雑誌『語苑』 : 1910‑1920年代を中心に
著者 岡本 真希子
雑誌名 社会科学
巻 42
号 2‑3
ページ 103‑144
発行年 2012‑11‑30
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012908
日本統治前半期台湾の官僚組織における 通訳育成と雑誌『語苑』
─ 1910−1920 年代を中心に ─
1)岡 本 真希子
本稿は日本統治前半期台湾の官僚組織における通訳育成について,台湾語学習の教 材を提供した月刊誌『語苑』を主な対象としながら検討する。『語苑』は, 「台湾語通信 研究会」が発行し,1908 年の創刊から 1941 年廃刊まで長期間継続し,最盛期で 4000 部の発行部数があった。歴代の編輯長は法院の通訳であり,同誌は警察の語学教材と しても影響力を発揮した。本稿では, 『語苑』を発刊した「台湾語通信研究会」の組織 に着目し,役員の履歴などの基礎的事項について, 「台湾総督府公文類纂」などの一次 資料により明らかにし,併せて『語苑』の論調の変遷を分析する。
1 はじめに−課題と資料−
本稿の課題は,日本統治前半期台湾の官僚組織における通訳育成について,台湾語
2)学 習の教材を提供した月刊誌『語苑』
3)を主な対象としながら検討することである。
『語苑』は,台湾で組織された「台湾語通信研究会」が発行し,1908 年の創刊から 1941 年の廃刊まで長期間にわたり継続し,その最盛期には 4000 部の発行部数を誇った。同誌 の歴代の編輯長は,台湾の法院(裁判所に該当)の通訳が担任した。また,『語苑』は,
植民地台湾における警察の語学テキストとしても利用されており,植民地官僚組織内部 の語学学習と通訳育成に大きな影響力を発揮していた。さらに同会は, 『語苑』のみなら ず,台湾語関係書籍を複数発行しており,雑誌刊行以外の活動も行っていた。
複数言語から構成される植民地社会において,言語の媒介者となる通訳は必須の存在 であり,官民を問わず,さまざまな側面に介在していた。統治政策を遂行する台湾総督府 にとっても,通訳の確保は言語政策にも関連する重要な存在であり,また,植民地社会 と統治政策のインターフェイスに位置する存在として,重要な意義を持つと考えられる。
しかしながら,従来の研究においては,植民地における通訳育成制度に着目した研究は
多くはない。
そもそも帝国日本の植民地政策は, 「同化」主義を根本においていたため, 「国語」たる 日本語を,被植民者が学習し習得することが基本方針とされた。したがって,教育史や言 語政策史などでは, 「同化」教育や「国語」普及政策,それへの植民地社会のリアクショ ンなどが重要な課題とされてきた。また,帝国日本の植民地官僚制度においては,イギリ スのインド高等文官のような植民地専門の官僚を育成する制度
4)を設けておらず,基本 的には本国(「内地」)の官僚制度である文官任用令を「内地延長主義」的に適用してい た。しかし,こうした本国の制度を移植した官僚任用制度においては,そもそも植民地 の言語の学習は重要視されず,本国と植民地の高級官僚の資格試験を兼ねていた文官高 等試験においても,植民地の言語は,その課題外であった。もとより戦前期日本の高級 官僚には,大所高所から政策を立案する牧民官としての位置づけが与えられていたため,
各植民地の言語を学ばずとも高級官僚の任務は遂行可能であった。そのため,こうした 構造のなかで,植民地の言語の習得は,基本的には下級官僚・職員の領域に追いやられ ていた
5)。
しかし,植民地研究における下級官僚・職員に関する研究の蓄積は多くはなく,むしろ 等閑に付されてきたといえる。その要因としては,従来の植民地研究における「支配対 抵抗」の二項対立図式があげられよう。その分析対象は,主に統治政策と民族運動から 構成され,官僚に関しては統治政策史の観点から,高級官僚の構想などが主要な検討課 題とされてきた。しかし,下級官僚に関しては,そもそも官僚組織の絶対的な上下構造 のなかにあって,彼らはもとより政策立案に関与する権限のない存在であったため,研 究の俎上には上らなかった。
このように,帝国日本の植民地官僚制度において,そして従来の植民地研究の潮流に おいて,複数言語をあやつる下級植民地官僚の存在自体が,可視化されづらい構造のも とにおかれてきたのである。
こうしたなかで,近年の研究の新たな動向としては,植民地警察研究において,通訳 を兼任する下級官僚に着目した研究,とりわけ通訳兼掌制度に関するものがある。通訳 兼掌制度とは,巡査・巡査補などの既に採用済みの下級官僚・職員に通訳を兼掌させる もので
6),これらに関する研究が,植民地官僚組織における通訳育成制度の一端を明らか にしつつある。
このほか,専門職の通訳を置いていた法院(裁判所のこと)に関して,筆者は初歩的な
検討を試みたことがある
7)。日本統治期の台湾内においては,台湾総督府は行政権・司法
権・立法権を基本的には一元的に掌握する官僚組織であり,法院もこの一部署にあたる。
台湾全土に設置された各法院には,法院通訳が配置され,通訳たちは,法院の構成員であ る検察官・判官(裁判官のこと)と,被告・原告の大部分を占める台湾人
8)の間にあっ て,言語面における媒介者としての重要な役割を担っていた。しかし,法院通訳に関し ては,日本統治期台湾における通訳全般の状況を網羅的に分析した許雪姫の先駆的な研 究が,その一端を明らかにしたにとどまっている
9)。
そこで拙稿「法院通訳論文」(註 7 参照)では,台湾総督府が作成していた行政文書で ある「台湾総督府公文類纂」
10)に含まれる履歴書などをもとに,個別の法院通訳の具体 例を示しながら,その存在と制度的な背景を,簡単ながらも初めて明らかにした。その 際,法院通訳に着目する理由として,第一に,台湾人を正規の官僚登用からほとんど排除 してきた台湾総督府が初めて採用した職が法院通訳であり,官僚組織内部における多民 族化の嚆矢と位置づけられること,第二に,法院通訳には多くの「内地人」(日本人)
11)が存在しており,このことは台湾総督府の法院において極めて特徴的であることをあげ,
台湾総督府の複数言語媒介者としての意義にスポットを当てた。この第二点目の内地人 通訳の存在に関しては,朝鮮総督府と比較した場合,極めて対象的な構造であることを 前提としており,本稿の対象とする『語苑』の存在とも関わる問題なので,以下に補足 しておく。
朝鮮総督府の裁判所の構造を見ると,判事(台湾の判官)のみならず検事(台湾の検察 官)にも朝鮮人が任用されており,台湾総督府の法院では判官・検察官を内地人が占有し ていた点とは大きく異なっていた
12)。また朝鮮の裁判所の通訳には「通訳官」 (高等官) ・
「通訳生」が任用されることとなっていたが
13),1931 年 7 月の時点を例に見ると,「通訳 生」の大部分は朝鮮人であり,内地人の「通訳生」は非常に少ない
14)。すなわち, 〝朝鮮 人が「国語」 (日本語)を習得する〟というベクトルで裁判所の通訳が育成されていたと いえる。また, 〝内地人が朝鮮語を学習する〟という点に関しては,朝鮮総督府は基本的 には「国語」普及による「同化」政策を推進する一方で,統治の貫徹・維持のために朝 鮮語奨励政策も行ってはいたが
15),その対象は警察・教員などであり,法院の「通訳生」
などは対象外であった。
こうしてみると,台湾の法院における内地人通訳の存在は,極めて特徴的な存在であ
ることがわかる。台湾総督府においては,同じく 1931 年 7 月を例として見ると,全台湾
の法院通訳の定数 35 名のうち,〝「国語」を習得した台湾人〟である台湾人通訳は 14 名
で全体の約 40%で,残りの 60%を内地人通訳が占めていた。このように,台湾人・内地
人通訳が共存し,なおかつ内地人通訳が多数を占める形で法院通訳を構成していた。
その内地人の法院通訳が歴代の編輯長となって発行した台湾語学習雑誌が, 『語苑』で ある。したがって, 『語苑』を媒介とした植民地官僚組織における通訳育成のあり方を検 討することは,官僚研究のみならず,「同化」政策を基調とする言語・教育政策に関して も,新たな側面を浮かび上がらせる可能性を持つと考えられる。
つぎに, 『語苑』に関する先行研究だが,近年の台湾文学や台湾語研究の高まりを受け て,断片的ではあるが次第に取り上げられつつある。ただし,小野真盛(西洲)
16)・片岡 巌・川合真永・東方孝義などといった,台湾語学学習書や台湾の民間文学・習俗関連の 書籍を出版した人物たちが取り上げられるなかで,その分析対象は彼らの出版物やテキ スト分析が中心であるといえる
17)。
このほか, 『語苑』刊行以前に日本統治初期台湾で台湾語を学習した内地人や台湾語学 習書籍について,冨田哲の一連の研究があり
18),「台湾語」創出・学習をめぐる状況に関 する貴重な成果となっている。
以上のように,従来の植民地官僚組織における通訳育成に関する研究では,警察に関 する個別の制度や,テキスト分析に留まっているといえよう。また,対象とする時代は,
日本統治前半期に集中している。この時期は,とりわけ『語苑』関係者による台湾語学習 書籍・雑誌の刊行が目立つ時期であるが,これらのテキストに着目して分析するあまり,
個々の著者による台湾に関する「知識生産」といった側面に,その評価が集約されてし まっているきらいがある。
しかし,こうした視点からは,台湾語学習が重視されたのは,なぜ民間ではなく官僚組 織においてなのか,また,『語苑』のような植民地の言語学習雑誌が,1908 年から 1941 年の長きにわたって継続的に刊行され続けたのか,などといった点は明らかにならない。
個々の事例分析の累積は勿論大切ではあるが,歴史的文脈や背景を視野に入れない場合 には,個人の力量や思想の過大評価につながりかねない。そもそも,台湾語学習雑誌を 刊行し通訳の育成に供しようとした『語苑』の中心的スタッフたちは,いかなる人物た ちから構成されていたのだろうか。
そこで本稿では, 『語苑』を刊行した「台湾語通信研究会」の組織,とりわけその役員 たち(主事・編輯委員・地方委員など)に着目し,その構成・履歴など基礎的事項につい て,一次資料である「台湾総督府公文類纂」や,『台湾総督府職員録』・『警察職員録』
19)などを用いて明らかにする。こうした基礎的な背景とデータを分析することで,各時代
の歴史的な位置づけを浮かび上がらせることができると考えるからである。
ただし,『語苑』の刊行期間は非常に長いため,さしあたり本稿では,1910-20 年代を 検討対象として,なおかつ三つの時期に焦点をあてて,各時期の役員を抽出する方法を とる。第一に, 『語苑』の創刊号は現在未発見であるため,現存する最も早い号にあたる 1909 年 8 月号を対象とする。第二は,創刊から 10 年以上を経て,かつ,台湾の統治体制 が特別統治主義から 1920 年代以降の「内地延長主義」の時代へと移行
20)した時期,す なわち 1920 年 1 月である。第三は,1928 年 1 月である。1920 年代後半の台湾島内では,
台湾人の政治・社会運動が活発化し,台湾議会設置請願運動や台湾文化協会などの左右 各方面から台湾語も用いた演説会などが全島各地で展開された。この時期は,通訳をめ ぐる状況もまた政治性を帯び,語学学習にも一層の実用性と緊張を生じた時期といえる。
なお,1930 年代以降に関しては,時期区分をして別稿を期すこととしたい。なぜなら,
1930 年代以降には台湾総督府が「国語」普及運動(日本語普及運動のこと)を強力に進 めてゆくなかで,それと対置される台湾語学習のあり方は,それ以前の時代とは様相を 異にするからである。また,戦時体制のなかで,官僚組織自身も厳しい統制に直面して ゆくなかで,『語苑』の編輯体制も大きく変化してゆくからである。
以下,本稿では 1910-1920 年代を対象時期として,『語苑』を刊行した「台湾語通信研 究会」の組織に着目しながら,植民地官僚組織における通訳育成に関する組織的かつ持 続的な活動の軌跡と変遷を明らかにし,さらに植民地期の通訳たちが直面した課題を考 察したい。
2 創刊期の『語苑』役員
−独学から通訳へ−
2.1 「台湾語通信研究会」会則
『語苑』の表紙には,「語苑」という表題の上に大きく「台湾語学習雑誌」と書かれて おり,語学テキストとしての存在を自負していた。その『語苑』を編纂・刊行したのが,
「台湾語通信研究会」である。では,この研究会は,どのような会なのか。まず最初に会 則を見ることで,同会の基本的な原則を確認する。
現存する最初の号,すなわち『語苑』第 2 巻 8 号(1909 年 8 月号)に掲載された「台 湾語通信研究会々則」(全 11 条)の規程は,以下のようである。
会の目的は「本会は台湾土語の研究を以て目的とす」 (第 1 条),事務所は「本会は事務
所を台北地方法院通訳室に置く」 (第 2 条),雑誌の刊行については「本会は毎月一回雑誌
「語苑」を発刊して会員に頒つ」(第 3 条),会員については「会員を分かちて左の二種と す」とし,「賛助会員,特に本会の事業を賛助するもの」 ・ 「普通会員,本会の主旨を賛同 するもの」(第 4 条)とする。会費は,「本会維持の為め賛助会員は一ヶ月会費金三拾銭 普通会員は毎月会費金弐拾銭を負担すべし」(第 5 条)とし,会費徴収による運営方式を とっている。中心スタッフとなる役員については, 「本会に左の役員を置く」として「顧 問 一名,台北地方法院長を推す」とし,また, 「顧問の指名に依る」役員として「編輯 主任」1 名・ 「編輯委員」若干名・ 「会計主任」1 名・ 「庶務主任」1 名・ 「庶務委員」若干名 を置くことを規定している(第 6 条)。入会手続きは「入会者は氏名住所を記して本会に 申し込むべし」(第 7 条)といい,自己申請による。このほか,会員との交流に関しては,
「本会は時々問題を提出して会員の研鑽に供し又は会員の質疑に答ふべし」として,質疑 応答や誌上添削などを通して,読者の語学学習の便を図ろうとしていた(第 9 条)
21)。
また,会員へ呼びかける同号巻末の「誌告」欄(頁数未記載)では, 「本誌は会員諸君 の投稿を歓迎す」 「本誌の内容に就て改善を要する点御心付の御方は無御遠慮御指教相仰 ぎ度候」として,会員との交流も目指していた。
この会則の目的部分(第一条)はのちに変更があった。
1914 年 2 月時点で「台湾土語の研究及国語の普及」とされ,
「国語」(日本語)普及が追加されている
22)。
『語苑』紙面の構成は,基本的には,図 1 に示したよう に,上下二段に分けて会話を両言語で記す方式をとってい る。この例の場合,上段に日本語の会話が掲載され,下段 にこれと対応する台湾語の会話が漢字・符号・仮名などで 掲載されていた。
2.2 法院通訳を網羅した役員構成
さて,前述の規程を見ると,法院との関係を規定しているのは,事務所を台北地方法 院通訳室に置くこと,台北地方法院長を顧問とすること,この顧問の指名により,役員 が決定することという部分である。ただし,役員の身分上に関する規程はない。
この規程を受けて指名されたのが,表 1 の役員たちであった。顧問を除いた役員は総 勢 39 名,うち内地人 29 名,台湾人 10 名という構成である。「台湾総督府公文類纂」か ら確認できる経歴や,職員録などの記載から指摘できる顕著な特徴は,役員の大部分が,
法院通訳ということである。
図1 『語苑』誌面の構成
表1 『語苑』190 9 年 8 月時点の役員 ( 事務所;台北地方法院通訳室)
役職姓名(筆名)族籍1909年官職註2生年(出身)渡台前経歴註3渡台後経歴出版物職員録以外の経歴出典 顧問安井勝次内法院判官・台 北地方法院長 (高等官3等)
1866(神奈 川)1886年帝国大学法科大学別科 法学科第三年級修業,1887年 司法省法律学卒業,判事登用 試験合格,判事試補任命(神戸 始審裁判所など)。1890年判事 (渡台直前は神戸地方裁判所判 事)。
1897年12月台湾総督府法院判官,1898年1月渡台。1907年9月より台北地方法院長。 1913年11月台湾総督府臨時法院判官を兼補,羅福星事件(苗栗事件)の臨時裁判法院長。 このほか,高等土地調査委員会委員・臨時台湾旧慣調査会委員・高等林野調査委員会委員 など歴任。1917年4月退官とともに『語苑』顧問辞任,在台20年を経て,神奈川に戻る。
「台湾総督府公文類 纂」2645-1,同2183- 17。『匪乱小史』80-81 頁。川合真永「顧問 安井勝次君を送る」 『語苑』第10巻5号 (1917年5月)無頁 数。『台法月報』第 11巻5号(1917年5 月)92-103頁。 編輯主任川合真永内
法院通訳(台 北地方法院・ 判任官3等)
1875(山梨)1896年東北学院(仙台)嘱託。 この際に萬得(台中県牛頭出 身)・偕服英(宜蘭打馬烟社出 身「熟蕃」)に日本語を教えなが ら「土語」・「熟蕃語」を研究。
1896年12月偕服英を同伴して宜蘭地方に滞在,土語研究に努める。1897年11月−1899 年9月台湾守備隊混成旅団司令部附通訳。1899年9月台北地方法院通訳。1899年10月− 1924年8月法院通訳。この間,1904年台南地方法院通訳兼掌者銓衡委員,1906年台南庁 警察職員通訳兼掌者銓衡委員,1907年台北地方法院通訳兼掌者銓衡委員。1920年高等官 に昇進。1913年警察及監獄職員通訳兼掌銓衡委員,1914年1月台湾総督府臨時法院通訳, 1919−1920年警察監獄職員通訳兼掌者銓衡委員,1923−1924年警察及監獄職員通訳兼掌 者銓衡委員,1921-1924年府評議会通訳。1912年私立土語専門学校校長(総督府認可。民 政部構内通訳事務練習所内に設置)。1924年8月16日喉頭癌により死去(享年50歳)。
『新撰実用 日台会話自在』 (1912年初版。1921年12版)同 書につき「加福警視は,警察界 に於ける,語学の振はざるを嘆 し,前記実用日台会話自在を全 島の警察官,司獄官に紹介し,語 学の研究を紹介せり,而して該 書予約の申し込みは,宜蘭庁警 察課の六百四拾部を最多とし将 さに五千を超んとするの盛況を 呈し居れり」という(『語苑』第 5巻7号,1912年7月,40頁)。 『通信教授 台湾語講義録』(台 湾語通信研究会,1912年再版)。 『簡易速成 日台語入門』(台湾 語通信研究会,1913年)。『独習 自在 日台会話話法』(台湾語通 信研究会,1913年初版)。『台湾 笑話集』(台湾日日新報社,1915 年)。『新撰註解 日台会話独修』 (台湾語通信研究会,1916年)。
「台湾総督府公文類 纂」同467-10,同 2187-30,同2305-21, 同3853-25,同5501- 7。「主事川合真永君 を弔ふ」『語苑』第 17巻8号(1924年8 月)(無頁数)・62-68 頁。「台湾語学界の恩 人川合法院通訳官逝 く」(『台湾日日新報』 1924年8月17日)。 編輯員高橋重吉内
法院通訳(台 北地方法院・ 判任官7等)
1875(福島)1893−1895年福島県山門郡役 所雇,この間漢籍を研究。1895年11月渡台以後,基隆の盧阿老につき台湾土語研究。1896年3月以降,台北艋䴏の 王秉義につき土語専修。1896年7月−1897年台湾憲兵隊司令部通訳。1897年10月−1901 年8月台湾総督府通訳,台東護郷兵徴募通訳・1899年軍役志願者第五区徴募官附などで 通訳に従事。1901年11月臨時台湾土地調査局雇,1902年8月−1903年6月臨時台湾土 地調査局属。1906年淡水税関警吏課雇,1907年9月−1924年12月法院通訳。
「台湾総督府公文類 纂」3873-12,同4330- 18,同199-32。 会計主任林覚太内
法院通訳(台 北地方法院・ 判任官4等)
1872(福井)1896年2ー7月台北県台北府で鉄道隊の用達事業に従事。1896年7月−1899年7月台中県 巡査,この間,1896年8月土語研究生・1898年12月土語通訳兼掌。1900年台中地方法院 検察局雇。1900年3月法院通訳,1902年疾病退官。1903年5月台湾地方法院通事。1903 年7月−1920年法院通訳。1912年川合真永が設立した私立土語専門学校の講師担当。
「台湾総督府公文類 纂」564-23,同915- 24,同9380-1,同5501- 7。 会計委員藤原益三内
雇(台北地方 法院・月俸27 円)
1881(岡山)1898年9月−1902年4月台湾総督府国語学校語学部土語科修業。1902年4−9月台湾守 備隊通訳。1902−1904年公学校(阿猴庁萬丹・東港公学校)雇。1904−1906年台湾総督 府税関監吏(安平・枋税関監視部)。1906年台北庁警部補。1907−1918年法院雇。1919 −1925年台東庁庶務課属,兼1921−1925年宜蘭支部台東出張所書記。
「台湾総督府公文類 纂」1256-44,同1027- 13。 庶務主任太田虎太郎内
法院通訳(台 北地方法院・ 判任官6等)
1865(熊本)1880年熊本県天草郡御領高等 小学校卒業。1881−1882年熊 本市甲斐流山門下で数学修行。 1883−1885年熊本市私立青藍 学舎で漢学修業。1886−1888 年東京私立共愛学舎で普通学 修業。1895年6月−1896年栃 木県警部。1897年群馬県看守。 1897−1899年関西及九州鉄道 布設工事事務。
1899年7月−1901年5月台北県景尾公学校雇員。1899年6月より土語独習(泉州語)。 1902−1903年臨時台湾土地調査局雇。1904年台北庁総務課雇。1906年深坑庁警務課通訳, 1907−1912年法院通訳。
「台湾総督府公文類 纂」4329-27,同9288- 19。
役職姓名(筆名)族籍1909年官職註2生年(出身)渡台前経歴註3渡台後経歴出版物職員録以外の経歴出典 庶務委員井原米吉内 法院雇(台北 地方法院・月 俸25円)
1890(鹿児 島)1900年(鹿児島)谿山高等小 学校第二学年退学。1900年渡台。1905年中学講習会修了,私立語学院土語部入学(学校主=市成乙重〔法院 通訳〕),1906年3月卒業。1906年私立殖民行政学校入学。1906−1912年台北地方法院雇。 1912年川合真永が設立した私立土語専門学校の幹事担当。1912年6月文官普通試験合格, 1912年10月−1931年法院書記兼法院通訳。1937−1939年台中州内務部教育課嘱託。1942- 1944年員林郡役所坡心庄長。
「台湾総督府公文類 纂」10336-31,同 5501-7。 編輯委員
山田作松内
総督府通訳 (官房参事官 附・判任官5 等)
1875(福井)1886年福井県足羽郡三尾野小 学校卒業。1888年福井中学校 入学,1891年同校退校。1893 年福井県足羽郡麻生津村役場 書記。1894年12月−1895年6 月第三師団輜重兵第三大隊,入 営。
1898年7月渡台,基隆玉田街黄棟卿に就き土語研究に従事。1898年9月−1902年5月台 北県巡査(基隆弁務所金包里支署)。1899年8月−1900年4月呉秉清(基隆堡金包里街公 学校教師)に就き漳州語を学習。1900年8月−1901年9月張仁記(金包里堡渓底庄書房 教師)に就き漳州語を学習。1900年11月土語通訳兼掌任命(台北県)。1901年11月通訳 兼掌任命(総督府)。1902年5月−1904年7月臨時土地調査局雇(通事)。1904年7月− 1905年10月台南庁通訳(税務課勤務)。1905年10月−1907年7月臨時台湾旧慣調査会通 訳。1907年7月−1910年台湾総督府通訳(参事官附)。1909年文官普通試験合格。1910 −1919年台湾総督府属(殖産局)。
「台湾総督府公文類 纂」2919-18,同1130- 73,同1346-18,同 4336-9。 太田虎太郎内*前出 山名正真内
塩水港庁属兼 通訳(判任官 5等)
1868(山口)1889年山口県佐波郡役所雇。 1890-1895年10月山口県巡査, 船舶検査やコレラ検疫などに 尽力し賞与下賜。
1896年12月−1899年台北県巡査。1898年4月土語研究教員任命(台北県滬尾警察署内)。 1899年7月土語通訳兼掌(台北県)。1899年9月台北県巡査補教習主任(滬尾弁務署)。 1899年10月−1901年台北県通訳兼警部(警務課)。1901−1905年台北庁通訳兼警部。1905 年5月−1907年塩水港庁通訳(警務課・総務課)。1907−1909年塩水港庁属兼通訳(総務 課)。1909年10月−1913年6月嘉義庁属兼通訳(庶務課)。
「台湾総督府公文類 纂」2101-9,同9295- 26。 小林里平内
法院書記(台 北地方法院・ 判任官5等)
1865(埼玉)小学校卒業後5年間,漢学塾 (折逓学社,環翠学社など)で 主に漢籍を学習。1888年私立 東京法学校(法学全科)卒業。 1889年私立和仏法律学校卒業 (法学・財政学・統計学,全科), 日本新聞社に入社。1892年『商 法明解』(白井商店発行)・1894 年『議会法規』(日本新聞社), 刊行。1895−1896年第四回内 国勧業博覧会事務局書記(農商 務省)。1897−1898年巴里万国 博覧会事務局書記(農商務省)。
1900年11月渡台。1900年12月−1901年2月覆審法院雇,『台湾慣習記事』(台湾慣習研 究会〔民政部法務課内〕)編輯主任に推される。1901年2月−1902年11月覆審法院事務 嘱託。1901年7月−1911年臨時台湾旧慣調査会嘱託。1902年7月から3年間,臨時台湾 旧慣調査会嘱託李少亟に就き官話を研究。1902年11月台北地方法院事務嘱託。1904年か ら3年間,覆審法院通訳蕭呈輝に就き土語・土文を研究。1905年4月−1920年6月台湾 総督府法院書記。1902・1907年の2回,「南支那」各地を踏査。1908年土語通訳兼掌(台 北地方法院)。1919年兼台湾総督府属(官房調査課),南支那経済調査事務を担当。。1920 年6月21日兼台湾総督府翻訳官(官房外事課),同24日退官(高等官への名誉昇進後の 退官)。
『商法明解』(白井商店,1892年)。 『議会法規』(日本新聞社,1894 年)。『民法評釈. 親族法,相続 法』(東京堂,1898年)。『台湾 年表全 附形勢便覽』(台湾慣習 研究会,1902年)。『支那時文契 字訓解』(台北 : 日本物産会社, 1905年)。『台湾年月誌』(台院 月報發行所,1907年。増補再版 1910年)。『台湾歳時記』( 東京: 政敎社,1910年)。『台湾案内』 (殖産局,1911年)。『中華民国 司法制度』(総督府官房調査課, 1920年)。
「台湾総督府公文類 纂」3012-14,同691- 56,同3090-b21,同 4665-23。 小野真盛 (西洲)内
法院通訳(台 南地方法院検 察局・判任官 7等)
1884(大分)学校教育は受けず,幼少時に村 の漢塾で日本外史・四書・文章 軌範などを学習。
1899年に16歳で覆審法院検察官長尾立維孝に連れられ渡台。1900年1月覆審法院検察局 雇。1901年3月台北地方法院検察局雇。1903年10月−1904年11月法院通訳。1904年 12月−1907年11月徴兵により入営(1906年4月−1907年4月志願して台湾守備)。1907 年11月法院通訳に再任,1919年5月まで法院通訳。1913年1月通訳兼掌者銓衡委員(台 北地方法院検察局)。1914年1−3月臨時法院通訳を兼任。1919年5月華南銀行事務嘱託。 1921年2月−1932年10月華南銀行書記(文書課)。1924年10月−1925年3月・8月以 降,警察官司獄官練習所講師を嘱託。1932年10月再び法院通訳に任命(1934年高等官に 昇進),以後少なくとも1944年まで継続して法院通訳。1929−1932年警察官司獄官練習所 嘱託。1935−1944年台湾総督府評議会通訳。1935−1942・1944年警察及警務所職員語学 試験甲種試験委員。1932年『語苑』主事に就任。1941年『語苑』改題後の『警察語学講 習資料』(台湾語通信研究会発行)でも発行兼編輯人。小野の回顧によると,渡台直後に 法院通訳で高等官まで昇進した者の存在を見て,「普通教育を受けてゐない私には,如何 に独学しても出世することはできない,せめてこの通訳を志して進まう」と「立志」し, 言語学習には「実地に這入って学問と実地で錬って進まねば成功は期し得られぬ」と信じ, 「大稲䭛の中北街のある本島人の家庭の人となって同居同職」し,さらに「陳禮といふ先 生の書房入りをして子供と机を並べて四書から習ひ始め」,20歳で法院通訳に任官すると 台中検察局詰となり林烈堂の脳館で台湾人と共に生活する一方,台湾新聞漢文主筆傅鶴亭 に古文析義を修学。1913年3月,29歳のとき同じ村出身(大分県宇佐郡津房村)のツル ヨ(2歳年上)と入籍,1914年4月協議離婚。1918年10月,大分県大分市出身のタズと 再婚,1919年3月長女淑子誕生。
『警察官対民衆 台語訓練要範』 (台湾語通信研究会,1935年)。 『台語和訳 修養講話』(台湾語 通信研究会,1936年)。『続台湾 語虎の卷』( 台湾語通信研究会, 1942年)。
「台湾総督府公文類 纂」922-42,同10080- 17,同2916-5。『語苑』 第28巻12号(1935 年12月)81-88頁。
役職姓名(筆名)族籍1909年官職註2生年(出身)渡台前経歴註3渡台後経歴出版物職員録以外の経歴出典 編輯委員
中山伊世吉内
台湾総督府警 察官及司獄官 練習所教官 (判任官4等)
1864(愛知)1881年岡崎上等校卒業。1882 年岡崎簪学舎で漢学数学修 業。1886年大阪英和学校で漢 学数学修業。1889−1892年4 月大阪陸軍偕行社附属校教授, 以後1894年8月まで清国福建 省福州府に渡り清文書院に入 り清国官話を研究。1895年1− 11月陸軍省雇員,通訳官とし て大阪俘虜廠舎附。1895年11 月陸軍通訳,占領地総督部附。
1895年11月以後陸軍通訳,1896年1月台湾総督府附,2月渡台,3月台湾憲兵隊附。1897 年11月−1898年5月新竹県通訳(知事官房通訳係)。1898年7月台中県弁務所嘱託員(大 甲弁務所通訳主任など)。1899年6月−1901年1月台中県弁務署主記(斗六弁務署通訳主 任,軍役志願者募集官属員など)。1902−1904年臨時台湾土地調査局属。1905−1920年警 察官及司獄官練習所教官,この間,1918年8月−1920年警察及監獄職員通訳兼掌者銓衡 委員を嘱託。1921−1923年警察官及司獄官練習所嘱託。
「台湾総督府公文類 纂」3140-6,同9608- 3,同1117-1,同2890- 46,同4340-4。 今田祝蔵 (五蔵)内
法院通訳(台 北地方法院検 察局・判任官 6等)
1873(熊本)1892−1900年徴兵により入 隊。1892年より入隊,1895年9月台湾憲兵隊附。1900年7月台北地方法院検察局雇。1901年 3月−1921年法院通訳,この間,1918年8月から警察及監獄職員通訳兼掌者銓衡委員を嘱 託。1924−1936年台北州警務部警務課嘱託,1928−1936年台北警務署戒護係嘱託,1927 −1932年州立台北商業学校嘱託・傭教師。
『刑務所用台湾語集』(新高堂, 1929年初版。1933年修訂再販。 岩崎啓太郎が訳語・音調部分に 協力。郭国燦が訳語・音調に協 力)。
「台湾総督府公文類 纂」684-50,同3140- 10,同2890-46。 水谷利章 (寥山)内
法院書記兼通 訳(台北地方 法院台中出張 所・判任官5 等)
1874(愛知)1894年徴兵により入隊。1894年入隊,1895年7月台湾憲兵隊附,9月渡台。1896年5−10月憲兵隊本部設置の「台 湾語速成学校」の試験選抜11名に選ばれ「土語」学習後,木柵屯所詰として偵察や訊問 などに従事。1897年11月第八憲兵隊の台湾土語通訳任命,1898年6月除隊。1899年9月 台中新聞社通訳を嘱託。1901年2月陸軍省雇員,台湾総督府陸軍幕僚附。1902年台湾総 督府文官普通試験合格。1903年6月−1905年9月陸軍属,この間1904年1−9月台北官 話講習所に入学し官話研究。1905年9−10月台湾採脳拓殖合資会社事務嘱託。1905年12 月−1932年法院通訳(兼書記),この間,1912年4月・1910・1918年通訳兼掌者銓衡委 員,1915年8月1915年䬾吧哖事件(西来庵事件)の臨時法院通訳,1919年台北監獄土語 教師嘱託,1923−25・30−31年警察及監獄職員語学試験委員。1932年8月死亡,台北市 文武町自宅にて死去。
「台湾総督府公文類 纂」10056-98,同 10062-3,同10071- 50。『匪乱小史』137- 138頁。『語苑』第25 巻8号(1932年8月) の「葬儀告知」無頁 数。 井原米吉内*前出 氏原静修内
法院通訳(台 南地方法院検 察局・判任官 4等)
1895(熊本)1895年4月私立熊本支那語研 究所卒業。1895年9月台湾総督府雇員(雲林民政出張所詰)。1896年4−10月台中県通訳生(雲林支 所詰)。1897年10月−1899年3月台中県事務嘱託(警察部保安課など)。1899年3月− 1900年12月宜蘭庁通訳(警察課など),土語通訳兼掌者銓衡委員。1902年4月台中地方 法院検察局雇。1902年5月−1916年法院通訳,この間,1905年臨時台湾戸口調査委員, 1912年通訳兼掌者銓衡委員,1915年䬾吧哖事件(西来庵事件)の臨時法院通訳。
「台湾総督府公文類 纂」2479-10,同4319- 21。『匪乱小史』137- 138頁。 中間小二郎内
法院通訳(台 北地方法院宜 蘭出張所・判 任官4等)
1871(福岡)1885−1887年原怡志摩郡公立 中学校課程修業。1887−1889 年福岡県立尋常中学校課程修 業。1889−1891年志摩郡御床 尋常小学校教員。1893−1895 年7月福岡県巡査。
1895年7月渡台,台湾総督府雇員。1896年4月台北県巡査。1896年9月台北県通訳生(宜 蘭警察署)。1897年5月宜蘭庁通訳(警察課),1897年6月「土匪」偵察に際し交戦によ り被弾,1898年6月依願免本官。1900年2月台湾総督府雇(台北地方法院検察局宜蘭出 張所)。1900年3月−1929年5月法院通訳。この間,1918年台北地方法院通訳兼掌銓衡委 員・台中監獄台湾語講師嘱託,1922−1927年警察及司獄官職員語学試験委員,1925−1928 年州及庁警部・警部補特別任用考試委員,1927年高等官六等,府評議員会通訳。1925年 から台湾語通信研究会主事。1929年退官に伴い『語苑』主事を辞任。台湾人婦人(その 祖母は元宜蘭県の官吏を務めた人物の妻で,識字・品性厳格な女性であり,その教育を受 ける)を娶る。1900年頃には辮髪を垂れて天皇の勅旨を迎えたことも。中間の回顧によ れば「台湾語を専攻するものは,どこまでも内台融和の連鎖となって尽さねばならぬ,之 を撤退させるために私は本島人婦人を娶り,之を永遠と妻として偕老を契り,今日に及ん でゐる」。
「台湾総督府公文類 纂」564-22,同4001- 8,同3451-43,同4003- 29,同490-3。『語苑』 22巻5号(1929年5 月)76-82頁。 仁礼龍吉内
法院通訳(台 北地方法院台 中出張所検察 局・判任官7 等)
1874(鹿児 島)1894年広島県巡査。1895年5 月京都府巡査。1895年7月台湾総督府雇員,10月渡台,台湾総督府巡査心得。1896年4月−1900年7月 台北県巡査,1899年土語通訳兼掌。1900年7月3月宜蘭支局雇。1902年3月−1904年6 月臨時台湾土地調査局属。1904年10月専売局監視員。1905年7月−1926年4月法院通 訳,この間1913年通訳兼掌者銓衡委員。
「台湾総督府公文類 纂」4014-25,同4045- 60。 石川新太郎内
法院通訳(台 北地方法院新 竹出張所・判 任官6等)
1870(東京)1886年小学校卒業,1887年中 学校退校。1888−1890年郡役 所雇員。1890−1893年10月・ 1894年8月−1895年5月入営。
1896年2月渡台,1896-97年台中県雲林斗街で商法に従事。1897年2−7月大稲䭛稲江義 塾で土語研究。1898年5−9月大稲䭛日新街土語研究会融和館で研究。1900−1901年大䮇 䮄街の曾清秀につき漳州語を研究。1901年11月臨時土地調査局雇。1903年3月臨時台湾 土地調査局属(土語通訳)。1903年9月−1919年8月法院通訳。
「台湾総督府公文類 纂」3138-1,同4330- 22。
役職姓名(筆名)族籍1909年官職註2生年(出身)渡台前経歴註3渡台後経歴出版物職員録以外の経歴出典 編輯委員
平瀬隆之助内
法院通訳(台 南地方法院・ 判任官6等)
1879(鹿児 島)1890年東京京橋区公立文海小 学校尋常小学校科卒業。1894 年3月同校高等小学校科卒業。 1894年4月私立山口夜学校(教 員山口勝雄主催)で英漢数学を 修業。1896年鹿児島県中郡宇 村共学舎入舎。
1897年5月−1899年7月台北県雇員・台北弁務署臨時雇員。1899年7月樟脳局雇。1900 年6月台湾総督府文官普通試験合格(選択科目は台湾土語)。1900年9月樟脳局書記,同 10月土語通訳兼掌。1901年6月専売局書記,9月通訳兼掌。1902−1905年2月臨時台湾 土地調査局属。1908年12月−1926年法院通訳,この間1917−1925年台南庁および台南 州警務課嘱託。1927年死去。
「台湾総督府公文 類纂」9279-23,同 10049-16,同4338-1。 西川義祐内
工事部総務課 通訳(月俸25 円)
1880(佐賀)1898年3月佐賀県尋常中学校 三年級卒業。1901年7月台湾総督府国語学校土語科卒,台北地方法院雇。1902−1903年臨時台湾土地調 査局属(通訳事務従事)。1904年台北地方法院検察局雇。1905年3月−1907年4月法院通 訳。1907年11月−1908年8月臨時台湾戸口調査部雇。1908年8月臨時台湾工事部通訳。 1911年10月−1913年6月台湾総督府通訳(土木局)。1913年12月民政部殖産局雇,高 等林野調査委員会事務などに従事。1914年4月−1922年台湾総督府属(財務局税務課)。
「台湾総督府公文類 纂」1122-19,同2312- 90,同3269-25,同 4335-8。 西東喜市郎内塩水港総務課 通訳(月俸22 円)
(熊本)1907−1909年塩水港総務課通訳。1909年台中庁庶務課通訳。1911−1912法院通訳。1917 −1919年台中庁財務課属。1920年台北庁財務課属。1920−1921年台北州知事官房税務課 属。1922−1923年七星郡役所庶務課属。 杉本卓内
法院通訳(台 南地方法院嘉 義出張所・判 任官7等)
(熊本)1907年基隆庁税務課属。1908−1909年法院通訳。 沢谷仙太郎 (星橋)内
法院通訳(台 南地方法院・ 判任官6等)
1876(長崎)長崎市大浦町に生まれ経書を 修学し「支那語」を専攻。1895 年2月陸軍省雇員,通訳官とし て大本営附。1895年3−11月聨 合艦隊司令長官雇員,通訳官。 1897年3月威海衛占領軍司令 部通訳嘱託。
1897年11月渡台,澎湖庁通訳事務嘱託(警察課)。1899年9月−1900年9月澎湖庁通訳 (監獄署・総務課)。1900年12月台南地方法院臨時雇。1901年3月−1904年8月法院通 訳。1904年8月−1905年12月陸軍通訳。1906年3月−1925年法院通訳,この間1906年 法院通訳兼掌者銓衡委員,1907年警察職員通訳兼掌者銓衡委員,1915年䬾吧哖事件(西 来庵事件)の臨時法院通訳,および江定ら51名の公判に立ち会う。1923−1925年警察及 監獄職員語学試験委員。1925年11月死去。
「台湾総督府公文類 纂」4005-28,同686- 8,同4014-6。『匪乱 小史』137-138・159- 161頁。『語苑』第18 巻11号(1925年11 月)79-80頁。 林久三内
法院通訳(台 南地方法院・ 判任官5等)
1863(佐賀)1887−1895年7月佐賀県巡査。1895年9月,第一期警察官募集に応じて渡台,1896年4月台中県巡査。1897年5月台中 県嘱託員(彰化警察署)。「余暇台湾語ヲ研究シ簡易ノ事務ハ自由ニ処辨」できるため1898 年6月台中地方法院傭(通訳),同年9月法院雇に任命。1899年5月−1900年法院通訳。 1902−1904年警察官及司獄官練習所書記兼教官。1904−1905年陸軍通訳(日露戦争従軍)。 1906−1920年法院通訳。
杉房之助・林久三合編『会話参考 台湾名詞集 附台湾料理法』 (大阪:博文堂,1903年)。『警察 会話篇』(台湾総督府警察官及司 獄官練習所。1904年初版。1914 年10版。教科書として使用)。 『日台会話初歩』(台南:補生堂, 1907年)。『台湾語発音心得』(台 南 : 補生堂,再版1909年)。こ のほか,『語苑』上に広告掲載の 『日台字音便覧』・『日台会話入 門』・『台湾料理之栞』(1913年, 里村榮〔打狗港新濵駅社内〕)・ 『衛生会話新編』・『台湾車夫用 語』・『日台会話指南』など。
「台湾総督府公文類 纂」457-24,同3135- 9。 岩崎敬太郎内
工事部総務課 通訳(判任官 5等)
1880(東京)幼少時に東京の天文台顧問の ドイツ人クニッピングのもと に出入りする英国人より英語 を学ぶ。1891年横浜商業学校 入学,1893年退学(家事都合)。
1895年8月英国汽船会社ジャーデ・マセソン汽船の事務員として渡台,清国厦門汕頭香港 などに渡航,厦門でローマ字表記で台湾語を学ぶ。。1897年10月−1898年2月台湾守備 混成第一旅団司令部通訳。1898年4月−1899年5月合名会社藤田組瑞芳山鉱山の庶務係 兼通訳。1900年4−8月東京市京橋区書記。1901年2月再渡台,台湾語・英語を解し庶務 会計事務の技能により,9月臨時台湾土地調査局雇(通訳)。1902年8月台北地方法院雇。 1902年12月−1903年9月・1904年8月−1908年11月法院通訳。1909−1913年臨時台湾 工事部(のち土木課・土木局)通訳。1915−1920年5月台北庁雇(警務課・財務課),こ の間,警察職員通訳兼掌者銓衡委員・巡査補教習所通訳など。1922年1月専売局臨時傭, 同12月同雇(脳務課)。1924年6月専売局通訳,同12月−1926年7月同書記,この間, 1923−1925年警察官及司獄官練習所講師嘱託,1925−1929年普通試験臨時委員。1926年 9月台北州内務部地方課・高等警察課嘱託。1926年11月専売局で通訳事務嘱託。1928年 文教局社会課嘱託。1929年4月文教局編修課嘱託。1922年以来『台日大辞典』編纂事務 嘱託(総督府・学租財団・台湾教育会)。1934年死去。
『新撰 日台言語集』(日台言語 集発行所〔大稲䭛之山口十次郎 弁護士法律事務所内〕,1905? 1912年發行?)。『羅馬字発音式 台湾語典』(新高堂書店,1922 年)。『䆲圳用語』(台湾語通信研 究会,年不詳)。今田祝蔵『警務 所用台湾語集』の訳語と音調部 分に協力。
「台湾総督府公文類 纂」1024-51,同4329- 28,同10221-8,同 10242−11。小野西 洲「台湾語学界追想 録」(ニ)『語苑』第 20巻3号(1927年3 月)77-80頁。 林覚太内*前出
役職姓名(筆名)族籍1909年官職註2生年(出身)渡台前経歴註3渡台後経歴出版物職員録以外の経歴出典 編輯委員
後藤佐太郎内
法院通訳(台 北地方法院宜 蘭出張所検察 局・判任官7 等)
1908−1915年法院通訳。 原一鶴内
法院通訳(台 南地方法院嘉 義出張所・判 任官5等)
1874(香川)1881−1887年香川県豊田郡辻 村正義小学校で普通学修行。 1887−1888年同郡観音寺高等 小学校で普通学修業。1888− 1890年同郡新田村の石井文太 郎から英語・数学を修業,1891 −1892年同郡辻村小山智瑞か ら漢籍を修業。1890年香川県 より尋常小学校准訓導免許状 を受ける。1890−1893年豊田 郡辻・中姫尋常小学校訓導。 1894年12月入営,韓国派遣後, 日清戦争に従軍。
1895年7月憲兵上等兵,台湾憲兵隊附(1899月まで現役)。この間,1895年10月−1897 年3月台北県海正堡大䮇䮄の秀才・呂希姜と進士・邱倖雲から土語と官話を修業,1897年 5−11月同県の高満堂・葉明儀から土語と官話を修行。1897年12月憲兵隊司令部通訳。 1900−1901年2月香川県三豊郡辻高等小学校雇教員。1901年臨時台湾土地調査局雇(泉 州語通訳),1902年同局属。1904年7月−1910年法院通訳。
「台湾総督府公文類 纂」1022-9,同4324- 8,同1610-8。 韓勲夫内
法院通訳(台 北地方法院台 中出張所・判 任官6等)
1866(奈良)1887−1890年歩兵第九連隊入 隊。1895年7月陸軍憲兵,9月台湾憲兵隊編入(1899年服役免除)。1902−1903年台中庁通訳 (警務課)。1904年台中医院雇。1905−1916年法院通訳。「台湾総督府公文類 纂」2640-b06。 藤村千代吉内
法院通訳(台 南地方法院嘉 義出張所検察 局・判任官7 等)
1877(青森)1888年青森県東津軽郡筒井村 尋常小学校卒業。1892年青森 県尋常師範学校附属高等小学 校卒業。1892−1894年青森大 隊司令部臨時雇。1894年歩兵 第五連隊入隊。1895年7月陸 軍憲兵上等兵。
1895年9月渡台,台湾憲兵隊で書記代理,1897年6月予備役編入。1897年7月商業に従 事。1899年4月桃仔園弁務署雇員(徴税事務に採用)。1902年桃仔園庁税務課雇。1903− 1904年塩水港総務課・警務課通訳。1907年台北地方法院雇。1908−1925年法院通訳。
「台湾総督府公文類 纂」9292-40。 鷲田敬太郎内
監獄通訳(台 北監獄第二 課・月俸27 円)
1867(北海 道)1907年9月−1919年8月台湾総督府監獄通訳兼監獄監吏。「台湾総督府公文類 纂」2919-8。 李朝端台
法院雇(台北 地方法院桃園 登記所・月俸 18円)
1908−1909年台北地方法院桃園登記所雇。 周茂益台
法院雇(台北 地方法院桃園 登記所・月俸 19円)
1902年桃仔園庁総務課雇。1907年桃園庁警務課。1908−1913年台北地方法院桃園登記所 雇。 范寶勲台
法院雇(台北 地方法院・月 俸19円)
1889(新竹)1908年台北国語学校修了。1908−1912年法院雇。1913−1919年法院通訳。この間,1913 年11月羅福星事件(苗栗事件)の臨時法院通訳。1919年法院を辞して基隆に移住,義和 商行に勤務。1921年東洋漁業会社常務取締役。1922年基隆商工信用組合を創設,専務理 事。1930−1932年基隆市協議会員。1933−1936年台北州協議会員。1937−1940年基隆市 協議会員。1941年皇民奉公会市支会委員(1943年2月時点には「高山勲」と改姓名)。
「台湾総督府公文類 纂」2183-17。『台湾 人誌鑑』1937年・319 頁,同1943年・226 頁。『匪乱小史』80-81 頁。『台湾官紳年鑑』 1932年,595-596頁。 施錫文台
法院通訳(覆 審法院検察 局・判任官6 等)
1897年総督府国語学校第一附属学校雇員。1898年9月覆審法院検察局雇。1900−1909年 法院通訳。「台湾総督府公文類 纂」261-54。
役職姓名(筆名)族籍1909年官職註2生年(出身)渡台前経歴註3渡台後経歴出版物職員録以外の経歴出典 編輯委員
陳招勝台
法院雇(台北 地方法院新竹 出張所・月棒 17円)
1906年新竹庁総務課雇。1909−1910年台北地方法院新竹出張所雇。 郭樹栄台
法院雇(台北 地方法院台中 出張所・月棒 25円)
1902−1908年台南監獄第二課嘱託。1909年台北地方法院台中出張所雇。 葉引昌台
法院雇(台北 地方法院台中 出張所・月棒 20円)
1902年台中庁税務課雇。1903年台中庁台中公学校雇。1904年台中庁総務課雇。1909年台 北地方法院台中出張所雇。1912年台中庁庶務課雇。1913年台中庁東勢角区書記。 葉清耀註4台
法院雇(台北 地方法院新竹 出張所・月俸 25円)
1882(台中)1899年10月東勢角公学校本科第二学年生並速成科修了。1902年3月台中師範学校卒業。 1902年4月台中庁䭜雅公学校訓導。1902年7月−1907年4月台中庁東勢角公学校訓導。 1907年10月台北地方法院雇(台中出張所詰)。1908年7月文官普通試験合格。1908年9 月−1913年法院通訳(台北地方法院新竹出張所詰,台北地方法院)。この間,1912年川合 真永が設立した私立土語専門学校の講師担当。法院を辞したあと明治大学専門部法科へ 入学,1916年卒業。1918年弁護士試験合格,台湾人で最初の弁護士となる。1921年台湾 に戻り台北で弁護士開業(のち台中で開業)。1920−1922年台北市協議会員・1923−1933 年台中州協議会員。1924年台湾議会設置運動請願者を検挙した「治警事件」裁判の弁護, 1930年台湾地方自治連盟創立とともに理事に就任するなど,台湾人の政治社会運動に尽 力。1932年『刑事同意論』で明治大学法学博士号取得,台湾最初の法学博士(1933年東 京の有斐閣から出版)。1933年台湾地方自治連盟理事として朝鮮地方自治視察。1942年死 去。
「台湾総督府公文類 纂」5501-7。『語苑』 第5巻4号(1912年 4月)56頁。 楊潤波台
法院通訳(台 北地方法院検 察局・月俸28 円)
1884(台北)台北の名門で儒者である楊克彰の三男。幼少より漢学を学ぶ。1895年父に随い渡清する も1898年帰台。1899年2月台北艋䴏の国語学校第一附属学校卒業。1899年9月台北師範 学校転入,1902年7月主席卒業。1903−1906年国語学校第一附属学校雇。1907−1911年 法院通訳(台北地方法院検察局)。1911−1916年林本源家第三房の招聘に応じ庶務課長。 1917年独立し貿易商・泰豊行を経営(1926年まで),および台湾製酒株式会社専務取締役。 1920−1930年台北市協議会員。台北貿易商協会長・稲江信用組合長なども歴任。
『台湾人物誌』120 頁。『南国之人士』 9-10頁。『台湾官紳年 鑑』1932年,19-20 頁。 劉金清台法院雇(覆審 法院・月俸18 円)
1907−1911年法院雇。 註1 本表の「役職」・「姓名」の出典は,『語苑』第2巻8号(1909年8月)掲載の「台湾語通信研究会々則」頁に掲載の名簿より作成。「経歴出典」の「台湾総督府公文類纂」の前半の数字は文書冊号を,後半の数字は文書番号を示す(例;文書冊 号-文書番号)。文書名は付表参照。『匪乱小史』は台湾総督府法務部編纂『匪乱小史』(台北:台南新報支局印刷部,1920年),『台湾人物誌』は大園市蔵編『台湾人物誌』(台北:谷沢書店,1916年),『南国之人士』は内藤素生編『南国之人士』 (台北:台湾人物社,1922年),『台湾官紳年鑑』1932年は林進發『台湾官紳年鑑』(台北:民衆公論社,1932年),『台湾官紳年鑑』1934年は林進發『台湾官紳年鑑』(台北:民衆公論社,1934年),『台湾人誌鑑』1937年は台湾新民報社編『台 湾人誌鑑』(台北:台湾新民報社,1937年),『台湾人誌鑑』1943年は興南新聞社編『台湾人誌鑑』(台北:興南新聞社),を指す。 註2 官職については,『台湾総督府職員録』明治42年版(1909年5月現在)のものに依る。 註3 「渡台後経歴」に関して,『台湾総督府職員録』で現存する最後のものは1944年(昭和19年)版であり,1944年1月1日現在の官職までのみ確認可能。したがって,本表では1944年までの経歴を暫定的に記載するにとどまる。(例えば,本表 で「渡台後経歴」欄に「法院通訳1921-1944年」とあっても,1944年以降にも同様の官職に留まっている可能性,もしくは別の官職への移動の可能性がある)。 註4 葉清耀の生年については,一般には1880年とされているが,本稿では「台湾総督府公文類纂」5501-7文書「私立土語専門学校設立認可(川合真永)」に添付されている葉清耀の「履歴書」(捺印あり)の記載「明治十五年九月五日生」により, 1882年を採用する。また,葉清耀の法院勤務地・官職についても一般には「台中地方法院書記」とされているが,本稿では,同「履歴書」および『台湾総督府職員録』各年の記載により,「台北地方法院」「通訳」を採用する(職員録によれば 本官職は「通訳」,「書記」は兼任職)。
全島に設置された法院に,1909 年 5 月時点で配置されていた法院通訳を職員録で確認 すると総勢 27 名であり,このうち『語苑』役員に任命されていたのは 21 名(内地人 19 名,台湾人 2 名)に及んでいた。すなわち, 『語苑』役員は,台湾全島の法院通訳を,ほ ぼ網羅した状況にあった。
ただし,法院の通訳といっても,彼らは通訳を養成する専門的な制度下で生まれた存在 ではなかった。そもそも帝国日本の植民地統治体制においては,植民地官僚を専門に育成 する制度は存在せず,基本的には本国の官僚制度である文官任用令を「内地延長」的に適 用していた。そのうえ,統治初期の台湾の官吏任用制度には様々な例外を設けることで,
かき集めるようにして官吏の人材を補充していた
23)。
本国の制度を移植した官吏任用制度の下では,植民地の言語を学ぶことは重視されな い。そのため,植民地の言語の習得は,下級官僚の自主学習努力にまかされていた。
表 1 の内地人役員たちの経歴を見ると,彼らは,渡台以前には,本国において大学や 高等学校卒業などといった高い学歴を持つものではなく,出身地の小学校や中学校を卒 業し,あるいは,私塾などで漢学や「支那語」を習得した者たちであった。また渡台前 の職歴も,出身地方の郡役所の雇・書記や巡査といったように,官僚組織の中では低い 階層に属していた。そして,台湾領有に伴う軍隊の上陸とともに渡台したり,警察官と して渡台した者が,かつて習得した漢学・ 「支那語」などを媒介にしながら,台湾人に個 人的にレッスンを受けたり(川合真永・高橋重吉・小野西洲・原一鶴),軍隊や警察業務 に従事するなかで速成で台湾語を習得したり(林覚太・水谷利章・中間小二郎・仁礼龍 吉・林久三),あるいは,台湾領有初期に設置された台湾総督府国語学校の土語科や,民 間の大稲䭛稲江義塾や私立語学院土語学校などの台湾語学習機関に通って習得していっ た(石川新太郎・井原米吉)。彼らは,こうして身につけた語学力をかわれて法院通訳の 任官の道を得ていったのである。このように,独学と植民地下級行政経験により培われた 能力によって法院通訳が育成され,その彼らが語学雑誌『語苑』を刊行することで,新 たな通訳を生み出す役割を担っていった。
他方で,台湾人役員の場合も,内地人役員同様に,ほとんどが法院通訳・雇などの法 院関係者であった。その経歴を見ると,国語学校や公学校(台湾人児童が通う初等教育 機関)卒業者であったり(范寶勲・葉清耀・楊潤波),法院に関わる以前から地方庁で雇 などに従事するなど(周茂益・陳招勝・葉引昌),植民地統治体制のなかで新たな学歴や 職歴を蓄積してきた存在といえる。
このうち,台湾人委員のなかに范寶勲・葉清耀・楊潤波のような著名な台湾人の名があ
ることは非常に興味深い。彼らは,裕福な名門の家に生まれ相応の資産を持ち清朝時代 には科挙を目指すような家庭にあったが,日本統治時代には台湾が清朝の科挙制度から 切り離されるなかで,新たな学歴と資格を求めて,総督府が設置した教育機関である国 語学校や師範学校で学んでいった。しかしながら,のちには法院通訳を辞して植民地官 僚組織の外へと飛び出し,経済界で活躍したり,もしくは弁護士となり政治・社会運動 へと邁進している
24)。多言語能力を身につけた彼らにとって,自らの能力を生かす道は,
法院通訳というような,官僚組織の末端にありながら統治体制の再生産にくみすること ではなかったことが看取できよう。
創立当初の「台湾語通信研究会」と『語苑』との様子については,編輯委員の一人で,
のちに編輯主任となる小野西洲は,以下のようにいう。
「本会は始め少数の法院通訳仲間に於て台湾語を相互研究せんがため生れたもので,
その当時に於ては,本誌は謄写版摺で,会員各自が自己の実務を執るに当り,必要な る難解の問題を互いに提供し,之によって調査研究せる,各自の解答を蒐集し,研 究録として発表し,相互の研究に資せられていたものであった。」
25)このように, 『語苑』創刊の由来は,法院通訳たちが実務上の相互研究のための研究録 として発刊されたものであった。
なお,1909 年 8 月号の誌面構成は,以下のようである。
岩崎敬太郎「行政警察用語(其七)」(1-4 頁),川合真永「防疫用語(其四)」(5-7 頁),鷲田敬太郎「司獄用語(其八)」(8-12 頁),齊木峽南生「税務用語 雑話(其 一)」(13-16 頁),北陸生「普通文官試験用語(其九)」(17-21 頁),岩崎敬太郎「日台 会話問答(其四)」(22-24 頁),西川義佑「田園調査用語」(25-29 頁),川合真永「銀 行用語(其七)」(30-33 頁),南北生「衛生雑話」(34-35 頁),双木子「一口問答(其 二)」(36-37 頁),葉清耀「尺牘(其四)」(37-38 頁),林久三「寄書」(39-41 頁),林 覚太「雑録」(42-44 頁),〔作者不詳〕「研究録 普通会話用語」(別 1-4 頁),川合真 永「通信教授 台湾語講義(第四回)」(49-64 頁)
このように, 行政警察・司獄・税務などの実務上の各分野について,複数の役員が分担
して,日台の会話を連載する形で構成されていた。
なお,『語苑』誌上には,「台湾語通信研究会」役員が出版した台湾語学習書籍の宣伝 も多く見られる。表 1 にも記載したように,編輯主任である川合真永による『新撰実用 日台会話自在』 ・ 『通信教授 台湾語講義録』などが 1910 年代に出版され版を重ね,ま た,1900 年代から『警察会話篇』・『日台会話初歩』・『台湾語発音心得』などを発行して いた編輯委員の林久三の著作などにみられるように,彼らは多くの台湾語学習のテキス トを刊行した。「台湾語通信研究会」は,『語苑』刊行とともに,台湾語学習教材となる 書籍を作成する役割を果たしていたといえよう。
3 1920 年代初頭の『語苑』役員
−新旧時代の交錯−
3.1 会則の維持
創刊から 10 年以上を経た 1920 年代は,台湾の統治体制が特別統治主義から「内地延 長主義」の時代へと移行した時期にあたる。この時期, 『語苑』役員には変化があったの だろうか。ここでは,1920 年 1 月の会則および及び役員構成を見てゆく。
このときの「台湾語通信研究会々則」(全 8 条)は,基本的には以前の内容を踏襲して おり,大きな変化は見られない。1910 年代半ばに改変された会の目的「本会は台湾土語 の研究及国語の普及を以て目的とす」(第 1 条)は,そのまま維持されていた。
事務所は高等法院通訳室になり(第 2 条),顧問も高等法院長になった(第 5 条)。会 員に賛助会員・普通会員を置くこと,会費徴収などはほぼ同内容である(第 4・5 条)。
ただし,役員の構成はややシンプルになっていた。顧問(高等法院長)以外には,主 事 1 名と編輯委員若干名を置くとだけし,これらはやはり「顧問の指名に依る」として いた(第 6 条)。なお,書籍出版に関して「本会は必要と認むる書籍を出版し実費を以て 会員及希望者に頒つことあるべし」(第 8 条)という規程があり,主事の川合,編輯委員 の小野・片岡・岩崎などが著したテキスト本が陸続と出版される状況のなかで,その頒 布の便宜を図ることも目指されていた
26)。
3.2 内地人役員の留任 / 台湾人役員の増加
では,この時期の役員の構成はどうか。表 2 に示したように,顧問を除いた役員は総勢
46 名,うち内地人 31 名,台湾人 15 名という構成となっている。ここから指摘できるの
は,創刊直後に比べて役員が増加していること(7 名増加),台湾人役員の比率があがっ
役職姓名(筆名)族籍1920年官職註2生年(出身)渡台前経歴渡台後経歴出版物職員録以外の経歴出典 顧問谷野格内 法院判官・高等法院 長(高等官1等)1874(兵庫)1899年7月東京帝国大学法科大学卒, 大蔵属,11月司法官試補(東京区裁 判所検事代理)。1901年検事(東京区 裁判所,東京控訴院など)。1902年警 察監獄学校講師嘱託。1907年判検事 第1回登用試験委員,弁護士試験委 員。1912年東京帝国大学法科大学講 師嘱託。1913年判事(大審院)。1906 年から法律取調委員,その功により 1913年旭日章を受ける。1916年法学 博士。
1917年8月渡台,覆審法院長。台湾の司法を従来の二審制から三審制 へと改変するのに尽力し,1919年8月に三審制の改正台湾法院条例 (大正8年律令第4号)発令後,最初の高等法院長に就任。1918−1920 年律令審議会委員,1918-1919年臨時台湾旧慣調査会委員。1918年12 月以後米国フィリピン・英領香港,および福建・広東両省視察,対岸 領事裁判権を総督府法院への移管に尽力。この間,1918年12月子供 が17歳で永眠。1921年6月府評議会員・法令取調委員会委員,民法・ 商法施行と台湾における特例の審議(1922年勅令第407号で施行)や 内外地司法統一に尽力。ただし「非常の好酒家」である上,著述(『台 湾新民法』)と法案審議尽力の傍ら「晩酌」と「連飲」で体調を崩し, 1923年6月10日,在官のまま病気で死去。
『監獄学』(東京 : 博文館, 1900 年)。『甲比丹屈克』〔カピテン・ クック〕(東京 : 博文館, 1901 年)。1905−1916年の間,明 治大学・早稲田大学・中央大 学・日本大学出版部から『刑 法総論』・『刑法各論』・『刑事訴 訟法』などの講術講義録の出 版多数。『台湾新民事法』(台 北:台湾時報社,1923年)。
『帝国法曹大観』44頁。『台湾 総督府警察沿革誌』2編,26-36 頁。『台法月報』第17巻7号 (1923年7月)51-63頁,及び 同号掲載「故谷野高等法院長略 歴」(無頁数)。『台報月報』第 27巻7号(1933年7月)50-56 頁。 主事川合真永内法院通訳(高等法 院・判任官2等)1875(山梨)*表1,参照。 編輯委員
山田作松内〔1919年まで殖産 局林野整理課属・判 任官2等〕
1875(福井) *表1,参照。 小林亥之吉内
〔1919年11月時点 で巡査(台北庁深坑 支庁・月俸19円)〕
(長崎)『語苑』1914年1月号に「在深坑在住会員」として投稿あり。1917− 1919年巡査(台北庁深坑支庁)。1924−1930年法院通訳(台南地方法 院検察局・宜蘭支部検察局)。
『語苑』第7巻1号(1914年 1月)33-35頁。『警察職員録』 1917年・40頁,同1918年・16 頁,同1919年・20頁。 小林里平内法院書記(台北地方 法院・判任官3等)1865(埼玉)*表1,参照。 小野真盛 (西洲)内華南銀行事務嘱託1884(大分)*表1,参照。 大場吉之助内法院通訳(台北地方 法院検察局・判任官 6等)
(鹿児島)1905−1906年警部補(深坑庁景尾支庁)。1907−1912年警部(深坑庁 景尾支庁・台北庁警務課)。1914−1928年法院通訳。1925−1928年兼 台北州警務部高等警察課警部。 上瀧市太郎内
法院通訳(台南地 方法院嘉義出張所・ 月俸33円)
1880(福岡)1904年9月警察官及司獄官練習所看守練習生。1905−1907年台中監獄 看守。1907−1918年2月台南監獄看守。1918年2月台南地方法院雇。 1918年12月−1936年2月法院通訳。1933−1936年兼台中刑務所戒護 係。
「台湾総督府公文類纂」2805- 12,同10085-117。 中山伊世吉内台湾総督府警察官 及司獄官練習所教 官(判任官2等)
1864(愛知) *表1,参照。 今田祝蔵 (五蔵)内法院通訳(台北地方 法院検察局・判任 官3等)
1873(熊本) *表1,参照。 水谷利章 (寥山)内法院通訳(高等法院 ・判任官3等)1874(愛知)*表1,参照。 片岡巌内
法院通訳(台南地方 法院検察局・判任官 4等)
1876(福岡)1884年福岡県白川郡常豊村大字塙尋 常小学校入学,1887年卒業。1888年 福岡県安積郡喜久田村字堀ノ内高等 尋常小学校高等課入学,1991年卒業。 1991年福岡県県立開成山桑野村中学 校入学,1892年退校(家事都合)。1892 −1893年喜久田高等小学校長・榎木 與一郎に通学し漢学を修学。1893− 1894年下富永作に就き数学を修学。 1894−1895年冨田安教の塾で普通学 を修学。1898年10月大日本中学会へ 入学。1895年12月第二師団入隊。
1896年9月台湾守備隊編入,10月渡台。1898年9月台湾第八憲兵隊に 転科。1898年12月−1903年11月憲兵隊台湾土語通訳。この間,1902 年5月大稲䭛稲江義塾土語部入塾,1903年5月卒業。1903年12月台 湾採脳拓殖合資会事務員兼通訳。1904年7月−1923年法院通訳。1915 年䬾吧哖事件(西来庵事件)関連で江定らの取調・起訴・公判などを 行った台南地方法院検察局における「残匪処分」の「勤労」功績によ り,1917年賞与を受ける。
『日台俚諺詳解』(台湾語研究 会,1913年)。『台湾風俗』第 1−3巻(台湾語研究会,1913 −1914年)。『台湾文官普通試 験土語問題答解法』(台湾語研 究会,1916年)。『台湾風俗誌』 (台湾日日新報社,1921年)。
「台湾総督府公文類纂」1023- 34,同3743-19,同3757-15。