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和氏父子撰『疑獄集』の整理

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和氏父子撰『疑獄集』の整理

その他のタイトル On Yi Yu Ji (『疑獄集』) compiled by He Ning (和凝) and his Son He Meng (和崚)

著者 佐立 治人

雑誌名 關西大學法學論集

巻 51

号 6

ページ 1159‑1185

発行年 2002‑02‑28

URL http://hdl.handle.net/10112/00023544

(2)

和氏父子撰

﹃ 疑 獄 集

﹃疑獄集﹄の原形

五代後晋の宰相︑和凝が著し︑その子︑峨が増補した﹃疑獄集﹄が︑本来︑和凝が集めた二十九話を収めた上巻と︑

和峨が集めた三十八話を収めた中巻︑下巻との計三巻六十七話から成るものであったことは︑次に掲げる記事を見る

﹃郡斎読書志﹄巻八︑刑法類︒﹁疑獄三巻︒右︑晋和凝撰︒纂史伝決疑獄事︒其上巻︑凝書也︒下中巻︑凝子峨

﹁直斎書録解題﹂伝記類︒﹁折獄亀鑑三巻︒︵中略︶初︑五代宰相和凝︑有疑獄集︒其子水部郎和濠︑続為︱二巻六

﹃玉海﹄巻六十七︑詔令︑刑制︑紹興折獄亀鑑︒﹁和凝著疑獄集三巻︒︵中略︶和凝集古今明於聴断者二十九条︑

j

の整理

治 人

(3)

ところが︑四庫全書本の﹃疑獄集﹂十巻では︑明の張景が増補した後半の六巻を除き︑和氏父子が編纂した﹃疑獄

集﹄は四巻に分けられており︑巻一に二十三話︑巻二に二十四話︑巻︱︱一に十九話︑巻四に十三話︑全四巻に計七十九

話が含まれている︒しかも︑巻頭に掲げられている和峨の序文には︑﹁先相国魯公︵和凝を指す︒佐立注︶︑嘗て︑古よ

り以来の︑争訟︑究め難く︑精察︑情を得ること有る者を採り︑疑獄集二巻を著し︑鍍笥に留む︒﹂︑﹁百条を満たさ

んことを期し︑四軸に勒成す︒上二巻は先相国︑編纂す︒下二巻は小子峨︑附続す︒﹂とあり︑和氏父子が編纂した

﹃疑獄集﹄は︑全四巻計百話から成ることが明記されているのである︒

四庫全書本﹃疑獄集﹄十巻の原本は︑﹁四庫全書総目﹄巻一〇一によれば︑浙江苑懲柱家天一閣蔵本である︒楊奉

現﹃疑獄集・折獄亀鑑校釈﹄︵復旦大学出版社︑一九八八年︒以下︑﹃校釈﹄と略称する︒︶は︑咸豊三年嶺南徐氏校

刊十巻本﹁疑獄集﹂を校勘の底本として︑﹃疑獄集﹄の第一巻から第三巻までを収録している︒﹃校釈﹂に収録されて

いる﹃疑獄集﹄は︑四庫全書本﹃疑獄集﹂の巻一から巻三までと比べて︑話の配列順序及び巻分けは全く同じであり︑

文章も︑細かい違いはあるが︑ほとんど同じである︒ただ︑話の標題は相当異なっている︒

楊奉現﹁校釈﹄の﹁前言﹂は︑四庫全書本を含む︑﹁疑獄集﹂の現存刻本の第四巻に輯められている十三話は︑そ

れぞれ︑金の年号が出てきたり︑和峨が﹃疑獄集﹂を完成させた後に生まれた人物が登場したりすることから︑すべ

(

0)

(4)

哀滋︵話の番号は︑劉俊文﹃折獄亀鑑訳註﹄︵上海古籍出版社︑

(

一九八八年︶に従う︒以下同じ︒︶では︑本文の末尾

1 5

し︑実は︑そうではない︒ 一見︑思われる︒しか て︑後人が妄増したものであると断定している︒この断定に従って︑四庫全書本の巻四の十三話を︑巻一から巻四までの七十九話から除くと︑巻一から巻一=までの六十六話が残る︒三巻六十六話という数字は︑和氏父子が編纂した

﹃疑獄集﹂の本来の形を表す三巻六十七話という数字に近い︒そのため︑四庫全書本﹃疑獄集﹄の巻一から巻三まで

は︑和氏父子が編纂した︑もとの﹃疑獄集﹂から一話が欠けただけの姿を保っているように︑

和氏父子が﹃疑獄集﹂の中に実際に集めた六十七話の内容は︑宋の鄭克が編纂した﹁折獄亀鑑﹄を検索することに

よって︑ほぼ完全に知ることができる︒﹃折獄亀鑑﹄︵四庫全書本を見た︒︶に記載されている話には︑その末尾に﹁旧

﹃郡斎読書志﹂巻八に︑﹁決獄亀鑑二十巻︒右︑皇朝鄭克︑編次す︒五代和凝︑疑獄集あり︒近時︑趙仝︑疑獄事

類あり︒皆︑未だ詳盛せず︒克︑因りて之れを増広す︒﹂と記されているから︑﹃折獄亀鑑﹂の注に﹁旧﹂とあるのは︑

和氏父子の﹃疑獄集﹂を指す場合もあれば︑趙仝の﹃疑獄事類﹄を指す場合もある︑と考えることができそうである︒

(2 ) 

しかし︑趙仝の﹃疑獄事類﹄について言及した箇所は︑﹁折獄亀鑑﹂の中に全く見当たらない︒

に﹁旧出康耕劇談録﹂という注が付されているが︑本文の後ろに記されている編者鄭克の按語に︑﹁和峨︑能<寃を

釈くとおもいて︑旧集に載す︒﹂という文が見られる︒注の﹁旧﹂という文字が﹃疑獄集﹂を意味していることを示

(5)

1を見ると︑﹃疑獄集﹂に既に採録されていると鄭克が記す︑﹃折獄亀鑑﹂の話の中に︑四庫全書本﹃疑獄集﹄の という事実を疑う必要はあるまい︒ 17

4 3

1

31

1 7 3

1 8 4

1

97

の按語にも見出される︒そこで︑﹃折獄亀鑑﹄の注の﹁旧﹂という文字は︑すべて﹃疑獄集﹄を意味しているとみな

して差し支えないと考える︒先学の間では︑﹁旧﹂字が﹃疑獄集﹄を意味していることは自明とされているようであ

(3

) 

る ︒

﹁旧出某書﹂﹁旧不著出処﹂と注記され︑また︑﹁和凝﹂﹁和峨﹂﹁疑獄集﹂の名が本文や注︑按語に明記されている

ことにより︑﹃疑獄集﹂に既に収録されていたことが知られる︑﹃折獄亀鑑﹂の話の番号と標題を掲げると︑表1

列のようになる︒表1の右列には︑それらの話が﹃疑獄集﹄に収録されていることを示す︑﹃折獄亀鑑﹄の字句を記

入した︒中列には︑それらの話に対応する四庫全書本﹃疑獄集﹄の話の番号を記した︒四庫全書本﹁疑獄集﹄の話の

0頁︶は︑﹁﹁折獄亀鑑﹄の︑条ごとに旧有を注明する者︑凡

て六十八条︒﹃書録解題﹄及び﹃玉海﹄の言うところに較べて僅かに一条多きのみ︒これを以て参互してこれを考う

れば︑則ち和氏原本の真面目︑約略︑見る可し︒﹂と述べている︒けれども︑表1からわかるように︑﹃折獄亀鑑﹂に

収録されている話のうち︑﹃疑獄集﹄に既に採録されていたことが知られる話は︑計七十一話ある︒六十七話という

数より四つ多い︒しかしこれは︑同一人物に関する複数の記事を一条にまとめていた﹃疑獄集﹄の話を︑﹁折獄亀鑑﹄

が別々の条に分けて収録したために生じた現象であろう︒和氏父子が編纂した﹃疑獄集﹄が六十七話から成っていた︑ 番号は︑話の排列順に沿って付けた︒

関法第五一巻六号

(

(6)

1(1) 

(

13

91

11

51

61

71

81

92

041

43

44

46

47

48

49

50

51

68

71

77

80

81

10

71

15

11

61

17

11

81

31

13

11

31

14

01

53

15

41

55

 

和氏父子撰﹃疑獄集﹄の整理

疑獄集

23  なし なし 35  54  48  39  34  60  24  10  19  18  51  58  42  32  25  31  29  46  22  なし 59  61  41  16  63  43  36  27  45 

折獄亀鑑の注記

「旧出呉志本伝」

「旧出晋載記本伝」

「旧出北史柳軋伝」

「旧不著出処」

「旧出康耕劇談録」「和峨」

「旧不著出処」

「旧不著出処」

「和峨所聞五代時事」

「和峨載玉堂閑話」

「旧不著出処」

「旧不著出処」

「旧出呉志注」「凝」

「旧出晋害載記本伝」

「旧不著出処」

「旧不著出処」

「旧不著出処」

「旧不著出処」

「旧不著出処」

「旧不著出処」

「旧出呉志陳武伝」

「旧不著出処」

「旧不著出処」

「旧出晋書本伝」

「旧出南史本伝」

「旧不著出処」

「旧出唐書本伝」

「旧不著出処」

「旧不著出処」

「旧不著出処」

1日出独異志」

「旧不著出処」

「旧不著出処」

「旧不著出処」

「旧出後漢書本伝」

「旧出魏志本伝」

「旧不著出処」

(7)

1(2) 

寿

1 73 1

7 31 7

3 17 4

1 79 1

8 01 8

3 18 4

1 85 1

8 61 8

7 18 8

1 97 1

9 71 9

8 20 1

2 05 2

0 62 0

7 20 9

2 15 2

1 62 1

7 21 9

2 20 2

2 72 3

1 23 5

2 36 2

3 72 3

8 23 9

2 41 2

4 82 6

0  

疑獄集

14  なし

, 

26  28  62  66  15  57  なし 20  49  53  なし 55  50  37  111213

47  52  17  56  44  33  65  40  なし なし 21  38  64  30 

折獄亀鑑の注記

「旧出風俗通」

「疑獄集又載ー事」「出北史本伝」

「別載ー事」「出北史子栗碑伝」

「旧出風俗通」

「旧出魏志本伝」

「旧出魏志本伝」

「旧不著出処」

「旧不著出処」「和凝」

「旧出南史本伝」

「旧出南史顧凱之伝」

「旧出北史本伝」

「和峨所聞之事」

「旧出唐書本伝」

「疑獄集又載」「旧不著出処」

「旧不著出処」

「旧出晋書本伝」

「旧出唐書本伝」

「旧不著出処」

「旧不著出処」

「旧不著出処」

1日出北史本伝」

「旧出北史本伝」

「旧不著出処」

「旧出北史高恭之伝」

「旧出五代史本伝」

「旧不著出処」

「旧不著出処」

「旧出春秋後語」

「旧出晋害本伝」

「旧出北史楊播伝」

「旧出北史柳糾伝」

「旧不著出処」

「旧出風俗通」

「旧不著出処」

「旧出魏志本伝」

︱ 二

0

(

七十一話 六十五話

(8)

和氏父子が編纂した﹃疑獄集﹂に採録されていた六十七話のうちの六話が欠けているのに︑四庫全書に収められて

いる﹁疑獄集﹄の巻一から巻三までの中になぜ六十六話もあるかと言えば︑そこでは︑張鶯に関する一話が第五十一

話﹁張鶯括詐書﹂︵﹃折獄亀鑑﹂49張鶯に対応する︒︶と第五十二話﹁放襲求匿鞍﹂︵同上

2 1 7

張鸞に対応する︒︶の二話

は欠けていることになるのである︒

2 0 5

張允済とに対応する話が︑本来の﹁疑獄集﹄ではそれぞれ一話に括られていた︑と仮定すると︑3

1 1 6

譜 ︑ 1 7 3

2 3 7

楊津にそれぞれ対応する四話を合わせて︑計六話が︑四庫全書本﹃疑獄集﹄の巻一から巻三までに 中には含まれていない話は︑

(

巻一から巻︱二までの中に︑対応する話が存在しないものがあることに気付く︒3符融︑9柳慶︑

1 1 6

1 7 3

1 9 7

2 0 5

2 3 7

2 3 8

柳慶の八話がそれである︒そのうち︑

1 1 6

1 7 3

2 3 7

2 3 8

それらに対応する話が︑四庫全書本﹃疑獄集﹄巻五の中に見出される︒それぞれ﹁程闘捜努﹂﹁次武各駆﹂﹁楊津獲

絹﹂﹁柳設榜牒﹂と題されている︒四庫全書に収められている﹃疑獄集﹂の巻五は︑明の張景が編纂した巻である︒

四庫全書本﹃疑獄集﹂巻五のこれら四話の文章は︑﹃折獄亀鑑﹂や﹃棠陰比事﹂︵四明叢書本・須原屋伊八版︶︑話の出

処である﹃北史﹂の文章とは相当異なっているが︑明の呉訥が編纂した﹃棠陰比事原編﹄︵学海類編本を見た︒︶の文章

(4 ) 

とほぼ同じであるので︑張景は︑これら四話を﹃棠陰比事原編﹄から採った︑と断定できる︒

一方︑四庫全書本﹁疑獄集﹄巻一の第七話﹁季珪智鞭絲﹂は︑﹃折獄亀鑑﹄の第一八七話﹁博淡﹂に対応する話で

あるが︑﹃折獄亀鑑﹂には︑﹁博淡﹂の話が﹃疑獄集﹄に既に採録されていたことを示す字句は見られない︒

このように︑和氏父子が編纂した﹃疑獄集﹄に採録されていた話で︑四庫全書本﹃疑獄集﹄の巻一から巻三までの

一話だけには止まらない︒﹃折獄亀鑑﹄の9柳慶と

2 3 8

柳慶とに対応する話︑及び

1 9 7

張元

(9)

に分けられ︑慕容彦超に関する一話が第五十六話﹁慕容執仮銀﹂︵同上

2 2 0

慕容彦超に対応する︒︶と第五十七話﹁彦超

1 8 8

の二話に分けられ︑高激に関する一話が第十一話﹁王撒市鹿膊﹂︑第十二話

﹁認皮獲賊﹂︑第十三話﹁書菜認賊﹂︵すべて同上

2 1 5

の三話に分けられ︑さらに︑第七話﹁季珪智

鞭絲﹂が加えられることによって︑合計五話が水増しされているからである︒

~

一話よりも多くの話が欠けているだけではない︒﹃折獄亀鑑﹄の第一八四話﹁張挙﹂に︑﹁按ずるに︑和凝の著すと ころの二十九条は︑皆︑時代を以て次と為す︒其の︑挙の事を書するは︑呉人の末︑晋人の前に在り︒﹂という注記 が見られる︒しかし︑四庫全書本﹃疑獄集﹄の第一話から第二十九話までの二十九話︑あるいは︑第七話を数えず︑

第十一話︑第十二話︑第十三話の三話を合わせて一話と数えるのであれば︑第三十二話﹁陳表求情﹂までの二十九話 は︑時代順に配列されてはいない︒第三十三話以降の話も同様である︒そして︑本来の﹃疑獄集﹄では﹁呉人の末︑

晋人の前﹂に配置されていたはずの張挙の話は︑四庫全書本では︑﹁張挙辮焼猪﹂と題されて︑前秦の符融の話︵第

じ︒和氏父子︑各々︑

の第十七話﹁荘遵﹂に︑﹁旧︑出処を著さず︒亦た何代の人なるかを著さず︒蜀の荘遵と姓名同 一事を載せ︑皆︑巻末に附す︒﹂と注記されている︒すると︑本来の﹃疑獄集﹄では︑二十九 話目と六十七話目とに荘遵の話が置かれていたことになる︒しかし︑四庫全書本では︑荘遵の話が置かれているのは︑

十六話目︵第十六話﹁荘遵聞哭姦﹂︶と四十八話目︵第四十八話﹁荘遵壁聴姦﹂︶である︒和氏父子が絹纂したもとの﹃疑

獄集﹄と四庫全書本﹃疑獄集﹄とでは︑話の配列が全く異なるのである︒

このように︑四庫全書に収められている﹃疑獄集﹄の巻一から巻三までの中に並べられている六十六話は︑単に︑

関法第五一巻六号

(

(10)

(

本来の﹃疑獄集﹄に編次されていた六十七話から一話が抜け落ちただけのものではないのである︒

(5

) 

ちなみに︑島田正郎﹁疑獄集・折獄亀鑑.棠陰比事﹂に拠れば︑﹁台北・国立中央図書館善本書室所蔵の紗本﹂は︑

﹁一冊・三巻﹂であるという︒三巻本である点が︑和氏父子が編纂した﹃疑獄集﹂のもとの姿を良く伝えているので

はないかと期待させる︒しかし︑﹁上巻に二三条︑中巻に二四条︑下巻に一九条︑計六六条が収められてある︒﹂とい

うことであるから︑収載されている話の総数及び巻分けは︑四庫全書本と全く同じであるらしい︒

四庫全書本﹃疑獄集﹄の文章

それでは︑四庫全書本﹃疑獄集﹄の巻一から巻三までは︑和氏父子が編纂した﹃疑獄集﹂三巻のもとの姿を︑どの

まず︑各話に付けられている標題であるが︑﹃折獄亀鑑﹄

2 0 0

張散の按語に︑﹁旧集に彰城書莱・元贋檎養の類︑すべ

て十余事有り︒﹂とある︒﹁彰城書菜﹂﹁元膚檎畳﹂の話に当たる︑四庫全書本﹁疑獄集﹄の話の標題は︑﹁書菜認賊﹂

鄭克が見た﹃疑獄集﹂に記されていた標題であるならば︑四庫全書本﹃疑獄集﹄の標題は︑﹃折獄亀鑑﹄編纂当時に

(6

) 

存在した﹃疑獄集﹂のそれとは異なっていることになる︒

次に︑話の出処の表示であるが︑﹃折獄亀鑑﹄の注記から︑﹃疑獄集﹂に出処が明記されていたことが知られる話で︑

四庫全書本﹃疑獄集﹄の中に見られる話のうち︑大部分が︑四庫全書本﹃疑獄集﹄では︑出処が記されていない︒

次に︑各話の本文であるが︑四庫全書本﹃疑獄集﹄の文章は︑﹁折獄亀鑑﹄が︑﹃疑獄集﹄に既に採録されていると

程度︑伝えているのであろうか︒

(11)

考えなければなるまい︒ 箇所が生じた可能性も考えなければならない︒ 注記して掲載する各話の文章と比べて︑かなり異同が見られる︒しかし︑このことは︑四庫全書本﹃疑獄集﹂の文章が︑和氏父子が編纂した︑もとの﹃疑獄集﹂の文章を受け継いでいることを否定する理由にはならない︒

3符融に︑﹁旧︑晋載記本伝に出づ︒夢を占うこと︑辞︑煩なれば︑その要を剛取するのみ︒﹂と注記

されている︒﹃折獄亀鑑﹄の文章は︑﹁晋書﹄巻︱一四︑載記︑符堅下︑符融条の文章とほぼ同じであるから︑﹁その

要を剛取﹂したのは﹃疑獄集﹄であったことが知られる︒つまり︑﹃折獄亀鑑﹂の編者鄭克が︑﹁疑獄集﹄に既に採録

されていた話を収録するに当たって︑﹁疑獄集﹄の文章をもとにせず︑﹁疑獄集﹄が話を採った原典に遡って︑その原

典の文章をもとにして︑文章を作成した場合があるのである︒実際︑四庫全書本﹃疑獄集﹄と﹃折獄亀鑑﹄と原典と

の三者の文章を比べると︑﹃折獄亀鑑﹄の字句と原典の字句とは一致しているのに︑四庫全書本﹃疑獄集﹄の字句だ

けが異なっている箇所が数多く見られる︒ただし︑﹃疑獄集﹄の文章に︑後世︑手が加えられたために︑そのような

﹃折獄亀鑑﹄の字句と原典の字句とが一致し︑四庫全書本﹃疑獄集﹄の字句だけが異なっている箇所の︑四庫全書

本「疑獄集』の字句の多くは、『棠陰比事』の諸本(四明叢書本・須原屋伊八板•四部叢刊本)の字句と一致している。

﹃棠陰比事﹄に付されている編者桂万栄の自序に︑﹁和魯公父子の﹃疑獄集﹂を取り︑参するに開封鄭公の﹃折獄亀

鑑﹄を以てし︑事を比べ辞を属せ︑七十二韻を聯成し︑号して棠陰比事と曰う︒﹂とあり︑﹃棠陰比事﹂の文章は﹃疑

獄集﹄の文章をもとにしていると考えられるから︑四庫全書本﹁疑獄集﹄の字句と﹃棠陰比事j

致していてもおかしくはないが︑後世︑﹃棠陰比事﹄の文章に合わせて︑﹁疑獄集﹄の文章が書き変えられた可能性も

(12)

例えば︑四庫全書本﹃疑獄集﹄の第三話﹁王撒案伏聴﹂に﹁与父妾乱﹂︵楊奉現﹃校釈﹄本も同じ︒︶という句が見ら

れる︒この話に対応する﹃折獄亀鑑﹄の話は

7 1 王敬であり︑﹁旧︑出処を著さず︒﹂とだけ注記されているが︑話の出

﹃朝野疲載﹄とのどちらも︑この箇所は﹁悉其後母﹂となっている︒そこで︑﹁与父妾乱﹂という句は︑本来の﹃疑

獄集﹂でも﹁悉其後母﹂と記されていたのが︑後世︑意識的に書き改められたものと考えることができる︒

と考えざるを得ないであろう︒

︱ ︱ 一 五

﹃折獄亀鑑﹄11蒋常に︑﹁旧︑出処を著さず︒まさに是れ唐人小説の載するところ︑今︑亡本たるのみ︒余の︑此

れに類する者︑同じ︒﹂と注記されている︒蒋常の話は張鶯﹃朝野餃載﹂が出処と考えられるが︑鄭克は︑蒋常の話

を記すに当たって︑﹃疑獄集﹄の記述だけをもとにして文章を作成したのであり︑﹃朝野禽載﹄は見ていないのである︒

﹁余の︑此れに類する者︑同じ︒﹂とあるから︑﹁旧︑出処を著さず︒﹂と注記されている﹃折獄亀鑑﹄の話の文章は︑

特に断りがない限り︑﹁疑獄集﹄の文章だけをもとにして作成されたと考えてよいであろう︒ところが︑そのような

﹃折獄亀鑑﹄の話と︑それに対応する四庫全書本﹃疑獄集﹂の話と︑話の出処と考えられる原典との三者の文章を比

べてみると︑﹃折獄亀鑑﹄と原典との字句は一致するのに︑四庫全書本﹃疑獄集jの字句だけが異なる箇所が数多く

ある︒この場合︑鄭克は原典を見ていないのであるから︑﹃折獄亀鑑﹂の字句と原典の字句とが一致するためには︑

鄭克が見た﹃疑獄集﹂の字句が原典の字句と一致していなければならない︒それなのに︑﹃折獄亀鑑﹄の字句と原典

の字句とが一致するにもかかわらず︑四庫全書本﹃疑獄集﹂の字句が原典の字句と一致しない箇所がある︑という事

実は︑四庫全書本﹃疑獄集﹄のその字句が︑誤字脱字は除いて︑後世に書き変えられたものであることを示している︑

(13)

文章に合わせて書き変えられたものと考えることができる︒

(

0)

また︑第一話﹁御史伴失状﹂に﹁希望聖旨﹂︵楊奉現﹁校釈﹄本は﹁望﹂字なし︒︶の語が出てくる︒この話に対応

する﹃折獄亀鑑﹂の話は

4 6 御史某であり︑﹁旧︑出処を著さず︒蓋し唐人小説の載するところなり︒正史を以て之れ

を考うるに率ね皆︑合わず︒︵中略︶およそ小説︑事を載するは︑その実を失うこと多し︒深く信ずるに足らず︒﹂と

注記されているが︑話の出処は劉粛﹃大唐新語﹄巻六︵﹃大唐新語﹄は中華書局の唐宋史料筆記叢刊本を見た︒︶と考えら

れる︒﹃旧唐書﹂巻六十七︑李靖伝には︑﹁利州刺史高甑生︵中略︶︑広州都督府長史唐奉義とともに︑靖の謀反を告

す︒太宗︑法官に命じて其の事を按ぜしむ︒甑生ら︑党に匪岡を以て罪を得たり︒﹂︑B初唐書﹄巻九十三︑李靖伝に

は︑﹁︵前略︶靖の謀反を告す︒有司︑按験するに状無し︒甑生ら︑誰岡を以て論ぜらる︒﹂という記事が見られるだ

けである︒そして︑﹃折獄亀鑑﹂と﹃大唐新語﹄とのどちらも︑この箇所は﹁希旨﹂となっている︒

対応する﹃棠陰比事﹄の話は第九十七話﹁御史失状﹂であるが︑元の田澤が校正した板本の流れを引く須原屋伊八板

(7

) 

﹃棠陰比事﹄では︑この箇所は︑四庫全書本﹃疑獄集﹄と同じく﹁希望聖旨﹂となっている︒そこで︑四庫全書本

﹃疑獄集﹄の﹁希望聖旨﹂という語は︑本来の﹃疑獄集﹂では﹁希旨﹂と記されていたのが︑後世︑﹃棠陰比事﹄の

第一話は﹁唐高租︑以李靖為岐州刺史︒﹂︵楊奉現﹃校釈﹄本も同じ︒︶という文で始まっているが︑﹃大唐新語﹂巻

六では︑﹁以李靖﹂三字の代わりに五十九文字が入っている︒﹃折獄亀鑑﹄でも︑﹁以李靖﹂三字の代わりに︑﹃大唐新

語﹄と比べて少し字句に異同がある六十一文字が入っている︒そして︑﹁棠陰比事﹄の諸本では︑これら五十九文字

ないし六十一文字に対応する文はなく︑特に須原屋伊八板﹃棠陰比事﹄のこの箇所は︑四庫全書本﹃疑獄集﹄と全く

同文である︒そこで︑四庫全書本﹃疑獄集﹄のこの文は︑﹁疑獄集﹂の本来の文が︑﹃棠陰比事﹂の文章に合わせて︑ 関法第五一巻六号

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﹁疑獄集﹄の本来の字句が︑﹃棠陰比事﹄の文章に合わせて書き変えられたと考えられる箇所は︑四庫全書本﹃疑

四庫全書本﹃疑獄集﹄の巻一から巻︱=までの文章が︑和氏父子が編纂した﹃疑獄集﹄のもとの文章を︑ある程度は

受け継いでいるのではないかと考えさせる材料が全くないわけではない︒

﹃折獄亀鑑﹄16劉崇亀の注に︑﹁旧︑出処を著さず︒蓋し亦た唐人小説の載するところ︒今︑新唐書劉政会伝の後

に見ゆ︒︵中略︶伝辞︑はなはだ簡なり︒故に旧集より其の要を剛取す︒﹂と記されている︒﹁伝辞﹂とは﹃新唐書﹂

巻九十︑劉政会伝︑七世孫崇亀条の文章のことである︒﹁旧集より其の要を剛取す︒﹂という注記から︑﹁折獄亀鑑﹄

の劉崇亀の話は︑﹃疑獄集﹄の劉崇亀の話を節略したものであったことが知られる︒﹃折獄亀鑑﹄の劉崇亀の話に対応

する四庫全書本﹃疑獄集﹂の話は第五十四話﹁崇亀集屠刀﹂である︒両者を比べてみると︑四庫全書本﹃疑獄集﹄の

文章を節略して半分ほどの長さにし︑字句を相当程度変えると︑﹃折獄亀鑑﹂の文章ができ上がることがわかる︒﹁旧

集より其の要を剛取す︒﹂という注記と合致していると言えないこともない︒四庫全書本﹃疑獄集﹂の文章は︑話の

出処と考えられる﹃玉堂閑話﹄︵﹃太平広記﹄巻一七二所引︶の文章と比べて︑字句の異同が相当あるものの︑分量はほ

1 8 4

張挙の注に︑﹁旧︑出処を著さず︒按ずるに和凝の著すところの二十九条は︑皆︑時代を以て

次と為す︒その︑挙の事を書するは︑呉人の末︑晋人の前に在り︒登に孫氏の臣に非ずや︒但だし先に既に呉の廃帝

孫亮と云う︒則ちここは宜しく呉の張挙と云うべし︒当に姓名の下に於いて呉人と言うべからざるのみ︒﹂と記され

獄集﹄の中に︑上に挙げた他にもたくさんある︒ 大きく削られてできたものと考えることができる︒

(

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(

﹁呉廃帝孫亮﹂という字句が存在したことが知られる︒そして実際︑﹃折獄亀鑑﹂

4 3 孫亮に対応する四庫全書本﹃疑

獄集﹂の第十話﹁孫亮辮鼠糞﹂には︑冒頭に﹁呉廃帝孫亮﹂︵楊奉現﹃校釈﹂本も同じ︒︶の字句が見られる︒﹁ここは

宜しく呉の張挙と云うべし︒当に姓名の下に於いて呉人と言うべからざるのみ︒﹂という注記からは︑鄭克が

1 8 4

張挙

を記す際にもとにした﹃疑獄集﹄の張挙の話に﹁張挙呉人﹂という字句が存在したことが知られる︒そして実際︑

1 8 4

張挙に対応する四庫全書本﹃疑獄集﹂の第六話﹁張挙辮焼猪﹂には︑冒頭に﹁張挙呉人也﹂︵楊奉現

また︑四庫全書本﹃疑獄集﹄の巻一から巻三まで︑及びそれとほぼ同文の諸本﹃疑獄集﹄の巻一から巻三までの中

にしか︑現在︑見ることができない文言が相当ある︒第三十九話﹁孔公察柾盗﹂︑第四十二話﹁杜亜察匪毒﹂︑第四十

三話﹁装均察盗犬﹂︑第四十四話﹁元膚知喪詐﹂︑第四十五話﹁章皐劾司店﹂︑第五十六話﹁慕容執俵銀﹂︑第五十七話

﹁彦超立吐櫻﹂︑第五十九話﹁張幣察佛語﹂︑第六十二話﹁孫賓称銀餅﹂のそれぞれには︑これらの話に対応する﹁折

獄亀鑑﹄や﹃棠陰比事﹂の話には見られない文言が出てくる︒しかも︑これらの話は出処が不明であったり︑原典が

残っていなかったりするため︑その文言は現在︑他書では見ることができないのである︒

例えば︑第四十三話﹁装均察盗犬﹂に︑﹁犬を盗んで殺すは︑国に常刑あり︒﹂︵原文︒盗犬而殺︑国有常刑︒楊奉現

﹃校釈﹂本も同じ︒︶という︑唐憲宗朝の山南東道節度使装均の言葉が出てくる︒これは唐律の隈庫律の﹁諸て故らに

官私の馬牛を殺す者は徒一年半︒賊重く︑及び余の畜産を殺し︑若しくは傷つくる者は︑減価を計り︑盗に準じて論

ず︒各々︑減ずるところの価を償す︒価︑減ぜざる者は笞三十︒﹂という規定を念頭に置いた言葉であるが︑この言

(16)

を集めた例が︑﹃疑獄集﹄よりも前に存在する︒ る ︒

葉は現在︑四庫全書本﹁疑獄集﹄及びそれとほぼ同文の諸本﹃疑獄集﹄にしか見られないのである︒

四庫全書本﹃疑獄集﹄の巻一から巻三までは︑和氏父子が編纂した﹃疑獄集﹂三巻のもとの姿と比べて︑話の数が

少なく︑話の順序も異なる︒さらに︑文章についても︑後世の手が加わっていると考えられる箇所が多く見受けられ

る︒しかし︑四庫全書本﹃疑獄集﹄及びそれとほぼ同文の諸本﹃疑獄集﹂にしか現在︑見ることができない文言が相

当存在することから︑四庫全書本﹃疑獄集﹂の文章は︑後世︑﹃折獄亀鑑﹄や﹃棠陰比事﹄や話の出処である原典の

文章を使って新たに作られたものではなく︑和氏父子が編纂した﹃疑獄集﹂の原文が下敷きになっているものと考え

なお︑四庫全書本﹃疑獄集﹄の各話の出処を表2に示した︒出処を調べるに当たっては︑劉俊文﹁折獄亀鑑訳注﹄

﹃疑獄集﹄と﹃通典﹄﹃太平御覧﹄﹃太平広記﹄

﹃玉海﹄巻六十七︑詔令︑刑制︑紹興折獄亀鑑に︑﹁和凝︑古今の︑聴断に明なる者二十九条を集む︒﹂︑﹃玉海﹄同

条が引く﹁一本﹂に︑﹁凝︑古今史伝の聴訟断獄︑寃柾を辮雪する等の事を取り︑著して疑獄集と為す︒﹂とある︒

﹁古今の︑聴断に明なる者﹂﹁古今史伝の聴訟断獄︑寃柾を辮雪する等の事﹂を和凝はなぜ集めていたのか︑裁判を

行う上で役に立つと考えてのことであったのか︑わからない︒ただ︑和凝が集めた﹁聴断に明なる者﹂の話と同じ話

﹁通典﹄巻一六八︑刑法の﹁詳獄﹂の項から﹁決断﹂の項にかけて︑四庫全書本﹁疑獄集﹄の第二十六話﹁高柔察

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鹿

i

寿

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出 処 大唐新語巻六

北史巻四三(御覧二五七・六三九)

朝野魚載(広記一七ー)

朝野禽載(広記一七ー)

晋書巻ー一四 呉録(御覧二六七)

南史巻七0 (御覧二六七・六三九)

南史巻七〇(御覧二六七・六三九)

風俗通(御覧六三九)

三国志巻四八注

北史巻五ー(御覧二五七)

北史巻五一 北史巻五一

風俗通(御覧三六ー・六三九)

北史巻八〇

益部香旧伝(御覧二五八,広記一七ー)

北史巻五〇

大唐新語巻四(広記四九四)

朝野翁載(広記一七ー)

朝野禽載(広記一七ー)

朝野餃載(広記一七ー)

大唐新語巻四(広記一七ー)

三国志巻五九 風俗通(御覧八三六)

不明

三国志巻二四(御覧六三九)

三国志巻ー一

三国志巻二七(御覧二六ー)

南史巻三三(御覧六四〇)

三国志巻ーニ 晋書巻八四 三国志巻五五

朝野叙載(広記一七ー)

玉堂閑話(広記一七二)

劇談録巻上(広記一七ー)

後漢書,酷吏列伝六七

(

表 1 を見ると︑﹃疑獄集﹂に既に採録されていると鄭克が記す︑﹃折獄亀鑑﹂の話の中に︑四庫全書本﹃疑獄集﹄の という事実を疑う必要はあるまい︒ す︑この よ う な 記 述 は ︑ 他 に 1 7 荘 遵 の 注 ︑ 4 3 孫 亮 の 注 と 按 語 ︑ 1 3 1 子 産 の 按 語 ︑ 1 7 3 黄 覇 の 按 語 ︑ 1 8 4 張 挙 の 注 ︑ 1 9 7 張 元 済の按語にも見出される︒そこで︑﹃折獄亀鑑﹄の注の﹁旧﹂という文字は︑すべて﹃疑獄集﹄を意味しているとみなして差し支えないと考える
表 1 (1)  ︱ ︱ 九 ( ‑ ︱ 六 139111516171819204 1434446474849505168717780811071151161171181311311311 4 0 1 5 3 1 5 4 1 5 5   登融慶常滋亀遵循事裔吉亮融某金笈鷺裕亜表蠍覇堪天 丹傑賠格栄産遵滉均朽淵皐忠示従宗和氏父子撰﹃疑獄集﹄の整理史楚行徳仲承重鑑亀獄孫符柳蒋哀劉荘孔府許丙孫符御張張張李杜陳王黄湯何章李崖張安子荘韓装周国章折 疑獄集23 なしなし4 35 54 48 39 34 60 24 10
表 1 (2)  覇 崇 文 宣 柔 質 賓 畢 淡 之 恵 超 済 雲 和 撼 済 名 成 美 激 渚 鶯 之 超 贋 涎 秦 雲 津 慶 寿 武 崇 芝彦マ彦鑑巾憲マ元子允無行済元松希馬亀容謙容獄黄李子辞裔胡孫張博顧李慕張装趙曹張蘇董閻高高張高慕呂魏蘇陸楊柳張何 張 司 折1 73 17 31 73 17 41 79 18 01 83 18 41 85 18 61 87 18 81 97 19 71 98 20 12 05 20 62 07 20 92 15 21 62 17 21 92 20 22 7
表 2 (1)  1 2 3 4 5 6 7 8 9 1 0 1 1 1 2 1 3 1 4 1 5 1 6 1 7 1 8 1 9 2 0 2 1 2 2 2 3 2 4 2 5 2 6 2 7 2 8 2 9 3 0 3 1 3 2 3 3 3 4 3 5 3 6   9 状嵯聴語走猪絲食縁糞膊賊賊情皮姦賊妾字牛盗姦弾影男色謗色断訊妄情書屍偽語 書情比察情求留対屍失悲伏姻善焼鞭雖聴鼠鹿似羊哭獲訪補拌伺婦子三動書後大全獲認探庫四伴察案硯察辮智辮追辮市察拷聞詐逼辮断潜硯辮穀察比不止皮菜登質天表涎事紆集史崇蠍
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参照

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