経 営 活 動 の 循 環 性
︑ 回 転 性
︑ 常 現 性 と 経営の持續性
坂 口 幹 生
一︑経営における構造理論と活動理論
二︑三つの過程としての経営活動
三︑近代経営の本質とその持続性
四︑近代経営の持続性を支える諸条件
.1
経営経済学の認識対象は云う変でもなく経営ないしは経営経済であるが︑この経営ないしは経営経済の実体を理論
的に考察するに当って︑従来の経営経済学にはおよそ異っ堅一つの親方︑したがっては理論が成立してきたように思
われる︒すなわちその一つは静態理論とも云うべきものであり︑他は動態理論とも称すべきものがこれである︒
ここに静態理論とは経営を以て一つのスクチックな構造体とみ︑構造聯関的にその組立の正しき在り方を吟味して
ゆかうとする理論である︒勿論こうした静態理論の中には必ずしも﹁構造﹂と云う概念を中心として経営を分析してゆ
こうとする理論ばかりではなく︑制度概念を中心として経営を分析してゆこうとする親方もありうる︒近時わが国経
営学界の一部において︑さかんに研究されているヴェブレン︑コモンズ︑ウイツスラーなどの制度経営学がこれであ
経営活動の循環性︑回転性︑常親性と経営の持続性
二一経 営
と 経済 る︒また経営を以て基本的には一つの組祇休となし︑組織概念左中核として経営を介析してゆ乙うとする立場もあり うる︒今日わが国の経営学界にも広く読まれるに至ったチェスグ
1 ・バーナードの﹁経営者桜能論﹂の中に展開せら
れている理論がすたわちそれであり︑わが国でも馬場敬治博士たどが︑クとにとの立場をとっていられることは一般
に周知のごとくである口
しかしながら経営を以て構造的なものとみるにせ工︑制度的なものとみるにせよ︑あるいは組織的なものとみるに
せよ︑これらの理論がすべて経営の静態理論であると云う根本に沿いては一致しているものと云わねばならない︒勿
論乙れら諸論の中にもたとえそれが基本的には静態観をとっているにせよ︑経営活動の現実を無視するととはできや
a こうした経営の活動をいかにその理論体系の中にとり入れてゆくかにクいて苦慮しているものも喝ないではないが︑い
まだその聞の関係にクいては適切なる分析と説明がなされていない工うに思われる︒
乙れに対し経営の動態理論と云うのは経営を以てダイナミックな活動の統一体とみ︑構造聯関的にではなく︑作用 聯関的に経営の働き方を問うてゆとうとする理論である︒動態理論は今日までのと乙ろ左程色えの学説が現われてい
るわけではないが︑シユマ 1 レシパッハ・リ 1 ガーなど独乙経営経済学に沿いて︑経営を以て個別資本循環の過程︑
価値の流れとみ︑価値関聯的に経営のグイナミックな実体を分析してゆ乙うとしているのがその最も典型的なもので あると云えよう︒また周知のごとくアメリカ経営学の諸文献にはしばしば同巳
2 え
R Z
︒ ロ
( 行
動 の
原 理
) 怠
る 一
一 一
口 実
が用いられ︑経営学の目標は乙の行動︑活動の原理を科学的に発見︑確立するにあるとされているが︑乙うした考方
の根底にはやはり経営を以て実践的な活動の統一体怒りとする動態観が潜んでいるものと考えられる︒
以上のごとく従来の経営学の理論には︑乙れを大別して告よそこクの観方が存在してきたのであるが︑しかし私見 を以てすれば経営のスグチックな構造とダイナミック及活動とは決して切り離して理解さるべきものではなく︑従っ
て経営学に・おいてはとのこつの理論を併せてその体系中に包摂するものでなければならないと考える︒けだし経科に
沿ける諸活動も︑それは決して無秩序︑偶発的なものでは友く︑そとには持続性と反覆性と統一性がたければ友らな
いのであるが︑かかる経営活動の持続性︑反覆性︑統一性を保障している重大友基盤の一つ乙そ実に経営構造に外た
ら友いからである︒勿論後述するごとく今日経営活動の持続性︑反覆也︑統一性を保障しているものは単に経営構造 のみではない口しかし経営活動の持続性︑反覆性︑統一位左保障している重要な基盤の一クが経営構造であるととは
明確に乙れを認識せねばならない口
また乙れ左逆に経営構造と経営活動との関係にクいてみても︑経営桔造は一方に仇叩いて経営諸活動の持続性︑反覆
性︑統一性を基礎やけているものでありたがら︑他方に沿いては結局乙の経営活動によって規制せられ︑改変せられ てゆくものである口一般的に云ってものの機能や活動の仕方はそのものの桔造を次第に変化発展せしめてゆくものと 云えるからである︒今との乙とはわれわれが現実的に経営の実体を観察するとき︑その経営話勤の種類すたわち業種 のいかんによっていかにその経営の規模や組織が具っているか︑また同一もしくは同種の経営にあってもその操業度 のいかんによっていかに規模︑構造が変化してゆくか︑容易に看取できるところである︒勿論こうした経営活動の経
営構造えの働きかけは決して短時日の中にはみられないものであり︑相当長期に五つてのみ一初めて現われる作用であ
る︒われわれが前言において﹁結局﹂と云う言葉左用いたのもとれがためである口
かくて経営における構造と活動とは決して切り離して理解さるべきものではなく︑経営学の体系にはとの格造理論 と活動理論とが相互の関聯性においてとりあげられなければならないものと考えられる︒しかしていわゆる経営管理
とは所詮乙の構造と活動との合目的ぇ︑合理的指揮統制に外たらたいのである︒近時わが国の経営学界においても一
頃のごとき実践的な管理論より脱却して経営管理そのものの意義なり本質たりが理論的に吟味せられる傾向にあり︑
その際経営管理の対象として種唱えたるものがあげられククあるのであるが︑私見を以てするならば経営管理のそれぞ
れの種類は結局乙の桔造管理と活動管理の二大系流の中に注ぎ込ましめねばたら友いものであり︑やがてそれが全体 管理︑綜合管理の体系を組立ててゆくものと考えている口かかる意味に
h おいてわれわれはト 1 ムスがその経営管理の
対象を単に経営活動のみに限定している一側面観には同意しがたいロ(註
1 ) さて以上のごとを考方からしてわれわれは別の役会に沿いて︑経営桔造論ゆ体系化を積極的に試みるところがあっ
た口(註
2 )
そしてその際われわれは次の二点を強調する乙とを主眼とした︒すなわちまや y 第 一 に は 経 営 と 一 式 う 一
一 除
蛍 活
動 の
循 環
性 ︑
回 転
性 ︑
常 規
性 と
経 蛍
の 持
続 性
経 営
経
治
と二四
つの実体は観点を異にする乙とに上って︑価償桔造的なもの︑技術構造的たもの︑社会構造的たものの三つとして把 握する乙とができると云うこと︑そして第こにはとれら三クの桔造はそれ自体として基本的にはそれぞれ異質的なも のを有しながら︑結局は一つの怪営経済の下位概念︑一側面概念として︑主体的に存在する具体的︑預実的た経営経
済の下に﹁経済的に﹂統合さるべきものであると云うととであった︒
何故ならぽまや第一にわれわれの考えている経営とは決して組問問体一般ではなく︑あくまでも生産と分配によって
組織体それ自体の欲求と充足の持続的調和をはかることを究極目的とする経済組織体であり︑との経済目的を達成す るためには今日の経営経済は技術桔造や社会構造や価値桔造をその下に包摂せやしては一日といえども成立しがたい ものとみるととができるからである︒しかも第二にわれわれの考えている桔造とはたとえば国民経済構造や産業構造 のごとく客観的に成立したものではたく︑主体的左経営経済がその存立目的を達成するため意識的︑計画的︑目的的 に作りあげたものであり︑かかる合目的作為性に沿いてとれら三つの構造は経営経済的に統合されているものと考え
うるかちである︒われわれはと乙では価値構造的なものさえも直一ちに経済的たものであるとは考えていない叶
かくしてわれわれに残されたもう一つの課題は経営に長ける活動理論をいかに体系歩けてゆくかと云うととである
が︑本稿に‑おいてはとの活動理論のうち最も重要なる部分の一つとしてとりあげられねばたら怠い問題を考察すると
と と
し た
︒
{一)価値活動の循環性 あらためて指摘するまでもなく︑経営日常の現実態を直況するときそ乙にわれわれがただちに看取できるととは経
営には千差万別︑各種各様の活効が繰返し行われていると一式う乙とである︒しかしてとれらの諸活動はい宇れも経営
目的達成のための活劫であり︑かかる活動なくしては経営は一日といえども存立し難いと云う意味に沿いて︑経営乙
そは正にかかる諸活動のダイナミックた統一体であるとみるととができるのである︒
しかるに今かくのごとき各程各様の盗営諸活動を特定の観点より照破するとき︑その全体は相互に結付いた特定の
過程として把握されてくる︒しからばかくのごとき特定の観点とは何であるか︑ J てれはさきにわれわれが経営桔造を
分析する際に用いたと同じ貨幣価値的観点と︑目的に対する手段すなわち技術的観点と︑もう一クは主体的な人間と 人間との交渉関係と云う社会的関係がすたわちとれである︒しかしてとれらそれぞれに具る三クの観点より経営活動 を照破するときそれらの諸活動は全体として価値過程︑技術過程︑社会過程と云う三クの姿に沿いて把握されてくる のである︒勿論乙乙で経営諸活動が乙れら三クの具る過程として把握芯れると云っても︑経営活動に乙れら具る三ク の種類があって︑それが並列的に独立して存在すると云うのではない︒存在するものはたど全体として結合している
個え具体的な経営諸活動そのものだけたのであるが︑価値活動︑技術活動︑社会活動は云わばそれを三つの側面にお
いてとらえたにすぎ伝いものなのである口
まや価値過程としての経営活動について考察しよう口あらためて一式うまでもたく今日の経営は貨幣経済制度の上に
成立しているものである︒従って程営が組織休それ自体としての欲求と充足の持続的調和をはかつてゆくためには決
して物量的危それによってではたく貨幣価値を媒介としてその経済の秩序を維持してゆか喝なければたら泣いととは当
然である口しかして今との経営の経済生活の出発点を友し︑枢軸と友っているものは貨幣資本であるが︑との貨幣浜 本はもともと抽象的た貨幣価値額であってそのままの形態においては経営の経済生括を具体的に実現してゆくととは
できたい︒かくて乙の貨幣資本はやがて生産性(本となり︑商品浜本となり︑また再び貨幣浜本となって具体的に機能
してゆくのであるが︑かかる転化の過程乙そ経営の価値活動に外ならないのである口
すなわち経営の価依活動には︑まヤ第一に調達話勤がある︒創設白木の募集活動とか︑追加資本の借入活動とかが
とれである︒創設資本の宮本集活動にすでに資本が機能していると云うのは一見前後撞着のようであるが︑乙の場合は
前借資本として具体的には労働力︑治耗口問たどの形をとって活動するのである︒第こにはかくして調達せられた貨幣
浜本が原材料︑機械︑設備︑労働力など︑いわゆる生産資本に転化する過程に・おいて営まれる購入活動がある︒
シュ一フムなどは以上第一︑第二の活動を一括して調達活動と呼んでいるが︑ととでは一応わけで考えた方がよいよ
経営活動の循環性︑回転性︑常規性と経色の持続性
二 五
経
営 と経 済
一 一 六
うに思われる︒第三には緯入せられた生産性︑本が費治せられて︑上り大なる価値を含んだ商品が生産せられてゆく過
程に起きる活動すなわち生産活動がある︒第四にはかくして生産せられた商品が販売せられ再び貨幣浜本に転化する 過程にゐきる活動︑すなわち販売括勤がある︒とれによって商品中に含まれた原価価位は勿論のこと生産された余剰
価値部分がリプライズドされることは云うまでもない口第五には経営成果確定の活動がある︒
前述のごとく経営資本が具体的な機能形態をとって活動すると︑いかなる活動でもそれは結局︑費用の発生か牧益
の発生となって帰着する︒しかるに今日一般の経営はゴ 1 イシグ・エ γ
サl
y として継続的に営まれているのであり︑
費用・および牧益の発生は乙の過程のいたると乙ろに引起されているのであるから︑経営価値活動の結果を期間的に区
切って総括的に計算確定する活動が必要となってくる︒そして最後にはかく計算確定せられた経営成果を一部は介配 分として経営外に放出し︑一部は社内尚保として元入資本の回牧分とともに再び貨幣資本に還元する処分活動が必要
となってくる︒
さて以上のごとく経営には千差万別︑各種の活動が営まれているのであるが︑しかしこれらの諸活動を貸幣価値関
聯的に特定の観点より観察するとき︑それらは以上のごとき種類の価値活動として把握されてくるのである︒
しかるに経営にーおける活動理論にとって乙とに最も霊但し中広ければならない一クの問題がある口それはとれら各種
の価値活動がそれぞれに‑おいては持続的︑反表的に繰返されたがら︑全体としては前後に相連関し一クの循環過程を
形成していると一式うととである口われわれは通例にならって今乙れを経営に・おける﹁価依括勤の循環性﹂と一云うとと
ができる︒しからばかかる価値話劫の循環性は近代経営にとっては一体いかたる意味を有するものであるか︑今との
問題に答える前にわれわれはさらに経営に治ける技術括勤の過程を考察しなければ友らゑい口
( 二 ) 技術活動の回転住
技術とか技術的と一式う概念については従来学者間に色々の解釈がなされているが︑われわれはここでは簡単に技術
とは目的に対する手段と一式う解釈をとっておとう J 乙の手段位の観点から経営に治ける諸活動を観察した場合︑そこ
に拍き出されてくるのが経営話動の技術過程︑ないしは技術過程としての経営活動の問題である
D 従ってわれわれの
考えている技術活動と云うのは決して一部の学者が考えているようた物的︑機械的な生産技術過程ではなく︑もっと
広い意味のものである乙とは云うまでも危い︒
さでかくのごとき意味に‑おける技術的観点上り経営諸活動を眺めるとき︑これらの諸活動はそれが経営活動である
と云う意味においてすでに手段的性格左負わされていると云ってもよい︒何故ならば経営にとっては一切の活劫は︑
経営目的達成のための手段であるからである︒しかるにかくのごとくそれ自体がすでに手段的意義を負んでいる各種 各様の経営活動も︑それらをクぶさに観察するたらばその相互聞に沿いても千段的連関性が見出されるのである︒た とえば前述せるいわゆる﹁過程的機能﹂活動︑すなわち調達活動︑生産活動︑販売活動︑成果確定活動︑処分分配活 動についてみるならば︑調達括勤の行われるのは生産話勤を営むための準備であり手段としてであるロまた生産活勤 が行われるのはそれによって製造された製品を販売するためにつくる活動であり︑販売活動が行われるのは販売製品 の中に含まれている費治価値および余剰価値を実現し︑確定計算するためであり︑確定計算をする活動はかくして得
られた結果を処分︑分配するためであり︑処介︑︑分配の活動は乙れによって経営を維持し︑再び事業活動を開始する
ための活動である︒かくて前の活動は必や後の活動の手段として︑全体が手段性に・おいて連関し一つの過程を形成し
て い る の で あ る
︒
¥
‑
また乙れをいわゆる﹁管理機能﹂活動︑すなわち管理活動について考えてみても同じととが観察されるのである︒
一式うまでもなく管理活動はもともと労働者の実行活動を管理するため︑それより令離発展したものであり︑その遂行
過程の分析は学者によって色えに分けられているのであるが︑まや一般的には実行活動の計画をたてる活動︑実行活 動を指導調整する活動︑実行活動の結果を判定評価する活動の三つとして考える乙とができるであろう︒しかも乙れ ら計画活動︑指導調整活動︑評価活動の聞には︑やはり手段位の連関がみられるのであって︑指導調整活動は計画括 勤を手段とし計画活動のたてた計画を基礎として指導調整を行うものである︒また判定評価活動は実行活動の結果を 判定評価するのであるが︑乙の結果が招来されてくるのは一クに指導調整活動の巧拙︑合理不合理によって左右され
経営活動の循環性︑回転性︑常規性と経蛍の持続性
一 一色
経
蛍
と
経 済
二 入
てくるのであるから指導調整活動なくしては現実的には判定評価活動も成立じ難いものとみるととができる︒さらに
乙の判定評価活動はそれによって実行活勤の結果を評価するとともに︑その評価の過程によってえられた資料が手段
として再び第二回目の計画活動の基礎となってゆくととは云うまでもない︒勿論第二回目の計画活動が行われるに当
つては︑広く経営内外の未来的情勢変化を考慮に入れなければ友らないであろう︒しかしその際といえどもたゐ過去
の実行活動の判定評価が重大た要素として計画活動に考慮されてくるととは云うまでもたい︒
以上のごとく経営における諸活動は︑それがいかに千差万別のものであっても一度乙れを手段性の観点より照破す
るならば︑そのい宇れもが乙の手段位に沿いて前後に連関し︑一クの手段的過程を形成しているととが発見されるの
である口はたしてしからば近代経営に司おいては何故かくのごとく一切の諸活動が手段性に沿いて相連関しているので
あるうか︒それは別の機会においてわれわれが経営の技術構造を分析した際指摘したととろの合理主義原理と同じ原
理が乙乙でも働いているからである︒すなわち合理的な態度と云うものは元来単に目的のみに着目せや常にその目的
をいかに実現するかと云う手段に着目するのである口しかもとの手段も一個の目的に対しては一個の手段を考えると
云うがごとき単純なものではたく︑乙の手段を実現するためにさらに他の手段を考え︑との他の手段を実現するため
にさらにさらに他の千段を考えると云う風に︑常に問題を掘り下げ︑そしてとの手段の金過程を通じて最初に掲げた
目的を結局はより確実︑合理的に実現してゆくと一民う方向をとってゆくものであるからである︒近世合理主義の所産
たる近代経営において︑乙の合理主義原則が作用していたい筈はなく︑あらゆる経営諸活動が手段位において連関し︑
全体が一クの大きな過程を形成しているととはまととに当然のととであると云わねば左らない︒
しかるに技術過程としての経営活動を考察するに当って︑乙乙にわれわれが注意し泣ければたら泣い一クの重要た
問題がある︒それは元来手段と云うものは目的に対する手段であり︑目的を前提とせ守しては手段は考えられたいの
であるから︑前述せるごとく経営諸活動が手段的に相連関していると一式うととは︑とれを裏替えしにしてみれば実は
目的えには相連関していると云う乙とである︒すなわちある一クの経営活動はそれを上り下位の経営活動上りみれば
その目標︑目的となっているものであるが︑より上位の経営活動よりみればその手段たる意味を負うているものであ
かくて経営活動はかかるこ霊的性格に沿いですべてが発展的︑進行的に相連関し全体が一クの大きた目的と手段の る ︒
相交錯して進展する過程を形成しているロ換言する
4
ならばある一クの手段活動が成就されるならぽ︑その手段活動に
関する限りでの自らの直接目的は実現されたのであるが︑より上位の経営活動は乙の実現された目的を手段として自
らの直接目的を実現し︑さらにより上位の経営活動はとの実現された目的をさらに手段としてより高い自らの目的を
実現してゆくと云うように発展︑進行し︑その過程の中に自らたえや経営究極の目的が達成されてゆくのであるロ
いまとの乙とを前述せるいわゆる過程的な機能活動にづいて考えるたらば︑調達活動が成就されたと一式うととは一
応それ自体の目的が実現されたととを意味するが︑より上位の生産活動はとの実現された調達活動の目的(準備目的
)を手段としてそれ自らの生産と云う直接目的を実現し︑さらにより上位の販売活動は乙の実現された生産目的を手
段として自ら販売目的を実現してゆく︑かくて最後に経営成果の処分︑介配活動は実現された計算目的左手段として
自らの処分︑会配活動の目的を実現するのであるが︑処介︑分配活動がかくして自らの活動目的を実現すればとの処
分分配されたものを手段としてさらに第二回目の調達活動が開始されてゆくのである︒またとれをいわゆる管理的機
能の活動にクいて考えてみても︑計画活動が成就すれば一応の計画活動の目的は実現されたのであるが︑指導調整活
動は乙の実現された計画目的を基準とし手段として実践的に経営執行活動をコ γ トロールしてゆく︑とうしてとの指
導調整活動が経営管理的に自らの直接目的を実現すれば乙れを資料とし手段として判定︑評価活動が行われ︑乙の判
定評価活動の直接目的︑結果左手段としてさらに第二回目の計画樹立活動が開始され︑かかるたえざる経営活動反覆
過程の中に訟のや
Jから経営究極の目的が実現されてゆくのである︒われわれはいまとれを技術過程としての経営活動
の回転性と呼ぶととができる︒
かつて R ・ T ・りヴイシグスト
l
y はその著﹁経営管理工学﹂の中でわ可︒ Z え
g z
弓 巴
g と云う乙とを論じ︑そ
の際︑経営活動の全体を意志決定活動︑計画活動︑準備活動︑作業活動︑評価活動の五クに令類し︑経営に・おいては
たえ?との五クの活動が反一波的に繰返されてゆくものである乙とを指摘しているのであるが(註
3 )
その構想すると
経 蛍 活 闘 の 循 環 性 ︑ 回 転 性 ︑ 常 規 性 と 経 蛍 の 持 続 性
ニ 九
経 蛍
と経 済
O
乙ろはわれわれの主張に近いものがあると云ってよい.ただし彼に長ける﹁経営活動の回転住﹂はわれわれが云うご
とく技術過程として目的と手段の連関性に・おいて捉えられているものではなく︑人間行為の一般論から出発して経営
行為︑活動の分析に島工んでいるのであるから︑意志決定活動や執行活動がその回転性の連鎖の一環として入ってき
ていることを注意しなければならない︒われわれに沿いてはそもそもその出発点に‑おいて経営活動の一切は経営究極
の目的を達成するための手段活動であると云う前提から出発し︑乙の手段の世界に・おける回転性を分析しているので
あるから経営究極の目的従ってはまたその決定活動は一応乙の回転性の過程から埼外に措定され︑むしろかかる回転
住の全過程を通じてたえや実現されてゆくものと考えられている︒
{ 三 l
社会活動の常規性
次には社会過程としての経営活動であるが︑経営は物的な諸要素によって媒介せられている多数の人間の協働から
成立しているものであるから︑経営活動の一切は所詮︑かかる主体的た人間によって担いあげられている活動とみる
ととができるロ経営が学者によって屡え労働力の組織体とか︑協働休とかの規定をうけるものも乙れがためである︒
しかるに経営活動の一切が結局は主体友人間によって担いあげられて︑いるものとみるにしても︑それは決して各人が
怒意的にその欲するところに従って活動しているものとみるととはできない︒それらはすべて経営究極の目的に向っ
て秩序的︑統一的に行われるとともに︑また相互に相関聯し︑協力し合って行われているものである
. 0
しからばとの場合︑経営を構成する各人の活動をしてかくのごとく秩序的︑協働的にそれを行わしめる紐帯と怠っ
ているものは何であるか︑それはさきにわれわれが経営の社会構造を分析するに当って詳述せるごとく︑(註
4 )
そ
の経営特有の行為︑思惟︑感情の様式に外ならない︒けだしかくのごとき行為︑思惟︑感情の様式とそは集団社会成
立の契機をたすものであり︑デユルグイムの特に強調せるごとく︑かかる様式とそは集団社会の構成員に対しては外
在的なものとして一種特有の強制力︑拘束力を以て臨んでくるものであるからである︒社会過程としての経営活動と
は所詮かくのごとき行為︑思惟︑感情の様式関聯的に経営諸活動を観察した場合︑そとに把握されてくる一クのグイ
ナミックな経営括勤の態様に外たらない︒
しからばかくのごとく行為︑思惟︑感情の様式関聯的に経営諸活動を観察した場合︑実態的にそ乙に把握されてく るものは何であるか︑乙の場合乙の問題に対する解答は︑行為︑思惟︑感情の様式の中そのいやれをとるかによって
自ら具ってくるであろう︒今日経営におけるかかる様式にはきわめ・て桓え様えのものがあるからであるロ崎たとえば乙
の際われわれが行為の様式それもその中での桜能の様式のみをとってそれとの関聯において経営諸話勤を観察するな
らば︑それらは経営内に沿ける社会八刀業的話勤として把握されてくるであろうし︑またとの様式左権限と責任の様式
に求めるたらば︑そ乙には経営一四の話勤が命令と服従と報告の過程として把握されてくるであろう︒経営諸活動は それが何人によって担当実践せられているにしてもすべては経済性との関聯において遂行せられているものとみるな らば︑それは経営における思惟の様式に係わらしめて経営諾話勤を社会過程的に把握しているととを意味するものに
外たらない︒
さて経営に長ける諸活動はかくのごとく行為︑思惟︑感情の様式中そのいや
Jれを選択するかに従って実態的にいろ
いろの社会過程的た活動として観察されてくるのであるが︑しかしそのい守れの場合たるとをとわや︑と乙に共通し
てそれらの諸活動に顕現している一クの特質がある︒それはとれらの諸活動がその個えにクいては実態的にいかに様 えに行われてい上うとも︑それはそれとして絶えや常規的に繰返し行われていると云う乙とである口けだし社会過程 としての経営活動に働いているものは常に一定の様式の強制力︑拘束力であり︑との様式の命宇ると乙ろに従わない 工うな活動は所詮非集団社会的︑従っては非経営社会的な括勤として批難され︑やがては排除されてゆく迩命を担わ
されているからである︒
周知のごとく近代経営に沿いてはその機能が膨大化すればするほど︑また高度化すればするほど︑それはまずまず
部分的に細かい機能活動に分化され︑その分化された範囲内に・おいてますますル 1 チナイズ下されてゆく傾向を持つ
L
いる︒しかしていまとの傾向は経営合理化の観点よりするならばそれによって分誌の原理の持ク長所在ますます経
営話勤に発揮せしめ能率な増進せし b
てゆく意味から発したものに外ならないが︑しかし観点左かえてこの事実在社
経色活動の循環性︑回転性︑常規性と経営の持続性
経 蛍
と経 済
会学的に観察するならば︑それは経営機能の高度化に伴いそれをますます科学的に八刀析し︑そこに一定の行為の様式
を合目的々に形成し︑との行為様式の強制力によって経営諸活動を益々常規化してゆくととを意味するものと理解し
て よ
い ︒
勿論近代経営に司おける常規化の傾向はいわゆる﹁例外原理﹂と表裏をなすものであり︑また常規化される活動は比
較的執行活動の領域に多くして常規化されたい部分はそれだけ管理活動として残存し︑ととでは臨機応変︑つぶさに
あらゆる情況を判断してその都度決定し注げればならない活動が多分に存することは否定できない︒しかしたがら︑
かくのごとき﹁例外活動﹂の意味すると乙ろはその行為様式としてのプロセヂュアが例外的であると一式うにすぎ注い
のであって︑その思惟様式に沿いては常に経済性に拘束されているのであるから︑ととでも思惟的にはやはり一クの
常規性が存するものとみなければならない︒
以上のごとく今日の経営諸活動は乙れを社会学的に観察すればい宇れも何等かの様式に従って常規化されて沿り︑
決してその活動の担当者が怒意的に乙れを行うととが詐され友いようになっている︒われわれはとれを社会過程とし
ての経営活動の常規性と呼ぶととができる︒
さて以上われわれは経営活動を相異る三つの観点より考察し︑価依過程としての経営活動には循環性が︑技術過程 としての経営活動には回転住が︑そして社会過程としての経営活動には常規性が存在するととを知った︒しからば近 代経営にゐける諸活動には何故かくのごとき特怯が明確に存在し︑そしてそれはまた近代経営にとっていかなる意義
を有するものなのであろうか︒しかるに今との問題に沖合えるためにはわれわれほととで一応経営そのものの本質にづ
いて明確にして訟かなければならない D
経営そのものの本質についてはすでに別の機会に・おいて詳述せるごとく︑われわれはとれを以て﹁経済性の指導原理
の下に生産と分配の機能を継続的に遂行するととによってそれ自体の存立 l 維持と発展とをたえ宇持続的に実現して
ゆく自主自律的な経済組織体である﹂と解している︒いまとの経営の本質をととであらためて詳述するととはその場
でたいから︑乙乙での問題解明に関連して必要去る限りでの要点を指摘するにとどめるが︑経営の本質を桔成する属
性の中その最も霊要たるものの一つが持続的・反覆的た生産の組織体たる点に存するととについては今日一般に異論 は怠いと乙ろである@
けだし経営が経営としては C めて成立した端緒は︑それまで家族経済内において泊費経済と混然と結付いていた生
産経済が︑貨幣的牧益の持続的危獲得のための手段として八万離した時に初まったものであるととは否定でき危いから
である︒持続的危貨幣牧益獲得のためにはその手段としての生産もまた持続的に遂行されてゆかたければなら怠いと
とは云うまでもたい︒との生産のための組織体が経営として成立したのである︒
しかるに家業経済的段階にあってはとの経営的生産に参加する人々はほとんどすべてが経営主と血属的に連り︑所
有を同じうして泊費経済生活を営む家族であったから︑ととでは厳密注意味における分配の問題ぼ起らなかった︒け
だし経済的た意味に h おける配分とは生産に参加した者たちにその貢献の度合に応じて生産成果を配介する乙と︑すな
わち生産成果を私有的に帰属せしめる乙とであり︑私的所有権の独立性の泣い︑共有的︑共同的生活者の問には真の
意味における分配は成立しがたいからである︒従って家業経済的段階にあっては経営は持続的危生産の組織体ではあ
っても︑いまだゑ長分配の組織体であると云うととはできたかった︒乙乙では令配の問題は一民わぽ家族的た治費生活
の有機的緊密性によって打ちけされていたのである︒
しかるに乙の家業経済的経営が企業者の牧奪的た企業経済的経営を経て︑自主自律的た組織それ自体としての近代
経営にまで発展し︑ますます大規模化するに至るや︑そ乙での経営的生産に参加するものは︑今や単に家挨的な労働
者ではたく・︑所有を別にし︑治費生活を具にする多数の独立労働者が加わってきたのである@バーナードも云うごと
く彼等は自ら個人の立場に・おいて生産するよりも︑経営と云う一つの大き注組織体に結付く乙との方が︑より自らの
生産力左大きく発揮しえられ︑従ってはまた彼等の消費生活の内容をより豊かにするととができると考えるから乙そ︑
乙の経営的生産に参加するようになったのである︒しかし乙れを経営それ自体の立場よりみるならば︑近代経営はと
経 営 活 動 の 循 環 性 ︑ 回 転 性 ︑ 常 規 性 と 経 営 の 続 持 性
経 蛍 と 経 済
四
れら多数の独立所有の労働者が経営的生産に参加して・おれば乙そ︑よくその大左︑なしているのであり︑従って乙れら
多数 D 労働者の参加を持続的に維持する'ためにも︑またその生産力を積極的に仲長︑発揮せしめるためにも常に生産
成果の分配を公正且ク持続的に実現してゆかなければ友らなくなっているのである D 勿論生産成果の分配と一式う乙と
をより低い次元に・おいて直視するならば︑経営それ自体の受取るべき分配分と経営的生産に参加したものの受取るべ
き部分との割合には今日の経営技術の発達的水準を以てしては到底そ乙に明確なる科学的基準を見出すととはできや
自然両者の間に力による分配分の抗争が存在するととは否定できないであろう︒
しかしながらかくのごとき分配抗争に終始する限りにおいては経営それ自体の存立もついには重大なる危機に遭遇'
せざるをえない乙とはいまや現実の事実が滋多乙れを実証するととろである︒かくて近代経営に・おいては生産成果の
分配抗争と云うより低い次元上り脱却して経営政策的にもまた経営実態的にも漸次生産成果のより公正かク持続的な
る分配に移りククある事実を認めなければ及ら注い︒経営的分配の問題は単たる経営倫理の問題でなく経営存立のた
めの論理の問題として次第に高ミ自賞されつつあるからである︒
以上のごとく考えてくるならば︑近代経営の本質は単にそれが生産の組織体たる属性にのみ存するのでは友く︑同
時にまた︑分配の組識体たる点にも存・する乙と左認識し友ければならないとともに︑かかる生産や分配は経営にとっ
ては単に一回切りのものではなく︑持続的︑反覆的にそれが繰返され︑経営的に営まれている乙とを知らねば友らな
はたしてしからば近代経営に・おいては何故かくのごとく生産と分配とが持続的︑反覆的に行われているのであろう い ︒
か︒乙の点に関し従来の経営学理論に沿いて︑一般的に教えるととろに従えば︑八万配の問題はともかく︑経営は本来
社会のために財貨もしくは用役を生産する乙とをその職分とするが故にかかる究極目的を実現するためにとそ︑たえ
や生産を続けてゆくのであると説かれてきた︒しかしながら経営の負うている社会的職分は乙れを全然無視する乙と
はでき友いにしても︑現在のごとき私企業体制︑自由主義経済制度の下に沿いて︑経営ははたしてかくのごとき社会
的職分を究極目的としてその生産を続けているのであるうか︑われわれはかかる説明の仕方に対してはむしろ重大ゑ
る疑問をいだかざるをえない︒積極的に一式う左らぽ社会主義経済体制の下に・おいてたらいざ知らや︑私企業体制の下
に沿いては経営はもっと私経済的友︑個別経済的た目的追求のために生産をたえや続けているものと理解した方が︑
少くとも経営学の理論としてはより妥当するのではたいかと考えるのである︒われわれは社会的職分と云う美名の下
に私企業体制下における経営を仮空的な下僕たらしめではたらない︒
かくしてこのようた私経済的た考方からして経営の究極目的を求めた場合通常そ乙に掲げられてくるものは利潤の 追求︑余剰価値の生産と云う究極目的である︒そして経営は
C の利潤の追求をそれ本来の目的とするか︑あるいは少
くとも究極に沿いてはそれに奉仕する乙とを使命とするものであるから︑そのためにとそ日常たえやノ生産を持続的︑
反覆的に繰返し行っているものであると説く考方である︒しかしたがらとのよう伝説に・おいては経営目的は一応私経
済的たものに切替えられ︑しかも経営それ自体の利潤と云う上うに経営目的が組織それ自体の目的に置かれてきてい るとは云え︑たおわれわれの抱懐する経営の本質観とは可成り恒りのある乙とを指摘せねばたらたい︒勿論今日の経 営はそのすべてが貨幣経済制度の上に存立しているものであるから︑いかたる経営といえどもその生産成果はすべて
貸幣価値の形においてとらえられ︑営利経営は勿論のとと︑いわゆる補償経営に・おいでさえも何等かの形において余
剰価値の残存保凶を企画しなければ友ら注いであろう︒しかしながらかか.る経営の本質観に沿いては余剰価値の獲得
そのものに究極目的がおかれ︑そ乙で問題がそのままに停止されている︒重要な乙とは乙乙でさらに経営は何故かく のごとき余剰価値の獲得をたえ宇企画し︑それ故に乙そまた生産を続けているのであるかと云う問題えのより深い掘
下げである︒
乙の時われわれの脳裡に直ちにひらめいてくるものは経営構成員︑より広くは経営的生産に貢献した人々の福利︑
利益と云う考えである︒すたわち経営はとれらの経営貢献者にその余剰価値を分配し︑彼等の福利に奉仕するために
たえ宇生産を続け余剰価値の獲得を続行しているのであると云う考方である︒乙れはさきにのペた社会公共の利益︑
国民経済的な福利と云うととに沿いていた怪営の目的観を︑まさに経営社会の利益︑経営経済的危福利と云うととに
畳替えた考方である D しかし乙の上うた経営目的観に・おいては経営的分配理論えの重要なる礎石を準備しているもの
経蛍活動の循環性︑回転性︑常規性と経蛍の持続性
五
経
営
と
経
済一 六
とは一式え︑なな経営を以て経営構成員︑ないしは経営貢献者の利益のために奉仕する単なる手段と考え︑経営それ自
体の重大な主体性を忘却していると云う点に沿いてにわかに組する乙とができないものと一式わねばなら友い︒
以上のごとく考えてくるならば︑今日経営の究極目的とするととろはむしろ組織それ自体としての自ら存立
l l
維
持と発展にあるものと考えられ︑なければならたい︒今日の経営が何等かの意味に沿いて余剰価値︑余剰牧益の獲得を
たえ宇企てているのも︑一部は乙れを社内凶保する乙とによって直接的にその設備︑機構を増強し︑一部はとれを経
営的生産に貢献する者たちに分配する乙とによって︑一式わぽ間接的に組織それ自体としての生活力を高め経営の維
持︑発展をはからんとする目的意図に出ているものと解さ友ければならない︒生産成果を分配し︑貢献者の福利を増
進する乙とそのことが究極的な経営目的をなしているのではなく︑かかる貢献者の欲求するととろを組織体としての
経営それ自体の欲求として内に包摂し︑乙の貢献者の欲求を充足するととを通じて︑究極的には経営自らの欲求︑維
持と発展と云う目的を実現しているものとみ︑広ければならない︒逆に云う左らぽ︑かかる究極目的のために乙そ経営
はたえやノ余剰価値の獲得にクとめ︑そして乙の余剰価値獲得のために持続的︑反覆的に日常の生産活動を続けている
の で
あ る
︒
いまとのように経営の究極目的を組織としてのそれ自体の維持発展と云う点に求めんとするわれわれの理解は従来
の経営学の通説的危理解からすれば全く逆の立場にたっていることを知らねばならない︒何故なれば従来の通説は経
営究極の目的を給付生産ないしは余剰価値獲得そのものに置き︑それがための手段的な場としての経営を考えていた
のに対し︑われわれの理解にあってはむしろ組織体としての経営それ自体の維持︑発展を究極目的と考え︑給付生産
や余剰価値の獲得はかえって乙れがための手段︑手段活勤として考えているからである︒
けだし一般に組織と一式うものはそれが作られた最初に・おいては何人かの︑あるい位何等かの外在目的のために存在
し叉その意義主発揮しているものであるが︑その後乙の組織がそれ自体として次第に制度化し︑都迭を持つようにな
るとこの制度や構造がかえって固定化し容易にこれを改変︑破却することはでき‑なくなり︑たとえその組繰が最初の
創設者の意図した目的とはかなりかけ離れた存在となってしまっても︑組織そのものは次第に自主自律化し︑それ自
体としての存立ーーー維持と発展をはかつてゆくようなものに進化する性質を持っているからである︒発達史的に去っ
て経営もその原初的な在在に・おいてはそれを創設した家業主あるいは企業者の利潤獲得の場としてとの獲得をとそ経
営はそれ自らの目的としていたのであるが︑近代経営に・おいてはいわゆる資本と経営の分一離の結果︑経営組織はまず
まず自主自律化し︑余剰価依獲得のごときもかえって組織体としての経営そのものを維持し発展せしめてゆくための
手段として遂行されると云う風に目的転換をきたしているのである︒
四 さて以上われわれば前節に沿いて経営ととに近代経営は組織としてのそれ自体の維持︑発展すなわち存立を確保し
てゆく乙とを究極目的としている組織体であるととを明かにした︒存立とか持続と一五うととは単に現在的伝一点にあ
る乙とではなく︑時間的に云えばそれは過去の経営活動の集約結果たる現在を︑いろいろ重要た点に沿いてそれと全
く具る未来の目的実現の状態え︑たえや方向やけ統制してゆくと云うダイナミッ力んた在り方を意味するものであり︑
また乙れを空間的に云えば単に個体経済としての実体を具備していると云うがごとき単純たものでは泣く︑経営内外
のあらゆる状況(盟百三
5 3
との関係に沿いて内延的︑外延的な拡がりと深さとを持った存在の仕方をとっていると とを意味するものである︒勿論グルコット・︒ハ 1
ソγ ズも規定するごとく(註
5 )
との内外の状況にはこつのものが
考えられうる口すなわちその一つは経営がそれに対して全く支配権を有せ宇︑ただ与えられたものとしてそれに対応
してゆく以外には途のない状況︑すなわち経済学者のしばしば指摘する所与件︑ L A J
件 (
わ ︒
ロ ハ
富 山
︒ ロ
ω )
と称するものと︑
もう一つは経営がその究極目的との関聯に沿いてそれを合目的ぺ合理的に変更したり︑あるいは一変化するととを防 止したりすることのできる状況︑すなわち︑手段(宮
g ロ
ω ) または所作件と称しうるものとのこクがあるととは云
うまでもない︒しかしいやれにしても経営はこれらの所与件や所作件との複雑怠る関係に・おいでその存立︑持続を実
現してゆく一つの組織体たる点にその特質の存ずる乙とはいまや明白である︒
しからば本質的にこのような特質を有する経営の存立性︑持続性を支えているより現実︑具体的た諸条件とは一体
経蛍活動の循環性回転性︑常規性と経営の持続性
七
経
蛍
と経 済
入
いかなるものなのであろうか︒問題を乙のように上り具体的に掘り下げ上うとする場合︑われわれが乙とで注意しな
ければならたいことは︑そのような具体的︑現実的諸条件と云う乙ととたれば]それは経営そのものの歴史的友︑発 展段階に応じてそれぞれ異ってくると云うこ主である︒そ乙で経営そのもの歴史的友発展段階をいかに分けて考える
かと云う乙とになるのであるが︑乙こでの問題解明に必要たる限りに‑おいて最も簡明に考える注らぼ︑それは近代経
営と近代以前の経営︑換言すれば近代資本主義経済成立以後の経営と資本主義経済成立以前の経営とのこつに令けて
考察するのが最も便利であると云えるであろうロ
あらためて一式うまでもなく前近代的経営とは学者のいわゆる家業経済的経営ないしは工業ならば手工業経営が︑そ
の設も典型的なものであるが︑今かかる経営の持続性を経営外的に支えていた最も基本的及第一の条件は何を・おいて
もそれまでに見られなかった貨幣経済制度たらびに社会的介業の成立と云う乙とであったと一式わねば注らない︑けだ
し家業経済的経営の出現は営利の自己目的化と一式う乙とに出発するものであるが︑かかる営利の自己目的化を可能な
らしめたものは実に貨幣経済制度と社会的介業の成立に外なら︑なかったからである︒しかしながら経営の持続性を支
える外的な与件としての流通社会と云うものは何も前近代経営のみに特有のものではなく近代経営に沿いてもそれを 前提としているものとすれば︑前近代経営に特有のものとしてはわれわれはむしろその流通社会に根強く存在してい た伝統︑慣習︑特権の力とそが当時の経営の持続性を支えていた第二の重要なる与件であったととを指摘しなければ
ならないのである︒
けだし前近代経営に・おいては生産は一般に注文生産の方式によっていたものであったが︑かかる注文生産は一度そ
の経営の声価が高まったり︑あるいはその経営の主人公との人格的た面識︑つながりができると︑その後その製品が
いかに改変されても依然として暖簾が伝統化し︑個人的面識が慣習化してその経営の生産従ってはまた経営そのもの
の持続性を支えていたことは否定すべくもない事実であったからである︒流通社会はそれほど平穏であり且つ保守的
ったのである︒勿論当時の流通社会といえども刻一刻と自由主義的左近代社会に近付きつつあった時代であるから競
争と云うととが皆無訟のではたかったロしかし訟がらこうした競争者の出現に対しては宗教的︑政治的権力に工って
保護され特権化されたギルドが存在し︑乙の強力な特権組位以と結付くことによって当時の経営はその存立︑持続性を
支えられていたのである白
またとれを経営内的た条件にづいてみても前近代経営がその持続性をかちえた設も原初的た条件は営利の自己目的 化とともに︑そのための生産手段が一応家庭経済用のものより分離独立し︑生産経済用のためのみに専属︑固定化し たと云う事実であった︒けだし生産用の仕事場︑用具︑材料たどのごときものが︑家庭生活用のために混用されてい
たのでは︑生産活動は阻害中断されてその継続性は保障されやノ︑ひいては経営そのものの持続性はありえないからで
あ る
しかしながら前近代経営の持続性左経営内的に支える条件としての生産諸要素の専属︑固定化と云う乙とは︑経営 ︒
学的論理としてはその意味すると乙ろきわめて重要なものがあるにしても︑中広治それは実際上の力としてはいまだ絶
対的のものとみる乙とはできない︒何故ならば乙乙での分離独立はいまだ完全なものでは危く︑多分に家庭経済︑家
族経済と密接たクたがりを持って居り︑むしろ乙のクたがり乙そが前近代経営の持続性を積極的に支えていたものと みられる向が多分に存するからである︒しかして今その最も顕著な適例としてわれわれは前近代経営における労働力
と所有支配の事実をあげるととができるロ
一式うまでもたく前近代経営の労働力はそのほとんどすべてが家庭と云う一クの組織体より供給されていたものであ
るが︑乙の家庭と云う組織体はそれ自体が家長左中心として全家族が血属的な自然関係によって結ぼれている強靭た 組織体であるのみたらや︑会家族の個人的な治費欲求はそのほとんどすべてが乙の家庭を通じてにあらざれば充足す
る乙とのできない場であったから︑・家長権左中心としたとの︑組織体の持続性はきわめて強固なるものがあったと云わ
たければたらたい︒かくしてその労働力の供給源をとの家庭と云う︑強力た組織体に求めえた前近代経営は︑家庭にゐ
ける血属的なったがりと︒ハトリア 1 カリズムとをそのまま経営内に持込むととができたのであり︑それだけ経営その
ものの持続性をこの強力な血属関係によって支えられたのである︒
また乙れを前近代経営の所有支配と一式う内部関係からみてもこうした経営そのものの所有支配は直ちに家庭生活に
経営活動の循環性︑回転性︑常規性と経告の持続性
九
経 営
と経 済
四 O
治ける所有支配をそのまま表替えしにしたものとみることができる︒しかして︑今との家庭生活に・おいては血属的た
世襲制度が連綿として続けられており︑乙れをそのまま持込んだ経営に沿いては新経営者は前経営者の債権︑債務を
承継するのみ左らや︑その経営と支配をも同時に承継して変えるととがたかったのであるから(職業世襲主義)前近
代経営の持続性は一世代のみに限らや︑数世代の永きにわたって保障せられていたものと云えるであろう︒
乙れを要するに前近代経︑営ば伝統と慣習と特権にみちた比較的平穏な流通社会を前提とし︑ギルドとか家庭と一式う
強力な組織体と結付き︑それに同一体化するととによってその持続性の諸条件をかちえていたのである︒
しかるにその後産業革命の過程をへて近代的た資本主義経済が成立するや︑前近代経営の持続性を経営内的︑外的
に支えていた多くの諸条件には豆大たる変化をきたさざるをえ喝なくなったロ伝統と慣習と特権にみち︑比較的平穏を
続けてきた流通社会比ますます発展拡大するとともに古きものを破つての自由競争がますます激化するととろとなっ
た︒ギルドは崩壊し︑家庭経済は完全に介離して消費経済の組織と化し︑前近代経営はその持続性を支えていた多く
の諸条件を喪失もしくは改変せしめられざるをえ友くたったのである︒しからばかくのごとき経済的︑社会的状況の
発展変化に応じて生れ出てきた近代経営は︑はたしてそれ自体の存立︑持続性の諸条件を一体何に求めたのであるう
︐ 刀
と の
点 に
関 し
フ 一
フ
Y ツ・ミユ一フ1は近代経営の持続性を支える諸条件として次のごとき諸点をあげている︒(註
6 ) 一︑労働者の所有疎外近代社会に沿いては労働者は生産手段の所有から疎外されているため︑経営と云う持続的
た組織から離脱する自由を制限されている︒
一一︑生産過程の機械化生産過程の機械化によって生やる固定費の増大は︑必然的に経営の間断なき継続を要誇す
る ︒ 三︑労働の特殊化︑標準化生産過程の機械化とともに︑労働の特殊化︑作業方法治上ぴ施設の標準化が行われ
る︒その結果︑個々の労働者の代替性が高められるので︑経営の持続性のために必要友労働の予備性が増大し
て く
る ︒
いまフラ γ ツ・ミユラ 1 の乙の指摘すると乙ろは近代経営の持続性を支えている諸条件のうちその重要たるものに 触れているとは云え︑いまだたゐそれはあまりに断片的た考察にすぎ注いものであり︑近代経営の持続性を支える諸
条件を経営の内外にわたって綜合的に分析し︑休系やけたものと一式うことはでき訟い︒
労働者の所有疎外と云い︑労働の予備軍化と云い︑それらはたしかに近代経営の持続性を支えている最も重要注る 条件の一クではあるにしても︑近代経営はただ労働者のみによって持続性を保障されているのではない︒また生産過
程の機械化による固定費の増大化と云うととはたしかに経営をしてコスト以下においても生産と販売を余儀たく継続
せしめるど云う意味に沿いて経営の持続性を一時的に支える一つの条件であると云うととはできる
D しかしそれは結
局期間の問題であって絶対的友条件ではありえたい D
それよりもその前にわれわれは生産過程の機械化と云う
ζ
と そ
の乙とが技術的に近代経営の持続性を積極的に支えている意味を考察したければ段ちたい︒
かく考えてくるとき近代経営の持続性を経営外的に支えている第一の基本的条件としては︑われわれはまや販売市
場︑原料市場︑労働市場︑浜本市場など各種流通市場の発達と整備と一云うととをあげねば注らないであろう︒何故な
らば経営の持続性を確保するためにはとりあえやその経営の給付する財貨危り用役なりに対して︑たえざる需要の存
在するととが必須の条件であるが︑前近代経営に・おけるごとき需要者の近親さや慣習を喪失した近代経営に沿いては
価格の騰落を通じて潜在する社会的需要を顕在化し持続的な有効需要たらしめる販売市場の発展訟くしては︑それを
確保する乙とは不可能であるからである︒
また販売の持続性を確保するためには生産の持続性が保たれたければなら歩︑生産の持続性が保たれるためには生
産諾要素調達の持続性が保障されていなければ注らないことは一式うまでもたい︒資金︑原材料︑労働力などすべてし
かりである口との点かつて家族経済と密接に給付いていた前近代経営に沿いては家族経済的た私有財産や家族労働が 乙の供給源としての持続性を保障していたのであるが︑しかしかかる中世的危基盤との連繋を喪失した近代経営に沿
いては調達市場との経済的た連りによってとれら生産諾要素調達の持続性を確保し‑泣ければならたくたっているので
あ る
︒
経色活動の循環性︑回転性︑常規性と経営の持続性
四
経 営
と経 済
四 経営外的に近代経営の持続住を支えている第二の条件としてわれわれが指摘せねばならないのは経営をあぐるいわ ゆる利害者集団の成立と云う乙とである︒利害者集団とは云うまでも怠く︑ある特定の経営に対して利害を共通にす るものが集って一つの集団を組織し︑経営に対し自らの利害を擁護せんがために出現したものと理解されている︒か
かる意味に・おいてそれはどちらかと云えば自己防衛的なものであるが︑しかし利害者集団は常に必やしも特定経営に
対し自らの利益を獲得しさえすればそれでよいと云ったような独善的なもの詐りに限るのではない︒否自らの利益を 護らんとするが故にとそ特定経営の維持と発展に対しては常に積極的た協力援助を惜しまたいものであり︑経営がそ れ独自の力のみを以てしては︑まさに破綻の運命にある場合︑利害者集団が援助してその存続を支える実例は決して
乏しくないのである︒
近代経営の持続性を経営外的に支える第三の条件としてわれわれは次に政治的危安定と進歩と云うととをあげうる であろう︒前近代経営にあってはその社会的生活構造は大体都市経済の領域に限られ比較的安定を保ちえていたので
あるが︑近代経営にあってはその社会的生活構造は国民経済的規模︑いな国際経済的規模にまで拡大されるに至って
いる︒それだけに乙の領域に働きかけてくる一国経済政策︑産業政策︑財政政策︑労働政策︑外交政策などの政治的 要素がたえや安定的︑進歩的なものでたければその下に存立する経営の持続性は保障されえ友い︒国家政治政策の急 激たる変更︑あるいは一偏倒的な独善さが特定産業経営の浮沈を左右する場合のあることはわれわれの身近き経験に
沿いても数多く乙れを見出すととができるからであるロ
さて以上われわれは近代経営の存立性︑持続性を経営外的に支えている三クの条件をあげたのであるが︑しからば 経営内的にとの存立性と持続性を支えている諸条件には一休いかなるものがあるであろうか︒すでに述べたるがごと く近代経営をとりまく経営外的諸条件はきわめて広範にわたるのみたら宇︑そとでの変動は常に激甚であるのである から︑近代経営は経営内的にその陣容を国めて長かなければその持続性を確保することができない︒かくして近代経
営の持続性を支える諸条件の問題はむしろとの経営内的な条件惑備にかかっていると云っても決して過一一一日ではないと
さえ云えるのである︒尤もと乙で経営外的とか経営内的とか一式う場合︑その区割は一見考えられているほどに明瞭な
ものでないことは注意されなければたらない︒意外にも法律的友所有概念が絶対的な支配住をしめてきた従来の経営
学に沿いてはこの所有を基準にして経営の所有に属するものは経営内的︑その所有に属せざるものは経営外的と一式う
区別をたててきた︒資本中心の経営本質観がすたわちとれである︒
しかしながら近代経営の実体左経済学的に把握せんとするものにとっては︑むしろ所有概念を基準とするよりも支 配概念を基準として経営の内外在わける乙との方が︑工り適切であると思われる︒ずなわち経営が合目的にその支配 によって左右しうるものなればそれはすべて経営内的な条件であり︑逆にその自由たる支配力が長工ばたい条件なら
ばそれは経営外的なものとみなければならないものであるう白
従ってたとえ法的に経営の所有に属さないものであっても︑自由なる経営の支配力の訟工ぷ範囲はやはり経営内的 な領域であると理解すべきものである.チェスグ1
・ パ
1
ナl
はその﹁経営者職能論﹂第七五頁において(註 F
7 )
﹁組織とは︑人間の力の届きおよぶ一定の範囲︑領域を云うのであり︑そがは︑あたかも自然科学に沿いて引力国
会豆島えぬ
3 1 q )
とか︑電磁気圏(丘
2 ]
円
OBω mH MO Z0 20 5)