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「生」について

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「生 の哲学」 Lebensphilosophieについて語 るに先立 って, しば らく生 das Leben につい て考えてみたい。生 〔せい〕 とい う語は,漢字 と して も,す こぶ る多義である。ち ょっと辞書に当 ってみて も, 1. うまれ る ・うむ。出生 ・出産。

2.

い きる。く一 死。 3. いかす。くー 殺。 4.いのち。生命。 5.い きているもの。生 き物 ・生物。 6. はえる。草木 の芽が 出る。 7. お こる ・お こす。発生 ・生起。 8. うまれなが ら。生来。 等等, さらに訓 ・き 〔生娘 ・生一本〕,なま 〔なま もの,生半可〕, うぶ 〔初心〕な どまで考 え に 入 れた ら,まだまだ多 くの含意が見 出され るであろ う。 一方 , ドイツ語 のLebenについて見 ると, 1.令 ,生命。2.坐,生存 ・人生。 3.一生, 生渡 ,'寿命 ;一代。4.活動 ;活気 ・生気 ;活力 ,' 生 きの よ さ。5.生活,暮 らし,生計 ;生 き方, 身 持 ち。 6.現実 ;実物,現形。 7.伝記。8. 生 き物。9.世間, この世。 とこれまたす こ ぶ る 多義で ある。(三修社 :現代独和辞典.参照) しか し,われわれ としてほ,今,生 と し て 大 体,1.人生,2.生活,3.生命,のほぼ三 義 に 集約 して,受け取 っているようである。人生,坐 宿,生命 と一往は熟語化 しても,それ らを ど うい う理解 と心情で受け取 り, どうい う意向 ・含意で つか うかに よって,いろいろと微妙に ニュア ンス が違 って くる。 まして哲学をつけて,人生哲学, 生活哲学,生命哲学 とす ると,概念内容 として も おのずか らそれぞれの方向に傾斜 ・偏向して,意 味の分化がやや頗著になるが,それに して も,そ のおのおのの内部で, これ また必ず しも一義的で はない。

長谷川鑛平

(1)人生哲学 とい うとき,それは人生-の哲学 的アプローチの通俗化,ない し哲学的人生観の 日 常生活- の,若干調子を落 しての応用 とい った感 触がある。宇宙の理法に徹す ると称す るいわゆる 哲人 ・賢哲の `さと り' めいた教説か ら,市井の 一言居士 〔いちげんこじ〕の世渡 りの知恵,金言 ・ ことわ ざ ・た とえ話に含まれ るものまで,多 くの 次元 ・段階のものが考えられ る。 しか し,そのい ず れ も が 結 局,生 活 の技術 ・処世術 Lebens -kunstをさぐり,また教えようとす るもの で あ る。 しか もこの傾向の思想家には 自説を過大評価 して固執 し,他をまるでかえ りみ な い,独 善 的 な,いわゆる教祖的傾向の強いひ とが少な くない ようである。 ギ リシア末期の小 ソクラ テ ス 派 だ の,禁欲主義者 アソテ ィステネス Antisthenes (前455頃∼360頃)のキ ュニコス派だの,ア リステ ィッボス Aristippos(前435-350頃)の快楽主義 に傾いたキュレネ一派だの,さらには後のス トア 派 ・エ ピクロス派のエ ピゴーネ ン 〔亜流〕たちは, このような俗流人生哲学に属す るもの と言 って よ い ようである。 もっとも同 じくLebenskunst派 とい って も,ス トアやェ ピクロスの創始者たちは 彼 らな りにす こぶる大真面 目で,従 って深い英知 を湛 えた言説 も少な くないので,やは り叔上の よ うに軽 く扱 うことは差 し控えなければなるまい。 それか ら東洋 の哲学, とい って も中国古代の儒 教を中心 とす る諸学銃は,誠心正憲 ・修身斉家 ・ 治国平天下 と大言壮語 してはいるけれ ども,所詮 は修身斉家に中心があった ようだ。その限 りやは り人生哲学の範境内に属す る。老荘 の哲学のよ う に,高遠 の理想境に遊ぶ ようでは あ る が,そ の 実,政治の駈引 きに巻 き込まれないで,市井村里 に私人 としての平穏平凡な生を全 うす るのがまし だ と,保身長生 の術を説 くものに至 っては,む し ろ隠者 ・世捨て人 ・アウ トサイ ダーのすねた処世 観 とい った傾 向が強い。 -

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45-(2) 生活 とい う言葉には,人生 とい うのに比べ て,実際的 ・日常的 ・功利的なひびきがある。従 って人生哲学 と言 うとき,なるほど俗流 といった 臭いはやは り免れないが,それに してもなお,そ こには古い流行お くれの理想や,型にはまった教 訓がち りばめられ,形而上学的なものへのあこが れめいたものが,感 じられ る場合が多い。内心で は信 じているのではなかろ うが,人前では言葉に 出してそ う言い切 り,そ う説 くことに,一種の選 ばれた老意識めいた ものを感 じ,みずからはそ う とは気づかないで,いい気になっている,そんな 様子がみ とめられる。著名の高僧がそ う言 った, 東洋の哲人 もそ う言 った,西洋の哲学書に もそ う 書いてある,などと,はっき り誰彼 〔たれかれ〕と は名指さないで,権威あるもののごとく言 っての けるところに,いわゆる人生哲学のべダソ トリが 秘められているようである。 もっとも,若い人た ち相手に 「人生哲学」「恋愛指南」を売 りも の に している現代の ソフィス トたちは,論外である。 ところで生活の哲学 とい うと,その生活なるも のは ぐっと日常の生活の次元に引きつけられて, 日常的 ・実際的 ・功利的な意味合いが く・っと表面 に出て くる。一 日一 日を じみちに生 き,日常茶飯 事 といえどもおろそかに しない,または,できな い。そ うい う場面でいたず らに高速な言辞を弄 し た ところで,糸の切れた風船 のように浮 きあが っ て,悲 しいかな,現前の低い事態にはかみ合わな い。Philosophy does notbake.「哲学では食 えない」 とデューイJohnDewey(1859-1952) も言 っている。石川啄木に 「食 うべ き詩」 とい う エ ッセイがある。食 うや食わずで ロマ ンチ ックな 詩なぞ ものするのは,余 りに もこっけいに過 ぎる。 足を地 に つ け よ。アメリカのプラグマティズム pragmatism- わが国では実用主義 と訳 し て いるが,プラグマティズムはまさに 「生の哲学」 のアメリカ版 と言えよう。 とりわ け 今 日,よ く 「生活がかか っている」な どと言われる。かつて なら死活の問題problem oflifeanddeathと 言 った ところであろ う。 ところで (3)生命 となると,何 といって も生物 学的生命-の連想が先ず第-に来る。 この言葉は 時には 「人生」や 「生活」にない形而上学的意味 を含ませて言われることもあ る。生命の神秘-生命の起原.近頃はとくに ヒューマニズムの立場 か ら,人命尊重の建て前か ら,ひとたび生れ 出た 生命は,む ざむ ざ死なせてはな らない。た とい植 物的生活を送 らざるを待な くなっている人間, 自 意識は失われているが,食べ ものをあてが って, 適当な処遇を持続すれば,生 きることだけは生き 続ける植物人間。手当をやめれば,とたんに死ん で しま う。死んで しま うが,す でに自意識はない のだか ら,何のこともないはず である。生 きてい て,世の中に何の貢献 もせずに,相当量の配慮 ・ 費用を費消する植物人間。文字通 りの 「ごくつぶ し」(穀潰 し),生 きている屍。身内の者には,そ んな生命でも,生命の灯のともっている うちは, 消 させた くないであろ う。その心情には同情でき るが,植物人間の当人にとってほ,無意味の存続 を打切る権利- 「死ぬ権利」 はないのであろ う か。いずれにせ よ,当人には, 自ら何れかを選ぶ ことは もはやできないのであ る。 さき頃,死刑囚が死を希望 したので,検察官が 上告を取 り下げ,そのため死刑が執行された とい う事件があった。当人は極端 に病的な神経過敏性 で,従 って,団地アパ ー トの隣接室のピアノ練習 に悩まされ,ついに殺人を犯 して しまった。 ピア ノの音が うるさいか らと言 って,年少の ピアノ練 習着を殺 した。常識ではとて も考えられない こと なので,私 どもはその非常識に驚いた。 しか し, 実情をきいてみれば,当人 としてはさぞ死の苦 し みであったであろ う, と理解 はできる。 しか し, こうい う現代文明への適応不能者には,安住でき る場所はまずあるまい。そ うい う不幸な人が,死 刺- それをむ しろ歓迎する- とい うのを,そ れでもやは り,生れた以上は苦 しくとも生 きてお れ,と死を自ら選ぶ ことを阻止すべきであろ うか。 こうい うことになると,「生命」概念 も深 刻 な 形而上学的考慮が要請 される。 この問題はいわゆ る安楽死 euthanasiaの問題 とも関連 す る。前 に閑説 した植物人間は,医学 の進歩が生み出した 文明の鬼子 とで も言 うべ き不幸 な 存 在 で,ア メ リカでは

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年秋

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「カレン裁判」 として全世界 の注 目を引いた。 日本でもきっそ く く安楽死)が 問題 とせ られ,医師太田典礼 (1900-)が首 唱 者 となって 日本安楽死協会なる ものが出来ている。

(3)

「本人 の希望 に反 した延 命 は人 間の尊厳 をか えっ て傷 つ け る」 と言 って,「死ぬ権利」 を主張す る。 手 当 の時期 を失 した癌 の患者 の よ うに ,回復 の望 みは全 くな しに , もっぱ ら無 限 の苦痛 とたたかい なが ら,最期 まで意識 だけはは っき りしてい て, 苦痛 は 少 しも割 引 きされ ないで,む しろ却 って増 幅 され る とい う極 限的不幸 に,当人 の要望が あれ ば医学 的に終止符 を打 ってや る ことは,近親や 同 胞 ・同輩 なる ものの,やむ を得 ない,せ めて もの 配慮 ・処置 ではなか ろ うか , とい うわけであ る。 〔注〕 生命の尊さ.価値について,私のまるで予想 もし なか った考え方があるのに驚いた.とい うのは,明治 大正期の啓蒙思想象 生物学者丘浅次郎(1868-1944) の考え方である。彼は進化論の導入.鼓吹者として知 られ る。すべては進化論.とい うよりも-ーバー ト ス ペ ソサ-H.Spencer(1820-1903)流の社会 ダーウィ ソ主義にのっとって,いとも簡明に裁断されている。 個人 よりも,その属する集団,種属ないし国家の維持 繁栄が最高目的なのであるから.その中の個体の価値 もこの目的に照 らして決められる。つまり,各個体の 命は,その個体自身から見れば.むろん何 よりも大切 なものであるが.種属が滅亡しては,個体も生存でき ない。そこで種馬の生命を標準にして考えると,個体 の命なるものも全 くその意味が変わって くる。概 して 言 うと,個体の命の導きは,その個体を完成するまで に種属の支出した保護教育の量に比例する.とい うの である。他の動物と比較 して.飛び離れて多 くの配慮 と教育を必要とする人間仲間で.個人の命が他の動物 のそれに比べて著しく高程度に尊ばれるのは,この理 屈によることであろう, と丘は言 った。その癖がつい て,虫 ケラの命 もやは り尊いとして,ノ ミや蚊を殺す ことを跨緒する仏教流の慈悲は.愚かしい誤解にもと づ く,と丘は言っている。(渡辺正雄 『日本人と近 代 科学』岩波新盈 138頁以下)

*

生命 とい えば,丘浅 次郎 を待 つ まで もな く,敬 どももや は りチ ャール ズ ・ダーウ ィ ンCharles Darwin(1809-82)の生物進化論 を思い起 し,哲学 畑 に お いてはベル グ ソソHenriBergson(1859 -1941)のニ ラソ ・ヴィタール 61anvital「生 の飛 躍」 を思い, ドリーシ ュ HansDriesch(1867 -1941)の新 生気説 を思い起 さざるを得 ない。 ベル グソ ソはそ の 『創造的 進 化

Evolutioncr占a -trice(1907)で,生命 は物質 と格闘 しつつ新 たな 形 を生み 出 して行 くのだ と論 じ,動物 的 生 命 に 至 って 「本能」と 「知性」とが分化 し,人間に おい て更 に知性 の 自由度が著 し く増大 し,新 たな 「生 の飛躍」 として直観 をそな え,社会 を進歩 させ , 道徳 と宗教 とを成立 させ るに至 った。 ベル グ ソソ は当時におけ る謬質化学 の研究成果 を買いかぶ っ て,そ の研究発展 の前途 に,近 き将来 「生命」 を 人工 的に創造す る ことも可能にな るであろ うと, 大へ ん楽観的な展望 を もった らしい。 そんな勇み 足は論外 として,ベル グ ソソは,広義 の 「生 の哲 学」 の先駆者 の一人 とみて よいであ ろ う。 このベル グソソに雁 行 して, ドイ ツの生物学者 ドリーシュは 『有機体 の哲学』Philosopbiedes Organiscben(1909)を著 して,一 種 の生命哲学 を提唱 した。かれは多年 ,生物学的研究に没 頭 し た結果 ,唯物論的 な機械論 では生命 は理解で きな い ことを認 め,ア リス トテ レスのエ ソテ レキ -秩 念 を導 入 して,生命現象 の根底に一 つ の超 自然 的 原理 を設定 し,新 生気説 Neovitalismusな る も のを唱 え,哲学的には秩序学 な る もの を 主 張 し た。 これ な ど生 を,生命 ,生物学 的生命現象 の総 体 概念 として,そ の上に建 て られ た生命哲学 の好* 個 の例 であ る。 *生物学者 ドリーシュは,生物の形態形成や再生の過 程に対して種種人為を加える実験を重ねた結果,つ いに機械論では何 とも説明できない事実を突きとめ た。そこでは.全体が部分に対して微妙な決定力を もち.過程が或る一定の目的に向って障害を排除し て推進する。そこには生命なき事実において見るこ とのできない特有の固有法則性,すなわち生命の自 律 (7ウトノ ミー)があった。生現象の現実におい て,生命校械観がみごとに打破されるのを,まのあ た りに直祝した彼は,いや応なしに哲学に引き込 ま れた。もとより彼の新生気説やEntelecbieの乱 物心二元論は.いかなる批判にも堪え得るほどのも のではなかったが,彼の実証した生命の固有法則性 と生命の自律の事実は, もはや否定すべか らざる現 実 となって,これを直視するものには,機械論万能 の夢を捨て去 らさせるに十分であった。(小野 正 康 『日本仏教の倫理学的研究』38頁参照) 辛 私 は このあた りを,恩 師谷川徹三 先生 のお若 い 頃 の論文 「生 の哲学」(岩波講座 『哲学』所収,1933 - 47

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-午) を参照 しなが ら書いているのであるが

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「生」 といえば,叙上三者- 人生 ・生活 ・生命を合意 しなが ら,なお且つ,それ らの何れに も含 まれな い更に一層深い意味を,思わ ざるを得ない。私 ど も ドイ ツ哲学の糟粕をなめて哲学にはいった もの は, ドイ ツ語 のLebenに, 日本語の生に も,英 語の lifeに もない何か暗い,ダイナ ミックな も のを感 じる。私だけの私念 Meinungか も知れ ないが, ともあれ Lebenにその深い 含 意 を 最 初に与 えたのは ニイチ ェ Friedrich Wilhelm Nietzsche(184411900)だ とい うことである(マッ クス ・シェーラ-MaxScheler(1874-1828))。 ニイ チ ェには,われわれの言 う意味での生の哲学はま だ見 出されないが, しか し,彼 の哲学 は ま さ に 「生の充溢か らの哲学」

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「生体険 の充溢か らの哲 学」である。彼は既存の文化や科学を対象 としよ うとは しない。それは生 き ら れ た 生 gelebtes Lebenであって,すでに終結 し,固定 してお り, 従 って観察や概念に よって十分に処理で き,支配 できるものである。 しか し,生の本来は,生が不 断に未来に食い込んで,新 しい内容を展開 してゆ く創造的活動であるところにあるは ず で あ る。 従 ってそれを把捉す るには,それにふ さわ しい方 法を以 って しなければならない。充溢 し奔騰する 生のダイナ ミックに十分堪 え待,受け とめ得る強 靭な直観に よらなければならないであろ う。 ニイ チ ェが 「超人」 を椿想 し

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「権力- の意 志」を 要 請 したのは,ま ことに故な しとしない。 * ここでデ ィルタイに ご登場いただ こ う。 ヴィル -ルム ・デ ィルタイ Wilhelm Dilthey(1833 -1911)は,生 dasLebenにアブp-チ す る の に体験 Erleben,Erlebnisに よろ う と す る。 Erlebenは独和辞典 を見 る と,1.生 きて 或 る 事 ・或 る物にめ ぐり合 う ;2.身をもって知る, 体験す る ;3.体得す る,の大体≡様 の意味が挙 げてある。Erlebenに近い と思われ る語に er -fahren,Erfahrung〔経験〕がある。 これは大 体,1.聞いて知 る (間接に)。学び 知 る ;

2.

出 会 う,経験す る,見聞す る,(主 として不幸 な 日 に)遭遇す る, とい う意味が挙げてある。対象 と の関係 のしかたがかな り違 うのである。強いて言 えば,経験は知的に見聞す る,或 る程度距離を置 いて,そ の程度間接的であ って もよい,そ うい う 経験に照 らして知 る, とい うやや主知主義的なと ころがあるよ うであるが,体験 となると,体 当 り で対象に密接 して,表象的知性ばか りでな しに, いわゆる知 ・情 ・意を フルに動員 して,.全身全霊 で,対象 のあ りよ うを体得 しようとす る, とい う 全人的な能動的様相が強い。デ ィルダ イ は 経 験 Erfahrungとい う語 もしば しば使 っているが, 主 としてErleben,Erlebnisを使 っているよう である。 ところで体験 Erlebenは 「はた らき」

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「い と なみ」であるが,同時にその結果Erlebnisでも ある。Erlebnisの訳語 として は,辞 書 に, 体 験 ,閲歴 ;事件,変事,珍談,災厄 ;冒 険 ;悲 壁,な どが見 出され る。Lebenそのもので あ る と共に,gelebtesLebenで もあるのである。体 当 り的経験で,最 も切実な ものの一つは冒険であ り,また恋愛であろ う。訳語 の末尾に冒険 ;恋愛 とあるのはまことに示唆的である。いずれにせ よ 含蓄 のかな り深い もののある語である。 啓蒙期以来,哲学のモデルは数学的 自然科学で あ った。従 って対象に接す るに当ってほ,冷徹 ・ 透 明な知性をもって しなければな らなか った。デ カル トRen6Descartes(1596-1650)がCogito, ergosum と言 った ことは有名である。 この CO・ g ito 〔cogitare:考える,考察する.思いめく・らす〕 において, 自然 の光 lumennaturaleに照 らし 出されて明暗 ・判明〔clareetdistincte〕に受け とめ られ るものこそ,真 Veritasである, とデ カル トは簡単に きめて しまった。デ カル トは懐疑 skepsisを哲学的方法 として,すべ て に疑 問 を さしは さむ ことか ら始め,疑わ しい ものを一つ捨 て二つ捨て して,数数 のものを疑い捨てたが, ど うして も疑い得ないものとして,そ の疑問をさし は さむ 自分 (主体) の存在を,発見 した。そ して Cogito,ergosumを再 山発 の出発点 とし,明轍 ・判明を 日じるLとして, こんどはわれわれ の驚 きを禁 じ得ないほ ど無雑作に,多 くのものを真 と して受け入れて しまった。それには古典的古代, ない し中世以来 の伝統が, このよ うな主知主義的 世界観に,その成立すべ き土壌を用意 していたの であるが,今はそれに立ち入 る場合でない。いず れにせ よ,そ うい う知性偏重の傾向は実に根強 く - 48

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西欧 の近世を支配 し,主知主義的な機械主義 ・構 成主義 として,つい昨 日にまで至 っていたのであ る。ベルグソソがその機械主義 ・構成主義を打破 しようとした ことには先に も触れたが,そのベル グソソがその哲学 の方法 としてほ,やは り,純粋 直観を もって した ところに,彼 自身, まだまだや は り相 当力強 く主知主義 の伝統 の中にあ った こと が,あ らわである。 よく引用 され るデ ィルタイの文章に,「ロックや ヒュームや カソ トの構成 した認識主観 〔ない し主 体〕 の血管には,実際 の生 きた血は流れていない で,単 なる思惟活動 〔これ こそデカル トのコギ ト ーである〕 としての水 っぽい理性 とい う液汁が流 れてい るに過 ぎない。全態 としての人間は単に表 象す るだけ の老ではない。意欲 し感情 し表現す る ところの存在である」 とい うのがある。表象的思 惟は,対象 -外界を現象 として受け取 るだけであ る。従 って 「現象性 の原理」 の外に出ることがで きない。物そのものDing-an-sichを認める こと を素朴実在論的 として神経質的に拒否す る。 リッ ケル トHeinrich Rickert(1863-1936)の 『認 識 の対象』Der GegenstandderErkenntnis

(1892,邦訳 :岩波文庫)を読む と, まことに赦密 な論歩 で分析が進め られ,なるほ どと受けいれ ざ るを得 な くさせ られ る。その所説 の限 りでは, し か し,内在論に終始 し,まのあた り見 る世界 を, 虚妄 とせ ざるを得な くさせ られ る。 しか し,現実 の生活では,外界は厳 として与えられてお り,そ れをそ のまま受けいれて, 日常 の生活にはぼ差支 えない。「ほぼ」 とことわ ったのは,心理学 上 の 錯覚な どに言及 して,これに素朴実在論論破 の一 役をになわせ る新 カン ト学派 の哲学入門書を思い 出したか らである。 ところで全体的人間 ganzer Menschとしての我我は,意欲 し感情 し表象 ・表 現す ることにおいて,我我 の自己 と同時に,それ とほぼ 同 じ確か さで,外的現実をも与 えられ るの である。生 として与 えられ るのは,単 なる表象 と して与 えられ るのではな く, もっと生 き生 きとし たlebendigな体験 として与 えられ るのだ, とデ ィルタイは強調 している。(尤 も デ ィルタイ とい えども, ドイツ的観念論哲学の伝統 の中にあるも のとして,認識論的内在論,つ ま り唯我論におち いることをひ どく気に し,わ ざわ ざ「外界 の実在」 とい う論文を ものし,意欲 の前に立 ちはだか って その前途を阻む もの,前進に抵抗す るものとして 外界 の実在を保証 しよ うとしている。笑止極まる 話だけれ ども,所詮100年 も前 のことである。) そ して私の体験す るものは,私だけの体験だ, 他人(他我)もそ う体験す るだろ うと,私 自身にな ぞ らえて臆測す る- それだけの ことに過 ぎない のではないか。美学老 リップスTheodorLipps (1851-1914)は感情移入 Einfiihrungとい うま ことに便利な概念を考 え出して,多 くを手際 よ く 説明して のけた。 しか し,考 えてみ ると,感情移 入 とい うのは対象 の中へ 自己を移入す ることな の で,対象 の美に感動す るのは,そ こに移入 した第 二 の自己に共鳴 しているに過 ぎないわけで,つ ま り,第一 自己 と第二 自己 とが もともと同 じものな ので,何 の違和 も感ぜずに共鳴す ることができ, 共鳴で きるとい うので 自己陶酔に うつつをぬかす - まるでオナニーではないか。形式論理的に言 えば, この場合 も,内在論ない し唯我論を少 しも 脱け出してはいないのである。 私 の臆測す るところでは,デ ィルタイは,私 の 体験す るのは所詮私だけの体験だ,他我 のあずか り知るところではない, とい う唯我論 的 蟻 地 獄 杏,ひそかに恐れて,生 の概念を歴史 の概念に ま で拡大 したのではあるまいか。生 Lebenを,作 用 (はた らき) の相においてのみ見ずに,その結 果,生 きられた生gelebtesLeben-体験 Erle b-nisを,生 の表現 Ausdruck,Expressionと して,生 の概念の中に含め,生の概念を拡大 し, その有力要素 として体験 Erlebnisを捉 え た。 生 きられた生は,表現 として,一定 の具体的な形 Geslaltを与 えられ る。生 きられ る生は私的な プ ロセスではあろ うが,生 きられた生は,表現 とし て具体的 ・客観的な形を与 えられ ,形成物 das Gebildeとして客観的に存在す るものとなって, 歴史 と文化の世界に組み込 まれ る。つま り歴史 は 生の表現なのである。歴史は生 きられた生 の保存 され る博物館である。 生 きることは,なるほ ど,私限 りの私的な事実 であるけれ ども,生 きることにおいて作 られた も のは,一つ の客観的な形成物 Gebildeとして, 私を離れて独 自の存在を獲得す る。それ らは消費 物資,道具 ・資材,ない し芸術品 として,生活文 -

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49-化財の-アイテム (項 目) となる。単なる形而下 の物理的な次元を越 えての,形而上の,精神的な 芸術 ・科学 ・法制,ないし宗教 として高級な文化 の-アイテムとなるものもある。 このように して それ らは歴史 と文化の世界に組み込 まれ るのであ る。生 きることは表現することであ り,表現する ことに よって,か く,われわれは私的存在の殻を 破 って,歴史ない し文化 とい う公けの場 の,た と い片隅にでも,所を与 えられる。表現を通 して個 別を脱す ることができるのである。 われわれに与 えられているもの。具体的に,辛 に触れ, 目に見え,耳に聞えるものとして与 えら れ るものは文化に属する。文化は生の表現であっ た。われわれ も生 きる。生 きるとは物を消費 し, 物を作 り (生産 ・製作 し),また生み生まれ る こ とである。喜び,楽 しみ,悲 しみ,苦 しみ,描 衣,そして死ぬ。そ うい う生の体験を通 して,さ さやかながらわれわれは文化の形成に参与す る。 その,生の体験を重ね,重ねて今 日に至 っている とい う複合体険を媒介として,こんどは方向を逆 に して,与えられた

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か ら,それを生み 出したであろ う体験そのものに,かつての生その ものに,さかのぼることができるであろ う。その ものずば りとまでは,なかなか行 くまいが,当た らず といえども遠か らず,とい う程度にはそれは 成功するであろ う。そのプロセスがすなわち理解

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である。理解すること に よって,歴 史 の広場にある

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-文化を,われわれは自 分 のものとすることができる。現前の,与 えられ た

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が生 まれるべ くして生まれ出てきた 経緯 ・経過を,理解を通 して追体験 し,それをほ ぼそのままに退形成 ・再形成することができると き,その

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は生命を吹 き込まれて, もう 一度われわれ の生 きた生活内容 となることができ る。 こわ追体験 ・退形成 の過程を通 して,われわ れ の生活は,今 日ただ今 とい う時間的制約を立ち 越 えて,過去に,祖先に具体的に結びつ くことが できる。空間的にも,別 の地域か らもた らされた ものを理解することに よって,空間的制約を超脱 す ることができる。その最 も手近かで,わか りよ い例が言語であ り,文字である。書かれた ものを 通 して,われわれは過去の人 と対話 し,遠隔の地 の人 と交通することができる。 「生 (体験)-表現-理解」

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「表現 - 理 解 一 生」がデ ィルタイにおいて哲学の方法 とされた所 以である。 * ディルタイの哲学は歴史的研究をその重要な手 がか りとしている。 リッケル トは彼を,哲学者で あるよりもむ しろ歴史家であると言 っ た 由 で あ る。いずれにせ よデ ィルタイは精神生活のそれぞ れの街域において,それぞれ の時代にそれぞれの 地域でいとなまれた生-業績を,いわば内側から 生 き生 きと

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〔現実化-哩 解〕す ることができた。彼は追体験 と感情移入に かけては人並み外れてす ぐれた ものがあったので ある。彼の論文には概ね史的跡づけが付けられて いるが,それが何れ もす ぐれている。歴史的過程 は,物理的過程 とは異なって,二度 と同 じことは 繰 り返 されない。一回的なその特殊性を十分に汲 み上げ,個個 の事態,個個 の業績 の意味 ・価値を 十分 ・的確に追体験 して把捉する- つま り理解 する,これがディルタイの生 の哲学の期するとこ ろであったが,その方法 として生一表現一理解, ない し表現一理解一生の図式が提案 されたのであ る。 辛 しか し,生の個別を脱出す る方向としては,義 現一理解のほかに,少な くとももうーっ,我に対 す る汝,生のいとなみにおける相棒,我 と我我, 我我の愛 し,むつみ,憎み, きそい,争い,闘い 合 う間柄, または夫婦 とな り,親子 となるところ の生み生まれ る方向も,考えな くてはな らない。 それ らの考察は次の機会にゆず る。

参照

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 今日のセミナーは、人生の最終ステージまで芸術の力 でイキイキと生き抜くことができる社会をどのようにつ

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から