1 本稿の目的
本稿の目的は,社会的相互行為を記述する二つの理論的水準,「目的行為水準」
と「構成作業水準」とを接続し,とくに言語や社会制度などの規範的ルールによっ て秩序づけられる社会的相互行為の適切な分析枠組みを設定することである.
「目的・意図をもつ行為者」の概念を用いて人びとの行為や出来事の意味を 理解する「目的行為理論」(purposive theories of action)は,われわれの日常 実践にも社会科学的な分析にも不可欠な枠組みとなっている(Parsons [1937]
1949; Coleman 1990; 野矢 1999)
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.第一に,われわれが人びとの行為や社会的 出来事の意味を理解しようとするとき,目的行為理論は不可欠である.すなわ ち,われわれはこの枠組みを用いなければ,そもそも人びとの行為を理解し説 明することすらできない.第二に,社会科学的な目的行為理論は,行為者たち の行為によってさまざまな出来事の生起を説明するための,強力な道具立てを 用意する.とりわけゲーム理論のような形式的モデル化の手法をえた場合,さ まざまな社会現象に共通のメカニズムや,逆にその理念型的モデルをもとにし た個別ケースの特殊性を探究し,条件の変化に伴う結果の変化や,その政策的 応用などを体系的に分析する可能性が与えられる.このように,目的行為理論は人びとの行為や出来事を理解し説明するために 重要だが,それだけでは社会的相互行為の分析枠組みとして十分ではない.と いうのも,目的行為理論は基本的にその行為がなされる状況を「所与」として 扱い,状況自体がどのように構成されるかを考慮しないからだ.だが言語や法 的ルールをはじめ社会制度を形作る規範的ルールが相互行為を整序する働きを するのは,相互行為のなかで資源として実践的に使用され,人びとの前に立ち 現れる相互行為状況の構成に寄与することによってである.したがって,状況
相互行為の二つの水準
─ 目的行為と現実構成 ─
内 藤 準
を所与として行為者の行為を説明するだけでは,さまざまなルールや条件が相 互行為を一定の方向に整序し,それらが変化すれば社会的な結果も左右される ことを十分に分析できない.逆にいえば,そうしたルールや条件の変化を考え ることはすでに,単なる目的行為理論で扱われるのとは異なる水準,すなわち
「状況を構成する作業」の水準で相互行為を捉えることを含意している.
そこで本稿では目的行為理論による分析の上記の欠点を補うため,相互行為 の 2 つの水準(あるいは側面)を区別し,それらの複合的な記述によって相互 行為を捉える.
①目的行為水準
②構成作業水準
①目的行為水準は,目的行為理論によって相互行為を理解し,説明する分析の 水準である.それに対して,②構成作業水準は,①で記述される状況を構成す るようなさまざまな作業が位置づけられる分析の水準だとする.
なおこの図式において,②の水準を定義する要素は,①に現れる状況の構成 作業が位置するという点のみである.それゆえ,状況構成作業の仕方も主体も さまざまでありうるし,それに応じて分析手法もさまざまでありうる.だが本 稿では,なかでも,人びとの実践的な構成作業において適用されるルールが変 更されると,目的行為水準で現れる選択肢が変わり,相互行為の成り行きも変 化する様子を分析してみたい.
第 2 節では,まず目的行為理論の概略とその重要性を述べる.具体例として,
われわれが日常的に経験する「自由」や「社会的排除」の意味が,この理論を 通して理解されうることを示す.さらに,目的行為理論の一つであるゲーム理論 の「囚人のジレンマ」を例として,そのモデルが出来事のメカニズムを説明す ると同時に,行為者たちにとっての行為や結果や相互行為状況の意味を「目的・
意図をもつ行為者」の枠組みで記述するものでもあることを示す.第 3 節では,
しかし,目的行為理論のみでは状況の構成という重要な側面が扱えないことを指 摘する.次いで,相互行為を分析する上記の二つの水準を区別する.第 4 節では,
ルールを用いた状況構成について概説する.その上で,第 2 節で示した社会的
排除の事例をもとに,目的行為水準で記述される相互行為状況が,構成作業水 準で適用されるルールによって規定されること,したがって構成作業水準におい て適用されるルールが変わると,目的行為水準における相互行為状況が変化し,
その結果も変化しうることを示す.最後に第 5 節では,本稿で提示する理論枠 組みを,社会学理論の基本的な問いである「秩序問題」との関連で位置づける.
その上で,近代社会の秩序における「正常な目的行為者」の基底性という本稿 の理論的知見を明らかにし,議論と展望をまとめることにする.
2 目的行為理論の重要性
2.1 「目的・意図をもつ行為者」という基本枠組み
Parsons(1935, [1937] 1949)は,社会現象の科学的説明において人間の行為 が有意な要素となるためには,遺伝や環境などの外的・自然的要因に還元でき ない目的要素の働く余地が確保されなければならないと主張した
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.だがそも そも,ある人の振る舞いを彼 / 女の「行為」として記述すること自体,その振 る舞いの記述が「目的」や「意図」という枠組みのもとで成立可能であること を条件としている(野矢 1999: 220-44).われわれは日常的にも学問的にも,人びとの行動を彼 / 女らの「目的」へ向け た「意図」を伴う「行為」として理解し,さまざまな社会現象を人びとの行為の 組み合わせや結果として説明している.試みに,いま街路にいる人びとの行動を 見て,なぜ彼 / 女がそう振る舞うのか,それを彼 / 女の行為として説明してみよ う
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.そのとき行為者の目的を参照せずに説明できるだろうか.おそらくそれはか なり難しい.ある人の振る舞いにその目的や意図を想定不可能であるとき,われ われはその動きを「彼 / 女がおこなう行為」として理解することができない.例えば,道行く人びとをただぼんやりと眺めているとき,われわれはとくに歩行 者たちの目的に思案をめぐらしたりしてはいない.だがふと彼 / 女らがなぜ歩い ているのか問われれば,当たり前のように,どこか目的地へ向かっているのだと 答えるだろう
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.またわれわれは,さまざまな出来事や対象の意味を捉える際にも,やはり行為の目的を参照する.例えば,そこにあるトースターは食べ物を調理する
(という目的の)ための道具である.この列車の遅れに私が苛立つのは,それが商
談(という目的)の頓挫を意味するからである.不況を受けた非正社員の不安定 な立場は,彼 / 女らの多くの目的がますます達成から遠ざかることを意味する.
このように「目的・意図をもつ行為者」(purposive actor)という見方は,
人間の行為を説明し物事の意味や経験を理解するときにわれわれが用いる,
もっとも基本的で不可欠な「規範的枠組み」(野矢 1999)の一つとなっている.
われわれは,その枠組みなしにまともな社会生活を送ることもできないし,ま ともに人びとの行為や社会現象を記述し説明することもできない.
もちろん,行為の目的や意図といっても,その振る舞い一つ一つについて行 為者がつねに目的を意識している必要はない.例えば私は歯を磨くときに,一 瞬ごとに異なるブラシの動かし方やそれに対応する指や腕の動きを意識してい るわけではないし,いったん磨き始めれば「歯を磨く,歯を磨く……」とつね に目的を意識しているわけでもない.だがそれらの動作や決定はすべて,虫歯 を防ぐために歯を磨くという意図のもとでの行為として記述できる.また,私 が本を読んでいるときに,ふと手元にある明かりのスイッチを操作し,読書を 続けることがある.こうした場面では,「明るくしよう」と目的を意識して手 をスイッチへ向かわせる明確な意思決定をしたと言い難いことも多い.だがこ のときでも私は,「本を読む」行為のなかで「明かりをつける」行為を遂行し ており,それはやはり「手元を明るくする」そして「本を読む」という目的の もとでなされているといえる.実際,もしそのとき何かが私を妨害すれば,そ の目的・意図は明確に意識されるだろう
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.このように,われわれが人びとの行為や社会的出来事の意味を理解し,説明 する際には,「目的行為理論」の枠組みが不可欠である.社会学ではいわゆる 合理的選択理論に対する「行為者はそれほど合理的ではない」といった批判の 影響や,構築主義的理論の隆盛などもあり,目的行為理論の立場は表向きには 流行っていない.しかし今日でも,制度や構造や出来事が人びとにとってもつ 意味を論じたり,人びとの行為や生き方の選択を説明したりする際には,結局 のところ人びとが目的をもった行為者として生きるという事実に照らすのが主 要な方法であり続けている.そこで以下では,社会生活の基本的条件をなす「自 由」や「社会的排除」について,その経験や意味を理解する際に,目的をもっ た行為者として人間を捉える枠組みが用いられていることを示しておこう.
2.2 目的行為の枠組みによる分析 1:自由と社会的排除
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2.2.1 目的追求の条件としての自由今日の社会では「個人の自由」が基本的に望ましいものとされている.しかし なぜ,「自分のすることは自分で決められる」ことが行為者にとって重要なこと だと考えられるのだろうか.その理由は,人間が「目的・意図をもつ行為者」だ という点に照らせば理解しやすい(Taylor 1979: 151).というのも,もし自分の 行為を自分で決められないなら,そのことは即座に,行為者自身の目的追求に対 する障害になりうると考えられるからだ
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.また,ある人の人生はさまざまな選 択を通じて形作られるのだとすれば,行為者は誰かの強制ではなく自ら生き方を 選び取れる自由があってはじめて,自らの人生の作者だといえることになるだろ う(Raz 1986, 1996).誰かに強いられた行為は,その誰かの目的に奉仕する行為 だとはいえても,本人の目的による行為者自身の行為とは言い難いからだ8
. このように,自由の重要性を「目的行為」という点から捉えれば,行為者に 与えられた選択肢が目的に照らして重要な違いをもたらさないとき,その選択 の自由は無価値なものとして経験されることも理解できる.例えば,i
氏が与 えられた選択肢のどれを選んでも同じような過程と結果しか生じないなら,そ の選択の自由には彼 / 女の目的に照らして価値がないといえるだろうし,その 結果への責任が彼 / 女にあるということも自明視できなくなる.以下では,「行 為者の行為選択が彼 / 女の目的に照らした重要な違いをもたらしうる」ことを「選択の自由に実効性がある」ということにしよう.
2.2.2 実効的な自由の否定としての社会的排除
実は,社会学的な排除・差別研究の視点からみれば,この「選択の自由に実 効性がある」ことは,彼 / 女が当該社会の正式なメンバーとして承認されてい ることと密接に関係している(内藤 2002, 2004).このことは,当該社会から「排 除」されている人びとに特徴的な経験の多くを,選択の自由の実効性の欠如4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4と して記述できることから分かる.
① 学級や職場でのイジメ:「笑うと『なぜ笑う』などとインネンをつけて殴られ,
泣くと『おもしろい』『もっと泣け』といって殴られ,怒ると『生意気だ』と殴
られ,表情を出さないようガマンすると『何か反応しろ』と殴られ……,しだ いに私は表情にとぼしい,影の薄い人間になっていった」(土屋編 1994: 113).
② 人種差別:「非白色人種のアメリカ人がその求人に応じてきても,英会話学 校は採用を断る.……求人広告を見てアメリカ黒人が応募してくると,英会 話学校側は『おそれいりますが,イギリス・アクセントの英語を話す教師が ほしいのです』と言って丁重に断る.同じ英会話学校に英国圏の黒人が応募 したら,今度は『ごめんなさい,じつはアメリカ訛りの英語を話す教師を望 んでいるのです』と言って断る」(ラッセル 1991: 115-6).
③ 障害者差別:「障害者差別は,障害者の側から捉えれば,『障害をもっている
◯◯さん』ではなく,『◯◯さんという名の障害者』という扱いを受けるこ とだ.生き方も,障害者自身が決定するのではなく,周囲の『健全者』が生 き方を決めてあげる,という形になる.そこでは,人格にふれる対応が出て こない関係しか取り結ばれない」(要田 1999: 31).
これらの例ではいずれも,排除されている行為者の選択の自由に実効性がない.
例①のイジメでは,いじめられている側がさまざまな選択肢を試しても,いじ める側はいじめをやめる気配がない.いじめられる側の働きかけが,いじめる 側にとって無視しうるものでしかなく,いじめる側の対応を変化させる有効性 をもっていない
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.例②の人種差別では,ある英会話学校に採用を求める非白色人種の応募者の 試みが初めから無駄だと指摘されている.非白人だというだけで関係が忌避さ れているからだ
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.このように相互行為の一方の行為者(被排除者)に対する 他方の対応がはじめから決定されている場合には,その対応の変更を意図した 被排除者側の行為選択は有効性をもたない11
.例③の障害者差別では,被排除者である障害者は行為や生き方を決定できる 主体的な行為者としての基本的能力それ自体を認められていないとされる.今日
「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」がいわれる必要が生じた背景には,
行為者としての障害者の存在が社会的に長く無視されてきたという歴史的事実が
ある.例えば,身体障害者を行為者として認知せずに設計された「誰でも使える」
公共施設は,実際には身体障害者に利用する自由を与えてこなかった.
このように,これまで社会学で差別や排除として研究されてきた現象の多く は,被排除者の「選択の自由に実効性がない4 4」という事態を特徴として含ん でいる
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.この特徴の適用範囲を広く「社会」にまで広げれば,近年の社会政 策論や社会福祉の分野で盛んになった「社会的排除アプローチ」(Bhalla and Lapeyre 2004=2005)において,自由の保障や権利の実現が重視される理由も 理解できる.いくつかの社会的排除アプローチの研究では,排除の対義語とし ての「包摂」を,「シティズンシップの実現」としてまとめている(Room 1995;樋口 2004).このシティズンシップは,市民的自由および政治的自由の権利と,
それら自由の実効性を確保するための社会的権利からなる権利の集合のことを 指す(Marshall and Bottomore 1992=1993; Heater 1999=2002).つまりここでは,
これらの権利の十分な実現により人びとに実効的な選択の自由を保障すること が,非排除的な社会の条件だと考えられているのである(Sen 2000).
2.3 目的行為の枠組みによる分析 2:囚人のジレンマ
以上,目的をもった行為者という枠組みを参照することで,行為者にとって の自由の重要性や,社会的排除の経験を理解できることを示した.だがさらに,
目的行為理論はさまざまな社会現象の生起を,社会的相互行為を通して説明す るすぐれた道具立てでもある.ここではとくにゲーム理論の枠組みを用いて,
いわゆるホッブズ的秩序問題や,環境問題をはじめとする公共財供給問題のモ デルとして用いられる「囚人のジレンマ」を例に
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,目的行為理論がその「問題性」を理解する枠組みであると同時に,問題の生起するメカニズムを説明する枠組 みにもなっていることを示しておこう.
表 1. 囚人のジレンマ j
協力 非協力
i
協力 (6, 6) (‑3, 9)
非協力 (9, ‑3) (0, 0)
注 : 下線部はナッシュ均衡.
囚人のジレンマは表 1 の構造をもつゲーム(相互行為)である
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.プレイヤー(行 為者)はi
とj
であり,各々{協力 , 非協力}という純粋戦略(選択肢)の集合 をもっている.ここで「協力」は自分の負担で自他共に利益をもたらす選択肢を,「非協力」は他人の負担で自分だけに利益をもたらす選択肢を表す
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.ここで例 えば,非協力を「相手の財産を奪うための暴力と欺瞞の使用」,協力を「その抑制」だとすれば,いわゆるホッブズ的秩序問題としての解釈になる.また,協力を「公 共施設の費用を負担する」,非協力を「負担しない」だとすれば公共施設のフリー ライダー問題のモデルになるし,協力を「低利益(高コスト)だが環境負荷が 低い行為」,非協力を「高利益(低コスト)だが環境負荷が高い行為」とすれ ば環境問題のモデルになる.
この状況で,それぞれが戦略を選択したときに起こりうる帰結は,(協力 , 協力),
(協力 , 非協力), (非協力 , 協力), (非協力 , 非協力) のいずれかである.各帰結は プレイヤーに以下の利得を与える.
i
もj
も「協力」をとれば双方ともにある程 度の利得があるが(6, 6),j
が「協力」のときにi
だけ「非協力」をとれば,i
に は最大の利得,j
には最悪の利得がもたらされる(9, 3).逆の場合も同様であ る( 3, 9).i
もj
も「非協力」をとれば双方ともに利得が低い結果に終わる(0, 0).さてこのような状況で,
i
とj
はどんな選択をし,その結果なにが起こるのだ ろうか.標準的なゲーム理論では,i
とj
が合理的な行為者ならば,両者とも「非 協力」を選ぶと説明される.というのも,相手が協力だろうと非協力だろうと,自分は非協力を選んだ方がつねに高い利得を得ることができるからだ(こうし た戦略を「支配戦略」と呼ぶ).かくして両者とも非協力を選択し,帰結する
(非協力 , 非協力)はこのゲーム唯一のナッシュ均衡になる
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.しかしこの帰結 は両者にとって望ましくない.というのも,二人とも協力する場合の利得(6, 6)より小さい利得(0, 0)しか得られないからだ.つまり行為者がそれぞれ利 得を最大化しようと行為する結果,全員にとってかえって望ましくない事態が もたらされてしまう.これが「ジレンマ」たる所以である.かくして,囚人のジレンマのモデルは,「誰もが自分の負担を嫌うゆえに誰 も望まないはずの環境破壊を止められない」事態など,このモデルが妥当する さまざまな出来事を,各行為者の行為選択というメカニズムによって説明する.
またそれと同時にこのモデルは,そうした状況における行為者たちの経験を,
利得構造として抽象的に表現される行為者の目的に照らして理解できるように 記述している.例えば,「うまくやろうとしてむしろまずい結果がもたらされる」
ことや,しかし仮にそのことを全員が知っていても,他の条件(例えば約束を 履行させるメカニズムの存在など)が満たされないなら「協力は難しい」と感 じられるであろうことなど,人びとに生ずるさまざまな経験を,われわれにそ う理解可能な仕方で記述していることが分かるだろう.
われわれが自分や他人の行為の理由を説明したり,行為者が経験する社会現 象の意味を理解したりする営みは,基本的にはこのように,目的をもった行為者 という概念を用いて状況や行為の意味を記述する「目的行為理論」の枠組みに 依拠してなされうる(Dowding 2002).重要なのは,「目的ある行為者」の概念 が,ある状況における行為者たちの行為や出来事のメカニズムを説明すると同 時に,行為者たちにとっての相互行為状況の意味を理解するためにも用いられ うるということだ.上の例でも,利得として表現された行為者たちの目的に照ら してみることで,各行為者にとって「非協力」の方が「協力」よりも魅力的な 行為であることや,相互の非協力によって全員の目的実現が挫折させられてし まうことなど,この相互行為において生じている事柄の意味を,われわれは容 易に理解することができる.逆にいえば,目的ある行為者の概念を参照しない 限り,単に「物質の動き」として記述してもよいものを,上述のような社会的な 意味のある出来事として記述することも,その生起のメカニズムを「人間の行為」
として説明することもできないのである.この意味で,目的行為理論は,われわ れの日常実践や社会科学的説明における基本的な重要性をもっている.
3 目的行為理論の限界:目的行為水準と構成作業水準の区別
以上,相互行為の分析における目的行為理論の重要性を明らかにしてきた.
だがこの目的行為理論の枠組みだけでは,社会学的な分析枠組みとして不十分 な点が残る.というのも目的行為理論の枠組みでは,相互行為の状況それ自体 は基本的に「所与」であり,それがどのように構成されたり変化したりするの かが分析されないからだ.
例えばゲーム理論家の岡田(2008)は,ゲーム理論が分析する相互行為の特 徴を以下の 4 点にまとめている.
(1) 複数の行動する主体(プレイヤーと呼ぶ)が存在する(コンピュータ・ゲー ムのような 1 人ゲームも人間とコンピュータのゲームである).
(2) プレイヤーはそれぞれの目標を達成しようとして,いくつかの行動を選 択する.
(3) プレイヤーの目標の達成は,自分自身の行動の選択ばかりでなく,他の プレイヤーの行動の選択にも依存する.
(4) プレイヤーは一定の規則(ゲームのルール)を守らねばならない.(岡 田 2008: 2)
その上で岡田は,「社会は,複数の個人が社会のルール(法,慣習,文化,道徳,
マナーなど)をまもりながら,それぞれに固有の目的や価値を実現しようと,
ときには互いに競い合い,ときには協力し合う 1 つの『ゲーム』である.すな わち,人間社会はゲームであるといえる」(岡田 2008: 2)と述べる.ここから 明らかなように,ゲーム理論という目的行為理論の枠組みでは,通常,相互行 為の状況(ゲームのルール)は基本的に所与とされ
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,そうした状況自体がど う構成されるかは考察の対象になっていない.だがこのことは,とりわけ言語的概念や制度などの規範的ルールが社会的相 互行為を整序する働きを,目的行為理論だけでは十分に捉えられないことを意 味する.というのもそうしたルールが規範として相互行為を秩序づけるのは,そ れらが社会的実践のなかで,人びとの前に立ち現れる状況ないし社会的意味世
界を構成する作業に用いられることを通じてだからだ.そして社会学理論では 伝統的に,相互行為の状況がいかに成立しているのかも,社会現象の説明の基 礎として重要な研究対象となってきた.そこでは目的行為理論が記述している 相互行為状況を前提とするのではなく,むしろその構成のされ方が検討される.
そこで本稿では,相互行為の分析視角として,目的行為理論で分析する水準 とは別に,状況を構成する活動を分析する水準を設定し,それを「構成作業水準」
と呼ぶことにする.それに対応して,目的行為理論による分析は「目的行為水 準」と呼ぶことにする.この目的行為水準では,社会現象は,①行為者をとり まく状況をなす諸要素と,②状況内における人びとの目的行為,によって記述・
説明される.構成作業水準には,①を設定するさまざまな作業がおかれる.
なお,この枠組みにおける構成作業水準は,ある目的行為水準の分析で所与 とされる行為状況を構成するという関係のみによって定義されている.それゆ え,構成作業水準を分析する方法は多様でありうる.そこには,エスノメソド ロジーや会話分析で探究されるような当事者自身による相互行為上の手続きも 含まれうるし(Garfinkel 1967; Sacks, Schegroff and Jefferson 1974=2010; 西阪 2001),Coleman(1990, 1993)による「行為の権利」をめぐる争いの分析のように,
状況構成作業それ自体をさらに目的行為として分析することもありうる
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.あ るいは,ある相互行為の場面をめぐる「裏局域」(Goffman 1959=1974)でのや りとりや,行為選択肢を変化させる法的ルールの制定などを位置づけることも できるだろう.そうした着目点や分析手法は,設定される研究対象や分析者の 関心に依存する.そこで本稿ではとくに,さまざまな規範的ルールを用いてある行為選択肢を 構成したり,逆に構成しなかったりする人びとの実践に注目したい.後述する ように,筆者は「正常な人格」や「自由と責任」の概念にかかわる規範的ルールが,
どのように社会を水路づけ,一定の制度的秩序を正当化していくのかに関心が あるからだ.次節では,ルールを参照することによる状況の構成と,その際に 再度「正常な目的行為者」の概念が果たす役割,そして使用されるルールの変 更による相互行為の成り行きの変化等について述べる.
4 状況の構成作業と相互行為の秩序
4.1 ルールを用いた状況構成
私はここまで,行為者たちが規範的ルールに従う4 4とはいわず,規範的ルール を用いる4 4 4とか参照する4 4 4 4と述べてきた.これは古典的な社会学理論で「規範に従 う」というときに念頭に置かれてきたのが,主として行為者に目的を指定する4 4 4 4 4 4 4 命令4 4としての規範の働きだったからだ.とくに,行為者に規範が内面化され,
規範の命ずる通り行動することが欲求充足になるという仕方で,規範に従う行 為が説明されてきた.だが規範的ルールの機能はこうした「命令」に限られな いし,また規範の働く場の中心が心理的な内面化にあるわけでもない.そこで 本稿では,そうした内面化された命令としての規範の働きとの混同を避けるた め「規範的ルールを用いる」と述べている.
盛山(1991: 26)は規範のさまざまな性質として「(1)内面的な命令として あるいは外面的なサンクションによって行為を統制するもの.(2)自然的ある いは社会的世界を概念的に整序し,意味づけるもの.(3)個人行為のあるいは 社会状態の理想,価値,目標を与えるもの」の三つを挙げている.ここではと くに,(2)にあたる働きに焦点を当てて,人びと自身が規範的ルールを用いて,
自分自身を含めた状況ないし「社会的意味世界」を構成し,相互行為を進めて いく作業について考えてみる.
人びとは,相互行為の状況を把握したり,自他の行為の意味を理解したり説 明したりする際に,言語的概念の用法をはじめさまざまな規範的ルールを用い ている.つまり,規範的ルールを用いて状況を構成し,行為や出来事を説明可 能にする.行為者たちがルールを用いて行為や出来事を説明可能にする作業は,
あくまで個々の具体的な場面で成し遂げられている.だがここでは本稿に必要 な範囲で,個別の文脈からはある程度離れた形で,人びとの実践的推論につい て考えておきたい.
例えば,ある人が別の人と道ですれ違うときに,立ち止まって親しげに会話 を交わし,再度歩き始めたのを見たとする
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.そのとき私は,彼 / 女らのこと を全く知らなくても,彼 / 女らは知り合い同士であることが分かるだろう.ま た逆に,やはり道行く人同士が,今度は 50cm 以内の距離をとくになんの反応もせずにすれ違っていったのを見たなら,彼 / 女らが知り合いだとは思わない だろう.また,私が道を歩いていて以前からよく知っている親しい友人とすれ 違うときには,大してためらわずに相手を呼び止めて話しかけることができる.
逆に,話しかけたのに相手が無反応にただ通り過ぎていったなら,彼 / 女に何 か異常なことが起こったことが分かるだろう.
これらはわれわれにとってごく普通の推論だと思われる.しかしこれらの場 合に,われわれは,彼 / 女ら同士が知り合いかどうか実際に確かめたわけでは ないし,友人の身に起こった何かを現に知っているわけでもない.自分が話し かけることを事前に許可してもらったわけでもない.ならば,われわれはどう して,彼 / 女らの行為から即座に事態を把握することができたり,何のためら いもなく話しかけたりできるのだろうか.
これらの推論が可能なのは,仮に命題化すれば「ふつう知り合い同士ならば 親しく挨拶や会話をする(してもよい),知り合い同士でないならあまり親し く挨拶や会話をしない(してはならない)」とでも書き出せる「一般的期待」(西 阪 2001: 13)をわれわれがもっており,それを規範的ルールとして用いて状況 を把握し,行為しているからだと考えられる
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.例えば私は上述のように,「ふつう誰であれ見知らぬ人とあまり親しく会話 をしない(してはならない)」という期待をもっている.それゆえ,廊下で出 くわして当然のように親しく会話する人同士は知り合い同士だと推論できる.
また私は「ふつう誰であれ知人に気づいたら挨拶する(してもよい)」と思っ ており,相手もそう思っていると期待できるので,友人に出会えばためらいな く挨拶できるし,相手から返事がなければ何かおかしいと考えることができる.
このように,われわれは一般的期待となっているさまざまな規範的ルールを参 照して,状況を把握し行為する.そして,ある規範的ルールが一般的期待であ るなら,行為の意味や目的や理由もそのルールを用いて説明可能になる
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. 例えば,私が息を切らして家に帰ったことを不審そうにしている家族に対し,「ガード下でよく知らん奴がしつこく話しかけてきてさぁ」と述べたとしよう.
私のこの発言は,単にその事実を伝えるだけのものではない.一般的期待とし ての上述のルールに訴えることで,「変な人に絡まれた」すなわち「危険があっ た」という状況を構成し,「全力疾走で家に帰る」という一見異常な自分の行
為を「危険から逃げる」というリーズナブルな行為として説明しているのであ る.すなわち,自分の行為の理由を「目的行為」の枠組みの中で説明可能にし,
そうすることで自分自身は正常で理性的な行為者であることを示す4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4作業を行っ ているのだ.
こうした一般的期待としての規範的ルールには,各行為者の地位と役割に応 じて適切とされる行為を割り当てるいわゆる「役割期待」も含まれていてよい.
しかし注意すべきは,ある状況で行為者が従うべき役割期待がつねに自動的に 定まるわけではないし,行為者はただ内面化された役割期待に命じられて行為 するわけでもないということだ.むしろ,Goffman(1961=1985, 1974)が「役 割距離」の概念や,経験の組織化フレームの「転調」概念で表現したように,
行為者はその状況において参照すべき規範を他者に対して指定したり,状況の 意味を複層化したり,転換することもある(安川編 1991).例えば,ある知り 合いが親しく話しかけてきたときに,あえて「無反応」を選択して,相手に対 する敵意や「いまは都合が悪い」ことを伝えることもできる.あるいは,通常 であれば機械的にしか接しない相手にあえて親しい態度を示すことで,自分と 相手との関係を変化させたあらたな状況を作り出そうとするといったこと(例 えば,ただの店員と客の関係から,より親しい個人的な関係へと変化させる)
もありうるのである.
4.2 「正常な行為者(行為理由)」の構成による秩序の形成
このように,その場面における人びとの関係や行為の意味を定義する規範的 ルール(一般的期待)は必ずしも自動的に「与えられる」ものではなく,人び とはそれをさまざまに用いて日常的世界の秩序を作り上げている.この認識は 重要である.このような認識を持たず,相互行為を秩序づける自明な規範的ルー ルは,それとの一致/逸脱によって行為の適切さを判断する所与の基準として,
人びとに外から課されるものでしかないかのように考えてしまうと,単に行為 がその期待から外れることと,相互行為の秩序が崩壊することを区別できず,
硬直した社会秩序の姿を描き出さざるを得なくなってしまう.
例えば,後述する「日常世界的秩序問題」についてユニークなゲーム論的分 析を行っている武藤(2005)は,自明な一般的期待に対する「期待はずれ」を,
行為や状況の単一の意味に対する信憑性としての社会秩序の崩壊だとする.武 藤によれば,例えばファストフード店で店員が客に求婚したり,客が店員に愚 痴をいったりといった行為がなされたとき,それは〈店員―客〉の関係につい ての自明な一般的期待(役割期待)に従わない「意味不明」な行為となる.そ れゆえそうした行為は,行為や状況には自明の単一な意味があるという信憑性 を掘り崩し,日常的世界の秩序を崩壊させることになるとされる.
しかしこの武藤の議論のように,「一般的期待からの逸脱」によって日常的 な相互行為の秩序が崩壊すると単純に考えることはできないと思われる.第一 に,「期待はずれ」の行為がなされ多少の驚きを伴ったとしても,それは必ず しも「意味不明」にはならない.第二に,そうした期待はずれが生じても,多 くの場合,われわれの相互行為は崩壊せず「正常に」持続する.実際,もし現 実の相互行為で,店員が客に求婚してみても,客が店員に愚痴を言ってみても,
ほとんど「秩序が崩壊した」といえるような危機に陥ったりはしないだろう(店 員に絡んでみても,せいぜい笑われるだけで終わりである).かといってそれ らの行為選択肢が〈店員―客〉の役割期待のなかにあるわけではない.それでは,
単に「期待に一致した行為をする/しない」ことと「秩序/無秩序」の違いは どこにあるのだろうか.
確かに,もしも店員が注文されたハンバーガーをもってこようともせず,私 が文句をいうのも聞かずに「結婚してください」とひたすら大声で叫び続けた ならば,私にとってその店員とその行動は意味不明でしかなく,(その)相互 行為の秩序は崩壊するだろう.しかしそれは店員の行動が「期待はずれ」だか らではなく,むしろ端的に「理解不能」だからである.つまり私はもはや,そ の店員の行動を「私にアプローチしてきた」という正常な目的による行為とし ては理解できず,端的に,「正常な目的をもたない行為者」による「異常な行 動(正常な目的がない行為)」とみなすしかないのだ.
逆に,私が通常は期待しないような場面でアプローチを受けたとしても,そ れが適切な仕方でなされるのならば,すなわち,相手があくまでも正常な行為 者であることを示し,あえて〈店員―客〉という役割期待からの「期待はずれ」
を選択する目的(理由)もきちんと示されるならば,はじめ軽い動揺があった にせよ,その相互行為の秩序は崩壊せず「正常に」維持されうる(もちろん,
その目的が達成されるかどうかは別問題だ)
22
.ただ以前とは異なる何らかの ルールに依拠した相互行為に変わるだけのことだ.例えば,仮にある人がファストフード店で店員に愚痴を言うとしても,「A セットお願いします」と普段注文するのと全く同じ調子で愚痴を言うわけでは ない.多少ふざけた口調にしたり,自分が疲れていることを暗に表示したりし て,愚痴を言う人と聞く人,癒す人と癒される人といった関係のルールを参照 可能にするのである.このルールを参照すれば,彼 / 女の行為は理解可能4 4 4 4になる.
つまり合理的な理由で説明できる4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4ものとなる.それゆえ,店員と客の相互行為 は「意味不明」にはならず,店員は適当にあしらいながらレジ打ちをするなど して,その場のやりとりを秩序だって進行させていくことができる.
このように,われわれの相互行為はさまざまなルールを参照して自他の行為 の意味を説明し,交渉しながら,進行していくものだ.その秩序が保たれるた めに重要なのは,単に期待はずれが少ないことではなく,その期待からの逸脱 には合理的な理由を与えられること,正常な「目的行為」として記述できるこ とである.あるいは,個別の行為について合理的な理由が与えられない場合に は,例えば,いま見れば不合理だったことが分かる(当時は我を失っていた)
といった記述をおこない,現在の行為者は正常な能力をもつと示すことが必要 になる.それによって当該行為者の行為は理解可能になり,行為者として十分4 4 4 4 4 4 4 4 な能力4 4 4を持つことが明らかにされ,現在進行する日常世界の秩序は成立し続け る
23
.相互行為の秩序の維持にとって核心的なのは,「期待通り」であるか否か ではない.相互行為の参加者たちが「正常な行為者」として立ち現れるか否か,「行為の目的」をリーズナブルな目的として理解可能であるか否か,そのよう に相互行為状況が構成されるか否かなのである
24
.4.3 「相互的な行為者(人格)」の基底性
いま触れた「正常な行為者」ないし「人格」について少し述べておかねば ならない.従来から理論社会学では,人びとが共同で社会を営んでいく際に もっとも重要な条件の一つは,人びとが自分と他者をともに「相互的な行為 者」だとする一般的期待をもっていることだと指摘されてきた.この条件を Schutz(1962=1983, 1985)は「視界の相互性の一般定立」として定義したが,
Garfinkel(1963)の「構成的期待」の概念もそれを下敷きにしている.数土(1999:
126)が自らの理論の基本的前提とする「私と相互的にあるような他者が存在 する」という命題も同様であり,橋爪(2000)にもやはり同様の想定が見られる.
しかしなぜこの条件が重要なのか.なぜ,人びとが他者を,自らと相互的な,
すなわち同じ基本的能力をもった行為者(人格)だと見なしていなければなら ないのか.それは,もし相手に理性や能力が無く「異常」であるなら,自分の おこなう発話や行為の意味が相手に理解されるとも,相手の発話や行為の意図 が自分に理解できるとも想定できなくなるからだ.人間行為者を他の客体とは 異なる特別な性質をもった「社会的客体」とし,社会的客体を相手にする行為 を「相互行為」だと定義した Parsons([1937] 1949, 1951)の理論にはこの前 提が暗黙におかれている.社会構築主義の立場の前提となる「物語を協議する ことは他者の協力を必要とする」(Burr 1995=1997: 222)といった命題にも,「正 常な行為者の能力の仮定」が含意されていることは明らかだろう.
さてこの「社会が成立するためには,人びとがお互いを正常な人格として認 めていることが必要だ」という点からは重要な含意がもたらされる.すなわち,
この「人格」の能力がないとされることは,社会を共に営む行為者としての資 格を奪われることに他ならない,ということだ.現にこの実例は,先に社会的 排除の例とした障害者差別(事例③)にもみてとることができる.もしある人が,
正常な行為者として社会に参加することができないとされれば,通常の社会的 な活動を通じて得られるあらゆる価値や利益を享受できなくなる.そもそも自 らの責任で自らの生を形作る人間として認められなくなってしまう.それゆえ,
人びとは社会から排除されることを望まない限り,一般的期待となっているさ まざまな規範的ルールを適切に用いて,自らを正常な「目的行為者」として示 していくように動機づけられうる
25
.このように,われわれが社会生活を営むためには,自他が正常な行為者すな わち「人格」として立ち現れることが不可欠なことになっている.そして,そ うした人格としてのわれわれの活動は,基本的に「目的・意図をもつ行為者」
という枠組みによって理解され,説明されるものである.本稿で述べてきた広 義の目的行為理論は,この意味において,社会秩序の基底をなしており,そこ から逃れることは,少なくとも現在のわれわれには困難なことだといえる.
4.4 構成的ルールの変化による状況の変化
さて以上のように,人びとはさまざまに適用可能な規範的ルールを使用して,
自分たちの行為選択や出来事の意味を説明可能にする作業を随時おこなってい る.こうした状況構成の作業それ自体は,多くの場合通常の目的行為の枠組み で記述されるものではなく,人びとの意識に立ち現れるものではない.むしろ 行為者や観察者の意識に立ち現れてくるのは,一般的に期待される規範的ルー ルを用いてすでに構成された「目的行為水準」の相互行為状況である.しかし こうした「目的行為水準」での行為の説明や理解が可能になるのは,あくまで「構 成作業水準」における状況構成の作業があるからだと考えねばならない.
では,本稿で提案するようにこれら二つの水準を結びつけて考えることの認 識利得は何なのか.それは,構成作業水準において用いられる規範的ルールに よって,目的行為水準での相互行為が整序されること,したがって,その成り 行きや結果に重要な違いがもたらされうることを明確に把握できることだ.以 下では,先ほど示した事例②(英会話学校での講師の採用をめぐる人種差別の 例)を用いて,このことを簡単に検討したい.
事例②では,求職者が非白人である場合,アメリカ出身だといえば「イギリ ス訛りが欲しい」という理由をつけ,イギリス出身だといえば「アメリカ訛り が欲しい」という理由をつけて,英会話学校は非白人求職者を不採用にするの だと報告されていた.下の表 2 は,そうした状況をゲーム論的にモデル化した ものだ.
表 2 で表される状況は以下の通りだ.応募者の採用可否を決定する権利は,
通常,雇用する企業の側に認められる.それゆえ表 2 では,採用可否の決定権 は英会話学校に割り当てられている.非白人求職者である
i
氏は,英会話学校 の講師募集に対して応募したところであり,選択肢は英会話技術のアピールの 仕方とする(実際,英会話講師はいくつもの方言に対応していることがある).そして利得の値は,英会話学校は相手が非白人であればそもそも採用する気が なく(不採用が支配戦略),また
i
氏にとっては採用されるか否かだけが重要で あることを表現している26
.表 2. 英会話学校による一方的な不採用 英会話学校 採用 不採用
i
アメリカ英語を
アピールする (10, ‑1) (0, 0)
イギリス英語を
アピールする (10, ‑1) (0, 0)
注 : 下線部はナッシュ均衡.
この状況における相互行為の成り行きは以下のように説明できる.まず採用可 否の決定は英会話学校次第だが,応募しなければ採用される可能性もないので
i
氏は応募している27
.だがそのとき英会話学校は,i
氏の行為選択には関わり なく,初めから非白人は不採用と決めており(0 > − 1),一方的に「不採用」を選択する.それゆえ
i
氏は自らの選択によって結果を変えることができない.すなわち自分のアピールの仕方にかかわらず,不採用の帰結しか実現できない.
これは先に社会的排除として述べた,選択の自由に実効性がなく何を選んでも 無駄な状況となっている.かくして結果は,
i
氏の出方とは無関係に,英会話 学校による「不採用」で均衡する.このように,表 2 のモデルは事例②の経過 をうまく説明できるように思われる.さて,この状況を構成している重要なルールは,採用可否の決定権を企業に 与える法的ルールである.そして通常われわれは,このルールが客観的に存在 する限り,こうした状況はつねに同じようにモデル化できると単純に考えたく なる.しかし実際には,表 2 のように状況を描くことが適切なのか否かは,行 為者たちが「構成作業水準」でどのようにルールを適用するかに依存する.実 際になされるその作業は単純ではない.本稿の目的はそうした行為者たちの作 業を詳細に追うことではないが,ここでは事例②のなかから,表 2 の状況を成 立させている構成作業の分析を試みてみたい.
事例②で注目したいのは,英会話学校による不採用の「理由説明」である.
この理由説明について興味深い点が二つ指摘できる.第一に,英会話学校側が
ただ「断る」ために,なぜわざわざその理由を述べるのかという点がある.採 用の可否を決定する権利がつねに英会話学校側にあると単純にいえるのなら ば,応募者が白人ではないと分かった瞬間に「不採用です」と一言述べて,即 座にやりとりを打ち切っても構わないのではないだろうか.第二に,この英会 話学校側の「理由説明」は,応募者側の選択に依存しているという点がある.
確かに英会話学校の「非白人は不採用」という行為選択は,応募者側の出方に かかわらず決定されている.しかしながら理由説明についてはそうではない.
「自分はアメリカ英語が得意」と述べる応募者に対して「アメリカ英語の講師 が欲しい」といって断れば,明らかに常軌を逸した異常な行為者として現れて しまうことになる.それゆえ英会話学校は応募者側の出方にあわせた理由説明 をしなければならない.もし応募者が「自分はアメリカ英語もイギリス英語も 完璧だ」と主張してその証拠も示せたなら,学校側はさらに別の適切な理由を 選択する必要も生ずるわけだ
28
.ではなぜ英会話学校は「断る」という単純な行為選択(権利行使)のために,
わざわざ「適切な理由説明」という回りくどい手続きを踏んでいるのだろうか.
そのわけは仮にこの英会話学校が「応募者が非白人だと分かった瞬間にやりと りを中止する」という行動に出た場合を考えてみればわかる.もしそうした「や りとりが突然理由なく打ち切られる事態」に遭遇したならば,われわれはこれ を異常だとみなすのが普通である.というのも「募集しているのに応募を断る にはそれなりの理由がある」と一般的に期待できるからだ.それゆえ,理由も 告げずに突然やりとりを打ち切る行為は,むしろ「言えない理由」によるのだ と理解されうる材料になる.そして何か不穏当な理由,すなわちあからさまな
「差別」が感じとられるかもしれない.他方,「適切な理由」を説明され丁重に 断られたなら,やりとりは穏便に終結していくのが普通である.かくして,適 当な理由説明をおこなった場合とおこなわない場合とでは,まったく異なる相 互行為の成り行きが生じうることになる.
以上から重要なことが分かる.つまり,英会話学校が相4手の出方にあわせて4 4 4 4 4 4 4 4 4
「適切な理由4 4 4 4 4」を説明する4 4 4 4 4という面倒な手続きが,実は,英会話学校が相手の4 4 4 出方とは無関係に4 4 4 4 4 4 4 4「不採用4 4 4」を選択可能にする効果をもつ4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4のである.相互行為 の構成作業水準を離れ,人間社会を目的行為水準のゲームとしてのみ考えるな
らば,「応募者の採用可否の決定権は企業側にある」という法的ルールのもとで,
企業側が一方的に採用可否を決められる状況以外の可能性を考えるのは難しい だろう.しかしそうしたルールがあったとしても,つねに同じような状況にな るわけではない.仮に不採用の理由が人種差別だという疑いが明るみにでれば,
今度は「不当な差別をしてはならない」とか「不当な差別は訴えてよい」など の規範的ルールを用いた状況の構成も可能になる.その場合,応募者が世論や 法廷に「告発」することも現実的で適切な選択肢として構成されうる4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4ことにな る.つまり適用されるルールの変更によって状況の構成が大きく変化すること になるのだ.
表 3 は,差別の疑いが明るみにでたことで,「差別は告発してよい」という ルールを用いた新たな選択肢が構成された場合にどうなるかを表してみたもの である
29
.ここでは,告発された場合の英会話学校の利得は人種差別によるイ メージダウンで 10 としてある.その場合,英会話学校は疑惑を晴らして企 業イメージを守るために,むしろi
氏を採用するほうがよいことになる( 1>10).結果的には,
i
氏は「人種差別の可能性がある」と告発し,それを嫌っ て英会話学校は採用するという帰結が新たな均衡になる.状況の構成が変化す ることで,英会話学校が「しぶしぶ採用する」という可能性が,目的行為水準 の分析で理解できるようになる.表 3. 状況の構成の変化 英会話学校 採用 不採用
i
アメリカ英語を
アピールする (10, ‑1) (0, 0)
イギリス英語を
アピールする (10, ‑1) (0, 0)
不採用は差別だと
告発する (10, ‑1) (1, ‑10)
注 : 下線部はナッシュ均衡.
英会話学校の「適当な理由説明」のように一見何気ない手続きは,目的行為 水準のモデルの中に現れるものではない.それはせいぜい「不採用」なり「採 用」なりの一部をなすにすぎない.しかしルールを用いた相互行為状況の構成 という側面から見ると,実に重要な効果を果たしていたことがわかる.その際,
その効果を英会話学校や
i
氏が意識していたかどうかは,いまは重要ではない.重要なのは彼 / 女らが目的行為を遂行する中でなされる一つ一つの作業が,そ の相互行為の状況を構成する作業としての側面(aspect)をもちうるというこ とだ.その作業のもつ効果が,「採用可否は募集側が決めてよい」というルー ルによる選択肢を構成しつつ4 4 4 4 4 4 4 4 4,「不当な差別は訴えてよい」というルールによ る「告発」の選択肢が構成されるのを防いでいる4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4.その限りで,表 2 の状況の もと英会話学校が自由に採用可否を決定できるといえるのだ.
以上見てきたように,相互行為の状況はルールを用いて構成される.実際に どのような状況になるかは,たとえ客観的に定められた法的ルールなどが関わ る場面であっても,つねに自動的に決まると考えることはできない.そして実 際にどのようなルールが適用されるかによって,状況が大きく変化し,相互行 為の成り行きも全く異なったものになりうる.
それゆえ,社会科学者が社会現象を目的行為理論の枠組みでモデル化する際 にも,人びとが状況を構成する作業でどのような規範的ルールを適用している のか,そして他にどのような可能性があるのか,十分注意しなければならない.
当該相互行為に参与している人びとが状況の構成に用いているルールこそが,
相互行為のモデル構成の適切さの基準を与えるからだ.例えば,事例②の出来 事を表 3 ではなく表 2 でモデル化するのが適切であるのは,当該状況の人びと が構成作業水準において,「差別は告発してよい」というルールを用いて「告発」
の選択肢を構成していないからであり,またその限りにおいてなのである.
5 結論:本稿のまとめと展望
5.1 ホッブズ的秩序問題と日常世界的秩序問題
以上,本稿では,社会的相互行為の目的行為水準と構成作業水準における分 析を接続することの重要性を論じてきた.最後に,社会学理論の伝統的な中心