九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
黄庭堅詩歌言語研究
蒙, 顕鵬
http://hdl.handle.net/2324/1959063
出版情報:九州大学, 2018, 博士(文学), 課程博士 バージョン:
権利関係:
黄庭堅詩歌言語研究
蒙 顕鵬
黄 庭 堅 詩 歌 言 語 研 究
目 次
凡 例
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1 序
論
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2
一 黄 庭 堅 詩 の 奇 と 双 関 語
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2
二 黄 庭 堅 の 詩 と 禅
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4
三 黄 庭 堅 の 人 生
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8
四 本 論 文 に 関 連 す る 先 行 研 究 の 概 要
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12
五 本 論 文 の 構 成 と 目 的
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13 第
一 章 黄 庭 堅 詩 に お け る 双 関 語 に つ い て
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15
一 双 関 語 の 遊 戯 性
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15
二 黄 庭 堅 独 自 の 双 関 語
― 「 名
」 と
「 用
」 の ず れ
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21
三 黄 庭 堅 双 関 語 の 極 致
― 禽 言 詩 と 薬 名 詩
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28
四 双 関 語 と 擬 人 法
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36
第 二 章 黄 庭 堅 と 「 竹 枝 詞
」
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43
一 黄 庭 堅 の 左 遷 と 竹 枝 詞
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43
二 歌 と し て の 竹 枝 詞
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48
三 劉 禹 錫 「 竹 枝 詞 九 首
」 へ の 評 価 と 黄 庭 堅 晩 年 の 詞 作
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56
四 竹 枝 詞 と 地 域
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64 第
三 章 黄 庭 堅 の 薬 名 詩 に つ い て
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68
一 黄 庭 堅 と 薬 名 詩
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68
二
「 薬 名 詩 奉 送 楊 十 三 子 問 省 親 清 江
」 に つ い て
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68
三
「 荊 州 即 事 薬 名 詩 八 首
」 に つ い て
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73
四 黄 庭 堅 の 薬 学 知 識 に つ い て
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78
五 黄 庭 堅 薬 名 詩 の 特 色
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81
小 結
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85 第
四 章 黄 庭 堅 と 『 景 徳 伝 灯 録
』
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88
一
『 景 徳 伝 灯 録
』 に つ い て の 書 作
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88
二 人 物 の 禅 化
― 『 景 徳 伝 灯 録
』 と 身 体 描 写
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102
三 物 の 禅 化
― 『 景 徳 伝 灯 録
』 と 題 画 詩 ・ 詠 物 詩
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106
第 五 章 黄 庭 堅 に お け る 枯 木 の 詩
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113
一 枯 木 の 系 譜 に つ い て
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113
二 絵 画 に お け る 枯 木
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116
三 絵 画 に 関 わ る 詩 文 に 於 け る 枯 木
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120
四
『 荘 子
』 か ら 仏 語 へ
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128 第
六 章 黄 庭 堅 の 墨 竹 詩
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136
一 墨 竹 と 造 化
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136
二 墨 竹 の 「 幻 出
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143
三 胸 中 か ら 吐 き 出 さ れ る 竹
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148
四 風 雨 の 中 の 竹
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153 結
論
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165 附 録 一 黄 庭 堅 略 図
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174 附 録 二 黄 庭 堅 略 年 譜
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175 初 出 一 覧
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182 主 要 参 考 文 献
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183
凡 例
一、本書に引用する黄庭堅の詩は『黄庭堅詩集注』(二〇〇七年、中華書局)を底本とした。該書には『山谷詩集
注』(南宋任淵注)『山谷外集詩注』(南宋史容注)、『山谷別集詩注』(南宋史季温注)、『黄庭堅詩集注
補遺』が収録される。文と詞は『黄庭堅全集』(二〇〇一年、四川大学出版社)を参照。該書は正集、外集、
別集、續集、補遺の五つの部分から構成される。それぞれ現代に伝わる黄庭堅の詩文集の版本については倉田
淳之助氏『黄山谷』(『漢詩大系』第十八巻、集英社、一九六七年)解説第二十二~二十三頁を参照。黄庭堅
作品の編年は黄㽦『山谷年譜』(文淵閣四庫全書本)、鄭永曉『黄庭堅年譜新編』(社会科学文献出版社、一
九九七年)及び荒井健『黄庭堅』(岩波書店、一九六三年)を参照。
二、本書に引用した李白の詩は『李太白文集』(汲古書院、二〇〇六年)による。
三、本書に引用した杜甫の詩は『杜詩詳注』(中華書局、一九七九年)による。
四、本書に引用した韓愈の詩は『韓昌黎詩集編年箋注』(中華書局、二〇一二年)による。
五、本書に引用した白居易の詩は岡村繁『白氏文集』(明治書院、二〇〇五~二〇一八年)による。
六、本書に引用した劉禹錫の詩文は陶敏・陶紅雨校注『劉禹錫全集編年校注』(岳麓書社、二〇〇三年)による。
七、本書に引用した蘇軾の作品は、孔凡礼点校『蘇軾詩集』(中華書局、一九八二年)及び『蘇軾文集』(中華書
局、一九八六年)による。
序 論
一黄庭堅詩の奇と双関語
黄庭堅(一〇四五~一一〇五、字は魯直)の「奇」なる詩風は宋代の人々が共有する認識である。例えば、友人
の陳師道(一〇五三~一一〇一)『後山詩話』には次のような発言がある。
王介甫以工、蘇子瞻以新、黃魯直以奇。而子美之詩、奇常、工易、新陳、莫不好也。
王介甫は工を以てし、蘇子瞻は新を以てし、黄魯直は奇を以てす。而して子美の詩は、奇と常、工と易、新
と陳、好からざる莫きなり。
陳師道は王安石の詩風を「工」と、蘇軾の詩風を「新」と、黄庭堅の詩風を「奇」と概括する。一方で杜甫は彼
らのように一つ風格のみに堪能ではなく、「奇常(革新的と伝統的)、工易(巧みさと平易さ)、新陳(新しさと
古さ)」に関わらず、いずれも素晴らしいと述べる。
また、黄庭堅の「奇」を次のように述べる。
唐人不學杜詩、惟唐彥謙與今黃亞夫庶、謝師厚景初學之。魯直、黃之子、謝之婿也。其於二父、猶子美之於審
言也。然過於出奇、不如杜之遇物而奇也。三江五湖、平漫千里、因風石而奇爾。
唐人杜詩を学ばず、惟だ唐彦謙と今の黄亜夫庶、謝師厚景初之を学ぶ。魯直は、黄の子、謝の婿なり。其の
二父に於けるや、猶ほ子美の審言に於けるがごとし。然れども奇を出だすに過ぎ、杜の物に遇ひて奇なるに如
かざるなり。三江五湖、平漫すること千里、風石に因りて奇なるのみ。
唐代以来、杜甫の詩を学ぶ詩人は少ないが、晩唐の唐彦謙及び黄庭堅の父である黄庶、岳父の謝景初および黄庭
堅が特に杜甫の詩を学んだ。しかし、黄庭堅は「奇」の意識があまりにも強すぎ、杜甫のように自然な作風の中に
奇抜が見え隠れするような詩ではない。以上のように、陳師道は、杜甫と比較して黄庭堅の詩を批判するものの、
その特徴を「奇」に認めていることは間違いない。南宋の詩人も黄庭堅の詩を「奇」と評価する。例えば、呉可は
「東坡豪なり、山谷奇なり(東坡豪、山谷奇)」(『蔵海詩話』)と言い、林希逸「読黄詩」詩は「内篇外篇手づ
から分別し、冥搜し到る所真に奇絶なり(内篇外篇手分別、冥搜所到真奇絶)」(『竹溪十一稿』)と述べ、それ
ぞれ「奇」及び「奇絶」と黄庭堅の詩を評価する。
勿論、各詩人が標榜する黄庭堅の「奇」は必ずしも同じものではないが、本論文は「奇」の詩人たる黄庭堅が如
何に言葉を紡ぐことでその奇なる効果をもたらしたか、その究明を主な目的とする。
黄庭堅が囲碁を詠める「湘東の一目は誠に死に甘んず、天下中分するも尚ほ持すべけんや(湘東一目誠甘死、天
下中分尚可持)」(「弈棋二首呈任公漸」其二、『山谷外集詩注』巻二)句について、方回『瀛奎律髓』巻二十一
に次のような解説があり、黄庭堅の詩の「奇」の一端を示唆している。
侯景之黨王偉、檄梁元帝云、「項羽重瞳、尚有烏江之敗、湘東一目、豈爲赤縣所歸。」元帝盲一目、引用此事、
謂其兩眼而活、一眼而死。天下中分、或作三分、此又謂救棋各分占路數也。皆奇不可言。南朝梁武帝第七子名
繹、先封爲湘東王、眇一目。
侯景の党王偉、梁元帝に檄して云く、「項羽に重瞳あるも、尚ほ烏江の敗有り、湘東の一目、豈に赤県を帰る
所と為さんや。」と。元帝一目を盲し、此の事を引用するは、其れ両眼あれば活き、一眼なれば死するを謂ふ。
天下中分、或いは三分と作す。此れ又棋を救ひ各々路数を分占するを謂ふなり。皆奇なりて言ふ可からず。南
朝梁武帝第七子名は繹、先に封じて湘東王と為し、一目を眇す。
「一目」は囲碁における用語で、相手の碁石を囲んで一目を残し、この時その一目に石を置けば、相手の囲まれ
た碁石は全部取られることになる。生きる余地がない故に、「誠に死に甘んず」という。更に梁元帝の片目が不自
由であることを連想し、囲碁の「目」を梁元帝の「目」に擬える。この比喩は「一目」という言葉の多義性から発
想を得たものと言える。このような表現は「双関語」(日本語の所謂「掛け言葉」)と称される。方回が黄庭堅詩
を「皆奇なりて言ふ可からず」と評価するのはこの双関の表現によるものにほかならない。
双関語は一つの言葉を異なる事柄に関連づける修辞技法である。唐以前の双関語はほとんど恋愛詩に使用される
ことが多いが、黄庭堅の場合は異なり、双関語を更に多彩な日常生活の題材に用いるのである。黄庭堅の詩は常に
日常生活の物の原義から派生して、その派生した意義を中心として新しい比喩や擬人法などの表現を展開する。そ
の結果、擬人法や比喩が言葉の原義と遠く離れるため、読者に奇なる印象を与えるのである。双関語の使用は黄庭
堅の奇なる詩風の形成に重要な役割を担っているのである。本論文の前三章は主に双関語という視点から黄庭堅詩
の表現を考察するものである。
二黄庭堅の詩と禅
黄庭堅は禅とも深い関係のある人物である。黄庭堅の出身地の分寧(いまの江西省九江市修水県)の近くに臨済
宗の一大拠点となった黄竜山がある。黄庭堅は「水辺林下衲子に逢ひ、南北東西古道場あり(水邊林下逢衲子、南
北東西古道場)」(「送密老住五峰」詩、『山谷詩集注』巻十六)と故郷一帯の禅の盛んなさまを述べる。黄庭堅
の若年期に禅に参じた記録はないが、彼の祖母である仙源君及び彼を扶養する叔父李常(一〇二七~一〇九〇)は
禅に親しむ人物でもあった。このような禅が盛んであった社会背景及び家族の影響の下で、黄庭堅が禅学に精通す
ることは理解に難くないであろう。更に元豊七年(一〇八〇)、四十歳の黄庭堅は「発願文」を制作し、仏教徒の
ように酒色と肉食を断つ誓いを立てる。
南宋に成立した『五灯会元』巻十七(南宋の釈暁瑩『羅湖野録』巻一にも見える)には黄庭堅が黄龍派の晦堂祖
心の法嗣として晦堂祖心のもとで禅を悟ったという記事がある。
往依晦堂、乞指徑捷處。堂曰、「祇如仲尼道、『二三子以我爲隱乎、吾無隱乎爾』者、太史居常如何理論。」
公擬對、堂曰、「不是、不是。」公迷悶不已。一日侍堂山行次、時巖桂盛放、堂曰、「聞木犀華香麼。」公曰、
「聞。」堂曰、「吾無隱乎爾。」公釋然、即拜之。曰、「和尚得恁麼老婆心切。」堂笑曰、「祇要公到家耳。」
(黄庭堅)往きて晦堂に依り、径捷の処を指すを乞ふ。堂曰く、「祇だ仲尼の道ふが如く、『二三子、我を以
て隠せりと為すか、吾隠すこと無きのみ』。太史常に居りて如何に理論す。」と。公対えんと擬するに。堂曰
く、「是れならず、是れならず。」と。公迷悶して已まず。一日、堂山行の次に侍す。時に岩桂盛放し、堂曰
く、「木犀華の香を聞くか」と。公曰、「聞く。」と。堂曰、「吾隠すこと無きのみ。」と。公釈然として、
即ち之を拜す。曰く、「和尚 かかる恁麼老婆の心切なるを得たり。」と。堂笑ひて曰く、「祇だ公家に到るを要する
のみ。」と。
黄庭堅が晦堂祖心に禅のことを尋ねると、晦堂祖心は『論語』述而篇の「二三子、我を以て隠せりと為すか、吾
隠すこと無きのみ」を引用して、どのようにこの文を理解するのかを聞き返した。黄庭堅が答えようとしたが、晦
堂祖心がその回答に不満であった。ある日、晦堂祖心と共に山奥で金木犀の匂いを嗅ぎ、晦堂祖心はその匂いこそ
が「吾隠すこと無きのみ」の真諦であると伝え、黄庭堅はようやく悟ったという。ここでは説明が行われていない
が、晦堂祖心が禅を金木犀の匂いに擬えたのであろう。金木犀の香りは目に見えないが、周囲に実在するものであ
り、隠れることがない。金木犀と禅の繋がりはこの故事によるものである。
黄庭堅は金木犀のほか、多くのものを通して禅の悟りの境地に到達した。例えば、「題王居士所蔵王友画桃杏花
二首」(『山谷外集詩注』巻十七、元符三年(一一〇〇)の作)は次のようである。
其一
凌雲一笑見桃花凌雲一笑して桃花を見、
三十年來始到家三十年来始めて家に到る。
從此春風春雨後此れより春風春雨の後、
亂隨流水到天涯乱れて流水に随ひて天涯に至らん。
其二
凌雲見桃萬事無凌雲桃を見て万事無となり、
我見杏花心亦如我杏花を見て心も亦如たり。
從此華山圖籍上此れより華山図籍の上、
更添潘閬倒騎驢更に潘閬の倒に驢に騎するを添へん。
元符三年(一一一〇)戎州(いまの四川省宜賓市)での題画詩である。其一は『景徳伝灯録』巻十一の霊雲禅師
の故事を引用する。
初在潙山、因桃華悟道。有偈曰、三十年來尋劍客、幾逢落葉幾抽枝。自從一見桃華後、直至如今更不疑。
初め潙山に在り、桃華に因りて悟道す。偈有りて曰く、「三十年来剣客を尋ね、幾たびか落葉に逢ひ幾たび
か枝を抽く。桃華を一見してより後、直に如今に至るまで更に疑はず。」と。
霊雲志勤禅師は唐末五代の禅僧であり、潙山で桃の花を見て禅を悟った。其二の「我見杏花心亦如」は、霊雲禅
師が桃花を見て禅を悟ったように、黄庭堅もまた杏の花を見て悟ったことを言う。ここでは、詩における桃花とい
うイメージが、始めて禅の世界と繋がる。それだけではなく、桃花を見て禅を悟ることに触発され、杏の花そのも
のが禅の世界への通路でもあるように詠われている。
黄庭堅は常に禅の目で物を観察する。と同時に、黄庭堅の詩集には、仏教語が溢れているのである。中でも、仏
典である『景徳伝灯録』が頻繁に援用される。任淵、史容、史季温の注釈によれば、黄庭堅の詩に『景徳伝灯録』
を援用するのは百四十箇所にも達しており(しかし一八七八首の中で注釈が施されているものは一四〇〇首程度に
すぎない)、北宋の詩人の中で最多である。本論文の後三章は、黄庭堅が如何にして禅の言葉を吸収し、更にそれ
ぞれの題材がどのように禅の色彩を帯びてゆくかを考察したものである。
三黄庭堅の人生
では、黄庭堅の人生はどのようなものであったか、ここで簡単に述べておく。
慶暦五年(一〇四五)六月十二日、黄庭堅は分寧県(いまの江西省九江市修水県)において、父黄庶、母李氏の
次子として生まれる。そのほかの四人の兄弟は大臨、叔献、叔達、仲熊である。黄庭堅は少年時代にすでに文才で
頭角を表していた。八歳の時に制作した「送人赴挙」詩(『山谷別集詩注』巻上)は以下のとおりである。
青衫烏帽蘆花前青衫烏帽蘆花の前、
送君歸去明主前君が明主の前に帰去するを送る。
若問舊時黃庭堅若し旧時の黄庭堅を問はば、
謫在人間今八年謫されて人間に在ること今八年。
父の黄庶(一〇一九~一〇五八)は杜甫の詩を学び、その詩集『伐檀集』が伝存する。黄庭堅が十四歳の時、黄
庶は康州(いまの広東省徳慶県)で没した。三年後、彼は母の弟である李常のもとに遊学する。黄庭堅は「我を長
じ我を教ふるは、実に惟れ舅氏あり(長我教我、實惟舅氏)」(『黄庭堅全集』正集巻二十九)と述べる。後に黄
庭堅の詩文や人柄を大いに讃えて蘇軾へ紹介するのもこの李常である。
治平四年(一〇六七)二十三歳の黄庭堅は進士第三甲に及第し汝州葉県(いまの河南省平頂山市)の尉に任命さ
れた。同年、旧法党に属する孫覚(一〇二八~一〇九〇)の十八歳の娘と結婚する(鄭永暁『黄庭堅年譜新編』参
照)。翌年の煕寧元年(一〇六八)、汝州に到着したが、期限に遅れたため、知事の富弼の怒りを買い、役人の拷
問を受けたという。この時期、仕官生活に対する不満の情を作品に表している。例えば、この年の「次韻戯答彦和」 詩には「天は万物に於いて定めて我を貧しくし、智は一官を つと効むる全て親の為(天於萬物定貧我、智効一官全爲親)」
(『山谷外集詩注』)とあり仕官は親族を扶養するためであると述べる。「次韻裴仲謀同年」詩では「白髮斉しく
生じて種有るが如く、青山好く去るも坐に銭無し(白髮齊生如有種、青山好去坐無錢)」と、白髪が次から次へ生
じるが、隠居しようにも、山を買う金がないと嘆く。
煕寧二年(一〇六九)、妻の孫氏が二十歳で没した。煕寧五年(一〇七二)、北京(大名府)国子監教授となり、
翌年謝景初の二十歳の娘と再婚した。元豊元年(一〇七八)、黄庭堅はまだ蘇軾との面識はなかったが、既に詩文
の往酬を始めていた。黄庭堅に「古風二首上子瞻」詩二首があり、その後蘇軾これに次韻した。これは蘇・黄の初
めての唱和である。黄庭堅詩の其一をみてみよう。
江梅有佳實江梅佳実有り、
託根桃李場根を託す桃李の場。
桃李終不言桃李終に言はず、
朝露借恩光朝露恩光を借る。
孤芳忌皎潔孤芳皎潔を忌まれ、
冰雪空自香冰雪空しく自ら香し。
古來和鼎實古来鼎実を和するに、
此物升廟廊此の物廟廊に升る。
歲月坐成晚歳月坐に晩と成り、
烟雨青已黄烟雨青已に黄たり。
得升桃李盤桃李の盤に升るを得、
以遠初見嘗遠きを以て初めて嘗せらる。
終然不可口 つい終然に口にす可からず
擲置官道傍官道の傍に擲置さる。
但使本根在但だ本根をして在ら使めば、
棄捐果何傷棄捐果して何をか傷まん。
黄庭堅は蘇軾を梅に擬え、「孤芳忌皎潔」と梅花の高潔さを讃える。更に「古來和鼎實、此物升廟廊」の出典は
『尚書』説命篇下の「若し和羹を作らば、爾惟れ鹽梅(若作和羹、爾惟鹽梅)」を出典とする。「和鼎実」とは双
関語であり、鼎の中身を調和する原義と国政を取りきるという比喩的な意味を掛けて言う。梅には「和鼎実」の効
用があるが、果物としては不味い。「終然不可口」と蘇軾の才能が正しく朝廷に用いられないと比喩的に言う。「但
使本根在、棄捐果何傷」は自身の初心を守れば、重用されなくとも泰然として対処すべきと蘇軾を慰める。これに
対し蘇軾は「古風二首、物を託し類を引き、真に古詩人の風を得たり(古風二首、託物引類、真得古詩人之風)」
(『蘇軾文集』巻五十二)と黄庭堅の詩を高く讃える。
元豊二年(一〇七九)、蘇軾は有名な「烏台詩案」のため逮捕され、黄州に左遷される。黄庭堅は朝廷や新法を
風刺すると言われた蘇軾の詩文を隠し朝廷に報告しなかったため、罰金として二十斤の銅を課され、また翌年は吉
州太和県(いまの江西省吉州市泰和県)知事に左遷された。
元豊三年(一〇八〇)の二月十二日、後妻の謝氏が二十六歳で没した。黄庭堅が帰郷する途中、舒州懐寧県(い
まの安徽省安慶市潜山県)の三祖山・山谷寺の石牛洞に遊び、「題山谷石牛洞」詩(『山谷詩集注』巻一)を制作
し、「山谷道人」と号した。元豊六年(一〇八三)十二月、監徳平鎮(いまの山東省德州市臨邑県)に転任を命じ
られ、翌年の元豊七年(一〇八四)、監徳平鎮への途中、泗州(いまの江蘇省淮安市盱眙県)僧伽塔に立ち寄り、
「発願文」を制作した。南宋に制作された「豫章先生伝」は次のように述べる。
公奉佛最謹。過泗州僧伽塔、遂作「發願文」、痛戒酒色與肉食。但朝粥午飯、如浮屠法。
公仏を奉ずること最も謹む。泗州僧伽塔に よ過ぎり、遂に「発願文」を作り、酒色と肉食とを痛く戒しむ。但だ
朝に粥あり午に飯あり、浮屠の法の如し。
黄庭堅はこの時から僧侶のように酒色と肉食を断ったという。晩年は病気のため酒肉の戒はゆるめているが、彼
はほとんどこの誓いを守っていたのである。
元豊八年(一〇八五)四月、秘書省校書郎に任命され、都の開封に戻り、初めて蘇軾と面会した。その政治的背
景として、この年の三月、新法を支持する神宗が崩御したことが挙げられる。時に九歳であった息子の哲宗が即位
し、宣仁皇太后が摂政となって、新法を逐次廃止し、旧法党の司馬光や蘇軾らが中央に起用された。翌年の元祐元
年(一〇八六)十月、黄庭堅は神宗実録院検討官・集賢校理に命じられた。この元豊八年から元祐四年(一〇八九)
に至るまでの四年間に、黄庭堅は四百首あまりの詩を制作しており、彼の詩作の最盛期と言え、蘇軾、晁補之、張
耒、秦観、陳師道などの開封に集まる詩人との唱和も多い。元祐四年、蘇軾は竜図閣学士に除せられ、知杭州とな
った。詩詞唱和の重要な相手であった蘇軾が都開封を離れて杭州に出守したとともに、また黄庭堅自身も眼病に罹
り、更に元祐六年(一〇九一)には母が死去し、彼は三年間の服喪に入ったために、ほとんど詩詞創作の筆を断っ
た。この間の詩作は二十首にも満たない。黄竜山にて臨済宗黄竜派の晦堂祖心に師事したのは元祐六年以降のこと
である。
元祐八年、宣仁太后が没するとともに哲宗が親政を執るようになり、政治の場では一転して新法党が登用され、
旧法党は次々と左遷された。黄庭堅も『神宗実録』で新法を非難した罪で、翌年の紹聖元年(一〇九四)涪州別駕・
黔州安置へ貶謫され、元符元年(一〇九八)に戎州安置となる。元符三年(一一〇〇)、哲宗が没し、徽宗が即位
し、大赦令が出され、朝廷に招かれたが、年老や病気を理由としてそれを辞退、太平州(いまの安徽省馬鞍山市当
塗県)の知事を希望し、朝廷の命令を待つため、荊州に一時仮寓していた。崇寧元年(一一〇二)、有名な「元祐
党籍碑」が立てられ、司馬光、蘇軾、黄庭堅、張耒、秦観、晁補之などの三百九人の名が石碑に刻まれた。黄庭堅
は荊州で「承天禅院塔記」を書き、後に朝廷を風刺するという不実な罪名で除籍され、宜州(いまの広西壮族自治
区河池市宜州区)に貶されることになった。崇寧四年(一一〇五)、黄庭堅は宜州の寓居で病没し、度重なるの左
遷の生涯を終えた。
四本論文に関連する先行研究の概要
本論文は、黄庭堅詩における①双関語と②禅の二つの観点から論じる。本論文が引用する参考文献について概説
しておきたい。
①双関語について
まず、双関語に関する先行研究には陳望道『修辞学発凡』(上海教育出版社、一九九七年、九六頁)第五編「双
関」がある。該書は一九三二年に出版され、双関語を論述する最も早いものである。甲斐勝二、間ふさ子、宮下尚
子、張璐、王毓雯の訳を参照(『福岡大学研究部論集(人文科学編)』第十四巻、二〇一五年一月)。
また、銭鍾書『談芸録』「黄庭堅詩補注・附論比喩」(中華書局、一九九三年)は初めて黄庭堅詩の双関語を随
筆の形式として簡潔に言及したもので、本論文に深く示唆を与えた。
②黄庭堅の詩と禅について
黄庭堅の詩と禅についての研究は既に複数の論文がある。中村茂夫「黄庭堅の絵画観」(『中国画論の展開』、
中山文華堂、一九六五年)は黄庭堅の画論が禅の影響を受けたと指摘した。長谷川昌宏「黄庭堅の芸術と禅」(鈴
木哲雄編『宋代禅宗の社会的影響』所收、山喜房佛書林、二〇〇二年)は黄庭堅の書論、画論に見える禅の影響を
論じている。周裕鍇「法眼看世界―仏禅観照方式対北宋後期芸術観念的影響」(『文学遺産』、二〇〇六年第五期、
同氏『法眼看世界』)は仏教の禅の世界観が北宋の芸術に与えた影響を論じたものである。張高評『詩、画、禅与
蘇軾、黄庭堅詠竹題画研究』(『唐宋題画詩及其流韻』万巻楼、二〇一六年)も主に墨竹詩のイメージと禅との関
わりを論じる。
五本論文の構成と目的
本論文の前三章は「双関語」、後三章は「禅」という二つの観点から、黄庭堅詩の言語の特色を究明するもので
ある。各章節の問題の所在は以下の通りである。
第一章「黄庭堅詩における双関語について」は総合的に黄庭堅詩における双関語表現を論じるものである。双関
表現は言葉が内包する潜在的意義を拡大させ、その結果として黄庭堅詩における新しい題材や言葉、表現をもたら
すことに成功したことを指摘した。
第二章「黄庭堅と竹枝詞」では、頻繁に双関語を駆使した竹枝詞の創作背景や黄庭堅の詩風にもたらした変化に
ついて論じる。黄庭堅は黔州に赴いて、現地の歌謡を聞き、唐代の劉禹錫を手本として「竹枝詞」を創作した。黔
州という地を契機として黄庭堅の詩風(詞風)が変化していることを指摘した。
第三章「黄庭堅の薬名詩について」は、双関の表現に欠かせない薬名詩の成立背景、例えば黄庭堅の左遷途中で
の薬との接触、黄庭堅の医薬知識の獲得などについて述べたものである。黄庭堅の薬名詩の詳細な分析を通して、
作品の制作背景を考察した上で、彼がどのようにしてこれらの知識を得たのか、また薬名詩が黄庭堅の詩に如何な
る影響を与えたかを論じた。
第四章「黄庭堅と『景徳伝灯録』」では、黄庭堅の禅学の重要な基盤になる『景徳伝灯録』と彼の詩作の関わり
を論じるものである。禅の修養がどのように黄庭堅の詩、特に詠物詩と題画詩に影響を与えたかを考察した。
第五章「黄庭堅における枯木の詩」では、黄庭堅詩における枯木のイメージは唐以前と比べて如何なる新しい特
色を有するかを論じたものである。黄庭堅の枯木への認識は、禅学の色彩を深く帯びていることを指摘した。
第六章「黄庭堅の墨竹詩」では、黄庭堅の初期(煕寧・元豊間)・中期(元祐年間)・晩年(戎州左遷期)にお
ける墨竹詩の文学性を論じ、黄庭堅が蘇軾の墨竹詩の表現を如何に学び、そしてそれをどのように発展させ、更に
人生観をどのように深化させていたかを考察したものである。中でも、彼の「風雨竹」に対する題画詩は、墨竹図
を悟りの世界を具現化したものとして捉えることができるように思われる。
第 一 章 黄 庭 堅 詩 に お け る 双 関 語 に つ い て
一双関語の遊戯性
黄庭堅はユーモアに富む詩人であった。そのユーモアは当時の人々の記録からも窺える。例えば、親友の陳師
道『後山叢談』巻五には次のような記事がある。
魯直爲禮部試官、或以柳枝來、有法官曰、「漏泄春光有柳條。」魯直曰、「榆條準此。」蓋律語有「餘條準此」
也。一坐大哄、而文吏共深恨之。
魯直礼部試官と為り、或ひと柳枝を以て来たる。法官有りて曰く、「春光を漏泄して柳条有り。」と。魯直
曰く、「楡条は此に準ず。」蓋し律語に「余条此に準ず」と有るなり。一坐大いに哄し、文吏共に深くこれを
恨む。
元祐三年(一〇八八)、黄庭堅が科挙の試験官となった時の話である。「漏泄春光有柳條」は杜甫「臘日」(『杜
詩詳注』巻五)の詩句であり、柳の小枝が芽を出し、早春の訪れのメッセージをもたらしているという意味であ
る。ある人が柳の枝を持って来訪し、法律を司る長官が文才を示そうとして、この杜甫の詩句を吟じた。しかし、
黄庭堅が更に「楡の木の枝は、柳の枝に随う(芽が出る)」といい、一座の人々は大笑した。「余」(yú )と「楡」
(yú )の発音が近いために、法律用語の「余条準此」(ほかの条目もこれに準ずる)をわざと「楡條準此」に掛
けて言ったからである。この速やかな反応かつユーモア溢れる発言は同席した官僚達を笑わせたが、法律用語を
冗談の素材として使用したために法律部門の官吏に恨まれたという。
このような表現は、修辞の手法として「双関」と称する。陳望道(一八九一~一九七七)『修辞学発凡』に「双
関は一つの言葉を異なる事柄に関連づける修辞技法である」と述べ (1)る。双関語とは二つの異なる意味を持つ言葉
である(日本語で所謂「掛け言葉」)。次のように黄庭堅が友人に送った手紙「与忠玉金部簡」(『黃庭堅全集』
補遺巻四)にも見える。
腳婆已支僱値、附子尚未來取價。幸頤旨問之。庭堅再拜。
脚婆すでに僱値を支し、附子、尚ほ未だ来りて価を取らず。幸ひにして頤旨してこれを問ふ。庭堅再拜。
建中靖国元年(一一〇一)荊州仮寓時に、黄庭堅は当地の長官及び友人の馬瑊(字は中玉)に湯たんぽと附子
という薬を求めた際、その値段を尋ねた手紙である。「脚婆」とは湯たんぽの俗称であり、「脚婆已支僱值、附
子尚未來取價」は、湯たんぽを買うためのお金は既に支払ったが、附子の値段はまだ教えられない。ここで湯た
んぽを「雇」うという動詞を使うのは、「脚婆」という言葉の多義性からの発想なのであろう。「脚婆」の字面
上の意味では脚を面倒するお婆さんであるため、人を雇うためのお金が必要なのである。附子またの名は烏頭、
脚気、傷寒などに効能がある。黄庭堅がこの時脚気を患っていたため、友人にこの薬を求めたのであろう(本論
文第三章参照)。同じように「附子」が「主人に附着する子」つまり男の使用人の意味を持ち、それを雇用する
にもお金が必要である。「附子」はまだ雇用する値段を教えられないので、彼に聞いてくださいませんかと黄庭
堅が戯れに薬の値段を友人に聞いたのである。このように、脚婆と附子に、それぞれ本来の意味及び派生する意
味という二つの意味がある場合、所謂意義双関語に当たる。
附子(烏頭)とその実(『中薬大辞典』、上海科学技術出版社、二〇〇六年、三〇一、一四七〇頁)
更に一例を挙げよう。『苕溪漁隱叢話』前集巻四十八には次のような逸話がある。
東坡云、「魯直作『漁父詞』云、『新婦磯頭眉黛愁、女兒浦口眼波秋。驚魚錯認月沉鉤。青箬笠前無限事、
綠蓑衣底一時休。斜風細雨轉船頭。』其詞清新婉麗、聞其得意。自言、『以水光山色、替卻玉肌花貌。』此
乃真得漁父家風也。然才出新婦磯、又入女兒浦。此漁父無乃太瀾浪也。」
東坡云く、「魯直『漁父詞』作りて云く、『新婦磯頭眉黛愁ひ、女児浦口眼波秋なり。驚く魚は錯まり
て月鉤を沉むと認む。青箬笠の前無限の事、綠蓑衣の底一時休む。斜風細雨船頭を転す。』と。其の
詞は清新婉麗なり、其れ意を得たるを聞く。自ら言く、『水光山色を以て、玉肌花貌を替却す。』と。此れ
乃ち真に漁父家風を得るなり。然れども才かに新婦の磯を出で、又女児浦に入る。此の漁父乃ち太だ瀾浪た
る無からんか。」と。
黄庭堅「漁父詞」の詞牌は「漁父詞」(正集巻十四)である。唐の有名な張志和の「漁父」詩を踏まえる作品
である。
西塞山前白鷺飛西塞山前白鷺飛び、
桃花流水鱖魚肥桃花流水鱖魚肥ふ。
青箬笠綠蓑衣青箬笠緑蓑衣
斜風細雨不須歸斜風細雨帰るを須ゐず。
ここで、黄庭堅詞の「新婦磯頭眉黛愁、女兒浦口眼波秋」に注意を払いたい。新婦磯と女児浦は鄱陽湖の地名
であるが、その本義から派生し、磯にいる新婦と浦口にいる女児と擬人化するため、それぞれ「眉黛が愁う」と
「眼波が秋の色を帯びる」ようになる。と同時に、巧みに緑の新婦磯を眉に、女児浦をぱちぱちと動くまなざし
に喩え、同じ言葉で複数の意味が混在している。そのため、「水光山色を以て、玉肌花貌を替却す」と自慢して
見せたのである。つまり、漁父が妻や妾がないでも、自然の水光山色があれば満足だという意味を表している。
この考え方は他の詩にも見える。例えば、「香草は姫妾に当たり、珠翠の粧を須ゐず(香草當姫妾、不須珠翠粧)」
(「顏徒貧楽斎二首」其二、『山谷詩集』巻十八)などがある。蘇軾が戯れにこの双関語を故意に「新婦と女子
が居る処に頻繁に往来する漁父が気ままに振る舞う」と曲解し、冗談を言うのであるが、「此れ乃り真に漁父家
風を得るなり」と黄庭堅詞を高く評価している。
ところで、双関語は宋以前の詩においてもすでに用いられている。たとえば次の南朝楽府民歌の例が挙げられ
る。
今夕已歡別今夕已に歓と別れ、
合會在何時合会するは何れの時にか在る。
明燈照空局明灯空局を照らし、
悠然未有期悠然として未だ期有らず。
(『楽府詩集』巻四十四「子夜歌四十二首」其七)
恋人と別れる歌である。恋人と別れて再び会うのはいつかと聞くが、「未だ期有らず」と答え、再会する時が
ないという。この「期」と「棋」は同音であり、つまり諧音双関である。灯火が何でも置かれていない、つまり
碁石がない碁盤「空局」を照らすために、「未だ棋有らず」と言っているわけである。ほかに、南朝楽府におい
て、糸(思(sī )と同音)、匹(布の意味と配偶の意味を含む)、苦(味が苦い意味と心が苦しい意味を含む)
などの双関語が多用される。例えば、
始欲識郎時始め きみ郎を識りし時、
兩心望如一両心一つの如きを望む。
理絲入殘機絲を理して そこな残いし機に入るも、
何悟不成匹何ぞ匹を成さざるを悟らんや。
(『楽府詩集』巻四十四「子夜歌四十二首」其九)
末尾の二句「理絲入殘機、何悟不成匹」において、「糸」と「思」が同音であり、「匹」は同時に布の意味と
配偶の意味を含む。表面的には、機織りの失敗を言うが、もう一つの意味は、君を恋にしているが、私達は結婚
できない、或いは片思いに終わってしまうことを暗示しているのである。
自從別歡後 きみ歓と別れて後、
歎音不絶響歎きの音響きを絶えず。
黃蘗向春生黄蘗は春に向かいて生じ、
苦心隨日長苦き心は日に随いて長ず。
(『楽府詩集』巻四十四「子夜春歌四二十首」其二十)
黄蘗は苦味の多い木である。苦心は黄蘗の「苦心」と人の「苦心」を掛けて言う。「黃蘗向春生、苦心隨日長」
二句は表面的に黄蘗が苦いと言うが、実は恋人と別れた後の苦しみに耐えない心情を婉曲に表現している。
以上に見えるように、これらの双関語はほとんど恋愛詩に使用されるが、この特徴は、唐以降の恋愛詩にも受
け継がれる。例えば劉禹錫の「竹枝詞」の「東辺に日出でて西辺雨ふる、道ふ是れ晴無きは却て晴有ると(東邊
日出西邊雨、道是無晴卻有晴)」、ここでの「晴」と「情」は同音の双関語である。東には太陽が照らし、西に
は雨が降り、つまり晴れていないが晴れてもいるという状態である。もし末句の「晴」を「情」に入れ替えると、
「冷たいように見ても実は愛情がある」という意味になる。また、李商隠「無題」の「春蚕死に至りて糸始めて
尽き、蝋炬灰となりて涙始めて乾く(春蠶到死絲方盡、蠟炬成灰淚始乾)」でも、「糸」と「思」は同音であり、
諧音双関である。
双関語という表現についての先行研究の多くは南朝楽府民歌に限られ (2)る。以上に見えるように、唐以前の双関
語は恋歌に用いられる場合が多いが、宋詩に至って双関語にどのような新しい表現が見出されたかは明らかでな
い。宋詩の特徴といえば、常に遊戯性が挙げられる。双関という手法は先に挙げる黄庭堅の「榆條準此」と「腳
婆已支僱値、附子尚未來取價」のように、確かに遊戯性を有しているが、双関語を使用する場合は遊戯性を際立
たせることばかりではない。本章は双関語という視点から、黄庭堅が如何にして言葉を紡いで新しい表現を生み
出していったかを明らかにしたい。
二黄庭堅独自の双関語―「名」と「用」のずれ
黄庭堅詩における最も特徴的な双関語としてその詠物詩における巧みな用法が挙げられる。これについて、銭鍾
書(一九一八―一九九八)は『談芸録』「黄庭堅詩補注・附論比喻」に次のように述べ (3)る。
就現成典故比喩字面上、更生新意、將錯而遽認眞、坐實以爲鑿空。
典故や比喩の元々の字義の上に、更に新しい意味を加え、その故意に曲解した意味に執着し、新しい詩境を開
拓した。
と簡潔に指摘しているが、これは初めて黄庭堅詩の双関語の表現の特徵を概括し、更に検討を求める必要がある。
黄庭堅詩の双関語の特色を究明するため、先ずは惠洪(一〇七〇~一一二八)の『冷斎夜話』巻四に見える次の話
をみてみよう。
用事琢句、妙在言其用、不言其名耳。此法唯荊公、東坡、山谷三老知之。荊公曰、「含風鴨綠鱗鱗起、弄日鵝
黄裊裊垂。」此言水柳之用、而不言水柳之名也。東坡「別子由」詩、「猶勝相逢不相識、形容變盡語音存。」
此用事而不言其名也。山谷曰、「管城子無食肉相、孔方兄有絶交書。」
事を用ひて句を琢くに、妙は其の用を言ひ、其の名を言はざるに在り。此の法は唯だ荊公(王安石)、東坡(蘇
軾)、山谷(黄庭堅)の三老のみ之を知る。荊公曰く、「風を含みて鴨緑鱗鱗として起き、日を弄びて鵞黄裊
裊として垂る。」と。此れ水柳の用を言ひ、水柳の名を言はず。東坡の「子由に別るる詩」に、「猶ほ相逢ふ
は相識らざるに勝る。形容変じ尽くして語音存す。」と。此れ事を用ひて其の名を言わざるなり。山谷曰く、
「管城子に食肉の相無く、孔方兄に絶交の書有り。」
惠洪はここで「名」つまり名称、「用」つまりその物体の性質との表現のあり方に注目している。王安石「南 (4)浦」
の詩は次のようにある。
南浦東岡二月時南浦東岡二月の時、
物華撩我有新詩物華我を いど撩み新詩有り。
含風鴨緑粼粼起風を含む鴨綠は粼粼として起ち、