• 検索結果がありません。

境 が 数 量 と 記 述 内 容 の 両 面 から 捉 えられるだろう 次 なる 段 階 として 個 々の 名 宝 を 現 存 作 例 と 照 らし 合 わせ 同 定 していく 作 業 が 必 要 となってくるだろう 先 行 研 究 に よる 豊 かな 蓄 積 に 広 くあたり また 聞 き 取

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "境 が 数 量 と 記 述 内 容 の 両 面 から 捉 えられるだろう 次 なる 段 階 として 個 々の 名 宝 を 現 存 作 例 と 照 らし 合 わせ 同 定 していく 作 業 が 必 要 となってくるだろう 先 行 研 究 に よる 豊 かな 蓄 積 に 広 くあたり また 聞 き 取"

Copied!
10
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

市川 彰

 日本美術史/講師

ICHIKAWA Akira

名所図会に記された京都の「名宝」(一) 

『都名所図会』巻之一

序にかえて —問題の所在、研究の展望—  京都という都市においては、連綿として「名宝」1が生みだされ、中国や朝鮮半島などから請来された品々を含めて享受され、 守り伝えられてきた。そして、それらの「名宝」は、制作者たちの学びの対象となり、さらに新たな美を生みだしていく基盤 となっていた。このような恵まれた環境は、時代によって大きく様相を違えるとしても、筆者が関心を寄せる十八世紀におい ても保持されていたと言ってよい。例えば、白井華陽(?〜1836)の著書『画乗要略』(天保三年(1830)刊)の巻二、伊藤若冲(1716 〜1800)の項2に、   伊藤若冲名ハ鈞字ハ景和平安ノ人。初メ狩野氏ニ学ヒ。後元明ノ古蹟ヲ摸シ。兼テ光琳之筆意ヲ用ヒ。別ニ一格ヲ為ス。 と記されるように、制作者たちは師の教えを受けながら、過去に生みだされ、伝えられた「名宝」を学び、自らの制作の糧と していたのである。  では、十八世紀の京都における「名宝」をめぐる環境とは、いかに捉えられるだろうか。それぞれの制作者が行った学習の あり方の考察、学習を通じて生みだされた作品の研究などはすでに多く行われている3。しかしながら、環境それ自体について 具体的な像を結ぶことは、いまだ容易ではない。もちろんのこと、全貌を詳細に解明することは困難だろう。しかし、より具 体的に「名宝」をめぐる重層的な環境を捉えることができれば、十八世紀の京都における多様な美術動向は、さらに深く理解 されるのではないだろうか。  上述の問題を解明する手がかりとして着目されるのは、京都をそのフィールドとする三件の名所図会の存在である。安永九 年(1780)、秋里籬島(生没年不詳)の編著になる『都名所図会』が刊行された。いわゆる名所図会の嚆矢である。博識を誇る 秋里は、自ら巡歴した経験や豊富な取材を踏まえ、京都に点在する名所旧跡の所在や歴史、見所ほか関連する諸事を、文献・ 詩歌等を多く引用しながら簡明な文体で紹介していく。また、折々に竹原春朝斎(生没年不詳)による寺社境内の鳥瞰図、風 俗人物図などの挿図が挟まれる。記述内容の面においても、またヴィジュアル面においても優れた京都の案内書として認めら れるだろう。同書が好評を博したことは、度重なる再刊とともに、続編あるいは補遺として位置づけられる『拾遺都名所図会』 が天明六年(1786)に、さらに庭園を焦点として編まれた『都林泉名勝図会』が寛政十一年(1799)に刊行されていることか らも容易に推測できる。  筆者がこの三件の名所図会に着目するのは、膨大とも言える数の「名宝」が各書に記されているからに他ならない。あまたの「名 宝」を記した理由について、秋里は『都林泉名勝図会』の「凡例」において次のように述べている4   諸寺方丈書院の名画名筆、または什宝虫干の体相の大略を書するは、その寺院の荘厳京師の美観なり。 「名宝」が寺院を荘厳し、その荘厳された寺院の存在が京都という都市を美しく彩っていく。京都の「美観」とは、あまたの「名宝」 の存在と不可分の関係にあると捉えられている。では、このような「名宝」をめぐる環境を具体的に把握するためには、どの ような手法をとるべきか。  先述の問題意識にもとづいて、『都名所図会』、『拾遺都名所図会』、『都林泉名勝図会』の各書をひもとくとき、次の二つの作 業が必要と考えられる。第一に、各書に記された「名宝」を、関連情報とともに抜粋し、一定の整理を加えて目録化していくこと。 第二に、個々の「名宝」を現存作例と照らし合わせて同定していくことである。  筆者は以前に、各書に記された「名宝」の一覧表を作成する作業を行った5。これは、各書が有する「名宝」に関する情報を 試みに把握しようとしたものであった。しかし、一覧表の作成を主目標としていたために、個別の「名宝」に関する重要な情 報を網羅することができず、また明らかな遺漏・誤謬も散見される。そこで改めて、より詳細かつ網羅的な目録の作成を期す ることとしたい。加えて、各書に記された「名宝」が、重複はあるにしても同一ではないことを鑑みるならば、最終的には各 書の諸情報を統合した目録を作成することが肝要である。この作業により、十八世紀後半の京都における「名宝」をめぐる環

(2)

境が、数量と記述内容の両面から捉えられるだろう。  次なる段階として、個々の「名宝」を現存作例と照らし合わせ、同定していく作業が必要となってくるだろう。先行研究に よる豊かな蓄積に広くあたり、また聞き取り調査、実見調査を鋭意行い、その成果を上述の統合された目録に反映していく。 当然のことながら、確実あるいは暫定的に同定可能であるもの、同定が困難であるもの、同定はできないにしても形式や様式 などを推定できるもの等が出てくる。そういった現存作例や参考となる作例を逐次挙げていくことによって、十八世紀後半の 京都における「名宝」をめぐる環境は、より実像をともなって立ち現れてくるのではないだろうか。  以降、『都名所図会』、『拾遺都名所図会』、『都林泉名勝図会』をテクストとして、順次、目録化作業を行っていくが、その作 業方針を下記にまとめておく。 一、底本は『日本名所図会全集』(昭和三年(1928)初版、昭和五十年(1975)覆刻、名著普及会)所収の『都名所図会 全』、 『拾遺都名所図会 全』、『都林泉名勝図会 全』とする。 一、刊行年、巻数、掲載の順を追い、見出しごとに「名宝」に関連する諸情報を抜粋する。 一、抜粋にあたっては、漢字を現行の書体とし、平仮名の踊り字は開き、割書は[ ]内に記す。また中略・後略に関しては「…」 記号で表す。 一、寺社名等の見出しを挙げ、記される内容をもとに所在地、宗旨・祭神、開基・開山、その他の参考情報を記す。また引用 箇所については「 」内に記す。 一、判明する場合に限り、作者等(賛者、詞書の筆者等も含む)を挙げるが、例えば「弘法大師」を「空海」、「安阿弥」を「快 慶」とするなどして簡明を図る。 一、「名宝」名称は、可能なかぎり抜粋そのままではなく、例えば仏像ならば立像・坐像などの別を示すなどして新たに名付け、 また別称などを( )内に付し、向後の同定作業の便を図る。 一、所蔵等についても、同上の理由により、可能なかぎり現在の呼称を挙げ、安置される場所等を( )内に付す。 一、上記の作業を作者等、「名宝」名称、所蔵等、抜粋の順に表としてまとめ、「名宝」一件ごとに整理番号を付す。  なお、本稿においては、次章で取りあげる『都名所図会』巻之一で許された紙幅がつきる。同書の巻之二ほかについては、 次号以降に順次掲載することとしたい。 1 『都名所図会』巻之一に記された「名宝」 (1)「上御霊社」  所在地は「平安城鞍馬口通の南」、祭神は早良親王ほかの「八所御霊」、「朱雀院の御宇」の天慶二年(939)に鎮座。また、「い にしへ此地は上出雲寺なり」と記される。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 聖徳太子 聖観音菩薩像 上御霊神社(観音堂) 観音堂の本尊は聖徳太子の作にして聖観世音なり、是則出雲寺の本尊といふ。  この項に続いて「中川」が見出しとして挙げられるが、「名宝」の記述は認められない。ただし「藻塩草」「源氏巻」の語が見える。 (2)「万年山相国承天禅寺」  所在地は「今出川の北」。「五山の第二」、開基は夢窓疎石(1275〜1351)、「後小松院の御宇」の明徳三年(1392)、「足利三代 の将軍義満公の建立なり」と記される。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1   釈迦如来像 相国寺(仏殿) 仏殿には釈迦仏を安置し、迦葉阿難を左右にし、 達磨大元の像を脇壇に安ず、 2   迦葉像 相国寺(仏殿) 3   阿難像 相国寺(仏殿) 4   達磨像 相国寺(仏殿) 5   大元像 相国寺(仏殿) 6   夢窓疎石像 相国寺(祖師堂) 祖師堂には夢窓国師の像あり、後水尾院の御再 建にして同帝の神牌を安置す、 7   後水尾院神牌 相国寺(祖師堂)

(3)

8   大日如来像 相国寺(三重塔) 三重塔は大日如来を本尊とし、これも後水尾院の御再建なり、 9   毘沙門天像 相国寺(庫裏の傍) 庫裏の傍には毘沙門天を安す。[霊験いちじるしくて常に詣人多し。] 10   石灯籠 相国寺(普広院) 塔頭普光院の竹林には黄門定家卿の墓あり。[墓前に石灯籠一基あり、銘に曰貞享三年臘月右中 将為経卿建之とあり。]  この項に続き、「京極八幡宮」「出雲路神」「縣井戸」の見出しがあるが、「名宝」の記述はない。 (3)「具足山妙覚寺」  所在地は「新町頭に有」、法華宗、開基は日実上人。なお「又当寺に画工狩野古法眼元信其外狩野家数代の墓あり」と記され る。下表 6、7 の「紫印金」「角龍」は表具裂を表すか。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 空海 金剛力士像 妙覚寺(楼門) 楼門の金剛力士は弘法大師の作なり。 2   日蓮上人像 妙覚寺(祖師堂) 祖師堂には日蓮日朗日像三師の像を安置す。[此 堂は飛騨の工み造立にして恰好比類なし、諸堂 建立の規矩となす。] 3   日朗上人像 妙覚寺(祖師堂) 4   日像上人像 妙覚寺(祖師堂) 5 日蓮 法華経 妙覚寺(花芳塔) 花芳塔には日蓮自筆の法華経を収む、 6 日蓮 曼荼羅(紫印金) 妙覚寺 紫印金の曼荼羅角龍の曼荼羅は共に日蓮の筆に して当寺の什宝なり。 7 日蓮 曼荼羅(角龍) 妙覚寺 (4)「卯木山妙蓮寺」  所在地は「寺内通小川の西」、法華宗、開基は日像(1269〜1342)。日像は日朗(1245〜1320)の弟子、日蓮(1222〜1282) にも師事した(前項「具足山妙覚寺」の表中も参照のこと)。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 日蓮 法華曼荼羅(祈雨の本尊) 妙蓮寺 当寺の什宝に、祈雨の本尊とて日蓮上人の自筆 法華の曼荼羅あり。後光厳院の御宇に天下大に 旱す、此本尊を持って桂川のほとりに至り請雨 の法を修せしむ、忽霊応ありて大雨数日に及ぶ、 故に日蓮上人に大菩薩の号を賜る。 (5)「具足山妙顕寺」  所在地は「小川の北」、法華宗、開基は日像。なお下表中の「蜀錦」は表具裂を示すか。また、日像の「経一丸」との「字」は、 日蓮の命名という。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1   釈迦如来像 妙顕寺 立像の釈迦仏は長三寸にして黄金仏なり、日蓮上人常に持念し給ふとぞ。 2 日蓮 曼荼羅(蜀錦) 妙顕寺 蜀錦の曼荼羅、経一丸の曼荼羅共に日蓮の筆に して当寺の什物なり。[経一丸は日像上人の字な り。] 3 日蓮 曼荼羅(経一丸) 妙顕寺 (6)「金剛山大応寺」  所在地は「妙覚寺の西」、「天台、真言、禅」の兼学、開基は虚応円耳(1559〜1619)。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1   釈迦如来像 大応寺(仏殿) 仏殿には釈迦仏を本尊とし迦葉阿難を脇士とす、 2   迦葉像 大応寺(仏殿) 3   阿難像 大応寺(仏殿) 4 隠元隆琦 額「大応寺」 大応寺(仏殿) 額は大応寺と書して黄檗隠元の筆なり。

(4)

(7)「叡昌山本法寺」  所在地は「大応寺の南」。法華宗、開基は日親(1407〜88)。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 本阿弥光悦 額 本法寺(本堂) 本堂の額は光悦書す。  この項に続き、「今日庵宗旦」の見出しがあるが、「名宝」の記述は認められない。 (8)「堯天山報恩寺」  所在地は「小川の西上立売」、「浄土宗にして知恩院に属す」。また「初は天台浄土の両宗を兼学」し、開山は「明泉和尚」と されるが、のち慶誉春公が「浄土の一宗と改」めた。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 快慶 阿弥陀如来像 報恩寺 本尊は阿弥陀仏にして安阿弥の作なり。 2 四明陶佾 虎図 報恩寺 当寺の什物に虎の画あり四明陶佾の筆なり。秀吉公の時聚楽亭にありて夜々声を発す、故に世 人鳴虎と称す。  この項の後に「堀川」「戻橋」「小野小町双紙洗の水」「安陪晴明社」「水火天神」の見出しがあるが、「名宝」の記述はない。 (9)「瑞光院」  所在地は「安居院の北」、「むかしは浅野弾正の第宅」であったことが記される。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1   大石内蔵助像 瑞光院 当院の什物に内蔵介の画像辞世の詩歌書翰等あ り。 2 大石内蔵助 辞世の詩歌 瑞光院 3 大石内蔵助 書翰 瑞光院 (10)「恵光山本隆寺」  所在地は「五辻の北」、法華宗、開基は日真(1444〜1528)。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 日像 題目石塔 本隆寺 題目の石塔は日像上人の筆なり。  この項に続き、「桜葉宮」の見出しがあるが、「名宝」の記述はない。 (11)「家隆山石像寺」  所在地は「千本通五辻の北」、浄土宗。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 菅原道真 阿弥陀如来像 石像寺 本尊阿弥陀仏は菅公の御作なり。 2 空海 石造地蔵菩薩立像 石像寺(地蔵堂) 地蔵堂には弘法大師の作り給ふ立像の石地蔵あり。[信ずるに感応ありて霊験いちじるし、石像 寺の号これより出たり。] (12)「北向山歓喜寺」  所在地は「上立売の西」、真言宗、開基は空海(774〜835)。嵯峨天皇(786〜842)の勅願所。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 空海 歓喜天像 歓喜寺 本尊歓喜天は弘法大師の作なり。  この項に続き、「石神社」「聚落亭の旧地」の見出しがあるが、「名宝」の記述はなし。

(5)

(13)「般舟三昧院」  所在地は「今出川通糸屋町の西」、宗旨は「天台、真言、律、浄土」兼学、「禁裏内道場」と称した。開山は恵篤善空(1412 〜92)。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 円仁 阿弥陀如来坐像 般舟院 本尊は阿弥陀仏の座像にして慈覚大師の作なり。 2   帝王歴代神牌 般舟院 帝王歴代の神牌を安置す。 (14)「恵照山浄福寺」  所在地は「一条の西」、「浄土宗にして知恩院に属す」、開基は「弘蓮社深誉上人」。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 空海 阿弥陀如来像 浄福寺(本堂) 本尊阿弥陀仏は弘法大師の作なり。 2 後奈良院 額「浄福寺」 浄福寺(本堂) 本堂の額は浄福寺と書して後奈良院の宸筆なり。 (15)「安穏山大超寺」  所在地は「浄福寺の西」、浄土宗。なお、下表の作者等の欄に、「化人」を記すことを控えた。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 源信 阿弥陀如来像 大超寺 本尊阿弥陀仏は恵心僧都伊勢太神宮に一七日参 籠しけるに、阿弥陀の三尊空中に現じ給ふ、則 其尊形を摸して三尊を刻給へり、其時化人来り て共に作る、故に世人神明の御作といふ。  この項に続き、「西陣」の見出しがあるが、「名宝」に関する記述はない。 (16)「蓮台山阿弥陀寺」  所在地は「京極通鞍馬口の南」、「浄土宗にして百万遍に属」し、開基は玉誉清玉。なお「同両公の墳、其外明智光秀叛逆の 時本能寺において討死の臣数輩の墓あり。[清玉上人信長公の寵をうけられしゆえ此所に葬る。]」とされる 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 空海 阿弥陀如来像 阿弥陀寺 本尊の阿弥陀仏は弘法大師の作なり。 2   織田信長像 阿弥陀寺(方丈) 方丈には織田信長公、同信忠公の影像を安ず。 3   織田信忠像 阿弥陀寺(方丈) (17)「華宮山十念寺」  所在地は「阿弥陀寺の南」、浄土宗、開基は真阿(1374〜1440)。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 空海 阿弥陀如来像 十念寺 本尊阿弥陀仏は弘法大師の作なり、 (18)「広布山本満寺」  所在地は「十念寺の南」、法華宗、開基は日秀(1383〜1450)。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1   日蓮上人像    (伝元三大師像) 本満寺(祖師堂) 祖師堂日蓮上人の像は、初め丹波国黒田村にあ り、所の人熱病を発して死するもの多し、これ 則此像の祟なりとて、櫃に入れて山中に捨てた り、夫より星霜累りて知るものなし。ある時山 中に読経の声あり、村民これをあやしみ山に入 て窺ふに、此尊像を得たり、則同所生福寺に安 置す。其後字津宮心覚といふものこれを奪ひ取 て都に登り、市中に售ぬ。当寺の日重上人これ

(6)

を見て、高祖の像なりとて速やかに買取って当 寺に安置せり。[祈願するに霊験あらたなりとて、 当宗の門徒常に参集す。一説には元三大師の像 ともいふ、新著聞集に見えたり。] (19)「浄華院」  所在地は「京極通今出川の南」、「浄土宗四本寺の其一」、中興の祖は向阿(1265 〜 1345)。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1   法然上人像 清浄華院(本堂) 本堂には元祖法然上人の像を安置し、 2 源信 阿弥陀如来像 清浄華院(阿弥陀堂) 阿弥陀堂の本尊は恵心の作なり。 3   不動明王像(身代不動尊) 清浄華院 身代不動尊[当院に安置す、いにしへ三井寺の 智光法師重病をうけしとき、安陪晴明諸神に祈 りて曰、もはや命終の期来れり、徒弟の中に身 代りに立べき僧ありやと問ふ。時に弟子三十六 人の内聖空といふ僧出て、われ師の身代になり て命を断べきといふ、其とき聖空が常に持念し ける不動尊夢中に示現して宣ふやうは、汝が誠 心を感じてわれ又聖空の身代に立べきと告給ふ、 忽師の房智光法師も病難を免れ全身となる。今 に霊験いちじるし。] (20)「廬山天台講寺」  所在地は「浄華院の南」、「天台、律、法相、浄土」の兼学、開基は良源(912 〜 985)。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 良源 元三大師像 廬山寺 本尊は元三大師自作の像なり、 2 聖徳太子 薬師如来像(小屋の薬師) 廬山寺 南の壇上には薬師仏を安ず。世に小屋の薬師と称す。] [聖徳太子の作なり、 3 最澄 聖観音菩薩像(船来迎観音)廬山寺 北の壇上には聖観音を安ず。世に船来迎観音と称す。] [伝教大師の作なり。 4 法然 選択集 廬山寺 当寺の什物に法然上人自筆の選択集あり、 5 親鸞 偈文(四句) 廬山寺 又親鸞上人自筆の四句の文あり。[是六角堂観世音より授与し給ふ四句の偈文なり。]  この項に続き、「下御霊社」の見出しがあるが、「名宝」に関する記述はない。ただし「観音堂[社内にあり、洛陽観音巡の 第六番なり。]」とあり、後考を要する。 (21)「行願寺」  所在地は「下御霊の南に隣る」、天台宗、開基は行円。一名に「革堂」。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 行円 十一面千手観音菩薩立像 行願寺 本尊十一面千手観音は長八尺の立像、行円上人 の作なり。[西国第十九番の巡礼所、又洛陽観音 巡りの第四番なり。]…行円つねに千手大悲陀羅 尼を持し、良材を求め観音の像を刻ん事を願へ り。ある夜の夢に一人の沙門来り、霊木を送ら んといひて覚めぬ。翌朝果して一僧来り告ける やうは、鴨社の傍に苔蒸たる槻樹あり、六斎日 毎に千手の神咒を誦する声聞へぬ、むかし鴨太 神宮この樹下に天降り給ふとぞ、則行円これを 尋ね求め、則神官に乞うけ菩薩の像をきざみ、 行願寺を営て安置す、これ当寺の本尊なり。 2   加茂明神石塔 行願寺 加茂明神の石塔[五輪の塔婆にして高一丈余なり、塔前に鳥居あり、行円上人これを建る。]

(7)

3 仁弘 (八尺の像) 善峰寺 其後行円の弟子仁弘法師、此余材を得て又八尺の像を作り、西寺良峰寺の本尊とす。 (22)「清荒神社」  所在地は「京極の東荒神口」、祭神は「八面八臂の荒神」。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1   荒神像(八面八臂) 護浄院 祭るところ八面八臂の荒神なり。 (23)「本誓寺」  所在地は「河原町通二条の北」、「親鸞聖人の弘法にして高田派」。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 源信 阿弥陀如来像 本誓寺 本尊阿弥陀仏は恵心の作にして、初は宇治恵心院にあり。 2 狩野永徳 (障壁画) 本誓寺(本堂) 本堂は秀吉公北の政所の化粧殿、堂内の画は狩野永徳が筆なり。 (24)「妙塔山妙満寺」  所在地は「京極通二条の南」、法華宗、開基は日什(1314 〜 92)。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1   道成寺鐘 妙満寺 道成寺鐘[当寺にあり、これ紀州日高道成寺の 鐘なり。銘あり、兵乱によって伽藍回禄の後所々 にうつし、遂に天明十六年五月に紀州新宮の某 当寺に寄附す。然れども瑾あって音響遠く至ら ず、故此鐘を鋳改んとて碎んとするに、大に振 動し鐘より火焔出る、衆僧これに驚て此事を止 て、新たに一鐘を鋳たり、則此鐘は堂内に蔵む、 初は龍頭の下にひびきありしが次第に癒て今は 平なり。] (25)「本能寺」  所在地は「京極通押小路の南」、「法華宗にして勝劣派」、開基は日隆(1385 〜 1464)。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 左甚五郎 (彫物) 本能寺 方丈の前の門は聚楽城よりここに移す。[彫物花美なり、左甚五郎の作とぞ。] 2 日蓮 題目曼荼羅 本能寺 題目曼荼羅[宗祖日蓮上人の筆なり、表具は紺地の純子に唐草の地紋あり、これを世に本能寺 切といふ。] (26)「聞法山頂妙寺」  所在地は「三条橋東の北三町」、法華宗(一致派)、開基は日祝(1437 〜 1513)。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 運慶・快慶 持国天像 頂妙寺(楼門) 当寺楼門の二天、東は持国天西は多聞天にして、 運慶安阿弥の両作なり。霊験新にして常に詣人 絶ず。[楼門の前に二天の拝殿あり、他に異なり。] 2 運慶・快慶 多聞天像 頂妙寺(楼門)  この項に続き、「源三位頼政の旧跡」「高松神明」「西行水」の見出しがあるが、「名宝」に関する記述なし。

(8)

(27)「曼荼羅山天性寺」  所在地は「京極三条」、浄土宗。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 源信 阿弥陀如来像 天性寺 本尊阿弥陀仏は恵心の作なり。 2   観音菩薩像(織姫観音) 天性寺 織姫観音[中将姫は観世音の化身なり、故に此像を作って名とす。] 3 中将姫 中将姫像 天性寺 中将姫の像[自作なり、本堂に安置す。] (28)「矢田山金剛寺」  所在地は「天性寺の南に隣る」、浄土宗。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 満米 地蔵菩薩像 矢田寺 本尊地蔵は満米上人の作なり。 2   薬師如来像(夕皃薬師) 矢田寺 夕皃薬師[本堂の前に安置す。] (29)「三条橋」  所在地は「東国より平安城に至る喉口」。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1   擬宝珠(紫銅) 三条橋 欄干には紫銅の擬宝珠十八本ありて、悉銘を刻。 其銘に曰、洛陽三条之橋、至後代化度往還人、 盤石之礎入地、五尋切石之柱六十三本、蓋於日 域石柱濫觴乎、天正十八年庚寅正月日、豊臣初 之御代奉増田右衛門尉長盛造之。 (30)「檀王法輪寺」  所在地は「三条橋東詰」、浄土宗、前身の「悟真寺」は道光(1243〜1330)により建立。袋中(1552〜1639)の再建とされる。 なお下表 2 の主夜神秘符に関しては後考を要する。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 源信 阿弥陀如来像 檀王法輪寺 本尊阿弥陀仏は恵心の作なり。 2    (主夜神秘符) 檀王法輪寺(主夜神祠) 主夜神祠は開基袋中上人の勧請なり。縁起に曰、 慶長八年三月十五日、袋中上人別行に入て念仏 し給ふに、忽然として朱衣に青袍を着して光明 の中に顕れ、上人に告て曰、われは華厳経に説 給ひし婆珊婆演底主夜神なり、専修念仏の行者 を擁護すべしと、則秘符を授給ふ、夫より応験 新にして常に詣人多し。[慶長以来は当寺宝蔵に あり、近年今の堂に鎮座す。…] 3 職仁親王 額 檀王法輪寺 […鳥居は石柱にして額は有栖川職仁親王の筆なり。] 4   地蔵菩薩像(袖留地蔵) 檀王法輪寺 袖留地蔵[由来不詳。] (31)「瑞泉寺」  所在地は「三条小橋の南」、浄土宗、豊臣秀次の母・日秀(1534〜1624)の願により、開基を三空(立空)桂叔として建立。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 聖徳太子 阿弥陀如来像 瑞泉寺 本尊阿弥陀仏は聖徳太子の作なり、  この項に続き、「先斗町」の見出しがあるが、「名宝」に関する記述なし。

(9)

(32)「六角堂頂法寺」  所在地は「六角通烏丸通のひんがし」、天台宗、開基は聖徳太子(574〜622)。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1   如意輪観音像 頂法寺 本尊如意輪観音は金像にて長一寸八歩なり。… 抑此尊像は、むかし淡路国岩屋浦に夜々光あり、 漁人これをあやしみ網をおろすに、朱の唐櫃を 得たり、其櫃の上に正覚如意輪の像一体、謹上 日本国之王家と書せり、よって内裏に献るに、 太子早く見給ひて、是こそ我前生七世の持尊な りと尊崇し、常に随身し給ふ。時に摂州四天王 寺を造んとて材木を所々に求らる。其頃此所を 山城折田郷土車里といふ。太子此辺を徘徊しこ こに来り。清水に澡がんとて、かの尊像を槲樹 にかけ置、浴すみて像を取給ふにいと重くして 離るる事なし。其夜の夢に本尊告げて曰、我太 子のために持せらるる事七世、今又此地に因縁 あり、願ばここにありて永衆生を利益せんと宣 ふ、然るに東方より一人の老嫗来つて曰、此傍 に大木の杉あり、毎朝紫雲覆り、是こそ霊材な りといへば、太子是を見給ひ、則きらしめ他木 一株も交ず六角の堂を営給ふ。…[一説には高 麗国光明寺に在りし尊像なり、然をかの国の僧 徳胤これを迎て太子に献しともいふ。]…[当坊 住職の中専慶法師立花を愛し、木立興あるをば 食をわすれてもとめ、深山幽谷のさかしきをも いとはず尋ねあるき、其心切なるを当寺の本尊 感じ給ひ、立花の秘密を霊夢に授給ふ。是より 代々其伝をつぎ、中興又専好といひしより其風 を改め家本とす。毎年七月七日二星の手向とし て、都鄙の門人方丈に集り、立花の工をあらは すなり、見物の諸人群をなせり。] (33)「錦天神社」  所在地は「京極錦小路東行当」、祭神は「天満天神」。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 尊英法親王 額「天満宮」 錦天満宮(鳥居) 鳥居の額は天満宮と書して、青蓮院尊英法親王の筆なり。 2 理秀女王 額 錦天満宮(拝殿) 拝殿の額は宝鏡寺宮理秀尼公の筆とぞ。 (34)「大本山圓福寺」  所在地は「京極通四条坊門[今は蛸薬師通といふ。]の東」、「浄土宗深草流儀の一本寺」。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 法然 阿弥陀仏 圓福寺 本尊阿弥陀仏は法然上人の作なり。 (35)「蛸薬師」  所在地は「圓福寺の境内にあり」。なお「永福寺」と号していた。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1 最澄 石造薬師如来像(蛸薬師) 永福寺 本尊薬師仏は石像にして、長二尺伝教大師の作 なり。[旧比叡山の北谷にあり、又蛸薬師と号す るは、旧地に沢あり、是によって都下の人沢薬 師と称せしを、後世誤って蛸薬師といひ風俗せ り。いにしへの堂の梁の銘には、三条室町水上 薬師堂に記し侍る。]

(10)

13   袈裟 光勝寺 当寺の什宝五品あり、…御袈裟[東福門院の御寄附なり。] (42)「神泉苑」  所在地は「御池通大宮の西」、「真言宗にして東寺法菩提院に属」す。 番号 作者等 「名宝」名称 所蔵等 抜粋 1   大日如来像 神泉苑(二重塔) 二重塔は大日如来を本尊とす、 2   金覆輪太刀 銘 鵜丸 (不明) 又白河院御遊の時、鵜をつかはせて叡覧あるに、 鵜此池中に入て金覆輪の太刀を喰ふて上がりけ り、是より銘を鵜丸といふ、崇徳院に伝り、六 条判官為義に此の御剣を賜りける。  なお、この項で『都名所図会』巻之一は終わる。 注 1  本稿が使用する「名宝」との語は、後述の京都をフィールドとする三件の名所図会に記された「什宝」「什物」の類、すなわち仏像・神像ほかの彫刻、 絵画、書跡、工芸その他を総合的に示す。 2 原漢文、読み下し、句点は筆者による。以下、「若冲」の項の原文を記す。 伊藤若冲名鈞字景和。平安人。初學狩野氏。後摸元明古蹟。兼用光琳之筆意。別爲一格。梅泉曰。若冲常畜鶏数十。日伺其状。寫之數年後能窮静動 鳴啄之態。然不務形似。貴寫意。晩閑居深草石峰寺側。以其画換斗米。因自號斗米庵。造石像五百羅漢。今見其像。往往随其自然。不復加彫琢。亦 不務形似也乎。 3  このような論考は枚挙に暇ない。筆者も以前に、伊藤若冲の初期作品を取りあげて、その先行作例を対象とした絵画学習について考察したことがある。 拙稿、若冲画に示されたもの ―「動植綵絵」以前の三件の鶴を主題とする着色表現をめぐって―、『研究紀要』第20号、京都大学文学部美学美術史 学研究室、1999 拙稿、若冲の《最初期の着色画》「雪中雄鶏図」をめぐって、『鹿島美術研究(年報第20号別冊)』、鹿島美術財団、2003 拙稿、若冲画に示されたもの 2 ―《初期作品》「雪梅雄鶏図」をめぐって、京都文化博物館研究紀要『朱雀』第19集、京都文化博物館、2007 4 『都林泉名勝図会』の「凡例」のうち、第二番目に次のような記述がある。 「一諸寺方丈書院の名画名筆、又は什宝虫干の体相の大略を書するは、其寺院の荘厳京師の美観なり。然りといへども際限あらざりければ具に記す る事能はず、余は寺僧に尋て詳にすべし」 5  拙稿、『都林泉名勝図会』に記された「名宝」、京都文化博物館研究紀要『朱雀』第20集、2008 拙稿、『都名所図会』に記された名宝、京都文化博物館研究紀要『朱雀』第21集、2009 拙稿、『拾遺都名所図会』に記された名宝、京都文化博物館研究紀要『朱雀』第22集、2010

参照

関連したドキュメント

事業所や事業者の氏名・所在地等に変更があった場合、変更があった日から 30 日以内に書面での

以上の基準を仮に想定し得るが︑おそらくこの基準によっても︑小売市場事件は合憲と考えることができよう︒

となってしまうが故に︑

 筆記試験は与えられた課題に対して、時間 内に回答 しなければなりません。時間内に答 え を出すことは働 くことと 同様です。 だから分からな い問題は後回しでもいいので

真竹は約 120 年ごとに一斉に花を咲かせ、枯れてしまう そうです。昭和 40 年代にこの開花があり、必要な量の竹

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場

運搬してきた廃棄物を一時的に集積し、また、他の車両に積み替える作業を行うこと。積替え