院 十 七 世 周 海 も 當 代 屈 指 の 學 匠 で あ つ た。 聲 字 賢 相 義 紀 要 三 巻 の 外、 倶 舎 講 録 三 十 巻 ・ 大 日 経 肝 心 砂 十 ハ 巻 ・ 因 明 纂 解 講 林 六 巻 ・ 同 紀 文 五 巻 等 の 著 を 残 し て い る。 一 方 智 積 院 に は 眞 常 院 亮 典、 智 山 第 七 世 能 化 蓮 傲 困 同 第 八 世 信 盛、 恵 照、 地 藏 院 隆 輝 の 如 き あ 虹、 中 に も 蓮 倣 僧 正 は 一 頭 地 を 抜 い た。 蓮 散 字 は 元 春 と い 瓦 泊 如 と 號 し た。 大 阪 の 人 に て 安 樂 壽 院 頼 蓮 に つ い て 出 家 し、 苦 學 精 働 よ ぐ 諸 流 の 事 相 を 極 め、 南 都 に 遊 び 叡 山 に 學 び、 博 識 宏 量 に し て 當 代 に お け る 第 二 人 者 と な つ た。 著 書 激 十 部 あ り、 大 日 経 疏 第 三 重 啓 蒙 五 十 九 巻 ・ 繹 論 第 三 重 啓 蒙 四 十 一 巻 ・ 性 盤 集 砂 十 七 巻 ・ 同 便 蒙 十 巻 ・ 結 網 集 三 雀 等 は 最 も 著 名 で あ る。 元 蘇 六 年 ( 16 9 3) 九 月 十 日 壽 八 十 法 薦 六 十 七 に し て 寂 し た。 蓮 傲 の 後 畳 眼 大 僧 正 あ り、 寛 永 二 十 年 (1 6 4 3 ) 薩 摩 に 生 れ、 學 一 世 に 高 く 寳 永 二 年 ( 17 0 5 ︶ 四 月 智 山 第 十 一 世 化 主 と な り、 同 六 年 江 戸 護 持 院 第 三 代 総 録 司 と な つ た。 享 保 十 年 ( 17 2 5) 十 二 月 八 十 三 歳 に て 寂 し た 心 佳 心 品 冠 註 九 巻 ・ 十 巻 章 撮 義 砂 十 二 巻 ・ 繹 論 科 註 二 十 巻 ・ 幸 心 傳 授 記 十 二 巻 等 を 残 し た。 こ の 頃 五 智 山 に は 如 幻 二 雲 寂 と い う 二 哲 あ り、 共 に 蓮 散 僧 正 に つ い て 學 び、 本 地 ・ 加 持 の 和 融 読 を 出 し、 教 學 上 新 古 和 融 論 の 先 騙 を な し た。 前 記 豊 山 法 佳 の 読 を 大 成 し た と い う べ き も の で あ る。 曇 寂 は 字 を 恵 旭 と いゝ 蓮 傲 門 下 の 逸 足 で あ つ た。 延 寳 二 年 ( 16 7 4 ) 備 後 薩 山 に 生 れ、 十 三 歳 の 時 同 國 草 戸 明 王 院 宥 翁 阿
閣 梨 の 室 に 入 り て 剃 髪 受 戒 し、 元 緑 二 年 十 六 歳 の 時 五 智 山 輝 果 に 随 つ て 密 教 を 學 び も 早 く 顯 密 二 教 の 大 義 を 領 得 し、 同 六 年 具 支 灌 頂 を 受 け、 寳 永 四 年 五 智 山 の 席 を 繕 ぎ、 備 後 明 王 院 を 蕪 帯 し た こ と も あ る け れ ど、 そ れ は 三 年 ば か り で 退 き、 五 智 山 に お い て 専 ら 研 究 と 著 述 を 事 と し、 寛 保 二 年 ( 17 4 2 ) 十 、一 月 壽 六 十 九、 法 騰 五 十 七 に し て ・寂 し た。 多 く の 奢 書 あ り、 申 に も 大 日 経 疏 指 露 三 十 八 巻 ・ 金 剛 頂 経 私 記 十 九 巻 ・ 理 趣 経 私 認 八 巻 等 は 特 に 署 名 で あ る。 文 化 ・ 文 政 ( 18 0 4 -2 9 ) の 頃 に は 智 山 豊 山 と も に 性 相 學 の 研 究 盛 に し て、 智 山 に は 動 嘲 ・ 浮 室 を 先 騒 と し て 謙 順 ・ 弘 基 ・ 高 海 ・ 海 慮 な ど 出 で、 末 期 に ば 隆 喩 が あ つ た。 そ の 中 特 に 動 嘲 僧 正 は 智 山 第 二 十 二 世 を つ ぎ 大 い に 講 學 に つ く し、 後 世 智 山 第 一 の 事 相 家 と 欝 さ れ、 三 寳 院 洞 泉 相 承 口 決 廿 七 巻 は 貴 重 で あ る。 寛 政 七 年 (1 7 9 5 ) 十 二 月 八 十 七 歳 で 寂 し た。 隆 鍮 僧 正 は 同 じ く 智 山 第 卦 三 世 を つ ぎ、 嘉 永 三 年 ( 18 5 0 ) ヒ 月 七 十 八 歳 で 遷 化 し た。 薯 書 に は 秘 藏 記 拾 要 記 九 巻、 其 他 注 意 を 要 す べ き 内 外 の 典 籍 が 多 い。 豊 山 に は 快 道 ・ 快 定 の 二 碩 學 あ り て、 豊 山 性 相 學 の 名 を 馳 せ た。 或 は 徳 川 時 代 を 通 じ て 智 山 り 聲 明 ・ 長 谷 の 論 議 と 樗 さ れ、 斯 道 の た め の 互 匠 が 相 つ い で 出 で た。 C 高 野 山 の 教 學 高 野 山 に は 古 來 學 侶 ・ 行 人 ・ 聖 人 ( 非 事 吏 と い う ) の 三 方 あ り。 學 侶 は 專 ら 敦 學 を 事 と し、 行 人 は 學 侶 の 雑 役 を つ と め 諸 の 法 會 に 諸 堂 に 出 仕 し て 各 種 の 役 務 を つ と め、 聖 人 は 肚 會 を 隠 遁 し 念 佛 を 事 と す る 人 女 に 初 ま り、 途 に 諸 國 遊 化 僧 と な つ た。 こ れ ら の 三 者 は 古 く よ り 存 在 し、 或 時 代 に は 聖 人 が 勢 力 を 張 り、 或 時 代 に は 學 侶 或 は 行 人 が 一 山 の 指 導 体 と な つ た こ と が あ る。 本 時 代 の 初 め に あ た り、 行 人 方 に 木 食 興 山 上 人 あ り、 秀 吉 の 露 依 を 受 け て 大 い に 一 山 の 興 隆 に 力 を つ く し て よ り 以 來 そ の 一 統 が 勢 九 を 張 り、 學 侶 と の 紛 争 も 始 終 あ つ た。 か 玉 る 中 に あ つ て 上 下 國 民 の 二 山 に 野 す る 信 仰 は 卒 実 朝 以 來 ま す く 盛 に し て、 此 の 時 代 に 及 び 幕 府 の 政 策 に も よ づ た で あ ろ う が、 諸 國 の 大 名 は 競 う て 墓 標 を 建 設 し、 供 養 怠 ら す、 名 貿 共 に 天 下 の 総 菩 提 所 と な つ た。 激 相 學 は 頼 慶 ・ 朝 印 等 の 奨 學 あ り て よ り、 二 山 三 千 の 學 徒 は 論 議 法 談 に 花 を 嘆 か せ、 其 の 道 は 盛 美 を 極 め た。 頼 慶 は 遍 照 光 院 の. 一 代 に し て 非 凡 の 學 識 を 有 し、 阿 波 に 往 い て 浮 土 宗 徒 貞 安 を 論 破 し、 そ の 名 聲 遠 近 に と 黛 ろ い た。 そ の 時 の 周 答 を 記 し て 貞 安 問 答 二 巻 と な つ て い る。 其 の 他 慶 長 九 年 (1 60 4 ) 光 明 眞 言 砂 二 巻 ・ 遮 表 深 義 紗 二 巻 ・ 理 趣 経 假 名 砂 三 雀 な ど の 著 あ り、 慶 長 十 四 年 十 月 十 四 日 寂、 世 壽 四 十 九 で あ つ た。 徳 川 家 康 の 信 任 を 得、 慶 長 十 四 年 家 康 に 請 う て 勧 學 の 朱 印 を 東 寺 醍 醐 に 下 し、 豆 州 走 湯 山 快 蓮 庖 學 げ て 關 東 の 碩 學 と し、 關 東 の 諸 檀 林 を 興 し、 ま た 東 寺 ・ 醍 醐 ・ 仁 和 寺 ・ 大 畳 寺 ・ 石 近 世 日 本 密 教 教 學 史
密 教 丈 化 山 ・ 天 野 山 ・ 観 心 寺 な ど に 使 を 遣 わ し て 教 學 の 興 隆 を は か り、 更 に 高 野 山 學 道 の 興 隆 直 つ く し、 寳 亀 院 朝 印 と と も に し ば ぐ 駿 府 に 参 じ、 論 議 の 粋 を つ く し、 叉 高 野 版 の 刊 行 に も 多 く の 業 績 を 淺 し た。 二 山 學 道 昇 進 の 制 度 は 前 汝 代 渤 學 院 創 設 以 來 確 立 さ る 玉 に 及 ん だ。 或 は 宗 魍 の 三 業 度 人 制 以 來 そ の 道 は 存 し た の で あ る が、 此 の 時 代 特 に 嚴 格 化 さ れ そ れ だ け 形 式 化 と も な つ た。 先 す 少 年 の 時 本 山 に 登 り て 大 衆 に 交 る と い ざ よ う し ゆ う 交 衆 の 手 績 き を な し、 そ れ よ り 下 座 ・ 昇 口 ・ 新 衆 ・ 勧 學 會 初 ・ 二 年 目 を つ と め、 人 寺 以 後 十 力 年 を 経 て 阿 閣 梨 位 に 進 み、 更 に 勧 學 會 三 年 目 に 出 仕、 阿 閣 梨 位 灌 頂 を 終 り て 竪 義 者 精 義 者 の 大 役 を つ と め、 渤 學 會 一 ・ 二 繭、 後 に 學 頭 を 成 満 し、 年 順 に 二 山 の 頭 領 た る 事 務 槍 校 法 印 職 に 進 む。 或 は そ の 間 講 論 義 學 に 精 勤 し 抜 群 の 才 智 あ る も の は 寳 性 院 ・ 無 量 壽 院 の 門 主 と な り、 或 は 集 議 席 に 列 す る。 こ れ ら の 過 程 を 経 る 聞 に 繹 摩 詞 術 論 十 巻 ・ 大 日 経 佳 心 品 疏 五 巻 ・ 十 巻 章 十 巻 を 中 心 と す る 教 相 の 研 究 と、 事 相 諸 派 の 奥 義 を 究 め、 斯 道 の 學 匠 た り 得 る の で あ る。 高 野 山 の 寺 領 は 時 代 に よ つ て 大 い に 異 る が、 天 正 (1 5 7 3 -9 1) 頃 に は 二 十 二 萬 石 あ つ た と の こ と な れ ど、 豊 臣 秀 吉 以 來 は 二 萬 二 千 石 と さ れ た。 そ の 経 濟 的 基 盤 は 學 道 昇 進 の 制 度 と 相 待 つ て、 碩 學 亘 匠 の 輩 出 と な り、 南 山 の 學 風 は 當 時 の 教 學 界 に 重 き を な し、 悉 曇 ・ 聲 明 ・ 教 相 ・ 野 澤 諸 派 の 事 相 は 悉 ぐ 集 ま り、 宗 乗 飴 乗 の 研 究 は 競 い 起 り、 一 山 そ の ま 玉 に 大 學 林 と な つ た。 頼 慶 の 努 力 は か 玉 る 経 濟 的 事 情 に と も な つ て 學 道 の 隆 盛 を 來 し た の で あ る。 そ れ ら 諸 學 匠 の 申 に も 新 別 所 圓 通 寺 妙 瑞 ・ 修 輝 院 懐 英 ・ 日 光 院 英 仙 ・ 蓮 金 院 維 寳 ・ 普 門 院 理 峯 及 び 廉 峯 ・ 成 蓮 院 眞 源 ・ 無 量 光 院 玄 廣 等 は 出 色 の 學 匠 と し な く て は な ら ぬ。 妙 瑞 は 明 和 元 年 (1 7 6 4 ) 十 二 月 六 十 九 歳 で 寂 し た が、 讃 州 の 人 俗 姓 は 田 淵 氏、 高 野 山 に 登 り 寛 保 三 年 (1 7 4 3) 四 十 八 歳 の 時 眞 別 所 圓 通 寺 に 入 り、 そ の 中 興 第 九 世 と な つ た。 事 相 教 相 の 研 究 に 精 働 し、 法 性 大 日 荒義 三 巻 ・ 本 地 恒 読 義 二 巻 ・ 同 私 記 二 巻 ・ 大 日 経 疏 畳 華 砂 十 七 巻 ・ 秘 藏 寳 鎗 見 光 紗 三 巻 等 多 く の 名 著 を 淺 し た。 修 輝 院 懐 英 は 字 春 潮、 先 組 は 遠 州 の 人 に て、 寛 永 十 九 年 ( 16 4 2 ) 筑 後 久 留 来 に 生 る。 十 四 歳 の 時 同 州 祇 園 寺 快 鷹 に つ い て 剃 度、 寛 文 三 年 ( 166 3 ) 高 野 山 に 登 り、 登 光 院 秀 榮 に つ か え て 聲 咀 業 並 に 論 議 を 學 び、 蓮 花 三 昧 院 秀 翁 に 随 つ て 百 法 論 ・ 唯 識 論 を 聞 き、 更 に 南 都 に 往 い て 性 相 學 を 研 め、 享 保 二 年 ( 17 17 ) 冬 十 二 月 寺 務 検 校 職 に 輔 任、 同 十 二 年 七 月 廿 一 日 修 灘 院 に て 滅 す。 壽 八 十 六。 高 野 山 史 に 明 る く 高 野 春 秋 十 八 巻、 伽 藍 院 跡 考 ・ 古 今 往 生 拾 遣 集 各 二 巻 を 作 つ た。 高 野 春 秋 は 特 に 著 名 で、 大 師 以 來 享 保 四 年 ( 17 19 ) ま で の 山 史 を 編 年 体 に 序 し、 山 史 研 究 上 唯 二 つ の 寳 典 と し た。 日 光 院 英 仙 は 播 州 加 古 郡 の 人、 穎 才 聰 利 に し て ぴ ろ く 諸 家 の 學 を 究 め、 特 に 神 道 の 研 究 に 名 あ り、 生 年 寂 年 共 に 記 を 失 う て い る が、 元 蘇 ・ 元 文 ( 16 8 8 -7 4 0) 頃 の 人 で あ る。
維 寳、 諌 は 文 啓 と い 玉 阿 陽 の 人、 俗 姓 は 松 浦 氏、 十 五 歳 に し て 登 山、 蓮 金 院 哲 眞 阿 閣 梨 に つ い て 修 學 怠 る な く、 才 名 早 く よ り 傳 わ る。 南 院 教 榮 に 随 つ て、 野 澤 諸 流 の 蒲 奥 を つ ぐ し、 特 に 安 群 寺 流 に 通 じ、 南 都 藥 師 寺 高 範 に つ い て 倶 舎 唯 識 を お さ め、 洛 東 六 波 羅 蜜 寺 の 義 瑞 に 從 つ て 法 華 を 學 び、 洛 西 高 山 寺 の 秘 庫 に 入 り て 珍 籍 敏 百 巻 を う つ し、 神 氣 ま す く す ぐ れ、 繹 迦 文 院 よ り 蓮 金 院 に 移 り、 延 享 四 年 (1 7 4 7 ) 四 月 十 九 日 六 十 二 歳 に て 寂 し た。 師 は 漢 學 に 特 に 造 詣 深 く、 古 來 手 を 染 め る も の 鼠 な か つ た 宗 租 撰 述 の 文 鏡 秘 府 論 に 箋 註 を 施 し、 十 八 雀 を 成 し て 驚 く べ き 學 殖 を 顯 し た。 そ の 池 秘 荒藏 寳 鎗 疏 並 に 玄 談 四 十 一 巻 な ど の 著 述 が あ る。 普 門 院 理 峯 ・ 廉 峯 爾 師 は 師 資 の 關 係 に あ り。 理 峯 師 は 寳 暦 八 年 ( 17 58 ) 五 月 四 日 世 壽 八 十 二 に し て 化 し、 廉 峯 師 は 明 和 九 年 (1 7 7 2 ) 七 月 十 四 日 五 十 四 に し て 寂 し た。 當 代 聲 明 道 の 泰 斗 で あ る。 眞 源 師 は 寳 暦 八 年 六 月 世 壽 七 十 に し て 寂 し た が、 故 實 に 通 す る こ と 第 一 と 総 さ れ、 そ の 箸 密 宗 聲 明 系 譜 は 刊 行 さ れ て 廣 く 知 ら る。 こ れ ら の 人 に つ い て は 予 の 別 著 聲 明 の 歴 史 及 び 一音 律 の 読 に ゆ す る。 無 量 光 院 玄 廣 は 甲 州 の 人、 武 田 信 玄 の 二 族 に 生 れ、 鏡 利 俊 秀 に て 義 學 玄 に 徹 す と 傳 え ら れ て い る。 慶 長 の 頃 龍 華 院 に 佳 し 碩 學 に 進 み、 後 玄 仙 法 印 の 跡 を つ い で 無 量 光 院 に 住 し、 元 和 二 年 ( 16 1 6 ) 五 月 四 日 世 壽 六 十 二 に て 寂 し た。 理 趣 経 愚 解 砂 五 巻 は 般 若 理 趣 経 を 註 解 し た も の で 特 に 有 名 で あ る。 其 他 玄 廣 集 二 巻 あ り、 疏 繹 の 論 草 類 敏 百 帖 に 及 ぶ と、 此 の 時 代 末 期 に 日 光 院 英 仙 の 後 五 代 の 法 孫 鍛 善 あ り、 神 道 傳 授 録 三 巻 を 残 し た。 斯 道 研 究 に 指 南 と な す べ き 書 で あ る。 ま た 正 智 院 道 猷 は 無 量 壽 院 得 仁 の 力 を 得 て 高 野 山 綾 風 土 記 七 十 巻、 弘 法 大 師 年 譜 十 二 巻、 同 績 年 譜 十 雀 等 大 部 の 宗 史 編 纂 と そ の 刊 行 に あ た り、 大 き な 業 績 を 著 わ し た。 D 江 戸 と 大 阪 の 學 匠 こ の 時 代 の 初 め 賢 に 江 戸 と 大 阪 及 び 河 内 に 二 世 の 俊 傑 が 現 れ 出 た。 そ れ は 江 戸 湯 島 餓 雲 寺 の 浮 嚴 と 河 内 高 貴 寺 の 慈 雲 奪 者 及 び 大 阪 圓 珠 庵 契 沖 で あ る。 こ れ よ り 前 慶 長 の 始 め に 京 都 高 雄 山 に 明 忍 律 師 あ り。 南 北 朝 時 代 以 來 僧 風 の 全 く す た れ た る を 慨 し て 南 都 に 往 き、 西 大 寺 の 友 尊、 中 山 寺 の 慧 雲 と 共 に、 大 悲 漁 興 正 ( 鎌 倉 時 代 の 入 ) 二 菩 薩 の 戒 律 復 興 蓮 動 を 回 想 し、 三 人 志 を 合 せ て 栂 尾 山 に お い て 佛 前 に 自 誓 得 戒 し、 更 に 大 陸 に 渡 り て 戒 法 を 求 め よ う と し た が、 慶 長 十 五 年 (1 61 0) 封 馬 に 病 を 得 て 錐 志 室 し く、 生 年 三 十 五 歳 を も つ て、 西 海 の 波 に 淡 し た。 し か し そ の 志 は 後 南 山 眞 別 所 園 通 寺 良 永 が こ れ を 織 ぎ 棋 尾 山 に 自 誓 得 戒 レ、 そ の 法 費 快 圓 ま た 和 泉 の 大 鳥 山 神 鳳 寺 に 律 園 を 起 し、 ま た 愼 尾 の 慈 忍 が 河 内 に 野 中 寺 を 開 く に 及 び、 野 中 寺 と 神 鳳 寺 止 棋 尾 山 と を 律 園 の 三 僧 房 と 稽 し た。 か 玉 る 中 に 浮 嚴 律 師 あ ら わ れ 慈 雲 尊 者 の 出 世 と な つ た。 近 世 目 本 密 教 教 學 史
密 教 文 化 浮 嚴 律 師、 字 は 発 彦、 妙 極 と 號 し 雲 農 と も 樗 し た。 後 水 尾 天 皇 寛 永 十 六 年 ( 16 3 9) 十 一 月 河 州 に 生 る。 姓 は 上 田 氏、 十 歳 の 時 高 野 山 へ 登 り 悉 地 院 雲 雪 に つ い て 得 度 し、 後 繹 迦 文 院 朝 遍 に 師 事 し、 寛 文 四 年 (1 6 6 4) 良 薫 に 從 つ て 安 鮮 寺 流 の 秘 璽 を 受 け、 廣 く 倶 舎 ・ 唯 識 ・ 華 嚴 ・ 法 華 を 兼 學 し、 同 十 年 即 身 義 を、 講 す る や 聞 ぐ も の 皆 そ の 妙 解 に 驚 い た と。 莚 寳 元 年 ( 16 8 3 ) 自 誓 得 戒 し て 菩 薩 戒 を 受 け、 つ い で 仁 和 寺 牽 源 ・ 顯 性 の 爾 師 よ り 西 院 流 を 受 け、 貞 享 の 初 年 ( 168 4) 江 戸 に 遊 化 し て 講 席 を 張 り、 聞 く 人 學 ぶ もの 雲 の 如 く に 集 り 來 り、 專 ら 眞 言 律 を 稽 導 し、 そ の 菩 薩 戒 を 受 く る も の 千 百 有 飴 人、 三 露 戒 を 受 け た も の 實 に 六 十 鯨 萬 人 と 傳 え ら る。 元 緑 四 年 將 軍 綱 吉 の 命 を 受 け て 湯 島 に 難 雲 寺 を 創 し、 そ の 結 構 の 美 は 護 國 寺 ・ 護 持 院 と 並 び 稻 さ れ た。 元 豫 十 五 年 (1 7 0 2 ) 六 月 廿 七 日 生 年 六 十 四 歳 に し て 寂 し た。 律 師 は 事 相 諸 流 を 學 び て そ れ を 統 一 せ ん と し、 新 安 鮮 寺 流 の 二 派 を 作 り、 ま た 黄 漿 の 鐵 眼 陣 師 と 交 り て 秘 密 儀 軌 を 印 刻 し、 加 う る に そ の 講 傳 を は じ め、 密 教 根 本 経 典 研 究 の 上 に 新 機 軸 を 出 し、 事 相 ・ 教 相 ・ 悉 曇 學 に わ た り て 数 十 部 の 著 述 を 残 し た。 何 礼 も 内 容 の す ぐ れ た も の が 多 い。 門 下 に は 妙 法 寺 性 寂 ・ 地 藏 寺 蓮 髄 ・ 戒 壇 院 慧 光 ・ 清 水 寺 光 乗 院 實 詮 な ど 知 名 の 翠 僧 あ り、 近 世 眞 言 宗 史 上 に 大 き な 光 明 を 掲 げ た。 浮 嚴 律 師 滅 後 十 六 年、 享 保 三 年 (1 7 1 8 ) 河 内 に 慈 雲 奪 者 飲 光 が 生 れ た。 幼 よ り 歌 貌 凡 見 に 異 り、 甚 だ 非 凡 俊 適 で あ つ た。 同 州 法 樂 寺 貞 紀 和 上 の 室 に 投 じ て 年 十 三 の と き 出 家 し、 翌 年 如 意 輪 親 書 の 法 を 修 す る に 及 び て 出 家 の 徳 を 知 り、 道 心 愈 汝 堅 固 に し て 勉 學 に 怠 る な も、 其 後 或 は 京 都 に 遊 び 或 は 南 都 に 留 ま り、 顯 密 の 奥 義 を た す ね、 十 九 歳 河 州 野 中 寺 秀 晶 に 從 つ て 沙 彌 戒 を 受 け、 廿 一 歳 に し て 三 聚 浮 戒 を 通 受 し、 後 感 す る と こ ろ あ つ て 寺 を 弛 に ゆ す り、 專 ら 心 源 を つ く さ ん と し て 二 室 に 潔 座 獣 念 し て 門 外 に 出 で な い こ と 二 年、 猫 満 足 せ ず し て 鍛 練 精 修 途 に 大 悟 す る に 及 ん だ と。 か く て 律 の 復 興 に 志 す と と も に 梵 學 の 嚢 退 を 慨 し、 そ の 道 に 精 魂 を か た む け て 梵 學 津 梁 二 千 巻 を 大 成 し た こ と は 飴 り に も 著 明 で あ る。 齢 八 十 に し て 河 内 の 高 貴 寺 に 佳 し、 此 塵 に 壇 場 を 設 け 結 界 し た。 幕 府 こ れ を き い て 正 法 律 二 派 の 本 山 と し た。 或 は 京 都 に 授 戒 し、 或 は 法 を 難 波 に 読 く な ど 席 温 る 時 な く、 徳 化 四 方 に 及 び 化 導 日 女 盛 に、 つ い に 文 化 元 年 (180 4) 十 二 月 八 十 七 歳 で 寂 し た。 奪 者 の 行 業 は 上 記 正 法 律 の 復 興 に あ り、 明 治 の 雲 照 律 師 は 今 の 奪 者 の 理 想 逢 實 現 し よ ケ と し た も の で あ つ た。 更 に 奪 者 は 爾 部 脅 合 紳 通 に 二 つ の 新 し い 体 系 を 與 え、 こ 玉 に 雲 傳 碑 道 を 出 す こ とゝ な つ た ( 聯 佛 交 渉 史 参 照 )。 そ の 著 述 は 梵 學 津 梁 一 千 巻 の 外 に 甚 多 く、 大 正 の 末 頃 長 谷 寳 秀 信 正 に よ つ て 撰 せ ら れ た 慈 雲 奪 者 全 集 洋 装 十 九 雀 に 輯 録 さ れ た。 浮 嚴 律 師 と 時 を 同 じ く し て 國 學 の 泰 斗 契 沖 阿 閣 梨 が 出 た。 師 字 は 室 心、 織 津 尼 ケ 崎 に 生 る。 五 鼓 に し て 百 人 二 首 を 数 日 間 に 暗 記 し た と 傳 え ら る。 十 一 歳 妙 心 寺 に 入 り、 十 三 歳 の 時
高 野 山 へ 登 り、 密 敦 の 研 究 に 從 い 苦 修 練 行 に つ と め た。 そ の 間 和 歌 の 嚢 退 し て 古 格 を 失 す る を な げ き、 日 本 紀 以 下 國 史 蕾 記 を 廣 く あ さ り、 古 典 文 學 に 關 す る 箸 述 を 頗 る 澤 山 に 述 作 し た。 中 に も 萬 葉 代 匠 記 二 十 巻 は 水 戸 光 囲 の 請 に 鷹 じ て 作 り、 萬 葉 集 唯 二 の 集 註 と し て、 國 文 學 上 二 新 紀 元 を 開 い た も の で あ る。 元 麻 十 四 年 ( 17 0 1) 正 月 廿 五 日 六 十 二 歳 で 寂 し た。 加 茂 眞 淵 ・ 本 居 宣 長 等 の 國 學 者 は そ の 影 響 下 に 現 れ て 來 る。 阿 閣 梨 の 著 者 は 大 正 十 年 よ り 昭 和 二 年 七 月 に 至 る 間、 大 阪 朝 日 新 聞 肚 よ り 契 伸 全 集 九 胎 と し て 出 版 さ れ た。 以 上 浮 嚴 ・ 慈 雲 ・ 契 沖 の 三 人 は、 我 國 文 化 史 上 に も 特 殊 の 地 位 を 占 む べ き 偉 人 で あ つ た。 契 沖 阿 閣 梨 の 門 下 に そ だ ち 浮 嚴 律 師 の 學 を 受 け た 妙 法 寺 性 寂 は、 寳 永 六 年 (1 7 0 9 ) に 秘 密 儀 軌 随 聞 記 三 十 巻 を 記 し、 桑 樹 山 眞 常 の 集 録 し た 諸 儀 軌 稟 承 録 十 三 巻 と 共 に、 密 敷 の 根 本 聖 亜 ハた る 秘 密 儀 軌 全 般 に 通 す る 研 究 の 指 南 書 で あ る。 別 に 丹 後 松 尾 寺 の 學 僧 に 等 室 大 徳 あ り、 文 化 十 三 年 (1 8 16 ) 八 十 二 歳 で 寂 し た 人 で あ る が、 字 を 寛 秀 と い 玉、 自 ら 浮 菩 提 心 庵 と 號 し た。 丹 後 に 生 れ た 人 で、 七 歳 の 時 同 國 松 尾 寺 寛 龍 上 人 に つ い て 剃 髪、 十 六 歳 高 野 山 に 登 り 功 徳 聚 院 南 瑞 ・ 圓 通 寺 密 門 等 の 諸 師 に つ い て 宗 乗 ・ 鯨 乗 ・ 律 部 を 脅 學 し、 具 足 戒 を 受 け、 四 十 五 歳 師 跡 を つ い で 丹 後 に か え り、 眞 言 の 律 と す る 有 部 律 の 興 隆 に つ く し、 途 に 高 野 山 眞 別 所 と 藝 州 幅 王 寺 學 如 和 上 の 戒 壇 と 並 び て、 有 部 律 三 戒 壇 の 二 を 成 し、 そ の 徳 化 は 大 き か つ た。 著 書 理 趣 経 簡 要 三 巻 ・ 繭 部 教 主 和 解 一 巻 ・ 作 持 門 詩 句 要 集 二 巻 な ど を 出 し た。 思 う に 徳 川 時 代 は 律 の 復 興 蓮 動 が 密 教 の 中 に な か く 盛 に 行 わ れ た と し な け れ ば な ら ぬ。 教 風 も そ こ に 振 う た と い う べ く、 現 代 と し て 此 の 窯 大 い に 三 省 し な け れ ば な ら ぬ こ と で あ る。 こ の 時 代 の 榊 佛 關 係 に つ い て は、 予 の 別 著 神 佛 交 渉 史 に ゆ す る。 三 明 治 時 代 徳 川 中 期 以 來 漸 次 そ の 勢 力 を 増 大 し 來 つ た 國 學 者 並 に 儒 者 の 論 読 は、 途 に 幕 末 よ り 明 治 初 年 に 亘 り て 排 佛 棄 繹 の 蓮 動 と な り、 佛 教 全 体 と し て 本 朝 室 前 の 法 難 に 直 面 す る こ とゝ な つ た。 先 す 明 治 四 年 (18 7 1) に は 政 治 と 佛 教 と を 間 絶 せ し め ん と し て、 勅 願 所 と 勅 願 の 法 會 を 塵 し、 御 所 門 跡 院 家 等 の 繕 號 を 止 め、 皇 子 皇 孫 の 佛 門 に 入 る を 留 め、 既 に 佛 門 に 入 つ て い る 人 汝 に は 復 飾 せ し め ら れ た。 眞 言 宗 後 七 日 御 修 法 を 止 め さ せ ら れ た の は 此 の 時 で あ る。 か く て 明 治 四 年 二 月 ・ 二 月 の 間、 古 來 幕 府 や 大 名 等 の 寄 進 し た 土 地 は、 境 内 地 を 除 く の 外 多 く の 寺 領 を 官 に 没 牧 し、 且 つ 時 の 爲 政 者 は 漁 道 を も つ て 世 道 人 心 を 統 二 せ ん と し、 僧 の 遺 俗 を 張 制 し、 多 ぐ の 寺 院 は 荒 艘 に 露 す る よ う に な つ た。 然 る に 當 時 高 野 山 に は 高 岡 増 隆 ・ 密 道 慮 あ り、 東 寺 に は 三 近 世 月 本 密 教 教 學 史
密 教 文 化 條 西 乗 輝 ・ 大 宮 畳 寳、 別 庭 榮 嚴 ・ 繹 雲 照 の 如 き 偉 傑 あ り、 新 義 眞 言 に は 守 野 秀 善 ・ 大 崎 行 智 な ど あ り 州 佛 教 擁 護 の 大 茄 を ひ る が え し て 明 治 二 年 早 く も 東 京 に 大 會 を 開 き、 各 宗 同 盛 會 を 組 織 し て 政 府 に 請 願 す る な ど、 二 宗 の 大 計 に 日 夜 書 痺 し た。 明 治 五 年 三 月 十 四 日 神 祇 省 を 塵 し て 教 部 省 が 設 置 さ れ た。 四 月 廿 五 日 に は 教 導 職 を 置 き、 大 教 正 以 下 十 四 級 と し、 十 月 に は 二 宗 一 管 長 の 制 さ だ め ら れ、 高 野 山 密 道 懸 師 が 眞 言 宗 管 長 に 任 ぜ ら れ た。 六 年 三 月 廿 九 日 に は 金 剛 峯 寺 ・ 東 寺 の 雨 山 を 古 義 眞 言 宗 総 本 山 と な し、 智 積 院 と 長 谷 寺 と 逢 新 義 眞 言 宗 の 総 本 寺 と し た。 明 治 八 年 四 月 三 十 日 東 京 芝 増 上 寺 内 に お け る 各 宗 連 合 の 大 學 院 解 散 さ る 製 や、 眞 言 宗 は 大 教 院 を 芝 眞 輻 寺 内 に 置 き、 各 地 に 中 教 院 を 設 け 教 導 取 締 り に 任 じ た。 然 る に 新 古 相 互 の 意 志 疎 通 を 訣 き、 各 山 の 権 衡 よ ろ し き を 得 な か つ た の で、 十 二 年 五 月 大 畳 寺 ・仁 和 寺 を 初 め、 廣 隆 寺 ・紳 護 寺 等 は 別 立 し て 管 長 を 置 き、 十 月 に は 新 義 派 分 立 し て 新 義 眞 言 宗 と 構 し た。 新 荒義 眞 言 宗 分 立 の 翌 年 四 月 三 十 日 再 び 一 宗 一 管 長 の 制 と な す べ き の 達 示 あ り。 繹 雲 照 ・ 大 崎 行 智 等 當 時 眞 言 宗 の 暗 雲 を 憂 う る の 士、 六 月 智 積 院 に 各 派 本 山 會 議 を 開 き、 二 宗 確 立 を 企 て、 つ い で 十 二 月 東 京 湯 島 璽 雲 寺 に 本 末 合 同 の 大 成 會 議 を 開 き、 高 魍 の 御 遣 告 に 随 い、 東 寺 を も つ て 二 宗 の 総 本 山 と な し、 同 寺 佳 職 を 長 者 と 欝 し、 法 務 所 を 此 塵 に 置 い て 一 宗 を 統 理 す る こ とゝ 定 め、 新 古 一 味 の 宗 風 を 成 立 せ し め た。 即 十 三 年 に 法 務 所 を 此 庭 に 置 い た。 け れ ど 永 績 し な か つ た。 明 治 十 八 年 十 二 月 に 及 び て 金 剛 峯 寺 ・ 仁 和 寺 ・ 大 畳 寺 ・ 三 寳 院 ・ 渤 修 寺 ・ 随 心 院 ・ 泉 涌 寺 を 眞 言 宗 と 輩 稻 し、 智 積 院 と 長 谷 寺 と を 眞 言 宗 新 義 派 と 公 稻 し、 右 九 ケ 寺 共 に 大 本 山 と い 玉、 二 年 交 替 公 選 の 長 者 を 定 め る こ と に し た。 そ の 後 廿 九 年 十 二 月 醍 醐 派 分 離 猫 立 し、 三 十 二 年 十 月 眞 言 宗 新 古 各 派 分 立、 別 置 管 長 の 件 を 決 議 し、 晋 三 年 八 月 眞 言 宗 各 派 猫 立 の 認 可 を 得、 原 心 猛 は 高 野 派 管 長 に、 高 橦 龍 暢 は 大 畳 寺 派 管 長、 和 氣 宥 雄 は 醍 醐 派 管 長、 泉 智 等 は 御 室 派 管 長、 喩 伽 教 如 は 智 山 派 管 長、 慶 雲 海 量 は 豊 山 派 管 長 に 就 任 し た。 三 十 五 年 古 義 各 派 は 相 互 に 協 定 し て 蓮 合 制 度 を な し、 法 務 所 を 東 寺 に 置 い た。 此 の 連 合 法 務 所 制 に よ り て 古 義 各 派 の 提 携 は で き た の で あ る け れ ど、 内 部 的 に は 常 に 各 本 山 自 主 自 衛 か、 も し ぐ は 絶 封 統 二 で な け れ ば 終 局 の 解 決 に 到 達 す る も の で な い。 た ま く 大 正 十 二 年 (1 9 2 3 ) 十 二 月 第 六 回 連 合 宗 議 會 が 高 野 山 に 召 集 さ る 瓦 や 連 合 制 度 の 根 本 に お い て 合 理 的 改 正 を 要 す る 旨 の 決 議 現 わ れ、 本 山 會 議 の 承 認 を 求 め、 つ い で 各 山 本 末 會 議 の 開 催 と な り、 大 正 十 四 年 六 月 第 七 回 蓮 合 宗 議 會 に て、 蓮 合 法 務 所 を 解 散 し、 仁 和 ・ 大 箆 ・ 高 野 の 三 派 は 合 二 し て 古 義 眞 言 宗 を 形 成 し、 宗 務 所 を 高 野 山 に 置 き、 醍 醐 ・ 東 寺 ・ 泉 涌 寺 ・ 渤 修 寺 ・ 随 心 院 は 各 猫 立 す る よ う に な つ た。 明 治 十 二 年 大 成 會 議 に よ り て 眞 言 宗 一 味 と な る や、 明 治 四 年 以 來 慶 絶 の ま 玉 に な つ て い る 御 修 法 復 活 の 議 起 り、 途 に 十
五 年 繹 雲 照 和 樹 を 中 心 に、 大 崎 行 智 ・ 三 條 西 乗 暉 ・ 土 宜 法 龍 等 の 諸 師 こ れ に 和 し て 復 興 が 企 て ち れ、 こ れ ら の 人 姦 同 年 三 貯 御 修 法 再 興 の 請 願 を 宮 内 卿 徳 大 寺 實 則 に 提 出 す る と 共 に、 有 縁 の 士 を 求 め て 陳 情 斡 旋 大 い に 努 め、 眞 言 宗 に 關 係 の 深 い 山 階 ・ 小 松 ・ 閑 院 各 宮 の 御 援 助 の 下 に、 願 意 貫 徹 を 期 し、 八 月 四 日 に 到 り て 修 法 の 議 は 宗 門 に お い て 修 行 す べ き 旨 の 指 命 あ り、 十 六 年 二 月 八 日 よ り 東 寺 灌 頂 院 に て こ れ を 行 う こ と と な つ た。 そ の 格 式 は 爾 後 毎 年 修 行 さ れ、 陛 下 の 御 衣 を 加 持 し て 奉 還 す る に あ つ た。 然 し 明 治 廿 九 年 眞 言 宗 洛 派 猫 立 を 唱 う る や、 新 義 派 は こ れ に 参 加 せ す、 古 義 派 の み で 奉 修 し で い た が、 大 正 八 年 古 義 の 蓮 生 観 善 師、 智 豊 雨 派 宗 務 長 と 非 公 式 に 會 見 し て、 御 修 法 参 加 の 議 を 談 じ、 そ の 交 渉 は 漸 次 進 み、 同 年 十 二 月 京 都 智 積 院 に 第 一 回 正 式 新 古 交 渉 委 員 會 を 開 く こ と 瓦 な か、 大 正 九 年 智 豊 爾 派 各 宗 會 に お い て、 御 修 法 参 加 の 件 を 可 決 し、 愈 々 そ の 年 十 月、 十 派 管 長 蓮 名 協 約 書 を 締 結 し、 新 古 二 味 奉 修 の 蕾 例 に 復 す る よ う に な つ た。 こ れ は 終 職 の 年 ま で つ 貸 け ら れ た が、 そ れ 以 來 は 形 の か わ つ た も の と な り、 一 味 な る べ き 宗 團 内 に 分 派 の 多 き を か こ た ね ば な ら 粗 よ う に な つ た。 彼 の 大 成 會 議 の 結 果 宗 制 成 立 す る や、 宗 徒 教 養 の 機 關 を 必 要 と す る こ と に な り、 明 治 四 年 雲 照 和 絢 総 理 と な り、 東 寺 に 総 コ ウ を 開 設 し、 別 所 榮 嚴 ・ 佐 伯 旭 雅 ・ 上 田 照 遍 ・ 高 志 大 了 ・ 楠 玉 諦 ・ 東 輝 城 ・ 構 田 雷 斧 ・ 浦 上 隆 懸 等 の 諸 大 徳 教 師 と な り、 事 教 二 相 並 に 飴 乗 を 教 授 し、 全 眞 言 宗 二 團 と な り て 佛 子 の 教 養 に 努 め し も、 十 七 年 八 月 十 二 日 に お よ び、 政 府 は 内 務 省 紳 佛 教 導 職 を 塵 し、 住 職 の 任 免 教 師 等 級 の 進 退 等 を 各 宗 管 長 に 委 任 し、 各 教 規 宗 制 を 定 め し め た。 眞 言 宗 も 亦 そ れ に 慮 じ、 十 八 年 一 宗 公 會 を 東 京 に 開 き、 教 師 の 繕 號 を 改 め 寺 務 を 八 等 に 分 ち 色 衣 の 制 を 定 め、 東 寺 総 コ ウ を 慶 し て 大 學 林 を 新 古 各 別 に 置 く こ と 玉 し た 冒。 明 治 十 八 年 東 寺 総 コ ウ 塵 せ ら る 玉 や、 高 野 山 に 大 學 林 を 置 く こ と 玉 な り、 高 野 山 の 教 學 は こ X に 新 し い 組 織 を も つ て 蘇 生 し た。 そ の 後 幾 度 か の 隆 替 を 経 て、 大 正 十 五 年 四 月 文 部 省 磯 布 大 學 令 に よ る 大 學 に 改 め て 設 立 さ る。 當 初 は 楠 玉 諦. 旭 隆 懸 ・ 佐 伯 旭 雅 ・ 原 心 猛 ・ 上 田 照 逓 ・ 密 門 宥 範 森 大 雲. 鎌 田 観 慮 ・ 森 雪 嶽 等 當 代 の 碩 學 高 識 が 競 つ て 講 演 を 張 り、 幾 多 の 俊 才 を 出 し た。 然 し て 東 寺 の 薔 地 に は 大 中 學 が 増 築 さ れ、 大 學 は 後 京 都 專 門 學 校 と な り、 更 に 昭 和 廿 四 年 春 以 來、 新 學 制 に よ る 種 智 院 大 學 と し て 維 螢 さ る 瓦 よ う に な つ た。 豊 山 派 は 大 學 林 を 十 九 年 二 月 に 東 京 音 羽 に 創 立、 同 三 月 附 屡 中 學 林 を 設 置、 廿 三 年 三 月 に 開 校 式 を 學 げ た。 時 に 盛 褻 あ る は 免 れ な か つ た が、 犬 正 十 五 年 三 月 ま で 総 纏 し、 同 四 月 よ り 浮 土 ・ 天 台 の 爾 宗 と 合 併 し、 文 部 省 大 學 令 に よ る 大 正 大 學 に 参 加 し た。 豊 山 派 は 復 明 治 冊 三 年 十 月 二 日 本 派 大 學 林 及 び 渤 學 院 を 総 本 山 長 谷 寺 の 内 に、 尋 常 高 等 中 學 林 を 東 京 に 設 置 開 校 し た。 長 谷 寺 の 渤 學 院 は 現 在 專 修 學 林 と 繕 し て 宗 徒 の 近 世 日 本 密 教 教 學 史
密 教 文 化 教 養 に 當 つ て い る。 此 の 間 智 山 派 は 明 治 十 九 年 音 羽 の 大 學 林 合 同 経 螢 に 任 じ、 別 に 關 西 中 學 林 を 置 い た が、 冊 三 年 智 豊 爾 派 分 離 す る や、 同 年 九 月 智 積 院 境 内 に 大 學 林 と 中 學 林 と を 開 き、 卦 七 年 九 月 中 學 林 を 屡 し、 智 山 勧 學 院 の 制 度 を 設 け、 昭 和 四 年 に 及 び て 東 京 石 神 井 に 智 山 專 門 學 校 左 設 け て 移 韓 し た が、 後 犬 正 大 學 に 合 流 し た。 亥 に 高 野 山 史 を 顧 る に 維 新 以 後 は 賢 に 多 事 多 難 で あ つ た。 そ の こ と は 明 治 初 年 山 内 に 約 七 百 力 寺 あ り、 共 に 繁 榮 す る は 時 勢 上 到 底 許 さ れ す、 ま ず そ の 寺 院 敷 を 減 す べ き の 議 興 り、 途 に 明 治 廿 八 年 頃 ま で に 百 三 十 力 寺 に 漸 減 さ るゝ に 到 つ た。 そ の こ と 自 体 が い か に 多 難 で あ つ た か を し の ば せ る。 ま た 山 史 と し て 忘 れ 得 ら れ ぬ 事 件 は、 明 治 元 年 九 月、 歴 史 的 に 古 く よ り 存 在 し 互 に 紛 孚 止 ま な か つ た 學 侶 行 人 非 事 吏 と い う 三 汲 の 名 目 を 慶 し て、 金 剛 峯 寺 の 醤 號 に 復 し、 二 山 の 興 隆 を 計 る べ し と の 達 し を 時 の 行 政 官 よ り 受 け、 此 庭 に 三 汲 の 名 を 解 治 す る に 到 つ た。 同 六 年 に は 高 野 山 山 林 上 地 の 命 あ り、 約 四 千 町 歩 檜 ・ 棋 ・ 杉 ・ 縦 ・ 栂 ・ 松 等 の 大 木 鰺 蒼 と し て 繁 茂 し、 そ の 便 幾 許 な る を 知 ら す、 一 山 の 寳 庫 と し て 寺 務 検 校 累 代 保 管 に 任 じ、 ら 濫 伐 を 禁 じ 來 つ た の で あ る が、 今 や そ の 経 濟 的 基 礎 は 官 没 せ ら る 瓦 に 到 つ た。 二 山 の 不 幸 こ れ に 過 ぎ る は な い。 從 つ て 山 林 梯 い も ど し を 政 府 に 願 い 出 す る こ と 歎 回 に 及 ぶ も 容 れ ら れ す、 遍 照 光 院 前 汝 佳 照 岡 高 淳 師 の 如 き は、 そ の た め に 最 も 力 を つ く し た 入 で あ つ た が、 如 何 と も 詮 方 な く、 行 政 訴 訟 に ま で 及 ん で 猫 得 ら れ ぬ と い う 有 檬 で あ つ た。 け れ ど 夫 師 と 明 神 の 冥 護 か、 佛 教 各 宗 の 二 致 協 力 と 當 路 者 の 英 断 と 相 待 ち、 各 宗 共 に 同 じ く 山 林 土 地 の 下 戻 あ り、 高 野 山 は 大 正 七 年 以 來 山 林 木 林 の 費 彿 総 額 の 三 分 の 二 を 年 汝 交 附 せ ら る 製 に い た つ た。 かゝ る 財 源 を 得 る よ う に な つ て か ら 高 野 山 勧 學 財 團 成 立 し、 高 野 山 大 學 の 新 組 織 と な り、 二 山 の 教 學 は 二 新 の 緒 に つ く よ う に な つ た。 こ れ よ り 前 九 正 四 年 に は 弘 法 犬 師 高 騒 山 開 創 二 千 百 年 記 念 大 法 會 を、 四 月 二 日 よ り 五 十 日 間 勤 修 し、 大 師 信 仰 を い や が 上 に も 宣 援 し た。 そ の 際 山 内 各 院 所 藏 の 美 術 品 國 寳 類 を 牧 藏 展 襯 す べ き 璽 寳 館 が 建 設 さ れ、 そ れ と 共 に 圖 書 館 建 設 の 議 が 高 野 山 大 學 卒 業 生 同 窓 間 に 起 つ て い た が、 同 十 五 年 九 學 令 に よ る 大 學 に 改 組 さ る 瓦 に あ た り、 第 二 條 件 と し て 圖 書 館 完 備 の 件 あ り、 そ れ が 大 正 十 四 年 に 來 る べ き 昭 和 九 年 弘 法 大 師 御 入 定 二 千 百 年 御 遠 忌 奉 修 の 準 備 を 途 行 す べ き 御 遠 忌 事 務 局 の 開 設 と 同 時 に、 そ の 記 念 事 業 の 二 に 加 え ら れ て 直 に 着 手、 昭 和 三 年 度 末 工 事 二 切 完 了、 同 四 年 四 月 よ り 働 學 財 團 の 手 を 経 も て、 高 野 山 大 學 附 爵 圖 書 館 と し て 堂 女 開 館 さ る 弐 に 到 つ だ。 こ れ よ り 前 明 治 光 五 年 の 頃 よ り、 弘 法 犬 師 を 中 心 と す る 信 仰 團 体 た る 高 野 山 大 師 教 會 が 組 織 さ れ る よ う に な り、 會 員 漸 次 に 増 大 し、 大 正 四 年 開 山 二 千 百 年 記 念 法 會 執 行 に 際 し、 現 在 の 大 師 教 會 本 部 講 堂 建 設 さ れ、 事 務 二 切 を 金 剛 峯 寺 よ り こ
こ に 移 管、 眞 言 宗 布 教 界 の 重 鎭 和 田 大 圓 大 僧 正 が 本 部 長 に 就 任、 後 久 保 観 雅 僧 正 と な り、 鏡 意 教 線 の 損 張 と 會 員 増 加 の た め に つ と め、 途 に 六 十 四 萬 人 を 擁 す る 大 教 會 と な つ た。 明 治 廿 二 年 三 月 耀 三 日 山 内 二 心 院 谷 口 よ り 出 火、 千 手 院 谷 小 田 原 谷 に 及 び、 歎 十 力 寺 院 を 二 時 に 焼 失 し、 又 昭 和 元 年 十 二 月 廿 六 日 未 明 に、 伽 藍 の 金 堂 よ り 出 火、 孔 雀 堂 ・ 維 藏 の 炎 上 し た こ と は、 本 時 代 宗 徒 の 忘 る 弐 を 得 な い 痛 恨 事 で あ つ た が、 昭 和 九 年 宗 組 二 千 百 年 御 遠 忌 奉 修 記 念 に 先 す 金 堂 の 再 建 成 り、 山 内 町 道 の 整 備 も 大 い に で き た。 つ い で 天 保 十 四 年 焼 失 以 來 再 興 に い た ら な か つ た 大 塔 を 再 建 す る こ とゝ な り、 清 浦 奎 吾 伯 な ど を 中 心 に、 祀 山 護 持 の 蓮 動 と 共 に、 昭 和 十 二 年 現 在 の 大 塔 が 完 成 さ れ た こ と は 誠 に 意 義 深 い も の が あ る と し な ぐ て は な ら 漁。 さ れ ど 心 の 佛 塔 は 果 し て い つ 成 る か。 宗 徒 の ふ ん 起 を 望 む や 切 な る も の が あ る。 さ て 明 治 以 來 教 學 の た め に 如 何 な 人 が い か よ う に 活 動 し た か。 當 初 繹 良 基 大 教 正 あ り、 備 後 の 人 に て 寳 鎚 院 光 盛 に 知 ら れ、 文 政 五 年 (1 8 2 2 ) 八 月 廿 歳 に て 登 山、 修 學 大 い に 進 み、 天 保 十 二 年 光 盛 の 遺 囑 を 受 け て 寳 塾 院 に 入 り、 嘉 永 六 年 (1 8 5 3 ) 正 智 院 へ 韓 じ、 安 政 三 年 ( 18 5 6 ) 碩 學 に 進 み、 元 治 元 年 (1 8 6 4 ) 左 學 頭 を つ と め、 幕 末 よ り 明 治 初 年 に わ た り、 有 志 と 共 に 朝 敵 降 伏 の 法 を 修 し、 朝 庭 に 歓 を 通 す る こ と 二 再 な ら す、 江 戸 よ り 隙 居 を 命 ぜ ら れ る こ と さ え あ つ た。 事 教 の 達 人 に て 明 治 十 二 年 十 二 月 寂、 世 壽 七 十 五 で あ つ た。 そ の 後 に は 華 嚴 學 の 泰 斗 楠 玉 諦、 唯 識 倶 舎 學 に は 佐 伯 旭 雅 あ り、 旭 雅 和 尚 の 門 下 に 現 法 隆 寺 貫 首 佐 伯 定 胤 大 僧 正 が あ る。 眞 言 律 に は 繹 雲 照 ・ 別 鹿 榮 嚴 ・ 鼎 龍 曉 等 の 和 伺 あ り、 復 密 道 懸 ・ 高 岡 増 隆 の 如 き 稗 道 に 勝 れ た 師、 密 門 宥 範 の 如 く 宗 乗 に 傑 出 し た 人、 秦 海 充 ・ 水 原 弘 榮 ・ 松 永 昇 道 の 如 き 事 相 の 亘 人、 箸 尾 畳 道 ・ 葦 原 寂 照 の 如 き 聲 明 道 の 泰 斗、 ま た 上 田 照 遍 ・ 浦 上 隆 鷹 の 如 き 宗 蝕 乗 に す ぐ れ た 人 あ り。 新 荒義 智 山 派 に は 喩 伽 教 如 の 如 き 事 相 聲 明 の 達 人 あ り、 豊 山 派 に は 構 田 雷 斧 の 如 き 泰 斗 も あ つ た。 特 に 椹 田 師 は 大 正 五 年 東 京 大 學 の 人 々 を 中 心 に 密 教 綱 要 を 講 じ 曼 茶 羅 通 解 を 談 じ、 共 に 著 述 と し て 印 刷 刊 行 さ れ、 そ の 他 大 正 七 年 大 村 西 涯 居 士 が、 印 度 と 支 那 に お け る 密 教 獲 達 史 五 巻 を 漢 繹 経 典 に よ り て 著 述 さ る 瓦 や、 そ の 誤 り を 指 摘 し て 堂 汝 の 論 陣 を 張 り、 途 に 同 十 四 年 に 我 観 密 教 蛮 達 史 を 公 刊 さ るゝ な ど、 そ の 他 多 く の 著 述 を 残 さ れ、 中 國 へ も 傳 法 の た め に 行 く な ど さ れ た。 け れ ど 密 教 學 自 体 の 嚢 達 進 歩 と い う 立 場 を も つ て 見 る 時、 本 時 代 は 概 し て 前 代 以 來 の 教 學 を 襲 踏 し、 こ れ を 傳 承 し 頑 述 し た の で あ つ て、 特 殊 の 効 績 を 淺 し た 人 は 少 な い。 そ の 中 昭 和 廿 三 年 二 月 生 壽 八 十 を も つ て 遜 化 さ れ た 長 谷 寳 秀 師 は、 生 涯 を 通 じ て 京 都 東 寺 の 學 校 に 宗 學 を 講 じ、 明 治 四 十 二 ・ 三 年 の 聞 に 弘 法 大 師 全 集 五 巻 ( 和 本 十 六 冊 )、 大 正 二 ・ 三 年 に 眞 言 宗 安 心 全 書 二 巻、 大 正 十 一-五 年 の 間 に 慈 雲 尊 者 全 集 洋 装 十 七 巻、 昭 和 九 年 弘 法 大 師 行 状 檜 詞 傳 二 巻 ・ 同 九 ・ 十 年 に 弘 法 大 師 全 集 和 本 十 巻、 同 十 三 年 大 師 近 世 日 本 密 教 教 學 史
密 教 文 化 御 請 來 梵 字 眞 言 集 和 本 二 巻、 同 十 七 年 弘 法 大 師 諸 弟 子 全 集 洋 本 三 巻 等 の 編 纂 を 完 成 嚢 刊 し、 何 れ も 我 學 界 の 珍 重 す る と こ ろ と な つ て お り、 宗 學 上 不 朽 の 業 績 を 残 さ れ た こ と を 記 さ ね ば な ら ぬ。 ま た 同 廿 二 年 四 月 七 十 二 歳 で 遷 化 ざ れ た 森 田 龍 催 教 授 は、 高 野 山 寳 壽 院 門 主 に し て、 高 野 山 大 學 に 宗 學 を 講 す る こ と 三 十 四 年 に 及 び、 著 書 と 論 文 は 多 か つ た。 そ の 中 弘 法 大 師 入 定 観 ・ 繹 摩 詞 術 論 の 研 究 ・ 密 教 占 星 法 等 は 特 殊 な 著 で あ つ て、 永 く 忘 れ 難 い も の で あ る。 更 に 宗 組 二 千 百 年 遠 忌 を 昭 和 九 年 に ひ か え る に 際 し、 京 都 專 門 學 校 の 教 授 を 中 心 に 編 纂 さ れ た 密 教 大 僻 典 三 巻 と、 高 野 山 大 學 教 授 を 中 心 に 編 纂 さ れ た 眞 言 宗 全 書 洋 本 四 十 二 巻、 豊 山 派 守 山 聖 眞 師 を 中 心 に し て 作 ら れ た 眞 言 宗 年 表 二 巻 並 に 同 じ 豊 山 派 學 僧 の 手 に よ つ て 編 纂 さ れ た 豊 山 全 書 二 十 巻 ( 昭 和 十 二 -十 四 年 頃 ) は、 共 に 昭 和 年 代 に お け る 宗 徒 最 大 の 出 版 業 績 の 二 つ と し な く て は な ら ぬ。 そ の 中 眞 言 宗 全 書 を し て 名 實 と も に 相 懸、 し た 大 全 書 と す る た め に は、 更 に ょ り 以 上 の 大 き な 努 力 が 傾 倒 さ れ な く て は な ら ぬ。 蓋 し 教 學 の 畿 展 と い う 意 味 に お い て 高 野 山 大 學 の 任 務 は 重 且 つ 大 と レ な く て は な ら ぬ。 海 外 に 出 向 い た 人 と し て 記 さ ね ば な ら ぬ 二 人 に 長 谷 部 隆 諦 師 が あ る。 明 治 四 十 二 年 早 稻 田 大 學 文 學 部 哲 學 科 卒 業、 四 十 三 年 第 一 回 眞 言 宗 海 外 留 學 生 と な つ て 印 度 へ 渡 り、 ベ ナ レ ス 市 中 央 大 學 に 梵 語 學 を 研 究 し、 同 四 十 五 年 ネ ポ ー ル 國 に 入 り、 大 正 年 鵬 朝、 高 野 山 大 學 に 梵 語 學 を 講 じ、 大 正 十 年 退 職 し て 師 跡 を つ ぎ、 十 四 年 高 雄 山 神 護 寺 に 縛 じ、 昭 和 二 年 再 度 印 度 へ 渡 り、 突 然 同 三 年 十 蝋 丹 彼 地 に 客 死 し た。 世 壽 五 十、 法 膓 三 十 七、 著 書 敷 部 を 残 さ る。 故 人 に し て 緻 米 の 覗 察 を 途 げ た 人 人 と し て は 先 に 土 宜 法 龍 師 が あ る。 大 正 十 二 年 高 野 山 管 長 と し て 壽 七 十 歳 を も つ て 入 滅 さ れ た が、 師 は 明 治 廿 六 年 七 月 米 國 シ カ ゴ 萬 國 宗 教 大 會 に 日 本 佛 教 代 表 委 員 と し て 彼 地 に わ た り、 つ い で 鰍 州 諸 國 を 巡 遊 し、 鶴 途 印 度 に 佛 跡 を 巡 拝 し、 廿 七 年 鶴 朝 さ れ た。 後 に 昭 和 十 七 年 七 月 に 遷 化 し た 時 の 合 同 眞 言 宗 教 學 部 長 藤 本 眞 光 師 は、 高 野 山 遍 照 光 院 の 二 代 で あ り、 大 正 十 三 年 七 月 出 帆 ハ ワ イ よ り 米 國 へ 渡 り、 廣 く 欧 州 各 國 を 覗 察 し、 印 度 佛 蹟 を 巡 歴 し て 同 十 五 年 四 月 露 朝 さ れ た。 生 壽 六 十 歳 で あ つ た。 欧 州 へ 留 學 さ れ た 人 に し て 現 在 猴 カ ク シ ヤ ク と し て 研 究 と 著 述 に 波 頭 し て い ら る 玉 は 高 野 山 大 學 栂 尾 教 授 唯 二 人 で あ つ て、 そ の 後 が つ 讐 か な い こ と は、 大 眞 言 宗 と し て さ び し い。 以 上 近 世 目 本 密 教 教 學 史 は、 一 慮 の 概 論 に 過 ぎ な い の で あ る が、 若 い 學 徒 の た め に、 明 治 ・ 大 正 ・ 昭 和 を 通 じ て 登 刊 さ れ た 密 教 史 關 係 の 書 を 手 に し て、 ほ ん の 参 考 ま で に ま と め て 見 た に 過 ぎ な い。 小 著 神 佛 交 渉 史 と 聲 朋 の 歴 史 及 び 音 律 に 掲 げ た と こ ろ は 全 略 し た。 か つ 本 篇 は 昭 和 七 年 の 頃、 東 京 讃 賓 新 聞 鷲 編 宗 教 大 観 中 に、 密 教 教 學 史 と し て 一 度 出 し た の で あ る が、 そ の 本 今 容 易 に 手 に す る を 得 な い の で、 若 干 の 補 正 を 加 え て そ の 一 部 を 此 塵 に 載 せ た。 あ え て 讃 者 諸 師 の 諒 承 を こ う 次 第 で あ る。 後 篇 は 未 登 表 の 台 密 史 概 説 に し た い。 以 上 前 篇 了。