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江戸時代における漂着唐船に関する一・二の資料 : 得泰船筆語を中心に

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(1)

江戸時代における漂着唐船に関する一・二の資料 : 得泰船筆語を中心に

その他のタイトル Some Materials concerning Chinese Merchant Vessels cast ashore in the Edo Period : Mainly on the Tokutaisenhitsugo (得泰船筆語)

著者 松浦 章

雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要

巻 13

ページ 41‑88

発行年 1980‑03‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/16059

(2)

江戸時代の﹁鎖国﹂下において︑長崎貿易のために多くの中国船

が来航したことは周知の事実であるが︑時には︑海上での天候等の

江戸

時代

にお

ける

漂着

唐船

に関

する

一・

ニの

資料

~

は じ め に

一 次

︑は

じめ

二︑

江戸

時代

にお

ける

漂着

唐船

につ

いて

三︑

得泰

船の

漂着

日長崎貿易船得泰口文政九年正月の得泰船漂着一件

四︑

得泰

船に

関す

る筆

談に

つい

日刊本﹃得泰船筆語﹄口滝沢馬琴旧蔵﹁得泰船筆語﹂

曰中山久四郎氏旧蔵﹁得泰船筆語抄﹂斡﹁清水筆語﹂

五︑

おわ

りに

附〇

滝沢

馬琴

旧蔵

﹁得

泰船

筆語

0

補遣 ー得泰船筆語を中心にー—

二の資料

影響によって︑長崎貿易船や︑他の中国商船・漁船等が長崎以外の

地に漂着している︒このことについては︑既に︑荒川秀俊氏の﹃日

① R  

本漂流漂着史料﹄や︑川合彦充氏の﹁近世日本漂流編年略史﹂によ

って︑その概要が知られる︒

また︑唐船の日本漂着の事例を数量的に示された岡田信子氏の

③ 「近世異国漂着船についてー特に唐•朝鮮船の処遇ー」によって、

その数はかなりにのぽることが知られる︒

しかし︑先学の研究の多くは︑﹁鎖国﹂下における日本人の海外

漂流漂着の方に重きがおかれ当時の日本漂着船に関してはあまり

注目されていなかった︒ただ︑近年︑地域研究の一環として︑中国R 船の日本漂着に関する研究が見られることは注目に値する︒

江戸時代における漂着唐船の資料の多くが未刊のものであって︑

まだ充分に調査されているとは言いがたく︑僅かに長崎貿易史研究

の一環としての中国船の積荷目録を解明する必要から︑これまでにR いくつかの漂着唐船の資料が使われた程度で︑網羅されているとは

江戸時代における漂着唐船に関する一

. 

(3)

条に

︑ よ と︑﹁海舶互市定例﹂いわゆる正徳新例の﹁唐船入津之時定例﹂に 江戸時代において長崎へ唐船ー中国商船ーが来航する時期になる

れば

毎年唐船入津之時二及候ハヽ︑近国諸大名二相触︑遠見番番船 ︑ 等之備怠慢なく︑唐船ハいふに及はす︑我国之船共不審之鉢有

⑦ 

之におゐてハ︑急度可相改事︒

とあるように︑長崎近国の諸大名に注意を換起したのである︒そし て仮にそれらが漂着した時の具体的な処置というと︑少しく後世の

﹁唐船入津ョリ出帆迄行事帳﹂の﹁唐船漂着有之節取斗方之事﹂の 来朝之唐船於1一洋中f遭11難風f薩摩・五嶋•平戸・大村・嶋原 井肥後・天草御預り所等江漂着︑碇を卸し候得者︑其場所之番

︑ 江 戸 時 代 に お け る 漂 着 唐 船 に つ い て

言え

ない

︒ それ故︑現在︑大庭脩教授と共同して︑これらの江戸時代におけ る漂着唐船の資料を収集︑調査研究を進めている︒

そこで︑本稿は漂着唐船に関する資料の中でも比較的著名な﹃得 泰船筆語﹄に焦点をあて︑諸々の問題を提起し︑今後の漂着唐船に 関する研究への一試論と考えるものである︒

尚︑本稿は大庭教授との共同研究の結果生まれたものであるが︑

その文責は筆者にある︒

月二

人早速差出︑漂着之訳承レ之︒船頭ふ音物取レ之︑番船等附レ之︑

厳敷守申付︑日和次第警固相添︑挽船をもって長崎湊江可︱︱挽

羞旨︑其所ミ領主ハ家老ふ以

f飛札1 1

御役所江注進申越候付︑

⑧ 承知之旨返書差

‑ 1 遣之f

とある如く︑唐船の漂着があれば諸国は官府へ上申する義務があっ

こ ︒

そし

て︑

漂着

船唐

の取

扱い

につ

いて

︑明

和三

︵年

乾隆

一︱

‑+

‑︑

七六六︶二月二十五日付の触書には︑

従前々唐船漂着有之節は︑其所之御料私領より長崎表え引送︑

右漂着唐船長崎え引送候迄之間︑唐人狼米塩味噌薪其外諸入用 引船賃等︑長崎より相渡来候由二侯得共︑破船難船二て荷物海 失或溺死等有之節は︑重災難之事二付︑於長崎表も為手当︑定 之外商売等も申付候事二付︑船損荷物海失有之程之難船破船等 は︑取揚荷物二懸り候入用之分計︑長崎奉行所より請取之︑其 余之諸入用は其浦々所役二可致候︑勿論右入用請取方相減候辿︑

館略之取扱無之様可被申付候︑尤一通之漂着船は是迄之通︑諸 入用長崎奉行所二て吟味之上︑相当二相渡二て可有之候︒

右之趣︑九州筋国々御料は御代官︑私領は領主︑地頭より可申渡 候 ︑

⑨ 右之通︑可被相触候

とあり︑源着唐船に対して手厚い保護が指示されていた︒

(4)

ある

長崎貿易船得泰

﹁得泰船筆語﹂とある得泰船とほこのような唐船の一艘の船名で

れる

これらの唐船に直接取調べに係わった人々のほとんどが︑唐船乗 組員の使用する口語を解しなかったため︑﹁筆談﹂の形式を取って いる︒そのために逆に当時の記録が残った割合が高かったとも思わ その﹁筆談﹂の内容であるが︑日本人は中国に対し︑中国人は日

⑩ 

本に対しての関心事も含み興味ある記事が多い︒

そこ

で︑

﹁筆談﹂の中でも比較的一般に流布したと思われる﹃得 泰船筆語﹄について検討を加えてみることにする︒

︱︱‑︑得泰船の漂着 江戸時代において長崎へ来航した唐船の多くは︑既に注鵬・江竹

⑪ 里も記しているように︑

以年之次第計之︒如申年首到則為申一番︒次到則為申二番︒館

⑫ 内亦以此称呼゜

とあり︑唐船の来航順に数番をつけ︑さらにその年の十二支を付け てあらわし︑唐人屋敷の内でもそれをもって呼んでいたため︑各唐 船固有の船名を必要としなかった︒そのため唐船の船名が貿易記録 に残っている例は極めて僅かである︒しかし︑当時流布した長崎版

⑬ 

画等の資料からそれらをうかがい知ることは可能である︒

江戸

時代

にお

ける

漂着

唐船

に関

する

一・

ニの

資料

この船が長崎に来航したことの知りうる最初は︑中国側の資料に 見える︒﹃清代外交史料道光朝一﹄の﹁浙江巡撫帥承濠奏︑盗送日

本国遭風難夷帰国情形摺﹂に

浙江巡撫臣帥承濠詭奏︒為闘省盗送日本国遭風難夷︒由浙省分 搭二船帰国。(中略)拠乍防同知何太青•平湖県知県胡述文先 後詳称︒弁銅官商王宇安麗船戸金全勝商船出口︒前往東洋︒将 難夷幸次郎等十五名附載︒又額商楊鶴圃雇船戸金得泰商船出 ロ︒将難夷林仲右工衛門等十四名附載︒︵中略︶於六月初九日︒

由乍浦開行出口︒︵下略︶

と︑

道光

一ー

一年

︵文

政六

︑一

八ニ

︱︱

‑)

八月

十七

日付

の奏

文で

︑同

年九

月七日の道光帝の珠批が見える︒

これは︑中国へ漂流していた松乎豊後守の領分の種子嶋赤尾木︑

天満丸水主仲右衛門ら十三名が文政六年の未壱番船で︑また同天満

⑭ 

丸沖船頭幸次郎ら十五名が未四番で帰国した際の︑中国出帆を伝え る奏文であり︑これから︑未壱番船が金得泰船であったことが知ら れる︒また﹁割符留帳﹂によって︑その時の船主は長崎在留船主劉

⑮ 

景箔と︑脇船主周蒻亭であったことがわかる︒

以上が管見に拠る得泰船の初見であり︑その後が︑後述の文政九 年正月の漂着である︒そして︑天保七年︵道光十六︑一八三六︶に

⑯ 

も来航していたことが︑﹃長崎志続編﹄に見えるから︑長崎来航ほ

少なくとも文政六(‑八三︱‑︶年から天保七︵一八︱

IH

ハ︶

年ま

での

⑰ 

十三年間に及んでいたと考えられ︑確認できる事例から十二家荷主

(5)

﹁清水筆語﹂の中で︑徳田見龍の質問に︑得泰船の総

管であった鄭資淳が答えていることから知られる︒徳田見龍の﹁本

舷長幾何﹂に対し︑鄭資淳ほ

⑪ 長十二丈゜闊四丈︒深二丈四尺︒舷脚入水一丈六尺゜

と極めて的確に答え︑さらに徳田は﹁植長幾何﹂と問い︑鄭は︑

大楠長十一丈三尺︒園一丈一尺︒船頭楠長八丈︒園五尺零︒船

@ 

尾楠

長四

丈゜

と答え︑大庭教授が既に紹介された平戸松浦史料博物館蔵の﹁唐船R 之図﹂を除けば︑類例の知られない貴重な資料を提供している︒

この答から︑得泰船は今日の実測にして︑全長約三十八メートル

四十︑幅十ニメートル八十︑深さ七メートル八十︑主帆柱が三十六

メートル余︑船首の方の中柱二十五メートル余︑船尾の方の小柱が

十ニメートル八十という大きさの船であったことになる︒

文政九年正月の得泰船標着一件

この得泰船が文政九年正月元日︑遠江国下吉田村︵現在の静岡県

榛原郡吉田町︶沖に漂着したわけである︒その翌二日に役人小島源

⑭ 一が筆談にて︑中国からの長崎来航貿易船であることを知った︒

中国出帆から漂着までの事情は︑同二日船主楊啓堂が記している

のに

拠れ

ば︑

の大

きさ

は︑

目 侶 曹 発 生 年 三 十 歳 博 分 使 年 三 十 六 歳

同安人 長楽人 幣長洪廷械総管鄭資淳舵工郭光桂

博照使同 年四十一歳年

四 十 歳

年四十六歳 閲県人同安人 長楽人

年 五 十 二 歳 侯 官 人

船主劉景蒟

同 楊 啓 堂

財副朱柳橋

劉聖学同 年五十四歳年二十七歳年四十八歳年三十一歳

 

の雇

船で

あっ

た︒

この得泰船そのものの構造に関しては︑附載した図︵図

1)

から

⑳ も明らかな如く︑中国の代表的な海船の︱つである鳥船であり︑そ

杭州人 同 杭州人平湖人 本船在唐子十一月廿四日︒自乍浦開行︒往長崎貿易︒護送貴国漂流商民三人︒通船共計乙百十六人︒在洋因風不順︒子正月初

⑮ 

一日︒漂収貴地口外寄掟゜

一八二五︶十一月二十四日乍浦を出帆

この

船に

は日

本人

の漂

者流

一二

名︑

文政

一︳

一年

︵一

1 1

0 )

房州沖で瀕流した奥州南部藩の長吉︑喜太郎︑鶴松の

他︑唐船の乗組員百十六名が乗船していた︒そして海上において時

化にあい︑正月元日に下吉田村沖に漂着したことがわかる︒

この時の乗組員名簿と積荷目録が﹃通航一覧続輯﹄巻三十六所引

の﹁唐船漂着之記﹂に見える︒それに

通船人数

計開 とあり︑道光五年︵文政八︑して長崎に向かった︒

四四

(6)

江戸時代における漂着唐船に関する一・ニの資料 林子懺劉鏡第洪仁声

年︱

︱︱

十六

年三十八歳

年三十五歳

年︱

︱一

十六

年四十四歳

年二十七歳 長楽人

侯官人

張 湧

蘇州人 同 呉志執慮志楊洪三捷同 同林克新黄杏使強

戴大椿 年三十年

︱︱

︱十

八歳

年 四 十 歳

年三十二歳

年五十二歳 同 同安人平湖人

侯官人 同周有利年三十

歳 同 安 人

呂 畳 使 年 四 十 三 歳 曹 叙 林 年 三 十 七 歳 洪 継 倫 年 三 十 五 歳 高 俎 弟 年 三 十 九 歳

同虚玉林

寧波人 平湖人侯官人鄭国禎同 同 同陳克突王家栄 年四十五歳年二十八歳年三十七歳

年四十 同 博騰霧同安人同 曹用学黄国文 年四十二歳年三十六歳年二十九歳 侯官人同 同同 洪文科年︱︱‑+︱歳

王 亨 進 年 四 十 一 歳

間県人同 同 林徳揚洪尚声郭光億林光文

林永暢

鄭照鳳

部郎弟高偉弟 年三十八歳年三十五歳年

四 十 歳

年二十五歳

年︱

‑+

︱︱

一歳

長楽人

厳 立 伎 年 四 十 四 歳 徐 愈 使 年 三 十 四 歳

博忠使年一二十五歳同 侯官人同安人

年 四 十 歳

年二十七歳

年四十二歳閾県人 侯官人 閾県人

博 蔵 使 年 二 十 四 歳 鄭 友 波 年 三 十 六 歳

闘県人高享泰 年四十二歳

年四十六歳侯官人 同安人

陳存彩

福清人

陳 忠 信 年 四 十 八 歳 寧 波 人 滸 礼 文 年 三 十 歳 侯 官 人

陳雲滴年四十一︳一歳 鄭 法 弟 年 二 十 四 歳

同 間県人

四五

(7)

陶 阿 曹 年 四 十 七 歳 陣 川 使 年 二 十 八 歳 張 純 使 年 二 十 八 歳

恵安人

附 搭 黄 国 通

侯官人 同安人

滞四観

同 同張慶元同

郭障曹

年 三 十 八 歳 閾 県 人 年 三 十 三 歳 乎 湖 人

年二十六歳

年二十六歳

年一

︱︱

十歳

年三十四歳

年三十四歳

年三十一歳

年二十八歳

年二十二歳

年三十三歳

年三十三歳

年二十三歳

年 三 十 歳

年二十二歳 鄭県人同安人 鄭義盛何素文

蘇錫連

胡起龍 年四十二歳

年 四 十 歳

年︱

︱︱

十二

年三十五歳

年三十六歳 同 邸居使姻手平湖人

林阿取 王溢使

謝阿小

姜江鎖

博祖廠 許安使

同王井使 同 劉老使博意使博爾使

年一

︳一

十六

年二十二歳

年三十七歳

年三十一歳同 同 同 同安人 同 同

陳九使

李墜使同陳林弟 同王燕使年三十二歳

年三十七歳

年二十五歳

年四十五歳福清人 同 長楽人 同 董老大王神童偉交使王夏使周守使同 同黄駿弟黄懐使 同 陳城弟黄振声張成興

年 五 十 歳 年 三 十 歳

年三十八歳

年三十八歳

年三十五歳同安人 同 闘県人 同安人同 闘県人長楽人

楊 習 奎 年 四 十 歳 曹 往 第 年 二 十 八 歳

長楽人 同

鄭攘使年一︳一十歳 陳 家 相 年 四 十 八 歳

福清人 同安人

陳 福 使 年 三 十 三 歳 葉 留 慶 年 三 十 五 歳

同安人

平湖人陳童筆 陳尚徳

年 三 十 歳

年三十二歳同 福清人

四六

(8)

文政九年正月 江戸時代における漂着唐船に関する一・ニの資料

財副 楊啓堂

朱柳橋 逼木白鉛

石恙二百包

四七

同 船

主 劉 景 箔

百六十推百八十提 年四十五歳年三十五歳年二十一歳年四十二歳年二十四歳

姜 年 三 十 一 歳 朱 七 年 三 十 二 歳

戴言生疇鯰年三十一歳

以上共計乙百十六人

一箱

一箱

同 同 唐福生

蘇州人

平湖人 張雙福顕順祥同 同

膵 渭

上 字 上 字 真 字 球 字 真 字 球 六 奏 屑 眠 同 同 武 同 斌 尺 本 線 環 爪 珊 疋

一箱

一箱 一

二箱 四十件 一百三十萎 二十色

呉四貴 年三十五歳

年三十二歳同紅脈五十捲 哀貴同蛮紬十巻

銭 順

張得利 年三十二歳年三十五歳

年二十九歳同古戊

産 芦

同呻咬三箱

六件

随 使 膵 長 生

蘇州人

大 呪

林焚矛都仁文 林相弟年二十九歳年三十三歳

年四十二歳同計開 閲県人通船貨数 侯官人

博 仙 使 年 三 十 歳 同 安 人 姜 倫 茅 年 六 十 歳 長 楽 人

同日同断 総管 同

十箱 劉聖学鄭資淳

(9)

烏蛇

斬蛇

赤石脂十二件 二桶六箱一

三 頂番糖

三百包

六百五十包

五百包

本船在洋中︒因遇風浪︒擁去貨約有六・七十件︒侯到長崎之日︒

泉 糖

捲 桂 葉梗

猪苓

象 具

十二件白氷

一百

十二件二十九件肉礎蓉

四件

棗仁

二件

甘松 五件

四件

白正

西附五霊脂

二件

蒼 木

帥菓 二十五件

四十件

連 慰

口疾

十七件瑣陽

独活

三件

六件 二

山帰

一百

甘遂

黄苓 木香

山査

六件

三件

三十七件

三十箱 雷丸

四件

麻黄大黄

檀香十五件 四十七件三十八件四十一件 乳香大戟

川棟子

五箱

二件

碗青

甘草常山十五件 四簑君子

二件

大象牙

力 砂

二箱

志条

牛膝

十枝十件

四八

(10)

とある︒これら源着時の資料から︑得泰船の長崎貿易における経営

規模が知られる︒

この内︑乗組員に関して︑百十六名中︑八十五名が福建省出身者

⑬ で︑七十一︱︱︒ハーセントを占めている︒とりわけ︑下級船員に当る目侶

のみについて言えば八十五名おり︑その内七十五名が福建省出身で︑

その中での割合は八十八︒ハーセソトの高率を示している︒このこと

は道光﹃慶門志﹄巻十五俗尚に﹁舵水人等此為活者以万計﹂とある福

建省出身者の海船での活動傾向を如実に示しているように思われる︒

全乗組員平均年令三十五歳余︒目侶については三十四歳余となり︑

⑲ 得泰船以外の例として︑文化十三年の永茂船の場合乗組員九十名︑

その内福建省出身者六十三名︑全体此七十バーセント︑目侶六十五

名中福建省出身者五十六名で︑目侶中の比は八十六︒ハーセントとな

る︒また全乗組員の平均年令三十四歳︑目侶平均年令三十三歳弱と

ほぼ同様な人的構成が見られる︒

積荷目録は︑末尾にある記事から︑貨物の積載時のものであるこ

とが知られる︒同時に数少ない漠文積荷目録の一つである︒

さらに︑票着を伝える嘉永七年の写しの図が東京都立中央図書館

︵ 図

2

3)

その図︵図

2 )

中の

説明

に︑

文政九歳丙戌正月朔日遠州下吉田村江漂着唐船御改﹂

にあ

り︑

江戸時代における漂着唐船に関する一・ニの資料 点清晃為呈報︒

文政九年正月

同 寧波船主

楊 劉 啓 景 堂@箔

大坪本左衛門様 羽倉外記様手代

宮 本 治 郎 左 衛 門 様 同 前

御普請

倉橋藤太郎様 太田摂津守様西尾隠岐守様町御奉行

牧野妥女様

御代官

羽倉外記様定御掛り 御見送り ハで御カタメ

ハ船

ソセ

同 同正月十八日駿州清水湊江御引入漠船 船ニトリシンプツヱアリ﹂同三月十日出船﹂

﹁舷

長三

拾問

余﹂

右唐船御掛り

長崎護送御役人

船銘

得 泰 乙 百 十 六 人 乗 外

財副劉聖学

総官鄭志順

幣長洪廷域﹂ 財副朱柳橋 大清国寧波湊

<

r  

商王楊啓堂

四九

日本奥州人三人﹂

﹁巾

拾間

余﹂

﹁高

拾間

余﹂

(11)

図1 得 泰 船 の 図

(出典:樋口弘氏編『長崎浮世絵』(味燈書房, 19716月) 88, 唐船荷揚之図 (p.87))

得 泰

図 船

同 図

<諮'

750 

`  . .  

< '  

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、 一

(12)

谷 東

足軽二人 東条健十郎様野田希一様

とあ

る︒

︵濠渋要怜廿冶図亭罠踪漉囲衿器噸淀回済要

75l

﹁祠

0部

﹂〜

n .j

江戸時代における標着僭船に関する一・ニの資料 2

~ そこで︑得泰船の遠州涼着に関係した事実経過を知るために作成

したのが次の年表である︒ 悪

中山

仙藤

(13)

鷹 吋 文 政 I

1826年 9

ー 月

が知

られ

る︒

13  10 

︐ 

7  5  2  ー 日

︒得泰船遠州榛原郡下吉田村沖に漂泊する︒

︒一橋家領知詰役人小島源一筆語によって︑

﹁唐国寧波府の商船﹂であること︑日本の漂

流民を護送してきたところ台風のため漂着し

たこ

とを

知る

︒小島源一病により榛原郡川尻村代官竹垣庄蔵

が警備し︑江戸へ注進等の事務を行う︒

0代官竹垣唐船の様子を聞き︑船中での不足食

料等を与え︑その品目書を添えて江戸に注進

する

︒船主楊啓堂より船中での欠乏品を求め︑また

蹟荷品目を提出︒

︒唐船の乗組員に病人があり医薬を求める︒

︒竹垣庄蔵︑漂着唐船の扱いを勘定奉行遠山左

衛尉より命ぜられる︒

︒代官竹垣︑漂着唐船の清水港入港の事を建言

していたところ勘定奉行より許可される︒

︒唐船警備等のため太田摂津守︑西尾隠岐守よ

り足軽十五人等手配される︒

︒榛原郡飯淵村代官羽倉外記にも唐船取扱いの

この表から︑得泰船の漂着に関する日本側の対応を知ることが出 来︑また後述の滝沢本﹁得泰船筆語﹂の価値の高いものであること

︒得泰船遠州漂着関係年表

3  2 

10  9  6 22  24  23  21  20  19  18 14 

命︑勘定奉行よりあり︒

︒竹垣︑漂着船主に清水入港の件を伝える︒

︒唐船︑下吉田浦を出帆し清水港へ向う︒竹垣

川尻

村を

出立

︒唐船主楊啓堂より長崎在留船主劉景箔へ書簡

を出す件︵七日︶許可される︒

︒唐船清水港に入港︒羽倉外記も駿府陣屋より

出張

0代官竹垣・羽倉︑船中の点検を行う︒武器は

取りあげ︑乗組員︑積荷等を調べ︑25日に江 戸へ調査書類を送る︒

︒羽倉外記︑唐船主に唐船取扱いを命ぜられた

事を

伝え

る︒

︒竹垣庄蔵病により掛り御免を願う︒

︒船主楊啓堂︑船綱打立等のため上陸を願う︒

︒漂船荷物分装し長崎へ護送する件を船主楊啓

堂に諭すも彼その必要を求めず︒

︒幕府より

1 8 日付で︑唐船の賄に関する費用は

全て出すとの命があり︑それを船主に伝え

︑一江戸出立︒︒野田希 る ︒

︒唐船の長崎護送のため船中に食料等を与え︑

楊啓堂その請書を出す︒

︒野田希一︑唐船乗組︒

︒得泰船︑清水港を出帆す︒

︒羽倉外記︑護送の人々等の名簿を江戸に注進

する

(14)

江戸

時代

にお

ける

潔着

唐船

に関

する

一・

ニの

資料

6  5  4 

5  19  7  6 

1 30  28  24 18  9 8  4  3  ー

27 

① ︒紀州二木浦にて目侶陳雲滝病死す︒禅宗最明

寺へ

葬る

︒兵

庫入

港︒

︒兵

庫出

帆︒

︒天候不順により兵庫再入港︒

︒再

度︑

兵庫

出帆

︒備

前通

過︒

︒下

関︒

^¥ ︒平戸田助浦にて大風雨のため流され同浦の冗

嶋の磯岩に吹付けられる︒乗組員の一部は上

陸し禅宗天桂寺や町家に止宿す︒

︒長崎より取締等のため役人河野歴太郎︑唐通

事共

出発

︒河

野等

平戸

着︒

︒護送の役人見分︑残りの濡荷物等を﹁汐抜洗

乾立﹂をおこなう︒

︒乗組員の内

6 6 名︑漂流日本人3名︑手廻道具

共日本船四般に積み分け︑護送役の倉橋藤太

郎︑野田希一︑通事等船に乗組田助浦を出船︒R ︒6日の一行長崎に着岸︑得泰船酉八番に番立

さ れ る

︒残り荷物︑乗組員

浦を出船 名︑大坪本左衛門等田助3 3

2 0 日

長崎

着︒

︒破損した得泰船を修復し浮船として空樽︑竹

筏の浮を付け大船二艘と挽船数艘にて平戸田

助浦出帆︒残り唐人十五人︑貨物は日本船五

艘に積分け6︑7両日長崎入港す︒

五 一

︒駿府よりの護送役人等長崎を出立し帰国す︒

︒清水港の市人等︑漂船賄方費用の件で︑代官

羽倉外記江戸に伺う︒

︒羽倉外記︑竹垣庄蔵等の唐船長崎護送関係者

に幕府より下賜あり︒

︒得泰船修復成り︑長崎出帆帰国する︒

〇 文

,

0

 

年表

の出

典は

︑註

記及

び次

の月

日以

外は

全て

﹃通

航一

覧続

輯﹄

巻三

︵ 

!四

十︑

刊本

二巻

一!

一四

八頁

を参

照し

作成

した

0

表三

月二

十七

日以

降七

月五

日ま

では

﹃長

崎志

続編

﹄巻

八︑

︵刊

本﹃

長崎

実録

大成

﹄ニ

ニ六

ーニ

ニ七

頁︶

を参

照し

た︒

①滝

沢本

﹁得

泰船

筆語

﹂三

月二

十七

日条

②同

書︑

﹃日

本地

名大

辞典

﹄一

巻四

ニニ

頁︵

一九

三七

年十

月︑

日本

書房

に三

重県

紀伊

国南

牟婁

郡荒

坂村

とあ

り︑

﹁︹

最明

寺︺

大字

二木

島里

浦に

あり

︒曹

洞宗

︒海

福山

と号

す﹂

︵四

一三

頁︶

とあ

る︒

③大

庭教

授前

掲註

⑮﹃

割符

留帳

﹄一

七六

頁︒

得泰船が下吉田村沖に源着した情報は早速江戸に伝えられ︑人々

にも知られることになる︒松崎嫌堂はその日記の文政九年正月十一

日の条に

〇寧波船漂着す︵船主は楊啓堂︶

正月元日︑寧波船河崎に漂着す︒湊官は我が侯と西尾君とにR 命じてこれを護らしむ︒

とあり︑同月十六日の条には﹁寧波人の至るがために︑余もまた来 4 

12  8  7  四

︑ 得 泰 船 に 関 す る 筆 談 に つ い て

25  23  5 

(15)

R るべしと云う︒筆語に益あり﹂とある︒

滝沢馬琴もその日記の正月廿九日の条に︑

昨夕六時此︑松前勘定方大野幸次郎ふ使札︒右は︑近比駿州へ

漂流の唐船事︑委細に御聞被成に付︑未及聞候はゞ︑詳しくた

づね可申旨︑申来る︒宗伯帰宅前に付︑予︑取斗ひ代筆︑巨細

の儀︑未及聞候間︑承り糾し︑相知候はゞ︑可申旨︑返事に申R 

遣す

とあるように︑正月二十八日夕刻︑松前藩の大野幸次郎を通じて︑

先の得泰船の漂着を知り興味を示したことがわかるが︑現存の日記

ではその後の様子は不明である︒

松崎憚堂の方は︑二月十六日の条に︑

〇寧波船の上稟

本船は唐に在り︑十一月二十四日に乍浦より開行︑長崎に往き

貿易︑井せて貴国の漂流商民一︳一人を護る︒本船は共計乙百十六

人︒風の不順なるに因り︑今正月初一日に︑貴地江外に漂収し

寄掟す︒ただ風浪甚大︑不測あらんことを恐る︒伏して俯念を

乞う︑遠商は在洋の日久しく︑苦楚は異常なり︑速かに即ち大

頭目大人に稟明し︑小船を飾修し︑大船を将って綽進し︑山 奥中に内れ︑暫く寄掟をなし︑ゆくゆく長崎に綽送せんこと

を︒井せて柴米名物を給付せんことを望む︒万遅延することな

くば︑ここに感ず︒計開︑一小船乙百艘

⑳ 

文政九年正月初日寧波船主楊啓堂

とあり︑先に引用した楊啓堂の答書とほぼ同一のものであることが知

られ

る︒

R その後廉堂は︑九月六日に西滸しており︑九月十五日の条に︑

0

羽倉君︵外記︶︒十六日に始めて見る︒R ︐駿府代官︑名は天則︑号は簡堂︑年三十七゜

とあり︑また同日の条に︑

0

徳田見龍

名は万寿︑号は渤海︒駿府の詩人︒薬を売って生をなす︒九世

の医なるも︑自矯して薬を売る︒一日に千首を作り︑左筆にて

書す︒本年︑東平と清舶のために筆訳す︒両人ともに左筆に

⑳ て︑清商はみな驚く︒

そして十七日の条に﹁簡堂に招かるるも酔えるを以て辞

⑳ す︒また洒撰を餓らる﹂とあり︑翌十八日﹁簡堂明府に赴き︑二鼓

⑲ に辞去す﹂とある︒

そして︑十九日には︑安倍川を渡り︑石部村という所から舟にて

海岸沿いに大井川の河口を経て︑得泰船の標着地を

住吉浦を経たり︒本年春︑清船の漂着せしところ︒川崎にいた

る十余町は︑海潮は甚だ大なり︑舟子は逆櫓を設けて始めて能

⑩ 

<舟

を上

す︒

と記しているように︑その潮流の状況も確認している︒また平戸藩@ 主松浦静山も﹃甲子夜話﹄の中で︑この件について触れている︒

刊本﹃得泰船筆語﹄

とあ

る︒

五四

(16)

この筆語の編者とも言うべき︑野田笛浦について﹃近世漢学者著

述目録大成﹄に和歌山県浜口恵障氏報として︑

名ほ逸︑字は子明︑希一と称し︑笛浦は其号なり︒丹後の人︒

業を古賀精理に受け︑文章を善くするを以て著る︒常時︑斎藤

拙堂・篠崎小竹・坂井虎山と共に文章の四大家と称せらる︒田

辺藩に仕へ︑後ち執政に擢でられ︑藩治文教に於て稗益する所

紗からず︒安政六年七月二十一日卒す︒年六十一︒正五位を贈@ 

るら

とあり希一はその字と知られる︒そして︑羽倉外記が︑得泰船清水 で

ある

館 蔵

とあり︑題筋には上冊﹁得泰船筆語乾﹂︑下冊﹁得泰船筆語

とあ

︒る

本文

︑上

巻︱

︱‑

+‑

︱一

丁︑

下巻

二十

六丁

で︑

上巻

第二

十五

丁に

当る頁数が﹁十八﹂丁と誤植されているのがこの刊本の︱つの特徴

江戸

時代

にお

ける

漂着

唐船

に関

する

一・

ニの

資料

紀藩

開瓜

坤 ﹂

得 泰 船

二 "

笛浦野田先生清客朱劉諸氏 このように関心の持たれた得泰船の漂着であるが︑その際の乗組

員と野田笛浦との間に交された筆談が一般に﹃得泰船筆語﹄上︑下

二巻二冊として流布しているもので︑

く︑表紙の裏側に︑ これには刊行年の記載がな

五五

出帆後︑勘定奉行に差し出した書面に﹁手代野田希一﹂と見え︑そ

⑬ れに﹁戌二月廿二日江戸出立︑同三月七日唐船乗組﹂とあることか

ら笛浦は筆談役として羽倉外記から呼ばれたことがわかる︒二人は

⑭ 古賀精理の同門であった︒また得泰船の乎戸漂泊後︑野田笛浦は五

⑮ 月七日長崎に到着︑その後︑七月五日に長崎を立ち帰府しているか

ら︑最大︑文政九年三月七日より七月五日までの︑彼と︑得泰船乗

組員及び長崎在留中の江芸閣との筆談と言える︒

又︑後述の記事にも関係ある故︑筆談中に出てくる日人に関係し

て言えば︑三月十日付の羽倉外記の書付に︑得泰船には御普役見習

倉橋藤太郎︑外記手代東条健十郎︑筆談野田希一︑そして護送船天

徳丸には︑御普請役元締宮本次郎左衛門︑外記手付筆談兼の大坪本

⑮ 左衛門等の名が知られる︒

尚︑刊本にある﹁紀藩瓢葉館﹂については明らかに出来なかっ

たが︑おそらく笛浦が仕えた田辺藩の藩校であったと思われる︒

@ この刊本が︑﹃得泰船築語﹄の全文と考えられているが︑これと

は内容的に倍する﹁得泰船筆語﹂が存在する︒それが︑滝沢馬琴旧

蔵本

であ

る︒

滝沢馬琴旧蔵﹁得泰船筆語﹂

財団法人東洋文庫︑岩崎文庫蔵に﹃得泰船筆語﹄という写本︵全

一冊︑表紙共六十丁︑二六・八

x

︱八

・八

糎︶

があ

る︒

写本の本文第一丁に︳滝沢文庫︳という蔵書印があり︑その奥書に︑

是書客歳以木村黙老蔵本騰写焉

(17)

彼がこの写本を作らせた経緯については︑日記に見え︑既に指摘

 

した如く︑原本は天保一︱一年十月四日に︑讃岐の江戸詰家老木村亘よ

り借用したもので︑その日は︑日記に﹁流人文政九流寓対問記﹂と

記し

てい

る︒

R

そして︑翌五日に﹁得泰船筆談︑半冊余披閲﹂と見え︑十月十四R 日深川久和島に写本を依頼し︑十一月十日に

とあり︑出来てきたので一二百五十一文の筆写代を支払っている︒そ

⑭ して︑同十五日には木村亘へ原本を返却した︒

その

︑後

る ︒

燈下識

とあって︑滝沢解こと滝沢馬琴が作らせた写本であることが知られ

rF 覚重か︑僕を以︑深川久和嶋雲澄か写し来候︑得泰船筆録原本

共︑被持越︒右筆料三百五十一文井二雲礎へ返翰︑右使江わた

⑬ 

し逍

ス︒

しばらく日記に見えず︑翌四年六月二十五日の条に︑

予︑去冬中写させ候得泰船筆語校訂︒恨写多し︒全六十丁余︑

⑮ 夜二入校し畢゜

とあることと︑先の岩崎文庫本の奥書の記述とが一致するから岩崎

文庫本が馬琴旧蔵本であることは明らかである︒ 点裁以為鎖夏之料天保四年陸月念五祗斎滝沢鮮 筆工恨写多有今絃六月曝書間校訂

滝沢馬琴旧蔵本及「刊本」比較表 (表1)

刊本丁数行数 胃贔本 刊本丁数行数

1  3al‑4a3  I , I 17  I 26a8‑26b3  2  la6‑2al  18  19bl‑9  3  19al‑19b2  19  27al‑28b6  4  4a4‑4b4  20  29a9‑32b8  5  20a9‑20b5  21  下 la2‑lb2 ' 6   4b5‑5a9  22下 2b6‑10b3

7  20al‑8  23  下12a5‑13b5 8  5bl‑lla2  24  下13b8‑18b4

, 

15b9‑16a4  25  下18a7‑18b3 10  20b6‑21a6  26  下18a5‑6 11  21b6‑23b2  27  下18b4‑19a5 12  lla5‑llbl  28  下19b220a5 13  12al‑15b8  29 下20b5‑24b2

14  23b326a6 30  下25a6‑26bl

15  16b3‑17b2  31  la2‑5  16  2a2‑2b5 

〇滝沢本は筆談順のままとし,刊本の該当丁 数,行数を示す(上冊,下冊のうち上冊は 上を省略した)。

(記入例:下12a5‑13b5(刊本下巻(下冊) 12 

丁表5行目より13丁裏5行目) (a表, b裏))

語抄﹂とあり︑筆談の部分の配列にもかなりの相違が見られる点は

別表︵表一・ニ︶の通りである︒また︑筆談内容の出入する箇所も そして刊本と多く重複する記述の箇所は︑滝沢本では﹁得泰船筆 の記述量に相当している︒ その後︑天保五年八月二十八日より同十月二日まで山本宗洪に貸R していることが知られる︒

以上日記の記述から︑馬琴旧蔵本の校訂は木村亘原本返却後︑馬琴

のみの更訂であって︑原本の字句との校訂ではないことが知られる︒

次に︑滝沢馬琴旧蔵﹁得泰船筆語﹂と流布刊本とが大きく相違す

る点を言えば︑滝沢本は︑文政九年三月七日つまり笛浦乗船から四

月三十日まで︑日を追って記された筆談があることで︑それは刊本

五六

(18)

滝沢本「刊本」華談順配列表 (表2) 江

戸 時着関代船唐に瀕るけおにする一・ニの資料

刊本順 滝沢本番号 刊本順 滝沢本番号 刊本順1 滝沢本番号

31  23  H  45  Q  2  2  24  7  46  22 

3  16  25  5  47  R 

4  A  26  10  48  22 

5  1  27  I  49 

6  4  28  14  50  22  7  6  29  17  51  T  8  8  30  J  52  23 

, 

31  甲 53 

10  8  32  19  54  24 

11  C  33  K  55 

12  12  34  19  56  24  13  D  35  L  57  26  14  13  36  20  58  25  15  E  37  M  59  27  16  13  38  20  60 

17 

, 

39  N  61  28  18  F  40  20  62  X  19  15  41 

63  29 

20  G  42  21  64  Y  21  18  43  p  65  30  22  3  44  22 

〇刊本の筆談順に該当する滝沢本 の番号を記入した。内 A ‑ Yほ 滝沢本に欠落している筆談を示 し,その丁数を「滝沢馬琴旧蔵 本及刊本比較表」にならって記 入した。甲は中山本による。こ れは附載資料の補遺に記した。

滝沢本欠落筆談刊本丁数行数表

五七

•9.,.,.,.,.,.,.,.,.,.,., A

B C D E F G H I J

甲k

2b6‑9  9b4‑7  lla3‑4  llb2‑9  13al‑3  16a516b2 17b3‑18bl  19b3‑9  2la7‑2lb5  26b4‑9  中山本(補遺)

27bl‑2 

L ; 28b8‑29a8  M;  29b3‑7  N;  3lbl‑3  O ;  32b9‑33a5  p; 下 lb3‑2b5 Q; 下 5a2‑3 R; 下 7a2‑5

s ;  

下 Sbl‑4

T; 下10b4‑12a4

U; 下13a613b7

V; 下15b7‑16a3

w; 

下19a619bl

X; 下20a7‑20b4

y; 下24b3‑25a5

(19)

﹁清

水筆

語﹂

上述の﹁得泰船筆語﹂以外に︑得泰船乗組員と日人との間の筆談

の記録としてまとまったものに﹁清水筆語﹂がある︒

これは︑取り調べに関係した羽倉簡堂等を中心としたもので︑既

にその全文が﹃通航一覧続輯﹄に見えている︒その原典を﹁視聴草﹂

とある︒これは現在︑国立公文書館内閣文庫に所蔵されている未刊

餌 笛中山久四郎氏旧蔵﹁得泰船筆語抄﹂

さらに東京大学史料編纂所に﹁得泰般筆語抄﹂︵表紙題策︶とい

⑲ う写本があり︑これには昭和二十八年三月三十日付で中山久四郎氏

よりの寄贈と記されている︒

⑱ 中山氏は︑近世日中文化交渉史研究の先学であり︑本稿ではこの

﹁得泰船筆語抄﹂を︑中山久四郎氏旧蔵本としておく︒

この中山本は本文四十九丁半の写本で︑流布刊本と筆談内容・配

列ともほぼ一致している︒

⑲ ただ刊本と相違する点は︑巻頭に江芸閣の文政十年︵道光七︑

八二七︶の野田笛浦にあてた書簡文がつけられていること︑それに

筆談部分で︑刊本に無い箇所が一部分含まれている点である︒両方

とも︑附載資料の補遺として記した︒

さらに︑中山本は︑刊本のように上・下二巻に分巻しておらず︑

筆談が一貫して同様の形式を保って続いている点である︒以上が︑

東京大学史料編纂所蔵︑中山久四郎寄贈本の特徴である︒ か

なり

ある

R ﹁視聴草﹂のことで︑その第十六冊︑二集第六の﹁文政九年寧波船

一件﹂中に﹁清水筆語﹂とあるものであろう︒その冒頭に︑

厘 簡 堂 匿 笛 浦 護 見 龍

漏︳啓堂圏聖学一成︳柳橋

とあることからも明らかなように︑日本側ほ羽倉簡堂︵外記︶︑

田笛浦︑徳田見龍であり︑中国側は楊啓堂︑劉聖学︑朱柳橋等計六

人の間に交された筆談であることが知られる︒

﹃近世漢学者著述目録大成﹄によれば︑羽倉簡堂の著R 述の中に﹁清水筆語﹂をあげている︒この筆談の中心人物が羽倉簡

堂であったからであろう︒R 羽倉簡堂は当地の代官であったから︑この﹁清水筆語﹂の成立時

期は︑得泰船の漂着から︑清水港出帆三月九日までの時期︑そしR て︑羽倉外記が唐船に乗組んだ最初は一月二十日であるから︑最大

上限とすることができるものの︑筆談中に野田笛浦のものが含まれ

ていることと︑彼が唐船に乗船したのは三月七日であることから︑

筆談者六名が一堂に会してとなるとこの﹁清水筆語﹂がなされた月

日は︑三月七日から︑九日の間に限定され︑時間的な余裕からする

と七日か八日かにされた筆談と考える︒

また︑筆談の内容は先に記した﹁得泰船筆語﹂とは抵触せず︑得

泰船の構造に関する箇所で触れた如く︑興味深い内容を多く含んで

いる

︒ と

ころ

が︑

清水筆語

五八

(20)

以上︑江戸時代における漂着唐船に関する資料の一っとして﹁得 泰船筆語﹂を取りあげ︑その筆談成立に到る経過及び︑﹃得泰船筆 語﹄と名付けられた流布刊本と相違する滝沢馬琴旧蔵本︑中山久四 郎氏旧蔵本の存在を指摘し︑筆談配列の相違点を中心に述べてきた わけであるが︑現在のところ︑刊本と二種の写本との相互関係を解

明できる資料が得られない︒

流布しているものは︑

ただ︑滝沢本︑中山本の存在から考えられることは︑刊本として

﹁得泰船筆語﹂の抄本であって︑全本でない

こと

から

︑ おそらく︑中山本かあるいはそれに類する写本がその原 本とされ︑編集の手が加えられ二巻に分けられ刊行されたものと思 われる︒そして︑中山本も滝沢本の﹁得泰船筆語抄﹂を元に今日の

つまり筆談構成に編集されたと考えられる︒

よう

な写

本に

これに関して︑滝沢本︑中山本では﹁秋嶽﹂︑﹁笛浦﹂とある箇所

が︑刊本では﹁啓堂﹂とあり︑その逆の例が一っ続く箇所︵刊本下 巻︑十八丁表五行目より十八丁裏三行目まで︶が見られることか ら︑中山本は滝沢本に近いと思われる︒ただ︑中山本には︑換言す れば︑刊本には︑滝沢本にほ見られない筆談記事を含んでいる点で

ある︒それは何本に拠ったのかは不明である︒

このような疑問点はあるものの︑滝沢本に見られる文政九年一二月

七日から四月一二十日までの清水から平戸までの筆談記録と︑さらに

江戸

時代

にお

ける

漂着

唐船

に関

する

一・

ニの

資料

五 ︑

お わ り に

④ ③ ② ① 

五九

抄本いわゆる﹃得泰船筆語﹄に当る部分を含んだものが本来の﹁得 泰船筆語﹂であったと考えられるから︑滝沢本は︑筆談当時の原形 この筆談に関係ある﹁清水筆語﹂の方は︑得泰船が遠州に漂着

し︑そこを離れる文政九年三月七日から八日までの間になされた筆 談と考えられるから︑時間的に﹁得泰船筆語﹂に先行した筆談とい 上述の如く︑江戸時代の﹁鎖国﹂下において漂着唐船の乗組員と

日人との間に交された情報交換の一種とも言うべき筆談記録そのも のにも資料として種々の問題を含んでいることを指摘したが︑この

﹁得泰船筆語﹂以外にも漂着磨船の多くの事例が知られる故︑今後

さらに調査検討して行きたいと考えている︒

荒川

秀俊

氏﹃

日本

票流

・漂

着史

料﹄

︵地

人書

館︑

一九

六二

年十

二月

︶︒

川合

彦充

氏﹃

日本

人襟

流記

﹄︵

現代

教捉

文庫

59

8︑

一九

六七

年十

二月

︶︒

岡田

信子

氏︵

法政

史学

2 6 ︑

一九

七四

年三

月︶

石井

研堂

氏編

﹃校

訂源

流奇

談全

集﹄

︵続

帝国

文庫

︑一

00

年 ︶ ︒

同氏

編﹃

異国

漂流

奇諏

集﹄

(‑

九二

七年

︑一

九七

一年

十二

月新

人物

来社

復刊

︶︒

荒川

氏前

掲書

同氏

﹃異

国漂

流記

集﹄

(‑

九六

二年

七月

︑気

象研

究所

︶︒

同氏

﹃異

国標

流記

続集

﹄(

‑九

六四

年三

月︑

気象

研究

所︶

同氏

﹃近

世漂

流記

集﹄

(‑

九六

九年

八月

︑法

政大

学出

版局

︶︒

同氏

﹃異

国漂

流物

語﹄

︵現

代教

狸文

庫 6 7 7 ︑

一九

六九

年十

二月

︶︒

川合

彦充

氏前

掲書

うことが言えるであろう︒ あるいはそれに近いものと言えるであろう︒

(21)

池田皓氏編﹃日本庶民生活史料集成第五巻漂流﹄

三一

書房

︶︒

佐藤三郎氏﹁江戸時代に於ける日本人の海外漂流ー中国漂着の場合を

中心として﹂︵山形大学紀要︑人文科学三ー四︑一九五七年三月︶︒

などの論著がこの他もに多数あり︑主なものを記した︒

⑤菊地玉氏﹁清国船岩槻藩領房州千倉浦漂着の顛末﹂

H1

回︵埼玉史

談ニ︱│‑︱‑︑四︑ニニー一︑一九七四年十月︑一九七五年一月︑七月︶︒

大村進氏﹁安永九年房州千倉浦南京船漂着一件﹂︵埼玉史談ニニー

三︑ 一九 七五 年十 月︶

福原和氏﹁漂客紀事︵南京船千倉沖に漂着の記︶﹂︵千葉文華九︑一

九七 五年 十一 月︶

原口扁舟氏﹃房州千倉文書︵聾琴

B)﹄︵岩槻郷土図書刊行会︑一九七七

年五

月︶

矢代嘉春氏﹁近世密貿易史話ーツェンペル紀行と元順号始末ー﹂︵<

ろしお文化8︑︹千葉県勝浦︑黒汐資料館︺一九七八年十月︶︒

以上が︑安永九年の沈敬贈船主の房州漂着に関する近年の研究であ

る︒

他に

杉原隆氏﹁日中交渉史における山陰海岸の位置

HI

近世地方文書と

清朝史料にみる漂流・漂着民の実態と処置ー﹂︵山陰史談︑一九七七年

十月︶があり︑山陰海岸に漂着した中国船等について研究されている︒

⑥大庭脩教授﹃江戸時代における唐船持渡書の研究﹄︵関西大学東西

学術研究所︑一九六七年三月︶︒

中村質氏﹁近世における唐船の積荷と乗組員ー関係史料とその性格

について1山﹂︵九州産業大学商経論叢12の1

︑一 九七 一年 七月

︶︒

⑦﹃徳川禁令考﹄前集六︵創文社︑一九五九年九月︶四三一頁︒

⑧片桐一男氏﹃呻暉対外応接関係史料﹄︵近藤出版社︑一九七二年六月︶

三三

頁︒

⑨﹃御触書天明集成﹄二九二六︵八四八頁︶︑﹃新訂増補国史大系47︑徳

︵一 九六 八年 九月

川実記10︑浚明院殿御実記﹄︑明和三年二月二十五日条︵ニ︱三頁︶︒

⑩拙稿﹁中国商人の見た﹁大江戸の世﹂ー﹃得泰船筆語﹄を中心にー﹂

︵毎日新聞社﹃日本史の謎と発見10大江戸の世﹄月報囮︑一九七九年五

月 ︶ ︒

⑪拙稿﹁乾隆時代の長崎来航中国商人ー江縄武・狂竹里・程赤域を中心

にー

﹂砿 唖1 0︑ 一九 七八 年六 月︶

⑫﹃袖海編﹄︵昭代叢書戊集第

2 9 ︑ 小方 壺斎 輿地 叢紗 十峡

︶︒

⑬拙稿﹁日清貿易における長崎来航盾船についてー清代鳥船を中心に﹂

上・ 中・ 下︵ 史泉 47

︑ 4 8 ︑

4 9 ︑一九七三年九月︑一九七四年三月︑九

月 ︶ ︒

⑭刊本﹃犯科帳﹄⇔︵犯科帳刊行会︑一九六

0

年二月︶二七二頁︒前掲

⑬拙稿下︑三六

i ‑

︱ ︳

七 頁︒

⑮大庭教授﹃唐船進港回棒録︑島原本唐人風説書︑割符留帳ー近世日中

交渉史料集│﹄︵関西大学東西学術研究所資料集刊九︑一九七四年三月︶

一六

i

一六

五頁

⑯﹃長崎文献叢書第一集四巻続長崎実録大成﹄︵長崎文献社︑一九七

四年十一月︶二四六頁︒

⑰拙稿﹁長崎貿易における在唐荷主についてー乾隆

i

威豊期の日清貿易

の官商・民商ー﹂︵社会経済史学

4 5 の1

︑一 九七 九年 六月

︶︒

⑱拙稿「長崎来航唐船の経営構造について—特に乾隆・嘉慶・道光期を

中心にー﹂︵史泉

4 5 ︑ 一九 七二 年九 月︶

⑲ 前 掲

⑬ 拙 稿

m

三六

l ‑

︱ ︳

七 頁︒

⑳前掲⑬拙稿山︒

⑳刊本﹃通航一覧続輯第二﹄︵清文堂出版社︑一九六八年九月︶

6 9 頁 ︒

⑳大庭教授﹁平戸松浦史料博物館蔵﹃唐船之図﹄についてー江戸時代に

来航した中国商船の資料ー﹂︵関西大学東西学術研究所紀要5︑一九七

二年

三月

︶︒

0

(22)

一九二八年五月︶︑羽倉簡堂

﹃ 通 航 一 覧 続 輯 第 二

﹄ 一 頁

⑳﹃続長崎実録大成﹄二八四ーニ八六頁︒

⑰﹃通航一覧続輯第二﹄六十ー六十六頁︒

⑳前掲⑱拙稿二五ーニ八頁︒

⑳刊本﹃通航一覧第六﹄(‑九一四年十一月︑

版複刻︶九六

1 ‑

︱五

頁︒

﹃清

舶筆

話﹄

⑳東京都立中央図書館︑近藤記念海事財団文庫

7 5 1

﹁唐船の絵︑伏見和吉

4 7 x 1

0 7 c m

﹂︵

目録

1

六頁

︶︑

同 7 5 0

﹁︹ 唐船 之図

︺︑ 文政 九写

58

X4

5c

m)

であ

る︒

R 山 田 琢 氏 訳 註

﹃ 憔 堂 日 暦

1﹄︵平凡社︑東洋文庫

1 6 9

︑一九七

0

年八

月︶ 二九 二頁

⑫同書︑二九四ーニ九五頁︒

R暉峻康隆氏他校訂﹃馬琴日記﹄第一巻︵中央公論社︑一九七三年五月︶

十一

頁︒

⑭ 前 掲

﹃ 嫌 堂 日 暦

1﹄ ‑ ︱

1 0

頁︒

R

﹃ 憔 堂 日 暦

2﹄︵平凡社・東洋文庫

2 1 3

︑一九七二年六月︶二四頁︒

R同書︑二五頁︒

⑰同書︑二六頁︒

魯 同 書

︑ 二 七 頁

︒ R同書︑二七頁︒

@中村幸彦氏他校訂﹃甲子夜話

5﹄︵平凡社東洋文庫

3 3 8

︑一九七八年九

月︶

1 0

六頁︵巻七四︶︑二三ニーニ三七頁︵巻七五︶︒

@関儀一郎・義直氏編﹃近世漠学者著述目録大成﹄︵東洋図書刊行会︑

一九

四一

年四

月︶

三九

︳︱

‑頁

⑬﹃通航一覧続輯第二﹄一

0

三頁

⑭竹林貫一氏﹃漢学者伝記集成﹄︵関書院︑

の項︵︱‑三二

1

︱一 三四 頁︶ 参照

R﹃長崎志続編﹄巻八︑刊本ニニ七頁︒

江戸時代における漂着唐船に関する一・ニの資料 一九六七年四月清文堂出

‑'‑

⑯﹃通航一覧続輯第二﹄一

0 1 1 0

頁︒

⑰﹃国書総目録﹄六巻一四五頁︵岩波書店︑一九六九年四月︶には﹁得

泰船筆語︑二巻二冊﹂とし︑写本の項に後述の財団法人東洋文庫岩崎文

庫本︑東大史料編纂所本を掲げている︒

⑱拙稿﹁滝沢馬琴と得泰船筆語ー江戸時代漂着唐船の資料と収集ー﹂

︵関西大学東西学術研究所々報

3 1 ︑一九八

0

年二

月︶

⑲﹃増補高松藩記﹄︵永年会︑一九一二二年三月︶によれば︑木村亘は文

政六年三月一日に家老となり︵三四二頁︶︑文政十二年十一月十三日付

で江戸詰を命ぜられ︵三六

0

頁︶︑天保五年十一月十二日︵三七八頁︶

までであった︒その後︑嘉永五年十月二十九日に家老職を辞している

︵四五三頁︶︒それ故︑文政十二年十一月より天保五年十一月までが江

戸在勤であった︒

R暉峻康隆氏他校訂﹃馬琴日記第一二巻﹄︵中央公論社︑一九七三年九 月︶

0

九頁

︒⑱ 拙稿

⑪同書︑ニー

0

頁 ︒

R同書︑ニ︱六頁︒

R同書︑二三四頁︒

⑭同書︑二三八頁︒

R同書︑四一四頁︒

R﹃馬琴日記第四巻﹄︵中央公論社︑一九七一二年十一月︶一九

0

︑ニ

三頁

⑰東京大学史料編纂所図書目録﹃第二部和漠書写本編9﹄︵一九七六

年三月︶に﹁得泰船筆語抄﹂︵図書請求番号四一

0

九ー五︶が知られる︒

⑬この分野の中山氏の代表的論文は﹁近世支那の日本文化に及ぽしたる

勢力影響︵近世支那を背景としたる日本文化史︶﹂︵史学雑誌

2 5 の23︑︑ 47︑8

︑ 1 0 ︑

1 2

2 6 の2各号︑一九一四年二月

1

一九

一五

年二

月︶

︒ R﹃割符留帳﹄によれば︑江芸閣は︑文政九年四月十九日夕刻に戌一番

へ船財副として長崎に来航し︵大庭教授前授⑮書︑一七八頁︶︑そしてこ

(23)

の船 は同 年八

月二

八日 に信 牌を 給牌 され てい る︵ 同書

︑一 八七

頁︶

から

この日に帰帆したと思われ︑江芸閣もこれで帰国したとすると︑先に指摘した野田笛浦の在長崎期間︵文政九年五月七日より七月五日まで︶と

も合

致す

る︒

R﹃通航一覧続輯第二﹄六七ー七三頁︒

@国立公文嵩館・内閣文庫︑図魯番号︵ニ︱七ー三四︶︒

R﹃近世漠学者著述目録大成﹄三九七頁︒

R﹃通航一覧続輯第二﹄六頁︒又︑彼のことは中城直正氏﹁羽倉簡 堂﹂

︵歴 史地 理

61 3

︑一

0

九年 六月

︶︑ 同氏

﹁﹁ 羽倉 簡堂

﹂正 誤並 補 遣﹂

︵歴 史地 理

1 42

︑一

0

九年 八月

︶が 参考 とな る︒

@﹃通航一覧続輯第二﹄五四頁︒

Rその一例として︑先に触れた安永九年房州漂着元順船で︑籠談として は児玉宗吾︵南桐︶編の刊本﹃慄客紀事﹄がある︒

︵図

書番

号︑ 岩崎文庫

X l

ー四ー一

00

七︶を全文翻刻した︒

一︑文中の体例は右写本に倣うも︑改行は同じではない︒尚︑便

一︑文中の︹

宜上写本本文の各丁数を示した︒

]は︑三月七日条よりの前半は右写本の注記に︑

後半の﹁得泰船筆語抄﹂は刊本﹃得泰船筆語﹄上・下二冊本 に 拠 り 補 っ た

︶ は 翻 刻 者 が 補 足 し た

一︑財団法人東洋文庫・岩崎文庫蔵﹁得泰船筆語﹂

〇滝沢馬琴旧蔵﹁得泰船筆語﹂

頁︶滝沢本の番号を示す︒同︑

︵表二︑五七頁︶の滝沢本中の欠落筆談を示す︒

一︑翻刻に当り印刷の都合上︑新字を用いた︒

得 泰 舷 筆 語

表紙題妓 ︹A︺

i

y

y

︹甲︺ほ別表 ﹁得泰船筆語抄﹂中の

︹ ー ︺

i

3 1 ︺

は別表︵表一︑五六 ,. 

︺して字句を挿入した︒

に附

し︑

刊本との問に相違が見られる場合はさらに右横に

﹁得泰船筆語抄﹂中の右横縦線は︑右刊本に見られない箇所

ー 」 / ~

(24)

八日

得 泰 船 筆

得泰船筆語

劉聖学云︒我等領意︒且感貴邦仁恩゜秋嶽云︒聞及︒昨天頭前去押当唐人︒上護船︒尚有二席在留︒祢杓随使一人︒補其一席︒余一席︒均儘千水先五人︒其他宴無別処可商︒只得去衣箱東西的一道︒方能梢為寛空︒但我等三名随使︒不寝這席︒夜間要用的時分︒不便呼喚︒個弥杓随使六人︒減其半︒寝他席

︒若

何゜

朱柳

橋云

︒我

門一

︳一

名︒

与総

管商

之︒

後刻

答了

秋嶽云︒遠州口外揮送之時︒梢致遅惧︒今天午後早起大掟︒可試其

無障

擬゜

土瓶三十把須照受︒

1 b

劉聖学云︒現在風色甚佳︒望筋令脩斉小船︒以便本船︒即速起揮︒

勿遅

︒是

感︒

秋嶽云︒侯羽倉大頭目至船商議︒可行則行︒現在大頭目問日本舵工︒

云︒今日不可開行︒

劉聖学云︒領意︒

l a

文政

九年

一︳

一月

初七

日 劉聖学云︒本船因風欠佳︒漂泊貴地︒蒙東都諸凡厚待︒而且有累一︱︱

君護送︒同受客中苦況︒我等深為抱鰍︒

秋嶽云︒吾邦官府︒深知本船漂流︒故今格外加意体郎︒勧令送至長

崎︒至於諸事一切︒宜遵官府所諭︒而途中行止︒須憑日本舵工指示︒

我等

︱︱

一名

併随

使水

手十

四人

︒及

弥本

船人

︒一

路均

安是

︒望

薔沢 庫文

六 一

3a

劉聖学云︒本船起揖︒前往長綺︒沿途収泊港口︒先有信通達否︒ 九

日 可 秋嶽云︒町嘱各処地方官︒赴緊摘進︒倫有不便当的事︒

︒不

要計

較゜

朱柳橋云︒早為捧進至港内︒是要︒如有不便之事︒当奉告也︒

秋嶽云︒起身一切︒等護船揚火把゜

劉聖学云︒今日平風静浪︒小船為何不至゜

秋嶽云︒操水先︒云︒薄晩潮順︒小船可捧゜

劉聖

学云

︒得

悉゜

又云︒行船須要灰定︒令衣箱穏当︒

秋嶽云︒領意︒領意︒費心得狼゜

劉聖学云︒行船諸公出進︒需要小心︒本船純索甚大︒謹防帯慨︒

︹秋嶽云︺我等当留神︒勿記念︒

漂民三名︒乞細煙三禁︒祢門代我交付他︒不然目侶均要之︒

2

b

劉聖学云︒本船水手︒恨総管要出巷︒現在風色不好︒水手等︒挙而

打之

︒以

致哭

秋嶽云︒総官畢党無勢︒是所以致目侶侵凌︒請勧伊放大須︒

劉聖学云︒望扮附附十廿艘小船︒捧住本船︒以便本船︒従小船行之︒

因難暗裡前行之故︒

秋嶽云︒現在︒已扮附随便︒叫小船前行引道︒

十日

2a

︱︱

講得

図 1 得 泰 船 の 図 (出典:樋口弘氏編『長崎浮世絵』(味燈書房, 1 9 7 1 年 6 月 ) 8 8 ,  唐船荷揚之図 ( p . 8 7 ) ) 図 3  得 泰 ^図 船 2  の に 同 図 i じ 罵 <諮'750 呟 ` .. 議; &lt; '   召這,.笞 唐 i ヽ

参照

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