弥勒に付嘱されるのかについて,鳩摩羅什の弟子である僧肇は次のような羅什の 言葉を紹介している(『注維摩詰経』大正 38, 418 上). 阿難に付さないのは神力が無いので弘宣できないからである.維摩は此土の菩薩ではな いから嘱さない.文殊は[他の世界に]遊び定まりないから嘱さない.弥勒に嘱するの は此処で成仏するからである. 確かに仏滅後の娑婆世界において弘通を委嘱するという付嘱の意義からすれば, この説明は受け入れやすい.経末での阿難への委嘱は形式的なものである.
2.
『首楞厳三昧経』の特徴
『首楞厳三昧経』(Śūraṅgamasamādhisūtra)は羅什訳 2 巻が現存しており,E.ラモッ トのフランス語訳はこれを定本としている(Lamotte 1965).初訳の支婁迦讖訳(186 年)『首楞厳経』(散佚)も 2 巻であり,大体同じ内容と考えられる4).チベット訳 は,二か所に増広が見られる5).「勇者のように進む三昧」というタイトルの本経 は,極めて高い能力の勇者(=菩薩)の活動を可能にする三昧を説く.首楞厳三昧 は六波羅蜜を獲得し,さらに第十地に至った菩薩によって得られるのである6). この三昧(=精神集中によって到達する究極の境地)は約 100 句によって示されるが, 最も特徴的な最後を引用しておこう(大正 15, 631c24–26; 丹治 1980, 209). [この三昧を得た菩薩は]入胎,初生を示現し,出家して仏道を成就し,法輪を転じ,大 滅度に入って,而も永く滅せず.(高崎・河村 1993, 412) 要するにそれまで仏教で説かれている一切の善き行為がこの三昧に集約されて いる(丹治 1980, 218 以下).さらに仏伝の要素を含む経文においても,個々の出来 事はすべてブッダが首楞厳三昧の中で示現したことである解釈されている7).こ の三昧は,仏およびその前世の菩薩行を生み出す究極の三昧と言えよう.首楞厳 三昧を具足している文殊菩薩の活動について, 人々に舎利供養の功徳を積ませるために,辟支仏乗において涅槃を示したが,実際は「滅 尽定に入り,本願を以っての故に,畢竟して滅せず.」(大正 15, 642c) と説かれる8).文殊菩薩は入滅を示した後も涅槃に安住せず,活動を続けるわけ である.偉大な菩薩は生死を超越して寿命が継続するという思想は,『法華経』の 久遠仏に先行するものと見ることができる. また注目すべきは,首楞厳三昧を得た仏・菩薩は,種々な身体を現じて衆生を 『法華経』の付嘱と流通分(岡 田) (207)『法華経』の付嘱と流通分
――『首楞厳三昧経』と比較して――
岡 田 行 弘
1.はじめに
『法華経』は,付嘱・流通を説く経文が多く,重要な構成要素となっている(岡 田 2016, 850).それは「一仏乗」の教えをすべての衆生に付嘱するという目的から 各品が展開していくからであり,他の諸経典に見られない特徴となっている.本 稿では,まず『首楞厳三昧経』において,付嘱がどのような文脈でなされている のかを考察する.そこには「仏の寿命」と「仏の在世か滅後か」という点で,注 目すべき教説が含まれている.『首楞厳三昧経』との比較によって『法華経』にお ける弘通をめぐる諸問題が,経典の構成に決定的な意味を与えていることがより 明確になる.なお「流通分」という用語は中国において経論を解釈する時に用い る三分科経(序・正宗・流通)において案出されたものである1).「流通」は漢訳仏 典の語彙ではないので,対応する梵語はない2). 『法華経』に先行する経典における付嘱を見ておこう.「小品般若」においては 般若波羅蜜も経典も共に阿難に付嘱されている(岡田 2015, 912).これは「大品般 若」も同様であって,羅什訳で言えば累教品第六十六において,仏は般若波羅蜜, さらに六波羅蜜を阿難に付嘱している(大正 8, 362c22, 363b4).さらに最終章の嘱 累品第九十において,阿難に対し仏の滅後も般若波羅蜜を供養するように述べ, 念入りに付嘱している.「小品」「大品」とも般若波羅蜜が仏の本質であるという ことが教説の核心であり,「仏滅後」という時代認識は強調されてはいない.した がって経典の編纂者は阿難に付嘱したのである.『大智度論』では詳細な議論がな されている(大正 25, 753c25 以下).『維摩経』のいわゆる流通分は羅什訳で言えば 法供養品第十三と嘱累品第十四である3).新発見の梵本では第 12 章「結びと付嘱 の品」がこれに相当する.仏はシャクラに対し,法の供養(=経典の供養)こそ三 世諸仏への供養であると説く(Vkn, 470.高橋・西野 2011, 213).続いて弥勒菩薩に 対し,仏滅後も経典を弘めるよう委嘱する(Vkn, 494.高橋・西野 2011, 224).なぜ (206) 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 1 号 平成 28 年 12 月弥勒に付嘱されるのかについて,鳩摩羅什の弟子である僧肇は次のような羅什の 言葉を紹介している(『注維摩詰経』大正 38, 418 上). 阿難に付さないのは神力が無いので弘宣できないからである.維摩は此土の菩薩ではな いから嘱さない.文殊は[他の世界に]遊び定まりないから嘱さない.弥勒に嘱するの は此処で成仏するからである. 確かに仏滅後の娑婆世界において弘通を委嘱するという付嘱の意義からすれば, この説明は受け入れやすい.経末での阿難への委嘱は形式的なものである.
2.
『首楞厳三昧経』の特徴
『首楞厳三昧経』(Śūraṅgamasamādhisūtra)は羅什訳 2 巻が現存しており,E.ラモッ トのフランス語訳はこれを定本としている(Lamotte 1965).初訳の支婁迦讖訳(186 年)『首楞厳経』(散佚)も 2 巻であり,大体同じ内容と考えられる4).チベット訳 は,二か所に増広が見られる5).「勇者のように進む三昧」というタイトルの本経 は,極めて高い能力の勇者(=菩薩)の活動を可能にする三昧を説く.首楞厳三昧 は六波羅蜜を獲得し,さらに第十地に至った菩薩によって得られるのである6). この三昧(=精神集中によって到達する究極の境地)は約 100 句によって示されるが, 最も特徴的な最後を引用しておこう(大正 15, 631c24–26; 丹治 1980, 209). [この三昧を得た菩薩は]入胎,初生を示現し,出家して仏道を成就し,法輪を転じ,大 滅度に入って,而も永く滅せず.(高崎・河村 1993, 412) 要するにそれまで仏教で説かれている一切の善き行為がこの三昧に集約されて いる(丹治 1980, 218 以下).さらに仏伝の要素を含む経文においても,個々の出来 事はすべてブッダが首楞厳三昧の中で示現したことである解釈されている7).こ の三昧は,仏およびその前世の菩薩行を生み出す究極の三昧と言えよう.首楞厳 三昧を具足している文殊菩薩の活動について, 人々に舎利供養の功徳を積ませるために,辟支仏乗において涅槃を示したが,実際は「滅 尽定に入り,本願を以っての故に,畢竟して滅せず.」(大正 15, 642c) と説かれる8).文殊菩薩は入滅を示した後も涅槃に安住せず,活動を続けるわけ である.偉大な菩薩は生死を超越して寿命が継続するという思想は,『法華経』の 久遠仏に先行するものと見ることができる. また注目すべきは,首楞厳三昧を得た仏・菩薩は,種々な身体を現じて衆生を『法華経』の付嘱と流通分
――『首楞厳三昧経』と比較して――
岡 田 行 弘
1.はじめに
『法華経』は,付嘱・流通を説く経文が多く,重要な構成要素となっている(岡 田 2016, 850).それは「一仏乗」の教えをすべての衆生に付嘱するという目的から 各品が展開していくからであり,他の諸経典に見られない特徴となっている.本 稿では,まず『首楞厳三昧経』において,付嘱がどのような文脈でなされている のかを考察する.そこには「仏の寿命」と「仏の在世か滅後か」という点で,注 目すべき教説が含まれている.『首楞厳三昧経』との比較によって『法華経』にお ける弘通をめぐる諸問題が,経典の構成に決定的な意味を与えていることがより 明確になる.なお「流通分」という用語は中国において経論を解釈する時に用い る三分科経(序・正宗・流通)において案出されたものである1).「流通」は漢訳仏 典の語彙ではないので,対応する梵語はない2). 『法華経』に先行する経典における付嘱を見ておこう.「小品般若」においては 般若波羅蜜も経典も共に阿難に付嘱されている(岡田 2015, 912).これは「大品般 若」も同様であって,羅什訳で言えば累教品第六十六において,仏は般若波羅蜜, さらに六波羅蜜を阿難に付嘱している(大正 8, 362c22, 363b4).さらに最終章の嘱 累品第九十において,阿難に対し仏の滅後も般若波羅蜜を供養するように述べ, 念入りに付嘱している.「小品」「大品」とも般若波羅蜜が仏の本質であるという ことが教説の核心であり,「仏滅後」という時代認識は強調されてはいない.した がって経典の編纂者は阿難に付嘱したのである.『大智度論』では詳細な議論がな されている(大正 25, 753c25 以下).『維摩経』のいわゆる流通分は羅什訳で言えば 法供養品第十三と嘱累品第十四である3).新発見の梵本では第 12 章「結びと付嘱 の品」がこれに相当する.仏はシャクラに対し,法の供養(=経典の供養)こそ三 世諸仏への供養であると説く(Vkn, 470.高橋・西野 2011, 213).続いて弥勒菩薩に 対し,仏滅後も経典を弘めるよう委嘱する(Vkn, 494.高橋・西野 2011, 224).なぜ龍種上如来として出現したが,その寿命は四百四十万歳(蔵訳は四万年)であった と説かれる(大正 15, 644a13; 丹治 1980, 342).このような時間の長さ――三昧によっ て活動可能になる時間――と比較する意味から,あらためて釈迦仏の寿命の長さ が問題になるわけである. 先の質問に対して,仏は「ここから東方の三万二千の仏国土の先にある荘厳 (pratimaṇḍita)という世界に照明荘厳自在王仏(vairocanaraśmipratimaṇḍitavikurvaṇarāja) がいて,その仏と自分は同じ寿命である」と答える9).堅意菩薩が仏の神力と首 楞厳三昧の力によって,彼の世界に確認に行くと,照明荘厳自在王仏は,仏の寿 命が七百阿僧祇劫(無量劫の 700 倍)であることを明かす(大正 15, 645a)10).する と聴衆たちは異口同音に次のように述べ,仏寿についての経文が完結する. このようにシャーキャムニ世尊の寿命の長さは,無数劫の 700 倍なのに,このサハー世 界におかれては,短い寿命でおられる.あらゆる衆生をしてこのような寿命の長さと, この英雄的な行進という三昧を得させたまわらんことを.(大正 15, 645a16–18,丹治 1980, 352) このように本経は経典を付嘱する過程において,聴衆からの質問に応答する形 で釈迦仏の寿命の具体的な数量,すなわち七百阿僧祇劫が明かされている.以上, 『首楞厳三昧経』における付嘱と仏寿に関する教説の展開は,『法華経』に先行す るものとして注目に値する.ちなみに「七百阿僧祇劫」という数字であるが,法 雲(467–529)は『法華義記』において,昔日(=法華経以前)と今日(=法華経以 後)の仏寿に言及する時,法華経以前の仏の寿命の例として「初言八十,後言七 百阿僧祇住世…称之曰麁」(大正 33, 572c)というように,八十と七百阿僧祇の二つ の数字を挙げている11).
4.
『法華経』における付嘱と流通
「方便品」で一仏乗が開示されると,第 3 章「譬喩」以降,声聞たちは順次,仏 の記を受ける.これは釈迦仏在世の時代の流通である.阿難は第 9 章で授記され るので,『法華経』を付嘱されることはない.第 10 章「法師」以降は仏滅後にお いて一切皆成仏の教えを伝達・拡大することが主題である.仏滅後という時代認 識は『維摩経』や『首楞厳三昧経』ではあまり表面には出ていなかった.本章で は,『法華経』を極小でも受持する人に対し,授記が与えられる.つまり経典が仏 の役割を代行することになる.これ以降,仏滅後の弘通を説き進める過程で仏の あり方が再解釈され,あらたな仏が創出されることになる.第 11 章「宝塔の出 『法華経』の付嘱と流通分(岡 田) (209) 教化すると説かれていることである.「この三昧によって,仏は菩薩であった時ど のような自在神力を表されたのか」という質問に対して,仏は大略以下のように 答えている(大正 15, 640a23–640c2; 丹治 1980, 307 以下). この三千大千世界の任意の閻浮提において,六波羅蜜の行を現じ,五神通の神仙を現じ, 居家,出家,兜率天の一生補処,転輪聖王,釈提桓因,梵王,四天王等の六欲天の王, 長者,居士,小王,大王と現じ,刹利,バラモン,菩薩等となり,ブッダの生涯と入滅, 舎利,寿命の長短等を現じる. このように首楞厳三昧によって菩薩は自在に変化身を示すという高度な能力を 具えるわけである.類似の例は『法華経』に継承されている.すなわち,後述の ように「種々の身体を現じる」という三昧が,「妙音品」と「普門品」に登場し, 新たな意義を与えられている.3.
『首楞厳三昧経』における付嘱
本経は以上のように仏に匹敵する能力を菩薩に付与する首楞厳三昧を説く.従っ てこの三昧を声聞に委嘱することは適当ではない.実際に経典は特徴的な進行を 示す.仏が阿難に委嘱しようとすると,本経の前半部で首楞厳三昧を体得してい た 神 と し て 世 尊 と 対 話 し て い た シ ャ ク ラ 神 メ ー ル シ カ ラ ダ ラ( Śakra meruśikharadhara,持須弥山頂釈)が再登場し,「阿難の智慧の憶念には限りがある, 私がこの三昧の法宝を今世,来世にわたって広宣流布する」と誓言する.さらに 神々や八部衆は「如来が一劫かかって教化した声聞よりも,首楞厳三昧によって 教化された衆生の利益のほうがはるかに勝っている」と言い,さらに「首楞厳三 昧は無量の勢力有り.能く諸々の菩薩を成就して,仏法を具足するを得せしむ」 (大正 15, 644c14)とさえ言う.これは首楞厳三昧が仏と同等の役割を果たすという 聴衆の理解を示していると同時に,仏の存在感が希薄化したような印象を与える. すると経典の進行役である堅意菩薩は「仏世尊の寿命はどれほどで,いつ畢竟 して涅槃に入るのですか」と質問する.この問いは唐突な印象を与えるが,重要 な意味がある.ここまで建前としては娑婆世界の釈迦仏の寿命は八十歳という事 で,経典が説き進められていた.また釈迦仏が自らの入滅後について,具体的に 何かを説いていたわけでもない.一方で,首楞厳三昧によって菩薩の永続的な活 動が保証されるとなると,その継続する時間は長期にわたる.文殊菩薩は過去の 照明という劫において三百六十億世にわたって,独覚乗によって完全な涅槃に入っ ていたという(大正 15, 642a29–b2).また文殊は,過去,平等という世界において (208) 『法華経』の付嘱と流通分(岡 田)龍種上如来として出現したが,その寿命は四百四十万歳(蔵訳は四万年)であった と説かれる(大正 15, 644a13; 丹治 1980, 342).このような時間の長さ――三昧によっ て活動可能になる時間――と比較する意味から,あらためて釈迦仏の寿命の長さ が問題になるわけである. 先の質問に対して,仏は「ここから東方の三万二千の仏国土の先にある荘厳 (pratimaṇḍita)という世界に照明荘厳自在王仏(vairocanaraśmipratimaṇḍitavikurvaṇarāja) がいて,その仏と自分は同じ寿命である」と答える9).堅意菩薩が仏の神力と首 楞厳三昧の力によって,彼の世界に確認に行くと,照明荘厳自在王仏は,仏の寿 命が七百阿僧祇劫(無量劫の 700 倍)であることを明かす(大正 15, 645a)10).する と聴衆たちは異口同音に次のように述べ,仏寿についての経文が完結する. このようにシャーキャムニ世尊の寿命の長さは,無数劫の 700 倍なのに,このサハー世 界におかれては,短い寿命でおられる.あらゆる衆生をしてこのような寿命の長さと, この英雄的な行進という三昧を得させたまわらんことを.(大正 15, 645a16–18,丹治 1980, 352) このように本経は経典を付嘱する過程において,聴衆からの質問に応答する形 で釈迦仏の寿命の具体的な数量,すなわち七百阿僧祇劫が明かされている.以上, 『首楞厳三昧経』における付嘱と仏寿に関する教説の展開は,『法華経』に先行す るものとして注目に値する.ちなみに「七百阿僧祇劫」という数字であるが,法 雲(467–529)は『法華義記』において,昔日(=法華経以前)と今日(=法華経以 後)の仏寿に言及する時,法華経以前の仏の寿命の例として「初言八十,後言七 百阿僧祇住世…称之曰麁」(大正 33, 572c)というように,八十と七百阿僧祇の二つ の数字を挙げている11).
4.
『法華経』における付嘱と流通
「方便品」で一仏乗が開示されると,第 3 章「譬喩」以降,声聞たちは順次,仏 の記を受ける.これは釈迦仏在世の時代の流通である.阿難は第 9 章で授記され るので,『法華経』を付嘱されることはない.第 10 章「法師」以降は仏滅後にお いて一切皆成仏の教えを伝達・拡大することが主題である.仏滅後という時代認 識は『維摩経』や『首楞厳三昧経』ではあまり表面には出ていなかった.本章で は,『法華経』を極小でも受持する人に対し,授記が与えられる.つまり経典が仏 の役割を代行することになる.これ以降,仏滅後の弘通を説き進める過程で仏の あり方が再解釈され,あらたな仏が創出されることになる.第 11 章「宝塔の出 教化すると説かれていることである.「この三昧によって,仏は菩薩であった時ど のような自在神力を表されたのか」という質問に対して,仏は大略以下のように 答えている(大正 15, 640a23–640c2; 丹治 1980, 307 以下). この三千大千世界の任意の閻浮提において,六波羅蜜の行を現じ,五神通の神仙を現じ, 居家,出家,兜率天の一生補処,転輪聖王,釈提桓因,梵王,四天王等の六欲天の王, 長者,居士,小王,大王と現じ,刹利,バラモン,菩薩等となり,ブッダの生涯と入滅, 舎利,寿命の長短等を現じる. このように首楞厳三昧によって菩薩は自在に変化身を示すという高度な能力を 具えるわけである.類似の例は『法華経』に継承されている.すなわち,後述の ように「種々の身体を現じる」という三昧が,「妙音品」と「普門品」に登場し, 新たな意義を与えられている.3.
『首楞厳三昧経』における付嘱
本経は以上のように仏に匹敵する能力を菩薩に付与する首楞厳三昧を説く.従っ てこの三昧を声聞に委嘱することは適当ではない.実際に経典は特徴的な進行を 示す.仏が阿難に委嘱しようとすると,本経の前半部で首楞厳三昧を体得してい た 神 と し て 世 尊 と 対 話 し て い た シ ャ ク ラ 神 メ ー ル シ カ ラ ダ ラ( Śakra meruśikharadhara,持須弥山頂釈)が再登場し,「阿難の智慧の憶念には限りがある, 私がこの三昧の法宝を今世,来世にわたって広宣流布する」と誓言する.さらに 神々や八部衆は「如来が一劫かかって教化した声聞よりも,首楞厳三昧によって 教化された衆生の利益のほうがはるかに勝っている」と言い,さらに「首楞厳三 昧は無量の勢力有り.能く諸々の菩薩を成就して,仏法を具足するを得せしむ」 (大正 15, 644c14)とさえ言う.これは首楞厳三昧が仏と同等の役割を果たすという 聴衆の理解を示していると同時に,仏の存在感が希薄化したような印象を与える. すると経典の進行役である堅意菩薩は「仏世尊の寿命はどれほどで,いつ畢竟 して涅槃に入るのですか」と質問する.この問いは唐突な印象を与えるが,重要 な意味がある.ここまで建前としては娑婆世界の釈迦仏の寿命は八十歳という事 で,経典が説き進められていた.また釈迦仏が自らの入滅後について,具体的に 何かを説いていたわけでもない.一方で,首楞厳三昧によって菩薩の永続的な活 動が保証されるとなると,その継続する時間は長期にわたる.文殊菩薩は過去の 照明という劫において三百六十億世にわたって,独覚乗によって完全な涅槃に入っ ていたという(大正 15, 642a29–b2).また文殊は,過去,平等という世界において示すという意味合いが濃厚である.『首楞厳三昧経』で説かれていた仏・菩薩が 様々な姿を現すという首楞厳三昧の特徴は,『法華経』の「現一切色身三昧」 (sarvarūpasaṃdarśanaḥ samādhiḥ)に対応する.この三昧は薬王菩薩本事品第二十三で 一切衆生喜見菩薩が『法華経』という法門によって獲得したものであり,その具 体的内容は後続の 2 つの品で説かれている.まず妙音菩薩品第二十四では妙音菩 薩がこの世界において梵天・帝釈など三十四の身体(羅什訳の場合)に変化して 『法華経』を説くという.このように無量の衆生を教化するためにその場に出現す るのが現一切色身三昧である.観世音菩薩普門品第二十五では,観音菩薩が三十 三身(梵本は十六身)の変化身によって説法すると説かれている15).仏滅後の世界 で,様々な境遇にある人々が『法華経』を説くという行為は,現一切色身三昧に 重なる菩薩行であり,この実践によって経典が広範な衆生に届くわけである.こ のような所説は付嘱というよりも,「流通」という用語によって的確に表現される と言えよう.なお,嘱累品が『妙法華』では経中にあることについて,種々に解 釈されてきた16).最終的には古い写本に依らなければならないと考える.
5.まとめ――付嘱と流通――
『首楞厳三昧経』においては,三昧が絶対的な地位にあるが,『法華経』におい ては「『法華経』という法門」がそれに相当する.『首楞厳三昧経』では仏の滅後 という認識は表面には出てこないものの,付嘱の段階において仏の寿命というテー マが浮上し,それが七百阿僧祇劫であると説示される.このような進行は『法華 経』に先行する形態を示している. 『法華経』は経典の中で確立される「現に存在する仏」が「あなたは仏に成る」 と説く経典である.すなわち法師品以降,弘通がテーマとなり,その過程の中で 久遠仏が開示されるという独創的な構成を持っている.仏滅後の世界では経典を 受持し弘める実践によって,すべての人の成仏が実現する.功徳を説く諸品は経 典の弘通を推進する役割を担っており,巻末の六品は当時の仏教をめぐる様々な 要素・活動を『法華経』の実践の一形態として認定し,書記経典の形式に収めて いる.これら諸品の経文は,「付嘱」という言葉の範囲を明かに逸脱しているの で,より広い意味を持つ「流通分」が相応しい名称と言えよう.中国の南北朝時 代,『法華経』の分科が考究される過程において,梵語の訳語である嘱累や付嘱で はなく,分別功徳品以下の経説を総括的かつ的確に表現できる「流通」という言 葉が用いられることになったと考えられる. 『法華経』の付嘱と流通分(岡 田) (211) 現」では,時間的・空間的に散在する諸仏がこの場に来集し,釈迦仏に統一され ていく.すると仏は四衆を虚空に移し,彼らに, あなたたちの中の誰がこの『妙法蓮華』という法門をこの娑婆世界において説き明かす (saṃprakāśayitum)ことができのるか? 如来はこの『妙法蓮華』という法門を付嘱して から(upanikṣipya),完全な涅槃に入りたいと欲している(parinirvāyitukāmo)のだ.(KN 本,250, ll. 10–14) と呼びかける.ここにおいて付嘱が中心的なテーマになる.このように仏が付嘱 の志願者を募集するのは『首楞厳三昧経』よりも遥かに進展した構成であり,他 の諸経典にも例がない.その場の菩薩たちは仏に対し,それぞれ『法華経』の弘 通を申し出る.これに対し仏は第 14 章(従地涌出品第十五)の冒頭では,「もう十 分です(止),善男子たちよ(alaṃ kulaputrāḥ)」(KN 本,297, ll. 6–7)と言って彼らの 申し出を保留(謝絶)する.その直後,新たに地中から出現する菩薩たちが加わ る.この地涌の菩薩たちは久遠仏によってすでに教化されていた.すでに内部的 には付嘱の準備は完了しているといえよう. 第 15 章「如来寿量」(如来寿量品第十六)で,仏は自ら「寿命に制限はなく,常 に現在する仏」であることを宣言する.つまり,「方便品」の冒頭から「仏とは何 か」ということが隠れた重要な問題であったのであるが,この時点でついにそれ が明かされた12).経典の弘通は『法華経』と経典を説く仏が同一であるという認 識に到達して,真に実践すべき目標となる.続く分別功徳品第十七以降の三品で は種々な方面から『法華経』の功徳を説くことによって間接的に弘通を勧める. 仏は第 20 章(如来神力品第二十一)において,序品からの聴衆に先行し,地涌の 菩薩たちに対し,この世界で『法華経』を弘めるように特別に委嘱する.第 27 章 「委嘱」(嘱累品第二十二)では,すべての聴衆たちに無上菩提を付嘱する.その経 文は以下である(KN 本,484, ll. 5–6)13). 私(=仏)は無上正等正覚をあなたたちの手に,付し,付嘱し,託し,委託する(parindāmy anuparindāmi nikṣipāmy upanikṣipāmi)これは形式的な付嘱であるが,同時にこの法門(『法華経』)を説き聞かせることが 改めて強調される.このように複合的に委嘱がなされているので,最終的に『法 華経』はすべての衆生に付嘱されていることになる. 巻末六品では,現世・来世の果報が,『法華経』の信仰実践と結びつけられてい る14).これら諸品は『法華経』の支持層を拡大する,すなわち経典の弘通を説き (210) 『法華経』の付嘱と流通分(岡 田)
示すという意味合いが濃厚である.『首楞厳三昧経』で説かれていた仏・菩薩が 様々な姿を現すという首楞厳三昧の特徴は,『法華経』の「現一切色身三昧」 (sarvarūpasaṃdarśanaḥ samādhiḥ)に対応する.この三昧は薬王菩薩本事品第二十三で 一切衆生喜見菩薩が『法華経』という法門によって獲得したものであり,その具 体的内容は後続の 2 つの品で説かれている.まず妙音菩薩品第二十四では妙音菩 薩がこの世界において梵天・帝釈など三十四の身体(羅什訳の場合)に変化して 『法華経』を説くという.このように無量の衆生を教化するためにその場に出現す るのが現一切色身三昧である.観世音菩薩普門品第二十五では,観音菩薩が三十 三身(梵本は十六身)の変化身によって説法すると説かれている15).仏滅後の世界 で,様々な境遇にある人々が『法華経』を説くという行為は,現一切色身三昧に 重なる菩薩行であり,この実践によって経典が広範な衆生に届くわけである.こ のような所説は付嘱というよりも,「流通」という用語によって的確に表現される と言えよう.なお,嘱累品が『妙法華』では経中にあることについて,種々に解 釈されてきた16).最終的には古い写本に依らなければならないと考える.
5.まとめ――付嘱と流通――
『首楞厳三昧経』においては,三昧が絶対的な地位にあるが,『法華経』におい ては「『法華経』という法門」がそれに相当する.『首楞厳三昧経』では仏の滅後 という認識は表面には出てこないものの,付嘱の段階において仏の寿命というテー マが浮上し,それが七百阿僧祇劫であると説示される.このような進行は『法華 経』に先行する形態を示している. 『法華経』は経典の中で確立される「現に存在する仏」が「あなたは仏に成る」 と説く経典である.すなわち法師品以降,弘通がテーマとなり,その過程の中で 久遠仏が開示されるという独創的な構成を持っている.仏滅後の世界では経典を 受持し弘める実践によって,すべての人の成仏が実現する.功徳を説く諸品は経 典の弘通を推進する役割を担っており,巻末の六品は当時の仏教をめぐる様々な 要素・活動を『法華経』の実践の一形態として認定し,書記経典の形式に収めて いる.これら諸品の経文は,「付嘱」という言葉の範囲を明かに逸脱しているの で,より広い意味を持つ「流通分」が相応しい名称と言えよう.中国の南北朝時 代,『法華経』の分科が考究される過程において,梵語の訳語である嘱累や付嘱で はなく,分別功徳品以下の経説を総括的かつ的確に表現できる「流通」という言 葉が用いられることになったと考えられる. 現」では,時間的・空間的に散在する諸仏がこの場に来集し,釈迦仏に統一され ていく.すると仏は四衆を虚空に移し,彼らに, あなたたちの中の誰がこの『妙法蓮華』という法門をこの娑婆世界において説き明かす (saṃprakāśayitum)ことができのるか? 如来はこの『妙法蓮華』という法門を付嘱して から(upanikṣipya),完全な涅槃に入りたいと欲している(parinirvāyitukāmo)のだ.(KN 本,250, ll. 10–14) と呼びかける.ここにおいて付嘱が中心的なテーマになる.このように仏が付嘱 の志願者を募集するのは『首楞厳三昧経』よりも遥かに進展した構成であり,他 の諸経典にも例がない.その場の菩薩たちは仏に対し,それぞれ『法華経』の弘 通を申し出る.これに対し仏は第 14 章(従地涌出品第十五)の冒頭では,「もう十 分です(止),善男子たちよ(alaṃ kulaputrāḥ)」(KN 本,297, ll. 6–7)と言って彼らの 申し出を保留(謝絶)する.その直後,新たに地中から出現する菩薩たちが加わ る.この地涌の菩薩たちは久遠仏によってすでに教化されていた.すでに内部的 には付嘱の準備は完了しているといえよう. 第 15 章「如来寿量」(如来寿量品第十六)で,仏は自ら「寿命に制限はなく,常 に現在する仏」であることを宣言する.つまり,「方便品」の冒頭から「仏とは何 か」ということが隠れた重要な問題であったのであるが,この時点でついにそれ が明かされた12).経典の弘通は『法華経』と経典を説く仏が同一であるという認 識に到達して,真に実践すべき目標となる.続く分別功徳品第十七以降の三品で は種々な方面から『法華経』の功徳を説くことによって間接的に弘通を勧める. 仏は第 20 章(如来神力品第二十一)において,序品からの聴衆に先行し,地涌の 菩薩たちに対し,この世界で『法華経』を弘めるように特別に委嘱する.第 27 章 「委嘱」(嘱累品第二十二)では,すべての聴衆たちに無上菩提を付嘱する.その経 文は以下である(KN 本,484, ll. 5–6)13). 私(=仏)は無上正等正覚をあなたたちの手に,付し,付嘱し,託し,委託する(parindāmy anuparindāmi nikṣipāmy upanikṣipāmi)これは形式的な付嘱であるが,同時にこの法門(『法華経』)を説き聞かせることが 改めて強調される.このように複合的に委嘱がなされているので,最終的に『法 華経』はすべての衆生に付嘱されていることになる.
巻末六品では,現世・来世の果報が,『法華経』の信仰実践と結びつけられてい る14).これら諸品は『法華経』の支持層を拡大する,すなわち経典の弘通を説き
16)中国の註釈家の所説に関しては,田賀(1960, 65 以下)参照.苅谷(1973, 113)は羅 什が自己の見識によって神力品の次に移行させたとする.
〈略号〉
KN 本 Saddharmapuṇḍarīka. Ed. H. Kern and Bunyiu Nanjio. Bibliotheca Buddhica X. 1908– 1912. Reprint, Tokyo: Meicho-Fukyu-kai, 1977.
Vkn 大正大学綜合佛教研究所梵語仏典研究会編『梵蔵漢対照 『維摩経』』大正大学出 版会,2004. 〈参考文献〉 横超慧日 1958『中国仏教の研究第一』法蔵館. 岡田行弘 2014a「『法華経』妙音品の考察」『奥田聖應先生頌寿記念インド学仏教学論集』 佼成出版社,738–749. ――― 2014b「法華経における教えの展開と実践」『日本仏教学会年報』79: 135–160. ――― 2015「『八千頌般若』と『法華経』の共通性――構想・教説の展開・物語をめぐっ て――」『印仏研』63 (2): 907–914. ――― 2016「総合経典としての『法華経』」『印仏研』64 (2): 845–852. 苅谷定彦 1973「法華経 「嘱累品」 考」『印仏研』22 (1): 111–114. 菅野博史 1994『中国法華思想の研究』春秋社. 木村英一編 1960『慧遠研究 遺文篇』創文社. 高崎直道・河村孝照校註 1993『文殊経典部 2 維摩経・思益梵天所門経・首楞厳三昧経』 新国訳大蔵経 文殊経典部 2,大蔵出版. 高橋尚夫・西野翠訳 2011『梵文和訳維摩経』春秋社. 田賀龍彦 1960「法華経嘱累品について」『大崎学報』111: 60–82. 長尾雅人・丹治昭義訳 1980『大乗仏典 7 維摩経・首楞厳三昧経』中央公論社. 平岡聡 2015『大乗経典の誕生――仏伝の再解釈でよみがえるブッダ――』筑摩書房. 平川彰 1989『初期大乗と法華思想』平川彰著作集第 6 巻,春秋社.
Lamotte, Étienne, trans. 1965. La Concentration de la’marche héroïque
(Śūraṃga-masamādhisūtra) traduit et annoté. Méranges chinois et bouddhiquee XIII. Brussels: Institut
Belge des Hautes Etudes Chinoises.
〈キーワード〉 『法華経』,『首楞厳三昧経』,流通分,付嘱,仏寿 (神戸女子大学瀬戸短期大学名誉教授,PhD) 『法華経』の付嘱と流通分(岡 田) (213) 1)中国における三分科経の成立に関して横超(1958, 270–271)は「南朝の講経はこの 科文を大に発達せしめ,所謂序・正・流通の三分科経方式を確立した」と指摘する. 2)法雲は『法華義記』においての三分科経を立てる際に流通の意味を解説しているの でその箇所を引用する.訳は菅野(1994, 190–191)による. 今一家所習経無大小,例為三段.三段者,第一銘為序也.第二称為正説.第三呼曰 流通.【中略】流是行為義.借譬為名.通是壅塞為義也.(大正 33, 574c13–19) 今,自己の学派の習学することによって言えば,経は大乗,小乗に関係なく,同類 の内容をまとめて三段とする.三段とは,第一を序となづけるのである.第二を正説 と呼ぶ.第三を流通と呼ぶ.【中略】流は行なわれるという意味であり,譬えを借りて 名づけたものである.通はふさがることがないという意味である. 3)『維摩経』の構成については,高崎・河村 1993, 10–11 参照. 4)平川 1989, 59.高崎・河村 1993, 374. 5)丹治 1980 の 210–218 と 355–370 である. 6)平川 1989, 217 以下.なお,首楞厳三昧は「大品般若」の「百八三昧」の最初に名が 挙げられているが(大正 8, 251a),『八千頌般若』には登場しない. 7)平岡 2015, 195–200 参照. 8)平川彰は「大乗経典には仏の長遠の寿命の根拠として,加持力(adhiṣṭhāna-bala,神 通力)あるいは滅尽定の力が主張されていることは注目してよい」と指摘する(平川 1989, 442).そしてこの箇所に関して「文殊は形は菩薩であるが,実質は仏と異ならな い」として,こう指摘する. その仏の寿命を存続させる力は,その「本願」にあると見うるし,さらにそれを支 えるものは,そのすぐれた滅尽定の力であると見ることができよう.すなわちすぐれ た滅尽定を得れば,寿命を延ばしうるという考えがここにある.(平川,同上) 9)仏国土と仏名のチベット語からの還梵は Lamotte 1965, 269 による. 10)この箇所は『大智度論』巻三十四(大正 25, 312a)に引用されている.また『大乗大 義章』においても言及されている(木村 1960, 111). 11) 詳細については,菅野(1994, 166 以下)を参照されたい.『法華義記』では仏寿につ いて次のように解釈している(訳文は菅野 1994, 174). 所以言今日果体長者,但昔言果,止言寿命八十七百阿僧祇.今日明果,寿命長遠, 復倍為数.是故下経文言,寿命無数劫,久修業所得.(大正 33, 573b12 以下) 今日の果の体が長いと言う理由は,昔,果を言う場合は,寿命が八十とか,七百阿 僧祇と言うだけであったからである.今日,果を明かす場合は,寿命が長遠で,(過去 に成仏してから現在までの時間の)二倍を(未来の寿命の)数とする.このため,下 の経文に「寿命の無数劫は,久しい修行によって得たものである」とある. 12)岡田 2016, 849 を参照. 13)なお薬王品の「嘱累する」の原語も anuparindāmi であり,広宣流布の原語は pra√car である(KN 本,420, l. 12, 14). 14)岡田 2014b, 149 以下参照. 15)妙音の三十四身と観音の三十三身の対照表については,岡田 2014a, 746–747 参照. (212) 『法華経』の付嘱と流通分(岡 田)
16)中国の註釈家の所説に関しては,田賀(1960, 65 以下)参照.苅谷(1973, 113)は羅 什が自己の見識によって神力品の次に移行させたとする.
〈略号〉
KN 本 Saddharmapuṇḍarīka. Ed. H. Kern and Bunyiu Nanjio. Bibliotheca Buddhica X. 1908– 1912. Reprint, Tokyo: Meicho-Fukyu-kai, 1977.
Vkn 大正大学綜合佛教研究所梵語仏典研究会編『梵蔵漢対照 『維摩経』』大正大学出 版会,2004. 〈参考文献〉 横超慧日 1958『中国仏教の研究第一』法蔵館. 岡田行弘 2014a「『法華経』妙音品の考察」『奥田聖應先生頌寿記念インド学仏教学論集』 佼成出版社,738–749. ――― 2014b「法華経における教えの展開と実践」『日本仏教学会年報』79: 135–160. ――― 2015「『八千頌般若』と『法華経』の共通性――構想・教説の展開・物語をめぐっ て――」『印仏研』63 (2): 907–914. ――― 2016「総合経典としての『法華経』」『印仏研』64 (2): 845–852. 苅谷定彦 1973「法華経 「嘱累品」 考」『印仏研』22 (1): 111–114. 菅野博史 1994『中国法華思想の研究』春秋社. 木村英一編 1960『慧遠研究 遺文篇』創文社. 高崎直道・河村孝照校註 1993『文殊経典部 2 維摩経・思益梵天所門経・首楞厳三昧経』 新国訳大蔵経 文殊経典部 2,大蔵出版. 高橋尚夫・西野翠訳 2011『梵文和訳維摩経』春秋社. 田賀龍彦 1960「法華経嘱累品について」『大崎学報』111: 60–82. 長尾雅人・丹治昭義訳 1980『大乗仏典 7 維摩経・首楞厳三昧経』中央公論社. 平岡聡 2015『大乗経典の誕生――仏伝の再解釈でよみがえるブッダ――』筑摩書房. 平川彰 1989『初期大乗と法華思想』平川彰著作集第 6 巻,春秋社.
Lamotte, Étienne, trans. 1965. La Concentration de la’marche héroïque
(Śūraṃga-masamādhisūtra) traduit et annoté. Méranges chinois et bouddhiquee XIII. Brussels: Institut
Belge des Hautes Etudes Chinoises.
〈キーワード〉 『法華経』,『首楞厳三昧経』,流通分,付嘱,仏寿 (神戸女子大学瀬戸短期大学名誉教授,PhD) 1)中国における三分科経の成立に関して横超(1958, 270–271)は「南朝の講経はこの 科文を大に発達せしめ,所謂序・正・流通の三分科経方式を確立した」と指摘する. 2)法雲は『法華義記』においての三分科経を立てる際に流通の意味を解説しているの でその箇所を引用する.訳は菅野(1994, 190–191)による. 今一家所習経無大小,例為三段.三段者,第一銘為序也.第二称為正説.第三呼曰 流通.【中略】流是行為義.借譬為名.通是壅塞為義也.(大正 33, 574c13–19) 今,自己の学派の習学することによって言えば,経は大乗,小乗に関係なく,同類 の内容をまとめて三段とする.三段とは,第一を序となづけるのである.第二を正説 と呼ぶ.第三を流通と呼ぶ.【中略】流は行なわれるという意味であり,譬えを借りて 名づけたものである.通はふさがることがないという意味である. 3)『維摩経』の構成については,高崎・河村 1993, 10–11 参照. 4)平川 1989, 59.高崎・河村 1993, 374. 5)丹治 1980 の 210–218 と 355–370 である. 6)平川 1989, 217 以下.なお,首楞厳三昧は「大品般若」の「百八三昧」の最初に名が 挙げられているが(大正 8, 251a),『八千頌般若』には登場しない. 7)平岡 2015, 195–200 参照. 8)平川彰は「大乗経典には仏の長遠の寿命の根拠として,加持力(adhiṣṭhāna-bala,神 通力)あるいは滅尽定の力が主張されていることは注目してよい」と指摘する(平川 1989, 442).そしてこの箇所に関して「文殊は形は菩薩であるが,実質は仏と異ならな い」として,こう指摘する. その仏の寿命を存続させる力は,その「本願」にあると見うるし,さらにそれを支 えるものは,そのすぐれた滅尽定の力であると見ることができよう.すなわちすぐれ た滅尽定を得れば,寿命を延ばしうるという考えがここにある.(平川,同上) 9)仏国土と仏名のチベット語からの還梵は Lamotte 1965, 269 による. 10)この箇所は『大智度論』巻三十四(大正 25, 312a)に引用されている.また『大乗大 義章』においても言及されている(木村 1960, 111). 11) 詳細については,菅野(1994, 166 以下)を参照されたい.『法華義記』では仏寿につ いて次のように解釈している(訳文は菅野 1994, 174). 所以言今日果体長者,但昔言果,止言寿命八十七百阿僧祇.今日明果,寿命長遠, 復倍為数.是故下経文言,寿命無数劫,久修業所得.(大正 33, 573b12 以下) 今日の果の体が長いと言う理由は,昔,果を言う場合は,寿命が八十とか,七百阿 僧祇と言うだけであったからである.今日,果を明かす場合は,寿命が長遠で,(過去 に成仏してから現在までの時間の)二倍を(未来の寿命の)数とする.このため,下 の経文に「寿命の無数劫は,久しい修行によって得たものである」とある. 12)岡田 2016, 849 を参照. 13)なお薬王品の「嘱累する」の原語も anuparindāmi であり,広宣流布の原語は pra√car である(KN 本,420, l. 12, 14). 14)岡田 2014b, 149 以下参照. 15)妙音の三十四身と観音の三十三身の対照表については,岡田 2014a, 746–747 参照.