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取締りのための通訳育成へ

ドキュメント内 雑誌『語苑』 : 1910‑1920年代を中心に (ページ 33-40)

」(85-88 頁),

4.3  取締りのための通訳育成へ

1920 年代の台湾人の政治・社会運動の流れを見ると,1920 年代前半以来の台湾議会設

置請願運動に加えて,1920 年代後半には社会主義・共産主義の影響を受けた左派の運動

が勃興し,台湾文化協会などが左右分裂を繰り返し,かつ,労働運動・農民運動などが短 期間ながらも高揚する時期にあった

47)

。全島で展開されるストライキや演説,配布され るビラの嵐のなかで,台湾総督府にとっては,台湾人の自由闊達な言論・社会運動への 対応という問題が浮上しており,とりわけ台湾語学習が喫緊の課題とされていたことが,

この時期の『語苑』誌上の論説から明らかとなる。

警察官に期待される能力とは, 「例へば幹部であれば講演会等に臨監し通訳を介せずし て,直ち注意し,中止,解散を命ずることができる,司法に掌はる人も通訳を介せずし て急所をのがさぬやうに核心に触れて訊問することができる」というように

48)

,台湾人 の政治・社会運動に臨機応変に対処できる語学力であった。

この時期の台湾人が用いる台湾語については,その多様性について,1928 年 7 月の『語 苑』の巻頭言では,以下のようにいう。

「改隷既に三十二年本島人の青年は今や或いは大学を卒業し或は中学以上の業を畢 へ,中には清濁相半する新思想を本島語にて喧伝するものあり,且つ一方には四庫 の漢書を読破せる儒者今尚多く古い文語を使用し思想の発表をなしつゝある」

49)

また,1929 年 1 月には,台湾語と「国語」普及との関係について,以下のようにいう。

そもそも「多くの在台内地人の台湾語に対する観念」は「国語が普及すれば台湾語を学 ぶの要なく遠からずして台湾語の必要なきに至る」というものだが,これは「空想」に 過ぎない,実際には

「一種の新思想保持者等の講演或は宣伝皆是れ台湾語に依らざるは無く併かも充分 国語を解する輩にして殊更に国語を避け詭詼偏僻の台湾語を以てし之が取締の任に ある者を嘲弄揶揄するが如き者あり,充分台湾語を解せざれば到底之が取締を完ふ すること能はざるに至れり」

50)

という。「国語」解者である新世代の台湾人こそが,台湾語を豊富化し,敢えて新時代の 台湾語を駆使しながら,政治・社会運動の強力な武器として猛威を振るっている状況が 指摘されているのである。

したがって,これと対峙する警察においても−再び小野の言葉を借りるならば,

「譬へば彼の文協〔台湾文化協会〕の講演などを取締るにしても,色々な会に於て催 さるる本島人名士学者の演説会に臨監するにしても,徹底せる聴取力を有する人で なければその任務はつとまらぬ」

51)

として,「聴取力」の必要が強調されていた。

また,文字で記されるメディアに関しても,

「時文にしても白話文にしても,現在台湾で発刊する台湾民報や三新聞の漢文其他漢文 刊行物並に対岸より入って来る,此種の刊行物を読むだけの力がなくてはだめだ」

52)

というように,台湾内外の刊行物の読解力の必要が叫ばれていた。

この時期の台湾で独自に変質を遂げていた漢文の文体に就いては,陳培豊の研究が, 「ク レオール化」する漢文の存在を指摘し, 「植民地漢文」という概念で説明しているが

53)

,小 野たち法院通訳や警察が向き合わねばならなかったのは,台湾語のほかにも,台湾語や

「国語」も吸収して新たに生み出されてゆくこの「植民地漢文」であり,それを使用して 刊行されるメディアの言説であった。

こうして,より高度な能力を持つ台湾語通訳が,警察内に広範に養成されねばならない 状況に至ってゆく。1928 年 7 月,警察では高等警察を拡充したが(昭和 3 年勅令第 141 号),その役割について『語苑』は, 「思想取締」のための「斥候となり,耳目となって働 かねばならぬのは我本島語研究者に非ずや」と問いかけ,かつ, 「この任に当る諸君は彼 等の発表する言を聞き漏らし,文を見落しすることなきまで語と文に上達せねばならぬ」

と喝破する

54)

。こうした状況のなかで, 『語苑』誌上には 1927 年 10 月号以降,前述した ように「警察講習資料」が毎号連載されることとなったのである。

1928 年 12 月の『語苑』で中間小二郎主事は,表紙や内容改善を重ねた一年を振り返り ながら,以下のようにいう。

「会員は約二千名増加し,全島各州各庁の警察語学講習に本誌は教材として使用せら れた。斯くの如きは本会創立二十有一年以来始めて断行した一大改革であって,そ れにより非常な盛況を呈するに至った訳である。」

55)

その中間主事は,翌年 5 月に持病の喘息を悪化させて法院通訳退官と『語苑』主事退

任を余儀なくされた。しかし,その退任時の回顧では,自分の主事就任以後の「本会の 会運は年を逐ふて相当発展し,現今会員数は不肖就任当時に比し二倍余の多数に達せり」

と会拡張の実績を誇っていた。その要因として,編輯方針の変換を指摘する。すなわち,

「本誌は本会成立当時の趣旨を尊重し,各会員の研究に成るものを其儘何等の修正を 加へず集載するに止めつゝ,後学者の指導啓発には殆んど考慮せざりしを,不肖〔中 間〕主事就任以来現在の講義録式に改め,普く全島警察官諸君に対し通信教授によ り語学力の増進を図るべく主力を此に傾注せり,従って専門語学討究者に対し研究 資料の提供聊か稀薄となりしは,畢竟少数の語学者を養成せんよりは寧ろ実務的台

4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4

湾語通暁者を多数養成することの急務

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なるを痛感したるため」

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〔傍点岡本〕

実用的かつ広範な範囲で通訳を養成することが喫緊の課題となったこの時期,『語苑』

は,警察の要請と呼応しながら,警察の台湾語学習の教科書としての役割をになってゆ き,より広い読者を獲得する反面で,統治初期の法院通訳たちによる玄人的な台湾語学 習から,警察による取り締まりのための,統治の道具としての側面を強めていったこと が看取できるのである。

5 おわりに

帝国日本の官僚制度においては,植民地専門の官僚を育成する制度を持っておらず,植 民地の言語を習得することは,植民地官吏に必須の能力とはされていなかった。しかし,

植民地に在勤し,とりわけ植民地社会と向き合うことが不可避な法院や警察においては,

植民地の言語を習得することは,必須の課題となっていった。こうした構造のなかで,台 湾語学習は,下級官僚たちの自助努力,すなわち独学と相互研鑽によって補填されるこ ととなった。その先鞭をつけたのが,法院通訳たちであり,彼らは「台湾語通信研究会」

組織し,雑誌『語苑』の創刊によって,継続的な相互学習の場を形成し,新たな通訳を 生み出す土壌も用意していった。

創刊当初の『語苑』は,こうして独学で台湾語学習を始めた法院通訳たちが役員を構成

し運営を維持していた。その中には,台湾総督府官僚組織のなかで数少ない正規の官僚に

登用された台湾人法院通訳たちも含まれていた。しかし,とりわけ 1920 年代後半になる

と, 『語苑』は台湾人の社会運動取締りを喫緊の課題とする警察と一体化していった。こ

うしたなかでは, 「台湾語通信研究会」役員における台湾人通訳の比率も低くなっていき,

『語苑』は,警察が必要とする実務的な台湾語学習者向けの雑誌へ,かつ,広範な初学者 向けの雑誌へと変化していった。植民地における台湾語学習者の隆盛が,台湾人の政治・

社会運動の隆盛とそれへの取締りと軌を一にしていたことは,複数言語を媒介する通訳 の育成が,極めて植民地主義的な側面を持っていたを示すものといえよう。

1930 年代後半に総力戦の時代に突入し,戦線が拡大してゆくと, 『語苑』は 1941 年 10 月には廃刊を余儀なくされ,同年 11 月以降には,『警察語学講習資料』へと改変されて ゆく。ただし,1930 年代以降の「国語」普及が最重要視されるなかでの台湾語学習・通 訳育成との複雑な位相については,今後の別稿に譲ることとしたい。

1 )本稿は, 同志社大学を中心とした研究グループ DOSC(Doshisha Studies in Colonialism

[同志社植民地主義研究会]),および台湾の国立成功大学人文社会科学中心(センター)の 研究計画「殖民地時期臺灣與朝鮮之政治參與的比較研究」(2010 年 8 月-2012 年 7 月。代 表者・岡本真希子),および台湾の行政院国家科学委員会専題研究計画「日治前期台南地 域的政治社會變化(1895-1919)」(2012 年 8 月-2015 年 7 月。代表者・岡本真希子。計画番 号 101-2410-H-006-076-MY3)の成果の一環である。DOSC 研究会は,2010 年 4 月以降に 研究課題「<ポスト比較>の植民地主義研究:国際研究の基盤構築に向けて」をテーマに,

同研究所・第 17 期研究会の第 9 研究班として活動している。このほか,本稿は,岡本真希 子「日本統治時期台灣的法院通譯與《語苑》」(台湾大学語言訓練測験中心(LTTC)主催

「2012 語言訓練測験中心国際学術研討会:訳者的培養」〔台北 : 台湾大学霖澤館,2012 年 4 月〕における口頭報告・会議論文〔中文〕)の一部を下敷きにしている。

2 )日本統治期の「台湾語」は,閩南語・客家語・原住民語(複数種類を含む)の三つの言語 を包括した総称で,現在の研究史においても同様の用法をとる。「台語」という場合には,

このうちの閩南語を指す。

3 )国立中央図書館台湾分館(台湾:台北)所蔵。現時点で所蔵が確認しえるのは,1909 年 8 月号(第 2 巻 8 号)-1912 年 12 月号(第 5 巻 12 号)・1914 年 1 月号(第 7 巻 1 号)-1941 年 10 月号(第 34 巻 10 号。最終巻)。1908 年 8 月号(創刊号)-1909 年 7 月号(第 2 巻 7 号)・1913 年 1-12 月号(第 5 巻 1-12 号)は欠号。

4 )浜渦哲雄『英国紳士の植民地統治』(中公新書,1991 年),本田毅彦『インド植民地官僚−

大英帝国のエリートたち』(講談社メチエ,2001 年),参照。

5 )岡本真希子『植民地官僚の政治史−朝鮮・台湾総督府と帝国日本』(三元社,2008 年)第 5 章,参照。

6 )通訳兼掌制度に関しては, 台湾総督府警務局編『台湾総督府警察沿革誌』第 3 編「警務事績

篇」 (1934 年)912 〜 941 頁, 李幸真『日治初期臺灣警政的創建與警察的召訓(1898-1906)』

ドキュメント内 雑誌『語苑』 : 1910‑1920年代を中心に (ページ 33-40)

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