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聖書を食べる : わたしたちの聖書の読み方

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(1)

著者 石川 立

雑誌名 基督教研究

巻 71

号 1

ページ 21‑41

発行年 2009‑06‑26

権利 基督教研究会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012436

(2)

聖書を食べる

     わたしたちの聖書の読み方    

1

Eat the Scripture:

—Our Way to Read the Bible—

石川  立

Ritsu Ishikawa

キーワード

聖書を食べる、聖書神学、神を指し示す書、神からのラヴレター、物語、想像力、経 験、歴史批評的方法

KEY WORDS

Eat  the  Scripture,  Biblical  theology,  Book  pointing  to  God,  Love  letter  from  God,  Narrative, Imagination, Experience, Historical-critical method

要旨

 聖書の歴史批評的な研究は、一般読者の聖書の「読み」を統制すべきではない。む しろ一般読者に仕え、聖書との自由な出会いを促進する役割に徹するべきだ。聖書の 読者は、聖書学の声を聞くが、それに制約されることなく、むしろそれに励まされ て、自由な「読み」をする。身体性、感覚、想像力などを全開にして物語としての聖 書を食べ味わい、これを真に受けて、聖書の世界を経験する。この自由な「読み」の 先になお、聖書を「神を指し示す書」として読むレヴェルがある。このレヴェルで聖 書を経験することによって、神学につながる道が開けてくる。

SUMMARY

  The  historical-critical  approach,  which  isnʼt  identical  to  “reading,”  should  not  regulate  how  we  read  the  Scripture  but  rather  help  a  general  readership  to  meet  the Bible personally. The biblical study by this method, which provides readers of  the  Bible  with  its  academic  results  as  suggestion,  may  not  control  their 

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understanding, but it should encourage them to read the Bible freely and vigorously. 

Having a keen sense of the message and exercising their imagination fully, they can  eat and savor the Scripture as narrative; they take it to be true and experience the  World of the Bible. Beyond this free style of reading, there is still an interpretation  level at which one can read the Bible as “a book pointing us to God,” Experiencing  the World of the Bible at this level will lead readers to theological contemplation. 

1.はじめに

 私は一昨年(2007年)の8月から昨年(2008年)の8月までの1年間、イギリスのケ ンブリッジに在外研究に出ていました。在外研究での私の関心は、聖書はそもそもど う読むべきなのか、つまり、聖書の解釈、とくに神学的に解釈するためにはどうすれ ばよいのか、ということでした。

 1年間イギリスにいましたが、欧米にいたからと言って、とくに日本にいるとき以 上に学問的な情報が入るわけではありません。欧米の学者はすぐに本を出しますか ら、その本を読めば、最新に近い情報を日本にいても手に入れることができます。で すから、日本にいても、学問のうえでとくに遅れをとるというようなことはありませ ん。

 とくに聖書学や神学などの分野は、方法論がもう煮詰まっているといった感じで、

自然科学のようなパッとした派手でスマートな進歩があるわけではありません。です から、皆さんに喜んでいただけるような、イギリス発の新学説や新鮮な方法論はご紹 介することができません。

 ただ、イギリスに住み、大学や研究機関に出入りしていますと、聖書の解釈につい ても、日本にいるときとはちがう雰囲気と言いましょうか、方向性を感じることはで きました。それは、聖書の解釈に関して、日本以上に「ポスト・モダン」という時代 の精神を気にしていることです。合理主義、理性万能主義でない柔らかい考え方や着 想をもって、また、イメージや物語に注意を向けて聖書を読もうという読み方が模索 されているように見受けられました。

 ずいぶん以前から、神学と聖書学とが分かれてしまって、その関係は修復されるど ころか、さらにどんどん無関係になっていく印象を受けています。例えば、カール・

バルトという神学者は、聖書をものすごく読んで、聖書の講解もたくさん講義し、書 いた人です。つまり、聖書から出発して教義学を構想していった人です。彼の仕事の 土台は聖書に他ならなかったわけです。ところが、このカール・バルトを研究する人

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は、バルトのように聖書をしっかり読み、学び、聖書を土台としてバルト研究に行く のではなく、聖書を飛ばして直接バルトに行ってしまうことが多々ある。たとえそこ で聖書が扱われるとしても、それはバルトが解釈した聖書を扱うのであって、聖書そ のものをしっかり読むということではないのです。最近はみんな忙しいですし、研究 分野も細分化され、専門化していますので、いたしかたないところですが、たいへん 残念です。

 逆に、聖書学の分野の人は、もっぱら文献や歴史に関心があって、「神学」という ような「訳のわからない学問」、「人間の思い込みに思い込みを積み重ねているとしか 思われないような学問」2には、あまり興味が向かわない、というよりは、聖書学の 分野で神や信仰や教会などを現代のこととして論じることは―例えば「パウロの教 会観」というふうに歴史的には論じますが―ふさわしくないと考える傾向にありま す。

 イギリスでは、このような神学と聖書学の分離に対して、また、聖書学と教会、聖 書学と信仰とが分離してしまっていることに対して、このままではいけないのではな いかという反省が本格的に始まってきています。両者を硬く固定的に結びつけていく というのではなく、柔軟に豊かに結びつけていこうという動きが始まってきている

―そんな印象を受けました。

 このことと並行して、聖書を素朴に読むことが見直されています。聖書はその成立 から見ると、複数の多様な書物が寄せ集められたもので一貫性がないように思われま す。一つ一つの書物も、いろいろな資料から成り立っています。ですから、この成立 の事情に対して誠実であろうとすれば、聖書はバラバラに読むべきであり、そこに無 理やり一貫性を見つけるような読み方はよくないことになります。実際、聖書学では そのように主張されることが多いです。しかし、最近は、反動的に思われるかもしれ ませんが、「聖書」は一つの「書物」として伝わっていることも確かなので、これを とにかく素朴に丸ごと受け取り、全体をひとつの物語として読んでやろうという動き も強くなってきています。

 イギリスで私は以上のような大まかな印象を持ちましたが、実は何のことはない、

私自身が以上のような関心を持っているので、そのような動きが見えてきてしまっ た、ということなのかもしれません。きょうは、以上述べたことを踏まえながら、私 が「聖書を読む」ということについて考えていること・主張したいことを、お話しさ せていただきたいと思います。

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2.何が問題か

 まず、この講演で扱う問題を次のように設定しましたので、その説明から始めたい と思います。

⑴ 聖書学や神学の分野では、聖書学の提示する聖書の解釈が、神学、信仰、教会か ら遠ざかってきている。このことは、聖書学の分野にとどまるかぎりでは問題に ならないが、聖書を通して神学的な関心に向かおうとするときには問題になる。

(聖書学とはここでは、おもに歴史批評的なアプローチによる近代の聖書学を指 す)

⑵  聖書の一般読者が、日本とは社会的・文化的にまったく異なる環境で成立した聖 書を聖書学の成果なしで読むことは困難である。しかし、聖書学の成果そのもの が聖書の「読み」にとって代わってしまうことにはならない。聖書を読むとき、

聖書学の成果はどのように用いられるべきだろうか。

⑴  聖書学の提示する聖書の解釈が、神学、信仰、教会から遠ざかってきている  問題提起 ⑴ はどういうことでしょうか。すでに述べたことと重複しますが、もう 一度ご説明すると次のようなことになります。

 「神学」の分野(ここでは「組織神学」、「教義を研究する神学」の意味です)で は、聖書から得られたアイディアをもとにして論述するというようなことが、今日少 なくなっているように見受けられます。少なくとも、宗教改革者たちがしたように、

聖書を丁寧に釈義し、そこから得られた豊富なアイディアをもとに「教義」を考えた り、見直したりする―ということはあまり見られません(もちろん例外はありま す)。「教義学」にとって、聖書は―パウロの書簡のような教義的な内容の書物は別 として―あまり重宝されていないように見えます。

 聖書学のほうも、こちらはもう早々と「教義学」や「神学」、あるいは「信仰」や

「教会」とは手を切ってしまっています。アレコレうるさいことを言う「神学」から 独立をして、純粋に文献学として、あるいは、歴史学として、聖書を研究するように なっています。聖書学の分野では、歴史批評的なアプローチ―これについては、の ちに改めて述べます―が根強く、この方法論でいくと、「神」や「信仰」のよう な、歴史的に確認できないものは扱わない・扱えないことになります。ですから、そ の方法論を徹底させれば、例えば、聖書に「神」と書いてあるが、実際に「神」がい るかどうか、は問題にならない。聖書を書いたか編集した人や人たちが「神」と考え たり書いたりしている「概念」なり「思い込み」が歴史の中で問題になるだけです。

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「神」そのものは歴史的に確認できないから、問題にならない・問題にしてはならな い、ということになります。「信仰」ということについても同様で、今日につながる ような「信仰」は問わない。聖書学にとって、「信仰」とは、聖書の中に書かれた 人々が、それぞれの都合によって思い込んでいる「思想」・「信念」であって、それは 客観的に・歴史的に批判されるべきである、ということになります。

 もちろん、神学と聖書学はそもそも別のものだとして聖書学抜きで神学を研究し、

聖書学のほうも、神学などとはまったく関係なくやっていくことはできます。このほ うが学問的には誠実な態度なのかもしれません。(一緒くたにするのは、むしろ、学 問的に不誠実なのかもしれません)。それぞれの分野の研究者が両者のつながりを必 然とも思わず、必要ともしなければ、両者の分離は、なにもこれを問題にして深刻に 考えるようなことではない。そのまま放置すればよいのです。

 しかし、私のような時代遅れの者はそれでは困るのです。

 個人的なことを言いますと、私は「聖書学という学問が面白そうだから、聖書学を しよう」と思って聖書学を始めたわけではありません。そうではなく、最初、神学的 な方向性、例えば「神とは何か」とか、「キリスト教信仰とは何か」というような神 学的な関心を持っていて、そういう問題を扱うのは教義学かもしれないが、しかし、

「まずは聖書から出発するべきだ」と思い込んだものですから、「聖書から神学へ」と いう方向性を持って聖書学をしている者です。このように、神学的な関心を持って、

あるいは、自分の信仰を吟味したり確認したりするために聖書学をやる―というよ うな時代錯誤の少数者にとっては、神学と聖書学が関係を失っている現状は深刻な問 題であるわけです。

 残念ながら、聖書を通して神学する、聖書から出発して「神」や「キリスト」を思 索するというような研究は、今日ではほとんど見受けられません。そのような研究分 野はもう消滅しかかっています。しかし、それでは困るので、聖書学と神学の間をな んとか柔軟に・生産的に行き来できるような研究分野が復活しないものかと考えてい るところです。

⑵  聖書学の成果は、どのように用いられるべきだろうか  もうひとつの問題提起のほうを説明します。

 聖書を読むことは実際はなかなか難しいです。村上春樹なら、すっと読めます。も ともと日本語で書かれた現代の文章だからです。しかし、日本とは社会的・文化的に まったく異なる環境で成立した文書、もともと古い外国語で書かれた文書は、当然の ことながら理解することが困難です。

 聖書を読むためには学問的な助けが要ります。第一、翻訳がないといけません。翻

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訳するのは研究者です。時代も随分違いますから、時代に関する解説や説明が要りま す。地理的な説明も欲しいところです。これらは、聖書学によって得られた知識に 依っています。

 「聖書は読んだことがないが、興味があるので読んでみたい」―そんな殊勝なこ とを思って読んだとします。新約聖書の1ページ目から読むのがいいと思って読む と、最初で躓いてしまいます。普通は系図など飛ばして読みます。最初読むときはそ のほうがいいでしょう。しかし、生真面目な読者は、系図を飛ばさず、系図にはどん な意味があるのか知りたくなります。それで、教会に行っている人に尋ねたりしま す。すると、聖書には註解書があることを知ります。それで註解書を読んでみます と、系図の意味が書いてあって、いろいろ説明がしてあります。「ああ、そうなのか」

と少し納得します。少し回りくどい・屁理屈のような説明ですが、なんとなく分かっ た気がします。こんな調子で、聖書のほかの個所も読んでしまいます。それで、聖書 を読んだ気になります。

 しかし、これで、聖書を読んだことになるのでしょうか。聖書ではなく、聖書学の 成果や註解書を読んで、聖書を読んだ気になってしまう―そういう落とし穴がある のです。聖書学の説明は必要です。それがないと、やはり、あまりよく判らないとい うことになるのですが、しかし、聖書学の説明は、あくまでもひとつの説明なわけで すから、それを読んで聖書の意味を分かったと思うのは、聖書の意味をあまりに限定 してしまうことにならないでしょうか。それでは、聖書そのものと読者が直接向き 合って生じてくるドラマが生まれてきません。

 聖書を読むときに聖書学の成果を利用するわけですが、あくまでも「私」が聖書を 読むという事態をそこなわないためには、聖書学者や牧師先生の解釈をどのように用 いればいいのでしょうか。

 これが ⑵ の問題提起です。

 さて、この講演は次のように進められます。

 まず、「読み」と研究の違いについて。聖書を読むことと、聖書を研究することと は違うのではないか、という意見を述べます。

 次に、聖書学の主流である歴史批評的方法について。この方法の特徴や役割を考え てみます。

 次に、聖書学を超える必要性を述べます。聖書学が一般の読者による「読み」を統 制している状況を指摘し、一人ひとりの「読み」を聖書学から解放すべきだと主張し ます。

 次に、「聖書を食べる」読み方について。聖書学の統制を脱し、自由に読むことを

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提案します。

 次に、さらにおいしい読み方について。四方八方に広がる自由さに、ある方向付け をすることで、より面白い世界が開けるのではないか、という勧めです。

 最後に、まとめと、ちょっとした提案を述べておきたいと思います。

3.「読み」と「研究」の違い

⑴  聖書を「研究する」ことと、聖書を「読む」こととは違う  さて、「読み」と「研究」の違いについてお話しをします。

 私は、聖書を研究することと、聖書を読むこととは違うのではないかと思います。

また、そのことを確認しておくことも大事だと思います。

 これまでの人生でたいへん感動した本がいくつかあります。その中に、高校3年生 のときに使っていた「現代国語」の教科書があります。筑摩書房のものでした。これ を、高校を卒業してすぐのころ、最初からずっと読んでみました。ものすごく感動し ました。いろいろなジャンルの文章が出ています。詩歌、小説、評論、ノンフィク ションなど。どれもこれも素晴らしい文章ばかりで、感激しました。高校生のころは 生意気なので、「教科書」なんて馬鹿にしていました。教科書に載っているような文 章はいわば優等生的な文章であって、「ぼくらに近い文章は出てない」と思っていま した。ところが、高校を卒業してすぐのころ、ほとんどまだ高校生と変らないころに 読んでたいへん感激したのです。

 高校生のころは、あまり熱心ではなかったとはいえ、授業の中で、教科書は、断続 的かもしれませんが、読んだはずです。授業で先生の解説を少しは聞いたかもしれま せん。授業中に当てられて、教科書の中のある文章の意味を答えたかもしれません。

中間試験や期末試験を意識すれば、教科書の文章より、先生の説明や解説のほうが大 事になります。

⑵  「研究」と「読み」は、どのように違っているのだろうか

 高校生のころと、卒業してからでは、同じ文章から受ける印象がなぜ違っていたの でしょうか。

 高校生のころは、教科書を「読んで」いたのではなかったのです。その文章と一対 一で向き合っていない。文章そのものが訴えてくることより、その説明や解説に関心 を持っていました。これは、不十分ながら、「研究」の態度だと言えるのではないで しょうか。

 卒業して初めて、教科書を「読んだ」と言えるのです。

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 聖書の場合も同じで、一対一で向き合って「読む」という行為と、これを客観的に 分析したり、調べたりして「研究」することは違うと言わざるをえません。それぞれ の結果も、当然違ってくるでしょう。

 「研究する」ことと「読む」ことがどのように違うのか、もう少し考えてみましょ う。

 テクストを「研究する」場合、「研究する」者はテクストより優位に立ちます。テ クストを支配し、突き放して客観的に見ようとします。分析し、考察して、文章の意 味や、著者の意図、文章の成立の次第を推測し、それを証明しようとします。

 ところが、「読む」場合は、文章に一対一で密着しながら、何かを「経験」するこ とになります。知識や情報だけを提供する文章も「読む」とは言いますが、これは文 章に付き合うというのではなく、知識や情報をキャッチするだけです。本当の意味で

「読む」というときは、文章に付き合うと言いましょうか、文章と一緒に、いわば、

踊りまわることにならなければならないのです。

⑶  「研究」と「読み」は、なぜ違ってくるのだろうか

 では、聖書を「研究する」姿勢と、聖書を「読む」という姿勢に、どうして分かれ てくるのでしょうか。それは、聖書に対する関心の違い、あるいは、別の言い方をす れば、「何を知りたいのか」、「なぜ聖書をひもとくのか」という問題意識の違い―

目的の違いとも言えましょう―によると思われます。

 神様のことを知りたいと思ってただ聖書を読む人もいる。しかし、もっといろいろ なことを考えて、「天地創造のことが書いてあるが、こんなことを当時の人はなぜ書 いたのだろうか。そう信じていたのか。誰かから聞いたのか。そう書くことに何かも くろみでもあったのか」などと疑問に思って聖書をひもとく人もいるでしょう。前者 は聖書を「読む」ことになるし、後者は聖書を「研究する」ことになります。

 どちらがいい、悪いということではありません。関心が違うのです。

 聖書に対する関心が異なり、聖書をひもとく目的が違いますと、聖書の文章がどう いう種類の文章か、その定義も異なってきます。文章の種類―それは、類型(ジャ ンル)とも言います。

 「研究する」場合は、目の前の文章は、一般に聖書と呼ばれていても、あくまでも 資料であり、史料です。聖書を「読もう」とする人にとっては、聖書はまさに「聖 書」であったり、あるいは、「文学」、「物語」、一種の小説、ファンタジー、「神を証 しする文」であったりします。

 文章の種類によって、接し方も当然変わってきます。私たちが毎日読む新聞の中で も、社説、天声人語(朝日新聞の場合)、小説、4コマ漫画、社会面、経済面、それぞ

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れに対する接し方は違います。資料や史料に接する仕方と、物語や小説を「読む」読 み方は当然異なってくるのです。

4.聖書学の主流̶歴史批評的方法

 私たちは聖書を「読む」ことを考えたいのですが、その前に、「研究」のほうを見 ておきたいと思います。

⑴  今日の聖書学の主流は歴史批評的方法である

 今日の聖書学は、大きく分けて2つの陣営に分かれています。

 一つは、先に述べた歴史批評的アプローチによる研究です。通時的研究とも言いま す。もう一つは、テクスト内解釈や、読者論、文芸批評的な研究、こちらは共時的研 究と言えます。

 後者は、極端に言えば、聖書を、その中に書いてあることや文学的な技法だけをた よりに解釈する。あるいは、「本は、読者がいなければ、ただの紙の束。読者が本と 出合ってこそ、本は生きる。聖書の記述を客観的に調べてもあまり意味はない。著者 の意図はあまりわからないし、むしろ、文章は著者とは独立したのだから、読者がど う読んだか、読むかが大事だ」と主張します。ただし、これは極端な主張で、歴史批 評的アプローチの成果を柔軟に取り入れる場合が多いです。

 共時的研究をしている人たちからは、歴史批評的な方法に対して、「テクストが何 を言っているのかを聞きとらないで、テクスト以外のことばかり調べている」といっ た批判が向けられます。そういう批判があるにはあるのですが、歴史批評的方法がま だまだ聖書学の主流を行っているのではないかと思います。

 この講演では、聖書学と言えば、歴史批評的方法による研究のことを指すことにし ます。

⑵  歴史批評的方法はどのような特徴を持っているのだろうか

 歴史批評的な方法はどのような関心を持っているのでしょうか。大雑把に言います と、以下の通りです。①「聖書はどのように成立したか」、②「聖書はいろいろな資 料や伝承から成っているが、聖書成立以前の資料や伝承にあった言葉の意味はどう だったのか。その意味は、その時代の歴史に結びついていないだろうか」、③「聖書 で書かれてあることは、どの程度、歴史的な事実を反映しているか。背景にある歴史 は本当はどうだったのか」、④「伝承の時代、聖書の成立の時代などの政治的ないし 宗教的な思想はどうだったか」―こういったところでしょうか。

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 この方法の一番の特徴は、歴史的事実を論拠にするということです。テクストより も、伝統よりも、信仰よりも、歴史的事実を推測して、それを第一の判断基準にする ということです。

 例えば、イエスに関することならば、資料を元にして(福音書が主ですが)実在し たイエスを再構成しようと試みます。史的イエスを推測しておいて、これを基準と し、このイエスなら、こうは言わない、とか、こうはしないはずだとして、イエスの 言葉や行為を記している福音書を批判する。イエスが信じていると思われる「父なる 神」については、これをイエスの概念的な信念・思想のレヴェルにとどめおく。復活 などは歴史的な事実として確認できないので、原始教団の創作である。あるいは心理 的に解釈すべきであるとする―と、そんな感じです。

 歴史的な事実をできるだけ客観的に再構成することは確かに大切です。この重要性 はいくら強調しても足らないくらいです。しかし、ただ問題は、この方法が論拠とす る歴史的事実はあくまでも、推測され・再構成された歴史的事実であるということ、

そして、推測された歴史的事実を第一の根拠にすると、神や聖霊といった歴史の中に 現れない事柄は、否定されるか、単なる人間の思い込みと判断されてしまうというこ とです。また、テクストには「作り出す力」や、事実を超えた事柄を「指し示す力」

を持っているのですが、言葉の持つそのような力に対する配慮が足らないということ です。

⑶  歴史批評学はどのように必要なのだろうか

 そのように良いところも足らないところもある歴史批評的アプローチですが、この 歴史批評的な研究は、戸惑い躊躇している私たちを置き去りにして、どんどん先へ先 へと行ってしまいます。

 私たちはそれにただ付いていくべきなのでしょうか。あるいは、別の道を選んで歩 んでいくべきなのでしょうか。もしくは、その方法からは距離を置いておくべきなの でしょうか。そうだとすれば、どれほどの距離を保っておけばいいのでしょうか。

E・シュヴァイツァーという高名な新約聖書学者―この人は、歴史批評的な研究を 進めると同時に、教会や信仰を大事にした人です―が、こんなことを書いていま す。

史的・批判的研究は、信仰を創り出すことができるでしょうか? 決してできま せん。信仰とはつねに、神ご自身のたまものなのです。しかし、史的・批判的研 究は、真実な傾聴への道をひらき、私たちの心をひろく大きくすることができま す。それによって、私たちは自家製の神のイメージや自家製の神の言葉を崇めた

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りすることなく…(中略)…生ける、愛の神を経験させてくださる神の生きた御 言葉に、信仰において出会うことができるのです。3 

 このあたりが、歴史批評的アプローチのきわめて妥当な位置づけかと思われます。

つまり、私たちが、もし自分で作り上げた神のイメージを崇めているとすれば、その ような囚われの状態から歴史批評学は私たちを解放してくれる。様々な捉われ、偏 見、先入観を私たちに指摘し、気づかせてくれるというのです。ただしかし、それ以 上のことはできません。私たちを信仰まで導くのは別の力、ということになります。

シュヴァイツァーの言葉を借りれば、「愛の神を経験させてくださる神の生きた御言 葉に出会う」ことを目指すならば、歴史批評学は超えていかなければならないものな のです。

5.聖書学を超えて

⑴  聖書学は自制する

 すでにお話ししてきましたように、歴史批評学は歴史的事実に忠実であろうとして いますので、本来、自制的なはずです。その基本態度は「書いてないことは言っては いけない」、「証明できないことは言えない」です。これはとても誠実な姿勢に見えま す。

 しかし、このあたりをカール・バルトは『ローマ書講解』第2版の序の中で厳しく 批判しています。歴史批評的な研究は、「真の学問性」や「厳密さ」や「客観性」を 求めるあまり控え目でありすぎ、結局、一番大事なことは何も語らないとバルトは嘆 きます。そして、もっと先へ、大胆に、「事柄(ザッヘ)」そのものへと肉薄すべきだ と勧めます4

 実際、歴史批評的方法にとどまる人たちも、その方法に基づく「確実さ」からだけ では、本当に大事なことは何も言えないということに内心、気づいています。歴史的 事実に対して誠実である姿勢は好感が持てます。歴史的に確実なことだけに拠って新 鮮なことが発言できたらどれ程すばらしいか!と思います。しかし、そうはうまくい かないのです。例えばイエスについて歴史的に確実なことは内容的に乏しいことばか りです。歴史的に見て、きっちり確実で客観的な「事実」からは、満足できるような 学問的成果は出せません。そのせいで、歴史批評学は学問的な誠実さを見せてはいま すが、よく読んでみますと、結構、研究者のイデオロギーや好き嫌いが入りこんでい ることが多いのです。

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⑵   かつては教会が聖書の「読み」を規制したが、今日は学問が「読み」を統 制している

 歴史批評学は「書いてないことは言わない」、「証明できないことは言えない」と言 います。それは、とても誠実に見えます。もし、歴史批評的な方法が本当に「事実」

に忠実であり、控え目で自制的であるならば、その発言は学問や研究の専門的な領域 にとどまるべきだろうと思います。ところが、聖書そのものよりも推測された歴史を 上位に置くこの研究の主張は、聖書の一般の「読み」にまで影響を及ぼし、結果とし て一般読者の「読み」を統制する傾向にあります。本来自由であるべき各読者の「読 み」が、一つの方法論の方向性によって狭められています。研究の分野ではどんどん 進めていって構いませんが、その関心と方向性を一般の「読み」の領域に及ぼします と、これは「圧力」となってしまいます。

 中世のヨーロッパの教会では、聖書は聖職者が解釈するもので、信徒が勝手に読ん だり、解釈したりしてはならないとされていました。教会は聖書の「読み」を統制し ていたのです。信徒が聖書を勝手に読んでは困るので、信徒が使う世俗の言葉に翻訳 することさえも禁じられていました。

 今日では、聖書は2000以上の国語や地方語(方言)に訳され、誰でも読めるものに なっています。しかし、その「読み」と言いましょうか、その解釈はいまだに自由で はなく、今度は教会ではなく学問によって、見分けにくいですが、統制がかけられて いるように思われます。「聖書学の知識がなければ聖書は『正しく』読めない」、「好 き勝手に読んではいけない」と、学問は聖書と読者の間に介入してきます。聖書と読 者の間に入りこんで、学問が自己主張している―そのような印象を受けます。

 研究者は長年聖書を研究しているので一般の読者よりも聖書のことをよく知ってい るという自負がありますから、教えたがる。一般読者も聖書をただ読んでも分らない ので専門家の解説を求める―この構図が、「読み」の統制につながっているのでは ないでしょうか。

 各自が聖書を自分で読み聖書と個人的に出会う―そこへ導く案内役ならいいので すが、聖書学はときに、聖書そのものよりも推測された歴史上の事実のほうに信頼を 置こうとする関心を読者に押し付けて、聖書との直接的な出会いを妨げる役にまわる ことがあるのです。

⑶  研究は「読み」に仕え、それを促進するべきではないか

 シュヴァイツァーが言っているように、歴史批評学は信仰を創造できません。つま り、聖書の「読み」に関して限界を持っているということです。この限界をわきまえ ることは大切です。理解の妨げになるものを除き、読者を無意味な囚われから解放す

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るという、すばらしい役割があるのですから、その役割に徹してもらいたい。聖書学 は、自らの限界を忘れてしまって出しゃばり、読者の「読み」を統制したり制約した りしてはならないだろうと思います。あくまでも役割を自覚して、聖書との一対一の 生き生きとした出会いへと旅立つ読者の背中をやさしく押すべきです。「読み」に仕 えるべきなのです。

6.「聖書を食べる」読み方

 私たちは聖書学に仕えてもらい、背中を押されて聖書の前に立ちました。さぁ、聖 書を開き、読むのは私たちです。今までは人から教わっていれば済みました。教会や 研究者たちが導いてくれ、すべてを教えてくれました。「聖書はこんな意味ですよ」

―そういう説明を聞いたり、読んだりすれば、あとは、頭をからっぽにして聖書の 上の文字に目を滑らせさえすればよかったのです。

 しかし、これからは研究者はあまり助けてはくれません。ある程度安全な枠はゆる い形で備えられています。しかし、この枠の中で、聖書とどう向き合ったらよいので しょうか。初対面の人と一対一で対面するように戸惑ってしまいます。照れくさく感 じさえします。

⑴  聖書を食べる

 先ほど、高校3年生のときの「現代国語」の教科書に感動したお話しをしました。

この教科書に、小野十三郎という詩人の詩についての評論文が載っていました。この 評論文にも感動したのですが、その文章の中にフランスの詩人、ポール・ヴァレリー の文章が引用されていました。

果物のなかに栄養分が隠されているように、思想は詩句のなかに隠されていなけ ればならない。果物は栄養物ではあるが、恍惚とした喜びという姿しか見せな い。人々は悦楽にしか気づかないが、栄養を受け取っているのだ。5 

 詩はリンゴを食べるように、おいしく食べるべきもの。おいしく食べれば、栄養分 はちゃんと隠れていて、知らずに栄養を摂れる、という言葉です。

 これは詩について述べた言葉ですが、聖書についても同じことが言えるのではない かと思います。「栄養をとらなくては」と特に気にすることなく、聖書を、おいしい のかどうかわからないにせよ、とにかく食べてしまう。そうすると、知らずに栄養を 摂っている―聖書を読むということは、そういうことではないかと思うのです。

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 新約聖書にも、こんな言葉があります。

すると、天から聞こえたあの声が、再びわたしに語りかけて、こう言った。「さ あ行って、海と地の上に立っている天使の手にある、開かれた巻物を受け取れ。」

そこで、天使のところへ行き、「その小さな巻物をください」と言った。する と、天使はわたしに言った。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹 には苦いが、口には蜜のように甘い。」わたしは、その小さな巻物を天使の手か ら受け取って、食べてしまった。それは、口には蜜のように甘かったが、食べる と、わたしの腹は苦くなった。」6

 これも、必ずしも聖書のことを言っているわけではありませんが、本当に「読む」

ということは、頭だけで理解してもダメなので、本を自分の体にしてしまうほどのこ となのだと言っているように思われます。

 詩編にも次のような言葉があります。

あなたの仰せを味わえば

わたしの口に蜜よりも甘いことでしょう。7 

 また、シモーヌ・ヴェイユも同じようなことをまた別の言葉で述べています。

わたしはそれをただ美しい詩として暗唱しているつもりでしたが、この暗唱は、

いつの間にか、祈りのような力を持っていました。8

 これも詩について述べた一文ですが、聖書にも当てはまります。その言葉に栄養分 があるかどうかなど考えずに、ただ好きで聖書の一句を口ずさんでいた。そうした ら、その言葉がいつの間にか、すごい力を持っていたことに気づく。暗唱するという ことは、頭だけで理解するのではなく、体に染み込ませるというようなことでしょう か。あるいは、その言葉に体を合わせて一緒に踊るような感じでしょうか。

 人が物事を解釈し理解するときには、思弁的・理論的な把握だけでは不十分で、む しろそれに先立って身体性と感覚による認識能力の発動がなければなりません9。聖 書を読むときもそうで、理屈っぽい新約聖書の書簡も含めて聖書は哲学的・概念的な 書物ではなく、歴史や実存や生活が描かれてあるものですから、まずは身体性と感覚 とによってそれに当たる必要があるのです。

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⑵  物語を真に受ける

 「聖書を食べる」という読み方は、頭だけでなく、全身全霊をもって読むというふ うにも言いかえることができましょう。

 そう聞くと不安になる人がいます。「えっ、聖書を丸ごと食べるなんておそろし い。何が書いてあるのかわからないのに。毒も入っているかもしれない。事実でない ことも書いてあるんでしょう。私は何事にも慎重だから、聖書だって批判しながら

『だまされないぞ』って読みます」。

 でも、こういう読み方では、聖書は決して自らを開いてくれません。

 保坂和志という小説家が次のようなことを書いています。

 (中略)…私の場合には小説を読むということは、それを読みながらそこから 刺激されたことをどれだけ多く考えることができるかに賭けられていると言って もいい。

 (中略)…批判は知的な行為ではない。批判はこちら側が一つか二つだけの限 られた読み方の方法論や流儀を持っていれば簡単にできる。本当の知的行為とい うのは自分がすでに持っている読み方の流儀を捨てていくこと、新しく出合った 小説を読むために自分をそっちに投げ出してゆくこと、だから考えることという のは批判をすることではなくて信じること。そこに書かれていることを真に受け ることだ。

 そんなことは誰も言っていないとしてもそうなのだ。非−当事者的な態度を投 げ捨てれば、書かれていることを真に受けるしかない

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。言葉では「しかない」

と、とても限定的な表現になるが、そこにこそ大海が広がっている。教養や知識 としての通りいっぺんの小説なんかでない、生命の一環としての思考を拓く小説 がそこに姿をあらわす。10 

 小説を読むときは、批判するのではなく、信じること・真に受けることが必要なの だと言っています。読む小説に対して最初から批判的であったら、小説の世界に入れ ませんよね。これは聖書についても言えます。

 アドラーとドーレンという人たちも同様のことを言っています。これも小説につい て述べたものですが、聖書についても同じです。

「作家が読者に経験させようとしたものを十分に感得できるまでは批判をしては ならない」。作家の創造した世界に疑問を抱かないのが良い読者である。11 

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 聖書を批判してはいけない、というのではありません。しかし、その前に十二分に 聖書の世界を味わわなければならないということです。聖書は歴史小説のようなもの だと考えてみてください。読んでいる小説にあれこれ難癖をつけていたら、ちっとも 楽しく読めません。最初から疑い、批判的であれば、聖書が提供する世界に入ること ができずに、聖書の外から聖書を野次ることになります。(聖書という書物は日本で はあまり日の目を見ない弱者の立場にあり、野次られるような権威はないのです が)。

⑶  想像力をはばたかせ、物語を経験する

 アドラーとドーレンは次のようにも言っています。やはり小説に関する論評です。

長いので、かいつまんで引用します。

物語を読むときは、物語が伝える経験を読者も経験する。そのためには、感覚と 想像力を用いなければならない。物語を読むとは、この世界の現実よりももっと 深い大きな現実に向かうこと。これを発見できれば、深い満足を得られる。

また、作家は言語にひそむ曖昧さを最大限に活用する。そうすれば、意味の多様 性がもたらす独特の豊かさと力強さを、十分に得ることができるからだ。作家に とって、隠喩は、作品を築く構成単位である。12

 聖書も物語として読めば、可能性が広がります。聖書を本当の意味で「読む」と は、聖書を食べ味わい、味わって広がる聖書の世界に踏み入り、想像力の翼を思いっ きりはばたかせて―つまり、身体性と感覚を全開にして―その聖書世界を経験す ることです。聖書を「物語として読む」とは、聖書の世界を経験することを意味しま す。

 物語の中に省略があれば、想像力で補います。曖昧な表現があれば、意味の多様性 を味わいます。物語の中の隠喩は、現実の世界を超える世界を私たちに開いて見せて くれます。

 読者が聖書の世界に参加して初めて、聖書は生きます。いくら本屋さんに山積みに されていたところで、それは生きません。教義にのっとった読み方や聖書研究者の解 釈ではなく、読者の「読み」が聖書を生かすのです。

 「勝手に読んでいいのか?」と、自立しようとする子どもを管理下に置きたがる親 のような声が聞こえます。一般の人の聖書解釈を厳正な聖書研究の認可のもとに置き たい人たちもいるでしょう。しかし、読者がそれぞれ自由に読んで誰が困るのでしょ うか? 村上春樹を読むに際して、「こうして読め」、「読むためには研究書を読んで

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から」、「作者のことを知ってから読め」などと誰が言うでしょうか?

 聖書学者ならば、自分勝手に読むことはゆるされません。普遍、妥当な論拠を集め て自分の解釈を納得させる義務があります。しかし、ここで話題にしているのは専門 家ではなく、一般読者の「読み」です。一般読者に説明責任などありません。

 確かに、自分の聖書解釈をもって自己主張したり、徒党を組んだり、ときに攻撃的 になったりする人たちがいることも確かです。しかし、その人たちを念頭に置いて、

まだ聖書の世界に足を踏み入れてもいない一般読者にまで、前もって解釈の統制をか けてしまうのは勇み足です。

 聖書を自分で食べて味わうことが何よりも優先されます。

 さて、私が聖書の「読み」の手本としている読み方を一つご紹介したいと思いま す。それは椎名麟三という、今日ではもう忘れ去られつつある作家が、聖書の中の復 活のイエスに出会ったときの聖書の読み方です。彼は洗礼を受けクリスチャンになっ たあとも、聖書の世界に入ることができず、そこから「跳ね出されてしまって」いる と感じていました。ある日、バカバカしいと思いつつ、福音書の復活の場面を読んで いました。マタイから始めてマルコ、ルカへと進みます。ここまで読み進めると、

「いつものようにいらいらして」きました。「こうなったら仕様がないから、ナワトビ の遊びでもする子供のように、そのまま素直にこの個所を読んでやろうと」思いま す。こうしてルカ24章36節以降の段落に到り、「弟子やその仲間へ向ってさかんに毛 脛を出したり、懸命に両手を差しのべて見せているイエスを思い描いた」のです。

「ひどく滑稽」に思われたその瞬間、椎名は、死んでおり・かつ・生きている復活の イエスに出会ったのでした。13 

 椎名は、それまでしてきたような、「まず批判する」という読み方はやめて、子供 のように素直に聖書と遊んでみることにしました。その場に居合わせた人のようにそ の場面を見ました。復活したイエスの声を聞き、イエスの表情を仰ぎ見ました。聖書 の世界を経験しました。すると、突如、思いもかけず、とてつもない発見をしたので す。

7.さらにおいしい読み方

⑴  物語の形をとった神からの「ラヴレター」として読む

 ところで、以上のような自由な読み方をして、聖書の豊かな世界を経験することが できたとします。「これで、満足」という人もいるでしょう。しかしながら、これは ひとつの豊かな世界ですが、大事なことが抜けているとも思われます。私たちはもう

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少し先に行くこともできるのです。

 文章の類型と目的を設定することによって、その文章の読み方が規定されるわけで すが、今度は、聖書を「神からのラヴレター」として捉え直してみたらどうだろう か、という提案をしたいと思います。聖書は神からのラヴレターというキャッチフ レーズは時々耳にしたことがあるかもしれません。これはキルケゴールが言ったこと のようです。この提案は、聖書を「神の愛を証しし、指し示す書」と捉え直して読ん でみましょうと言い換えることもできます。

 こういうふうにしますと、聖書を読むときの方向性がはっきりしてきます。どこに 向うかというと、それは「神の愛」です。「愛」という言葉が肌に合わなければ、

「神」と言ってもいいですし、「恩寵」、「存在」、「超越」、「一者」、「真理」、「永遠の 命」、「根拠」、「無」、どんな言葉で言い表してもいいのですが、とにかく、「神の愛」

を聖書の物語の中で身体性や想像力を使ってなんとか経験したい―という方向性を 持って聖書を読むのです。

 「そんな読み方を勧めるのは、一種の洗脳ではないか。聖書学の統制より質が悪 い」と叱られるかもしれません。しかし、「神」や「神の愛」と呼ばれる「事柄

(ザッヘ)」は、個別のテーマではなく、個別化できない全体です。ですから、「神の 愛」に向かう読み方は、物語世界の経験をかえって広げ、かつ深め、豊かにするので す。

⑵  伝統の使用

 このレヴェルでの「読み」はなかなか苦労します。道無き道を行かなければなりま せん。先ほどご紹介した椎名麟三の読み方もこのレヴェルに入っています。彼は聖書 をただ面白い書物として読むことに満足できず、「生々と生きたい」との強い願いか ら何度も聖書に挑みますが、その都度、「跳ね出されて」しまう苦渋を味わいます14。  この段階で何か、聖書世界の道無き森を分け進むための導きや目印や地図となるも のはないのでしょうか。歴史批評的な説明はここではあまり役に立ちません。でも、

この段階でいろいろ教えてくれるものが実はあるのです。それは、古代、中世、宗教 改革の時代における聖書解釈です。古臭いと思われるでしょうが、これらの古い解釈 が、近代主義に囚われた私たちにかえって新しいヒントを与えてくれるのです。

 聖書の各書物は伝承を地下水脈として相互に密接に結びついています。このことを 確認することも、聖書世界の豊かさを発見するための大きな助けとなります。ある一 つの言葉が伝承というネットワークを通って聖書全体にちりばめられていたりしま す。各書物の有機的な結びつきは想像力を強く刺激します。

 これまで物語を身体性や想像力を使って食べ味わうことを勧めてきましたが、この

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段階では、概念的な教義学や哲学の記述が意外にも近いものになってきます。教義や 哲学も、聖書を食べ、より深く味わう手助けをしてくれます。

⑶  「事柄」に肉薄する

 先ほど、小説家、保坂和志さんの情熱的な文を引用しました。その中に、「私の場 合には小説を読むということは、それを読みながらそこから刺激されたことをどれだ け多く考えることができるかに賭けられていると言ってもいい」という文章がありま した。

 聖書の世界で「神の愛」を経験しようとする、このレヴェルの「読み」でも、聖書 世界での経験を通して、またその経験そのものをいろいろ味わったり、考えたり、つ まり、黙想と言ってもいいのですが、思いめぐらすことが経験を深めることになりま す。

 さて、このようにして、「事柄(ザッヘ)」に肉薄していくことができるのではない でしょうか。この「ザッヘ」というのは、先ほど述べましたように「神の愛」のこと です。この「ザッヘ」に肉薄することによって得られた新しい経験は、神にもとづく 喜びと知恵へと私たちを導いてくれるはずです。

 こうして初めて、私たちは神学という分野に招き入れられるのではないでしょう か。聖書から神学に到る道が開けるのです。

8.まとめと実践的な課題

 以上述べてきたことをまとめますと、次のようになります。

 聖書の歴史批評的な研究はどんどん進められるべきです。「神学」や「教会」の監 視から離れて、今まで通り、遠慮することなく、聖書について様々な問題提起をして いくべきだろうと思います。

 しかしながら、「研究」はあくまでも客観性を求める「研究」であって、聖書との 出会いを意味する「読み」ではないこともわきまえておくべきでしょう。一般読者の

「読み」に対しては、「研究」はこれを統制すべきではなく、むしろ一般読者に仕え、

自由な「読み」を促進する役割に徹するべきです。

 聖書を読む者は、聖書学の声を十分聞くけれども、それに制約されることなく、む しろそれに励まされて、自由な「読み」に旅立ちます。身体性、感覚、想像力などを 全開にして物語としての聖書を食べ味わい、これを真に受けて、聖書の世界を経験し ます。

 この自由な「読み」の先になお、聖書を「神を証しする書」として読むレヴェルが

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あることも忘れてはならないでしょう。このレヴェルでは古代から宗教改革にかけて の聖書註解が新たに導きの役割を担ってくれるでしょう。伝承を地下水脈として聖書 の各書物がつながっていることの再確認も、聖書世界の豊かさを発見するための大き な助けになるはずです。以上のように聖書を経験することを通して初めて神学につな がる道が開けてくるのではないのでしょうか。15 

 最後に、2つの実践的な提案をして講演の締めとさせていただきたいと思います。

⑴  聖書を読む共同体

 聖書を研究したり学んだりする場はありますが、一つの正解を学ぶというのではな く、各自が聖書を自由に読んで、その中で経験したことを話し合えるような場がある と面白いのではないでしょうか16。「正しい読み」、「正しくない読み」というものは ないのですから、それぞれの経験を共有し、味わえたらと思います。「読み」が変に 逸脱していなければ問題ありません。

 俳句の句会のような感じですかね。そんな場が身近にあればいいですね。

⑵  教室の開放

 一人の人の聖書の「読み」の経験は複数の人にも共有していただきたいものです。

聖書の「研究」についても、できるだけ共有したほうがよいでしょう。「研究」の結 果に賛成するかどうかは、また別問題として、です。

 教室で聖書を「読ん」だり、「研究し」たりするわけですが、聖書の「読み」や

「研究」を教室の中だけにとどめておく必要はありません。今はインターネットがあ るわけですから、これを利用して有志の人たちと「読み」や「研究」を共有できたら と思っています。

 このような試みを通して、いろいろな「読み」が、多様であることを保ちながら、

一つのハーモニーを形成していったら素晴らしいだろうと思います。

 ご清聴ありがとうございました。

1 本稿は2009年1月27日に行われた神学部・神学研究科公開講演会の原稿に若干の修正をほどこしたも のである。

2 これは組織神学あるいは教義学に対して外部から発せられそうな揶揄であり、もちろん筆者の見解で はない。

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3 E・シュヴァイツァー(佐伯晴郎・持田克己訳)『ルカ 現代神学への挑戦』新教出版社、1985年、

34−35頁。

4 カール・バルト(小川圭治・岩波哲男訳)『ローマ書講解』河出書房、1968年、10−17頁。

5 小野十三郎が引用した訳とは異なる。ここでの引用は、ポール・ヴァレリー(東宏治・松田浩則編 訳)『ヴァレリー・セレクション上』平凡社、2005年、190頁。

6 「ヨハネの黙示録」10章8−10節(新共同訳)。

7 「詩編」119編103節(新共同訳)。

8 Simone Weil, Attente de Dieu, Fayard, 1966, p.44.

9 神認識のさいの身体性と感覚の役割については、K.リーゼンフーバー『超越に貫かれた人間』創文 社、2004、69−170頁参照。

10 保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』新潮社、2008年、10頁。

11 M.J.アドラー/C.V.ドーレン(外山滋比古・槇未知子訳)『本を読む本』講談社、1997年、207頁。

12 同上、200−202頁。

13 椎名麟三『私の聖書物語』(『現代日本キリスト教文学全集17 「聖書の世界」』教文館、1973年、5−

92頁)59−65頁参照。

14 同上、60頁。

15 ここで述べた聖書の「読み」はなにも目新しいことではない。カトリック教会の「聖書深読法」や諸 修道会で行われてきている「黙想」なども、これに近いと思われる。

16 前註のように、教会によっては行なっているところも少なくない。

参照

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