忘れられた兵士 : 戦争中の日本に於けるインド留 学生
著者 グッドマン グラント K.
会議概要(会議名, 開催地, 会期, 主催 者等)
会議名 : 日文研フォーラム, 開催地 : 国際交流基 金 京都支部, 会期 : 1990年4月10日, 主催者 : 国 際日本文化研究センター
ページ 1‑30
発行年 1991‑03‑29 その他の言語のタイ
トル
Forgotten soldiers : Indian students in Japan during world war II
シリーズ 日文研フォーラム ; 21
URL http://doi.org/10.15055/00005749
第21回 日 文 研 フ ォ ー ラ ム
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忘れられた兵士
戦争中の日本に於けるインド留学生
ForgottenSoldiers:IndianStudentsinJapanDuringWorldWarIl
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グ ラ ン トK.グ ッ ドマ ン
GrantK.Goodman
国 際 日本 文 化 研 究 セ ン タ ー
日文研フォーラムは︑国際日本文化研究センターの創設にあた
り︑一九八七年に開設された事業の一つであります︒その主な目的
は海外の日本研究者と日本の研究者との交流を促進することにあり
ます︒
研究という人間の営みは︑フォーマルな活動のみで成り立ってい
るわけではなく︑たまたま顔を出した会や︑お茶を飲みながらの議
論や情報交換などが貴重な契機になることがしばしばあります︒こ
のフォーラムはそのような契機を生み出すことを願い︑様々な研究
者が自由なテーマで話が出来るように︑文字どおりインフォーマル
な﹁広場﹂を提供しようとするものです︒
このフォーラムの報告書の公刊を機として︑皆様の日文研フォー
ラムへのご理解が深まりますことを祈念いたしております︒
国際日本文化研究センタi
所長梅原猛
● テ ー マ ●
忘れられた兵士
戦争中の日本に於けるインド留学生
ForgottenSoldiersIndianStudentsinJapan DuringWorldWarII
● 発 表 者 ●
グ ラ ン トK.グ ッ ド マ ン
GrantK.Goodman
発 表 者 紹 介
グ ラ ン トK.グ ッ ド マ ン
GrantK.Good皿an
カ ン ザ ス 大 学 名 誉 教 授
1924年 生 ま れ 。1948年 プ リ ン ス ト ン 大 学
卒 業 。1955年 ミ シ ガ ン 大 学 に てPh.D.取 得
(日 本 近 代 史)。1962‑1989年 カ ン ザ ス
大 学 歴 史 学 部 及 び 東 ア ジ ア 研 究 セ ン タ ー 教 授 。
ア イ ル ラ ン ド 、 イ ギ リ ス 、 フ ィ リ ピ ン 、
オ ラ ン ダ 、 ポ ー ラ ン ド で 客 員 教 授 と し て 近 代
日 本 史 を 教 え る 。1989年10月 一1990年10月
国 際 日 本 文 化 研 究 セ ン タ ー 客 員 教 授 と し て
来 日 。
主 な 著 書:
OFourAspectsofPhilippine‑Japanese Relations,1930‑1940(NewHaven:Yale UniversitySoutheastAsiaProgra皿.
1967)
ODavao:ACaseStudyinJapanese‑
PhilippineRelations(Lawrence:
Univers二tyofKansasEastAsianSeries, 1967)
OFromBataantoTokyo:Diaryofa FilipinoStudentinWartimeJapan:
1943‑44(Lawrence:UniversityofKansas
EastAsianSeries,1979》(南 方 特 別
留 学 生 ト ウ キ ョ ウ 日 記 ζ 編 訳 高 橋 彰 、
秀 英 書 房 、1982) 024in'44:FilipinoStudentsinWartime
Japan(QuezonCity:Universityofthe PhilippinesAsianCenter,1985)
Oア メ リ カ の 日 本 元 年1945‑1946(東 京:
大 月 書 店 、1986) OJapaneseCulturalActivitiesin
SoutheastAsiaDuringWorldWarII (NewYork:St.Martin'sPress (forthcoming))
四十五年前に第二次大戦争が終わりました︒今日︑幸いにその戦争の歴史は今
の世界の大部分の人々の目から見れば︑古代歴史と同じようになってきました︒
それに係わらず︑僕は歴史学者として︑その戦争のインパクトを今でも研究して
おります︒特に日本とアジアとの戦争中の文化関係が︑僕の専門です︒例えば︑
近いうちに﹃戦争中︑東南アジアでの日本の文化努力﹄というタイトルの本を︑
アメリカで英語で発表するつもりです︒けれども︑その本は東南アジアをほとん
ど全部含みますが︑インドは南アジアですから︑その本に含められていません︒
今日は戦争中のいちばん大事な︑日本のインドに対しての文化努力を説明しよう
と思います︒その上に僕の意見で︑今まで多分︑日印文化関係の立場からいちば
ん有効なプログラムを表します︒その話を述べるのは大事なことだと思います︒
この話は少し面倒ですが︑みなさんには出来るだげ簡単に語るつもりです︒
最近日本でもアメリカでも︑東南アジアでも︑戦争中の日本におけるアジアか
らの留学生についての研究はよく進んでいます︒特に﹁南方特別留学生﹂︑ある
いは﹁南特﹂について段々情報が増しています︒約三百人の﹁南特﹂は︑ビルマ︑
ジャワ︑スマトラ︑マライ︑フィリピン︑ボルネオ︑セレベス︑セラム︑仏印︑
タイ国から︑戦争中日本へ留学するために来ました︒僕は前にそのフィリピンの
1 一 一
﹁南方特別留学生﹂についての本を書きました︒
しかし︑その大変野心がある予定と同時に︑ほとんど知られていない予定は︑
インド系の留学生の予定でした︒インド系という言葉は︑インド人というよりも
正しい言い方です︒インド系の留学生はインドから来ていません︒戦争中日本は︑
もちろん︑インド本土を占領しませんでした︒インド系の留学生は日本の占領し
た︑マライとシンガポールのイギリスの植民地時代の在留インド移民の家族から
選ばれていました︒このマライ半島から徴募されたグループは︑全員で螽人で︑
スバス・チャンドラ・ボーズのインド国民軍の︑東京士官︑インディアン・ナシ
ョナル・アーミー・トウキョゥ・カデッツと呼ばれて来ました︒そして同じ時に
日本で勉強させていました︑﹁南方特別留学生﹂と同じようにすごくよく選ばれ
ていて︑一生懸命に日本語と日本の文化を習って︑とっても真面目に将来の任務
を考えていました︒
一九八九年一月︑インドで僕は二人の前インド国民軍の東京士官と詳しい面談
をもつ珍しい機会がありました︒もちろんその二人の︑その時代の経験は彼ら自
身にとってもユニークでしたけれども︑彼らは戦争中︑日本へ危ない旅行をした
グループの基本的な性格を語り︑日本で勉強する意外な機会に対する反応を示し
一2一
てくれました︒この二人は僕の目から見れば︑非常に頭が良くて︑すごく巧みで︑
言葉が上手いです︒そして彼らは︑その時代に一緒に住んでいた日本人に対する
態度は︑今日までにすごくいいです︒この二人は︑この今日の講演の目的に沿っ
てD大尉︑(彼はエア・インディアの大尉に後でなりました︒)それとSさんと
いう二つの名前で呼ぶことにします︒今日の話の内容はある程度までその二人の
若くて︑熱心で︑愛国的なマライ在留インド系の日本への留学生の詳しい話によ
ります︒
D大尉は︑一九二六年︑マライのペラク州のヤシのプランテーションに生まれ
て︑そのプランテーションのインド系の医者の息子さんでした︒
Sさんは︑一九二三年に生まれて︑お父さんはマライのセランゴル州の︑ビジ
ネスマンでした︒
両人のお父さんたち鳳︑インドで生まれています︒D大尉のお父さんは︑イン
ドからマライへ移民した時︑もう医者でした︒D大尉はお父さんと同じように医
者になるつもりがありましたから︑太平洋戦争が勃発する前に︑医学教育をシン
ガポールで始めました︒Sさんは英語での教育を受けて︑英語での高等学校に戦
争の前に入ったことがありました︒その二人の言ったところによると︑戦前︑日
一3一
本も︑日本人もほとんど知りませんでした︒D大尉の思い出によると︑彼のマラ
イの田舎の街に日本人の商人と︑日本人の散髪屋さんもいました︒その他にD大
尉は︑子供の時のおもちゃが日本人の店から来たと覚えていました︒けれども︑
彼の全くの初めての日本人に対しての印象は︑マライ半島の日本の侵略の極悪か
らうけたものでした︒D大尉の日本人の印象の第一番目は︑マレーの中国人の無
慈悲な虐殺を見た時でした︒その上に勝利の感激に酔った日本人は︑征服された
マレーの住民から最敬礼を要求して︑住民に大声で分からない言葉を使って︑命
令していました︒二人のよく知られた︑キリスト教のインド系の医者を日本人が
殺す前に︑彼らは︑彼ら自身の墓を掘る必要があったことをD大尉は︑語りまし
た︒Sさんの経験から言えば︑日本の兵隊は彼の自転車を盗んで︑とってもギョ
ッとさせました︒
一九四二年︑医学の教育をやむを得ず止めて︑D大尉はマライ占領政府の敵の
財産の管理部に︑下位の文官として職を奉じていました︒そしてD大尉の場合に
は︑この仕事が彼を直接に日本人の世界に︑初めて接触させました︒一九四二年
五月︑日本人はシンガポールで︑興亜訓練所という学校を成立して︑その目的は
マライの下位の公務員に日本語と日本文化を習わせるためでした︒興亜訓練所は
一4一
軍政幹部大佐とブダン軍政の政策の建築家︑ワタナベカオルという人の頭脳の所
産でした︒前の日本人墓地の近くにあるヨウチェン・ロードにあった︑昭南︑シ
ンガポールですね︑昭南興亜訓練所は八十四人のマライ系︑中国系︑インド系の
士官を含めて開かれていました︒
ワタナベ大佐の考えによると︑その訓練所で十七歳と二十五歳の間の若いマラ
イ国民を選んで︑彼らを特別訓練して︑日本の元のマライ政府の中階級の職員に
するつもりでした︒その目的でマライの総ての州は︑いちばんいい二人か三人の
公務員を選んで︑訓練所で三カ月の集中的︑軍補助的な訓練をさせます︒昭南興
亜訓練所の志望者を選ぶ方法では︑試験はありませんでしたけれども︑マライで
の日本軍政の公務員は非常に慎重に︑よく知られた志望者を選びました︒選んだ
志望者はD大尉のようにほとんど皆が優れて︑あるいは金持ちの家族の出で︑大
部分は上級のエリートの学校︑例えばラッフルズ・カレッジで教育されていまし
た︒ワタナベ大佐の計画によると︑興亜訓練所の士官は︑日本語と道徳的な訓練
と精神的な見解を発達させる目的で︑日本的な教育を経験するはずでした︒ワタ
ナベ大佐は︑就任演説に︑﹁士官が個人的な習慣を忘れて︑日本精神の原理と︑
日本精神の意味を習わなければなりません﹂と言いました︒それを達成するため
一5一
に彼らは︑辛苦に耐えるのと︑何も問わないで従うこと︑も必要でしたと︑ワタ
ナベ大佐も言いました︒
D大尉の思い出によると︑軍政部の日本人の先生たちは︑興亜訓練所でとって
も丁寧でしたが︑とても厳しくもありました︒興亜訓練所の訓練プログラムは︑
実に日本陸軍の初めの年の徴募兵の訓練と同じようなものでした︒そして︑訓練
所の雰囲気は非常に抑制されて︑規律正しいものでした︒朝から晩まで士官は精
神の息をしました︒強く︑恐れることなく︑日本の意味での本当の男にならなく
てはならない︑と日本人の先生がいつも教えていました︒その先生の言ったとお
りで︑日本精神がなければ男でない︒興亜訓練所での時間表は詳しくて厳しい︒
起床・号音は六時︑士官は自分で布団を片づけて︑早く歯を磨いて︑イスラム教
の士官も特別の部屋で朝の祈りを早くしました︒みんなはカーキ色のユニフォー
ムを着て︑カーキ色のキャップを被って︑外で点呼がありました︒次の礼式は旗
を挙げるので︑東京の宮殿の方向に頭を下げるのでした︒それからいつものよう
にラジオ体操をしてから︑一緒に日本語で生徒信条を朗吟しました︒生徒信条と
いうのは︑日本人とちょうど同じものでした︒内容は規則の厳守︑誠実︑努力︑
体と心の訓練︑節倹︑共同︑正直正義︑日本帝国に忠義を主張しました︒七時半
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