朝鮮国漂着中国船の筆談記録にみる諸相
その他のタイトル Aspects Observed in Records of Written Dialogues Concerning Chinese shipwrecks in Joseon‑dynasty Korea
著者 松浦 章
雑誌名 関西大学東西学術研究所紀要
巻 47
ページ 57‑69
発行年 2014‑04‑01
URL http://hdl.handle.net/10112/8430
朝鮮国漂着中国船の筆談記録にみる諸相
松 浦 章
Aspects Observed in Records of Written Dialogues Concerning Chinese shipwrecks
in Joseon-dynasty Korea
MATSUURA Akira
It was Chinese sailing ships that most extensively plied the waters of pre- modern East Asia, and such vessels were frequently shipwrecked on the shores of Joseon-dynasty Korea, Tokugawa Japan, and the Ryukyu Kingdom. In many cases, the shipwrecked crews were able to converse with local rescuers only through the medium of writing, using the Chinese characters ( ) commonly understood throughout the region. Records of many such written dialogues have been preserved in collections of historical documents from Joseon Korea and Tokugawa Japan. This paper explores the characteristic features observed in such dialogues, focusing primarily on records of written communications between the crews of shipwrecked Chinese sailing vessels and offi cials of Joseon Korea.
Keywords: East Asian sea lanes; written dialogues; Qing China; Joseon Korea;
Chinese sailing ships
1 緒言
前近代の東アジアにおいて海難事故に遭遇して異国に漂着した人々がどのように言語接触を 行ったのであろうか。その一形態として、朝鮮国に漂着した呂宋の人々の例や、中国に漂着し た朝鮮国人について考察した。何れの場合も相互の会話が「言語不通」であり、文字による言 語接触も困難であった、過去に海難に遭遇した人々の援助を得て事情が判明している1)。 それでは会話に依らずに文字表現によって言語接触した事例にはどのようなものがあったか について考えてみたい。すでに日本に漂着した中国船の筆談記録の一部は、東西学術研究所の 注に列記した資料叢刊によって九冊が刊行された2)。これらから江戸時代中国船の筆談記録の一 端を知るのに参考になろう。
文化五年(1808)に土佐に漂着した中国の沿海商船の乗員を救済するに際して取り調べに加 わった戸部徳進春行輯『江南商話』によれば、
文化五年戊辰(嘉慶十三、1808)十一月念七日、江南商船遭遇風難、飄到于吾土佐國安藝 郡奈良志津浦、…臣亦以楮墨換舌、及其餘裔、毎會往復探討3)、…
とあるように、楮を原料とする紙と墨を使って「換舌」と会話に準じたことを行ったと記して いる。紙と筆による筆談を行ったのであった。
文政八年(1825)に大井川の河口付近に漂着した中国からの長崎貿易船得泰船の乗員と清水 から長崎まで応接にあたった野田笛浦と乗員の清客朱、劉諸氏との間で交わされた『得泰船筆 語』(文政九年三月刊)には、
筆 浦 問答須憑筆
1 ) 松浦章『一九世紀初期に朝鮮・中国へ漂着した難民との言語接触』思文閣出版、2010年11月、255〜283 頁。
2 ) ①大庭脩編著『宝暦三年八丈島漂着南京船資料』関西大学東西学術研究所資料集刊13 1、関西大学出版 部、1985年 3 月。②田中謙二・松浦章編著『文政九年遠州漂着得泰船資料』関西大学東西学術研究所資料 集刊13 2、関西大学出版部、1986年 3 月。③松浦章編著『寛政元年土佐漂着安利船資料』関西大学東西学 術研究所資料集刊13 3、関西大学出版部、1989年 3 月。④松浦章編著『文化五年土佐漂着江南商船郁長發 資料』関西大学東西学術研究所資料集刊13 4、関西大学出版部、1989年 3 月。⑤大庭脩編著『安永九年安 房千倉漂着南京船元順号資料』関西大学東西学術研究所資料集刊13 5、関西大学出版部、1991年 3 月。⑥ 藪田貫編著『寛政十二年遠州漂着唐船萬勝號資料』関西大学東西学術研究所資料集刊13 6、関西大学出版 部、1997年11月。⑦松浦章編著『文政十年土佐漂着江南商船蔣元利資料』関西大学東西学術研究所資料集 刊13 6、関西大学出版部、2006年11月。⑧松浦章編著『安政二・三年漂流小唐船資料』関西大学東西学術 研究所資料集刊13 8、関西大学出版部、2008年 3 月。⑨松浦章編著『文化十二年豆州漂着南京永茂船資料』
関西大学東西学術研究所資料集刊13 9、関西大学出版部、2011年 2 月。
3) 松浦章編著『文化五年土佐漂着江南商船郁長發資料』関西大学出版部、1989年 3 月。 5 頁。
劉聖孚 言談在此書。4)
とあるように、紙と毛筆を用いて応答を行った記 録として、後日出版されたものではあるが、ここ でも紙と筆による漢字を媒介として筆談が行われ たのであった。
また寛政十二年(1800)に遠州に漂着した長崎 貿易船萬勝号の乗員の場合は、日本側役人と中国 船の乗員とが筆談による応酬を行った光景が「船 中應對之事」5)の圖として残されている。そこでは、
船主の劉然乙が紙と筆を用いて筆談を行う光景を まさしく描いているのである。
このように東アジアに共通する漢字が言語接触 の際に重要な異文化交流の手段となったのであっ た。
この他に、琉球諸島に漂着した中国船のものは
『白姓官話』として知られる6)。さら朝鮮王朝時代の朝鮮国に漂着した中国船に関する筆談記録も 管見の限り80余例が知られる7)。
そこで本稿では、朝鮮王朝時代の朝鮮国に漂着した中国船の筆談記録に見られる幾つかの特 徴に関して述べてみたい。
2 朝鮮国漂着中国船の筆談記録に見る諸相
朝鮮半島には地理的環境から中国大陸と朝鮮半島との間に介在する黄海を航行していた中国 帆船が多く漂着し、朝鮮王国の官吏が中国船の難民を調査した記録が残されている。その中で も詳細な記録を残した朝鮮王朝の記録である『備邊司謄録』に中に見られる中国船の記録を一 覧にしたものが次の表 1 である。
4 ) 田中謙二・松浦章編著『文政九年遠州漂着得泰船資料』、関西大学出版部、1986年 3 月、137頁。
5 ) 藪田貫編著『寛政十二年遠州漂着唐船萬勝號資料』関西大学東西学術研究所資料集刊13 6、関西大学出 版部、1997年11月、口絵第 5 図、73頁。
6 ) 松浦章「琉球『白姓官話』成立の背景」、松浦章『清代中国琉球交渉史の研究』関西大学出版部、2011年 10月、232 246頁。
7 ) 松浦章編著・卞鳳奎編譯『清代帆船東亞航運史料彙編』楽学書局、2007年 2 月、1 187頁。
表 1 「問情別単」に見える漂着中国帆船表
資料 西暦 中国暦 船主又船戸 船籍 船行地名 乗船者数 船員 客
1 1617 万暦45 薛万春 閩県 福建→寧波府→福建 41 14 26
2 1687 康熙26 顧如商 蘇州府 蘇州→日本 67 ― ―
3 1704 43 王富 泉州府 泉州→日本 116 ― ―
4 1706 45 車琯 蓬萊 萊陽→蘇州 13 9 3
5 1713 52 王裕 同安 泉州→日本 42 ― ―
6 1732 雍正10 夏一周 南通州 南通州―山東→関東 16 16 0
7 1760 乾隆25 林福盛 同安 泉州→山東→泉州 24 19 5
8 1762 27 孫合興 寧波府 寧波→上海→山東 22 19 3
9 1763 28 楊難 崇明 崇明→関東・海州 10 ― ―
10 1774 39 曲欽一 福山 福山→奉天 25 25 0
11 1777 42 趙永礼 寧海 寧海→山東 7 7 0
12 1777 42 秦源順 崇明 崇明→天津 15 13 2
13 1777 42 金長美 天津 天津→広州→天津 29 24 5
14 1786 51 張元周 栄成 漁船 4 4 0
15 1791 56 安復䖻 福山 福山→金州 21 16 5
16 1794 59 邱福臣 蓬萊 登州→奉天 51 7 44
17 1800 嘉慶 5 唐明山 南通州 南通州→萊陽 7 7 0
18 1805 10 傅鑑周 宝山 上海―天津→山東 22 21 1
19 1808 13 龔鳳来 元和 上海―南通州→膠州 16 16 0
20 1808 13 陳仲林 鎮洋 江南→関東・金州 13 13 0
21 1808 13 阮成九 蓬萊 寧海州→奉天 40 26 14
22 1813 18 黄万琴 同安 泉州―台湾→天津 22 20 2
23 1813 18 黄全 海澄 同安―台湾―上海→西錦州 47 36 11
24 1813 18 黄宗礼 同安 同安―天津→錦州 73 50 23
25 1819 24 呉永泰 海澄 海澄→西錦州 30 30 0
26 1824 道光 4 石希玉 海澄 海澄→蓋平 37 37 0
27 1824 4 潘明顕 丹陽 青口―上海―関東→上海 14 14 0
28 1826 6 朱和恵 䥭県 鎮海―天津→山東 16 16 0
29 1829 9 王箕雲 文登 文登→南城(江蘇) 3 3 0
30 1836 16 沈拙 詔安 詔安―饒平→天津 44 34 10
31 1837 17 劉日星 首陽 首陽→錦州 3 3 0
32 1839 19 徐天禄 黄県 黄県→奉天 11 11 0
33 1852 咸豊 2 朱守賓 登州 登州―老口灘→金州 6 6 0
34 1855 5 馬得華 崑山 江南―天津→烟台 31 23 8
35 1858 8 劉青雲 栄成 栄成―洋河口→威海口 10 10 0
36 1858 8 趙汝林 上海 江南―奉天→江南 21 21 0
37 1859 9 曲会先 栄成 栄成―海上→江北営 12 10 2
38 1877 光緒 3 李培増 文登 登州、漁船 3 3 0
39 1880 6 孫作雲 文登 文登、漁船 10 10 0
40 1880 6 許必済 汕頭 広東―暹羅→烟台 27 10 17
(注) 航行地名中の―は航行の完了を示し、→は航行の途中を示す。
これらの記録から筆談の形態の特徴の一部分を抽出して述べてみたい。
1 )中国漂着船の筆談記録に見える「俺們」と「我們」
朝鮮国官吏が中国船乗員との間で行った筆談の記録の中から、人称代名詞をどのように記し たかを見てみたい。それは「俺們」と「䓟們」に大別される。
① 「俺們」の事例
乾隆四十二年(1777)十月二日珍島漂着船(『備邊司謄録』第百五十八冊、正租元年丁酉十一月 二十五日條、刊本15冊525〜527頁)
○珍島漂人問情別單
・問、儞們、漂到我境之後、冒寒作行、其無辛苦否。
・答、沿路款待、出於望外、衣以厚衣、饋以美膳、貴國恩德、山高海深。
・問、儞們中有病者誰耶。
・答、俺們中王榮來、感風寒患痰喘、不能騎馬握舁以到、而病勢則不至大□矣。
・問、儞們共幾人。
・答、同來者七人。
この筆談では、第二人称として「儞們」を、第一人称として難民等は「俺們」を使用してい る。この筆談記録の文体は古典的な文体として見ることができよう。その中でも「俺」は口頭 語の語彙として知られるもので、文言の「某」や「吾」とは異なるとされる8)。
これに対して、乾隆五十一年(1786)正月二十六日靈巖楸子島漂着船(『備邊司謄録』第百六 十八冊、正祖十年丙午三月十一日條、刊本16冊645〜650頁)の次の筆談は明らかに古典的な文 体とは相違する特徴的な筆談記録と言えよう。
○靈巖楸子島漂人問情別單 問、儞們遭風漂到好辛苦了。
8 ) 香坂順一『白話語彙の研究』光生館、1983年 6 月、 8 頁。
答、辛苦辛苦。
問、儞們是那裡的人。
答、俺們是大國山東省登州府榮成縣人。
問、儞們民家麼、旗下麼。
答、俺們都是民家。
問、儞們雖是民家、有何當差麼。
答、無身役當差。
問、儞們緣何漂到我們地方。
答、俺們在本地內洋、張網打魚、遭風漂到了。
特にこの筆談には「辛苦了」、「那裡的人」、「民家麼」などの中国語の口語的な表現が筆談の 中で見られる。香坂順一によれば、「了」の古典語の「也」にかわって明末頃から使用例が多く 見られるようになった語彙である9)。「民家麼」の「麼」は疑問文を構成する助詞として口頭語に 使用されてきた語彙である10)。この事例からも知られるように、明らかに朝鮮官吏は難民が中国 人として応接していたことがわかると同時に、朝鮮官吏も中国語の口語を理解していたと見ら れるであろう。
② 「我們」の事例
康煕五十二年(1713)七月二十四濟州漂着船(『備遜司謄録』第六十六冊、粛宗三十九年癸巳十 一月十八日條、列本 6 冊619〜625頁)
濟州漂漢人渡海後,譯官李樞問情。
問、你等在於何地、而因何事、漂到我國乎。
答、我們、係福建省泉州府同安縣人、以買賣事、往日本國、洋中遇惡風、漂到 貴邦、而漂 沒事情、在濟州時、已為詳達是如為白去乙、依濟州問情早、逐條問之、則無差錯更問之 端是白齊。
問、福建、管轄、幾處、而官人幾員耶。
答、福建省管轄、一州九府共五十六縣、而官人數多、雖難一一記得、布政司、管錢權、摠兵 軍民、皆大官是如為白齊。
問、福建、風俗尚文乎、尚武乎。
9 ) 香坂順一『白話語彙の研究』光生館、1983年 6 月、127頁。
10) 香坂順一『白話語彙の研究』29 31頁。
答、我們的人、貴文賤武是如為白齊。
問、福建、農商早晚如何耶。
答、福建、一年兩稻、春稻夏收、夏稻冬收、而桑木無之故、本不養蚕是如為白齊。
問、近年以來、白絲物貨、價本極高、來必年年失蠶也、有何曲折也。
答、我們亦往蘇杭買來、而比前價貴、此由、於暹羅國長機島、買賣繁多之致、未必皆失蚕而 然是如為白齊。
このように、朝鮮官吏と中国船乗員との間で取り交わされた筆談の記録の中に、「俺們」と
「我們」の二様があったことがわかる。そこで、先の表 1 に掲げた筆談記録にみられる中から
「俺們」と「我們」がどのように使用されたかを次の表 2 に整理してみた。
表 2 17 19世紀の朝鮮国漂着中国船の問情記に見る人称事例表
資料 西暦 中国暦 船主又船戸 船籍 船行地名 人称 乗員数
1 1617 万暦45 薛万春 閩県 福建→寧波府→福建 41
2 1687 康熙26 顧如商 蘇州府 蘇州→日本 你等―俺等 67
3 1704 43 王富 泉州府 泉州→日本 你等―俺等 116
4 1706 45 車琯 蓬萊 萊陽→蘇州 你等―俺等 13
5 1713 52 王裕 同安 泉州→日本 儞等―我們 42
6 1732 雍正10 夏一周 南通州 南通州―山東→関東 你等―俺等 16
7 1760 乾隆25 林福盛 同安 泉州→山東→泉州 儞們―小的等 24
8 1762 27 孫合興 寧波府 寧波→上海→山東 儞們―俺等 22
9 1763 28 楊難 崇明 崇明→関東・海州 儞們―小的 10
10 1774 39 曲欽一 福山 福山→奉天 儞們―小的・小的們 25
11 1777 42 趙永礼 寧海 寧海→山東 儞們―俺們 7
12 1777 42 秦源順 崇明 崇明→天津 儞們―俺們 15
13 1777 42 金長美 天津 天津→広州→天津 儞們―俺們 29
14 1786 51 張元周 栄成 漁船 儞們―俺們 4
15 1791 56 安復䖻 福山 福山→金州 儞們―我們 21
16 1794 59 邱福臣 蓬萊 登州→奉天 儞們―我們 51
17 1800 嘉慶 5 唐明山 南通州 南通州→萊陽 儞們―俺們 7
18 1805 10 傅鑑周 宝山 上海―天津→山東 儞們―俺等 22
19 1808 13 龔鳳来 元和 上海―南通州→膠州 儞們―我・俺等 16
20 1808 13 陳仲林 鎮洋 江南→関東・金州 儞們―我們 13
21 1808 13 阮成九 蓬萊 寧海州→奉天 儞們―我們 40
22 1813 18 黄万琴 同安 泉州―台湾→天津 儞們―俺們 22
23 1813 18 黄全 海澄 同安―台湾―上海→西錦州 儞們―俺們 47
24 1813 18 黄宗礼 同安 同安―天津→錦州 儞們―俺們 73
25 1819 24 呉永泰 海澄 海澄→西錦州 儞們―我們 30
26 1824 道光 4 石希玉 海澄 海澄→蓋平 儞們―我們 37
27 1824 4 潘明顕 丹陽 青口―上海―関東→上海 儞們―我們 14
28 1826 6 朱和恵 䥭県 鎮海―天津→山東 儞們―我們 16
29 1829 9 王箕雲 文登 文登→南城(江蘇) 儞們―我們 3
30 1836 16 沈拙 詔安 詔安―饒平→天津 儞們―我們 44
31 1837 17 劉日星 首陽 首陽→錦州 儞們―我們 3
32 1839 19 徐天禄 黄県 黄県→奉天 儞們―我們 11
33 1852 咸豊 2 朱守賓 登州 登州―老口灘→金州 儞們―俺們 6
34 1855 5 馬得華 崑山 江南―天津→烟台 儞們―俺們 31
35 1858 8 劉青雲 栄成 栄成―洋河口→威海口 儞們―俺們 10
36 1858 8 趙汝林 上海 江南―奉天→江南 儞們―俺們 21
37 1859 9 曲会先 栄成 栄成―海上→江北営 儞們―俺們 12
38 1877 光緒 3 李培増 文登 登州、漁船 儞們―我們 3
39 1880 6 孫作雲 文登 文登、漁船 儞們―吾們 10
40 1880 6 許必済 汕頭 広東―暹羅→烟台 儞們―我們 27
上記の40例のなかで「俺等」、「俺們」は時代差、地域差が見られるかであるが、第一人称で あるが俺等→俺們→我們と、第二人称は你等→儞們と推移する傾向が見られ、第一人称が儞們 であり、第二人称が我們とする比率は四〇例の中で康煕五十二年(1713)の第五例から見られ、
嘉慶末年から道光年間になると顕著になり、15例と全体の37.5%を占めている。その地域的な 傾向は山東地方の文登 2 ・蓬莱 2 ・福山 1 と五例が、海澄 2 ・詔安 1 ・汕頭 1 と福建省・広東 省の華南地方でも五例があり、江南の䥭縣 1 ・鎭洋 1 ・丹陽 1 と三例が見られ、沿海部の広い 範囲に普遍的に使われるようになったものと思われる。
これに対して、「儞們―小的・小的等」と第一人称に「小的」を使う例が寧波と山東の福山に 各一例、「吾們」を使った山東の文登が一例であり、地方的な表現として使用されたものであっ た可能性が高いと考えられる。
3 日本船の全羅道漂着船事例
―
以上の中国船の朝鮮国漂着に際して残された筆談記録に対して、日本船の朝鮮国の全羅道に 漂着した際の筆談記録とを比較してみたい。
○日本船
①道光二十八年(嘉永元、1848)五月初二日 問情記
問、爾等何國何地方人耶。
答、我等日本國平戸島人耳。
問、何年何月日、縁何事自何處開船、向往何處、何以到此耶。
答、我等五人、以鯨組爲業、今年四月二十二日、自本島生月浦開船、猝遇獰風、同月二十 五日、漂到此地耳。…
問、爾等姓名年歳、自手書示也。
答、書納耳。
船頭田中情四郎、年四十九 舵工佐七、年五十二
水手八藏、年三十五 大之助、年三十五 八衞門、年二十五11)
これは平戸の漁民が朝鮮国に漂着したもので、 5 人が乗船していた。彼等は捕鯨を業とする 人々であった。朝鮮官吏からの筆談の求めに応じて応答したもので、「爾等」との第二人称に対 して、「我等」と第一人称で答えている。この中での朝鮮官吏の「何年何月」とか「縁何事」と 言う表現は唐代以降に見られる文語的表現である12)。このようなことからこの筆談も伝統的な文 言に依拠した筆談であったと思われる。しかし「開船」のような清朝時代以降から多用される 語句などが使用されている。
②咸豊三年(嘉永六、1853)八月十一日 問、爾等何國何地方人耶。
答、日本國薩摩島人耳。
問、爾等何年何月日、縁何事、自何處開船、向往何處、何以到此耶。
答、我等二十三人、共乗一船、装載税白米八百石、今年七月二十四日、自薩摩鹿児島開船、
向往山川浦之路、同月二十八日逢東大風、折傷帆竹、八月初七日、漂到此地耳。
問、税米何處所納、而山川浦何處所属耳。
答、税米、鹿児島之歳貢於薩摩島也。山川浦、即薩摩島所属耳。
問、然則何不直向薩摩島、而要往山川浦耶。
答、候風於山川浦、後轉往薩摩島耳。…13)
この筆談記録も第二人称「爾等」と第一人称「我等」で応酬されている。上記の①と同様に
「縁何事」と言う表現が使われ、①と同様に大差の無い文体で応酬が行われている。
11) 『各司謄録 19 全羅途篇 2 』23頁。
12) 「何年何月」は唐の『法苑珠林』巻六九などに、「縁何事」は李白『白氏文集』巻六十五などに見られる。
13) 『各司謄録 19 全羅途篇 2 』64頁。
③咸豊八年(安政五、1858)八月十一日 問情記
第一船塩田市兵衛船 問、爾等何國何地方人耶。
答、我等日本國薩州城下上町村人耳。
問、何年何月日、何處開船、向往何處、何以到此耶。
答、土産白塩木棉等物装載、今年五月初七日、自上町浦開船、往于琉球属徳之島、換貿砂 糖、今八月初二日開船、向往本國、洋中遇風、初七日漂到此地耳。14)…
…
第二船利平次船 問、爾等何國何地方人耶。
答、日本國薩州城下上町村人耳。
問、何年何月日、自何處開船、向往何處、何以到此耶。
答、土産木棉白塩等物装載、今年五月初七日、與塩田市兵衛船、同浦開船、向往徳之島、
換貿砂糖、今八月初二日、還歸本國、初七日漂到此地耳。15)…
第三船藤太郎船 問、爾等何國何地方人耶。
答、日本國薩州鹿児島人耳。
問、何年何月日、往何處、何以到此耶。
答、土産白塩茶葉装載、本年五月十八日、自本港開船、向往琉球所属徳之島、換貿砂糖、
今八月初二日、與塩田市兵衛及入來利平次船、同時放發、初七日漂到此地耳。16)… この筆談記録も第二人称「爾等」と第一人称「我等」で応酬されている。上記の①と同様に
「縁何事」や「開船」と言う表現が使われ、①大差の無い文体で応酬が行われている。
④同治十年(明治 4 、1871)四月初三日 問情
問、爾等何國何地方人耶。
14) 『各司謄録 19 全羅途篇 2 』104頁。
15) 『各司謄録 19 全羅途篇 2 』105頁。
16) 『各司謄録 19 全羅途篇 2 』106頁。
答、日本國薩州鹿児島人耳。
問、何年何月日、縁何事、自何處開船、向往何處、何以到此耶。
答、我等十人、共乗一船、去年十月十九日、自鹿児島開船、往于七島、装載民税砂糖、今 年三月十一日、向往薩州之路、猝遇東南大風、同月二十六日、漂到此地耳。17)…
この筆談記録も第二人称「爾等」と第一人称「我等」で応酬されている。上記の①と同様に
「縁何事」や「開船」と言う表現が使われ、①大差の無い文体で応酬が行われている。
⑤同治十一年(明治 5 、1872)五月十二日 問情記
問、爾等何國何地方人耶。
答、日本國薩州鹿児島人耳。
問、何年何月日、縁何事、自何處開船、向往何處、何以到此耶。
答、我等八人、共乗鹿児島船隻、今年正月初十日自該島港口開船、往于永良部島、装載大 島納民税黒砂糖、同園四月二十五日又爲開船、向往大島之途、猝遇東南大風、帆竹斫投、
鴟木被掣、不能制船、今月初九日到此地耳。18)…
この筆談記録も第二人称「爾等」と第一人称「我等」で応酬されている。上記の①と同様に
「縁何事」や「開船」と言う表現が使われ、①大差の無い文体で応酬が行われている。
⑥光緒九年(1883)十月十七日 漂到日本國人問情
問、爾等何國何地方人耶。
答、日本國長門州阿武郡鶴江村人耳。
問、縁何事、何年何月日、自何處開船、向往何處、何以到此耶。
答、我等五名、釣魚次、共乗一小船、今年九月二十一日、自本村浦口開船、多日釣魚之中、
今月初八日、猝遇大風、不能制船、逐潮盪漾、十五日漂到貴境耳。19)…
この筆談記録も第二人称「爾等」と第一人称「我等」で応酬されている。上記の①と同様に
「縁何事」や「開船」と言う表現が使われ、①大差の無い文体で応酬が行われている。
17) 『各司謄録 19 全羅途篇 2 』174頁。
18) 『各司謄録 19 全羅途篇 2 』183 184頁。
19) 『各司謄録 19 全羅途篇 2 』203頁。
⑦光緒十年(1884)二月十六日 日本國人問情草
問、爾等何國何地方人耶。
答、我等日本國對馬島嚴[原]村人耳。 [ ]欠字
問、爾等縁何事、何年何月日、自何處開船、向往何處、何以到此耶。
答、我等五人、行商次、共乗小船、装載白塩甘薺酒、今年二月初二日、自本村終南浦口開 船、向貴國釜山港口之路、初八日逢東北大風、不能制船、初十日漂到此耳。20)…
この筆談記録も第二人称「爾等」と第一人称「我等」で応酬されている。
⑧光緒十年(1884)五月初一日 先到日本國人問情
問、爾等四人、以去二月初十日、漂到還歸人的黙耶。
答、果然矣。
問、縁何事再到、而船何二隻、人何數多耶。
答、我等果是日本國對馬島嚴原村人也。前到貴境、暫見沿海魚鰒之多産、還歸本國、賃得 慣水人二十七人、分乗三隻船、持器械漁業次、今月十八日、自本村終南浦、並爲開船、向 前貴境之路、一船則海途蔽霧、未知耶向、而我騎二隻、二十二日到此耳。21)…
この筆談記録も第二人称「爾等」と第一人称「我等」で応酬されている。上記の①と同様に
「縁何事」や「開船」と言う表現が使われ、①と大差の無い文体で応酬が行われている。
以上のように朝鮮国に漂着した日本船の乗員を調査した朝鮮官吏の記録には全て「爾等」と 第二人称で質問しているのに対して、日本人乗員等はすべて第一人称を「我等」と答えている ことである。複数形を示す「等」を使ってはいるが、決して中国語のように「們」は使われて いないことは明らかである。
4 小結
17世紀から19世紀の朝鮮王朝時代に漂着した中国船の乗員に関する筆談記録を中心に考察し てきた。ここで掲げた中国船に関する40例のなかに第一人称に関する「俺等」、「俺們」には、
若干の時代差、地域差が見られるようである。第一人称は、俺等→俺們→我們と、第二人称は
20) 『各司謄録 19 全羅途篇 2 』213頁。
21) 『各司謄録 19 全羅途篇 2 』213頁。
你等→儞們と推移する傾向が見られ、第一人称が儞們であり、第二人称が我們とする比率は40 例の中で康煕五十二年(1713)の例から見られ、嘉慶末年から道光年間になると顕著になり、
全体の37.5%を占めている。その地域的な傾向は山東省沿海部、福建省・広東省沿海部、江南 沿海部など、中国大陸沿海部の広い範囲に普遍的に使われるようになったものと思われる。こ れに対して、「儞們―小的・小的等」と第一人称に「小的」を使う例が寧波と山東の福山に各一 例、「吾們」を使った山東の文登が一例であり、地方的な表現として使用されたものであった可 能性が高いと考えられる。とりわけ中国人乗員に対して朝鮮官吏の筆談には「辛苦了」、「那裡 的人」、「民家麼」などと、中国人乗員に中国語の口語的表現が筆談で応酬していた。明らかに 朝鮮官吏は難民が中国人として応接していたことがわかると同時に、朝鮮官吏も中国語の口語 を理解していたと見られるであろう。
ところが、朝鮮国官吏は日本船の乗員に対する応酬の筆談の形態は、伝統的な東アジアに共 通する漢字を使った中国語の文語的語彙を用いて応接していたのであった。
中国語の文体には、唐宋時代には文言、白話、混淆体の文体が見られ、古文等と識別するこ とが可能となったとされている22)。明代や清代の文体には「文言白話混淆体」というべきものを 考える必要があることを指摘されている23)が、まさに朝鮮史料に見られる筆談記録の中にはそ れに類似するものが頻出していると言えるであろう。
東アジアに共通する漢字を使い応答する筆談形態と言っても、国や地域において様々な要素 を提示していることを十分に理解する必要があろう。
【附記】本稿は2013年 6 月29日に開催された東西研・言語接触研究班の「唐話・琉球官話研究の最前線」
において報告した原稿によりまとめたものである。
22) 内田慶市『近代における東西言語接触の研究』関西大学出版部、2001年10月、326頁。
23) 内田慶市『近代における東西言語接触の研究』327頁。