• 検索結果がありません。

バークリー『運動について』訳解

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "バークリー『運動について』訳解"

Copied!
50
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

宮 武   昭

バークリー『運動について』訳解

 本稿は George Berkeley , De Motu の全訳と注解である。この小品はパ リ学術アカデミーの懸賞論文公募を機に、 1720 年にリヨンで執筆され、

翌 1721 年ロンドンで刊行された。これがパリに送られた形跡はないものの、

1752 年、著者の死の数ヶ月前に彼の『論文集( Miscellany )』に再録さ れている。底本は De Motu , in The Works of George Berkeley , Bishop of Cloyne , edited by A . A . Luce and T . E . Jessop , vol . 4 , 1949 で あ り、底 本 以外の版と各国語訳は以下のとおりである。

ラテン語原文

( 1 ) De Motu , in The Works of George Berkeley , edited by A . C . Fraser , vol . 1 , Oxford at the Clarendon Press , 1901 , 2005 ( A reprint of the 1901 edition , Continuum International Publishing Group )

( 2 ) De Motu and The Analyst , edited and translated by D . M . Jesseph , The New Synthese Historical Library , vol . 41 , Kluwer Academic Publishers , 1992 (この版はほぼ毎頁に誤植が見られるほど、その校訂が杜撰である)

( 3 ) De Motu , ECCO ( Eighteenth Century Collections Online Print Editions ) , 2010 ( Reproduction from British Library , Londini : impensis Jacobi Tonson , 1721 )

各国語訳

( 1 ) Of Motion , editor ʼ s translation in The Works of George Berkeley , Bishop

〈研究ノート〉

(2)

of Cloyne , edited by A . A . Luce and T . E . Jessop , vol . 4 , 1949

( 2 ) De Motu and The Analyst , edited and translated by D . M . Jesseph , The New Synthese Historical Library , vol . 41 , Kluwer Academic Publishers , 1992

( 3 ) An Essay on Motion , in Philosophical Writings , ed ., by D . M . Clarke , Cambridge Texts in the History of Philosophy , 2008

( 4 ) Über die Bewegung , in Schriften über die Grundlagen der Mathematik und Physik , eingeleitet und übersetzt von Wolfgang Breidert , suhrkamp taschenbuch wissenschaft ( Buch 496 ) , 1985

( 5 ) Du movement ou Du principe et de la nature du movement et de la cause de la communication des mouvements , traduction par Dominique Berlioz Letellier et Michelle Beyssade in George Berkeley Œuvres II , édition publiée sous la direction de Geneviève Brykman , Presses Universi- taires de France , 1987

 原文はバークリーのほとんどの作品と同様に、切れ目なしの通し番号の みが付された節で書かれているが、その構成は副題に示されているとおり である。すなわち、「運動の原理」が § 1 42 、「運動の本性」が § 43 66 、そして「運動の伝達の原因」が § 67 〜 72 で論じられている。底本 の編者が言うように、この構成はバランスを欠いているし、訳者の見ると ころ、趣旨不明の節もかなり見受けられる。しかし、主著『人知原理論』

の自然哲学の部分(§ 101 117 )の補完になっている点、さらにはバー クリーの現象主義が明瞭にうかがえる点では見逃せない重要性がある。

 なお、『人知原理論』への参照については、拙訳「バークリー『人知原 理論』訳解( 1 )〜( 6 )」(中央大学文学部『紀要』哲学、第 55 〜 60 号)

を用い、それぞれ「『原理論』訳解( 1 )〜( 6 )」と略記する。また本稿は

2013 年度開講の本学大学院授業での精読と討論を素材にしている。

(3)

運動について

すなわち、運動の原理、運動の本性、

および運動の伝達の原因について

1 言葉の欺瞞から逃れねばならない

(1)

 真理を探究するにあたって何よりも肝要なのは、誤解を招きやすい言葉 によってだまされないよう気をつけることである

(2)

。ほとんどすべての哲 学者たちがこう忠告するのに、これを気に留める者はまことに少ない。そ れにもかかわらずこの忠告を遵守することは、もっぱら自然学者たちによ って扱われる事柄においてはそれほど困難なことではないように思われる。

この自然学( physica )において主導権を握っているのは、感官、経験そ して幾何学的推論だからである。それゆえ、偏見が言葉の慣用に由来する にせよ、あるいは哲学者たちの権威から生まれるにせよ、われわれは可能 なかぎりすべての偏見を排除して事

(3)

の本性そのものを注意深く探究せ ねばならない。それというのも、誰の言葉や術語にせよ、そのなかに明晰 にして確実なものが何もないと認められるかぎりでは、そうした言葉や術 語が尊重されるほどにその人の権威が承認されてはならないからである。

( 1 ) 節番号の後の見出しは原文にはない。ロックの『人間知性論』にならい訳 者が付した。

( 2 ) 「『原理論』訳解( 1 )」§ 6 、 18 〜 25 参照。

( 3 ) 「事

( res )」:中世で議論された「超越概念ないし超範疇( transcendens ,

transcendentia , transcendentalia )」のひとつである。これは、アリストテレ

スの「実体」「性質」「場所」「時間」等のカテゴリー(範疇)を超えて、い

かなるものにも妥当する概念規定と考えられ、ここには「一」「真」「善」等

とともに「事

( res )」も含まれていた。『哲学・思想事典』(岩波書店)の「超

越概念」「超越論的」参照。平仮名では読みにくくなる恐れがあるので、ほ

ぼ慣例となっているこの訳語をあてた。

(4)

2 現代でもこの欺瞞がある。

 運動の考察は古の哲学者たちの精神をひどく悩ませていた。ここから(馬 鹿げたとは言わないまでも)驚くほど難解なさまざまな意見が生まれてき た。こうした意見はいまではほとんど顧みられることもないし、いつまで も熱心に議論するには値しなくなっている。しかし、現代のより分別のあ る哲学者たちのもとでも、運動が論じられるときには、あまりに抽象的で 曖昧な意味しかもたない言葉が少なからず見いだされる。たとえば、「重 力の誘発( solicitatio gravitatis )」「傾動( conatus )」「死力( vis mortua )」

等々がそうしたものである

(1)

。これらの言葉は、他の点ではきわめて啓発 的な著書に暗い影を落とし、人類の常識にも真理にも背く意見に扉を開く。

他人を謗りたいがゆえにではなく、真理を求めるがゆえにこうした言葉を 注意深く吟味することは、まことに必要なことである。

( 1 ) 各版の注記によると、これらの言葉はライプニッツからとられている。そ れらが記されている彼の代表的な著作は、 1695 年に Acta Eruditorum に掲 載された Specimen Dynamicum in Leibnizens Mathematische Schriften , hg . C . I . Gerhardt , Bd . VI , SS . 234 246 . Halle : H . W . Schmidt , 1860 . [ Repr . Hildesheim : Georg Olms , 1962 ; 1971 ](邦訳「力学提要」横山雅彦・長島 秀男訳、『ライプニッツ著作集』第三巻、工作舎、 1999 年)である。本稿で の訳語はこの邦訳ならびに山本義隆『古典力学の形成』 (日本評論社、 1997 年)

を参照した。また、これらの用語の意味については、以下の本文や訳注を参照。

3 これらの言葉は比喩によってのみ物体に適用できる。

 誘発( solicitatio )、努力( nisus )あるいは傾動( conatus )といった 言葉は本来、生き物にのみ使われる

(1)

。他の事物に適用されるとき、それ らの言葉は比喩的な意味で受け取られねばならない。しかし、哲学者にと って比喩は避けるべきである。さらに、事柄を真剣に吟味する人なら誰も が認めるように、精神のはたらきと身体の運動のどちらからも切り離され るなら、これらの言葉には明晰で判明な意味などまったくない。

( 1 ) これらの言葉の語源をたどるなら、 solicitatio は solicito (動かす、悩ます、

そそのかす、誘惑する)に、 nisus は nitor (もたれる、依存する、力を振り

(5)

絞る、努力する)に、そして conatus は conor (試みる、努力する、目指す)

に由来する。

4 重力は隠れた性質である。

 重い物体を支えるとき、われわれは自分自身のなかに努力、疲れそして 不快を感じる。さらにわれわれは、落下する重いものにおいて、地球の中 心に向かう加速された運動を知覚する。感官を助けにするとき、われわれ はこれら以外のものを知覚しない。しかしながら理性によってわれわれは、

これらの現象には何らかの原因あるいは原理があると推論し、これがふつ う「重力( gravitas )」と呼ばれている。しかし、重いものの落下の原因 は見えもしないし知られてもいないから、この意味での重力を感覚可能な 性質と言うのは適切ではなく、したがってそれは隠れた性質

(1)

である。し かし、隠れた性質が何であるか、あるいは、いかにして何らかの性質が何 らかのものに作用し何らかのものを引き起こすことができるのかを理解で きるのは稀であるし、それどころか稀にさえ理解できない。したがって人 びとは、隠れた性質を放棄して感覚可能な結果だけに目を向け、そして、

考察においては抽象的な言葉(これらが議論のためには有用であるにして も)を排除して、その精神を個別的で具体的なものに、すなわち事柄その ものに繫ぎとめるべきであろう。

( 1 ) 「隠れた性質( qualitas occulta )」:「『原理論』訳解( 5 )」§ 102 の注( 1 ) 参照。

5 力もまた隠れた性質である。

 「力( vis )」もまた同様に物体に適用されている。そして、この名称は

まるで知られた性質を意味しているかのように、そして、生き物のはたら

きすべてから区別されるだけでなく、運動、形、そしてこれら以外の感覚

可能な事物のすべてからも区別される性質を意味するかのように使われて

いる。しかし、もっと厳密に事柄を探究する人なら認めるように、力はじ

(6)

つは隠れた性質にほかならない。生き物の努力と物体の運動はふつう、こ の隠れた性質を示す徴候、そしてこの性質を測る尺度と見なされている。

6 重力と力という言葉は抽象的であるがゆえに誤謬と混乱を招くだけで ある。

 したがって、重力や力を運動の原理と見なすことに何の根拠もないこと は明らかである。それというのも、隠れた性質と言われることによって、

この原理はより明晰に理解されうることになるのだろうか。隠れたものそ れ自身は、いかなるものをも説明しないからである。おまけに、知られて もいない作用する原因( causa agens )は性質というよりも実体と呼ばれ るべきであろう。他方、「力」「重力」そしてこれらに類した言葉が具体的 に、つまり動く物体や抵抗の努力等々を含意するようかなり頻繁に使用さ れているのは不適切なことではない。しかし、これらの言葉が哲学者たち によって使用されて、こうした動く物体や抵抗の努力すべてから隔離され 抽象された

(1)

何らかの本性を、つまり、感官に服するのでもなく、精神の いかなる力によって解されうるのでもなく、はたまた想像力によってつく られうるのでもない本性を意味することになるなら、それらはつまるとこ ろ誤謬と混乱を生み出してしまう。

( 1 ) 「隔離され抽象された( praecisus et abstractus )」:たとえば日本語の「黙 して語らず」にも見られる、同一ないし類似の意味をもつ言葉を重ねる冗語

法( pleonasm )は、バークリーがかなり好む表現法らしく、ここの prae-

cisus は abstractus と同じ意味で使われている( praecisus の英語表記の precise については「『原理論』訳解( 1 )」§ 8 の注( 1 )、§ 9 の注( 1 )、§

18 の注( 3 )、さらに「『原理論』訳解( 4 )」§ 100 の注( 1 )( 2 )参照)。こ

のように abstractus と同義の言葉を連ねた表現をこの『運動について』から

これ以外に挙げれば、§ 8 の abstractus subtilisque ( subtilis については本稿

§ 8 の注( 3 )参照)、§ 43 の simplex et abstractus ( simplex の英語表記の simple については「『原理論』訳解( 4 )」§ 98 の注( 1 )参照)があるし、

さらにこれらの表現と数珠つなぎになっているものを挙げれば、§ 43 の tenuissimus et subtilissimus ( tenuis の英語表記の fine については「『原理論』

訳解( 4 )」§ 97 の注( 3 )参照)がある。なお、「抽象」については「『原理論』

(7)

訳解( 1 )」§ 6 の注( 2 )参照。

7 この誤謬の原因は一般的で抽象的な言葉の誤解にある。

 多くの人びとは一般的( generalis )で抽象的な言葉が議論においては 有用であることを見てとるものの、しかしそうした言葉の役割を十分に把 握していないがゆえに、誤謬に誘い込まれる。じっさいこれらの言葉のう ちのあるものは、人びとが共有する習慣によって会話を短縮するためにつ くりだされ、また他のものは哲学者たちによって教授のために案出されて いる。しかし、こうなる理由は、それらの言葉が事物の本性に適合してい るということではない。なぜなら事物は個別的で具体的なものとして存在 しているからである。その理由はむしろ、それらの言葉が概念( notio )を、

あるいは少なくとも命題を普遍的な( universalis )ものにするがゆえに、

学説を伝承するのに適しているからである。

8 物体的力という言葉もそうした言葉である。

 われわれはたいてい、物体的力( vis corporea )は容易に理解できる何 かであると思っている。しかし、事柄をもっと正確に探究する人びとは、

これとは違った意見をもっている。このことは、この力を解明しようと努 力するとき彼らがこの言葉の驚くほどの曖昧さに苦しんでいることから明 らかである。トリチェッリ

(1)

は、力やインペトゥス( impetus )

(2)

は何か 抽象的で精妙な

(3)

ものであり、まるでキルケの魔法の壺のような物体的実 体のなかに含まれる第五本質であると言う

。同じくライプニッツも、力 の本性を解明するにあたって次のように言う、「第一エンテレケイア

( ἐντελέχεια ἡ πρώτη )である能動的な力( vis activa )、原初的な力( vis

primitiva )は、魂あるいは実体的形相に対応する」(『ライプツィッヒ学報』

参照)

(4)

。どれほどすぐれた人びとでさえ、抽象に耽っているかぎり、い

かなる確実な意味も備わっていない言葉を、つまりスコラ学者たちの純然

たる影を追い求めることになるのは、これほどまでに必定である。じっさ

(8)

い現代人たちの著作からも、これ以外の発言を少なからず持ち出すことが できるだろうし、それらによって十分に明らかになるように、形而上学

( metaphysica )的抽象は力学( mechanica )にも実験にも席を譲ったこ とはなく、むしろいまだになお無用の労苦を哲学者たちに課している。

* 「物質はキルケの魔法の壺にほかならない。これは力の容器として、インペト ゥスの運動量の容器として役立つ。力とインペトゥスはきわめて精妙な抽象物 であり、きわめて霊妙な第五本質であるから、自然的固体のもっとも内奥の実 体以外のいかなる器にも収まりえない」( in Torricelli , Lezioni Accademiche , Lecture IV , 1715 )

(5)

( 1 ) Evangelista Torricelli ( 1608 47 ):フィレンツェ・アカデミーの物理学・

数学教授。ガリレイの助手を務め、真空の発見とトリチェッリの定理で有名。

( 2 ) 「インペトゥス( impetus )」:現代英語でも「はずみ」「勢い」といった意 味で使われるが、もともとは 14 世紀の哲学者 Buridanus が投射体に籠めら れた力を指すために使った。『哲学・思想事典』(岩波書店)の「インペトゥス」

参照。

( 3 ) 「精妙な( subtilis )」:§ 6 の注( 1 )で指摘したように、この言葉は「抽象 的」とその語義が重なるが、それにとどまらない含みももっているように思 われる。もともとは織物の用語で「繊細に織られた」という意味であったが、

ここから「手の込んだ」「微にいり細をうがった」という意味も加わる。しか しバークリーは、これを「抽象的」という言葉と重ねたとき、ここに pejora- tive なニュアンスを込めているのではなかろうか。つまり、個別的で具体的 な観念に「不必要で余計な人為を加え、微にいり細をうがった詮索をする」、

すなわち、「本来切り離せないものを切り離すという意味で抽象し、そこから 出てくる抽象的観念の微細な区別にこだわる」(§ 44 参照)というニュアン スを付加しているように思われる。そこで § 40 では、この形容詞から派生し

た subtilitas は、こうした抽象観念に振り回されている「スコラ学者たちの曖

昧な些事拘泥( subtilitas )」という言い方になって使われる。ちなみに、

Breidert はこの § 40 の subtilitas を Spitzfindigkeit と独訳している。

( 4 ) 「そしてもちろん、原初的な力は(これはまさに第一エンテレケイアにほ かならない)霊魂すなわち実体的形相に対応する)( Specimen Dynamicum , op . cit ., S . 236 :「力学提要」前掲邦訳書、 494 頁)。

( 5 ) この文章はイタリア語で書かれており、拙訳は英訳・独訳・仏訳からの重

訳である。キルケはギリシア神話の女神で、オデュッセウスの部下を魔法の

酒で豚に変えた。なお、以下の訳注で引用あるいは参照されるトリチェッリ

の著作ならびに後出のボレッリの著作等、その原典を確認できない著作につ

いては、各版の校訂者・訳者の注に依拠し、その校訂者・訳者の名前の後に

当該注の頁数等を明記した。

(9)

9 この無用の労苦の一例「衝突の力は無限である」について  この源泉から種々の不合理が出てくるが、こうした類いのものとして「衝

突( percussio )がいかに小さいものであれ、その衝突の力は無限に大き

い」

(1)

といった命題がある。この命題の根底には明らかに以下の想定がある。

つまり、重力( gravitas )は事物そのものに備わる性質であって、他のす べての性質とは異なる。そして、重力作用( gravitatio )はこの性質のい わば現実態( actus )であるものの、この現実態は運動とはまったく別も のである。しかるに、最小の衝突は、運動のない最大の重力作用よりも大 きい結果を生む。すなわち、前者は何らかの運動を引き起こすが、後者は いかなる運動も引き起こさない

(2)

。ここから以下のことが帰結する。つま り、衝突の力は重力作用の力を無限の比率で凌駕している、すなわち無限 に大きい。ガリレイの実験を見られたい。さらに、衝突の無限の

(3)

力につ いてトリチェッリ、ボレッリ

(4)

、そしてその他の人びとが書いたものを参 照されたい。

( 1 ) Clarke , p . 246 , n . 3 によれば、バークリーが誰の著作からこれを引いてい るのかは明確ではないが、ここで名前が出ている人たちをはじめとして、当 時の多くの自然学者たちがこれに言及している。ガリレイの『新科学対話』

( 1638 年)では「例えばわれわれは、八ないし十ポンドの重さを越えないハ ンマーの一撃が、打撃力を加えられずにただ圧力だけならば数百ポンドの重 さに耐えられる抵抗を打ち破りうることを知っています。私はこの衝突の力 を測る方法を見出したいのです。まさか無限大であるとは考えられません」(岩 波文庫(下)、 187 頁)、あるいは「私の聴いた種々の見解の中でひとつ驚く べきことが記憶に残っています。すなわち、衝突の力はたとえ無限大ではな いとしても無際限であるというものです」(同書、 223 頁)と書かれている。

さらにライプニッツは死力と活力を論じた個所でこれに触れて、「衝突にお いては……活力が存在し、これは無数の死力が連続的に籠められることによ って生じるのである。そしてこのことは、ガリレオが謎めいた語り口で、衝 突の力は無限であると述べたとき、すなわち、もしこの力が重さの単なる努 力と比較されるならば、そうであると述べたとき、言わんとしたことである」

Specimen Dynamicum , op . cit ., S . 238 :「力学提要」前掲邦訳書、 498 9 頁)

と記している。

( 2 ) 次節でこの「重力」は「死力」と言い換えられ、「重力作用」つまり「重

力の現実態ではあるが、しかしいまだ運動していない作用」は「単純な重力

(10)

作用」と呼ばれる。たとえば、漬物樽の上にそっと置かれた漬物石が下の樽 の蓋を押さえつけている状態を考えてみればいい。この場合、石も蓋も静止 していて、何の変化も起こらない。これにたいして、 10 メートルの高さから 落下運動する漬物石は、衝突する蓋を破壊する、つまり破壊という変化・結 果を生みだすだろう。

( 3 ) 「無限の( infinitus )」:底本と Fraser 版では「一定の( definitus )」となっ ているが、 1721 年の初版(ならびにそれに基づいた Jesseph 版の校訂)に従 う。

( 4 ) Giovanni Alfonso Borelli ( 1608 79 ):ナポリで生まれ、ピサで数学教授、

後にフィレンツェで医学教授。言及されている著作は、 『衝突の力について( De Vi Percussionis , 1686 )』である。

10 しかし、死力も重力作用も力ではない。

 しかしながら、以下のことが認められねばならない。つまり、いかなる 力もそれ自身によって直接に感じられることはなく、結果によってのみ知 られ測られるが、しかし、死力あるいは単純な重力作用の下に置かれた静 止した物体にはいかなる変化も起きないから

(1)

、その死力や重力作用の結 果は存在しない。しかるに、衝突の何らかの結果は存在する。したがって、

力は結果に比例するのだから、死力はいかなる力でもないと結論すること が許される。しかしながら、だからといって衝突の力が無限であると結論 してはならない。なぜなら、何らかの正量が何らかの量を無限の比率で上 回るにしても、この後者の量はゼロつまり無なのだから、前者の量を無限 の量と見なすのは適切ではないからである。

( 1 ) 「下に置かれた……いかなる変化も起きないから」:底本では、 in corpore quiescente subjecto nulla facta mutatione となっており、 Clarke と Jesseph は subjecto nulla facta mutatione つまり「いかなる実際の変化にも従わない」

と読むが、しかし subjectus が奪格をとる用例は見られない。そこで、 Fraser の校訂に従って subjecto と nulla の間にコンマを入れ、 subjectus を文字通り

「 〜 の 下 に 置 か れ た 」と 読 み( 次 節 に「 下 に 置 か れ た 鉛( plumbum

subjectum )」の用例がある)、 nulla 以下を ablativus absolutus と読む。

(11)

11 重力も重力作用も運動あるいは作用がないがゆえに無である。

 〔まず重力作用について言えば、〕重力作用の力は運動量( momentum ) から分離できない。しかるに、運動量とは速度と掛け合わされた質量であ るから、速度なしには無である。さらに、速度は運動なしには理解されえ ず、したがって重力作用の力も運動なしには理解されえない。次いで〔重 力ないし死力について言えば〕、いかなる力も作用( actio )によってのみ 知られるようになり、作用によって測られるが、しかしわれわれは、物体 の作用を運動から切り離すことはできない。したがって、重い物体がその 下に置かれた鉛や絃の形を変える

(1)

かぎりで、その物体は運動している。

しかし、その物体が静止しているときには、それはいかなる作用もおこな わない、あるいは同じことであるが、作用が妨げられている。要するに、

たとえ「死力」や「重力作用」という言葉が形而上学的抽象によって、動 かすものや動かされるもの、運動・静止とは異なる何かを意味すると想定 されるとしても、しかし、この異なる何かとはじつはまったくの無なので ある。

( 1 ) この思考実験は以下の具体例をイメージすればいいだろう。鉛の場合は、

薄い平らな鉛板をバケツの上にのせ、さらにこの鉛板の上に鉛板が撓むほど の重さの錘をのせる。錘は徐々に沈んでいき、鉛板の平面を曲面に変える。

次節でも例として使用される絃(羊等の腸でつくられた紐)の場合は、ある 程度の長さの絃を水平方向に張り、その中央に錘をのせる、あるいは紐で吊 り下げる。錘はただちに降下し、絃の直線を折れ線に変える。

12 予想される反論への回答

 もし誰かが、「絃から吊り下げられた錘、あるいは絃にのせられた錘は、

その絃が弾力によって元に戻るのを妨げているがゆえに、絃に作用してい

る」と言うのであれば

(1)

、私は次のように言う。つまり、これと同じ理由

を持ち出してしまえば、「下にあるどの任意の物体も、その上に置かれて

いるより上部の物体が落下するのを阻止しているがゆえに、上部の物体に

(12)

作用している」ことになるが、しかし、何らかの物体が自分の占めている 当の場所に他の物体が存在するのを阻止すること

(2)

は、その物体の作用と は言われえない。

( 1 ) この予想される反論は、錘が絃の形を変えた後で静止した状態を想定して いる。

( 2 ) これは物体の固体性( soliditas )すなわち不可入性( impenetrabilitas )の ことである。ロックは「ある物体が占有している場所のなかに他の物体が入 らないようにする抵抗」(『人間知性論』第二巻四章一節)と説明している。

13 圧力とは力ではなく衝突の運動である。

 なるほどわれわれは、その重さによって落ちかかっている( gravitans ) 物体によって押さえつけられる( pressio )のを感じることがある。しかし、

この辛い思いがやってくる源は、この重い物体からわれわれの身体の腱や 筋肉に伝えられて、これら腱や筋肉の位置を変化させる当の物体の運動で あり、したがって、この受容される感覚は衝突に帰されるべきなのである

(1)

。 こうした事柄においては多くの重大な偏見がわれわれを苦しめるが、しか し、これらの偏見は鋭く忍耐強い省察によって追い払われるべきであるし、

あるいはむしろ根絶されるべきであろう。

( 1 ) 論敵は「押さえつけられる( pressio )」という事態を「押さえつける力=

圧力( pressio )」と解して、たとえば重量挙げ選手の辛さの源をこの力に求

めるが、しかし、バークリーによれば、その苦しい思いは力ではなく、バー ベルと身体組織との衝突(下に向かうバーベルの運動と、それを支える身体 の筋肉等の対抗運動)という運動に由来する。

14 死力と衝突力の関係について

 何らかの量が無限であるということが証明されるためには、等質で有限

な何らかの部分がその量のなかに無限の倍数含まれていることが示されね

ばならない。しかし、衝突の無限の力を支持する人たち自身によれば、死

力と衝突の力の関係は、部分と全体の関係ではなく、むしろ点と線の関係

である。この問題に多くを付け加えることが許されようが、しかし冗長に

(13)

なるのはやめにしよう。

15 活力論争も「力」を前提しているがゆえに無意味である。

 学識ある人びとをおおいに悩ませていたいくつかの有名な論争が、前述 の原理によって解決されうる。この種の論争の一例は、力の比例にかんす るあの論争であろう

(1)

。一方の側は、質量が一定しているとき、運動量、

運動、インペトゥスは速度に単比例することを認めるものの、しかし、力 は速度の自乗に比例すると主張する。しかし、誰でも見てとれるように、

この意見は、物体の力が運動量、運動、インペトゥスから区別されるとい うことを想定しており、そしてこの想定が拒否されるなら、この意見も共 倒れになる。

( 1 ) いわゆる「活力( vis viva )論争」である。ライプニッツが 1686 年に発 表した『自然法則に関するデカルトおよび他の学者たちの顕著な誤謬につい ての簡潔な照明( Brevis demonstratio erroris memorabilis Cartesii et aliorum circa legem naturalem )』(邦訳『ライプニッツ著作集』第三巻、 386 395 頁)

に端を発して、保存されるのは mv かそれとも mv

2

かをめぐってデカルト派 とライプニッツ派が激しく争い、 18 世紀中葉のカントの処女作『活力測定考』

にまで及んだ。次の文章の「一方の側」はライプニッツ派である。

16 運動理論での用語の混乱の一例

 形而上学的抽象によって何かとてつもない混乱が運動の学説のなかに持

ち込まれてきたことをもっと明らかにするために、力とインペトゥスにか

んする著名な人びとの考え方がどれほど違っているのかを見ることにしよ

う。ライプニッツはインペトゥスを運動と混同している

(1)

。ニュートンに

よれば、インペトゥスはまことに慣性力( vis inertiae )と同じである

(2)

ボレッリは、インペトゥスは速度の程度にほかならないと言っている

(3)

インペトゥスは傾動と異なると主張する者もいれば、異ならないと主張す

る者もいる。多くの人びとは、駆動力( vis motrix )は運動に比例すると

考えている。しかし、他の人たちは駆動力以外の何らかの力があると考え

ていて、これは別のやり方で、つまり、質量と速度の自乗の積によって測

(14)

られると明言する。しかし、これらの混乱を辿っていくのは、果てしのな い仕事になろう。

( 1 ) しかしライプニッツは、「インペトゥスは物体の質量と速度の積であり、

したがってまたこのインペトゥスの量は、デカルト主義者が運動量と呼びな らわしているものである」 ( Specimen Dynamicum , op . cit ., S . 237 : 「力学提要」

前掲邦訳書、 496 頁)と述べていて、この混同をデカルトに帰している。各 国語の訳者の多くが示唆しているように、バークリーはこの箇所をおそらく 誤読している。

( 2 ) 「定義Ⅲ 物質の固有力( vis insita )とは、各物体が、現にその状態にあ るかぎり、静止していようと、直線上を一様に動いていようと、その状態を 続けようとあらがう内在的能力( potentia )である。

  この力は常にその物体(の物質量)に比例し、質量の慣性( inertia =不 活動性)となんらちがうところはない。言い表し方がちがうだけである。物 体がすべてその静止の状態、あるいは運動の状態からたやすく移されること がないのは、この物質の慣性によるものであろう。このことから固有力は、

いちばんよく内容を表わす名前として、慣性力( vis inertiae )と呼ぶことが できよう。しかし物体は、それに加えられた他の力が物体の状態を変えよう とする場合にだけ、この(固有)力を働かせるにすぎない。またこの力の働 きは抵抗ともインペトゥスともみることができる。物体が、その現在の状態 を保つため、加えられた力にあらがうかぎりにおいては、これは抵抗である。

一方物体が障害物の抵抗に容易には屈せず、その障害物の状態を変えようと する点では、それはインペトゥスである。人は普通、静止している物体につ いては抵抗とみなし、運動している物体においてはインペトゥスとしている。

しかし、運動しているか静止しているかは、通常考えられているように、相 対的に区別されるにすぎず、一般に静止しているようにみられているものが、

かならずしも真に静止しているとはかぎらない」(ニュートン『自然哲学の数 学的諸原理』河辺六男訳、『世界の名著  26 』、 60 61 頁。( )内の日本語 は邦訳者河辺の、ラテン語は宮武の補足)。

( 3 ) 「それによって物体が動かされる力は、……要するにその運動の速度の度 合いあるいは程度にほかならず、この種の力はインペトゥスと呼びならわさ れ て い る 」( Borelli , De Vi Percussionis , cap . I 〔 Breidert , S . 215 , Anm . 128 からの再引用〕)。

17 「力」等々は数学的抽象物である。

 「力」「重力」「引力」等々の言葉は、運動や運動している物体について

推論したり計算したりするためには有用であるが、しかし、運動そのもの

(15)

の純然たる本性を理解したり、それらの言葉にそれぞれ対応する多くの異 なる性質を表示したりするには役立たない。引力にかんして言うなら、こ れがニュートンによって何か真の物理的性質としてではなく、ひたすら数 学的仮説としてのみ使われていることは疑いもなく明らかである

(1)

。そし てじつにライプニッツもまた、要素的努力( nisus elementaris )あるいは 誘発をインペトゥスから区別するとき、これらの存在者は事物の本性のな かにじっさいに見いだされるのではなく、抽象によってつくられねばなら ないと認めているのである

(2)

( 1 ) 「ここでは、(力の)数学(的概念)がとりあげられているにすぎない。わ たくしはいま、力の物理的な原因や所在を考察しているのではないからである。

……引力とか、衝撃とか、中心に向かわせる任意の種類の傾向とかいった言 葉は、区別なくたがいに無差別に使い、それらの力は物理的にではなく数学 的にだけ考えられねばならない。だから読者は、これらの言葉によってわた くしが何かの作用の種別または仕方ないし作用の原因または物理的理由を規 定するものとは、どのような個所においても考えないように、あるいはわた くしがたまたま、中心から引かれるとか、力が中心に属するとかいったとし ても、ある中心に現実にかつ物理的に力を付与するものとは考えないように、

注意されたい」(『自然哲学の数学的諸原理』定義Ⅷ、前掲邦訳書、 64 頁)。

( 2 ) 「したがって明らかに二種類の努力があり、その一つは要素的な、つまり 無限に小さな努力であり、これを私は誘発と呼び、またもう一つはこの要素 的な努力の連続や反復によって形成される努力つまりインペトゥスそれ自体 である。とはいえ私は、これらの数学的存在( entia mathematica )が実際そ のまま自然界の中に見出されると主張するつもりはなく、ただ意識的な抽象 化によって精確な算定量をはじき出すのに役立つと言いたいのである」

Specimen Dynamicum , op . cit ., S . 238 :「力学提要」前掲邦訳書、 498 頁)。

18 力の合成と分解の説明もまた数学的でしかない。

 〔力の〕合成と分解(直進する力を斜めに逸れる力へ分解すること)を 平行四辺形の対角線と辺によって説明する

(1)

ことについても、同じことが 言える。これは力学と計算には役立つが、しかし、計算や数学的証明に役 立つことと事物の本性を明らかにすることはまったく別のことである。

( 1 ) 「系Ⅰ 物体は合力によって、個々の力を辺とする平行四辺形の対角線を

同じ時間内に動くこと」(『自然哲学の数学的諸原理』前掲邦訳書、 73 頁)。

(16)

バークリーが参照したのはおそらくこの箇所であって( Alciphron , in The Works , edited by A . A . Luce and T . E . Jessop , vol . 3 , p . 295 に、こ の ニュー トンの文章が引用されている)、力のヴェクトルの合成と分解のことである。

19 運動量、インペトゥス、努力の保存則は抽象的で曖昧である。

 現代の多くの人たちは、運動は消滅するのでも新たに生成するのでもな く、運動量がつねに同じままにとどまるとする意見をもっている。アリス トテレスもまたかつて次の二者択一の問題を提出していた、つまり、運動 はつくられたり壊されたりするのか、それともじつに永遠から存在するの か、と。『自然学』第八巻

(1)

を見よ。まことに感覚可能な運動が消滅する ことは感官にとって明白であるが、しかし、それらの人たちはインペトゥ ス、努力あるいは力の総量が同じままにとどまると主張しているように思 われる。それゆえボレッリは、衝突における力は減少するのではなく拡散 し、正反対のインペトゥスもまた同じ物体において受け取られ保存される と主張する

(2)

。ライプニッツも同様に、物質のいたるところにつねに努力 が存在しており、これが感官にとって明らかでないとしても、理性によっ て理解されると認めている

(3)

。しかし、これらはあまりに抽象的で曖昧で あり、実体的形相やエンテレケイアとほとんど同じ類いのものであること が承認されねばならない。

( 1 ) 「運動は、以前には存在していなかったのに、いつか生成したのであるか、

そして、今度は消滅して、以後には何も運動しないようになるのであるか。

それとも運動は生成したのでもなく、消滅するのでもなく、これまでも常に あったしこれからも常にあるのであるか。そして運動は、存在するものども に不死で不休なものとしてぞくしているのであって、いってみればすべての 自然的にできているものどもにとっての或る生命のようなものであるのか」 (『自

然学』 250b11 15 :『アリストテレス全集 第三巻』出隆・岩崎允胤訳、岩波

書店、 293 頁)。

( 2 ) 「衝突において運動力は……減少するのでもなければ、投げられたものに

おいて新たに生み出されるのでもなく、その力の一部が衝突していく物体に

おいてとどまるが、残りの部分は衝突される物体に伝えられるという具合に

して、拡散していく」( Borelli , De Vi Percussionis 〔 Jesseph , p . 81 , n . 15 か

らの再引用〕)。「運動の真の破壊と呼ばれている作用が考察されるなら、そ

(17)

の作用においてはいかなるものもまったく破壊されているのではなく、反対 の運動が押し込められて、その後で同じ基体のなかで正反対の二つのインペ トゥスや運動が活発になり持続することによって、静止の見かけを生み、こ うすることで両者のインペトゥスや運動がともに破壊されているように見え るのである」( ibid .,〔 Breidert , S . 216 , Anm . 132 からの再引用〕)。

( 3 ) 「この努力は、ここかしこで感覚に現れるのであるが、私の見解によれば、

感覚によって明らかでない場合ですら、理性によって物質中の至る所に認め られるのである」( Specimen Dynamicum , op . cit ., S . 235 :「力学提要」前掲 邦訳書、 492 頁)。

20 物体そのものに生命的原理を認めても無駄である。

 運動の原因や起源を説明するために、あるいは物質を支配する原理、あ るいは自然の要求や欲求、さらには自然的本能を使用する人たち

(1)

はすべ て、何かを考えたというよりは語ったと判定されるべきである。落下する 重いものの加速の原因を指定するために、「地球の諸部分はおのずと運動 する、あるいは魂が形相のようにこれらの部分に植え付けられている」と 想定した人びと

、あるいは、「物体のなかには固体的延長のほかに、そ こから力の考察が生じるような何かが措定されねばならない」と述べた 人

**

は、これらの人たちからそれほどかけ離れているわけではない。な ぜなら、これらすべての人びとは個別的で確定的なことを何も語らないの か、あるいは、もし彼らが何かを語っているとしても、それを説明するこ とは、それが説明するはずの当のもの〔運動〕を説明するのと同じくらい 難しいからである。

* Borelli De Vi Percussionis , cap . 23 , prop . 87 .

* * Leibniz 〔「物体の中には、量と不可透入性( impenetrabilitas )の外に、力 に関する考察の淵源となる或る要因が措定されねばならない」( Specimen Dynamicum , op . cit ., S . 241 :「力学提要」前掲邦訳書、 504 頁)〕 .

( 1 Breidert , S . 216 217 , Anm . 134 によれば、「物質を支配する原理( princi-

pium hylarchicum )」は Henry More Enchiridium metaphysicum )の用語

である(これについてはさらに、拙訳「バークリー『ハイラスとフィロナス

の三つの対話』訳解( 4 )」、中央大学文学部『紀要』哲学第 53 号、 70 頁の

注( 54 )参照)。運動原理として「自然の欲求( naturae appetitus )」を挙げ

(18)

るのは、トマス( Summa Theol , II I q . 1 a . 2 , q . 26 a . 1 )、 Jungius そして言う までもなくライプニッツである。ボレッリは「何であれ重いものは自然的本 能によって最短距離を通って地球の中心に近づこうと努める」( De motibus naturalibus )と述べている。

  さらに、 Jesseph , p . 81 , n . 17 によれば、バークリーは「物質を支配する原 理」をおそらくライプニッツの以下の箇所から引いたとのことである。「たと え物質的諸概念よりも上位にあり、いわば生命的とも言うべき能動的原理を 物体の中に至る所で認めるにしても、しかし私は、敬虔と才能において傑出 したヘンリー・モアやその他の人々に賛同するつもりはない。彼らは、私に は訳の分からぬアルケウス〔パラケルススに由来する錬金術の用語で「始原者」

を意味し、万物の中に宿る生命的な原理とされた〕とか、質料支配的な原理〔物 質を支配する原理〕とかを、現象の説明にさえ用いているが、それはあたかも、

自然におけるすべてのことが機械的に説明されうるわけではないかのごとく である」( Specimen Dynamicum , op . cit ., S . 242 :「力学提要」前掲邦訳書、

505 506 頁)。

21 事物の最高類は物体と精神である。

 自然を解明するために、感官にとって明らかでもなければ理性によって も理解されえないものを持ち出しても無駄である。したがって、感官が教 えるもの、経験が教えるもの、そして最後に、これらに支えられて理性が 教えるものが見てとられねばならない。事物の二つの最高類( summum genus )が存在する。すなわち、物体( corpus )と魂( anima )である

(1)

。 延長していて、固くて、運動し、形をもち、さらに、感官に生じるこれら 以外の性質を備えた事物を、われわれは感官を助けにして知る。しかし、

感覚し、知覚し、理解する事物を、われわれは何らかの内的意識( consci- entia quaedam interna )によって知る。さらに、われわれが見てとるよう に、これらの事物は互いに明白に異なっており、まったく異質である。私 は知られる事物について語る。それというのも、知られないものについて 論じたところで、何の助けにもならないからである。

( 1 「『原理論』訳解( 2 )」§ 1 2 参照。『原理論』§ 1 では、延長、固体性等々

の「性質」が「観念」と呼ばれ、これらの観念の集まり( collection )が「物

体」である。これが本書では「物体的な事物( res corporea )」(§ 25 )とか「延

長した事物( res extensa )」(§ 30 )と言い換えられる。他方、魂もまた「思

(19)

惟する事物( res cogitans )」(§ 25 )と言い換えられ、「精神( mens )」「心

( spiritus )」(§ 30 )とも呼ばれる。『原理論』§ 2 では、「精神( mind )、心

( spirit )、魂( soul )あるいは私自身( my self )」と書かれている。言うまで もなく、この対概念はデカルトのそれの換骨奪胎である(§ 30 参照)。

22 物体には運動の原理はない。

 われわれが知っていて「物体」という名前をつけているものはすべて、

運動の原理ないし作用因( causa efficiens )でありうるものを何ら自分の なかに含んでいない。それというのも、不可入性、延長そして形は、運動 を生むいかなる能力もけっして含むことも伴うこともないからである。む しろ逆に、物体のこれらの性質だけでなく、どれほど多くのものであれ、

他の性質をも一つ一つ

(1)

調べるなら、われわれはすべての性質はまことに

受動的( passivus )であることを見いだすであろう

(2)

。つまり、何らか

の仕方で運動の源泉ないし原理として理解されうるいかなる能動的な

( activus )ものも、それらの性質に内在していない。重力( gravitas )に かんして言うなら、先にすでに示しておいたように、この言葉が意味して いるのは感覚可能な結果にほかならず、知られていないのはこの結果の原 因であり、だからこそこれが〔哲学者たちによって〕探究されている。し かし、われわれが「物体は重い( gravis )」と言うときはつねに、それが 下方にもっていかれるということしか理解しておらず、この感覚可能な結 果の原因のことなどまったく考えていない。

( 1 ) 「一つ一つ( singillatim )」:底本以外の版では、初版も含めて sigillatim と書かれているが、明らかに誤植であろう。

( 2 ) 観念が受動的であることはバークリーの基本的なテーゼである。たとえば、

「『原理論』訳解( 2 )」§ 25 参照。

23 観念なしに議論してはならない。

 それゆえ、物体について、それは運動の原理ではないとあえて宣言して

いいだろう。なにしろ、これは確定済みのことだからである。そして、も

し誰かが固体的延長とその様態のほかに、「物体」という言葉は隠れた性質、

(20)

力、形相、本質をも含意すると主張するなら、彼は観念( idea )もない のに議論するという無駄な仕事に耽り、そしていかなるものをも判明に表 現しない名前を悪用しているにちがいない。しかし、もっと健全な哲学の やり方は、抽象的で一般的な概念( notio )(もし理解されえないものが概 念と言われるべきだとするなら)から可能なかぎり遠ざかることであるよ うに思われる。

24 知られていないものを運動の原理にしてはならない。

 物体の観念のなかに含まれているものを、われわれは知っている。しか し、物体においてわれわれが知っているものが運動の原理ではないことは 確実である。そうした知られているもののほかに、物体において何か知ら れないもの、つまりそれのいかなる観念をももっていない何らかのものを 捏造して、それを運動の原理として語る人たちは、運動の原理はじつは知 られていないと述べているにすぎない。しかし、こうした類いの些事にこ れ以上こだわるのは不愉快なことである。

25 精神が運動の原理であることは、われわれの身体運動から知られる。

 物体的な事物( res corporea )のほかに、思惟する事物( res cogitans ) という別の類( genus )がある。これら後者の事物のなかに物体〔身体〕

を動かす能力が内在していることを、われわれは自分自身の経験によって 知っている。なにしろ、われわれの魂は四肢の運動を意のままに引き起こ したり止めたりできるからである(この「引き起こしたり止めたり」とい ったことがいったい究極的にはいかなる根拠によって生じるにせよ)。き わめて明白に確定していることであるが、物体は魂の意のままに動かされ、

そしてそれゆえ、この魂が運動の原理と呼ばれうるのはけっして不適切で

はない。ただし、この魂は個別的で従属的な〔下位の〕原理である。それ

というのも、この原理自身は第一の普遍的な原理に依存しているからである。

(21)

26 物体はすべて受動的にふるまう。

 重い物体は、いかなる明白な衝撃によってはたらきかけられなくても、

下方に連れ去られる。しかし、だからといって、これらの物体のなかに運 動の原理が含まれていると考えてはならない。アリストテレスはこのこと の根拠を挙げて、以下のように言う。「重いものや軽いものはそれ自身に よって動かされるのではない。なぜなら、それ自身によって動かされると いうことは生命に属する事柄であり、そしてそれらのものは自分を止める こともできるだろうからである」

(1)

。重いものはすべて、一つの同じ確実 で恒常的な法則にしたがって地球の中心を目指す。これらのものそのもの のなかには、この運動を止めたり、あるいは減じたり、あるいは一定の比 率においてのみ増やしたり、あるいは最後に、何らかの仕方で変化させる いかなる原理も力も認められない。これらのものはまさに受動的にふるま うのである。さらに、厳密かつ正確に語るなら、衝突する物体についても 同じことが言われねばならない。これらの物体は、動かされているかぎり、

当然のこととして、静止しているときとまったく同じように受動的にふる まい、衝突の瞬間そのものにおいても同様である。じっさいのところ真理 に即して事柄を判断するなら、慣性しかもたない物体と動かされている物 体は同じようにふるまう。ニュートンが慣性力はインペトゥスと同じであ ると言う

(2)

とき、彼が認めているのはこのことである。しかるに、慣性し かもたない静止した物体は何かを引き起こすことはない。したがって、動 かされている物体もまたいかなることも引き起こさない。

( 1 ) 「それら〔重いものと軽いもの〕がそれ自身によって動かされると言うこ とは不可能である。というのは、このようなことは生命に特徴的なことであ って、生物のもつ特殊性であるし、また、もしそれらにこのようなことがで きるとすれば、それらはそれ自身を停止させることもできるはずであろう」 (『自 然学』 255a5 7 :前掲邦訳書、 312 頁)。

( 2 ) § 16 参照。

(22)

27 抵抗も受動状態である。

 じっさい、物体は運動と静止のいずれの状態においても等しくその状態 を守り続ける。しかし、この「守り続ける」ということは、物体の能動作

用( actio )と言われてはならない。これはちょうど、物体の現実存在が

能動作用とは言われないのと同様である。「守り続ける」とは、同じ仕方 で存在し続けるということにほかならず、この持続は適切には能動作用と は言われえない。しかしわれわれは、動かされている物体を止めるときに われわれが経験する抵抗( resistentia )はこの物体の能動作用であると想 像してしまう。ところがこれは、虚しい外観に欺かれてのことでしかない。

それというのもまことに、われわれが感じるこの抵抗はわれわれのうちな る受動状態( passio )である、つまり、この抵抗が確証しているのは、物 体が能動的に作用するということではなく、われわれが何かを蒙る

(1)

とい うことだからである。その物体がそれ自身によって動かされていようと、

自分以外の原理によって駆り立てられていようと、いずれにせよわれわれ が同じことを蒙るであろうというのは確実である。

( 1 ) 「蒙る( patior )」:この動詞から派生した名詞が「受動状態( passio )」で ある。

28 作用と反作用も数学的仮説であって、物理的存在ではない。

 作用と反作用は物体のなかにあると言われているし、そしてこの言い方 は力学的証明にとって不都合なことではない。しかし、だからといって、

運動の原因あるいは原理であるような何らかの現実的な力が物体のなかに

あると想定しないように気をつけなければならない。それというのも、こ

れらの言葉は「引力」という言葉と同じ仕方で理解されるべきだからであ

る。つまり、この引力がひたすら数学的仮説であって物理的( physicus )

性質ではないのと同様に、これら作用と反作用についても同じことが、し

かも同じ理由によって理解されるべきである。それというのも、以下の理

由があるからである。物体の相互引力についての定理( theorema )の真

(23)

理と有用性は、力学的哲学において揺るぎのないままである。なぜなら、

物体の運動が相互に引き合う物体の能動作用によって引き起こされると想 定されるにせよ、あるいは物体から区別され、物体を駆動したり抑止した りする何らかの作用者の能動作用によって引き起こされると想定されるに せよ、いずれにせよそれらの真理と有用性はこの運動にのみ基づいている からである。これと同じ理由によって、運動の規則や法則について語られ ていることはすべて、そこから引き出された定理ともども、感覚可能な結 果とそれに基づいた推論だけが承認されさえすれば、たとえわれわれが、

能動作用そのものは、あるいはむしろこれらの結果の原因となる力は物体 のなかにあると想定しようが、非物体的な作用者のなかにあると想定しよ うが、いずれにしても盤石なままである。

29 物体の観念に運動の原理は含まれていない。

 物体の観念から延長、固体性、形を取り去るなら、残るものは何もない だろう。しかし、これらの性質は運動とは無関係であるし、運動の原理と 言われうるものを何ら自分のなかにもっていない。このことは、われわれ の観念そのものから明らかである。したがって、もし「物体」という言葉 によってわれわれが理解するものが意味されるとするなら、物体から運動 の原理が取りだされえないことは明らかに確実である。すなわち、物体の いかなる部分も属性も、運動を生み出す真の作用因ではない。しかし、言 葉を持ち出していながら何も理解していないというのは、哲学者にはまっ たく相応しくないことである。

30 物体と精神はまったく異なる。

 能動的な思惟する事物が与えられており、これが運動の原理であること をわれわれは自分のうちで経験する。この事物をわれわれは「魂( anima )」

「精神( mens )」「心( spiritus )」と呼ぶ。延長していて、慣性しかもたず、

不可入的で、可動的な事物も与えられており、これはいま述べた事物とは

(24)

まったく異なっていて、新しい類を構成する。思惟する事物と延長した事

物( res extensa )がどれほど異なっているのかを、すべての人たちのな

かで最初に把握した抜群に賢明な人であるアナクサゴラスは、精神は物体 と共通のものをまったくもたないと主張した。このことはアリストテレス の『霊魂論』第一巻から明らかである

(1)

。もっと新しい人たちのなかでは デカルトが、同じことにもっとも明敏に気づいていた

(2)

。デカルトの後で、

他の人たちは十分に明白なことを曖昧な言葉によって混乱した困難なもの にしてしまった。

( 1 ) 「何か一つの原因、一つの元素を言っている限りの人々は、また霊魂もそ の一つ、例えば火あるいは空気だとする。しかし、根元を多数だと言う人々は、

また霊魂をもその多数だとする。しかしただアナクサゴラスだけはヌース〔=

理性、あるいは精神〕は他のものから働きを受けず、他のものどもの何一つ とも何ら共通のものを持たないと言う」(『霊魂論』 405b15 20 :『アリスト テレス全集 第六巻』山本光雄訳、岩波書店、 15 頁、〔 〕内は邦訳者山本 の補足)。

( 2 ) 「延長や形や場所的運動などといった、物体に帰せられるべきものはわれ われの本性に属さず、ただ思惟のみがわれわれの本性に属する」(デカルト『哲 学原理』井上庄七・水野和久訳、『世界の名著  22 』、 333 頁)

31 精神が運動の原理であることは、経験によって確証される。

 これまで言われてきたことから明らかなように、能動的な力、能動作用、

運動の原理が物体に内在すると主張する人たちは、いかなる経験にも基づ かない意見を抱いており、その意見を曖昧で一般的な言葉によって補強す るが、それらの言葉が何を意味しているのかを十分に理解していない。こ れとは反対に、精神が運動の原理であると主張する人たちは、自分の経験 に基づいた意見を公表しているのであって、この意見はいつの時代におい てももっとも賢明な人びとの賛同によって確証されている。

32 精神を運動の原理にした古今の人びと

 アナクサゴラスは精神( νοῦς )を導入した最初の人である

(1)

。これは

慣性しかもたない物質に運動を吹き込んだことになっている。まさにこの

(25)

主張をアリストテレスもまた証明し、より詳細に確定している。第一の動 かすもの( primum movens )は不動で、不可分で、いかなる大きさもも っていないと明言しているからである

(2)

。すなわち、彼が『自然学』第八 巻で正しく気づいているところによると、すべての動かすもの( motivum ) が動きうる( mobile )ものであると語ることは、誰かが、建築するもの はすべて建築されうるものであると語るのと同じことである

(3)

。さらにプ ラトンは『ティマイオス』において、この物体的な機械あるいは目に見え る世界は、すべての感官を逃れている精神によって作用されて、生気を吹 き込まれていると教えている

(4)

。いやそれどころか今日では、デカルト派 の哲学者たちは、自然的運動の原理は神であると認めている

(5)

。そしてニ ュートンはいたるところで一点の曇りもなく、運動は最初に神の意志

( numen )によって生じただけでなく、この世界の体系は今日までこれと

同じはたらきによって動かされていると公言している

(6)

。このことは聖書 に一致するし、スコラ学者たちの考察によって是認されている

(7)

。それと いうのも、なるほどペリパトス派の人びとは、自然が運動と静止の原理で あると教えているものの、しかしスコラ学者たちは、能産的自然( natura

naturans )とは神であると解釈しているからである。彼らの理解によると、

このような世界の体系の物体はすべて、全能の精神によって確実で恒常的 な秩序にしたがって動かされているのである。

( 1 ) 「アナクサゴラスは……質料よりも知性(ヌゥス)を優先させた最初の人 である。というのも、彼の書物の冒頭には……『あらゆるものがいっしょく たにあった』、それからヌゥスがやってきてそれらを秩序づけたのだ、とい うふうに書かれているからである」(ディオゲネス・ラエルティオス『ギリ シア哲学者列伝(上)』加来彰俊訳、岩波文庫、 122 頁)。

( 2 ) 「第一に動かすところの或る永遠なるもの……があり、この第一の動かす ものは動かされえないものでなければならない」(『自然学』 258b10 :前掲邦 訳書、 329 頁)。「この第一の動かすものが部分のないものであり、何らの大 きさをももっていないものでなければならない」(『自然学』 266a10 :前掲邦 訳書、 360 頁)。

( 3 ) 「さらにいっそう不合理なのは、もし動かされるものがすべて何か動かさ

れて動くものによって動かされるのであるならば、動かしうるものはすべて

参照

関連したドキュメント

975 も参照),アレクサンドロスの頃には 2われわれ次第(のものごと) (τὸ ἐφ᾿ ἡμῖν)3と同義の術語として用いられるようになっ

焼け木杭には火がつきやすい (1)a

弁当,お菓子および調理加工食品などに栄養成分表示が

での問題では,求める期待値はすべて他の既

 子供の世話は,大人と比較して意思の疎通が図れないことも多く,その経験が将来医療の現場で働く

松本歯学 323〕2006 179 X’ N 《 C

( 2 ) 生活 とい う言葉には,人生 とい うのに比べ て,実際的 ・日常的 ・功利的なひびきがある。従 って人生哲学

このような術語が違う意味をもっているという例は枚挙にいとまがない