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- - - -- - - - -- -- 仲尾次政隆の祖先・薩摩久志の中村氏について

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仲 尾 次 政 隆 の 祖 先 ・ 薩 摩 久 志 の 中 村 氏 に つ い て

知   名   定   寛 

はじめに

仲尾次政隆(一八一〇~七一年)は、近世琉球末期、禁制の浄土真宗に帰依して主に遊女を対象とする布教活動を 行い、後に信仰露顕によって八重山に無期流刑となるも、石垣島の宮良川架橋の功績により赦免され、一一年ぶりに 那 覇 へ 帰 還 し た 人 物 と し て 知 ら れ る。 そ の 功 績 だ け で な く、 む し ろ 琉 球 に お け る 本 格 的 な 民 衆 仏 教 の 担 い 手 と し て、 その信仰の内実においても、伊波普猷をして「奇蹟」と言わしめたくらい、人間主体としての自覚に立脚した真宗信 仰者として琉球仏教史上高く評価されている。 その仲尾次政隆が真宗に帰依するようになる契機は彼の家系と無関係ではない。というのも、仲尾次政隆は薩摩人 の系統を引いていて、仲尾次家の家譜「宇姓家譜」によれば、始祖は仲尾次政隆から五代遡った久米村高良仁也の娘 思嘉那であるが、 思嘉那の夫は薩摩久志の中村宇兵衛であった。伊波普猷によれば、 中村宇兵衛は「余程の財産家で、 船 な ど を 所 有 し、 運 送 業 を 営 ん で、 沖 縄 の 貢 米 を 薩 摩 に 運 」 び、 ま た、 「 宇 兵 衛 に は 久 志 浦 に 二 男 七 女 が あ つ た 」 と もいうから、謂わば、思嘉那は宇兵衛の琉球における旅妻ということになる。それはともかく、中村宇兵衛は薩摩で もその信仰が禁止されていた真宗の信者で、京都西本願寺境内に所在した正光寺の門徒であった。さらに、伊波普猷 によれば、思嘉那と宇兵衛との間には五人の子息が生まれ、長男政栄は仲濱家(後の仲尾次家) 、次男政明は仲里家、 四男政根は仲村家、五男政記は仲里家(後の大湾家)をそれぞれ起こし、そして三男政孝は、宇兵衛の薩摩久志での

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嗣子二人がいずれも亡くなったため、宇兵衛の跡を継ぐべく薩摩久志へ渡った、という。 琉 球 に 残 っ た 宇 兵 衛 の 子 息 四 人 の う ち、 本 願 寺 史 料 研 究 所 保 管 の『 長 御 殿 御 日 次 帳 』 と 表 題 さ れ た 日 記 の 明 和 四 ( 一 七 六 七 ) 年 九 月 一 三 日 の 記 事 に 三 人 の 名 前 が 登 場 し て い る。 し か も「 琉 球 国   中 村( 中 濱 の 誤 筆 ― 筆 者 註 ) 了 信   中里了教   中村了證」というように法名で記録されているから、 彼ら三人は真宗に帰依していたと考えてよかろう。 さらに、現時点において、本願寺史料研究所保管の諸種の日記に琉球人が登場するのは、彼ら三人が最古であること が 確 認 出 来 て い る の で、 彼 ら 三 人 が 琉 球 に お け る 最 初 の 真 宗 信 者 で あ っ た 可 能 性 が 考 え ら れ る し、 し た が っ て ま た、 琉球へ最初に真宗を伝えたのは彼らの父中村宇兵衛であった可能性も否定出来ない。その五代目が仲尾次政隆である から、琉球の真宗史は、特に伝播前から仲尾次政隆にいたるまでの期間については、薩摩久志の中村氏の動向が重要 な意味をもっていたと考えることが出来よう。 本稿では、 仲尾次政隆の祖先である薩摩久志の中村宇兵衛を基軸に、 薩摩久志における宇兵衛の祖先や子孫の動向、 さ ら に は 琉 球 と の 関 係 を、 中 村 氏 の 系 譜 と 西 本 願 寺 所 蔵 史 料 な ど を 材 料 に し て 考 察 し て み た い。 そ の こ と に よ っ て、 浄土真宗が琉球に伝播・定着する過程や、仲尾次政隆が真宗に帰依し、布教活動を継続しえた背景の一端が垣間見え るのではないかと期待出来るのである。

一、「大和系図」の行方

伊波普猷はその論考の「六   仲尾次の血統」で、仲尾次家の「大和系図」を駆使して、京都時代の祖先中村政氏か ら薩摩久志の中村宇兵衛にいたる系譜について紹介している。前述したように、仲尾次家の先祖中村宇兵衛の出自は 薩摩久志すなわち大和であったから、琉球の子孫は「宇姓家譜」とは別に、先祖中村宇兵衛にいたる迄の大和におけ る 系 譜 を 作 成 も し く は 書 写 し、 こ れ を「 大 和 系 図 」 と 称 し て い た の で あ ろ う。 だ が、 伊 波 普 猷 は 肝 心 の「 大 和 系 図 」

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そのものは提示せず、全て文章での説明に終始している。しかも、宇兵衛にいたる直系のみの紹介であるため、宇兵 衛以前の特に兄弟・姉妹という横の系譜関係については全く不明な状態で、これでは京都を離れた中村氏が薩摩久志 に移住し、生活の基盤を構築するようになった経過情報を得ることが出来ない。 や は り そ う す る と、 伊 波 普 猷 が 参 考 に し た「 大 和 系 図 」 の 入 手 が 不 可 欠 と な る。 「 大 和 系 図 」 に は 伊 波 普 猷 が 紹 介 していない中村氏の横の系譜など多くの情報が記載されていると推察出来るからである。しかし、先の大戦で焼失し てしまったのか、その存否すら確認することが出来なかった。こうなると次の期待は、現在の久志中村氏の子孫に彼 ら自身の系図が伝わっていないかということになる。伊波普猷は大正一三(一九二四)年西本願寺鹿児島別院での夏 期講習会で講演した折、久志浦を訪れて新たに史料を発見するに及んだと言うが、中村氏の系図については何ら言及 していない。ということは、伊波普猷が久志を訪問した時、久志の中村氏には彼らの系図は存在していなかったと理 解するしかない。 そ こ で 次 に、 宇 兵 衛 の 子 息 四 人 の 姓 を 頼 り に、 沖 縄 図 書 館 協 会 編『 沖 縄 県 郷 土 資 料 総 合 目 録 』( 一 九 七 三 年 ) を 検 索 す る と、 那 覇 市 史 編 集 室( 現 那 覇 市 歴 史 博 物 館 の 前 身 ) に 大 湾 政 治 著『 祖 先 の 足 跡( 我 が 家 の 歴 史 )』 と 題 す る 書 物が所蔵されていることが判明した。大湾姓は宇兵衛の五男政記の系統であるから、かの「大和系図」の掲載が期待 出来る。早速、那覇市歴史博物館に依頼して複写を送付していただいた。罫紙を用いた手書きの冊子で、文字も各所 で摩耗が進んでいたが、その序文の奥書に

        疎開先宮崎県西諸縣軍加久藤村の

        称楽寺のお寺にて

       著者    大   湾   政   治

  昭和二十一年十二月一日 とあるから、中村宇兵衛の琉球における五男大湾政記の子孫である大湾政治氏が、疎開先の宮崎県称楽寺において

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一九四六年末に書き上げたことが判る。その「目録凡例」に「o系図(宇姓)   o大和系図」と記述されているので、 期待しながら捲ってみると、両系図とも見当たらない。那覇市歴史博物館に問い合わせると、系図はもともと付随し ていない、ということであった。何時しか系図のみが脱落したのか、あるいは意図的に切り取られたかのいずれかで あろう。とにかく、この段階で「大和系図」については手詰まり状態になってしまった。 やむなく、伊波普猷論文の文章を参考として宇兵衛にいたる中村氏の系譜を作成してみた。系図Aがそれである。

先 述 し た よ う に、 船 を 所 有 し て 薩 摩・ 琉 球 間 を 往 来 し て 財 を 築 い た 宇 兵 衛 は、 「 宇 姓 家 譜 」 に よ る と、 康 煕 四 七 年 志の中村氏の子孫だけでなく、琉球の子孫にとっても最も記憶すべき存在だったはずである。 かった中村氏にとって、薩摩久志での生活の糸口や場合によっては基盤を築いたと考えられる宇兵衛の父は、薩摩久 兵衛の父について伊波普猷はその名前さえ記していないという事である。文脈から察するに、京都を離れざると得な 摩久志で生まれたともいう。ここで困惑せざるを得なかったのは、薩摩久志に移住したという孫之丞の孫すなわち宇 摩久志に移住したという。孫之丞の長男孫早は宝永二年(一七〇五)三月四日に死没し、その孫早の孫の宇兵衛は薩 孫之丞の父の時代まで京都の士族であったが、孫之丞の時代に系図を盗まれて百姓となり、孫之丞の孫の時代に薩 系図A

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すなわち宝永五(一七〇八)年に生まれ、乾隆四一年すなわち安永五(一七七六)年一二月一〇日数え六九歳で死没 し、 そ の 妻 思 嘉 那 は 康 煕 五 三 年 す な わ ち 正 徳 四( 一 七 一 五 ) 年 一 一 月 一 日 に 生 ま れ、 乾 隆 五 五 年 す な わ ち 寛 政 二 (一七九〇)年一〇月二日数え七七歳で死没している。思嘉那が宇兵衛に嫁いだのは数え一六歳の時であるから、 これ から計算すると、二人の結婚は宇兵衛数え二二歳ということになる。この年齢で宇兵衛は薩摩久志での生活基盤を構 築し、蓄財を成し遂げることが出来ていたのだろうか。不可能とは断定出来ないが、やはり先ずは薩摩久志に移住し たという宇兵衛の父が船員としての技術・知識を習得して徐々に海運業に関わるようになり、宇兵衛の時代には船を 所有して薩摩・琉球間の海運業に本格参入するまでに事業が拡大していったと考えるのが妥当ではなかろうか。つま り、薩摩久志の中村氏繁栄の基盤が構築されるようになるのは宇兵衛の父の時代からではなかったかということであ る。この推測が成立するならば、やはり「大和系図」に孫早の子息すなわち宇兵衛の父の名前は明記されていて当然 だと考えられるのであるが、伊波普猷は宇兵衛の父について触れていない。 この系図Aで依然として問題になるもう一つは、宇兵衛の生没年齢は「宇姓家譜」によって明らかであるが、孫早 の没年月日を除く宇兵衛以前の祖先の生没年が不明なため、 中村氏が如何なる方法と経路で薩摩久志へ移住したのか、 とりわけ移住の時期が孫之丞の孫すなわち宇兵衛の父の時代というだけで、京都から薩摩久志に到る経過事情を時系 列的に把握することがほとんど不可能だということである。さらに付け加えるならば、京都正光寺の門徒という中村 氏が、 如何様にしてその寺檀関係を維持出来たのかということも問題になる。やはり「大和系図」を入手しない限り、 問題解明は進みそうもない。 残 る 手 掛 か り は 前 述 し た 大 湾 政 治 著『 祖 先 の 足 跡( 我 が 家 の 歴 史 )』 し か な い。 本 来 こ の 書 物 に 付 随 し て い た で あ ろう「大和系図」のみに関心を払っていたが、本文に何らかの手掛かりがないものかと注意深く読み進めると、著者 の大湾政治氏は昭和八(一九三三)年七月二八日から数日間、墓参目的で同門の仲尾次政一氏・仲里政棟氏・大湾政 順氏らと共に薩摩久志へ赴いたという。その際、本家の仲尾次政一氏は「大和系図」を携帯し、薩摩久志の中村氏の

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人々にこれを披露すると、久志には何も残っていないのでその系図一通を送って呉れるように依頼された、と大湾政 治氏は記している。やはり、 伊波普猷が薩摩久志を訪れた時、 中村氏の系図は存在していなかったと考えてよかろう。 果 た し て そ の 後、 「 大 和 系 図 」 が 書 写 さ れ て 薩 摩 久 志 に 届 け ら れ た の か ど う か に つ い て の 記 述 は な い が、 お そ ら く そ れは実行されたと考えられるから、先の大戦時に焼失さえしていなければ、薩摩久志にも「大和系図」の写しが伝存 されているはずである。

二、「大和系図」の写し

かすかな望みを懐きつつ、南さつま市坊津歴史資料センタ―輝津館に連絡を入れ、久志の中村氏に関する系図の存 在について問い合わせてみると、そのような情報は見当たらない、という回答であった。もはや万策尽き、落胆して いたところ、暫く経過して輝津館から久志中村氏の系図が見つかったという連絡が入り、その写真をメール添付で送 信していただいた。系図Bがそれである。さらに後日、この系図を掲載している中村一以著『久志中村家の軌跡』と 題する書物の複写も送付していただいた。それによれば、中村一以氏は宇兵衛の子孫で、系図は中村一以氏の父中村 四夫氏の書写という。 先述したように、大湾政治氏らが薩摩久志を訪れた時、久志には中村氏の系図がなく、仲尾次家に伝わる「大和系 図」の写しを送付してくれるよう依頼されたということについて触れたが、その依頼は実行され、送付された「大和 系 図 」 に 基 づ い て 作 成 さ れ た の が 系 図 B「 久 志 中 村 家 の 系 図( 1 世 ~

記 載 さ れ て い た の で は な い か と 推 察 す る こ と が 出 来 る。 た だ し、 琉 球 の 子 息 の う ち、 四 男 政 根 が「 大 湾 家 創 設 」、 五 における宇兵衛の妻思嘉那と子息五人ならびに薩摩久志の⑤孫早・⑥政孝あらため孫左衞門・⑦早次良までの世代が 所在不明になっている仲尾次家の「大和系図」には、①孫之丞から④宇兵衛までは確実に、そしておそらくは、琉球 10世 )」 と 考 え て よ か ろ う。 こ の 系 図 B か ら、

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男政記が 「仲村家創設」 になっている点は注意を要する。実際はその逆で、 四男政根が 「仲村家創設」 、五男政記は 「大 湾家創設」というのが正しく、また③宇兵衛の没年宝暦三年が西暦では一七五四年になっているが正確には一七五三 年、⑤孫早の場合も宝暦八年は一七五八年に相当する。単純な誤記ではないかと考えられるが、この系図Bに対する 信頼度という点においては、いささかなりとも慎重な態度が求められなければならない。

系図 B

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とにかく、 伊波普猷論文の文章から作成した系図Aと比較してみると、 その情報量の違いは歴然であろう。第一に、 系図Aでは直系のみの系譜であったが、系図Bでは各世代の兄弟 ・ 姉妹という横の系譜も記載されている。とりわけ、 直系に関しては没年や簡単な事績も添え書きされていて、後述するように、これらの情報記載は中村氏が薩摩久志に 移住・定着するようになる経過事情を分析する上で重要な意味を持ってくる。 第二に、系図Aでは不明であった①孫之丞の孫すなわち④宇兵衛の父の名が、系図Bでは④宇兵衛と同じく「③宇 兵衛」と明記されていることである。これに間違いがなければ、この「③宇兵衛」が初代で、思嘉那の夫④宇兵衛は 二代目宇兵衛ということになる。そうであるならば、仲尾次家の「大和系図」にも初代③宇兵衛の名は明記されてい たはずだが、これを参考に薩摩久志の中村氏の系譜を説明した伊波普猷は、何故か初代③宇兵衛の名を提示していな い。父子の名前が同一であることに疑問を感じたのか、あるいは困惑したのか、いずれにしろ、依然として解けない 問題ではあるが、父の名前を子が継承することはさほど珍しいことではない。 第三に注目したいのは、系図Bが①孫之丞を久志中村氏の始祖として位置付けていることである。系図Aでは、京 都の中村政氏から始まり、伊波普猷はこの政氏と孫之丞の父との間に何世代かの存在を示唆している。そして孫之丞 の父の代までは士族であったが、 孫之丞の代に系図を盗まれ、 やむを得ず百姓となり、 孫之丞の孫の時代すなわち「③ 宇兵衛」の時代に薩摩久志に移住したと説明する。しかし、系図Bは①孫之丞以前を掲載していない。 ちなみに、中村一以氏著『久志中村家の軌跡』にも右の伊波普猷の説明と同じ内容文が紹介されているが、著者の 中村一以氏はこれを 「伝説的なもの」 として位置付けている。京都時代の中村政氏から孫之丞の父の代までの説明が、 系図Aすなわち伊波普猷の説明では曖昧模糊としている点を考慮するならば、中村一以氏の見解のほうが正鵠を得て いるように思われる。中村一以氏は「どちらにしろ、十七世紀の半ば頃に、中村家の祖先が久志に流れて来たのは確 かであろう。 」と述べたうえで、続けて次のような記事を提示している。

   此の孫之丞   親の代迄は士にて候ところ   渡世不自由に之有節   系

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  図を悪党に盗み取られ   是非も無く   百姓に落ち   久志仁田川の門開き   しが   孫早五才   弥三右衛門三才の節   死去に付き   委くは相知らず         (久志家譜より) 典拠が「久志家譜」になっているが、前述したように、これは仲尾次家から薩摩久志の中村氏へ送られた「大和系 図」の写しを下敷きにして新たに作成されたものであろう。基本的には系図Bがそれに相当すると考えられるが、実 物の「久志家譜」には右記のような各世代人物の事績なども記録されていると考えてよい。当然、その情報は仲尾次 家 の「 大 和 系 図 」 に 依 拠 し て い る は ず で あ る。 と い う こ と は、 「 大 和 系 図 」 が 作 成 さ れ た 頃 の 琉 球・ 薩 摩 久 志 に お け る双方の子孫は、薩摩久志での中村氏の実質的な歴史的出発は①孫之丞に始まるという意識を共有していたのかもし れない。①孫之丞から始まる系図Bにはそのような意識が反映されているのではなかろうか。ただしこの場合、薩摩 久志の中村氏と京都正光寺との歴史的関係性の説明が困難になってくることは否めない。二代目④宇兵衛が京都正光 寺の門徒であったことは既に史料上からも確認されており、琉球の仲尾次政隆も正光寺とは密接な関係にあった。① 孫之丞以前の所伝を「伝説的なもの」として位置付けるならば、薩摩久志の中村氏と京都正光寺との関係形成も①孫 之丞以後にその時期と契機を探る必要が生じてこよう。 右の「久志家譜」の記事でもう一つ注目しておきたいのは、久志仁田川に辿り着いた①孫之丞が死去した時、その 子息②孫早は五才、その弟弥三右衛門は三才であったという記事である。この年齢については、先述したように、系 図Bに若干の誤記が認められることを念頭に置くならば、そのまま信用する訳にはいかないが、中村氏が薩摩久志に 移住・定着する過程を検討するうえでの参考にはなりうる。 第四に、系図Bには薩摩久志における④宇兵衛以降の系譜も記載されていることである。しかも、二代目④宇兵衛 の琉球での三男政孝が嗣子として薩摩久志に渡った時の年齢も記述されている。三男政孝が薩摩久志の中村氏を継い だことは、琉球の子孫と薩摩久志の子孫との絆を強めることに繋がり、その関係が仲尾次政隆の真宗信仰と布教活動

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を支える背景になっていたと推察されるので、両子孫の連携の実情を検討するうえでも貴重な記録であると言える。

三、薩摩久志中村氏歴代の生没年

生没年齢が明確なのは僅かに二代目④宇兵衛のみで、 系図Bには記載されていないが、 先述したように、 「宇姓家譜」 によると宝永五(一七〇八)年生まれ、安永五(一七七六)年数え六九才で没している(以降、年齢は総て数え年) 。 琉球の妻思嘉那と結婚したのは二二才の時すなわち享保一四(一七二九)年であった。ちなみに、琉球の子息五人の うち、後に嗣子として薩摩久志へ渡ったという三男政孝(茂兵衛、のち改め孫左衞門)の生没年は「宇姓家譜」にも その記述がないが、次男政明が享保一七(一七三二)年、四男政根が元文三(一七三八)年の生まれであるから、三 男政孝の生年をその中間と想定するならば、享保二〇(一七三五)年頃ということになり、薩摩久志へ渡ったという 一五才は寛延二(一七四九)年に相当し、二代目④宇兵衛四二才の時になる。以上のような二代目④宇兵衛の経歴が 系図Bの歴代の中で最も信頼性が確保出来ているので、他の歴代の生没年齢を分析する際の基軸的な参考例というこ とにする。 次に、系図Bで没年とその年齢の記述があるのは初代③宇兵衛と二代目⑤孫早で、没年齢から逆算すると生年が判 明 す る。 「 久 志 浦 人 と な る 」 と い う 初 代 ③ 宇 兵 衛 は、 宝 暦 三( 一 七 五 三 ) 年 八 一 才 没 と い う か ら 延 宝 元( 一 六 七 三 ) 年の生まれで、二代目⑤孫早は宝暦八(一七五八)年四一才没なので、生年は享保三(一七一八)年ということにな る。そうすると、二代目④宇兵衛は彼の父である初代③宇兵衛三六才の時の子であるからさして問題はないが、二代 目⑤孫早の場合、彼の父である二代目④宇兵衛が僅か一一才の時に生まれた計算になり、不自然さは否めない。この 問題は後述することにしたい。 では、初代③宇兵衛の父で、没年の記述はあるが没年齢が不明な初代②孫早はどのように考えればよいか。初代②

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孫 早 の 没 年 は 宝 永 二( 一 七 〇 五 ) 年、 そ の 子 息 初 代 ③ 宇 兵 衛 が 生 ま れ た の は 右 に 推 定 し た よ う に 延 宝 元( 一 六 七 三 ) 年である。系図Bによれば、延宝元(一六七三)年以前に初代③宇兵衛には生没年齢が不明な姉と兄新左衛門が生ま れていた。ここで二代目④宇兵衛の経歴を参考にするならば、初代②孫早の結婚年齢を二代目④宇兵衛が琉球の妻思 嘉 那 と 結 婚 し た 年 齢 と 同 じ 二 二 才 と 仮 定 し、 さ ら に 二 代 目 ④ 宇 兵 衛 の 琉 球 の 長 男 政 栄 が 生 ま れ た の は 結 婚 の 翌 年 で、 続いて次男政明・三男政孝(茂兵衛改め孫左衞門)の出生間隔が二年ないし三年であるから、これを初代③宇兵衛の 姉・ 兄 新 左 衛 門 の 出 生 間 隔 に も 同 様 に 当 て は め て み る と、 初 代 ② 孫 早 の 結 婚 年 代 は 初 代 ③ 宇 兵 衛 が 生 ま れ た 延 宝 元 ( 一 六 七 三 ) 年 の 五 年 な い し 七 年 く ら い 前 と い う 計 算 に な り、 そ の 中 間 と す る な ら ば、 寛 文 六( 一 六 六 六 ) 年 頃 に 相 当する。したがって、 寛文六 (一六六六) 年時点で初代②孫早が二二才であったならば、 彼の生年は正保二 (一六四五) 年頃と想定することが出来るし、したがって没年宝永二(一七〇五)年の年齢は六一才頃ということになる。 初代②孫早が正保二(一六四五)年頃に生まれたと想定すれば、系図Bで薩摩久志における中村氏の始祖と位置付 けられている①孫之丞の生没年齢も想定することが可能になってくる。というのは、中村一以氏著『久志中村家の軌 跡』の「久志家譜」に、①孫之丞が没した時、その子である初代②孫早は五才で、その弟の弥三右衛門は三才という 記 事 の あ る こ と に つ い て は 先 に 触 れ た。 こ れ も 数 え 年 で 計 算 す る と、 初 代 ② 孫 早 の 五 才 の 年 次 は 慶 安 二( 一 六 四 九 ) 年頃に相当し、したがってまた、この時三才であった弟弥三右衛門の生年は正保四(一六四七)年頃ということにな る。そして、やはり二代目④宇兵衛の経歴を参考にして、①孫之丞の結婚年齢を二二才と仮定し、その翌年に長男で ある初代②孫早が生まれ、 その二年後に次男弥三右衛門が生まれたと想定するならば、 ①孫之丞は元和九(一六二三) 年頃に生まれ、慶安二(一六四九)年頃に没した時、二七才頃という若さで亡くなった計算になる。 以上、薩摩久志における中村氏歴代の生没年齢について検討したが、それは最も信頼性の置ける二代目④宇兵衛の 経歴を基準にしての試算であるため、導き出された歴代の生没年齢には前後五年くらいの幅を設定する必要があるこ とは言うまでもない。それでも、概ねにおいて大きな誤差はないものと考えてよかろう。その結果に基づき、①孫之

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丞に始まる歴代の生存期間を視覚的に判りやすく整理したのが図Ⅰである。弥三右衛門と三男政孝の死没年代が不明 なので途中からは点線で示した。 歴代の死没年齢に注目するならば、やはり孫之丞の二七才という没年齢はあまりにも若すぎると言えよう。あえて 想像を逞しくするならば、先の「久志家譜」に「久志仁田川の門開きし」とあるように、薩摩久志の地に到達した中 村氏の最初の人は①孫之丞で、幼い子供二人を抱えて艱難辛苦の生活の果ての若死にだったのかもしれない。つまり それは、薩摩久志における中村氏の足跡は①孫之丞によって第一歩が刻まれたのではないかということである。そう であるならば、もっと悲惨だったのは幼くして父を失った初代②孫早とその弟弥三右衛門だったであろうことは想像 に難くない。弟弥三右衛門の消息が系図Bでは不明であるが、 初代②孫早は二二才頃に結婚して二女四男の父となり、 そ の 後 の 薩 摩 久 志・ 琉 球 双 方 の 子 孫 が 家 訓 と し た「 遺 言 」 を 残 し、 そ の 初 代 ② 孫 早 を 継 い だ 次 男 の 初 代 ③ 宇 兵 衛 は、 系図Bに「久志浦人となる」とあるから、中村氏は初代③宇兵衛の時代に久志の住人として認知され、繁栄の基礎を 築き上げるようになったのではないだろうか。 次に注目されるのは二代目⑤孫早で、彼の四一才という死没年齢から逆算すると、先述したように、彼は父である 二代目④宇兵衛が一一才の時に生まれたことになり、これはあまりにも不自然すぎて、系図Bの二代目⑤孫早の没年 齢は誤記である可能性を考慮する必要があるかもしれない。誤記でないとするならば、二代目⑤孫早は実は養子とし て二代目④宇兵衛を相続したことも考えられよう。伊波普猷は「宇兵衛には久志浦に二男七女があつたが、男の子が 二人とも死んで嗣子が無くなつたので、思嘉那との間に生れた三男の政孝が久志浦に行つて、父の家を継ぐ事になつ た」と説明しているが、系図Bでは二代目④宇兵衛の薩摩久志における子供は六女と二代目⑤孫早のみで、伊波普猷 の 説 明 と 合 致 し な い だ け で な く、 二 代 目 ⑤ 孫 早 に 関 し て は 一 切 説 明 し て い な い。 伊 波 普 猷 が 参 考 に し た「 大 和 系 図 」 にも二代目⑤孫早は記載されていたはずなのに、これは如何なる食い違いであろうか。 伊波普猷の説明とは異なり、系図Bでは三男政孝は「一五才のとき孫早の嗣子となり上国」と添え書きされ、さら

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図I

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に「孫早を相続し孫左衞門と改名」と添え書きされている。つまり、伊波普猷は「父の家を継ぐ事になつた」と説明 しているが、 そうではなく、 系図Bでは二代目④宇兵衛の相続人二代目⑤孫早の嗣子として三男政孝は薩摩久志へ渡っ たことになっているのである。三男政孝の一五才は、先に考察したように、寛延二(一七四九)年頃に相当し、この 時、二代目⑤孫早の年齢は三一才で、しかも系図Bには⑦早次良・女・亀次良の二男一女が記載されている。この二 人の子息が幼くして死没していたとしても、三一才の二代目⑤孫早ならば、その後も後継人の出生は決して不可能で はなかったと考えられよう。三男政孝が薩摩久志の中村氏の後継者として移住したことは間違いない歴史的事実であ るから、伊波普猷の説明と系図Bにおける後継者とその年齢は著しく整合性に欠けていると言わざるを得ない。一五 才 と い う 三 男 政 孝 の 移 住 年 齢 も、 今 少 し 上 げ て 考 え る 必 要 が 生 じ て こ よ う。 こ の よ う な 系 図 B あ る い は「 大 和 系 図 」 における、とりわけ二代目⑤孫早の生没年齢や彼の子息の存在に対する疑念から、伊波普猷はこれを整序的に説明す るために、あえて初代③宇兵衛や二代目⑤孫早について説明することを避けたのかもしれない。

四、薩摩久志中村氏の動向

薩摩久志における中村氏の系譜の一端を考察してきたが、あくまで二代目④宇兵衛の経歴を参考基準とした推察で あることと、伊波普猷の説明と系図Bの記載内容とではかなりの齟齬が認められることが明らかになったため、伊波 普猷の説明は勿論、系図Bに対する懐疑性もかえって深まる結果になってしまった。また、京都正光寺との関係形成 については全く論及する余地すらなかった。この問題を克服するには、 系図以外の確かな史料との照合が必要となる。 冒頭で、中村宇兵衛が正光寺門徒であったことや、彼の琉球の子息三人の法名が本願寺史料研究所保管の諸種の日 記に登場していることについて先に述べたが、本願寺史料研究所が保管している近世の日記には薩摩門徒の本山参詣 の記録が数多く記載されていて、その中には、中村宇兵衛以外で系図Bに記載されている歴代と同姓同名の記録も僅

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かながら散見している。それを発見した当初は、中村宇兵衛の縁戚者ではないかと思いつつも、系図Bの入手以前で あったため、確信するまでには至っていなかった。その同姓同名とは中村弥三右衛門・中村孫早・中村孫左衞門の三 人である。この外に、中村教信・中村教閑という法名で登場する参詣人も肩書きに薩摩久志と記述されているところ から、やはり中村宇兵衛の縁戚関係者ではないかと考えられる。先ずは中村弥三右衛門と中村孫早が登場する史料か ら見ていこう。 史料①『諸国所

遣書状留』延享三(一七四六)年三月一四日。

  一   申御読経   御免状遣ス

    

  銀五枚上

  教順・教善志

   

  年号

       

  取次

      三月十四日       少進

      正光寺門徒日向国

          中村弥三右衛門殿

史料②『延享五

年四月記』延享五(一七四八)年四月三日。

      

薩州

  一   沈香

   中村孫早     琉球泡盛

  同   弥三右衛門

    琉球志よく塩辛

    鰹節

     右献上之

(16)

史料③『諸国所

遣書状留』宝暦一一(一七六一)年四月一二日。

  申御経   御免状遣ス

       白銀五枚上ル    教順志

       年号         四月十二日  

大進

        御寺内正光寺門徒

          中村弥三右衛門殿 史料①と史料③は正光寺門徒の中村弥三右衛門が、亡き教順や教善のための供養読経を本山から許可されたことを 示し、史料②では薩摩の中村孫早と中村弥三右衛門が連名で本山に献上品を納めたことを示している。史料①・③で は、供養対象の教順という法名が一致し、肩書きも正光寺門徒になっているから、史料①・③の中村弥三右衛門は同 一人と考えてほぼ差し支えはないであろう。史料②の中村孫早は肩書きに久志という地名の記述はないものの、献上 品に琉球産物が含まれていることを考慮するならば、薩摩久志の中村孫早のことであると考えてよい。当然、史料② の中村弥三右衛門も中村孫早と連名になっているから、 薩摩久志の中村氏の縁戚者ということになろう。そうすると、 史料②の両者は系図Bに記載された中村氏のいずれかに相当するはずである。系図Bには中村孫早の名が二人記載さ れているが、初代②孫早は宝永二(一七〇五)年に死没したことになっているので、史料②延享五(一七四八)年四 月三日条の中村孫早は二代目⑤孫早が該当し、三一才での京都本山参詣ということになる。 い っ ぽ う 、 中 村 弥 三 右 衛 門 の 名 は 系 図 B で は 初 代 ② 孫 早 の 弟 弥 三 右 衛 門 の み で 、 こ の 弥 三 右 衛 門 と 史 料 ② の 「 同   弥 三右衛門」とが同一人であるならば、史料②の延享五(一七四八)年の時点で弥三右衛門は八八才になっている計算 になる。かなりの長命で、しかも高齢での京都本山参詣ということになる。初代③宇兵衛も八一才の長命であったこ

(17)

とを念頭に置くならば、弥三右衛門も長命であった可能性は考えられるが、しかし八八才という高齢での京都本山参 詣はやはり無理があるとしか言いようがない。史料②の「同   弥三右衛門」は二代目もしくは三代目と考えたほうが 無難であろう。それが果たして、系図Bの弥三右衛門の直系であるかどうかは別の問題になるが、父である①孫之丞 を亡くした時、僅か三才であったという弥三右衛門も兄の初代②孫早と同様に生き延びることが出来て、それ故に二 代目あるいは三代目の「同   弥三右衛門」へと継承されていったと想定することは許されよう。 次に、史料①・③の中村弥三右衛門と史料②の「同   弥三右衛門」は同一人と言えるだろうか。史料①・③の中村 弥三右衛門の供養対象である教順という法名の記載史料がもう一点存在する。 史料④『諸国所

遣書状留』明和五(一七六八)年五月二二日。

  一   申御経御免状遣

      白銀五枚上ル   釈教順志

       九月廿三日

         久志

       中村教閑老   やはり亡き教順を対象とする供養読経の御免状を遣わす内容で、願人は久志の中村教閑という。教閑というのは法 名と考えられ、薩摩久志における中村氏の縁戚者の一人に違いなく、それも教順・教善という法名と同様に「教」が 使用されているところから、史料①・③の中村弥三右衛門と近い縁戚者ということになろう。中村教閑が系図Bの誰 に相当するのか、次の二点の史料によって特定することが可能になる。 史料⑤『安永七

年十一月記』安永七(一七七八)年一一月二九日。

  一   申御経奉願

      正光寺門徒

     

  白銀五枚上

      薩州中村教閑

(殿カ)

(18)

史料⑥『長御殿御日次悵』安永七(一七七八)年一一月晦日。

  一   申御経   御免

        薩刕       

久志

          願人  

  中村教閑

        琉球国

  

両門様

       

中濱了信

  一   大天香   一箱宛          

  中里了教

    沈香    一包       

  中村了證

     右三人

包菓子被下之

        薩刕

  一   沈香    一包    

  中村教閑

    

  献上之

右の二点によれば、安永七(一七七八)年一一月二九日正光寺門徒の中村教閑は供養読経を本山に願い出て、翌晦 日にその許可が下された。同じ晦日には中濱了信・中里了教・中村了證と共に献上品も納めている。中濱了信・中里 了教・中村了證の三人は冒頭でも述べたように二代目④宇兵衛の琉球の子息達で、彼ら自身が実際に京都本山を参詣 した形跡はないので、これは中村教閑による代参と見なさなければならない。彼ら三人は明和四(一七六七)年九月 一三日にも中村教信と共に本山を参詣した記録があり、これも中村教信による代参であろう。右の史料⑤・⑥安永七 ( 一 七 七 八 ) 年 の 時 点 で は、 彼 ら の 父 で あ る 二 代 目 ④ 宇 兵 衛 は 死 没 し て か ら 既 に 二 年 が 経 過 し て い る の で、 こ の 時 に

一包

8)

(19)

彼ら三人の代参者になりえる近しい関係者となると、二代目⑤孫早の後継者として薩摩久志に移住した彼ら三人の兄 弟三男政孝しかありえない。この時、三男政孝(茂兵衛、のち改め孫左衞門)は四四才になっていて、本山から教閑 という法名を授けられていたことになる。 史料⑦『長御殿御日次悵』明和三(一七六六)年九月一〇日。

        薩州

  一   御剃刀御免      中村孫左衞門

       寺田善右衛門

       宮崎忠兵衛

       披露

       宰相 右 は 明 和 三( 一 七 六 六 ) 年 九 月 一 〇 日、 中 村 孫 左 衞 門 ら 三 人 が 本 山 か ら「 御 剃 刀 」( 在 家 の ま ま 得 度 す る こ と で、 現在の帰敬式に相当)の許可を得たことを示す史料で、 この時に教閑という法名も授けられたと考えられる。この時、 三男政孝は三二才で、既に名前も孫左衞門と改めていたと見てよい。ちなみに、二代目④宇兵衛も右の前年に「御剃 刀」を受け、やはり法名を授けられたと考えられるので、明和四(一七六七)年の場合、琉球の子息三人の代参者中 村教信は彼らの父二代目④宇兵衛の法名ということになる。 その三男政孝が史料①・③の中村弥三右衛門と同様に教順の供養読経を願い出た(史料④)ということは、両者は 教順を介する縁戚関係にあったことになろう。この縁戚関係は、三男政孝が養子に入って義父となった二代目⑤孫早 の出自が、系図Bの初代②孫早の弟弥三右衛門の系統で、そこから二代目④宇兵衛の養子に入ったことを前提にしな ければ成立しない。要するに、史料①・②・③に登場する中村弥三右衛門は同一人で、系図Bには記載されていない が、初代②孫早の弟弥三右衛門の名前を相続した二代目か三代目に相当し、二代目⑤孫早も同系統の出自ということ

9)

(20)

である。そうであれば、史料①・②・③の中村弥三右衛門と二代目⑤孫早の養子である三男政孝は義理ではあるが縁 戚関係ということになる。当然、教順は初代②孫早の弟弥三右衛門かもしくは二代目弥三右衛門の法名である可能性 が考えられる。 右のような縁戚関係が成立するならば、史料①の中村弥三右衛門の肩書きが「正光寺門徒日向国」になっている事 も、①孫之丞以降の中村氏歴代の動向を推察する上で重要な意味をもってくる。彼らが京都本山を参詣する時、薩摩 久志や日向国から如何なる交通手段によって移動したのか。陸路もあり得るが、中村宇兵衛が明和二年と四年に、三 男政孝すなわち中村孫左衞門(法名教閑)が明和三年と五年というように連年の京都本山参詣であること、しかも中 村宇兵衛が船を所有して海運業を営んでいたことを考慮するならば、やはり海路と考えるのが妥当であろう。それも 彼ら自身の所有船での航行であったならば、史料②の場合、薩摩久志を出航して日向国を経由しての京都本山参詣で あった可能性も考えられる。つまり、中村氏は水夫を生業としていたが故に、頻繁な京都本山参詣が可能であったと いうことである。 あくまで想像の域を出るものではないが、父である①孫之丞と共に薩摩久志に辿り着いた初代②孫早と弟の弥三右 衛 門 は、 幼 く し て 父 を 亡 く し、 久 志 に お い て 辛 う じ て 生 活 の 糧 を 得、 や が て 水 夫 と し て 海 運 業 に 関 わ る よ う に な り、 兄②孫早は久志を本拠地に、弟弥三右衛門は水夫として日向国にも居住地を設けるようになった。弥三右衛門の系統 がそのまま日向国を在所とするようになったかどうかは不明であるが、そうであるならば、日向国にも中村氏の子孫 が 存 在 し て い る 可 能 性 が あ る。 そ れ は と も か く、 両 系 統 の 往 来 交 渉 が 継 続 さ れ た こ と は 史 料 ② か ら 明 ら か で あ ろ う。 久 志 を 本 拠 と す る 初 代 ③ 宇 兵 衛 の 時 代 に は 水 夫 と し て の 生 業 も 安 定 す る よ う に な り、 久 志 の 住 人 と し て も 認 知 さ れ、 さらに海運業の発展に乗じて二代目④宇兵衛の時代までには船を所有して琉球往来の海運業にも参入するようになっ て蓄財し、以降の中村氏繁栄の基盤を形成するようになった、というのが推測的な中村氏の動向である。 薩摩久志の中村氏と京都正光寺との関係についての確かな記録は史料①が初見で、その意味で、正光寺との関係構

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築の時機と縁由は判然としない。京都正光寺のお久が久志の上野の新左衛門宅に潜伏中、役人の捕縛寸前に便所から 逃げ出し、村人によって山中の洞窟に匿われ、その後も布教に努めた、という伝承がある。一八世紀の初め頃の事と 推察されるが、系図Bによると、初代③宇兵衛の兄に新左衛門という名前があり、上野の新左衛門と同一人であるか どうかは確かめようがないものの、右の伝承の時期は初代③宇兵衛の生存期間に相当し、彼の伯父にあたる中村弥三 右衛門も生存していた可能性も考えられる。二代目もしくは三代目の日向国中村弥三右衛門が水夫として京都へ赴い た時、右の伝承を頼りに正光寺との関係を構築するようになったことも考えられよう。

五、孫早と政孝

残された課題は、二代目④宇兵衛の養子になったと考えられる二代目⑤孫早と、その二代目⑤孫早の嗣子として琉 球から薩摩久志へ渡った三男政孝に関する問題である。 繰り返しになるが、 中村宇兵衛には薩摩久志に二男七女があっ たが、男の子が二人とも死んで嗣子が無くなったので、三男政孝が薩摩久志に行って父の家を継ぐようになった、と 伊波普猷は説明し、二代目⑤孫早については全く触れていない。これを系図Bで再度確認してみると、二代目④宇兵 衛の薩摩久志における子供は二代目⑤孫早と女性六人になっていて、伊波普猷の説明と符合しないばかりか、三男政 孝は父宇兵衛の跡ではなく、 二代目⑤孫早を相続したことになっている。また、 系図Bでは三男政孝が薩摩久志に渡っ たのは一五才の時と添え書きされているが、伊波普猷によると、この時三男政孝は既に妻帯していて、若い妻と別れ なければならないようになった、という。現代と異なり、当時の結婚適齢期が早かったとはいえ、一五才での妻帯と いうのはあまりにも若すぎるという印象は拭いえない。さらに三男政孝一五才の時、二代目⑤孫早は三一才で、たと え 系 図 B の ⑦ 早 次 良 と 亀 次 良 と い う 子 息 が 死 没 し て い た と し て も、 そ の 後 も 後 継 者 の 誕 生 は 期 待 出 来 た で あ ろ う し、 二代目⑤孫早三一才での三男政孝との養子縁組はいささか時期尚早の感がする。

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(22)

三男政孝の薩摩久志中村氏相続は、その後の琉球と薩摩久志の子孫双方の絆を一層深める重要な契機となり、仲尾 次政隆の真宗信仰と布教活動にも重大な影響を及ぼしたと考えられるので、右の問題解明は重要な課題として捉えて い た が、 『 沖 縄 県 史 』 に 次 の よ う な 興 味 深 い 事 例 を 見 出 し た。 い さ さ か 長 文 に な る が、 重 要 な 手 掛 か り と な る 部 分 を 提示しよう。

   一七五二年(宝暦三)の藩の船奉行関係文書には、次のような興味深い例がある。薩州久志浦の孫早という船  

 

乗りが琉球に渡海して病気になり、看病を頼んだ女との間に男の子が生まれた。それまで子宝に恵まれなかった  

彼は、この子をぜひ跡継ぎにと、久志浦の地頭方に願い出た。当時は、琉球人の子を薩摩で正式に入籍させるな

ど 思 い も よ ら ぬ こ と で あ っ た。 し か し、 そ の 政 治 的 な 壁 を 越 え て 奔 走 す る 父 親 の 切 な る 願 い に 心 動 か さ れ た か、 船 奉 行 は 孫 早 の 要 請 を 受 け と め、 藩 上 層 部 に 次 の よ う に 上 申 し た。 「 こ れ ま で 本 琉 球 よ り 子 札 に 仰 せ つ け ら れ た 先例は見当たらないが、道之島より子札を許可したことはあるので、この点をふまえて指示を仰ぎたい」と。つ まり、奄美生まれの子を薩摩の宗門改め帳「子札」に入籍した例はあるが、琉球の場合は先例がないという。

 

 

孫早の切なる願いが藩に聞き入れられたかどうか、 最終的な結末については残念ながら史料的に明らかでない。 もし旧来どおりの裁定であれば、琉球女性との間に生まれた子どもの入籍は認められなかった可能性が高い。 宝暦三(一七五二)年、薩摩久志の孫早が琉球で生まれた子息を跡継ぎとして薩摩で正式入籍させる願いを出した が、当時、琉球で生まれた子の薩摩入籍の先例はなく、旧来どおりの裁定であれば孫早の願いは認められなかった可 能性のほうが高い、という。三男政孝が薩摩へ渡海するようになった経緯と似通った部分が見られ、また時期的にも かなり近接している。三男政孝が薩摩久志へ移住したのは間違いのない歴史的事実であることは先に述べたが、それ は 宇 兵 衛 の 嗣 子 と し て で は な く、 二 代 目 ⑤ 孫 早 を 相 続 す る た め で あ っ た こ と は 系 図 B に よ っ て 明 ら か で あ る。 当 然、 その時にも右のような入籍願書が作成されて久志浦の地頭方へ提出されたはずだが、それに該当する願書は船奉行関 係文書に見当たらない。それもそのはずで、その時の願書の取扱次第を示している記録が実は右の事例であって、右

11)

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の薩摩久志浦の孫早とは実は系図Bの二代目⑤孫早のことであると考えて差し支えはないのである。右の次第を伝え る船奉行関係文書を提示してもう少し詳細に見当してみよう。

  二〇六八(の1)

  宝暦三年

四月

  一

久志浦ノ孫早ヨリ、

男子無之、 先年琉球ヘ罷下候節病気ニ有之、 看病人トシテ頼置候女ノ腹ニ出生候男子召呼、 跡相続為仕度、地頭方ヘ相付願出趣有之、

  

右之通申出候、孫早在所ヘ直子無御座、跡想続仕候者無之候付テハ、願之通御免被仰付度奉存候、跡々本琉球

ヨリ子札ニ被仰付候先例ハ見当不申候ヘトモ、 道之島ヨリ子札御免被仰付候儀御座候間、 此段得

  

差図申候、 以上、

   酉五月十六日         御船奉行   (二〇六八の2)

  朱書

  

地頭方ヘ書物相通候事、

分 願 書 物、 戌 二 月 廿 四 日 樺 山 左 京 殿 御 取 次 ニ テ、 御 取 揚 無 之、 御 返 被 成 候 旨、 本 田 左 兵 衛 承 知 致 シ 候 ニ 付、

    本分浦浜之場ニ入筈也、   意味内容は前述した通りで、特に付け加えることはない。久志浦の孫早が琉球で生まれた子の薩摩入籍願いを提出 したのは宝暦三(一七五二)年四月で、この願いを許可してくれるように藩の上層部へ船奉行が伺い出たのが同年五 月一六日、そして朱書によれば、裁定が出たのが「戌二月廿四日」である。最終的な裁定が出るまで一〇ヶ月程度費 やしたことになる。宝暦三年は二代目⑤孫早が三六才、三男政孝は一九才で、これなら伊波普猷が説明しているよう

御)

(返カ)

12)

(24)

に、 三男政孝が既に妻帯していたとしても違和感はない。 裁定が下されたのは翌年であるから三男政孝は二〇才になっ ており、年齢的にも既に妻帯していたという伊波普猷の説明も何の問題もなくなる。むしろ三男政孝の薩摩久志への 渡海事情は、右の事例と伊波普猷の説明および系図Bの記載内容とを併せ考えると、その整合性が無理なく成立する ことになろう。 問題は「朱書」の裁定内容の解釈になる。琉球で生まれた子の入籍という孫早の願書が地頭方へ返却される裁定に なったことは間違いない。その理由が「御取揚無之」である。これを孫早の願いは却下すなわち聞き入れられなかっ たのでその願書は返却と解釈するならば、三男政孝の薩摩久志への入籍自体が実現しなかったことになる。だが、結 果 的 に 三 男 政 孝 は 薩 摩 久 志 へ 渡 っ て い る か ら、 「 御 取 揚 無 之 」 は 必 ず し も 入 籍 の 完 全 禁 止 と い う 裁 定 が 出 た と 解 釈 す る 必 要 は な い の で は な い か。 朱 書 内 容 を 我 田 引 水 的 に 深 読 み す る な ら ば、 「 御 取 揚 無 之 」 は 上 層 部 で 吟 味 す る 程 の 重 要な問題ではないという判断が下され、その意味するところを「本田左兵衛」が承知・勘案して願書は地頭方への返 却扱いとなり、最終的には地頭方次元での判断に委ねられて入籍が認められた、という解釈も成立しないわけではな い。 勿 論、 そ の 背 後 に は、 地 頭 方 や 船 奉 行 に 対 し て だ け で な く、 「 本 田 左 兵 衛 」 に 対 す る 宇 兵 衛・ 孫 早 の 周 到 な 根 回 しがあったことを想定する必要があろう。 煩雑な検討の連続であったが、最後に三男政孝が薩摩久志の中村氏を相続するようになる経緯に関し、伊波普猷の 説明と系図Bに見られる幾つかの疑念について私見を提示しておきたい。二代目④宇兵衛は琉球では子息に恵まれた が、本拠地の薩摩久志ではそうではなかった。伊波普猷の説明のように、三男政孝が直ちに宇兵衛の嗣子として薩摩 久志へ渡ったとするならば、系図Bの二代目⑤孫早の存在はなかったことになる。そうすると二代目⑤孫早の⑦早次 良・女・亀次良という三人の子供も存在しなかったことになろう。どうやら伊波普猷は、不可解ではあるが、二代目 ⑤孫早という養子の存在を見落としていたのかもしれない。伊波普猷が説明する薩摩久志における二代目④宇兵衛の 二男七女というのは、系図Bで二代目⑤孫早の子である二男一女を加えると合致する。その二人の子息が幼くして死

(25)

没したために、二代目④宇兵衛は二代目⑤孫早を養子として迎えたという想定が成立し、その後、二代目⑤孫早に後 継者が生まれなかったために、三男政孝を二代目⑤孫早の嗣子として渡海させたとする想定も成立する。また、養子 に入った二代目⑤孫早に⑦早次良・亀次良という二人の男子が生まれたが、これも幼くして死没したと想定するなら ば、 先の三男政孝を薩摩久志へ入籍させたいという「宝暦三年酉四月」二代目⑤孫早の願書提出も成立する。ただし、 いずれの場合でも、宝暦三(一七五二)年の時点で二代目⑤孫早は三六才であったから、決して次の子の出生が期待 出来ない年齢ではなく、期待出来なかったとすれば、二代目⑤孫早に不測の事態発生を想定しなければならない。

おわりに

仲尾次政隆にとって真宗信仰は、薩摩門徒の系統を引いている彼の家系を考慮するならば、それは所与のものとし て 彼 の 家 庭 環 境 に 内 在 し て い た。 成 長 す る に と も な い、 真 宗 禁 制 と い う 国 是 は、 彼 の 内 面 に お い て 重 く の し か か り、 葛藤すること少なくなかったと推察される。しかし、覚醒してからは国是を超越し、不退転の信心によって布教活動 を活発化していった。とは言え、真宗寺院も僧侶も存在しない状況で、次第に増加していく信者を指導していくため には、独学的傾向に陥りやすい仲尾次政隆自身の研鑽が不可欠で、そのために仲尾次政隆にとって京都正光寺や本山 との交流や継続的支援が必要であった。仲尾次政隆が琉球を離れて京都へ参詣した形跡はない。しかし、彼の書状写 や懇志覚の写しが本願寺史料研究所に複数保管にされていて、当然、これらを取り次いだ人々の存在を想定しなけれ ばならない。それが薩摩久志の中村氏を含む真宗門徒としての船員たちであり、彼らは遙か琉球・薩摩・大坂・京都 を往来して仲尾次政隆からの懇志や書状、あるいは京都からの聖教類を秘かに運搬したのである。それが可能だった のは、彼らが海運業に従事していたからであった。   信仰発覚によって仲尾次政隆は拘留され、取り調べられた内容を伝える史料には、彼と関わっていた薩摩の取次人

13)

14)

15)

(26)

の中に「宇兵衛曽孫仲村助右衞門」をはじめとして、久志の吉見甚兵衛・吉見直助・仲村宇平次・仲村新右衛門らの 名前が記録されている。彼ら仲村姓の者たちが宇兵衛の子孫なら系図Bにその名前が記載されているはずだが見当た らず、似た名前として助左衞門の名前が見えている。助左衞門は三男政孝の孫で宇兵衛の曽孫に相当する。穿鑿する に、取り調べを受けた仲尾次政隆らは、追求の手が彼らに及ぶのを回避するため、意図的に彼らの名前を少しずつ変 えて申告したのではなかろうか。そうであるならば、仲村宇平次は系図Bの助左衞門の弟宇之助、仲村新右衛門は末 弟の早右衞門である可能性があり、彼らが琉球・薩摩間を頻繁に往来していただけでなく、琉球と薩摩久志の縁戚者 は真宗信仰においても緊密に連携していたことになる。実際、系図Bの宇之助の弟孫次郎は、琉球を往来する薩摩船 の手形箱の表書きに「文政二年己卯六月吉日   薩州久志   船主中村孫次郎」とあるように、船主として琉球・薩摩間 を往来していたようである。果たして、孫次郎も仲尾次政隆と関わっていたかどうかまでは確認出来ないが、彼ら薩 摩久志の中村氏の海運業が仲尾次政隆の時代においても継続されていたことの証左にはなる。 いっぽう、仲尾次政隆も仲尾次船と呼ばれる山原船を所有し、八重山諸島で日用品を商っていたという。規模はと もかく、琉球の子孫も海運業に関わっていたのである。彼らの海運業も薩摩久志の子孫と連携していたかどうかまで は明らかにしえないが、真宗の琉球伝播と信仰維持が彼らの海運業と密接に関わっていたことは確かであろう。それ は薩摩門徒の場合も同様で、薩摩門徒の京都本山参詣が活発化するのは元文期(一七三六~四〇年)以降で、全国の 商 品 が 大 坂 へ 集 積 さ れ、 大 坂 の 中 央 的 市 場 と し て の 地 位 が 確 立 さ れ る よ う に な る 時 期 と ほ ぼ 一 致 し て い る の で あ る。 薩摩久志の中村氏が海運業に関係するようになるのは、検討した限りにおいては、①孫之丞の次男弥三右衛門に求め ることが出来そうだが、 それは中村氏だけでなく、 琉球の子孫にとっても時宜を得た選択であったと言えそうである。 というより、薩摩久志に流れ着いた、謂わば他所者としての中村氏にとって、此の地において農業や漁業で生活を 確保出来る条件はあまりにも乏しく、生きながらえていくためには久志という土地に依存する度合いの希薄な水夫と いう選択肢しかなかったというのが実情だったのかもしれない。中村氏が久志での蓄財に成功したのは、彼らの才覚

16)

17)

18)

19)

(27)

によるところが大であることは言うまでもないだろうが、何よりも琉球・薩摩・大坂・京都という物品流通経路の海 運業に参入できたからであり、その逆の経路で真宗は琉球に伝播し、やがて仲尾次政隆という琉球史上傑出した宗教 家を輩出することになる。

[註]

1) 猷「 ―」(『  )。降、

普猷論文からの引用はいずれも本論文に拠っているので、註記は省略する。 (2)

  『那覇市史』家譜資料(四)那覇・泊系

 資料篇 第1巻8 一九八三年。

(3) 拙稿「《史料紹介》本願寺史料研究所所蔵 浄土真宗琉球関係史料」(『神女大史学』第二十六号 二〇〇九年)

(4) 拙稿「浄土真宗琉球伝播の時期と薩摩門徒」(『沖縄文化』第四十五巻一号 二〇一一年)

(5) 前註(2)六七頁。

(6) この書物には発行年の記述がない。参考にしたという資料の最新発行年から一九九四年以降に著されたと推察される。

(7) 前註(4)

(8) 前註(4)

(9) 拙稿「近世地域真宗史料の宝庫 ―琉球関係史料を中心に―」(『本願寺史料研究所報』第

43号 二〇一二年)

10)     藤等影『薩藩と真宗』一三七~一四〇頁一九一六年。『正光寺の歩み』一八九頁一九八三年。

11)    昭「運・―」(『

 二〇〇五年)

12)  『鹿児島県史料

 薩摩藩法令史料集二』 六三四頁 二〇〇五年。

13) 稿「」(念『年。ち『

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