龍女成仏について
天台宗と華厳宗の解釈比較
金 天 鶴
1.問題の所在
インド仏教の伝統で女性の出家に対して肯定的に承認されたことはないほどである。さらに 女性は5つの地位を得ることのできない対象となる1。しかし、大乗菩薩思想の展開により 授記の対象が拡大し、悟りの普遍化により女性も授記乃至成仏できると認識されるに至ってい
る。それは女人成仏といえるが、女人のまま成仏することと、女人を変えて男子となって成仏 する2つの系統がある㌔そのなかで『法華経』の龍女成仏は後者の範疇に属するであろう。
龍女の成仏は「海龍王経」を始めとして多数の経典に説かれているが≧、周知のごとく天 台宗では、『法華経』「提婆達多品」の後半に登場する娑輻羅龍王の八歳の娘を対象にして解釈
される。なお、華厳宗においても智嚴が初めて龍女成仏について高く評価している。
東アジア仏教において両宗派は多大な影響力を持つという点で、両宗派における龍女成仏に 対する解釈は、その後の思想や信仰の展開を探るための根幹となり得る。よって本稿では、中 国における天台宗と華厳宗の解釈を比較し、今後の更なる研究のための素材としたい。
2.中国天台宗における龍女成仏に対する解釈
1)智顕の『法華文句』における解釈
龍女成仏の解釈対象となる経文は、次の(1)、(2)、(3)の文章である。
(1)爾時。龍女有一宝珠。価直三千大千世界。持以上仏、仏即受之。龍女謂智積菩薩・
尊者舎利弗言。我献宝珠、世尊納受。是事疾不。答言甚疾。女言。以汝神力、観我 成仏、復速於此(『法華経」T9.35c12−16)
(2)当時。衆会皆見龍女。忽然之間変成男子、具菩薩行。即往南方無垢世界。坐宝蓮華 成等正覚。三十二相八十種好。普為十方一切衆生、演説妙法。(『法華経』T9.35c16−
19)
(3)爾時。娑婆世界菩薩声聞天龍八部人与非人。皆遙見彼龍女成仏、普為時会人天説法。
心大歓喜悉遙敬礼。無量衆生聞法、解悟、得不退転。無量衆生得受道記。無垢世界
六反震動。娑婆世界三千衆生住不退地。三千衆生発菩提心而得受記。智積菩薩及舎 利弗、一切衆会黙然信受(「法華経」T9.35c19−25)
「法華文句」によると、(1)と(2)は現成明証と解される。(3)は大衆の見聞となる。
このなか、現成明証とは、龍女が「現在の身で仏になること」である】。なお、『法華玄義』
では時間的にみて刹那に正覚を成就すると見ている.{。これによって智顕は龍女の成仏に対 して、現在の身で速やかに成就すると理解していたことが分かる。
さらに、『法華文句』に龍女の往南方とは、縁が熟して八相成道を見せることであり、この 世界は縁が薄いため龍女によって教化するとし、これは権巧の力で一身一切身を得ることで普 現色身三昧とされている㌦普現色身三昧とは、身をあらゆる場所に現せる三昧を意味す
る「。これは龍女が男子に変成しても、権巧の力によるものであり、実質的な変性を意味し てはいないことと理解できる。それは『法華文句』で、(2)について解釈しながら「胎経云。
魔梵釈女皆不捨身不受身。悉於現身得成仏故」とすることからも分かる。この「法華文句』の 文章は『菩薩処胎経』からの取意であるが、そのなかに龍女が女人成仏に当たることは間違い ないであろう。このように智顕は『菩薩処胎経」を通じて龍女の現身成仏の特徴を顕している。
こうした智顕の解釈によると、龍女成仏は現身成仏、刹那成仏、八相成道、女人成仏を意味 する。ただし、変性とは理解していない。しかし、後の信仰の展開において女人成仏が実質的 に変性して成仏すると理解される面が濃厚であった点からみて、その理由について注目し、さ
らに探るべきである㌔
2)源清の『法華龍女成仏権実義」における解釈
『法華龍女成仏権実義』(以下、『権実義』)は、北宋天台山源清によって997年に著されたも ので、龍女成仏義をテーマとした唯一無二の著作である。源清は山外派の人物であり、ここで の見解は山外派の解釈とみるべきであろう。
源清の『権実義』では、龍女の現身成仏については異見を持たないが、智顕の『法華文句』
より一層踏み込んで、龍女が海に住んでいた際に『法華経』を聞き、円解を起こし、頓発して 無生を証得したと解し、それは成仏を意味していると理解するE+。よって龍女は文殊菩薩の 前に現れる以前から成仏していたことになる。さらに「法華文句』に「菩薩処胎経』が取意さ れていることに関しては、それと女身成仏において義同であることを示すためであるとい うIV。龍女がすでに海において仏になったことからみれば、その変成男子としての女身成仏 とは、実際の変身ではない。よって「権実義』では女即男の成仏相と看倣している1】。
もう1つ注目に値するのは、龍女成仏に対して初住成仏と理解していることである。「権実 義」には次のようになっている。
又玄文第五。釈円初住無生忍位。引多文証。華厳初発心時便成正覚。浄名一念坐道場。法 華刹那成仏。理洛頓覚如来。皆以初住証無生智。故云成仏(源清「権実義』SZ56.699b)
以上の文章は『法華玄義』巻第五の部分に対する取意に当たるが、「権実義』にはそれぞれ が龍女と同じく初住に無生智を証した成仏の例として挙げられている。『華厳経」の「初発心 時便成正覚」は初住位で説かれるので疑問は生じない。『維摩経」の「一念坐道場」とは「法 華文句」にしか見えない造語である。これを1住とみたのは智顕の解釈である。すなわち智顕 の『維摩経玄義』には「若発真無漏名分証真実即。即是初住也。此経云。一念知一切法。即是 坐道場成就一切智故」(T38.529a)とあり、「維摩経」の「一念坐道場」について「初住」の 境界であると見ていることが分かる。
『法華経」の刹那成仏は「法華玄義』の「亦是龍女於刹那頃。発菩提心成等正覚」(T33.734 b)より取意したことが見て取れるが、刹那成仏という造語は智顕の著述には見受けられず、
吉蔵の『法華義疏」に1回と、李通玄の『新華厳経論』に7回ほどヒットされるが、「権実義』
は李通玄の「新華厳経論』を引用するので、『新華厳経論』より用いられたものと思われる。
しかし、刹那成仏に対して吉蔵は十地の境界と見ている。吉蔵の『法華義疏』には
於刹那頃発菩提心得成仏者。伽耶山頂経明有四種発心。一初発心謂入初地。二行発心二地 至七地。三不退発心謂八九地。四一生補処発心謂第十地。龍女発心成仏是第四義也。然1一 信菩薩亦能八相成道(吉蔵「法華義疏」T34.592b)
とあり、龍女成仏について、第十地の境界と見ている。これに対しては、基の『法華玄賛」
にも同様の解釈が施されているIL 。湛然の『法華文句記」によると、ほかに七地に解釈する ものもあったようで[}、中国の天台宗においては龍女成仏を十住とみるのは、智顎→湛然の 解釈を汲むものと言える。
『理路経』の頓覚如来という文章は『法華玄義」には見当たらない。この典拠はまず『理路 経」より求められる。
仏子。吾今為十四億大衆。以金剛口説決定了義。仏子。我昔会有一億八千無垢大士。即坐 達法性原。頓覚無ニー切法一合相。従法会出各各坐十方界。説菩薩理格大蔵。時坐大衆見 一億八千世尊。名頓覚如来。各坐百宝師子吼座。時無量大衆亦坐一処。聴等覚如来説理洛 法蔵。是故無漸覚世尊。唯有頓覚如来。三世諸仏説無異。今我亦然(『理洛経』T24.1018c)
この経文によると、頓覚如来は等覚如来であるので、これを十住の境界とみるのは理解しに くい。しかし、正確には湛然の「止観輔行伝弘決」の「大衆皆見一億八千頓覚如来。故知彼経 唯有頓覚。玄文第五判為初住。龍女亦爾。並名頓覚」(T46.334b)の解釈に倣ったと考えられ
る。
以上のように『権実義』における龍女成仏義は、智顕→湛然の流れを汲む解釈で、大きくは 現身成仏、女身成仏、初住成仏と理解することができるし、変成男子については女即男の成仏
として見ていることが分かる。
3.中国華厳宗における龍女成仏に対する解釈
1)智撮と法蔵の解釈
華厳宗において龍女は智撮の『孔目章』に「依華厳経疾得成仏。有其五種。一依勝身一生即 得。従見聞位後。一生至離垢定後身即成仏…(中略)…初義有四…(中略)…四者依法華経龍 女之身。南方成仏。義当留惑之身疾得成仏」(T45.585c)とあるように、疾得成仏の1つとし て認められている。「義は留惑の身に当たる」とは『孔目章』に
如法華経龍女身者。義当即是留惑。感彼同生之身。何以故。由此等人並是過去多種善根故。
亦不同是変化之身。何以故。由法華経引彼速成希有勝行証其教勝。若是変化。即非希有
(智撮『孔目章』T45.537c)
とあり、「留惑の身」とは「変化の身でない」ことを意味する。智嚴は「初義有四」におい て龍女成仏を4番目においたが、前の3つに対しては次のような例を挙げている。
一依世界性等。十世界身輪王之子。現身成仏。如普荘厳童子等。二者依天子勝身。従三悪 道出。生兜率天。現身成仏。三者依閻浮提勝功徳身。如善財等現身究寛普賢之行。後生即 見仏(智嚴『孔目章」T45.585c)
こうした例をみると、輪王之子と天子勝身は現身成仏と認められているが、善財に対しては 曖昧である。しかし、龍女の成仏だけは現身成仏とは認められていなかったことが推測される。
法蔵の『五教章』における龍女成仏は、三生成仏の1つの例として挙げられているが、『探玄 記』にも善財の一生と龍女の速疾とは「一得一切得」の代表的な例として挙げられる。善財が 一生で成仏するというのは、現身成仏として理解されるところであり、それと同様の類で龍女 速疾といったならば、龍女成仏も現身成仏と理解されていた可能性は残る。次の新羅の珍崇が
著した『孔目章記」によるとそのような解釈の一端が見られる。
青丘記云。現身成仏等者。問。普荘厳童子運二仏世界尽数劫修成仏。何故一生成仏。答。
此人分段身即成仏故一生成仏。問。以何文為証。答。蔵師云。一約位十信終心勝進分後入 十解即成仏果等。解云。十信終心即成仏等故知一生成仏。兜率天子現身成仏者。此人過去 由聞経故随三悪道。而以彼善根身承小相光明。従地獄出生兜率天。此天身是解行身。此身 即成仏故一生成仏。又善財童子一生蓮知識遇即成仏也。龍女之身南方成仏者。此人亦依華 厳教則留惑得龍女身。即是身成仏故云一生成仏(見登「華厳一乗成仏妙義」T45.779bc)
『青丘記』とは『孔目章記」のことを指し1 、これによると、現身成仏とは分段身のまま の一生成仏を意味し、そうした範疇のなかに龍女成仏も入ることが明確に述べられている。そ
してそこに法蔵の説が義証となっている。こうした例からみて法蔵は、智撮の考えを一歩進展 させたと考えられる。分段身を条件に入れたのは、成仏が変易身に寄らないという華厳の立場 を保つものである。それによると、龍女の成仏も智嚴の「留惑身」、「若是変化即非希有」とい う立場を継承するものである。法蔵の「探玄記』には「一乗法界法爾縁起実徳非変化也。此等 並是普賢位徳」(T35.152c)とあり、「非変化」としての龍女成仏が、法蔵における一乗の成仏
と理解されていたと推測できる。
2)李通玄「新華厳経論』における解釈
華厳学者のなかで、龍女にもっとも関心を示したのは李通玄である。それは彼にとって龍女 成仏の持つ象徴的な意味が「華厳経』における成仏論の軸になると理解していたからであろ う㌧とくに龍女を取り扱う際には善財とセットで比較する場合が多い。こうした内容はほ ぼ『新華厳経論」の玄談に集中しているので、主に玄談より重要な説を抜き出して検討したい。
(1)露地白牛方明実徳。以是義故。於中有少分義。意与華厳経相扶。龍女所乗即是白牛 之乗。又与善財同其所得(李通玄『新華厳経論」T36.722c19−20)
(2)七龍女転身成仏別者。如法華経。龍女於刹那之際。即転女身具菩薩行。南方成仏。
如華厳経即不然(李通玄『新華厳経論」T36.726a25−27)
(3)以法華経対権教三根見未尽者令成信種。且將女相速転成仏。令生奇特方始発心趣真 知見。不堪本法而起善根。此明且引三権令帰一実(李通玄『新華厳経論』T36。726 b8−11)
(4)故令龍女成仏。明非過去久修。年始八歳。又表今非旧学。転女時分不途刹那。具行 仏果無劇毫念。法本如是自体無時(李通玄『新華厳経論』T36.726b15−17)
(5)八龍女成仏所居国土別者。即言南方無垢世界非此娑婆。…(中略)…若有別住南方。
自他彼此猶隔。此乃猶順三乗。分別引権根而生信解。遷就仏乗。故為三乗余執勢分 難擢。且有一分廻心。自他之情未絶。不同華厳頓印法界之体。自他相徹一一微塵之 内住因陀羅網之門(李通玄『新華厳経論』T36.726b27−c8)
(6)十授声聞遠記別者。為法華之中。龍女錐復頓印法界無時之門。全彰仏果。三乗権学。
有信順之心。余風未珍。未能頓証遠劫方登。故受遠記。不同華厳迷則処凡悟則是仏。
設有余習以仏知見而用治之(李通玄『新華厳経論』T36.727a7−10)
(7)龍女一刹那之際。印三世性。又従凡夫。即聖不移毫分。此乃与善財童子解行入道法 門略同。善財一生成仏者。不離刹那際。証三世性古今総斉。還与龍女一刹那際転身 具行成仏一時総畢。皆称本法。法如是故。立時劫者衆生情塵也。善財証此名為一生。
三世時劫既尽。更有何生。故名為一生。諸余施設十種不同。前巳論言乞。龍女転身。
善財不変。為転無所転有異故(李通玄『新華厳経論』T36.727b14−21)
(8)為此経説十住初心初発心時便成正覚。同得如来一切智味。経云。以小方便疾得菩提。
如善財龍女等。其人也(李通玄『新華厳経論」T36.732a14−16)
(9)龍女善財一念之中得成仏者。始成実説(李通玄「新華厳経論』T36.742b11)
(10)浬磐法華屠見龍女刹那成仏。皆是引権向実教故。但三乗十地菩薩所析仏果境界。但 †斤三千大千世界為報仏之果故。此即実教中第三化身。非為実報身故(李通玄『新華 厳経論』T36.742b23−27)
(11)若至十住初心。位斉十地更無退転。善財童子一生成仏者。明於十住初心一刹那際情 亡想尽三世一念更無所生名為一生。不取存情立劫時分之生。如是無生便成仏果。如 本生故名為一生。還同龍女。一刹那際情尽時亡名之為仏(李通玄『新華厳経論』T 36.761b14−17)
(12)令龍女非器刹那成仏。明信心広大。非権施設。現実教故。所修実教不迂滞故。言龍 女年始八歳者。表今生成始学非旧学故。畜生女者。明非過去積修(李通玄『新華厳 経論』T36.768b27−c1)
(13)皆是一生補処者。明於初会信解生。至於此会信満入位便成仏故。如龍女善財等(李 通玄『新華厳経論』T36.811a6−8)
(14)従初発心住仏果地位一念斉進。而亦不出一念中。修成正覚。仏因果及菩薩行悉円満 故。如善財一生龍女不出一刹那際。三生成仏総相似故。云一生成仏者。明今生是父 母分段身。是信心及見道修行生。捨分段身。入変易生名為一生。亦不出刹那際。無 古今性。無分段性。無変易性。萬相如幻故。如化故。非滅故。無三世故。以此初住 遍修諸住諸地故。貫通諸法総一時一法。多少延促自在無擬。不出一刹那際故。法如 是故。去情以智観之可見(李通玄『新華厳経論』T36.841c6−15)
(1)では、龍女が白牛に乗っていることと善財の所得とが同様であると見ている。これは 龍女が善財と同様に上根(「華厳経合論』には上々根)であることに相通ずる。
(2)では、龍女は転身成仏したとされる。そして『華厳経』は異なると言っている。要す るに「華厳経』に転身は説かれない。しかし、『権実義』にはこうした李通玄の解釈について
「若李長者云。成道不合転身者。此乃不見経文円妙之意」(SZ56.700a)といい、「法華経』の 趣旨を理解していないと批判する。
(3)では、龍女の転身成仏は、3つの権を1つの真実に帰することであると見ている。
(4)では、龍女の転女の時間が早いのは、法の本来の相がそうであることを表したもので あると見ている。
(5)では、龍女が南方に行ったのは、三乗に信解を起こすためであるが、結局、自他の分 別を免れないとする。ほかにも龍女が南方を指したのは、法界において自他が円満でない(T 36.740a2−3)ことを表したものであるとする。しかし、こうした成仏は法界の体を頓印し自他 の分別のない華厳の成仏とは異なると言っている。
(6)では、龍女の成仏が法界の無時之門を頓印したことを認めている。その文章の下には 龍女が仏乗を頓示したことと理解されている。しかしそれはあくまでも三乗を導くためであり、
『華厳経」のように、迷即凡、悟即仏という論理とは異なると言っている。
(2)より(6)までは、『華厳経』と『法華経』の相違を述べる項目である。この内容よ り判断すると、李通玄は龍女の成仏そのものについて、時間的及び方法論的に法界の真実の様 相(仏乗)を表していることと認めている。よって、龍女の成仏は善財とともに法の本性を明 かしていると李通玄は解釈している1 。しかし、それはあくまでも三乗のための方便であり、
「華厳経」はそのまま称性縁起を現しているので、結局のところ、龍女の転身成仏とは異なる ことを強調している。
(7)では、『華厳経』と『法華経」の同意を述べているなかに、龍女の一刹那の際に三世 の本性を印すと言っている。ここでいう三世とは、巻第十七の「如龍女一刹那之際、已具三生 普賢行満仏果亦就」(T36.833c29−834al)という文章からも分かるように三生と同様の意味で ある。こうなると龍女の成仏は三生成仏ともなりうる。この刹那の際に龍女は仏身を会得され るというが「、こうした龍女の成仏は善財の一生成仏と意義において同様であると主張して いる。それは善財の一生とは、三世の時間を尽したことなので生はない。これが一生である。
こうした善財の一生成仏は刹那際を離れていないことから龍女の刹那成仏と同様であると認め ている。しかし、龍女は転身し、善財は不変というので、両者の成仏のプロセスは異なる。
また、龍女成仏は一刹那成仏として他の三乗経典における多劫成仏を否定する成仏論と評価 されている1㌔こうした解釈は巻第二に「是故法華経是会権入実。此華厳経即諸仏根本所乗。
又彼経龍女所表。此経善財所陳。和会善財龍女行相。下文広明」(T36.734a1−3)とあるように 両経の性格に起因する。そうしながらも龍女は「所表」と善財は「所陳」といい、相違を表し ている。すなわち「法華経」が龍女の転身を介して真理を表しているならば、「華厳経』は善 財を通じて真理を直ちに明らかにすることである。そうしながら両者の和会にも関心を持つこ
とが分かる。
(8)では、『華厳経」の十種徳を述べるなかに、十住初心に正覚を成就することが挙げら れる。その境界とは経にある小方便で菩提を疾得する境界であるが、善財と龍女がその機根と なると理解されている。
(9)では、地位と修行の様相を表すなかにおいて、龍女と善財の成仏に対して、同様に一 念成仏と解されている。
(10)では、同じく地位と修行の様相を表すなかに出てくるが、「浬繋経」の屠兜と「法華 経』の龍女の刹那成仏を通して現された仏身とは、実際に化身であるという意味である。こう した見解は龍女が行っている南方の教主は化身であると述べていることからも分かる 1㌔し かしこれは三乗の衆生からみた見解に過ぎない。よって李通玄は「只為三乗種性人。還依本種 性。作三乗教説。説龍女刹那成仏是化。返成誘教不順仏心。原仏本意者。令龍女刹那成仏。為 本法自無時。証尽時処即為実法。返云是化」(T36.757c11−13)といい、龍女の刹那成仏につい て化仏とみるのは三乗の見解として仏の不本意であるとする。
しかし、李通玄自身が『法華経』について化仏の説と認めることはその下りに「化仏説三乗。
化仏教中法華浬薬漸漸引権令帰実門。即龍女刹那成仏。雪山肥賦草。牛若食者。純得醍醐喩等。
是也。皆為分有未具全示。一一具足因果報相之門。唯此華厳具足。是故今言転法輪別」(T 36.757c22−25)とあることから確かめられる。
要するに『法華経』は化仏の教であり、権を実門に帰させるための教説である。それは転法 輪が『華厳経』と異なるとする理由の1つはあくまでも龍女成仏を三乗のために表した範疇と
見ているからといえる(L °)。
(11)では、多くの情報が盛り込まれている。善財と龍女の成仏の階位は初住に当たると明 言していることは(8)と同様である。また、十住初心とは善財の一生成仏が起こる階位であ
り、龍女の一刹那成仏も同様である。さらに初住に入ると十地の境界と同等であると見ている ことが分かる。
しかし、善財の成仏を一生とみながらも、それが初住の一刹那に一念も生じないことを一生 という。これは(9)の一念成仏とは若干解釈がずれるとも理解できるが、李通玄の表現上、
「一刹那も出ない」、「一念も出ない」という句が刹那成仏を表していることから、一念成仏と 同様の意味に見て取れる。善財の成仏も刹那成仏と成りうるとほのめかしていることも読み取 れるが、善財の成仏を刹那成仏とは明言していないことは、龍女と善財の成仏のそれぞれの特
徴を現すためであると考えられる。
(12)では、龍女が非器であると認識しており、その非器まで成仏できることを示して、信 心の広大さを明らかし、その成仏とは権ではないと言っている。そして畜生女の龍女を登場さ せたのは、過去に修行を積んでいないことを現していると見ている。李通玄はこの龍女の刹那 成仏は信を起こす法門であり、その道理に妨げがなく、また、存在(法界)の体性は三世のど こかに属するものではなく、一念に真理に応じるものとして、ただ時間に制約されない仏果で あることを明らかにしたと理解している。李通玄はこうした理解を通じて龍女成仏そのものが 権でないことを主張し、そうした真実を機根の劣る衆生のために見せたとしている。
(13)では、「如来名号品」の釈のなかにある。善財と龍女が一生補処として信満位に入っ て速やかに成仏すると言っている。信満成仏とは李通玄にとっては初住成仏の異名である。
(14)では、「明法品」の釈のなかにある。ここでは善財と龍女の成仏が一念を出ないこと と、それが三生成仏に総じて相似することを言っている。そしてその一生は分段身を捨てて変 易生に入ることと説明しながら、時間と身の変化などを実際には否定することが分かる。ここ では「相似」というが、その他の巻第二十には「如龍女不出刹那際三生成仏。是如善財一生得 仏果亦爾。一生義者得無生也」(T36.854b3−4)とあり、龍女成仏が三生成仏であることを明確 に言っている。ほかにもこうした明確な表現は見受けられる(T36.872c2,879b15,881a26)。
そして善財の一生成仏も三生成仏と同様であると理解していることが分かる。そうした解釈は 善財の場合一生は無生ということが前提となり、龍女の場合巻第二十二に「挙龍女彰法界実理 智之無時。即於一刹那之際示三生而成仏」(T36.872c1−2)とあるように、一刹那は無時という のが前提となっている。
以上、李通玄の龍女成仏に対する理解について検討してきた。これをまとめてみると次のよ うになる。まずは『華厳経』乃至善財と異なる場合を示す。
龍女 善財
①転身成仏≠不変
②会三帰一≠頓証
③自他分別≠円満
④所表 ≠所陳(『華厳経合論』には所彰)
⑤化身 ≠法身
⑥刹那成仏≠一生成仏
次に同等とされる場合を示す。
①刹那成仏(龍女)≒一生成仏(善財)(意義においては同等)
②初住成仏
③信満成仏
④一念成仏
⑤三生成仏
⑥一生補処
4.結論 一天台宗と華厳宗の解釈比較一
以上のように経文に対する解釈を根幹として智顕と源清の龍女成仏に対する天台宗の解釈と、
華厳学の立場より智嚴、法蔵、李通玄の龍女成仏について検討してみた。それに基づいて天台 宗と華厳宗の解釈の同異をまとめる。
まず、同様の解釈をみると、明確に一致するのは龍女の成仏について初住の階位と見ている ことと刹那成仏と認めることである。現身成仏と見ているのは、智嚴にも可能性があるが、明 確には珍崇の『孔目章記』においてである。また、湛然の頓覚と李通玄の頓印は、表現上は異 なるが、内実は同等である。
次に相違するのは、天台宗においては龍女の転身を事実上認めていないが、華厳宗ではその まま認めている。天台宗では龍女の無生をいうが、李通玄は龍女の無時をいう。
他の解釈は華厳宗ならではの独自のものが多い。例えば、三生成仏とみるのは、智嚴→法蔵
→李通玄に継承される。一生成仏と見ているのは、李通玄と『孔目章記』が同様である。とく に、李通玄は三生と一生を和合するが、『孔目章記」は一生成仏のみを強調する。なお、智撮 と法蔵は化身ではないと見ているが、李通玄は化身と見ており、解釈が分かれる。ほかに信満 成仏、一念成仏は李通玄だけの解釈である。一生補処は吉蔵と基と同様の解釈であるが、階位 についての解釈には検討の余地がある。
こうした観点からみて現段階では、龍女成仏については天台宗の解釈よりも華厳宗の解釈の 方が内容的に豊富であると言える。ただし、華厳宗の解釈に天台宗の解釈がどのような影響を 与えているかについては、両宗の相互関係を探るためにも重要な課題となるため、澄観の解釈 を含め、東アジア仏教における天台宗・華厳宗の解釈を視野に入れて今後さらに検討を加えて いきたい。
注
(1)塚本啓祥[1970]「法華経の成立史的問題」(金倉圓照編[1970コ『法華経の成立と展開」
平楽寺書店、京都、pp.204−218)参照。
(2)田賀龍彦[1972]「法華論における授記の研究一女人授記作仏について一」(坂本幸男編 [1972コ『法華経の中国的展開』平楽寺書店、京都、pp.661−679)参照。
(3)(塚本啓祥[1970]p.213)参照。
(4)『法華文句」巻第八上に「胎経云。魔梵釈女皆不捨身不受身。悉於現身得成仏故」(T 34.117a)とある。
(5)『法華玄義』巻第六下に「此偏明於刹那頃便成正覚」(T33.755a)とある。
(6)『法華文句』巻第八上に「南方縁熟宜以八相成道。此土縁薄祇以龍女教化。此是権巧之 力。得一身一切身。普現色身三昧也」(T34.117a)とある。
(7)『法華文句」巻第二上に「 輔釈迦為菩薩。普現色身三昧力。散影垂容」(T34.21a)と ある。
(8)金英美[2010コ「 高麗後期における女性の変成男子説」(『梨花史学研究』40、pp.87−
118)では高麗後期の天台宗の僧侶による変成男子説が原因となって、多くの女性が来世 に男子に変わって成仏することを願ったとする。なお、日本では納富常天[1977]「南都 仏教における女人往生思想」(「印度学仏教学研究』25−2、pp.556−561)に論じられるよう に日本の古代仏教においては女性の成仏に対して否定的であったが、西口順子[2003]
「女人成仏説にみる古代中世の女性と仏教」(池見澄隆、斎藤英喜編著[2003]『日本仏教 の射程一思想史的アプローチー」人文書院、京都、pp.79−91)に論じられるように鎌倉新 仏教においては変わる展開を見せたとする。
(9)『権実義」に「胎経釈者。顕実証同也。何者。龍女在海。初聞妙経。円解頓発。獲証無 生。正与胎経魔梵釈女。即於女身成仏義同」(SZ56.699ab)とある。
(10)前掲の注(9)を参照されたい。
(11)『権実義』に「答。即龍女身。無生巳証。為顕経力。自在赴縁。示女即男」(SZ56.700a)
とある。
(12)『法華玄賛』巻第九本に「伽耶山頂経浄光天子問有幾発心。文殊答有四。一証発心謂入 初地。二行発心次六地。三不退発心八九地。四一生補処発心。謂第十地。今此龍女或即第 四発心。化為龍女」(T34.816c10)とある。
(13)『法華文句記』巻第八之四に「他人釈此。或云七地十地等者。不能顕経力用故也」(T 34.314c)とある。
(14)崔鉛植[2003]「珍嵩の『孔目章記』逸文に対する研究」(『韓国仏教学SEMINAR』9、
pp.46−72)参照。
(15)稲岡智賢[1985コ「李通玄の法華経観」(『印度学仏教学研究』34−1、pp.258−263)参照。
(16)『新華厳経論』巻第六に「性無憂悩不住証修。法如是故。龍女善財総明如是」(T36.756 a7−8)とある。
(17)『新華厳経論』巻第二に「龍女刹那之頃便至仏身。則明真証達苦即真無所厭故」(T 36.733c7)とある。
(18)『新華厳経論』巻第七に「第八依法華経実教会三帰一。令龍女一刹那際成仏破三乗経於 多劫方始成仏」(T36.761a25)とある。
(19)『新華厳経論』巻第三に「問答主別。教主即是化仏」(T36.740a5)とある。
(20)『新華厳経論」巻第六に「化仏転三乗法輪。毘盧遮那転一乗法門」(T36.757c6)とある。
本稿は2007年韓国政府(教育科学技術部)の財源による韓国研究財団の支援を受けた研究の 成果である。(NRF2007−361−AMOO46)