をふり返る
著者 田澤 晴子, 平野 敬和, 藤村 一郎
雑誌名 社会科学
巻 47
号 4
ページ 127‑152
発行年 2018‑02‑28
権利 同志社大学人文科学研究所
URL http://doi.org/10.14988/pa.2018.0000000019
《インタビュー》
松本三之介氏インタヴュー記録
─ 日本政治思想史をふり返る ─
田 澤 晴 子 平 野 敬 和 藤 村 一 郎
解 説
本稿のもとになった聞き取りは,2014 年 9 月 27 日と 2015 年 7 月 19 日の 2 回,田澤 晴子・平野敬和・藤村一郎の質問に対して,松本三之介氏が答えるという形で行われ た。田澤・平野・藤村の 3 名は,2014 年 4 月に,「大正デモクラシー」の再検討を戦後 思想史の読み直しと関連させる研究会を立ち上げた。その活動の柱の一つに,「大正デ モクラシー」研究を進めてきた研究者に対するインタヴュー調査がある。「大正デモク ラシー」研究は,戦後の思想史学のなかで最も重要な領域の一つであり,これまで多 くの業績が積み重ねられてきた。インタヴュー調査を通して,研究者の思想的背景と 研究が進められた時代状況に関する理解を深めることは,戦後思想史の成果と課題を 検討するうえで大いに役立つ。松本氏への聞き取りは,その第 1 弾として行われた。
松本三之介氏は 1926 年茨城県生まれ。1948 年東京大学法学部卒業。現在,東京大学 名誉教授。戦後の日本政治思想史研究を牽引してきた研究者の一人である。松本氏の 研究は,天皇制国家についての関心を出発点として,国学思想,明治期の思想,「大正 デモクラシー」の思想に関する分析を試み,近代日本の思想構造とその現実的機能の 解明に取り組んできた点に特徴がある。著書には,『国学政治思想の研究―近代日本 政治思想史序説』(初版,有斐閣,1957 年,増補版,未來社,1972 年),『天皇制国家 と政治思想』(未來社,1969 年),『近代日本の知的状況』(中央公論社,1974 年),『近 世日本の思想像―歴史的考察』(研文出版,1984 年),『明治精神の構造』(岩波書店,
1993 年),『明治思想における伝統と近代』(東京大学出版会,1996 年),『明治思想史
―近代国家の創設から個の覚醒まで』(新曜社,1996 年),『吉野作造』(東京大学出 版会,2008 年),『近代日本の中国認識―徳川期儒学から東亜協同体論まで』(以文 社,2011 年),『「利己」と他者のはざまで―近代日本における社会進化思想』(以文 社,2017 年)などがある。
このインタヴューは,松本氏が 1950 年代後半という早い時期に吉野作造論を発表し たことを踏まえて,吉野研究を志した理由,論文執筆の経緯,当時の学界の状況やそ れにまつわる考えを聞くところから始まっている。そして,「大正デモクラシー」研究 から,国学思想の研究,戦後デモクラシー論,アジア論,丸山眞男や竹内好といった
研究者との交流へと進んでいる。その内容は多岐にわたっており,「大正デモクラシー」
研究だけではなく,戦後の日本政治思想史研究の展開を知るうえで貴重な資料となる であろう。本誌に掲載した理由として,このインタヴューの編者が所属する同志社大 学人文科学研究所第 19 期(2016 〜 2018 年度)第 8 研究の研究課題「転換期のデモク ラシー―「戦後民主主義」に関する歴史的・理論的研究」との関わりがある。その 研究は「戦後民主主義」を近代日本の民主主義の展開のなかに位置づけることを課題 としており,このインタヴューの編集はその研究の成果の一部でもある。なお,注記 はできる限り少なくし,〔 〕で括って本文中に挿入した。長文にわたるものは,最後 にまとめた。
今回の掲載にあたり,松本氏はインタヴュー原稿に丹念に目を通して,確認をして くださった。そのうえで,掲載を許可してくださった松本氏に対して,厚くお礼申し 上げる。
(平野敬和)
1 大正デモクラシー・吉野研究の始まり
【田澤】松本先生が 1950 年代後半という比較的早い時期に吉野作造(1878-1933)研究を 志した理由,「「民本主義」の歴史的形成」〔日本政治学会編『年報政治学 1957 国家体制 と階級意識』岩波書店,1957 年〕執筆の経緯,当時の学界の状況やそれにまつわるお考 えをお聞きします。
【松本】吉野作造研究については,丸山(眞男)さん(1914-1996)からの書簡1)にあると おりの内容が契機になりました。日本政治学会の年報で大衆社会の政治思想を取り上げ ることになり,日本については民衆の時代と言われる大正時代を取り上げることになり ました。私自身は企画には関係していません2)。なぜ私の名前が出たのか事情は知りませ んが,だいぶ前に「原敬」〔服部之総編『日本歴史講座近代篇⑵』第 6 巻,河出書房,1952 年〕をやったことがあり,また直前に書いた論文「明治思想における政治と人間」〔『思 想』1954 年 12 月号〕で,たまたま吉野の民本主義への展望で結びとしたからかもしれま せん。傍から見れば,この論文はその延長上に吉野論をつぎの課題として想定している ようにも受け取れますが,丸山さんからの勧めがなかったら,おそらく吉野や大山郁夫
(1880-1955)を私がこの時期に取り上げるようなことはなかったと思います。
あの頃の学界の受け取り方では,吉野というのはいろいろ雑誌などに書いているけれ ども研究業績としてはほとんどなく,思想史の研究の対象とするほどのものではないと いう評価でした。まあ信夫清三郎(1909-1992)の『大正政治史』〔河出書房,1954 年〕な どが出始めて,やや関心が向き出したということはあります。ただし吉野の民本主義に
ついての信夫さんの研究は方向としてはマイナス評価でした。信夫さんがその著書で吉 野の民本主義の特徴として挙げたのは,つぎのような点でした。
①吉野は日本に現存する君主制を絶対的なものとして受け取っていた。したがって彼 の民本主義は君主主義と矛盾しないものとして主張され,デモクラシーを最後まで徹底 して遂行する意思を放棄していたとしている。
②吉野は現存する君主制をブルジョア君主制へ移行させるための明確な理論を持た ず,また絶対主義的な君主制と対決する姿勢もほとんどなかった。ただ天皇と民衆の間 に介在する官僚軍閥の勢力を打破し,立憲制の実をあげようとした点は,当時の「民本 主義」の共通する要求であったと指摘している。しかし吉野がブルジョア君主制につい て明確な理論を持たなかったことは,彼の軍閥・官僚に対する批判にも限界をもたらす 結果となったとしている。
③吉野が絶対主義と本質的に対決しなかったことは,「皇室の藩屏」たる貴族を容認し た点にも示されているとした。このことは,吉野にはブルジョア的自由,個人的自由の 観念はあったが,平等についての明確な観念は持っていなかったことを物語るとしてい る。
④吉野には大衆運動と大衆的勢力の台頭に対する恐怖の念があった。大衆が集団をな して勢力となることは社会的混乱をもたらすとの恐怖からガス抜き,安全弁としての「民 本主義」を主張したという評価,これは当時のマルクス主義の人たちの共通した立場で あった。また米騒動も吉野の評価が低いことに信夫さんは不満のようで,民衆の根底に ある絶対主義政府に対する切実な反対の意向を吉野は理解できなかったとする。そして 少数の賢者による民衆のための政治という吉野の発想も,民衆勢力を背景とする「多数 専制」への恐怖に根ざすものと考えた。
⑤吉野の精神的英雄主義の問題,「少数の賢者」あるいは「哲人」による民衆のための 政治。私は吉野のこの政治的貴族主義を政治のリーダーシップの問題として捉えたが,信 夫さんはあくまでも「衆愚」の「多数専制」の危機に対処するためのもので,社会主義 対策を内包するものという捉え方をとった。そしてその点に吉野の民本主義の理論的限 界を指摘し,同時にそれが大正デモクラシー運動の限界ともなったというのが,信夫さ んの基本的な立場であった〔信夫清三郎『大正政治史』第 4 巻,1360-1372 頁〕。
このように吉野の民本主義の「限界」,つまり藩閥官僚勢力による天皇制支配と対決す べき立憲主義論あるいはデモクラシー論としての不徹底を強調するのが,1950 年代の吉 野論を支配していた一般的傾向と言ってよいでしょう。なお, ①に関しては,信夫の立場
に都合のいい吉野の文章だけを取り上げて引用している傾向があるように思われまし た。
また日本政治学会では,この年報編集の数年前のことですが,総会で大正デモクラシー を主題として取り上げたことがありました。1952 年 4 月,「大正『民本主義』運動の回顧 と分析」をテーマとした研究会がそれです。そこでは,嘉治隆一(1896-1978)が「回顧」
を,信夫清三郎が「分析」を担当して報告が行われ,吉野の評価をめぐって議論が交わ されました。その概要については,中村哲さん(1912-2003)が『思想』に書いています
〔中村哲「大正の民本主義について―1952 年度政治学大会の一批判」『思想』1952 年 8 月号,86 頁〕。そのなかで中村は,学会が吉野の思想をテーマにして取り上げたこと自体
「やや隔世の感」があるとし,吉野はわが国の政治学界の草分けという意味では尊敬され ていたが,正直のところ,その業績についてこれまで学界の評価がどれほどあったかは 疑わしいと述べています。そして学界が吉野の歴史的な役割を認めるというのであれば,
これは戦後デモクラシーの新風のおかげだという皮肉な感想を持ったと記しています。
これがまさに当時の吉野についての評価であり学界の空気でした。
私としても大学の教師となってまだ 5 年ほどの駆け出しであり,丸山さん直々の勧め では断るわけにもいかず,引き受けることになったのが吉野研究のきっかけですね。そ れからこれを書いた翌年になりますが,『真説日本歴史』第 11 巻〔雄山閣,1959 年〕が
「大正デモクラシー」の巻で,その巻末に「“ 大正デモクラシー ” について」という座談 会を載せるということで私が呼ばれました。座談会の出席者には,この巻の編集・執筆 者の数名の他に信夫さんと遠山(茂樹)さん(1914-2011)と私が加わり,信夫さんを中 心に議論が交わされる形になりました。信夫さんは私の論文について,大正 5 年と 7 年 の「民本主義」の違いを指摘している点は大変面白かったなどと評価してくれましたが,
結局吉野はせいぜいプチブルデモクラシーで,社会主義に対する君主制の安全弁という これまでの立場を変えることはありませんでした。
私は座談会の最後の方で,大正デモクラシーを研究するには,従来の自由民権運動を 起点とする自由党系の流れの他に,大隈系を中心とする改進党系の流れが重要で,基本 的にはこの流れの大正期における発展として吉野の思想を位置づけることで新しい視点 も出てくるのではないか,というようなことを述べました。つまり,板垣(退助)(1837- 1919),(中江)兆民(1847-1901)らの自由党から幸徳秋水(1871-1911)の社会主義,ア ナルコサンジカリズム,そして大逆事件後の堺利彦(1870-1933)らの売文社中心の「冬 の時代」を経てロシア革命で息を吹き返すという流れの他に,小野梓(1852-1886),高田
早苗(1860-1938),浮田和民(1859-1946)らの改進党系の流れが重要だと考えたのです
〔(松本発言)『真説日本歴史 大正デモクラシー』348 頁〕。また私自身の研究活動の方向 としては,この吉野の研究を手がかりとして,行く行くは日本の政治学史をやってみた いという秘かな希望などもあって,大山郁夫や長谷川如是閑(1875-1969)などにも関心 を持ち研究することになりました。それが私の大正デモクラシー研究の基本的な方向性 を形づくったと思っています。
それから浮田との関係で言えば,自由主義的帝国主義,倫理的帝国主義との関連から 吉野や初期の大山を考えることができます。韓程善(ハンジュンスン)さん(1970-)の 吉野研究〔Jung-Sun N. Han, An Imperial Path to Modernity: Yoshino Sakuzo¯ and a New Liberal Order in East Asia, 1905-1937, Cambridge, 2013.〕では,そうした視点が とられています。戦後の途上国開発論と結びつき,近代化論へとつながる流れで,韓さ んによれば,吉野の自由主義は帝国主義の正当化のイデオロギーの一つであると系譜づ けています。たしかに検討すべき一つの課題ではあると思います。しかし私としては,吉 野の植民地に関する議論は,当時としては良質なものでぎりぎりのところまで行き着い ているのではないかと思うのですが,韓国の人からは帝国主義論の一つであるというこ とになるのでしょう。
【平野】先生は吉野をどう読まれましたか,論文を書く以前と以後とで吉野へのイメージ は変わりましたか。
【松本】変わった部分はあまりありません。原敬のとき多少勉強し護憲運動についてはプ ラスのイメージを持っていました。マルクス主義からの影響はあったし興味もありまし たが,どうしてもマルキストにはなれなかったからだと思います。私の最初の吉野論に ついては坂野潤治さん(1937-)から,今日でも通用する論文でほとんど異論はないが,
ただ一つ吉野が階級協調論をとったことを批判している点だけは,現在から見れば誤り であることは明らかだろうという批判を受けました〔坂野潤治「〈解説〉天皇制と共産主 義に抗して」『吉野作造選集』第 3 巻,岩波書店,1995 年〕。階級闘争については吉野の 根底にある生活共同体としての国民という観念が,階級的利害対立という捉え方の妨げ になっているというのが私の吉野批判の趣旨であり,「国民」の一体性や等質性を重視す るところから社会内部の本質的な利害対立が見えにくくなってしまったということで す。私の吉野論では,これは最初のときから重要なポイントとしてあり,今でもそう考 えています。当時の階級的な利害対立という現実認識はきちんとすべきだと思っていま す。階級協調的という立場にはしばしば欺瞞的なものがつきまといますが,今日では格
差社会の問題として社会層間の利害対立は現実性を持っています。一つ若い世代の思考 となると坂野さんのような考え方になるのだなと興味深く聞きました。
2 国学の思想研究について
【田澤】先生の吉野論の特徴として思想の現実的機能によって吉野を評価しているという 点がありますが,これは国学政治思想の研究で,丸山眞男の国学研究を批判し,大家で はなく門人の思想の現実的機能を基軸に幕末の国学批判を行っていることと関係するの ですか。
【松本】私は国学についての最初の論文で思想を状況との関連で取り上げることの大切さ に気づきました。それ以来,どのような思考の構造が具体的な状況のなかでどのような 機能ないし実践的意味を生み出すのか,というのが私の思想史研究での基本的な方法な いし視座となったと思います。国学研究で機能を重要視したのは,戦時中の国体思想の 果たした役割などとも重ね合わせながら史料を読んでいくなかで,政治的機能に重点を おいて取り上げたら政治思想としての国学の新たな特質が出てくるのではないかと思っ たからです。
そもそも国学に興味を持ったきっかけは,学部生のときに丸山さんの講義を聴いたこ とにあります。丸山さんの講義では,国学の和歌を中心とした主情主義や,儒教の規範 主義に対する批判として人間の本能や欲望ないし感情の解放を主張した点に注目し,国 学の清新さを指摘することに重点がおかれていました。いわば日本における近代思想の 歩みという視点からの意味づけが行われていました。
しかしそれはあくまでも歌物語という非政治的な文学の領域に限定された話で,治者 を対象とした統治論ではむしろその非政治的な姿勢がそのまま政治の領域に持ち込まれ たため,政治思想としての国学は全く受動的で,儒教であれ仏教であれその時々の都合 に合ったものを用いればよい,それが神道だというような機会主義に終始してしまいま した。このように国学というのは本質的に非政治的な思想であって,何ら新しい政治の 理念や原理を示すこともできず,政治思想としては全く不毛に終わってしまった,とい うのが講義で聴いた国学論の要旨でした。
丸山さん始め政治思想研究者の考えでは,治者の側の統治の思想,それを支える原理,
理念,哲学について考察するのが政治思想史の課題であるとする伝統的な観念が根底に あったと思われます。そこでは国学は文学の世界から生まれ,私的な文学の領域で思想
形成が行われることによって非政治的な性格を本質としたから,統治論となると何も積 極的に主張するものが出てこない。つまり丸山流の国学論では,国学は私的な文学の世 界では儒教的規範主義に対する鋭い批判を通して清新な思想を展開したが,公的な政治 の世界では全く受動的な機会主義の域を超えることができなかったという,明と暗の二 重性として捉えることに終わってしまったわけです。
私の中高時代には『臣民の道』がテキストに使われ,当時読むことが許された本のな かで一番リベラルな匂いのするものは河合栄治郎(1891-1944)の本であり,その著書の うちでわずかに発禁を逃れた本が貴重な書として競って読まれたような時代でした。河 合は思想的立場からすると戦後では社会党右派,民社党につながる線上にある人ですが,
そのような人が最左翼に位置づけられるような時代に私は青春期を過ごしたわけですか ら,国学は国体論の源流としてしか認識していませんでした。その意味で,国学が統治 論としてはともかく,儒教的リゴリズムからの人間性の解放という点で,日本における 近代思想の形成を考えるにあたり重要な位置を占めているという丸山さんの講義には大 変新鮮な印象を持ちました。その後に読んだ羽仁五郎(1901-1983)の『日本における近 代思想の前提』〔岩波書店,1949 年〕という本でも大体同じような立場から書かれており,
最終的に神道論にいったことに国学の限界があるとしています。
そうしたことで国学に興味を持ち,学部の試験では「国学の事実主義」というレポー トを書いて提出しました。それは,形而上学的な規範観念を前提にして物事の善悪を論 ずる儒教の思想を漢意として批判し,事実を先入観なしにそのまま事実として把握する という本居宣長(1730-1801)らの事実認識の姿勢を日本の実証主義の初期的な形態とす るような趣旨のもので,論文などとはとても言えない素朴なものです。
そしてともかく 1948 年の 3 月に卒業しました。当時はまだ敗戦後の混乱期で今後どう なるのか先の見通しも立たない状況だったから,ともかくもう少し勉強してできれば研 究職的なものに就きたいという一心でしたが,幸運にも大学院特別研究生の枠があり研 究室に残ることになりました。大学院特別研究生(通称特研生)という制度は戦時中に できた制度で,東條英機内閣の唯一の功績と我々の間で冗談を言っていました。日本の 学問を維持するため少数の優秀な学生を残し,あとは兵隊にとるというもので,戦後も 大学院が旧制である間は残っていました。待遇は助手相当の給与と平均額の扶養手当が あるうえに身分は学生なので学割が使えるという恵まれたものでした。この特研生は前 期 2 年,後期 3 年と分かれており,今日の大学院と同じように前期 2 年で論文を提出し,
審査により半数が後期に進むという制度です。ただ当時,少なくとも東大の法学部では,
後期に進んでも 3 年を待たずに就職先を見つけることが求められており,私は後期 1 年 で中退し大阪市立大に赴任することになりました。
私の『国学政治思想の研究』〔初版,有斐閣,1957 年,増補版,未來社,1972 年〕は,
この特研生の前期を終わるにあたって提出した論文〔「近世日本における国学の政治的課 題とその展開―幕末国学に関する一考察」『国家学会雑誌』1951 年 8 月・11 月・1952 年 8 月号〕です。特研生の間,指導教授の丸山さんは積極的に指導するということは一 切なかった。したがってこちらからアポイントメントをとって先生のお宅に伺い質問を すると,それをきっかけにしてじつにさまざまなことを話してくれる。こちらは先生の お喋りのなかから勝手にいろいろなヒントを得るという,指導とも何ともつかぬ形の「指 導」でした。ただ論文を書く段階で,宣長研究は沢山あるから幕末の「草莽の国学」に 重点をおいてまとめたらどうかというのが唯一の丸山さんの助言でした。当時伊東多三 郎さん(1909-1984)が精力的に国学の研究をやっていて,敗戦直前の 1945 年 1 月に『草 莽の国学』〔羽田書店〕という本を出版しています。戦時下の困難な状況のなかで幕末の 農村の国学者の資料を調査して紹介したものでした。
私はどうしても国学の政治的機能に関心があったので,宣長を中心に政治思想として の特質を明らかにし,その具体的な展開を門人たちに相当する幕末の「草莽の国学」に ついて考察するということにしました。そしてそうすることによって丸山さんとは違う 国学論を出せるのではないかと秘かに考えていました。つまり,丸山さんはその非政治 的性格から政治思想としての国学は貧弱なものだったと切り捨てたけれども,それは違 うのではないかと。国学が主に問題にしているのは被治者であり,政治思想では誰を対 象にしているかが重要で,圧倒的に政治思想は治者を対象とする場合が多いが,宣長は 治者を対象としていません。宣長が友人あての書簡のなかで「今吾人国の為むべきなく 民の安んずべきなし。すなはち聖人の道はそもそも何の為めぞや」〔本居清造編『本居宣 長稿本全集』第 2 輯,博文館,1923 年,362 頁,原漢文〕ということを言っています。宣 長にとって学問とは「私有自楽」,つまり全く私的なもので自分で楽しむものであるとし,
自分は治められる側の者であることを自覚的に明らかにしています。それが国学であり,
もともと被治者を対象とした学問としているのです。治者を対象とした非政治的性格な らナンセンスだが,被治者に対し非政治的であることを強調する言説であるならば,そ れはきわめて政治的な性格を持つことになります。政治学では政治的無関心の持つ政治 性は現状肯定の役割を果たすこと,現状の無条件的正当化を意味することは,広く指摘 されている。そこで国学を非政治的な言説が果たす思想的機能の問題として考えること
にしたわけです。さすがに丸山さんは,こうした国学の取り上げ方が自分の国学論には 欠けていたことをすぐ理解してくれたようでした。
【田澤】丸山眞男は大衆の政治的無関心という問題を論ずるようになりますが,それは松 本先生の影響ですか。
【松本】いや,戦後には日本の政治学でもメリアムやラスウエルらの心理学や精神分析学 的な方法をとったアメリカ政治学がどっと日本に入ってきて,政治的無関心の問題は広 く取り上げられるようになっていました。もちろん丸山さんもこれらのアメリカ政治学 の流れは早くから把握していました。
ただ丸山さんが『日本政治思想史研究』の「あとがき」で,松本の国学についての論 文は新しい視点から自分の国学論の欠けていた側面を明らかにしたという趣旨のことを 述べていますが,もちろんそれ以上具体的には書いていません3)。そこで他の人からは松 本は丸山批判をしたらしいと言われ,そのように紹介されることもありましたが,それ がどういう意味を持つものかはあまり理解されず,日本の思想史研究でこの問題が十分 に展開されなかったのは残念に思っています。
【田澤】先生の国学研究は「通俗道徳」など民衆思想史に対する先駆的批判になっている のでしょうか。
【松本】「草莽の国学」では主として地方の農民らに向けた「通俗道徳」が説かれました。
たとえば真面目に働けとか,貢物をきちんと納めよとか,生まれた子の間引きはするな,
などの生活に即した道徳や職業倫理を具体的に説いたわけです。つまり宣長の神道論で は,よくても悪くても上の者の意向には理屈を言わずに素直に従えという絶対随順の原 理論だったのに対して,それが社会の底辺へ下降して「草莽の国学」になると,いわば その応用篇としての意味を持つようになるのです。いずれにせよ上からの指示命令に対 してあれこれ理屈をこねて従わないのは「さかしら」であるということになる。
私は戦時中にこうした臣民道徳をさんざん教えられたわけです。受験勉強にも必要な テキストとして『国体の本義』を読まされました。そのとき以来頭に残っていたのは「承 詔必謹」という言葉でした。これは天皇を輔弼している政治家や天皇の官僚の意向は,つ まるところ天皇の指示命令に他ならないのだから謹んで従いなさいという意味ですね。
国学の機能とは天皇制の「承詔必謹」の論理の源流だったということが,いわば直感的 にすぐ了解できました。それは宣長の神道論によって出てきたというわけです。
また,これは私が最初に国学を取り上げたときには,まだ思いつかなかったことです が,日本の私的自由の主張を基礎づけている思惟構造の問題です。契沖(1640-1701)か
ら始まる国学の歌物語論で自由に感情を表現することを重視する主情主義,人間の情の 解放,『玉勝間』などでよく言われているものですね。たとえば儒教の立場から淫乱の書 として否定された『源氏物語』を,国学では人間の真情の表現という文学固有の視点か ら評価すべきだとして,儒教の禁欲的な道徳規範から解放された自由な文学の世界と文 学固有の価値の存在を主張しました。そこには一元的な価値の支配から多元的な価値の 支配へという,近代的な価値観の誕生という方向性が見られました。
このような文学的価値の政治や道徳からの独立は,近代的な思想,人間の自由に近づ いたという意味ではプラスのものですが,しかしそれは自分を被治者という立場に厳し く限定し,みずから政治の世界と主体的に関わり合うことを断念するという貴重な代償 を支払うことを通して手にした「自由」です。こうした自由は,政治という公的な世界 と緊張関係を持って向き合うことのない私的な自由で,公的な権威や権力が必要とはし ない日陰の領域で許される自由という性質のものになります。こういう私的自由の構造 は,明治以降今日に至るまで続いています。その源流が国学にあると私は考えています。
一番わかりやすい例は永井荷風(1879-1959)です。戦時中の日記のなかで荷風は軍部 批判を徹底的に展開し,浅草を徘徊するなどの自由を謳歌しつつ公的には全く発言しま せんでした。これは(夏目)漱石(1867-1916)でも(森)鷗外(1862-1922)でも基本的 には同じです。プロレタリア文学を除けばみんなそうです。この問題を考えていました が,あまり(学界では)問題にされなかったように思います。
3 国家と個人について
【田澤】丸山眞男は国学の講義で私的自由の拡大を戦後社会において評価したように思い ますが,先生にとって私的自由の拡大はマイナスと捉えられていましたか。
【松本】この問題は複雑で,新聞などにも書いたことがあります〔「「私」の原理と「公」
の原理―戦後デモクラシーの試練」『朝日新聞』1971 年 3 月 4 日夕刊〕が,戦前の公私 の関係は「滅私奉公」と言われたように公と私は両立不可能な対立関係にあるとされて います。つまり公のためになるには私を殺さなければならない。だけど本当は,公とい うものはそれ自体存在するものではありません。社会を構成している全ての私的な個に 共通するものを公と言うだけで,「私」がなければ「公」はそもそも存在しないのです。
我々は社会的人間であるから,全体の個の利益が守れるような社会=公を作らなければ ならない,それが本当の公ですよ。つまり私のための公,あらゆる人の私が保障される
ような公を考えなくてはならない。ところが「滅私奉公」とは「私」を無にしないと「公」
に貢献することができないという主張で,それは,国民の私を否定してお上という権力 者の私を公にすり替えているだけなのです。そういう虚偽意識のうえに日本の天皇制国 家は出来上がっています。
ところが戦後は「滅私奉公」は崩壊したが,再生された私が勝手に自己主張をするば かりで,国民一人ひとりの私益を社会という公共のレベルで実現する―それが政治と いうものだが―その政治についての構想が育たない。そのため結局は,力の強い(金 や票を持った)限られた「私」だけが政治を動かして物取りデモクラシーになってしま いました。
だから福沢(諭吉)(1835-1901)が公は私の集まりであると言っているところが大事な んですね。日本国は日本人の集まりであるという考え方,すなわち国家とか社会とか公 とか全体とかは,それ自体存在するものではないと考える,公共性の実体化の克服が必 要なのです。私から見れば国家はそれ自体としては存在しない,存在しているのは個々 の国民なのであって,それが集まったときに国家という概念が想像のなかで生まれるだ けです。福沢だけでなく兆民など明治の思想にはしばしば見られるこの思考がなぜ成長 しなかったかということが問題ですね。
【田澤】国家は実体ではないという考えは,敗戦経験で国家がゼロになったことが大きい のですか。
【松本】国家が無くなったというよりも敗戦によって「奉公」の結末とはこんなものかと いう挫折感,あるいは「滅私奉公」の国家に裏切られたという幻滅感のほうが大きい。そ れから美しい理念というのは眉唾だという考えが敗戦経験との関連から導き出された。
今「正義について論じよう」なんて言っているけど,正義とか平和とかの美しい理念は 信用するなということです。十五年戦争だって「平和」や「正義」という美しい言葉に よって飾られ正当化されていた。「アジア解放」「五族協和」という美しい言葉のなかに 放り込まれて我々は何にも言えなくなった。国家にだまされたということの思想上の意 味は,国家を信用しないということとともに,いわゆる普遍的な規範価値―と主張さ れるもの―への警戒と不信感であり,そうした理念の実態を見極めるためには,もう 一段掘り下げる必要があるということです。
普遍的な規範価値についての認識が丸山さんと私の違うところです。丸山さんは 18 世 紀啓蒙の子と自身で言い,普遍的正義が存在すると考える普遍主義者です。私の場合は,
人間の世界で普遍的価値として主張できるものがあるとすれば,それは生きるという事
実,つまり命とか生きたいという欲求だけであって,これが唯一の普遍的価値と考えて います。そしてその逆として死ぬ論理があり,天皇だけが生きる論理であって,国民は みな死ぬ論理によって説明されるのが天皇制国家の特質で,その象徴的な例は,ポツダ ム宣言受諾の際に日本側が国体の護持―つまり天皇だけは生きること―を唯一の条 件として提示したことです。そのように人間が生きること,ホッブスによれば自己保存 欲,つまり自然権ですが,ヨーロッパ近代はそれを自然法として原点と考えるところか ら国家や法の支配,さまざまな自由などが全て出てくる。その意味では私は近代主義者 なんです。生きるという事実を唯一の根拠としてそのためにはどういう制度がいいかを 考えること,生存権だけが究極の最終的な目的価値で,さまざまの自由権はそのための 手段であって究極の目的ではないと考えることが必要だと考えます。つまり生きること 以外は全て手段価値であって,社会制度とか文明とかというものは,そういう手段の体 系を意味するということです。そういう考え方が生きる論理を問題としている理由です。
でもいくら言っても,「そうです生命の尊重は大事です」とただ軽く流されてしまうだけ で,思想史の方法論としては問題にされていないように思います。
【平野】国家に裏切られたという感覚はどういったプロセスで出てきたのですか。
【松本】それはわからないが,触媒になったのは丸山さんです。「超国家主義の論理と心 理」〔『世界』1946 年 5 月号〕は読んでいたと思いますが,講義を聴く以前に「近世儒教 の発展における徂徠学の特質並にその国学との関連」〔『国家学会雑誌』1940 年 2 月〜 5 月号〕や「近世日本政治思想における「自然」と「作為」―制度観の対立としての」
〔『国家学会雑誌』1941 年 7 月・9 月・12 月・1942 年 8 月号〕などの学術的論文は読んで いないです。あのときは『世界』を手に入れること自体が大変で,発行後しばらく経っ て手にしました。おそらく講義を聴く前だろうとは思います。
丸山さんとの出会いは,1945 年 11 月の緑会での復員学生歓迎会というものがあり,教 員側の復員者として丸山さんが話をしたときです。そこで初めて丸山さんて面白い人だ な,と思った。軍隊でいかにバカにされたかということを面白おかしく話されたのです。
そこで名前と顔を初めて知った。その後『世界』の「超国家主義の論理と心理」が評判 になり,これは読まなくてはと思いました。講義は 3 年生の科目でしたが,2 年生のとき に聴きました。たまたま法律の講義で休講があり,掲示板で講義の時間割で探したとこ ろ同じ時間に丸山眞男「東洋政治思想史」というのがあった。あの面白い人だと思って 途中から入ったんです。そしたら儒教の理と気の話をしていましてね,戦争中は道徳論 としてよく聞かされたものだが,それを哲学論として話していて感心し,それから続け
て聴くこととしたのです。その後翌年も聴いてレポートを出し単位をもらったのです。
【平野】丸山の「軍国支配者の精神形態」〔『潮流』1949 年 5 月号〕などの論文に対する違 和感はありましたか。
【松本】それはなかった。普遍的価値の問題に疑問を持ち考えるようになったのは,東京 教育大での演習でタルコット・パーソンズ(1902-1979)の『社会的行為の構造』〔Talcott Parsons, The Structure of Social Action, New York, 1949.〕という英語本をテキストにし たことがきっかけです。私のゼミは日本政治思想史ですが,日本の思想を分析する枠組 みに役立つ政治理論や社会理論についての外国語文献を毎年テキストとして取り上げて いました。
またR. N.ベラー(1927- 2013)も『徳川時代の宗教』で取り上げているのですけれど
も,これらを通してパーソンズは,近代の社会は本質的に経験主義的で功利主義的な考 えのうえに成り立っていること,近代の社会はその功利主義的な価値を追求する目的合 理的な行為という手段の体系として出来上がっていることを教えてくれました。それが 非常に頭に残った。目的と手段という関係で近代の思考方法を捉えていくことが必要だ と感じたことは覚えています。それと経済的価値というものは全ての人間個人にとって 普遍的たりうる価値であり,政治的価値は集団的価値である点で本質的に特殊個別的な 価値である,つまり前者は個人主義で普遍主 義 的価値態度を形成し,後者は集団主義で 個別主義的価値態度を形成するという考え方にも大きな示唆を受けました。この問題は,
その後も私の念頭を離れず,自分なりに考えるようになったのです。そのようなことで だんだん整理されてきて,思想という観念形態が形づくられる原点として,生きるとい う欲求とか生活事実とかをすえることの重要性について考えるようになった。そしてそ のような形で思想が生み出された場合に,初めて思想というものは単なる観念ではなく 現実のなかで力を持って働くものになるということに行き着いたわけです。
4 生活と思想
【平野】先生の(長谷川)如是閑論につながっていくものですね。
【松本】そうです。私がとくに大正期の如是閑を評価するのもその点です。またこのよう な思想のあり方の大切さを教わったのは竹内好(1910-1977)です。「中国の近代と日本の 近代」〔東京大学東洋文化研究所編『東洋文化講座』第 3 巻,白日書院,1948 年〕など思 想のあり方を論じているものや,(1950 年 1 月に)日本共産党がコミンフォルムの批判を
受けて転換をした際,竹内は日本共産党批判をしている。そのなかで,竹内が「思想は,
生活から出て,生活を越えたところに独立性を保って成り立つものであろう」〔竹内好「日 本共産党に与う」『展望』1950 年 4 月号,後に「日本共産党論」と改題(『竹内好全集』第 6 巻,筑摩書房,1980 年,141 頁)〕と言っていますが,これこそ思想の本質を的確に表 現したものと感心しました。
【平野】先生は竹内といつ知り合ったのですか。
【松本】もちろん竹内は一世代上の大先生ですから個人的にお付き合いするような関係で はありませんでした。竹内が私にとって大きな存在として意識されるようになるのはい つ頃からなのか,はっきりした記憶はありません。ただ潮出版社の企画で竹内と対談を したことがあります。というのは後になって気づいたのですが,私が言う「生きる」論 理という考え方は,創価学会の池田大作(1928-)も同じようなことを言っているのです ね。私は 1960 年代の後半,いわゆる大学紛争あたりから創価学会から非常にシンパシー を寄せられ,『潮』という雑誌に缶詰めにされて書かせられたりした。その頃創価学会の 立場は反代々木的リベラリズムで,たしかに私の立場と近かったし,竹内さんもそうい う意味でシンパシーを寄せられた。それで『日本の将来』という潮出版社の季刊雑誌で 対談をやらされた〔竹内好・松本三之介「近代化の選択―日本型と中国型」『日本の将 来』1971 年春季号,1971 年 5 月〕。他にも本の編集などで会いましたが,おそらく竹内 の名が私にとって身近なものになったのは,60 年安保の頃からではないかと思います。
文献的にさかのぼっていくと,竹内は民族感情や生活事実に基づいた思想が生きた思 想であるとし,その点で中国共産党を評価しました。戦前の日本のコミュニズムは,ナ ショナリズムを敵に回してしまったから民衆との結びつきを失い,実践的には不毛で あって,結局,獄中で抵抗するしかなかったと言われる。竹内は戦前の日本共産党は唯 一民衆の心情を吸い上げるものであった日本の国民主義,民族主義を理解できなかった とする。だからそれをコミュニズムの根底にすえていけば,日本のコミュニズムも本当 に活気のある思想として国民の支持を得た実践運動になる可能性があった。そのことは 中国共産党がその範を垂れているではないかというわけです。
それを思想史の方法として言えば,民族主義と結びつくこと,それはイズムとイズム との結びつきではなく民衆の生活事実を吸い上げてそれをコミュニズムという形で実践 運動に展開していったからこそ,あれだけの力を持つことができた。思想というものは 生活から出て,そして生活を越えるところにあるという言葉に私はビーンと来た。生活 だけでは思想にならない。民衆思想というのは本質的に生活事実にとどまっている思想
であって,生活を離れて思想化するまでに至っていない。思想化というのは知識人の仕 事ということになるわけです。生活から出てしかも生活を離れて成り立つものが思想で あるという竹内の言葉から,私は生活事実に関心を持ち,民衆の生活の欲求,自己保存 欲に関心を持った。やなせたかし(1919-2013)のアンパンマンはまさにそれだと共感し ているのです。
だから一方では竹内好の影響を受け,他方ではパーソンズによって理論的な整理の手 がかりを掴んだということです。理性というのは目的価値ではなく手段価値であると考 え,目的に対して合理的な―ということはつまり有効なということですが―手段を 発明したり発見したりすることのできる思考力が理性ということになります。理性とは 人間を当為に向かわせる自己規律的な性能と考える丸山さんとはこの点が違うところで す。たとえば暴力団が暴力行為をするために有効な組織(組長を頂点とするピラミッド 型の組織など)を整えることも合理的であって,それは理性の働きによるものというこ とになります。理性を普遍的なものと言うのならば,普遍的というのはそういう意味で す。ですから質問のところにあるように〔田澤・平野・藤村が事前に提出した「人格と いう規範性の問題点について」という質問項目をさす〕,私が規範的人間観と呼ぶのは,
生存の欲求という人間自然の価値と対立し,むしろ自然的価値をコントロールする当為 的価値(たとえば正義,道徳,自由,ヒューマニティ,祖国愛ないし民族愛・・・)を 人間にとっての価値と考える立場です。しかしこれらの当為的価値は,現実問題として 万人に通用する普遍妥当な内容や実体をまだ持つには至っていない。結局,普遍的価値 として万人が認めるものは生命という価値であり生存の欲求だけと考える外ないという ことになる。しかしこのことは丸山門下のグループでは理解されないというか,そもそ も問題として存在してないように思います。
【平野】先生は戦時下の如是閑をどのように評価されていますか。
【松本】如是閑が日本文化論のほうに行ってしまうことをどう考えるかという点について は,転向という見方もありますが,ああいう形で時代の風をよける姿勢をとったと見る こともできるでしょう。日本のファッショ的な体制に対して正面から批判するというこ とはなくて,文化的な日本主義でしのいだという点はさすがだと思います。政治的日本 主義に行かなかったのは,政教社の日本主義から来ている。(陸)羯南(1857-1907)のよ うに一種の生活スタイルを日本の文化的伝統だとし,非政治的な領域に日本の伝統を見 ている。政治的伝統と言われている天皇制は,摂関政治や武家政治など異なるものが歴 史的に存在し,伝統ではない。日本の伝統と呼びうるものは,生活のスタイルだという
考え方であり,これを保守主義として切り捨ててはいけない。非政治的な世界に日本の 天皇制の伝統を見るか,政治的な世界に見るかで,思想の機能が変わってくるわけです。
政教社の日本主義がなぜあれだけ藩閥官僚政治と対立できたかと言えば,それは文化 的日本主義だったからです。同じナショナリズムでも政治的か非政治的かで機能が変 わってくるという例ですね。如是閑の日本文化論は政教社的な日本文化論と考えること ができる。でも大正時代の如是閑に見られた集団主義的社会観による現代社会批判や現 代国家批判は,戦中期には影をひそめたので,その意味では一種の思想の転換と言える でしょう。
【田澤】如是閑に対する先生の評価は大正デモクラシー期の議論にあるのでしょうか。
【松本】如是閑の思想は,政治思想としては大正から昭和初期で終わっている,思想その ものは良質な日本思想で最後まで貫き通したとは言えますね。しかも社会に向かって発 表し還元していたわけですから,政治中心主義的な国体論に対する間接的な批判でもあ り,おそらく文化的日本主義のほうが日本人にとって誇るべきものなのだということを かすかにつぶやいていたと理解できるのではないでしょうか。
【田澤】文化的なナショナリズムを戦後に求めるとするとどこに求められますか。
【松本】戦後思想のなかに置き換えてみると文化的ナショナリズムも三島由紀夫(1925- 1970)の文化的天皇制論のように危険なものになる可能性があり,象徴天皇制擁護の根 拠に用いられると「待てよ」ということになる。戦前のように政治的天皇制が支配して いたからこそ,文化的日本主義の主張は思想史的に見て良質な意味を持ちえたのです。日 本国憲法の下での今の段階では状況がまるで違うのですから軽率には言えないんじゃな いかな。安倍晋三政権でも文化的ナショナリズムを強調していますよね。「美しい日本」
という言い方にもそれは表れています。象徴天皇制の問題点として一番わかりやすいの は,皇室という特別のファミリーを認め,平等の原則に反するのではないかということ でしょう。ただし具体的に多くの人を納得させるための理論は難しい。
【田澤】今や安倍政権に唯一対抗する勢力になっているのが天皇ですね。
【松本】それは現在の天皇によって,象徴天皇制が予想以上に良質なものとして実践され ているからです。災害があると被害者の見舞いに避難所に行き,床に膝をついて見舞い を言うというシーンを見ると,もう太刀打ちができない。
【田澤】戦後における天皇戦争責任論についてはどうお考えですか。
【松本】私は天皇退位論です。少なくとも昭和天皇は退位すべきであった。天皇は将来帝 室博物館にある財宝を守る館長になったらいいのではないかという立場で,『朝日新聞』
のアンケートに 10 年後の日本の風俗や天皇の予想について 2 度ほど回答したときにその ように答えました。皇室に所蔵されている歴史的・文化的に貴重な御物を管理し展示す る公的な機構の責任者になったらどうかという考えです。
【田澤】敗戦後の大学生は天皇制をどのように捉えていましたか。
【松本】天皇制の問題は当時の多くの学生にとっても中心的な関心の対象でした。多くは 天皇制反対,象徴天皇制も反対だったですね。天皇に法的な権限があるかどうかという より,私が後に国学の研究で取り上げた問題につながるわけですが,非政治的であって もある種特別な人格的権威の担い手である天皇は,存在すること自体に権威主義的政治 体制の強化に利用される危険性がつねに潜在する。つまり非政治性の政治的役割という ことで,天皇という人格そのものが特別なある種の伝統的権威を継承したままで存続す る場合,人間の自由や平等,あるいは個人の自立という原則に矛盾し障害になるのでは ないかという考えでした。
この問題は,2016 年以来の天皇退位をめぐる保守派の主張として再浮上しています。生 前退位に対するいわゆる慎重論の根底にある考え方は,皇位は男系の男子に限定すべし という「万世一系」論と結びついた天皇観です。それは象徴天皇の存在理由を「国民に 寄り添う」任務の遂行にあるとする現天皇の近代的=合理的な機能主義に対抗し,伝統 的な非政治的天皇の政治的役割の実現を狙った主張と言うことができます。
5 アジア論について
【藤村】先生のアジア論について,生きる理念が普遍的だとするとアジア連帯はどうなっ てくるのですか。「国民的使命観の歴史的変遷」〔『近代日本思想史講座 第 8 巻 世界のな かの日本』筑摩書房,1961 年〕の当時の文脈上の意味は何でしょうか。
【松本】あの論文の場合は,「大東亜共栄圏」に行きついてしまう日本のアジア連帯とは 連帯と言いながら相手国の自主独立は脇に置いてしまって,自国の国家的独立の手段と してしかアジアを位置づけることができないという自己中心主義を問題とすることでし た。本来なら日清・日露戦争に勝利し,「世界のなかの日本」ということがしきりに論じ られたのだから,植民地化からの解放というアジアへの貢献が日本民族の使命として出 てきていいはずだが,それができなかったのです。
三宅雪嶺(1860-1945)などは,日本が世界の列強と肩をならべるまでになったのは,
もっぱら軍事的な力によるのであって,文化的な力によって世界に貢献できるようにな
らなければ本当ではないと主張していた。こうした発想を膨らませていけば,対華二十一 箇条要求に象徴されるような他国民の生活や文化に無神経な自己中心主義が大手を振っ てまかり通ることもなく,アジア連帯というものも日本とアジア諸国のナショナリズム の両立を前提とする構想が可能になったはずだが,そうした他者感覚が日本では育たな かった。むしろヨーロッパの進出に対する砦としてのみ他国を捉え,アジアの盟主と称 して日本の軍事的・政治的支配の拡大だけを追求することになった,というのがあの論 文の筋書きです。
【藤村】この論文では岡倉天心(1862-1913)への評価が高かったが,『近代日本の中国認 識』〔以文社,2011 年〕では(宮崎)滔天(1870-1922)や吉野のほうが先生の評価が高 くなっていると思います。
【松本】岡倉の場合も文化の視点に立っています。日本文化の歴史はインドや中国の文化 を融合しながら独自の文化を作ってきた歴史であり,それはアジアの国々がそれぞれ独 自性を持ちながら一つになりうることを示している,と天心は考えた。そうした文化的,
非政治的連帯の視点に立てば,政治的な支配被支配の関係をとることなく連帯が可能に なるはずだということで,これは現在のアジア共同体の構想でも同様の問題になるわけ です。つまり政治的にはそれぞれ独自の体制を認め民族的自立を尊重しながら,文化や 経済という非政治的な分野での交流を活発にして相互理解と信頼関係を深める,これは 今日のアジア共同体論でも可能な方法だと思います。経済というのは本来的にウィン・
ウィンの関係で,相互に納得しつつ利益を得ることができるのが経済的関係の成り立つ 原点ですから,そうした相互依存の関係を中心とする以外に連帯の方法はないのではな いかと思います。経済的利益を尊重し合うのは技術的に可能で,そういう基盤のうえで 政治的妥協すなわち協調の道を見つけていくことが賢明で現実的な方法だと思います。
「生きる」ということは今日のいわゆる人権外交として外交の正当化の論理として国際的 に使われてきているわけです。
【藤村】『近代日本思想史講座』〔筑摩書房,1959-1961 年〕の編集経緯について教えてく ださい。
【松本】編集委員の企画で,その人脈のなかから執筆者を選んだのでしょう。執筆者は歴 史学や思想史や哲学などの分野にとらわれず,文学や評論など広い分野から選ぶことを 心がけた点も特色の一つとされています。執筆にあたっては何回か研究会や打ち合わせ 会的なものが重ねられ,それを踏まえて構想が練られたように記憶しています。世界が 日本をどう見たか,日本が世界をどう見たかが提示されたわけです。そういうなかで日
本のナショナリズムを捉えた場合にどのようなことが明らかになるかということです ね4)。
【藤村】『近代日本の中国認識』を執筆した経緯はどのようなものですか。
【松本】日本の中国認識に関する論文などを方々で小出しに書いていて,その間に論点の 積み残しなども気になってきたことから,全体を整理しておきたいという気持ちが強く なったことと,まとめるなら他の研究者がやっていない方法をとりたいと考え,徳川時 代の儒学者・国学者から幕末・維新期を経て太平洋戦争までの思想を時代状況と関連さ せながら論ずるという叙述方法をとったわけです。もう一つ技術的なこととしては,そ の数年前に「かわさき市民アカデミー」の市民講座で講義を頼まれた際,「近代日本の中 国認識」というテーマで半年間話をしたので,おおよその筋立てはできており,何とか まとめられそうだと思ったからです。そこで以文社から何か書いてくださいという依頼 があり,吉野作造の仕事〔『吉野作造』東京大学出版会,2008 年〕が済んでからという条 件で引き受けたということです。しかし講義をもとにしながら資料を読み論理や内容を つめていくうちに,分量は市民講座の内容に比べ 3,4 倍になりました。
【藤村】先生の問題意識のなかにアジア認識はどのようなものとしてありましたか。
【松本】もともと日本のナショナリズム論が私の大きな研究テーマとしてあり,ナショナ リズムには形成史,運動論,イデオロギー論,理念論などいくつかの側面がある。ナショ ナリズムを対内的にも対外的にも正当化する論理は何か,それは使命感ではないか,強 国となった以上日本はどのようなミッションを持っていたか,結局は「大東亜共栄圏」に 行きついてしまったのは何故かというようなことを問題意識として持っていました。結 局は日本の独立という日本中心主義を吹っ切れていなかったということですね。
『近代日本の中国認識』執筆の際一番気になっていたのは,野村浩一さん(1930-)の研 究です。野村さんは同じ丸山門下でもあり,我々の仲間では唯一中国政治思想の専門家 でしたので,「近代日本の中国認識」についての彼の仕事〔野村浩一『近代日本の中国認 識―アジアへの航跡』研文出版,1981 年〕はつねに念頭にありました。中国認識とい う以上やはり中国研究の方の目線に耐えうるものを作れるかどうか気がかりでしたが,
幸い野村さんからは本の内容に対して好意的な感想が寄せられ,やれやれと思いました。
【平野】先生は橋川文三(1922-1983)ともお仕事をされましたし,また「橋川さんにとっ ての明治」〔『思想の科学』1984 年 6 月臨時増刊号〕という文章もお書きになっています。
橋川が思想史研究において反近代の思想,たとえば西郷隆盛(1828-1877)などにこだわ る姿勢について,先生はどのように見ておられましたか。橋川には戦中派という意識が
ありましたが,先生の場合はどうでしょうか。
【松本】私は最後の戦中派と言えるのでしょうね。私は大学闘争で学生の行動については もちろん支持しませんでしたが,提起された問題に影響は受けました。一言でいえば近 代的合理主義に対する批判であり,反近代ということですね。理性と非理性の問題など,
科学は仮説のうえに成り立っていること,また教授会は一つの権力機関だ,単位の認定 は権力行使だという視点は正しいと思いました。
6 思想史の研究方法をめぐって
【田澤】思想研究においてその同時代における機能を明らかにすること以外に重要な点は ありますか。
【松本】吉野が当時の藩閥官僚政治を批判したという民本主義の機能の側面は,信夫さん でさえ『大正政治史』で指摘している。思想史においても思想の政治的な機能の面を突 き詰めていけば,結局は政治史に限りなく近づくことになります。私の考えでは,思想 の機能ということはもちろん重要だが,思想史である以上そのような機能を支える思想 内在的な構造―思想の論理的な組み立て方や思考方法―は何かを明らかにすること が,同時に重要な課題にならなければならないと考えます。
吉野の場合それは,法制度的な建前と政治的な建前とを区別するという思考方法です。
小野塚喜平次(1870-1944)の法と政治の区別を引き継いで法的思考と政治的思考は異な るという立場に支えられた民本主義だから,民本主義という言葉は古臭いけれども思想 構造としてはきわめて斬新であり,実践的にも藩閥支配の虚偽性を国民の眼の前で明ら かにすることができたわけです。少数の藩閥政治家の意見が輔弼という形で天皇の統治 に反映し,文字どおりの天皇親政を制限しているのに,なぜ多数民衆の意見の尊重が天 皇親政の制限になるとの理由で,たとえば議院内閣制や政党内閣制を否定するのかとい う吉野の藩閥批判は,立憲主義を建前とする限り誰も否定できない論理です。しかも国 民のためというのは天皇統治の理念でもあるのだから,民本主義が天皇統治の国体に反 するという批判は,論理的にも無理なことです。そういう吉野の思考方法が,まさに藩 閥批判という機能を支えていたわけで,吉野の強さもそこから出ていたのです。思想史 においては思想の構造と機能との関連を明らかにすることが重要だという意味もそこに あります。
その点についてはいわゆる尊皇思想についても同じことが言えます。たとえば尊王論
もそれを支える思考方法の観点から二つの類型に分けて考えることができます。国学型 の尊皇
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論と儒学型の尊王
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論の二つです。それは,二・二六事件における青年将校をめぐ る軍部内の統制派と皇道派の対立が両者の「尊皇」ということについての考え方の違い と関連していると考えました。これを資料的に裏づけるとなると大仕事になりますが,儒 学の水戸学の尊王論は皇道派で,天皇統治をあくまでも皇道という統治理念に沿ったも のでなければならぬと考えます。したがって現実の天皇統治は君側の奸によって皇道か ら逸脱しているとし,一部の側近勢力を排除せねば政治の腐敗を正すことはできないと 反体制的行動に出る論理が生まれる。それは反乱ではなく愛国あるいは救国であるとし て正当化する思考方法です。
これに対して統制派は国学型(宣長的)尊皇論では,天皇を頂点とするピラミッド的 秩序そのものを天皇統治の本質と考える。そこでは上下の秩序を尊重することが正義で あり,「よくても悪くても上のおもむけに従う」ことこそが道=正義であるとする。した がって「下克上」は理由の如何を問わず悪であり,「承詔必謹」が臣民の道として説かれ ます。そこでは,上司の指示命令はすなわち頂点に立つ天皇の指示命令とされるから,青 年将校たちが上司の指示命令もなしに勝手に兵を動かすなどというのは反乱以外の何も のでもないとして断罪されるのです。
【田澤】先生の『明治精神の構造』〔岩波現代文庫,2012 年〕には思想の機能と構造とい うご指摘があります。マルクス主義に対してどのようにお考えですか。
【松本】『明治精神の構造』に書いたように,思想とは何かを問題とする場合,思想を外 的な状況の産物とする視点と,思想は思想の世界そのものの産物だという視点の二つが 考えられます。私は,この二つの視点ともに必要とする立場で,前者はとくに思想の機 能を考えるうえで重要ですし,後者は思想の内的な思惟構造を理解するうえに重要と考 えます。また前者の視点,つまり思想外の状況を思想の下部構造と考えるにしても経済 関係に限定せず,もっと広い状況を設定すべきだと考えています。マルクス主義が言う 生産関係などの経済的な下部構造は私の言う状況の一部にすぎず,その他のさまざまな 要因,たとえば広い意味での社会構造や生活様式,風土,文化的伝統の存在なども含め て考えるべきでしょう。とくにフロイトの言う無意識の世界,これは自覚されていない ものですが状況のなかに含めて考えることができると思います。とりわけ思想の意味や 役割を考える場合,思想形成の環境として状況をどのように規定し設定するかは,思想 研究にとって重要な課題の一つということができます。
もう一つは思想の相対的な独自性という問題です。この点はマルクス主義では十分に
把握されていません。主体性論争でも明らかになったように,マルクス主義は理論が正 しく構築され理解されれば,正しい実践につながるという考え方です。これは日本だけ のことかも知れませんが,そのため理論武装ということが主張され,いわゆる「理論信 仰」が生まれました。
しかし主体性論で問題になったように,思想は思想でありながら書斎で共有されるだ けでなく現実と関わり実践の力を持つものになる必要があります。マルクス主義は理論 が先に立っていますが,現実には個人的な世界観とか価値観,あるいは社会的正義感と か人間的な怒りなどの感情が行動を生み出すのが普通ではないでしょうか。そういった 社会的な痛覚ともいうべきものが思想と結びついて初めて民衆を体制変革へと導く実践 的な力になりうると思っています。思想を生み出す状況のなかにナショナルな感情のよ うな非合理的なものを含めて考えるということは竹内好さんからも教わりました。これ までのマルクス主義の方法では,前衛党の理論武装や戦略戦術論はできても,広く社会 的に力を持つ思想はなかなか形成されない。初期のマルクス主義には,『ドイツ・イデオ ロギー』の人間疎外論などにも見られるように人間をトータルに捉える視点がありまし た。日本のマルクス主義でも,明治の社会主義にはヒューマンな人間観が見られたので すが,「冬の時代」を乗り越えた大正期のマルクス主義においては解釈学に深入りするに つれて,みずみずしい活きた人間の視点は失われていきました。このような解釈学的傾 向が亢進した背景には,日本の儒教以来の解釈学の伝統の影響があるのかも知れません ね。
【田澤】儒教の影響というと,解釈学的であるのは東アジア的なものとして捉えられます か。
【松本】地域的なものとは必ずしも言えないように思います。毛沢東の場合も「毛沢東思 想」と呼ばれたようにマルクス・レーニン主義の中国的な発展形態としての側面を持っ ていましたが,現実的な実践が重視され,解釈学に陥ることはなかった。日本の場合は,
やはり思想形成と生活感覚との根本的ずれの問題があるためではないでしょうか。
【田澤】竹内好の議論に対する評価はどのようなものでしょうか。
【松本】竹内さんは人間存在の基礎に民族をおいていて,個人ではない。個人は民族のな かに入って初めて人間の意志の力を発揮するというのが竹内さんの考え方。そういう意 味では民族主義者であり民衆主義者です。私は民族という集団的トータリティよりも個 の自立を重視する立場になりますね。
【平野】竹内の民族主義への関心はどのようにして生まれたと考えられるのでしょうか。