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乳飲み子の倫理と未来世代への責任

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乳飲み子の倫理と未来世代への責任

清 水 俊

TheEthicsoftheNewbornandRegpongibilityofthermureGeneration

ShimizuShun

Abstract

HansJonassuggestsaboutaconceptcalledtheethicsofthenewborninmhe jh2PeI9a〃 OfEZhjbsJHeinsiststakingcareofthenewbornisthearchetypeof responsibility;andwecandevelopethicsofthenewbornintoethicsofthefUture・

HoweverfUturegenerationsdon,trespondtoouractdirectlyBWeneedtoreducethe personalresponsibilitytofUlfillourresponsibilitiesfbrfUturegenerations・Howto practicetheresponsibilityfbrfUturegenerationswillbetheassignmentfbrus.

ハンス・ヨナスは、DasB?、 距顕"twnrtung(邦題『責任という原理』)において、

責任を軸とした、新しい倫理の必要 性を説いた。

集団的行為の領域では、存在者、行為者、行為、そして結果は、今では近接 領域の場合と同じではない。集団的行為の領域は、その巨大な力を通して、新 しい、従来夢にも見なかった責任の次元を倫理学に押し付けてくる。(PV;S、6:

P 、 1 4 ) i

ヨナスによれば、科学技術文明下で、人々は行為の力を増大させてしまった。集団的 な行為の力は、われわれ自身を大きく傷つける力をも持ってしまった。そのために、従

来の倫理学では対応できない領域が生じた。直接人を傷つけるだけではなく、環境を破 壊することや遺伝子にまで立ち入るような医療の発達により、人間は存続すら危ぶまれ るようになった。これまでの相互的な関係性を重視する倫理学では、人類の存続を守れ ない。今現在生きている人々だけでなく、未来の人々の存在が保証されなければ、人類 という集団が維持されることにはならない。そして現在われわれの行う行為は、未来世

代の人々にまで影響の及ぶものなのである。

例えばフロンガスは大気中に放出されると、時間をかけて上空に達し、オゾン層を破

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壊する。フロンガスを使用していない世代が、フロンガスによる被害を受けることにな る。化石燃料の消費や土壌汚染、放射能汚染など未来世代を脅かす問題は人類にとって 山積みである。しかし未来世代は、現代世代に直接要求を訴えることはできない。また 現代世代が未来世代のために努力をしても、現代世代には何の見返りもない。このため 未来世代の存続を守る倫理は、相互,性を必要としない新しい倫理学でなければならない

とヨナスは考えた。

ヨナスは責任を原理とした倫理学を構築するに当たり、形而上学から基礎付けされた

倫理学理論の必要 性を感じていた。それは、「どうして人間が世界に存在しなければな らないのかという問いを立てられるのは、形而上学という領域のみである」(PV;S、8:p・

iv)からである。ヨナスは存在が存続することを善と考え、そのために存在は積極的に 存続のための努力をすると考えた。その形而上学によれば、存在はより永く存続しよう

とし、種(Art・形相)もまた自らエゴイズムを押し通して存在の幅を広げようとしてい

る。人間は自由意志により存続に反した行為を選択しうるが、倫理の呼びかけがそのよ

うな選択を押しとどめることになるとしたのである。

このようにヨナスは形而上学から、「存続」を原理としているともいえる倫理学理論

を導き出している。しかしヨナスはさらに、責任という概念をこの倫理学の軸にしよう とした。ヨナスは、責任を人間がもともと有している倫理的な機能として考えた。『責 任という原理』においてヨナスは、責任が人間にとってどのような役割を果たすものな

のか、なぜそのような機能が必要であったのかを説明しようとした。そしてヨナスは、

乳飲み子の世話をするときに相互性によらない最も根源的な責任が現れるものと考え、

「乳飲み子の倫理」と呼ばれる理論を用いたのである。

乳飲み子の倫理は未来世代への責任のひな形として、特に環境倫理学において紹介さ

れることが多い。例えば以下のようである。

ヨナスによれば世代間倫理の原型は「赤子に対する責任」である。赤子は弱 い存在であり、われわれにその存在を依存している。われわれはそのような存 在に対して責任がある。一方、未来の人々の状況もわれわれ次第で変化する。

このような形で未来世代の人々の在り方はわれわれに左右される。つまり赤子 がわれわれに依存するのと同じように、未来世代の人々はわれわれに依存して いるのである。(鬼頭2009,p、87‑8)

未来世代をいかにして守るかという議論において、ヨナスの理論は未来世代に対して 責任を果たすためのわかりやすい根拠を有しているように見える。われわれは赤子が弱 いからこそ世話をするのであり、未来世代も同様に弱い存在だと考えれば、われわれが 彼らのために責任を果たすのも妥当だと考えられるのである。しかし上述したように、

乳飲み子の倫理はヨナスの形而上学理論との兼ね合いから必要となった議論である。

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ヨナスの形而上学は、存在がなぜ存続するのかという問いから始まっている。そして人 間が存続するうえで、責任が重要な役割を果たしているとしている。この形而上学を無

視して、世代間倫理に関する責任の役割だけが参照されることは不適切である。

ヨナスは、乳飲み子に倫理的に振る舞うのだから未来世代にも同様の対応が可能だと 単純に論を進められるわけではない。本稿ではヨナスがどのような意図で乳飲み子の倫 理を論じ、彼の倫理学理論の中でどのような位置づけがなされるものであるのか、世代

間倫理へと至る議論も含め、どのような問題点が指摘できるのかを検討する。

I・乳飲み子の倫理

ヨナスは責任を原理とした倫理学を確立するためには、大きな障壁があると考えた。

その一つが、責任という概念が倫理学において担ってきた役割の軽さである。これまで

責任は倫理学において重要な役割を与えられてこなかったばかりか、責任を果たすこと

は極力避けようとされ、時には完全に回避可能であるとさえ考えられてきた。

このことについて、ヨナスは次のように述べる。

責任は、どちらかというと魅力に乏しい様相である。しかも上流社会におい ては、ある種の道徳的で心理的な不評を買っている。よってわれわれは、ここ

で再び「責任」のために語らなければならない。(PV;S、390:p、385)

責任が果たす役割については、人々はある程度認めてきた。しかし個人的には、でき るだけ責任を引き受けない方が良いと考えるのも自然である。またヨナスは、特に上流 社会の人々にとっては、自由な行為を認められながら同時により責任を引き受けないで、

より幸福が増大させようとしていると考えた。

われわれは義務に対しては、無条件にある程度それに従うべきと感じる。義務は生ま れながら課せられるものであり、社会生活を幸福に営んでいくうえでの払うべき対価と

考えている。

ヨナスは義務について、以下のように述べている。

未来の人間からは、彼らが存在しなくなることや非人間化することへの同意 を取りつけることはできないし、こうした同意を想定してもならない。万一こ んな想定をしようものなら(これはほとんど狂気の沙汰だが)、きっぱり拒絶し なければならない。なぜなら、人類が存続し続けるのは人類にとっての無条件 の義務だからである。(PV;S,80:p、66)

どのようなことがあっても人類が存続するための行為を選択することを、ヨナスは義 務だと考えている。しかしヨナスは、義務によって全ての問題が解決できるとは考えな

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かつた。義務を遂行するためには、それ自体としてよきもの(An・sich・Guten)からの呼

びかけに意志が応え、実際の行動に移そうとする責任の感情がなければならないとした。

(PV;S、162:p、152)義務は責任感情が果たそうとする行為の後ろ盾となり、義務にかな

った責任行為を意志に選択させるのである。

しかし責任に関しては、それが生得的に課せられるものなのか、人間によって生み出 された取捨選択可能な機能なのかがわかりにくい。責任を果たすべきと考えられる状況 でも、人々は責任を果たさないことが可能である。義務とは違い、責任を果たさないこ

とによって直接大きなペナルティが課せられることは少ない。責任は「果たさなくてい い」と考える人に対して、非常に拘束力の弱い概念なのである。

このように責任があいまいな概念のままでは、責任を原理とした倫理学を構築するこ

とはできない。ヨナスには、責任の出自や本質を明らかにしなければならない理由があ

ったのである。ヨナスはそのために、責任がわれわれにとって最も顕著に表れるような

場面を考えた。それが、親が赤ん坊に対して接する場面なのである。

赤ん坊(Neugeboren)iiが息をしているだけで、否応なく「世話をせよ」とい う一つの「べし(Soll)」が周囲に向けられる。見てみれば分かるだろう。私は

「否応なく」とは言うが、「抵抗なく」とは言わない。なぜならば、どのよう な「べし」でもそうだが、この「べし」も当然抵抗を受けるからである。(Pv;

S 、 2 3 5 : p , 2 2 3 )

赤ん坊が困っている状況に出会うと、われわれは世話をしなければならないと思う。

それは必ずしも好意的にというわけではないし、結果的に何もしないことも有り得る。

しかし見返りを求められないはずの赤ん坊に対し、「何かしなければならないのではな

いか」と考える時点で、われわれに「べし」が発生しているのだとヨナスは考えた。こ

の「べし」は、われわれの責任感情に訴えかけ、責任行為を選択させようとする。しか

し我々の意志は、この「べし」に対して抵抗することができる。この「べし」は周囲の 誰かに対して世話をすることを求めるが、それが特定の誰かである必要はない。そのた めに「他ならない私が」背負う義務ではなく、「私を含めた周囲の人々が」求められる

責任と言えるのである。

ヨナスは乳飲み子に対する責任を、責任の原型だと考えた。相互に責任を取り合う関 係ではなく、弱いものを助ける不平等な関係こそが、責任の出発点だと考えたのである。

もし飢えている乳飲み子に何もしなければ乳飲み子は死んでしまう。われわれはそれを 行なわないという力も持っているが、それは乳飲み子を殺すことになり、避けなければ ならない事態である。そのため「他者はこの文脈では完全に責任を負うことになる。こ れは、隣人の窮状を前にしての人間共通の義務以上のものである」(PV;S,241:p、229)

とヨナスは主張する。目の前の乳飲み子を守るということは、人間の存在を守ることで

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もある。存在が存続することを最も基本的な価値だとするヨナスの形而上学においては、

最も弱い立場の人間である乳飲み子を守ることは、「人間にとってありうるすべての責 任の中でも第一の、もっとも基本的な責任」(ibid,:同上)なのである。

さらにヨナスは、未来世代に対する責任も乳飲み子の責任を原型として考えることが できるとした。弱き存在を助けるという意味で、現在世代が未来世代のために責任を果 たすのも、多くの人が乳飲み子に対して責任を果たすのと構造的には同じだと彼は考え

たのである。

責任は、物事を永遠の相のもとに見るのではなく、時間の相のもとに見なけ ればならない。乳飲み子の例は、明白さと内実の点であらゆる責任の原型であ るばかりでなく、同時に責任の萌芽である。責任は乳飲み子から、しかるべく 他の責任の地平へと広がっていく。(PV;S、242:p、230)

ヨナスは、存在は存続しようとする、種が自らの種を存続させようとするとする形而 上学を展開している。そこではなによりも、存在が存続しつづけることに価値があると される。われわれが乳飲み子の世話を焼こうとするのは、困窮する存在を助け、その存 在の存続を手助けするためであると考えられる。その意味では乳飲み子に対する責任行 為も未来世代に対する責任行為も、存在の存続に寄与する行為であるという点で同種の

ものなのである。

Ⅱ.「望み」と倫理

しかしこのようなヨナスの議論に対しては、以下のような批判がある。

というのは、ヨナスのいう「責任」(もしくは「義務」)がこの種のものであ

るとすれば、私は未来世代の人々に対しては、責任を負っていないということ になるからである。私が責任を負っているのは、あくまで私の子どもに対して であって、孫や曾孫に対してすら私は責任を負っていない。(中略)さらにこ の 理 屈 か ら い く と 、 子 ど も が い な い 人 や 、 子 ど も を 産 む こ と を 望 ま な い 人 た ち は、未来の人びとに対する責任はもとより、あらゆる責任を逃れている。(笹

津2003,p、110)

この見解には二つの誤解が含まれている。一つには、ヨナスは親子関係と限定して乳

飲み子に対して責任感情が生じるとはしていない。たとえ自分の子供でなくても、困っ ている乳飲み子がいれば助けなければならないと思う、そして多くの人が行動するであ

ろう、というところに責任の原型を見ている。自分の子どもなので世話をする、という

ことは原型としての責任から少し進んだ、利害関係に左右される場面での責任である。

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また、ヨナスが重視しているのは存在の存続であり、さらには人間という種の存続であ

る。子どもだから世話をするわけではなく、子どもが未来へと種の存在をつなげていく

存在だからこそ、われわれは無償の世話をいとわないのだろう、とヨナスは考えている。

その意味では対象が孫であろうと曾孫であろうと同様の責任感が生じるはずである。ま た自分の子どもがいない人は人間という種の存続を蔑ろにしているわけではなく、他者 の子どもだからと困窮したままに放置することを良しとするわけではない。

倫理においては個人が何をしたいかではなく、個人が何をすべきなのかが問題となる

ものである。もし倫理が個人の要求をそのまま支持するものならば、自ら悪をなそうと する人の行為を止めることができないことになる。倫理はそのようなしてはいけないこ

とをしようとする人に対して、してはいけないことを主張し、結果その行為を選択させ

ないような強制力のあるものでなくてはならない。乳飲み子に対して奉仕するのが善い ことであるかどうかが問題なのであって、それを望まない人がいることはそれが倫理的 でない証明とはならない。むしろ、乳飲み子に対する奉仕が善いことであるとすれば、

それを望まない人がいることこそが、倫理が介入すべき根拠となる。万人が当たり前に なしていることに対しては、倫理はなすべき役目がない。逸脱する人がいて初めて、倫 理的判断が重要になるのである。

また、「望まない」という表現も問題である。このことが批判となる為には、人々誰 しもが望むこそが倫理的であると言えなければならない。しかしそれでは、乳飲み子の

倫理に限らず全ての倫理学の理論が成立しないことになってしまうだろう。

「望み」に関しては、ヨナスは別の位相での訴えかけをしている。乳飲み子に対して

無償の奉仕をしようとすることは、多くの人が自然とそうしてしまうものとして説明さ

れている。たとえあなたがしたくないと思っていても多くの人はしようとしているでし ょう、そこに責任の原型が見えるでしょう、というのがヨナスの主張である。「私がし

たくない」からと言って「だから善いことではない」とは言えない。また逆に、人々が

したいことが倫理であるとは限らない。また、「私はそうしたくないが、そうするのが 善いと知っている」という場合もあり得るだろう。自らの子どもを望まない人が、人々 が子どもを産み育てる営み自体を否定するわけではない。また、もし「子どもの世話を したくないので子どもを生みたくない」と考えている人がいれば、その人は「子どもが いれば世話をしなければならない」と考えていることになる。つまり、この人は「子ど

もの世話をすべし」という当為を受け入れている。iii

「望み」が問題となるのは理論の段階ではなく、実践の段階である。人々は善いとわ かっていることでも全て積極的に行うわけではない。乳飲み子が放置されてしまったと き、それを救い得た人たちはそうすることが望みだったということによって免罪される ことはない。しかし、乳飲み子がより多く救われるためには、乳飲み子に手をかけたく ないという望みが、責任を果たすべきという当為によって抑制される必要がある。乳飲 み子の世話を望まない人にも世話をすべしと訴えかけるのが倫理学の役割であり、世話

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をしたくない人の望みに配慮して乳飲み子に対する責任は存在しない、などと断ずるの は倫理学の不要を意味する。

Ⅲ.乳飲み子の倫理から未来世代への責任へ

ここまで見てきたように、ヨナスが乳飲み子の事例から強調したかったのは「個人と しては抗い得るにもかかわらず、多くの人が責任を果たすという現実がある」というこ

とであった。確かにここには責任の原型と呼べるものが見出せ、ヨナスの意図するとこ

ろは達成されていると言える。

しかし、ヨナスが訴えたかったのは「未来世代への責任の原型としての責任」である。

ヨナスは、未来志向性の責任行為が現に存在することを示し、未来世代に対する責任行 為も同様のものとして実現する可能性があることを主張しようとした。ヨナスはまず、

乳飲み子に対する責任の在り方を見ることにより、人工の道具ではなく責任性から導か れる生得的機能としての責任を探り出そうとした。この点に関しては、乳飲み子の倫理

が突破口となっていることは確かである。しかし、乳飲み子の倫理から未来世代への責 任に至るには長い道のりが必要となる。

最初に、乳飲み子に対しての責任行為をとることにより、われわれは反省をすること ができるという点が挙げられる。乳飲み子は適切な対応をされなかった場合、泣き止ま

なかったりぐずつたりする。責任の行為者はそれを見て、責任のとり方が誤っている可

能性を推測する。その場で行為をやり直すこともできれば、その時の経験を次の機会に

向けての反省材料にすることもできる。個人の中で責任に対する認識は洗練され、より

良い責任行為が選択されるようになる。

しかし、未来世代への責任行為は結果を確認することができない。われわれの行為が 良い結果を導かないとしても、われわれは責任を果たしたと思い込み続けることになる。

逆に良い結果を導く行為をしていても、結果がわからないばかりにいつまでも自らが責 任を果たしているという実感を得られないままという状態も考えられる。

未来世代倫理が実現するためには、最終的な結果はわからないとしても、未来世代の ために行われた責任行為がどのような結果をもたらすか予測する仕組みが求められる。

ヨナスはこのことに関し、学問の充実を解決策として提案している。それは予測可能な 未来をイメージするための仮説的な予想の学、「比較未来学(vergleichende Futurologie)」(PV;S、63:p、49)と呼ばれている。未来を予測するに当たり、われわれは 何を欲しないかを明確にし、恐れに基づく発見術を用いるべき(PV;S、63.4:p、50.1)とヨ ナスは考えた。ヨナスは、科学技術のもたらす影響は重大なものであり、「ことが重大 なことになれば、ごくわずかの撃ち損ないしか許されない」(PV;S、64:p、56)とし、好ま しい予測よりも好ましくない予測を優先すべきだと主張している。前述したように、わ れわれが望むことが倫理的である補償はない。われわれは利己的に様々なことを願望し うる。他方、われわれが恐れる事柄はある程度共通している、とヨナスは考えている。

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その最も代表的な事柄は、われわれ自身が消滅することである。

しかしこの方法では、われわれの行為が何らかの良い影響を与えただろう、という予 測は得られにくい。恐れをもとにして最も悪い予測に従うならば、われわれのとった方 法は他の方法よりは良いかもしれないが、改善に向かうものではなかったかもしれない、

と考えることになる。さらに、この学問によって得られるのは集合的な行為から生まれ る結果であり、個人的な行為の結果ではない。仮に比較未来学が成立したとしても、私

の行為がどのような失敗をもたらすかを予測し、さらにそこから反省することはほぼ不 可能であると考えられる。

次に、乳飲み子はわれわれの行為に対して反応する、つまり倫理的な相互関係はない

が、行為に対して行為で返すというコミュニケーション的相互関係は成立しているとい

う点である。乳飲み子は望みどおりの対応をしてもらえば、泣き止んだり眠ったりする。

乳飲み子はそうすることで、目の前の人間からより適切な責任を引き出せると知ってい るのだと考えられる。乳飲み子自身が、自らの欠乏状態の改善のためにどのような行為 をすれば周囲の人に応えてもらえるのか学習しているともいえる。乳飲み子がどれほど の意志を働かせて反応するのかはわからないが、乳飲み子がある欲求からある行動をす ることから、われわれはそれを一般的な行為と同等のものとみなして差支えない。

そして行為者は乳飲み子の満足した様子を見て、自らの責任が果たされたことを知る。

乳飲み子が満足した状態になることは、多くの場合乳飲み子の欠乏状態を改善したと考 えられるからである。行為者は責任行為を避けることもできたが、責任が果たされたこ とにより満足感を得ることができる。この満足感は、無償の行為に対して与えられるさ

さやかな、そして重要な見返りである。乳飲み子に対する責任行為ではなくとも、行為

者に対して恩恵を受けた者からの反応があるかどうかは、行為者がその後行為を選択す

る際の動機を大きく左右する。決して見返りを求められない相手からでも行為に対して

返礼があれば、行為者が再び無償の責任を果たそうと思うことにもつながるのである。

しかし、われわれは未来世代の反応を見ることはできない。行為の結果を知る以上に、

未来世代の反応を予測することも、その予測から満足を得ることも難しいだろう。その

ために未来世代に対する行為については結果を見て評価することも、次の機会に向けて 反省材料とすることもできない。われわれはただ、良い結果になることを信じて行為を するしかない。当事者から反応を得られないことは、未来世代の欠乏状態が改善された

かどうか知る上での大きな足柳になる。

現代世代は、すでに過去世代からの負債を抱えているとも言える。ここで言う負債と は、仮に過去世代が最善を尽くした世界と、現実の世界との状況の差異からもたらされ る責任のことである。科学技術文明が生み出した課題は、生み出した者たちが解決しな いままに残されている。その中でさらに未来世代に対しても責任を取るためには、大き な責任感が要求される。同時代的、相互的な関係においては、責任行為に対する直接的 な見返りを期待できると共に、責任行為が認証されたというサインを受け取ることがで

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きる。しかしわれわれがどれだけ過去世代からの負債を返済しても、未来世代への責任 を果たしても、対象となる人々は何も応えてくれない。

たとえ未来世代の反応をイメージしたとしても、彼らがわれわれに感謝すると考える

のは過度に楽観的であろう。未来世代から見れば、たとえ負債を増やさなかった人々が いたとしても、過去世代から負債を残されている限りにおいては感謝などしないであろ

う。そして負債がなくなる時代までイメージすることは、極端に良好な経過をたどるパ ターンの未来を予測することになる。なだらかな回復を想定して、非現実的な時間の経 過を想像することも楽観の範鴫に入る。われわれが未来世代から好意的な反応を受け取

ることは、イメージにおいても困難である。

最後に、乳飲み子の倫理は目前に迫った存在によって触発されるものである、という 点である。乳飲み子の危機を認識することによって、われわれは無償の世話をしなけれ ばと考える。しかし未来世代の危機は、私たちの見えないところで起こる。乳飲み子が 視覚や聴覚から直接訴えかけるのに対して、未来世代はわれわれの知識を通してしか訴 えかけてこない。未来世代の呼び声はわれわれの主体的な思考に依存しており、彼らは

自ら危機を訴えかけるすべを持たない。

乳飲み子に対しては多くの人が世話を焼こうとするかもしれないが、だからと言って

わざわざ乳飲み子に会いに行くわけではない。世話をしたくなるとわかっているからこ

そ会わないようにする、と考えることもあるだろう。親などの保護者という立場ならば 常に乳飲み子の安全を考えて様々な世話をするだろうが、そうでない人にとってみれば 世話を必要とする乳飲み子との遭遇はそれほど日常的なことではない。それに対して未 来世代への責任は、全ての現代世代が主体となって行わなければならない。

常に全員が責任を担うということは、責任の所在が抽象化する恐れがある。たとえ未 来世代に対して責任を果たそうという意識があったとしても、実際になされる行為は非 常に小さなものになるかもしれない。われわれは現代世代間の責任にも対応しながら、

さらに上乗せで未来世代に対する責任も果たさねばならない。それに加えて、すでにわ

れわれは過去世代の行為から生まれた負債も抱えている状態である。たまに現前する乳

飲み子に対しては「この時だけ」と責任を果たすこともできようが、常に要求される未 来世代への責任は、常にほとんど果たされない状況が予想される。われわれは常に上乗

せの責任を果たすほどの余裕はないと感じ、未来世代に対する責任を全て放棄したいと 考えるようになるだろう。

われわれが未来世代に対しても責任を果たすためには、「未来世代に対して」という

特別の意識を持つ時間を区切る必要があるだろう。それは抽象的な対象である未来世代 を、具体的で時間的区切りのある乳飲み子との出会いのように縮小化していく作業を必

要とする。われわれは誰しも乳飲み子に対して責任を負ってはいるが、実際に乳飲み子

と出会うのは限定的な状況である。乳飲み子の保護者になる、たまたま目の前に困窮し た乳飲み子がいるという状況は、時間的限定を見込むことができるのである。いつかは

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責任から解放されるという期待は、責任を果たそうとする動機付けになるだろう。

それに比べ未来世代への責任は、時間的限定を見込むことができない。常に未来世代 を意識して責任を果たそうとすれば、責任感のある人は重圧に押しつぶされ、一般的な 人は責任能力の不足を感じ、結果的に責任から回避する選択肢を選ぶだろう。責任が回 避されないためには、具体的な個人の責任行為が、想像可能な未来の結果としてどのよ うな影響を持ちうるのかが提示されていなければならない。また、時代や地域を特定し たような未来の人々をイメージすることも必要となってくるであろう。それは、限定さ れない人々を見捨てることにつながってはいけないが、未来世代が乳飲み子のようにわ れわれの前に現前しない以上、イメージの具体化はやむを得ない作業である。

さらに、責任が実践されるときにも個人における責任の具体化が必要となる。集団的 な責任は、誰もが全ての責任行為を平均的に行うことを要求しているわけではない。も しそのようであれば、多くの人がある面においては責任能力以上のことを求められるこ とになる。未来世代倫理で求められるのは誰もが責任の意識を持つことではなく、実際 に責任が果たされることである。そのためには責任能力のない人の分の責任は、責任能 力のある人が肩代わりしなければならない。そして肩代わりした人は、誰にでもできる 責任からは解放されるような配慮が求められる。責任の抽象化を防ぎ、結果的に集団的 な責任が果たされるようにするためには、個人がどのような責任を果たすことができ、

どのような責任は果たせないのかを明確にする必要がある。実施不可能な責任、その人 には不向きな責任から解放することにより、その人に適した責任を果たすように求めて いくことがなければ、抽象的で累積的な未来世代への責任は実践されていかないであろ

う。

以上の点からわかるのは、乳飲み子に対する責任と未来世代に対する責任には異質な 点も含まれており、未来世代に対する責任の実践においては乗り越えるべき問題が多い ということである。われわれは未来世代に出会うことができないために、責任が果たさ

れたことを知ることもできないし、責任を果たしたという実感も得られない。責任の原 型を提示するものとして乳飲み子の倫理は有効な議論であったが、そこには現在われわ

れが求められている責任とは質が異なる。未来世代倫理の実践を見据えた場合、乳飲み 子の倫理には様々な補完が必要であり、ただ乳飲み子に接するように未来世代に対して

も責任を果たせるはずと楽観視することはできないのである。

結 び

乳飲み子の倫理は『責任という原理』において、力の不均等から生じる根源的な責任

を説明する役割を果たしている。そのことによりわれわれにとって責任は不可欠なもの であり、決して責任から逃れてはわれわれが存続できないことが指摘される。たとえ乳

飲み子に対する責任から逃れたい人がいたとしても、われわれが乳飲み子に対して責任 感情を抱くことまでは否定できない。乳飲み子という存在が責任感情を呼び起こし、実

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際に責任行為をも誘発することは、倫理的に相互的な関係を築けない相手に対して責任

をとることのモデルケースにふさわしい。

しかし、乳飲み子への責任から未来世代への責任へと理論を橋渡しする間には、多く

の難点が存在する。ヨナスは乳飲み子に対する責任の特徴を十分に検討することを怠っ たため、未来世代に対する責任において生じるであろういくつかの問題にも言及するこ とができなかった。乳飲み子に対しては可能ないくつかの対応が、未来世代に対しては 不可能である。また未来世代への責任において、要求される責任ばかりが大きくなり、

実践不可能な理論が提唱されていると思われる危険性もある。

ただし、現状がそれだけの責任を必要とするまでに至ってしまったともいえる。科学 技術文明がもたらした多くの問題により、われわれと未来世代が多くの努力を尽くさな ければ人間は存続できなくなってしまった。それでも何とかして人類の存続のために努 力するには、どのようにすれば必要とされる責任を最も効率的に果たされるのかを考え にければならない。われわれが果たすべき責任をいかに実践に結び付けるのか、そのこ

とこそが今後未来世代倫理にとっての大きな課題となってくるはずである。

i以下引用する際にはDasf8rm坤陥mntwm・ zgをPVと略す。また日本語訳に関しては

邦訳書『責任という原理』を参照し必要に応じ修正した。そのページ数も付記する。

iiヨナスは赤ん坊についてNeugeborenとSauglingの二つの語を用いているが、Saugling

の方が緊急の対処を求める乳飲み子に対して使われる傾向にある。

iiiヨナスは、子どもを作る義務は、子どもに対する義務と同じようには根拠づけられない

ことにも触れている。(PV;S,86:p,71)またヨナスは、人類の存続にかかわるほどに人々が

子どもを生もうとしなくなる状態は予測していない。

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参 照 文 献

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(『立正大学文学部論叢』N○.116,pp,19‑42.)

越部良一(2005)「環境倫理学の倫理性」(『人間環境論集』No.5(1),pp、25‑44.)

小林睦(2000)「環境倫理学における世代間倫理の可能性」(『東北哲学会年報』No.16,pp、70

79

笹漂豊(2003)『環境問題を哲学する』藤原書店

品川哲彦(1999)「自然・環境・人間一ハンス・ヨナス『責任という原理』について」(『ア ルケー関西哲学会年報』No.7,pp、145‑54.)

−(2005)「人間はいかなる意味で存続すべきカーヨナス、アーペル、ハーバーマス」(『ア

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(13)

ルケー関西哲学会年報』No.13,pp、1‑14)

−(2007)『正義と境を接するもの』ナカニシヤ出版

清水俊(2008)「環境倫理学におけるハンス・ヨナス理論の可能性」(『西日本哲学年報第 16号』pp,55‑71)

成田和信(2004)『責任と自由』勤草書房

山本剛史(1999)「世代間倫理におけるハンスーヨナスの思想」(『上智哲学誌第12号』)

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参照

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