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駒澤大学佛教学部論集 36 005吉村 誠「唯識学派の三転法輪説について」

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駒澤大學佛 教 學部論 集 第三 十六 成十七年十月 一六三 赦 徘

唯識学派

三転法輪説

について

いて

序言 一、円 測 の三転 法 輪説 1、時と処 2、了義・ 不 了義 3、理・義 二、基 の 三転法 輪 説 1、時と教 2、理 ・ 機と頓 ・ 漸 3、教と宗 結語 序言 中国に唯識思想の 体 系 を 伝えた 玄 奘( 六〇二―六六四)は、 インド で 瑜 伽 行派の戒 賢に師事し、三転 法 輪 説を修 得 し た 。 ( 1 ) 三転 法輪 説は 、 『 解 深 密経』の無自性相品に次のように 説か れ て い る 。 即 ち、釈 尊 は初め 第 一 時 に た だ 声 聞 乗 のため に 四 諦の教 え を説 かれ たが、そ れ は未了義の教え で あ った。また、 昔第二時 に ただ大乗のた めに無自性の教えを 隠密に説か れ た が、そ れ も未 了義の 教え で あっ た。し か し、 今第三時に 普 く 一切乗の た め に 無 自性の教えを 顕了に説かれ た。こ れ こ そ が 了義の教え で あ る 、 と いう内容 で あ る。 三時(初・ 昔 ・今 )の 区 分に は 、瑜伽行派の仏教史観が反 映さ れて いる 。 彼 らは 仏 教 が小乗・大乗・ 一 切乗の順に発展 し た と考え、自らを小 乗 と大乗を 統合する一切乗 で あると位 置づ け た 。 一 切乗(=「 一 乗 」 ) とは、小 乗と大 乗 を統 合す ( 2 ) る広範な「大乗」であ り、それが唯識の 立場で あ るという。 この考えが釈 尊の生涯 に投 影さ れた結果、 釈 尊が 三時に わ たっ て 法 輪を 転じ たとい う 話 が 形成さ れ たの であ る 。 し た がっ て 、 釈尊が三たび法 輪 を転 じた と い う話は、 瑜伽行派 の 立場を 正 当 化 す る た め の譬 喩で あり 、その 意 図す るとこ ろ は 唯 識 思 想 に よ る 全 仏教 の 綜 合 に あ る 。 『 解深 密経 』の 記述 か ら考えると、第一時の小 乗 の教 えは ア ビ ダルマ、特に説一切 有部の思想(有 ) 、第二時の大乗の 教えは般若思想(空 ) 、 第 三時の 一 切乗の教えは唯識思想 ( 中) を 意味 し て いる。二辺

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唯 識 学 派 の 三 転法 輪説 につ い て ( 吉 村) 一六四 を廃 し て 中道を 立 て る と い う三 教( 有・ 空・ 中 ) の 構 造は 、 こ れ が 思 弁的に組み立 てられた こ と を示唆 す るも の で ある 。 このよ う に 、 三転 法輪 説 は 中 国 で発 展し た教相 判 釈 ( 教 判) とは由 来 を 異 にす るも ので あ る が 、 中 国 で は こ れ が経 典 に典 拠 を も つ インド起 源の教判と し て 権威的 に受け止 め ら れ た。 既 に 、菩提流支の『 深 密解脱経 』 ( 『 解 深 密 経 』 の 異 訳) によっ て 伝 え られ 、真諦の教判とし て も 知 ら れていたが 、 玄 奘が 三 転 法輪 説によ る 仏 教 の統 合に努め たため、 玄奘門 下 の 唯識学派で は こ の 説 が 特に重視された。 そ こで は 三 転 法 輪説 ( 3 ) にさま ざ まな 解釈 を施 すようになり 、同説はい わ ゆ る 三時 教 判とし て 他学派か ら批判され る ほどに成長し た。三転 法 輪 説 は日本 の 法相 宗で も 議 論が重ねられ 、唯識の教判といえ ば 三 時教判を指 す の が 一 般 となっ て いる。 ( 4 ) しか し、唐代の唯識学派で 行 な われた三転 法 輪説の解釈や 、 三転 法輪説が 三 時 教判 とし て 確 立する過程につい て は 、未だ 十分に 解 明 さ れ て は い な い 。小稿 で は、 この問 題 を解明 す る ため に、玄 奘 の 高 弟 で あ る 円測 (六一 三 ―六九 三 ) と 基 ( 慈 恩大師、六三二―六 八 二)の 三 転 法 輪説の解釈につい て 考 察 し た い。円 測 は帰国後の玄奘 に 早くから師事し た こ と から、 その解釈 には最初期の唯 識 学 派 の思想が反映されて いる こ と が期待され る 。また、基 の 解釈はより複雑な理論 で 構 成され てい る が 、 そ の 基 本 的 な 考 え は 円測 の 解 釈 と 共 通 し て い る 場 合がある。 少 なくとも 、両者 に 共 通 する解 釈 は 、 初期の唯識 学派 におい て 一般に行 われて い たと考え てよい だ ろ う 。 考察に入る 前 に、 両 者 が師事し た 玄 奘の解釈につい て 見 て お く ことにし た い 。 円測 の『解 深 密 経 疏』 巻 一 に は 、 玄 奘の 三転 法輪 説 の 解 釈 に つ いて 次の よ う に述 べら れ て い る 。 或説三教 。 如 大 唐 三 蔵 。依 深 密 等所説。四諦無相了 義 。 如上 已説 。 而 説一 音及半満等、各拠一義互不相違 。所説 華厳及楞伽等、 皆 第 三 了義所摂。而言三時所説教者 、約 義浅 深 広 略義説 。 非 約 年歳日月前後説三時也 。 ( 5 ) 或は 三教 を説く 。 大 唐 三蔵 の如し 。 深密 等の所説に 依 る 。 四諦・無相・ 了 義 な り。 上に已に説くが如 し。而も 一音 及び 半満等は、各々一義 に 拠り て 互 ひ に 相違せず。所説 の華厳及び 楞 伽等、 皆 第三了義の所摂 な り。而れ ども三 時所説の教と言ふは、義 に 約さ ば浅 深 広 略の義説あり。 年歳日月の前 後に訳して 三 時を 説くに非ざ る なり。 即 ち 、玄 奘は『解 深 密 経』 等 の 所説 によっ て 、四諦・無相 ・了義の三教 を立 てた。 諸 教の分 類 には一 音 教、半 教 ・満 教 等があるが、そ れ ぞ れ 一 義 に よ るもの で 、互いに相違する わ けで は な い。こ れ が『 解 深 密経 』の了義の教 え で あるが 、 『華 厳 経 』 『 楞 伽 経』等もこ の 第 三 法 輪 に収 められる。 諸 教 は互いに相違しないにも かかわらず 、 三時の教えと言っ て 区 別 す る の は 、 教 え の 義 に 浅 深広 略 が あ る か ら であ る 。 時 間 の

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唯識学派 の三 転法 輪 説 に つ いて (吉村 ) 一六五 前後によっ て 三 時 というので は ない、という。 ここで 玄 奘は 、釈 尊の諸教に相違はないが、教えの義に は 深浅広 略 があると述べ て い る 。 これは、仏 の 教 え は 平 等 で あ るが 、それ を 受 け る 衆 生の 機 根 に は 差 別 があ る 、 と い う考 え を背 景と す る もので あ る。 また 、三 時と はそ の 意 味で の区 分 であ り 、 たん に 時 間 の 前 後 を 説 く も の で は な い 、 と も 述 べ て いる 。そのことは、成道後の説法とされ る 『 華厳経 』 を、第 三法輪に位 置 づけ る と こ ろ に 端的に示されて い る 。 ここから 、 玄奘 が三 時を瑜 伽 行 派の 仏教史観 の 譬 喩と し て 捉え 、三転 法 輪説に よ っ て 全仏教 を 統合的に把握しようとし て いたこと が 窺える 。 以下、玄奘の三転 法輪 説 の 解 釈 を 、 円 測 や 基 がどのように 継承し、発展 さ せ た の かを見る こ と にし たい 。 一、 円測の 三 転法 輪 説 円測 の三 転 法 輪説に 対 する 基 本 的な 理 解 は 、 『 解 深密 経 疏』巻一 の総論に次 のように示さ れて いる 。 約時 弁 宗 有 其 三 種 。 一 四 諦 法 輪 。 如 四 阿 笈 摩 。 雖 有諸 部 四諦 為宗。 二 無相大乗。 如 諸 般 若 。 遣 所執 性無 相為宗 。 三了義大 乗。 如此 経等。用三性等為所詮宗。三種法 輪 、 至第 二 巻 当広 分別。 ( 6 ) 時に 約し て 宗 を弁ずれば 其 れ 三 種有り。 一には四諦法 輪。 四 阿 笈 摩 の如 し 。 諸部有りと雖も四諦を宗と 為 す 。 二 に は無 相 大 乗 。 諸々 の 般 若の 如 し 。 所 執 性 を 遣 り て 無相を 宗と 為 す 。 三 には 了義 大乗 。 此 の経 等 の 如 し 。 三 性等 を 用 て 所詮の宗 と 為 す。三 種 法輪、第二巻に至り当に 広 く 分別 す べ し 。 即 ち 、 時 とい う 観 点か ら 教 え を 弁別 す れ ば、 釈 尊 は 第 一 時 に四諦 を 説 か れた。こ れ が 『阿含経 』 で あ り 、小乗 諸 部 の 教 えで あ る 。 次 に 、 第二 時に 無 相 を 説 かれ た 。 こ れ が 『 般若 経 』 等 で 、無相大乗 の 教え で あ る。唯識の三性説 で い え ば 、 遍計所 執 性の 捨遣 に 相 当する 。 最後に、第三時に 三 性 を 説 か れた。 こ れが 『解深密 経』 等 で あり、了義大 乗の教え である、 という。 こ の う ち 、第二の無相大乗は伝 統 的 な大乗の立 場 (中 観派 ) 、 第 三 の了 義大 乗は 新 興 の 瑜 伽 行 派 の 立 場 に 相 当 する。また 、 有 相 ・無相 で いえば 、 第一が有相、第二が無相、 第三が有無 中 道で あ り 、 了 義・ 不了義で いえば 、 第一、第二 が不了義、第三が了 義 である。これを整 理すれば 次のように なるだ ろ う。 〔時〕 〔乗 〕 〔教 〕 〔 経〕 〔有 ・ 無〕 〔 了 ・ 不 了 〕 第一時 小乗諸部 四諦 四阿笈摩 有相 不了義 第二時 無相大 乗 無相 諸般若等 無相 不了義 第三 時 了義大乗 三性 解深 密等 有無 中 道 了義 しか し、議論の詳細は『解 深 密 経 』 巻二 の三 転法輪説に対

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唯 識 学 派 の 三 転法 輪説 につ い て ( 吉 村) 一六六 する 注釈 、即ち 『 解深 密経 疏 』 巻 五 の 記 述に 委 ね られて い る。 そ こ で 円 測は、三転法輪説を「時処諸説同異」 「 摂教 分 斉 顕 了不了」 「所詮宗浅 深 差別 」の三門に 分 け、独自の 議 論 を 展 開している。以下 、 こ の 順 序 に 従 っ て 議 論 の 内容 を 検 証し て ゆき た い 。 1、時と 処 第一の「時処諸説同 異 」は 、 三 種の教えが説かれた時間と 場所に関する議論であ る 。 円測 は先ず 、 真諦 の 『 解節経義 疏 』 (逸 書) から次 の ような一 節を引 用 する 。 真諦三 蔵 解節経 疏 云 、 復 次 、如 来三転 法 輪、為三 種人。 ①一 者初 度 声 聞、 於 波 羅 櫞 鹿園、 仙 人 集 処、初 転 法 輪 。 即第一時、転四諦法 輪 。 是 法輪、希有不可思議、是法輪、 不了義有上有難有諍 。 ② 次 如来、 得 道已 七年、在 舎衛国 給 孤 独園 。即是第二 時 、為 度大乗行人、顕一 切 法 無 自性、 無 生 無滅 、本来寂静、 自性涅槃。顕説 相 輪、名転 法輪。 ( 7 ) 転法 輪 者 、 波 羅 蜜 十 地 等也 。是法 輪 、 希 有不 可 思 議、一 切人天所不 能 転、是 法 輪、 不了義 亦 有上有難有諍。去孤 独園五里有江。 人飲浴 去悉得智 慧 。 時人号 云 施智 慧所。 故仏於 此 地説 大乗 般 若 。江名 沙 羅底。 是 翻為智 慧如河。 此是女天所在処 也 。 ③ 次 仏 未 涅槃 七 年 、成道後三十八年、 在毘舎離国鬼王法堂、為真当 菩薩 、説 解節経等、維摩法 華 等 。 此 第三 時 。 世尊為度三乗行人、為顕一 切 法 無 自 性 、 無生無滅 、本 来 寂 静、自性涅槃、顕無分別相 輪 。是 法輪 、 最清 浄希有 不 可思 議。 是 法 輪 、 了義 無常 無難無 諍 。為 衆 生 根 鈍、 如来次 第 説法 輪 。 ( 8 ) 真諦 三 蔵 の 解 節経 疏 に 云ふ 、 復 た 次 に 、 如 来 三 た び 法 輪 を転ずる は 、 三種 の人の為なり。① 一には初め声聞 を 度 すく はんとし て 、 波 羅 櫞 の鹿 園、仙人集処に 於 て 、 初め て 法 輪を転ず 。 即 ち第 一 時 にし て 、 四諦法輪を転ず。 是の法 輪、 希有不可 思 議 な る も、是 の 法 輪 、不了義にし て 有 上 ・有難・有諍な り 。 ② 次に如 来 、得道し已り て 七 年に、 舎衛国の給 孤独 園 に 在り。即 ち 是 れ 第 二時にし て 、 大乗 行人 を度はんが為に 、 一切 法 の 無自性、 無生 無滅、本来 寂静、自性涅槃 を 顕 ら か に す。相輪を顕説する を 、 転 法 輪と名づ く。転 法 輪とは 、 波羅 蜜 ・ 十地等 な り。 是の 法 輪、希有不可思議に し て 、 一切 の人天の能く転ぜざ る 所 なる も、是 の 法 輪 、 不 了義 にし て亦 た有上・有難・有諍 なり。孤 独園を 去 る こ と 五 里の と こ ろ に 江 有 り。 人飲浴 し去らば 悉く智 慧 を得。 時 人号 し て 施智 慧所と 云 ふ。 故 に仏 此の地 に 於て 大乗般 若 を 説 く 。 江を 沙羅底と名づ く。 是に翻じ て 智 慧如河と為す 。 此 れは是 れ 女天の所在する 処 な り。③ 次 に仏、未だ涅槃せざること七年、成道後三 十八年に、 毘 舎離国の鬼王法堂に 在り て 、 真当 の菩薩の

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唯識学派 の三 転法 輪 説 に つ いて (吉村 ) 一六七 為に、 解 節経 等、 維摩・ 法 華等を 説 く。 此れ第 三 時に し て、世尊 三乗の 行 人 を 度はんが為に、 為 に一 切 法 の 無 自 性 、 無生 無滅 、 本 来寂静、自性涅槃 を 顕らかに し、 無 分 別相 輪を顕ら かにす。 是の 法輪 、最も 清 浄に し て 希有 不 可 思 議な り。是 の 法 輪 、了義にし て 無常・無難・無 諍 な り。 衆生 の 根 鈍なるが為に、如 来次第に法輪を 説 く 。 ここで は 、真諦の 三 転 法輪 説 の 解釈が述べられて いる。先 ず、 釈 尊 が三 た び 法 輪 を転じ た のは、 三 種 の 人 の た め であ る という 。 第一 法輪 は 四 諦の教え で 、 成道後に波羅 櫞 国におい て声聞 のため に 説 か れ た 。 第 二 法 輪 は 無 自性 ・空 の教え で 、 成 道 後七 年 に 舎 衛 国 に お い て 大 乗 の 修 行 者 の た め に 説 かれ た 。 これ が『 般若経 』 『十 地経』等で あ る と いう。 第 三法輪は無 自性・無分別の 教 え で 、成道後 三十 八 年 に 毘 舎離国 で 三 乗 (一切 乗 =「一乗」 ) の修 行者の た め に 説 か れた 。 こ れ が 『解深 密 経 』 『維摩経 』 『 法 華 経』等で ある。 そ し て 最後に、 釈尊が段階的に説法 さ れたのは衆生の機根が鈍いからで あ る、 と 述 べられて いる。こ のように、真諦の『 解 節 経 義疏 』 で は、 釈 尊 が 説 法し た時間と場所、 教 えとその対 象 など が詳しく説 明さ れて い る ので あ る 。 円 測 の『解 深 密経 疏 』 には、他にも真諦の説とし て 「 真諦 記」 ( 逸 書 ) な る も の が 引 用 さ れ て い る 。 そ れに よ れ ば 真 諦 は、第 一 法輪 は小乗 で 、無相が説かれ な い か ら不 了義 、 第 二 法輪は大乗で 、小乗や 「 一 乗」 と 相 違する か ら 不 了 義 、第三 法輪は「 一乗」で 、 小 乗・ 大乗を 分 別 し ないから了 義 、 と み なし ていたと いう。 以 上の真諦の説明 を まとめる と 、 左 の よ ( 9 ) うにな る だ ろ う。 真諦の説の特徴は、時 間と場 所 を 詳 細に規定すると こ ろ に ある。円 測は 、 「 相 伝 説云 、真諦師説、第一法輪二 月 八日成 道、四月 八日於 波羅 櫞 初転 法 輪 。 ( 相 伝 説 し て 云 ふ 、 真諦 師 の説く、第一 法輪は 二 月八日に成道し、四月八日に波羅 櫞 に 於い て 、 初め て 法 輪 を 転ず 。 ) 」 と も述べて お り 、真諦の説 ( 、 ) 明が月日にま で 及 ん で い た こ と を伝えて いる。 ま た 、 円 測 の 〔時 〕 〔処 〕 〔乗 〕 〔教 〕 〔経〕 〔有 ・ 無〕 〔了 ・ 不了〕 第一 時 成道 後 波羅 櫞 国 声聞 四諦 (阿 含 ) (有 相) 不了義 第二時 後七年 舎衛 国 大乗 無自 性 般若 ・十地 等 無相 不了義 第三 時 後三十 八 年 毘 舎離国 三乗 無自 性 解 節 ・ 維 摩・ 法華 等 無分 別 了義 =「一 乗 」

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唯 識 学 派 の 三 転法 輪説 につ い て ( 吉 村) 一六八 『仁 王経 疏 』 巻 上 末 に 引 用 され る 真 諦 の 三転 法 輪 説で は 、 釈 尊は 成道後七年間は「初転 法輪 」を説き 、 七 年 後 から三十一 年間 は兼 ねて 「 照 転 法 輪 」 を 説 き 、 三 十 八年 後 か ら 七 年間 は 「持 転法輪 」 を説い た とさ れ 、 『 仁 王 経 』は そ の う ち の 第 二 時 、 成 道 後三 十年 の初 月八日に 説か れたも の とさ れ て い る 。 。( ) こ の ことか ら 、真諦は三転 法輪説を 、瑜 伽行 派の仏教 史観の 譬喩とし て で はなく、釈尊の 生 涯における 具 体的な 出 来 事 と みなし て いた こ と が 窺 える 。 し か し、 円測 は こ のよ う な 説 明 に 対 し、 「 又 解 節 疏云 第 三 教在 毘舎離、 便違 経説在 王 舎城 耆 闍 山。 ( 又 解節疏 に 第 三 教 は毘舎 離 に在 りと 云 ふは、 便 ち 経の王 舎 城耆闍山に在り と 説 くに違 ふ 。 ) 」 と 述べ、真諦 の 説 を 批判 し て い る 。 こ れは 、 ( , ) 真諦の『解節経 義 疏 』 が第三 法 輪の 説 か れた 場所を「毘舎 離」 とするのは 、 諸 経 典に「 王 舎 城 耆闍 山」 と説かれて い る のに矛盾する 、とい う 指摘 で あ る 。 第三法輪には『法 華経』 等が含ま れて いるに も 拘 わ らず、そ れが説か れた霊鷲山の こ と が 無 視 さ れ てい る 、 と い う の が 批 判 の 趣 旨 であ ろう 。そ し て、 円測 は 最 後 に 玄 奘 の 解 釈 を 引 用 し 、 三 転 法 輪 説 の 時 間 と 場所につい て 次 の ように 決 判 す る 。 今依 大唐三 蔵 、三 種法輪但 説 処 所、不説時節日月 年歳。 初法 輪処、 同 真諦説。如前 分別 。第二法 輪、 依四処十六 会説。如大般若 。 如前所説。而真 諦 云 在 舎衛国給 孤 独 者 、 於四処 中 但 一 処。 第三 法輪 、 在 両処 説。 一者浄 土 、二者 穢土。如何第 一 記 中已 説。真諦記云 毘 舎離者、便顕 穢土 、 与 経 不同。如 前分別。 通 説 法 華及華厳 等為第 三 者 、即 鷲 峰 山及七 処八会 。 如経応知 。 .( ) 今大 唐三蔵 に 依らば 、 三 種 法輪は 但 だ処 所を 説くのみ に して 、 時 節 日 月 年 歳 を 説 か ず 。 初 法 輪 の 処 は 、 真 諦の 説 に同じ。前 に 分 別 するが如 し。 第二 法輪は、四処十六会 に依りて説 く 。大 般若の如 し。 前 に 説く所の如 し 。 而 る に真諦の舎衛国給孤独に在りと云ふは、四処 中に於 て 但 だ一 処のみなり 。 第 三 法輪は、両 処 に在り て 説く。一に は浄土、二には 穢 土なり 。 如 何 が第一記 中に已に説かん や。真諦記の毘舎離 と云ふ は 、 便 ち穢土 を 顕らかにする も、 経と 同じからず 。 前 に 分 別 するが 如 し 。 通 じ て 法 華 及び華厳等を説きて第三 と 為さば、即 ち 鷲峰山及び七処 八会 あり。経 の如 く応 に知るべ し 。 玄奘 に よ れ ば 、三転 法 輪説 はた だ場所を 説 く も の で あ り 、 年月日等の 時 間を 説く もので は ないという。円 測 は こ の解釈 を受け、 場所につい て 詳 述 する こ と で 、 真諦の説明 を 批判し て ゆ く。 即 ち 、第一法輪は問題がないが、第二 法 輪は『大般 若 経 』によ れ ば四処十六 会 が あ るの で 、 真諦のあげる舎衛国 はそ の中 の一つにすぎな い 。 ま た、第 三 法 輪 は『解 深 密 経 』 によ れば 浄土・穢土の二 処 で 説 かれ たとさ れ て い るが、真諦

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唯識学派 の三 転法 輪 説 に つ いて (吉村 ) 一六九 は 穢 土の毘舎離国をあげるのみ で あ る 。 第 三 法輪 には『法 華 経』や『華厳 経 』 も あ るの だから 、 それ が説か れ た霊 鷲 山 や 七処 八会 に も 言 及 す べ き で あ る 、 と い う 。こ こ か ら 、 円 測 が 『法 華経 』や 『華厳 経 』 を 第 三 法 輪 に 位置づ け て い た こ とが 明 ら かに知 ら れ る 。 特 に『華厳 経 』 は成道時 の 説法と さ れて いるの で 、 こ れを第三法輪に配当する た め に は、 三転 法 輪 説 がた んに時 間 の前 後を 説くもので あ っ て はな ら な い の で あ ろ う。 確か に 玄 奘の言うよう に 、 『 解 深 密 経 』 の 本 文に は年月日 等の時 間 につ い て は 何 の言及も見られ な い 。 その 意味 では 、 真諦の 解 釈に はや や行 き 過 ぎの感があるだ ろ う。 しか し 、 同 経に は 場 所に つい てもそ れ ほど詳 細 に 規 定 さ れ て いる わけ で はない 。 にも か か わらず、な ぜ 円測は三転法輪説の場所 に つ いて 、こ の よ う に 詳細 な 議 論 を 展 開 した の だ ろ う か 。 それ は 円測が、 三転法輪説 は ただ 場所を説くだけ で 時間は説かない と い う、 玄奘の 解 釈を 支持 し て いたこ と によるので あ ろ う 。 彼は、時間 を 詳細に 規 定 す る真諦の説を批判するた め に、あ え て 場所に関する詳 細 な 議 論を行なっ た の で はないかと思 わ れる 。 こ の時 間 の 前後 を 問 わ な い と い う 三 転 法 輪 説 の 解 釈 は 、 玄奘 の 解 釈を 示すも の とし て 注 目され る だけで な く 、 以下 に 見る円 測 の三転 法 輪説の 解 釈 の 基調と も なっ て い る。 2 、 了義 ・不了義 第二 の 「 摂教 分斉顕 了 不了」 は 、三 種の 教 え の 内 容を整 理 分類 し て 、了義・ 不了義を 明ら か に す る 議論で あ る。 議論 は 「摂 教 分 斉 」 と 「 了 不 了 義 」 と に 二 分され る 。 先ず「摂教 分 斉」 で は 、三 種の教えには諸説があるとし て 、 真諦 の ① 『 部 執 異 論 記 』 ( 逸書 ) 、 ②「 真 諦 記 」 、③ 『解節経 義疏 』 の 説 が 引用され る。 言 摂 教分 斉者、 所説 不 同 。 ① 若 依 真 諦 部 執 論 記 第 二 巻 説 、 小 乗 三蔵 名初法 輪 。 唯 小非 大 。 涅槃 経名第 二 法 輪 。通 為 大小。華 厳般若 名 第 三 法輪。唯大非 小。②故彼記云、仏 教自有三 種法輪 。 一 小 乗 法 輪。 即是三 蔵 教。二 大 乗 法 輪。 説大乗与小乗 異 。 如涅槃経 。合 明大小乗義。三 一 乗 法 輪。 明大小無異 。 如華厳等、諸 般若経。 明三乗人、同観二空 理、同脩真実智。 故知大小無 異 也 。 ③ 若 依解節疏 、如前 説、第一 説四諦法 輪 、 第 二 説大乗 般 若、第 三 説謂解節経、 維摩法華等。 ( ・ ) 言く摂教分 斉 とは、 所 説同 じか ら ず 。①若し真諦の部執 論記第二巻の説 に 依ら ば 、 小 乗 三蔵を 、 初法輪と名づ く。 唯だ小 に し て 大に非ず。 涅 槃経を第二 法 輪と名づ く。 通 じて 大小 と 為 る。 華厳 ・ 般 若 を 第三 法輪 と 名 づ く 。 唯 だ 大にし て 小に非 ず と 。 ②故 に彼 の 記 に 云 く、 仏 教 に 自 ら 三 種 法輪有り。 一 には小乗 法輪。即ち是れ 三 蔵教 なり。

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唯 識 学 派 の 三 転法 輪説 につ い て ( 吉 村) 一七〇 ① 『 部執 異論 記 』 ②「 真 諦 記」 ③『 解 節 経 義 疏 』 第一時 小乗 三蔵 唯小 非大 / 小乗 三蔵 教 小乗義 / 小乗 四諦 第二 時 涅槃 経 通為 大小 / 大乗 涅槃経 大小乗 義 / 大乗 大乗般 若 第三 時 華厳・ 般 若 唯大 非 小 / 一乗 華厳 ・ 般 若 大小無 異 / 三乗 解節・ 維 摩・法華 二には大 乗 法 輪 。 大 乗 と小乗との異 を説く 。 涅槃 経 の 如 し。 合 し て 大 小乗 の 義 を 明 ら か にす。 三 には 一乗 法輪。 大 小 に異 無きを明ら か にす 。華 厳等、諸々の般若 経の如 し。 三 乗 の 人 の同 じく二空 の 理 を 観 じ 、 同 じ く 真 実 の 智 を脩する を明 ら か に す 。故に大 小に異 無 きを知るな り と 。 ③若し 解 節 疏 に 依 ら ば 、前 に 説 くが 如く、 第 一 は 四 諦 法 輪を 説き 、第二 に 大 乗 般 若 を 説 き 、 第三 に説きて 解節経 ・ 維 摩・ 法華等を 謂ふ と 。 これによ れば、 円 測 は ① と ② の 説が 同じ で 、 ③はそ れ らと は異なると考 えて い る よ う で あ る 。 し か し、第 三 法 輪 につい て は ①と ②の間に違 い が あ り、 かえっ て ②と ③の間に 共通 点 が見 られ る。① ~ ③の 内容を 整 理すれ ば 右の ようで あ る。 第 一 法輪は① ~③ とも小乗で あ る。第 二 法輪は、① と ② が 『涅槃経 』 で あるのに対し、③は『般若経 』 となっ て いる。 ①の「通 為大 小」と ② の 「 大小 乗義」という説明は、ど ち ら も 第 二法 輪 が 大 乗 と 小 乗 に 通 じ ている と い う 意 味 であ る が 、 :( ) ③はそ の 点が不明 で ある 。 第 三法 輪 は 、 ① と ② が『 華 厳 経』 『般 若 経 』で あ る の に 対 し 、③ は 『 解節経 』 『 維 摩 経 』 『 法華 経』 と な っ て いる 。 ③ は『 般若 経』 を第 二 法 輪に 配 当 す る の で、 こ こ には 大 き な 違 い が あ る と い え る 。し かし 、 ① と ② の 間にも違 いが ある。 ① は第三法輪を「唯大非小」と し て小乗 を排 除 す る が 、 ② は そ れを「大 小無異 」 とし て大 乗と 小 乗 を 包摂 す る と説 明 す る 。 ② は こ の 立場を「 一乗 」 ( 一切乗)と いうが 、 その意味す る と こ ろ は ③の三乗と同じ で あり、 こ の 点は ②と ③の 間 で 共通する 。 全 体 的に 見 れ ば、 ①の 第三法 輪 を大 乗・般若とする の は後 述の清弁の説に 近 く 、 ③ の 第二法輪を 大 乗・般若とするのは 『解深 密 経 』 の 説 に近 い 。 こ れ に対 し、② は 両者 の 折 衷説 の ようにみえる。円 測 は これらの説を あげた 後 、次のような解 説を加えて い る。 解云、 真 諦二記、 所自説成 相違 。 雖 有両 説、 且依後 釈 。 順経 文故。謂四諦為初教 、 諸 部 般若為第二教 、解深 密 経 維摩法華及華厳等為第三教 。 且 依真 諦 判 教如上。今解諸 説、 四諦 者為第一 教、 説無相 者 為 第 二 教 、若約 三 性三無

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唯識学派 の三 転法 輪 説 に つ いて (吉村 ) 一七一 性 等 、具 顕有無 尽 理 説 者、 為第 三 教 。不約 年 月時 節 前 後 弁三 時教。 ( ; ) 解 し て 云 ふ、真 諦 の二記、 自 ら 説く所相違 を 成す 。両説 有り と 雖 も 、 且く 後釈 に依 ら ん 。 経 文 に 順ず る が 故に 。 謂く 四諦 を 初 教と為 し 、諸 部般 若を 第二教と為 し 、 解 深 密経・ 維 摩 ・ 法 華 及び 華厳 等を 第三教 と 為す。 且 く真 諦 の判教に 依らば 上 の如し 。 今諸説を解するに、四諦は第 一教 なり、 無 相 を 説くは第二教 なり、若し三性三無性等 に約し、具さに 有 無 を 顕らかにし て 理 を 尽くす説は、第 三教なり。 年 月 時 節 の 前後に約し て 三時の教を弁ぜず。 円測 は、 ① ② の 説 と ③ の説 と の 間に は 矛 盾 が あ り 、後 者が 『解深密 経 』 の 本 文 に 合 う こ と から 、真諦の説の 中 で は ③ が よいという。しか し 、 諸説を 検 討した結 果、円 測 が正し い と するのは、第一 法 輪 が 四諦、第二 法 輪が無相、第三 法 輪が三 性三無性という 解 釈 で ある。こ れ は 『解深 密 経疏 』巻 一の総 論で 見 た 解 釈 と 同 じ で ある。 ま た 、 円 測 はこ こ で 、三 性 三 無 性等 によっ て 有無を明らか にしたものが第三 法輪 で あ り、時 間 の 前後によっ て 三 種 の 教 えを 区別する の で はない、 とも述 べて い る 。 た と え 成 道 後の 説 法 と さ れ る 『 華 厳 経 』 で あ って も、そ こ に 三 性 三 無性説 が 説か れ て いる と解 釈 で きるな ら ば、 それ は 第 三 法 輪 と み な され る と い う こ と で あ る。こ れ も 、 三 転法 輪 説 は た だ 時 間 を 説 く わけ ではな い とい う 、 玄 奘 の 解 釈 を受けたものと言え る だろ う。 次の「 了 不了 義」は 、 第 一 、第二 法 輪 は 不了義 、 第三法 輪 は了 義 で あ る が 、 三 種 の 教 え に は深 ・ 浅 がな い と い う 議論で ある 。 後明 了 不 了 者 、且 依 此 〔 解 深 密 〕経 、於 三 輪 中 、 初二 不 了、第三為 了 。所以者 何。如上所説 、第一法輪隠空説 有、 第二 法輪隠 有 説空 、第三 法 輪具足顕 示空 有道理、故名了 義。 非謂、 所 詮有 浅 深 故、名了不了。所以者 何。 第二第 三所弁無相、理 無 浅 深 。而具分別顕故名了、不具足説隠 故不了 。 由斯道 理 、 了 与不了所説不 同。…中略 … 如 是 諸 教了不了義、種 種 不 同 。 故 不可、以了不了言、判教浅 深。 後当分別。 ( ? ) 後に了 不 了を 明か すとは 、 且く 此の 〔解深 密 〕経 に依ら ば、 三輪中に於 て 、 初 の二 は不了 、 第三は了なり。所以 は何ん。上に説く所 の 如く 、第 一 法 輪は空を 隠し て 有 を いか 説き 、第二 法 輪 は 有 を 隠 し て 空 を説き 、 第三 法輪 は具足 して 空 有 の 道 理 を 顕 示 す 。 故 に 了義 と 名 づ く 。 所 詮 に 浅 深有 る が 故 に 、 了 不 了 と 名 づく と 謂 ふに は非 ず 。 所 以 は 何ん。 第二第三の弁ず る 所の 無相 は、理に浅 深 無 し 。而 れど も具 さに分 別 し て 顕 ら か に す る が 故 に 了 と 名 づけ、 具足 し て 説かず 隠 すが故に不 了 とな す 。 斯の道理に由り、 了と不了と所説同じからず。…中 略 …是くの如く諸教の

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唯 識 学 派 の 三 転法 輪説 につ い て ( 吉 村) 一七二 了不了 の 義 、 種 々 同 じ からず 。 故 に 了 不 了の言 を 以 て 、 教の 浅 深 を 判 ずべからず。 後に当に分別す。 即ち 、 『 解深 密経 』 に よ れ ば 、 第 一 法輪 は 有 を 説 いて 空 を 説 か ず、第二 法輪は空を説い て 有を説か な い 。これ に 対し、 第三 法輪 は 空 ・ 有 を 説 き 、 全て の 教 え を 具え て い る。 だか ら 、 第一・第二 法 輪は不了義 で あり、第三 法 輪は 了義 で あ る と い う。 し か し 、 円 測 はここ で 、教 え に 深 ・ 浅が ある か ら 了義・ 不了義とい う の で はないという。 例 えば 、第二・第 三 法 輪 は どち らも 無 相 を 説 くが 、 そ の 理 に深 ・ 浅 は つ けられ な い 。 た だ、そ の 理 を顕ら か に説くのが了義 で あり、密かに説く の が 不了義 で ある とい う 。 そし て 、 複数の経 論から了義・ 不 了 義 に関する 説を引用 し 、 最後に、了義・ 不 了義をも っ て 教え の 深・浅 を 判 断 し て は な らな い、 と 結 論する の である 。 こ の 三 種 の教えに了義 ・ 不 了 義 はあ るが 深 ・ 浅はないとい う解釈も、三 転 法 輪 説 が たんに時間の前後 を 説くもの で は な いという解釈と連関しているように思われ る 。も し時間によ る 区 別 を 重視するな ら ば、第一時より第二時の方が、第二時 より第三 時の方が、よ り 深 い 教 えで ある、という解釈が自ず から 生じる こ とになる であ ろ う 。 こ れ は諸教に 深 浅優 劣を つ ける段階的な 見方、例 え ば 中国 の教相判釈などによく見られ る考 え方で あ る。これ に 対 し 、 三転 法輪説は一切乗( 「一 乗」 ) に よっ て諸 乗 を 包 摂 し 、 全 仏 教 を 統 合 し よ う と す る 思 想 で ある。 そ こで は諸教に優劣を つける こ とより も 、 む し ろ それ ら を 体 系 づ け るこ と の 方 が 重 視 さ れ て い る 。 そ う す る と 、 三時の 教 えとはいうものの、時間によっ て諸教 に 深 浅 優 劣 を つける こ とは、三 転法 輪 説 の趣旨に沿 わ ないば か り か 、 か えって同 説 の 体 系 自体を 破 壊する こ とにもな りかねな い 。 このように考える と 、 三転法 輪 説は たんに時間 の前後 を 説 くもの で は な いという玄奘の解釈は、三転法輪説 の 体 系 を 維 持する こ と を 意図 し た もので は ないか 、 という こ と が推論さ れて くる。三種の 教えに了義・ 不 了義はあるが 深・ 浅はない という 円 測の解釈 も、玄奘の解釈と軌を 一にする も のと 言 っ て よ いだろ う 。こ の問題 は 、続く議論 で さら に詳しく追究 さ れる 。 3、理・義 第三の「 浅 深 差別」 は 、三 種 の 教えには「理」 に 深 ・ 浅は ない が 、 「 義 」に 深・浅があると い う議論 で ある。円 測 は 先 ず 、 三 種 の教えの 深・ 浅 に つい て 西 方に二つの説があるとい う。 第三顕理浅 深 者 、 西方諸師、 自 有両説。① 一 清弁等言 、 於三輪中、 四 諦為初 。 解 深 密等、 以為第 二 。説法相 故 。 諸部 般若、 以 為第 三。無所 得故 。 所 申 理 教、 如前善取 空 中已説。 此地諸師、自有 両 釈。 一云三論但遣所執。 一 云 ( ! )

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唯識学派 の三 転法 輪 説 に つ いて (吉村 ) 一七三 具 遣 三 性 。如 掌 珍 等。②二護法 等宗、但遣所 執 、 不 遣 二 性。 然 彼 宗 中 、自 有 両 釈 。 一 真 諦 三 蔵 云 、 具 遣 三 性 、 立 三 無 性 。 如次応 知 安非安立 。二大唐 三蔵云、 於三性 中 、 但遣 所 執 、 而 非二 性。 如 前 善 取 空 中 已説 。 ゛( ) 第 三 に理 の 浅 深を 顕らか に するとは、西方の諸師に、 自 ら両 説有 り。① 一 に は 清 弁 等の言ふ、 三 輪中 に 於 て、四 諦を 初と為 す 。解深 密 等 、 以て 第二と為す。 法相を 説 く が故に。諸 部 般若 、 以 て 第 三と為す。無所得なるが故に。 申ぶる所の理教、前 の 善取空中に已に説くが如し 。 此 の 地の諸師、自ら両 釈有り。 A一には三輪は但だ所執を 遣 ると云ふ。B一 に は具さ に 三性を 遣 ると云ふ。 掌 珍等の 如し 。②二に は 護 法 等 の宗 にし て 、 但だ 所執 を遣り、 二 性を 遣らず。 然 る に彼の 宗 中に、自ら 両 釈 有 り。 B 一 に は真諦三 蔵、具さに 三 性を遣り 、 三 無性を 立 つと云ふ。 次 の 応知安非安立 の 如 し 。 A 二 に は 大唐 三蔵、 三 性中に 於て 、但だ所執を 遣り 、而も二 性に非ず。 前 の 善 取空 中 に已に説くが如し 。 ここ には、三種の教えの 深 ・浅に関 す る 議論とし て 、 イン ドの論師 で あ る清弁と護法の 説 が紹介されて いる 。即 ち 、 ① 清弁の三転 法 輪説は、第一法輪 を四諦、第二 法輪を 『 解 深 密 経 』 等の 法相、第三 法 輪 を 『般若経 』 等 の無所得とするもの で あ る。こ れ は瑜 伽行派 の 三転法輪 説の第二と第三を 入 れ 替 え た もの で あ るから 、 おそらく中 観 派が瑜伽行 派 の三転 法 輪 説 を 批判するた め に作り上 げた説 で あ ろ う 。 こ れ に対し、② 護法の 三 転 法 輪説は、既出のた め省略され て い る 。 再 説すれ ば 、 第 一 法 輪 を『 阿含 経』 の 四 諦、 第 二 法 輪 を『 般若経 』 等 の無 相、第 三 法輪を 『 解深 密経 』等の三 性と す る もので あ る。 この 二 説 に 対 し 、 そ れ ぞ れ A 「 但遣 所執 」と B 「 具 遣 三 性」の 二 つ の 解釈があるという。これらは本 来唯 識 の 三性説 における真理 観をいう もの で 、 「但 遣所執」 とは三性( 遍 計 所執性 ・ 依他 起性・ 円 成実性) のう ち遍計所執性 の み を 捨 遣 する こ と 、 「 具 遣 三性」と は三性の全 て を捨遣す る こ と で あ る。ここ で は 、 こ の三性 説 を三 転 法 輪説に当 て は め て 、 「 但 遣所執」 を 第 一法輪のみ を 捨遣する こ と 、 「 具 遣 三性」 を 三 種の教 え の す べて を捨 遣 す る こ と 、 と解釈 し て い るよう で あ る。円 測 は 、 三 種 の教 えの深 ・ 浅はこ の 三 性 説 に よ っ て つ け られ るが、そ れ に は 諸 説 が あると言うの で あ る。 ( ゜ ) 先ず 、清弁の三転 法輪説に三性 説を当 て はめた場合 、 ① A 「但遣所執」な ら ば第 一 法 輪は 捨遣さ れ る の で 浅 、第 二・第 三法輪は捨遣しない の で 深 と い う こ とになる。①B「具遣三 性」 ならば 全 て が 捨 遣 さ れ る の で 、 三 種 の教え に は 深 ・ 浅 が ない という解 釈になるだ ろ う。これらは「此地諸師」 、即 ち 中国の諸師の解釈 で あ る と い う 。 こ れに対し、清弁自身の解 釈は、第二法 輪 を 浅、第 三 法 輪 を 深 と す る も の で あっ たと 伝

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唯 識 学 派 の 三 転法 輪説 につ い て ( 吉 村) 一七四 え ら れて いる 。第三法 輪に『般若 経 』 を 配当す る 三性説は、 ( ´ ) 円測 に と っ て 受け入 れ 難いもの で あ っ た だ ろ う が 、 こ こで は それ を 特 に 批 判 し て い る わ け で は な い 。 次に、護 法 の 三転法 輪 説の場合は 、 「但遣 所 執、不 遣 二 性」 とい う の が 護 法 自 身 の 立場で あ る と いう 。 即 ち 、 第一 法 輪は捨遣す る の で 浅、第二・第三法輪は捨遣 しな いので 深 と する解 釈 で あ る 。 し か し、 これ にも②B真 諦 の「 具遣三 性 、 ( ` ) 立 三 無 性 」 と 、 ② A 玄 奘の「但遣所執、 而非 二性 」 と の 二 つ の解釈 が ある とい う 。 前者は真諦訳に依拠し た摂論学派 の 三 性三無性 説を指 し ているよう で あり、おそらくは 三 種 の 教 え に深 ・ 浅 は な い と いう 解 釈 に な る の で あ ろ う 。こ れ に 対 し 、 後者 は唯 識学派 の 三性 説を 指 す も の で あ るか ら 、 護 法 と同 じ く 、 第 一 法輪が 浅 、第二・ 第三 法輪は深 という こ と に なる 。 円測 は、 護法 や 玄 奘 の 三性 説 を 認め てい たと 思 わ れる が、 こ こで は特に賛 意 が 示 さ れ て いる わ け で は ない。 しか し、円 測 は 続 く議 論 に おいて 、 三 性 説 に よる解釈 と は 異なる独自の見解を述 べ て いる。 そ れ は 、三 種の教えに 深 ・ 浅があるとす れば 、 そ れは「 理 」の 深・浅 で はなく「義」の 深・浅 で ある、 と いう 議 論 で あ る 。 然彼所詮有 深 浅者 、第一四 諦 法 輪、自有二義。 一 者有作、 二者無作。 則 是分段変 易二種四諦 。 初 転 法輪、意在第一。 第 二 法 輪 、 唯 遣 所執 。第 三法 輪、 具顕 三種 無自性性 。於 中 、 第二第三 法 輪 所説無相、理無浅 深 。若依此理、 皆是 了 義 。而 今第 三為了義者 、 具顕三 種 自性等故 。 拠 実、般 若亦 説 三 性。 応是 了 義 。 従 多 分 説 故 言 不 了。… 後 略 ¨( ) 然 る に彼 の所詮 の 深 浅 有るは、第一 の四諦法 輪に、 自 ら 二 義 有り 。 一 に は 有作、 二 には無作 。則 ち 是 れ 分 段 変 易 の 二 種の四 諦 なり 。 初 転 法 輪 は 、 意 第 一 に 在 り 。 第二 法 輪は、唯 だ所執 を 遣るのみ 。第 三法 輪は、 具 さに 三種 無 自性性を顕らかにす 。 中に於 て 、第二第三法輪の説く所 の無相は、理に 浅 深無し 。 若し此 の 理に依らば 、 皆是 れ 了義なり。而れど も 今 第三を 了 義と為すは、具さに三 種 自性等を顕らかにす る が 故 に 。 実に拠らば 、 般若も亦た 三性 を説く。応に是 れ 了義 なり。多に従 ひて 分 説 するが 故に不了と言ふ。… 後 略 即ち 、三 種の 教 え に深 ・ 浅 があ る と い う の は 、以 下 の よ う な意味に おい てで ある。 第 一法 輪の四諦には有作 ( 分 段 ) ・ 無作 (変易) の二義 が あ る が、初 転 法 輪 の意図は有作 を説く と こ ろにある 。第 二 法 輪 は 三性のう ち偏計所執性のみ を遣り、 第三 法輪は三性に自性 がないことを 明らか に するが、第二・ 第三 法輪はどち ら も無 相 を 説 い て お り 、 その 理に 深 ・ 浅はな い。 つまり 、 理 に よるな ら ば 三 種の教 え は み な了義で ある。 にもかかわ ら ず 、 第三 法 輪 だ け を 了 義とするのは、それ が 三 性 を 明 ら かに説い て い る か ら で ある。 実 は『般若 経』 も密 か

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唯識学派 の三 転法 輪 説 に つ いて (吉村 ) 一七五 に三 性 を 説 い て い る の で 、 理 と して は 了 義で あ る が 、 第 二 法 輪 の 多くは偏計所執性の捨遣を説い て い る の で 不 了義と言う ので あ る 、 と い う 。 ^( ) これは、 三種の教 えは 理とし て は全 て 了 義 で あるが、そ の 意図や説 相 (具体 的には三 性説が顕説され て いる か 否 か)に よっ て、了義 ・不了義の違いが言 わ れ る と い う説明 で あ る 。 これ が、三 種 の教えに 深・浅があるとす れ ば 、そ れ は 「理」 にある の で は なく 「 義 」にある、という円 測 の説 で あ る 。 教 えの義に深 ・ 浅が あ る という こ とは、その受け手 で あ る 衆 生 に違いが あると い う こ とを 意味 し て いる。こ れ に つ い て円 測 は、第 二 法輪 を 例 と し て 、 次 の ように説明し て い る 。 又 解 、般 若自有二 種 。 一深 、二 浅。深 即了義 、 浅即 不了。 …中略…復次般若有 二 種。一 者 共声聞説、二者但為十方 住第十地大菩 薩説。非九地 所聞。何況新発意者。 復有九 地乃至初 地所聞、各 各 不 同 。般 若 総 相是一、 而 深 浅有異 。 具説如彼。 准知波若 有 了 不 了 。 … 後略 (  ̄ ) 又 解 す 、 般 若 に 自 ら二 種有り 。 一に は深 、二 に は 浅。深 は即 ち 了 義、浅は即 ち 不了 なり。…中略…復 た次に般若 に二 種有り。 一には声聞と共 に 説く 、二 には但だ十方に 住する第十地の大菩 薩 の為に 説 く 。 九地の聞く所に非 ず。 何ぞ 況ん や新発意の者をや 。 復 た九地 乃 至初 地の聞く所 は、各々同じからざる有り。般若 の 総相は是 れ 一 なるも、 而も深 浅 に 異 有り。 具 さ に 説 く こ と 彼 の 如 し 。 准 じ て 波 若に 了 不 了 有 る を 知 る 。 … 後 略 即ち 、般 若の 教 え に は 深 ・ 浅の 二 種 が あ り 、 深 は 了 義 、 浅 は不 了義で あ るという。 次 い で 、中略部分 で は 複 数の 経論が 引用 され 、 同 じ 般 若 の 教 え で も 衆 生 の 機 根 に よ っ て 違 いが あ る こ とが論 証 され る。さら に、般 若 の教えに は菩薩と 声 聞と の両 方 を 対 象 に す る も のと、 十 地の菩薩 の み を対 象に す る も のとの 二 種が あ り 、 初 地から九 地の間 で もそ れぞ れ 聞 く と こ ろ が 異な るという 。 こ の よ うに、般 若の教えは 一 つで あるが 、 衆生によ っ て 深 ・ 浅 が ある。 了 義・ 不了義の 違い はここ に 由 来する、 というの が 円 測の説 明 で あ る。円 測 は こ こで 、 教 え の義に 深 ・浅 が あ る 理 由を 、衆生 の 機根の差別に求め てい る 。 先の議論で は 、四諦の教 え に も 有 作 (浅) ・無作 ( 深 ) が あ るとされて い る の で、 こ の 説 明 は第一法輪にも 当 て は まると 考え て よ いだ ろ う 。 三 種 の 教 え に は 「 理 」 に深 ・ 浅 は な い が 、 「 義 」 に深 ( 了 義 ) ・ 浅 ( 不 了 義 )がある という解釈は、仏の教えは平等で あるが、衆生の機根に は 差 別 が あるという考えを 背景とする もの で あ る。円 測 は、三 転 法輪 説に種 姓 差別の思想を 持 ち 込 む こ と で 、そ の考え を よ り明確 に示し た とい えるだ ろ う 。 玄 奘の三転 法輪説には、仏 の 教 え には 相違がないが、教えの義 には 深 ・ 浅がある、という解 釈 があっ た 。円測は これを

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唯 識 学 派 の 三 転法 輪説 につ い て ( 吉 村) 一七六 〔理 〕 〔教 〕 〔深 ・ 浅〕 〔義〕 〔乗 〕 第一時 四諦 四阿 含 有作 ( 顕説 ) 不了 義 声聞? 小乗 無作 ( 隠説 ) 了義 菩薩? 理 教 第二時 無相 般若 等 無相 ( 顕説 ) 不了 義 声聞・菩 薩 大乗 三性 ( 隠説 ) 了義 大菩 薩 第三 時 三性 深密等 三性 ( 顕説 ) 了義 大菩 薩? 一切 乗 =有 無 中 道 「理 」 と 「義 」の観 念 によっ て 整理し、 三時の教 え は 「 理 」 とし ては深 ・ 浅が な い が、教えの「義」 には 深 ・ 浅 が あ る と し て 、 こ れを『解深密 経』の了義・不了義に当 て たの であ る 。 「理」 「 義」の理論は、玄 奘や基 の 解 釈 には 見ら れない こ と から、円 測独 自 の も の と考えられ る。円 測 が先の三性説に よ ( _ ) る解釈に何の評価も 下 さな かっ たのは、その解釈の妥当性に 疑問 を感じ、 それと は 異 な る新しい解釈を試み て い た から で はないかと思 われ る 。 円 測 の議論を 図示す れ ば 、 次 の よう に な るだ ろ う (乗につ いて は 推 測を 含む )。 二、基の 三 転 法輪説 基の三 転 法輪説 に 対する解釈 を 要 約 したもの に 、 『説無垢 称 経 疏』巻 一 本の 次の ような記述 が ある。 何等 是此三時教也。一惟説 法有宗。 即阿含等 初時之教。 逗 彼 小機 、破於我 執 。 説無有情 我、但有 法因故。 雖二十 部種種異 執、初 逗 小 機 、唯 説法 有 。 二唯 説法 空宗 。即 般 若等 、第二 時 教。逗彼 大 機、破於 法執。 説 一切 法本空 性 故。三 双 遮有空 執 、 並 説 有 空宗。 即 花厳 、 深 密、涅槃、 法花 、楞 伽、厚厳 、 勝 鬘 等 是。 昔 執 所 執 我法倶有 、有為 無為一切皆空。今説 所 執我 法倶 無、有為無為一切皆有。 故有空双遮、而空有 並 説。 ( ヽ ) 何等 が 是 は 此 れ 三 時 教 なる や 。 一には惟 だ 法 有を 説く宗。 即 ち 阿含 等の初時の 教 なり 。 彼 の 小 機に 逗まり、我 執 を とど 破る 。有情の我 無 く、但だ 法の因 の み有りと説くが故に 。 二十部の種々の異 執ありと 雖も、 初 めは小機に 逗 まり、 唯だ法有を説くのみ 。 二に は 唯 だ 法 空 を 説く宗。即 ち 般 若 等 にし て 、 第二時の教なり。彼 の 大 機 に 逗 まり、法 執

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唯識学派 の三 転法 輪 説 に つ いて (吉村 ) 一七七 を破す 。 一切 法 の 本より空 性なるを 説くが故に。三には 双つ ながら 有 ・空 の 執 を 遮 し、並び に有・ 空 の 宗 を説 く 。 即ち 花 厳 ・ 深 密・ 涅 槃 ・ 法 花 ・ 楞 伽 ・ 厚 厳 ・ 勝 鬘 等 是 な り。 昔所執 の 我・ 法 は 倶 に 有 な り 、 有 為 ・ 無 為 は 一切 皆 空な りと 執 す 。今所執の 我 ・ 法 は倶に無なり、有為 ・ 無 為は一切 皆 有 な り と説く。故に有・空を双つながら遮 し、 而も空・有を並 説 す。 即 ち 、 三 時 の 教えのう ち、第一 はた だ法 有を説く『 阿含 経』 等 で 、 小 機 の 我 執 を破す 。 第 二 は た だ法 空 を 説く『 般 若 経』 等 で 、大 機の 法 執を破す 。 第 三 は非 空非有中 道 を 説 く 『華 厳 経 』 『 解深 密経 』 『 涅 槃 経 』 『 法 華経 』 『 楞 伽 経 』 『厚厳 経 』 『勝鬘経 』等で 、 有執・空 執を 破す 、と いう。 こ のうち 、 小機は小乗、 大機は 大 乗に相当する 。第三法輪の対象 者に つ い て は言及さ れ ない が、文脈から小機と大機との両方と考え られ る の で 、 一切乗(=「 一乗」 ) とみ て よ いだろ う 。 こ れ を整理す れば 次 の よ う に な る 。 〔時〕 〔機〕 〔有 ・ 空〕 〔経〕 第一時 小機(小乗) 有 阿含 等 第二時 大機( 大 乗 ) 空 般若 等 第三 時 ( 一切乗 ) 有空 中道 華厳 ・ 深密 ・ 涅槃 ・ 法華 ・ 楞伽 ・ 厚厳 ・ 勝鬘 等 しか し 、 基の三転法輪説 に 関する議論は 、 『 大 乗 法苑義 林 章』 ( 以 下『 義 林 章 』 と略 称 す る ) 巻一 の 総 科 簡 章 や 、 『 妙法 蓮華経 玄 賛 』 (以 下 『 法華玄賛』 と 略称する)巻 一本の叙経 起 意 に詳述 さ れて いる 。以下 、 前者 の議 論を 中心に検討を 進 める が 、 後者 の 記 述 も 随 時 参 照 す る こ と にした い 。 1、 時と 教 『義林章』巻 一の総 科 簡章は 、 「教 益有殊 」 「時 利 差 別 」 「詮 宗各 異 」 「 体 性不同 」 「 得 名懸隔 」 に 五 分され る が 、 三 転 法輪説が 解説され る の は第二の「 時 利 差 別 」 で あ る 。 「時利 差別」 で は 、 先ず古説とし て 中 国の教相判釈が批 判 さ れ、次 に今 文 と して『解深密経 』 の三転 法 輪説が提示さ れ る 。 先 ず 古説の 要 文 を 抄出す れ ば 、 次のよう で あ る。 叙古説中、復分 為 二 。 初叙古説、後叙其非 。叙古説者、 ① 後 魏 有 菩 提 流支 法師 、 此 名 覚 愛。 唯 立 一時教。 … 中 略 …② 又古 来大徳 、 立 有 頓 漸 二教。 … 中略…③ 又菩 提流 支 法 師 。亦立 二 時 教 。 … 中略 … ④ 又有 二教。一 者半 教、 二 者 満 教。…中略…⑤又有 二 教。 一 勝 義諦、二世俗諦。⑥ 晋時有隠士劉 磊 。 立 五時教。 … 中 略… 此雖可 爾 、既 無経 論誠文 説 之、未可 依 信 。… 後略 ( ヾ ) 古説を 叙 ぶ る 中、復 た 分け て 二 と為す。 初めに古説を 叙 べ 、 後 に 其 の 非を 叙ぶ 。 古 説 を 叙ぶ る と は 、 ① 後 魏 に 菩

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唯 識 学 派 の 三 転法 輪説 につ い て ( 吉 村) 一七八 提流 支 法 師 、 此に 覚 愛 と 名 づ く る 有 りて 、 唯 だ 一 時の 教 を立つ 。 …中 略 … ②又古来大 徳 、頓漸二教有 り と 立 つ 。 … 中 略… ③又菩提流支法師も、亦 た二時の教 を 立つ 。 … 中略 …④又 二 教有 り。 一 に は 半 教 、 二 に は 満 教 。 …中 略 … ⑤ 又二教 有 り 。 一には勝義諦 、二 には世俗諦。⑥晋 時 に隠士劉 磊 有り。 五 時 教 を立つ 。 … 中 略… 此 れ 爾るべき と雖も、 既 に 経論の誠文の之を説く こ と 無くんば 、未だ 依信すべ か ら ず 。 …後略 ここで は 、従来中国 で 行 わ れ て きた諸教の分類、い わ ゆる 教相 判 釈 が六 説あげ ら れ て いる 。即 ち、 ①菩提 流 支の一 時 教 ( 一 音 説 法 ) 、②古 来 大徳の 頓 漸二教、③ 菩 提流 支の二時教 (頓 漸 二 教 ) 、 ④ 曇無讖 の 半満 二 教 ( 小 乗・ 大 乗 ) 、 ⑤ 二 諦 (勝義諦・世俗諦 ) 、 ⑥ 劉 磊 の五 時 教 である 。 基 は これ らの 説 を 列 挙 し た 後 、 その 一 々 を 経 文 に 矛 盾 す る と して 批 判 して ゆく。 そ の う ち 最 も 厳 し く 非難されて い るの は、劉 磊 の五 時 教で あ る 。 五時教とは、釈尊の 生 涯を 五 つ の時間 に 分け、そ れ ぞ れ に 経典 を当 てはめる 教 判 である。 基 の 説明によ れば、第一 時 は 成道後 三 七日 中の三帰 ・五 戒・十善など世間 因果 の教え で 「提謂等 五戒本行経 」 、第 二時は同十 二 年中の 三 乗の有 の 教 えで 「 阿 含 等 小乗 経 」 、 第 三 時 は同 三十 年 中 の 三 乗 の 空の 教 えで 「 維 摩 ・ 思益・ 大 品等 経 」 、 第 四時 は同 四 十 年中の 一 乗 の 教 え で 「 法 花経」等、第五時は涅槃時の仏性・ 常 住 の教え で「 涅 槃 経・大悲経等」 で あるという。 この教 判 は、第五時 の『 涅槃経 』 を 最 上 と する こ と から 、唐代 以 前 に 『涅 槃 経 』 の 信 奉 者 を 中 心に流行し た と考えられ る。五時経の特 徴 は諸 教を 時間 の 前 後 に よ っ て 分 類 す る と こ ろ にあ る が 、 基 は こ れ を経典に証拠が無く 、 『 解 深 密 経』の所説と も異なる とし て 非難 するので あ る 。 また 、 『 法華 玄賛』の叙経起 意 の第 五 為 顕時機でも 、 先ず 古説として 五 時教 が 批 判され 、 次い で 『 解 深 密経』の三時教 が解説されて い る。 そ こ で は 五 時 教が 、 「 是知、一 雨 普潤 、 禀解不 同 。 不 可説 仏 教 必有先 後 。( 是に知る、一雨普く 潤 す ( ゝ ) も、 禀 解 は 同 じから ず 。仏 教に必 ず 先後 有りと説く べ か ら ず と 。 ) 」 と批 判 さ れて いる。これ は 、仏の教え は衆生に平等 に 説かれ る が、 それを受ける衆生 の理解は同じ で は ない、し た がっ て 仏 の教 えをただ時 間 の前後によっ て区分 す る こ とは で きな い 、 と い う 意 味 で あ ろ う 。 この 考 え は 、 玄 奘 や 円 測 の 解 釈に 見ら れる もの である 。 次に、今 文とし て 『解 深 密 経 』 の三 転 法 輪説があげられ 、 これについ て 基 の 解釈が 述 べら れる 。そ の要文 を 抄出す れ ば、 次の よう で あ る。 述今 文中又 分 為二。 初 述今文 、 後 略 示 教 。述今 文 者。如 解 深 密 経 第一 卷、 瑜伽 決択 第七十 六 。 … 中略 …金 光明 経

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唯識学派 の三 転法 輪 説 に つ いて (吉村 ) 一七九 亦説 三 時 。 謂 転 照 持。 涅 槃 経 説 、 初 令 皆 服 乳 、 次 教総 断 乳 、 後 教 有 応服有不応 服 者、与解 深 密 所説義 同 。瑜伽釈 中、 此三時 少 異、 義 意 無 別 。 由 此 誠 証 、 若 以 偏 円 、機 宜 漸次 、教但三 時、非一非五。 … 中略… 略 示教者 、 四阿 笈 摩 等 、是 初 時 教 。 諸説空経 、是第二時教。以隠密言、総 説諸法無 自 性 故 。 花厳深 密 唯識教等、第三時也 。 以 顕 了 言、 説三 無性非 空 非 有 中 道 教故 。…後略 ( ゞ ) 今文 を述 べる中 、 又 分 け て 二と 為す 。初 め 今 文 を 述 べ 、 後に略し て 教 を示 す 。 今 文 を述ぶるとは、解 深 密 経 第 一 卷、 瑜伽 決択 第 七 十 六 の如し 。 …中略 … 金 光 明 経 も亦 た 三時 を説く 。 謂 く 転 ・ 照・持なり 。 涅槃 経の説く、初め 皆を し て 乳を服 せ しめ、 次 に総て 乳 を断た し め、後に有 は応に 服 すべく、有 は 応に 服すべからし む る は、解 深 密 の所説と義同じなり 。 瑜 伽 釈の 中 、 此 の 三時少し く異な るも 、義意に別無 し 。 此の誠証 に由り 、 若し偏円を 以 て せ ば 、機は宜しく漸次なる べく 、 教 は但だ 三 時にし て 、 一 に 非ず 五に 非ず 。… 中 略 … 略 し て 教を 示 す と は 、四 阿 笈摩 等は、 是 れ初 時 の 教な り。諸 々 の 空 を説く 経 は、 是 れ第 二時 の 教 な り 。隠 密 の 言を以 て 、 総 じ て 諸法 の 無 自 性を 説くが故 に。 花厳 ・深 密 ・ 唯識の教等 は 、第三 時 な り。顕了の言を 以 て 、 三無性 ・ 非 空 非 有 中道の教を 説 く が故に。…後略 ここ で は 、 基 の主張する三転 法 輪説とその解釈が示さ れて いる 。先ず 、 『解 深 密 経』 の本文 か ら三転 法 輪説が引用 さ れ る。 即ち 、 釈 尊 は 初 め 第 一 時 に た だ 声 聞 乗 の た め に 四 諦の 教 え ( 有 ) を説か れ たが、そ れは未了義の教 え で あ っ た 。 ま た、 昔第 二時 に た だ 大 乗 の た め に 無 自 性 の 教 え( 空 ) を 隠 密に 説 かれたが、 そ れも未了義の教え で あ っ た 。しか し 、今 第 三 時 に普く一切乗 のた めに無自性・無自性性の 教 え(非空 非 有 中 道) を顕了 に 説かれた。 こ れこ そが了義の教え で あ る 、 と い う内容 で ある 。 基 は 、衆生の機根を 次 第に成長さ せ るに は、 一時教 や 五時 教で はなく、 こ の 三時教 に よら なけ れ ば な ら な いと言うの で ある。 また、 三 転法輪説は『 解 深 密 経 』 の みな らず 、 『 金 光 明 経』 や『 涅槃 経 』 等 に も説 か れ ている と いう 。確 かに『 金 光 明経 』 に は転 ・ 照 ・ 持 の三 種 法 輪 が 説かれて い る が 、 『涅槃 経』 の乳 と 薬 の譬 喩 は 本 来 三 転 法 輪 説 を 説く もの ではな い 。 即ち 、 初 めの 藪 医 者は 薬と して 専ら 乳を 飲 ま せ 、 次の 名 医 者 は方便とし て 乳 を 飲 む ことを禁じ、し か る後ある場合には乳 を飲ませ、ある場合に は乳 を 飲 ませないようにさせた。藪医 者は 外道、 名 医は仏、乳 は 我を譬 え たもの で 、初め 外 道が有 我を 説き 、 次 に 仏 が 無 我 を 説 き 、 し か る 後 に 無 我 の み なら ず 大我 (仏性) をも説くよ う に な っ た 、 と いう譬喩 で あ る 。 基 はこ れ に 三 転 法輪 説 を 読み 込む こ と によ って 、 『 涅槃経 』 を

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唯 識 学 派 の 三 転法 輪説 につ い て ( 吉 村) 一八〇 有 ・ 空・ 非有 非無 中道を 説 くものと解釈 し た ので ある。 基 の 三 転 法 輪 説で 『涅槃経 』が第三 法輪に位置 づ け ら れ る のは、 経文 に こ のような解釈が施され るからに他なら な い。 ( 〃 ) 同様 の方法 に よっ て 、 三 教 の 教 えに はそ れぞ れ具 体的な 経 典が 配当さ れ る。 即ち 、四 阿 含 は 有 を 説 くも の と して 第一 法 輪に、 『 般若 経』等 は 空を説くものとし て 第 二法 輪に、 『 華 厳 経 』 等は 非空非有 中道を 説 くものと し て 第 三 法輪に 位 置づ け られ る 。 最 初 に引用し た 『 説無垢称経疏 』によ れ ば 、 他 に も 『 法 華 経 』 『 楞伽 経』 『 厚 厳経 』 『 勝 鬘 経』 等 が 第 三 法 輪 に 位 置づ けられて いる。 『 解 深 密経 』 の 記述からすれば 、 第 三 法 輪は三性三無 性を 説 く もの で あ り、直接には『解 深 密 経』 そ の も の を 指し ている 。 し か し 、 基 は こ れ を 拡 大 解 釈し て 、 『 華 厳 経』 や 『 法 華 経』 に 三 転法 輪 説 を読み込 み、 第 三 法輪 に主要 な 大乗経 典 を多 数配 当するので あ る。こ の 考えは 玄 奘 や円 測にも見られ る が 、 基 の議論 で は第三 法 輪に配 当 され る 経 典 が多く、論証がよ り 綿 密になっ て い ると ころ に特徴があ ると言える。 2、理・機と頓・漸 基 は 、玄 奘 や 円測 と 同 様 に 、 三 転法 輪説 は た ん に 時 間 の 前 後を 説 く も の で は な い 、と い う 立場 を取 って い る 。 そ れ を 論 証するた めに、基は、諸 教 の「理」 は 平 等 で あるが、衆生の 「機」 に は 差 別 が あ る と い う解釈を 唱え 、さら に 諸教や 衆 生 には「頓 」 「 漸 」 の区別があるという議論を展開 した。 こ こ では 、 基 が新たに提示し た 、理・機およ び頓・ 漸 の理 論につ いて 検討 す る こ と にした い 。 『 義 林 章』の 「 時利 差別」の 後 半に は、 次 の よ う な議 論 が あ る 。 約理及機、 漸 入 道 者 、 大由小起。 乃 有三時諸教前 後 。 解 深密 経説 唯識是 也 。若非 漸 次 而 入 道 者大不 由 小 。 即 無 三 時諸教前後。 約 其 多分、即初成道。花厳 等 中 、説唯心是。 多 分 頓漸、無別 教 門。 随一会 中 、所 応益故。花厳 説有声 聞 在 会 。 深 密 亦有 声聞発 心 。 勝 鬘経 中亦説 一 乗 意 生身 等。 摂大 乗説為不 定 人 説 一 乗故 。法 花 経 中 分 別功 徳品 言、 仏 説如 来寿量品時、有八世 界 微塵数衆生発菩提心。如是等 文上下 非 一。 故 知 、法花 亦 被 頓悟、花厳 亦有漸 悟 之 人 。 仝( ) 理及び機に約さば 、 漸 に 道 に入 る 者 は、大、小より起 こ る。 乃ち 三 時 諸教 の前 後有り。 解 深 密経 の 唯 識を 説 く は 是 れ なり。 若 し漸次 に 道に 入る に 非 ざ る 者は、大、小よ り起 こ ら ず。 即 ち 三時 諸教の前 後 無 し。 其の多 分 に約し て、 即 ち 初 め よ り 成 道 す 。 花 厳 等 の 中 に 唯 心 を 説 く は 是 なり。多 分頓漸、別の教門無 し 。一会の 中に随 ひ て 、 益 に応 ずる所あるが故に 。花 厳 に 声 聞 も会に在る有りと説 く。深 密 にも 亦た 声聞の発心 す る 有 り 。 勝 鬘 経 中 にも 亦 た一 乗意生 身 等 を 説 く 。 摂 大 乗 に 不 定 人 の 為 に一 乗 を 説

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唯識学派 の三 転法 輪 説 に つ いて (吉村 ) 一八一 くが 故 に と 説 く。 法花 経 中 の 分 別 功 徳 品 に 、 仏 の 如来 寿 量品 を 説 き し 時、 八 世 界の 微 塵 数 の 衆 生 の 菩 提 心 を発 す る 有 りと 言ふ。是くの如き等の文、上下一に 非ず。故 に 知る 、 法 花も 亦 た 頓悟を 被 り 、花厳 も 亦 た 漸 悟の 人 有 る を。 即ち 、 理 ・ 機 の 観 点 か ら す れ ば 、 漸 悟の 者 は 小 乗 か ら 大乗 へ進 むの で 、 三時諸教の前後がある 。 こ れに対し 、頓悟 の 者 は一時 に 大乗 に入る の で 、 三時諸教の前後 は ない 。 諸 教 に は 、 多少 の 違 い は あ れ 頓 ・ 漸 の 教えが備 わ っ て お り、 頓・漸 だ け の 教 えと い う も の はな い。 一会 の 中 に そ れ ぞ れ の 機 根 に応 じ た利益が ある から で あ る 。 例 え ば 、 『 華 厳経』 で は頓悟 の 者 のた めに唯心が説 かれて い るが、その会 に は 漸悟の者(声 聞) もい るとさ れ て い る 。 こ の ことは 、 『解 深 密 経』 や『法 華経 』等で も 同 様 である。 よっ て 、 諸教はある特定の機根を 対象にする も ので は な い 、 という 。 ここで は 、諸教の「理」は同じで あ るが、衆生の「機」に 違いがある、という 考 え が 前提となっ て いる 。その上 で 、 衆 生の機根の 違 いを 、「 頓 」 「 漸 」 の 観 念 によっ て 区別 して いる の で ある 。 こ の考えを三 転 法輪 説に 適用すると、衆生 の機根 には頓・漸の 差別があり、漸 悟 の者 につい て は三時の前 後 を 必 要 とするが、頓悟 の者 は一時 に 悟る の で 三時の前後にとら われ ない、という解釈 にな るだ ろ う 。基は こ の 解釈を 通 じ て 、 三 時 が たんに時間 の前後による 配列 で は な い 、と いう こ と を 主張 し て いるので ある。 そ のこ とは、続く議論 か らも 明らか に知 られ る。 若 依 覚愛 、定 唯一時無漸次 者 、 即違 深 密 説有三時。若依 劉 磊 、定有五 時 前後 次 第 、 復 無文 説、 然違 三時 。今総不 依。若 拠 衆生 機 器 及理、可 有頓 漸 之 教、 然不 同於古 説 。 若不約機理 、 定 判 一 経 為頓為漸、時増減者、頓漸不成。 故唯識 云 、 唯 我 於 凡愚 不開 演。 非遮不定及 定 性故。 此 依 証果 。若 謂人 天 、 即 有 四時 。其 二 乗 者、 方 便 学法 。是 彼 初学 故 略 不説。 ( 々 ) 若し覚愛に依り て 、 定 んで唯だ一時のみにし て 漸次無し とせば 、 即 ち 深 密 に 三 時有 りと説くに違す。若し劉 磊 に 依 り て、 定 ん で五 時 の 前後 次 第 有 り と せ ば、 復 た 文 説 無 く、然も三時に違 ふ 。 今 総 て依ら ず 。若し衆生 の 機器及 び理に 依 ら ば 、 頓 ・ 漸 の 教 有るべ し 。然 れど も古 説に 同 ぜず。 若 し機理に約 さ ざれ ば 、 定 ん で 一 経を判じ て 頓 と 為し 漸と為す も、時 に 増 減 あ れ ば、頓 ・ 漸成 ぜず。故に 唯識に、唯だ我 れ 凡 愚 に於 て 開 演 せ ずと云 ふは、不定 及 び定 性 を 遮 す る に 非 ざ るな り。故 に 此 れ 証果に 依 る 。 若 し 人 天 を 謂は ば、 即 ち 四時 有り 。 其 の 二 乗は 方 便 の 学 法 なり。 是 れ 彼 の 初 学 な るが故 に 略して説かず。 即 ち 、菩 提流支の 一時教 に よ れ ば 、 た だ 一時 のみがあっ て

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唯 識 学 派 の 三 転法 輪説 につ い て ( 吉 村) 一八二 漸悟はないという ことになり 、 『 解 深 密 経 』 の 三転法 輪 説に 違反 す る 。 ま た 、 劉 磊 の五 時教によれば 、五時という時間の 前後 がある こ とになるが 、 こ れ は経 典に証拠が な く 、 やはり 三転 法輪 説 に 違反 す る 。 し た が って 、こ れら は 全 て 依 拠す べ きで はな い 。 理 ・ 機 と い う 観 点 か ら すれ ば 、 頓・ 漸 の 教え が なければ ならない。これ は 古説の頓・漸と 同 じ で はな い 。 理 ・機と い う観 点を無視し て 、ある 経 典 を 頓 ま たは 漸 と 判 定 し た と し て も、 頓 ・ 漸 は 時 に 応 じ て 変 化 す る の で、 そ れ は 成 立 しない。 例えば 、 『 解 深 密 経 』 には「 私 は こ の教え を 凡夫に は説かな い」と あ るが 、こ れ は 不定 種姓や 定 性二乗 ( 声聞 種 姓・ 独覚種 姓 ) を 排除 し て いる わ け で は な く 、ただ証果に よっ てそのよ う に 言 わ れて いるの で ある 。また、三時の 教 え というが、人 天 乗 を数えれば四時となる。た だし、 こ れは 初 学の教えなの で 省 略 さ れて いる、という 。 ここで 基 は、三転 法輪説の特 徴 とし て 二 つの点を強調し て いる。第一は、三時 教 に よ れば 頓・漸の教えを 全 て 網 羅する こ と が で き る 、とい う 点 で ある。 一 時教は漸の教えがないの で 、 こ の 点 で 批判さ れ る こ と に なる。第二は、三時とはただ 時間の前後 を 言うもの ではな い 、という点 で ある。 五 時教は ただ時間の前後によっ て諸教を分類するの で 、 こ の点が批判 され る こ と に なる。 ま た、仏 の 教 え は平 等で あるが 、 衆 生 の 機根に応じ て 頓教とも漸 教 ともなる 、 と いう点 に も注意が喚 起されて い る 。 古 説の 頓漸二 教 は 、 あ る 経典を 頓 教 な い し 漸 教 と 判 定 するの で 、 こ こ に は大 き な 違いが あ る ことになる 。 こ の よう に、基は三 転 法輪説の解釈 に「頓」 「漸 」の観念を 導入 する こ と で 、 衆生の機根に区別がある こ とを示す だ け で なく、それ に 応じ て仏の教えに も「頓」 「 漸 」の区 別 がある という こ とを 主張し て いるの で ある 。 そのこ と は 、 『法 華 玄 賛』の 次 の記述からも明らか に 知ら れる 。 諸仏設教、略有 二 種 。 一頓、二漸。頓即被彼大機。頓従 凡夫以求仏果。如 勝鬘経所説 一 乗。 一乗 是権、四乗実故。 漸即被彼従小至 大 機 。 如 此 法 華 経中 所説一 乗 。一 乗是 実、 二乗権故。此〔法 華〕 経 、 多被従彼二乗以求仏果、多是 漸教、大乗所摂。 ( 〆 ) 諸仏の教を設くるに 、 略 し て 二 種 有 り。一には頓、二に は漸なり。 頓 は即 ち彼 の大 機の 被なり。 頓に凡夫より以 て仏 果 を 求 む 。 勝 鬘 経 の 説 く 所 の 一 乗 の 如し 。一 乗 は 是 れ権にし て、 四 乗 は 実 な る が故に 。 漸は即 ち 彼 の 小よ り 大に至る機の被なり 。 此 れ 法華経の中に説く所の一 乗 の 如し 。一 乗は是 れ 実にし て 、二 乗 は 権なる が 故に 。此 の 〔法華〕経 、 多くは彼の二 乗 よ り 以 て 仏 果 を 求 む るに被 すれ ば 、 多 く は 是 れ 漸 教 に して 、大 乗の摂 す る所 なり。 即 ち 、仏の教えには頓・漸の二 種 がある 。 頓教は、凡夫か

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唯識学派 の三 転法 輪 説 に つ いて (吉村 ) 一八三 ら直に 仏 果を得る 者 が 被る もの で 、 『 勝 鬘 経 』 の 一 乗 方 便 四 乗真実 の 説など で ある。漸教は、小乗から大乗 へ 次第に進 む ( 〇 ) 者が被るもの で 、 『 法 華経』 の 一 乗 真 実 二乗 方 便 の説な ど で ある。 『 法 華 経』は多く は 二乗(声聞乗・ 独 覚 乗 )から次第 に 仏 果 を 得 る 者が被るた め 、その教えの多く は漸 教 で あ り 、 大乗に 収 めら れ る 、という 。 こ こで は、仏 の 教えには 頓 教 ・ 漸 教 の二 種 が あり 、経 典 に は多 少の 違 い はあ れ 頓 ・ 漸 の二 教 が備 わっ て い ると解 釈 さ れ て い る 。 これを時間 の 観点か ら 見 る と 、 頓 教に は時間 の 前後 がないが、 漸 教には時 間の前 後 が あるとい う こ とになる。 『 法 華 玄賛』 の 続く議論に は 、次 の ような 記 述がある。 今依新経 、頓教 大 乗但唯 一 時、与 一 大機 不従小起。教被 唯一 。故漸次大 教 乃 有 三 時 。解 深密 経中 …後略 ( ー ) 今新教に 依らば、頓 教 大乗 は但唯 一 時にし て 、一 の大 機 た だ の小より起らざ る に 与 ふ。 教の 被 は 唯一な れ ば な り。故 に漸 次大教は乃ち 三時 有り 。解深密経 中 …後略 即 ち 、頓教は頓悟の者が被る の で た だ 一 時 で あるが、漸教 は漸悟の者が被るの で 三時に 分 けられ る 、という。 そ し て 、 後者 の 典 拠と し て 、 『 解深 密経 』の三転 法輪説が 引用 さ れ る ので あ る 。 基 は ま た 、 頓教 ( 一 時 ) と 漸 教 ( 三 時 )と が 相 違 しな い こ とを 、 『 法 華 経 』 の三草 二 木の譬 喩 をかり て 次のよ うに述べ て い る。 若 以 偏 円 、機 宜 漸 次。教 但 三 時、非一五等。不 可 難、以 一 雨 普潤 三草 不 同 、教唯有一 。 其頓悟之機、 一 果之証。 即 依 此理、無 三時之教。 若 機 成 漸 次 、大従小生 、教定 有 三 。 応 機 説故。 将 理 会 教、 名為一 雨 。将 教就 機、 説 三 乗 法。 或 三 、 或 一 、 理 不 相 違 。 ―( ) 若し偏円 を 以 てせば 、 機は宜く漸 次 なるべ し 。教は但 だ 三時にし て 、 一 五 等に非 ず 。一 雨 普 く潤す も 三草 同じ か らざ るを以て 、 教 は唯だ一有るのみと難ずべからず。 其 れ頓 悟 の 機に し て 、 一 果 の 証 な り 。 即 ち 此 の 理 に 依 ら ば、 三時の教無し 。若 し 機 の成ずる こ と 漸次にし て 、大、小 より 生ずれば 、 教 は定んで三有り。機 に 応じて 説 くが故 に。 理を 将 て 教を会するを、名け て 一雨と為す。教を 将 て 機 に就くを 、三乗の 法 と 説く。或 は三 、或 は 一 、理相 違せず。 即ち 、頓・漸という観点から見れば 、 『 法 華 経 』 を被る衆 生の多 く は漸 悟の者 で ある( し た が っ て 、教 の多 くは漸教で ある ) 。 その場合、教えは 三 時 であり、一時 や 五 時 で はない。 『法華経 』には三 草 二 木 の 譬 喩 があり、仏の教えは一つ( 一 雨) で あ るが、衆生 ( 三草)に よっ て 理 解は異なるとい わ れ る が 、 こ れ を もっ て仏 の 教 えは ただ 一 つ であ る と 難 じ ては な らない 。 そ れ は頓悟 の 者 の 証果 をいう も の で 、そ の 場 合は 三 時の教えはない こ とになる。 し か し 、 漸 悟の者の成長を い う

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