社会科学
フランツ・
L・
ノイマン 高木正道・厨子光政訳原典 :Franz L.Nemann,"The S∝ ial Sciences",in:Franz Lo Neumalln,Henri Peyre,Erwin Panoお
ky,Worgang
陽hler,and Paul Tillich,動ιC
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万,htroduc■ on by W.Rex Crawford(1953,Philadelphi→
,pp.4‑26.「 もし祖国が私なしで済ますことができるので あれば、私 も祖国な しで済 ますことがで きる。世 界は十分 に広いのだか ら。」これは、偉大 な「 自 然」法学者であ り国際法学者で もあったフー ゴー・グロテイウスが、1621年 にオランイェ公 マウリッツによる投獄か らうまく逃れたあ とで 書いた言葉です。グロテイウスは
lo年
間パ リで 暮 らさざるをえませんで したが、その亡命地で かの有名な『戦争 と平和の法』 を書 きました。しか し、グロテイウスが語つた心情 と彼の運 命が、現代の亡命者の心情 と運命で もある、 も
しくはあ りうる、と考 えてはな りません。
2つ
の ことが、つまり知識人の役割 と知識人をとりま く社会環境が、根本的に変わって しまったか ら です。知識人 とは、歴史上のそれぞれの時代 におけ る批判的良心であ り、またそうであるべ きです。
知識人の役割は、批判的に社会 を見つめ、 どの 程度社会が 自由を実現 しているか、あるいは逆 に自由をいかに実現 していないかを示す ことで す。なぜそうでなければならないかを、ここで 論証することはで きません。 これは、社会政治 論の中心 にある自由の概念か らの帰結です。イ ンテリゲンチャは、この自由の概念 を手放 して はな りません。過去現在 を問わず、 どんな社会 も人間の 自由を十分 に実現することがで きず、
それで、いついかなる社会において も知識人の 批判的役割が必然的に要請 されます。知識人は
社会の良心です。ある意味ではそれが理由で、 知 識人は追放されます。なぜなら、良心はいつも 煩わしいもので、特に政治においはそうだから です。それゆえ、知識人の批判的役割を極めて 印象的に具現 しているソクラテスは、哲学者を
「永遠の外国人」 と呼んでいます。というのは、
哲学者は、あらゆる形態の政府、あらゆる社会 をその「哲学的本性 」について問いただすから です。ソクラテスは自らの信念をこう表現 して います。「いま初めてではなくこれまでもずっ と、私は、よくよく考えたうえで最良のものと 思われる内面の声だけに従つてきました。だか ら、このような運命が私に降 りかかつてきたか らといって、かつて表明した原則を今さら撤回 することはできません。
2」知識人の役割についての以上のような一般化 は中途半端なものですが、ここではこれで十分 でしょう。これは、異なる政治システムのもと で知識人たちが耐えている異なった運命を分析 するための準備でしかあ りません。
ギリシアの都市国家では、 知識人の役割が、き わめて難 しく、またきわめて危ういものであっ
たことは明らかです。〔そこでは〕政治と文化は ひとつです、あるいは少な くともひとつの もの として表 されています。既知の世界の文明は一 箇所 に集中 しているため、それ以外の世界 は異 邦人の世界であるか、あるいはそう見 えることにな ります。文化 と政治が同一のものであると
社会科学
すれば、追放は死 を意味 します。
しか しなが ら、ヘ レニズム・ローマ帝政の時 代 を迎 えると状況は変わ り、ある程度の自由が 知識人に許 されることにな ります。というのは、
政治に関与 しない限 り、知識人は寛大 に扱われ るからです。政治 と文化はもはや同一の もので はあ りません。エ ピクロス主義の政治哲学が 目 ざしているのは、知識人―一かれ らは、 もはや 国家に正義 を期待せず、秩序 と安全の維持 しか 望みません一―が、政治か ら身を引 くことの正 当化です。 これにたい して、政治的道徳への要 求を掲 げたス トア主義は、厳 しい衝突に至 りま す。このような状況下での追放は、道徳的には それほどの痛手 とはならないけれ ども、知的に はやは り壊滅的な打撃 とな ります。 アウグス トウス に よって黒海沿岸 に追放 されたオウィ デイウスの悲嘆は、 自身の寄与によつて新 しい レベルヘ と高めたローマ文明 と深 く関わつてい た詩人の落胆 を見事 に描いています。
第
3の
状況は、内容の点ではキリス ト教的で、形式 と言語の点ではラテン的な普遍的文化です。
そこでは、追放はほとんど居所の変更にす ぎま せんで した。宮廷 と大学は しば しば競 って亡命 学者 を迎え入れました し、国籍の違いはなにも 意味 しませんで した。広い地域が同質の宗教で 覆われ、文化の領域 において教会が支配的で不 動の役割 を果たす ようになると、追放 された知 識人は、 どこへ行 つて もや り甲斐のある活動分 野を見つけました。実際、遍歴学者は一一その 遍歴が選択 によるものであれ強制 によるもので あれ一― ごく普通の現象で した。
しか し、例外が
2つ
あ ります。それは政治学 者 と異端者の場合で、かれ らの状況 にはこの一 般論が完全 には当てはまりません。ここでは、異 端者について述べ るつ もりはあ りません。ダン テとパ ドバのマルシリウスが政治学者の典型例 です。「外国のパ ンはなんと塩辛 く、外国の階段 は上 り下 りがなんと困難なことか」 と語 るダン テの言葉は、 フイレンツェを去 らねばならな く なったダンテの心情 を表 しています。しか し、ダンテは政治家であると同時に、詩人であ り学者 で した。そ して追放 は、いわば政治人 (λο ο
′οJj虎″
s)と
しての彼 を破壊する一方で、かれを 詩人および学者 として完成 させたのです。ダン テの場合、追放が彼の政治観 を根本的に変えま した。 ヴェローナ、ボローニャ、パ リ、オック スフォー ド、ロン ドン、ケルンと、かれの旅先 をい くつか挙げるだけで も、ダンテはいろんな ところに移 り住んでいます。この過程で彼 は、狭 い政治的地方主義か ら抜けだ し、ある政治観 に 到達 しました。その政治観は、14世紀 にはたい した影響力 を持 ちませんで したが、地方主義や ナシ ョナリズムに対抗する政治観 として生 き続 けることにな りました。 ̀もうひとりの政治学者であるパ ドバのマルシ リウスは、パ リか ら追放 されると、さっさと別 の政治システムーーバイエルン公ルー トヴィヒ の政治システムーー に仕 え、『平和の擁護者』で 理論的に展開 した完全 に世俗的な国家 という壮 大な計画をルー トヴィヒの力 を借 りて実践 しよ
うとしました。
しか し、キリス ト教の拡張期 は、文化 と政治 の完全な一致 という最初のタイプの状況にわれ われを連れ戻 します。この点 を認識することは 一一特 にナシヨナリズムを正 しく認識するうえ で一一重要です。言語の変化 を見 ると、私の言 わんとすることが よく分かると思います。
ローマは、かつてギ リシアで もそ うであった ように、反政府的な知識人や芸術家 を追放刑 に 処 しま した。 この刑罰 を表す一般 的な用語 は 数 協 れαガοです。この語は文字通 り国境の向こ うへの放逐 を意味 します。 しか し、この用語の 意味は3世紀頃か ら変わ り、現在のような意味、
つまり肉体の破壊 という意味 を持つようにな り ました3。 こぅした変化が起 こった理由は、キリ ス ト教の普及 と宗教の政治への浸透です。この 意味上の変化の社会学的過程は、 もちろん容易 に理解で きます。それは、新 しい価値体系が押 しつけられ、この新 しい価値体系が世俗社会に あまね く浸透 していき、反対派 を異端者に仕立
フランツ・L。 ノイマ ン
てあげることになったのです。敵対者 を許す こ とがで きなかったのは、かれらが信仰 を汚すだ けでな く、反抗の中心 になることもあったか ら です。社会を統合する要因が、そ もそ もその構 成員の合理的な合意ではな く、宗教的あるいは 半宗教的信仰である場合 には、必ず同 じような 状況が生 じます。ルソーの『社会契約論』の最 終章「市民宗教」は、その近代版です。同章で ルソーが主張するには、彼の描 く社会は、真の 共同体精神がその力 を発揮で きるようにするた めに、新 しい市民宗教 を必要 とするのです。共 同体の道徳的原理 に違反する者はそこか ら排除 されることになっています。道徳的原理 に違反 しているのに、従 っていると嘘を言 う者は、死 刑に処せ られることになつています。ロベス ピ エールは実際、恐怖政治のもとでルソーのこの 最終章 を実践 しました。この問題 には もう一度 あ とで触れます。
しか し、いったんキリス ト教が しつか りと確 立 して しまうと、中世の知識人は教会 と国家の あいだで羨ましい地位 を享受 しました。かれ ら は、終わることのない両者の対立か ら漁夫の利 を得て、異端者や政治的異分子であって もある 限度内で 自分の天職 に携わる自由を与 えられま した。 また、特権 を持 つた自治的社団の一員 と なって、居所 を変え、いわば自分の社会的基盤 をもち運ぶことがで きました。
国民国家が形成 されると、新 しい状況が生ま れます。この過程 において、
2つ
の局面が認め ら れます。すなわち、国家機構の確立 と国民意識 の出現です。これ ら2つ
の段階を統一する概念 が主権の概念です。 これによつて、政治 と文化 との、また知識人 と国家 との基本的に曖味な関 係がつ くりだされます。国家主権が意味すると ころは、国家 と社会 との、また政治 と文化 との 根本的な分離です。国家は、社会か ら切 り離 さ れた制度のように見 えるだけでな く、実際に切 り離 された制度 としてつ くられます。こうして 国家は、法 によつて禁止 されていない意見、つ まリリヴアイアサ ンの運営 に直接有害でない意見には寛容に対処するようになります。 しかし 同時に、リヴアイアサンは、その権力がキ 1限 さ れるのを認めようとはしません。私は別の箇所 で、近代政治理論の基本的ジレンマを次のよう
に定式化 しました。
政治哲学における問題 とそのジレンマは、自由と強 制の折 り合いをどうつけるか とい うことである。貨幣 経済の出現 とともに、制度 としての国家が現れる。こ の国家は、貿易や商業が繁栄 し市民が労働か ら得 る利 益 を享受で きるような安全な基盤 を提供するために、
強制権力の独 占が必要だ と主張する。しか し、この〔 国 家 という〕制度 をつ くりあげ、国家の主権的権力 を承 認することよって、市民 は、保護 と労働の利益 とを奪 い とることので きる
(また実際 にしば しば奪い とっ た
)装置 をつ くりだ した。そこで市民たちは、国家の 主権的権力 を正当化する一方で、同時に強制権力の制 限を正当化 しようとした。マキアヴェリ以降の近代政 治思想史は、権利 と力の両方 を、法 と権力の両方 を正 当化 しようとして きた歴史である。この
2重の正当化 を問題 にしない政治理論はない。絶対主義の最たる理 論
(ホッブズ とス ピノザ
)でさえ、個人の権利 を否認 するように見 えなが ら、背後ではそれを認めている。
ホ ッブズは、主権者を一種の社会の仕事請負人に変え ることによって。つまり、主権者は、自分の仕事 を順 調 に行 っているあいだは全権力 をほ しいままにで きる が、秩序 と安全 を保障 しそこなうと権力 を失 って しま うのである。ス ピノザは、権利 は力 な りとい う定式 に よって、その社会的権力 を権利 に変えることがで きる ほど強力な社会集団であれば、それがいかなる社会集 団であろうと、他権者
(α姥ガ
sJ"麻)から自権者
(s j j麻
)に変わることを認めている。権利 と法の主唱者 であるロックは、もし権禾
1と法が国家 を危険に晒す よ うなときには、法がな くて も、ときには法 に反 して も 行動で きる君主の特権 を認めざるをえない と感 じてい た。
4近代政治理論のこの ような根本的曖味性 は、
知識人の曖味な地位 にも現れています。
ナシヨナ リズムの成長に先立つ最初の段階で
社会科学 140
は、追放者にとって一一特 に技能 (軍事、行政、
司法、財政に関する技能)を持つ者 にとっては
――それほどの困難はあ りません。なぜ なら、こ れ らの技能は、絶対君主たちが 自国の官僚機構 をつ くりあげる際 に喉か ら手が出るほ ど欲 し がった ものだからです。絶対主義の初期(15。16 世紀)と啓蒙絶対主義の時代は、知識人の超国 家的性格 を解明 しようとする研究にとっての絶 好の例です。知識人は、 しば しば仕官先 と居所 を変え、ある政治権力から追放 されれば喜んで 別の政治権力 に迎えられました。
しか し、国家主権 を正当化する基盤 としての ナシ ョナリズムが、真 に近代的な問題 を生みだ します。私たちに最 も関連のあるのがこの時代 です。 というのは、国民国家がその国民 につ き つける要求は、権力を制限するためにどのよう な理論が提案 され ようとも、基本的に無制限だ からです。唯一の制限は人間の良心です。この ことをルターは明確 に認識 していました。
近代的な問題が発生 したのは、グロティウス が生 きたまさにこの時代で した。国民国家がそ の国民につ きつける要求の増大を研究するのは、
なかなか魅力的です。フランスでは、17世紀 に カ トリックとユグノーが争 うなかで、国民国家 が形成 されました。ナヴァル公 アンリ4世の王 位継承 によって終焉 を迎えた
16世
紀の宗教戦争 は、宗教的親近性や宗派的一体感のほうが、国 民的一体感 よりも強いことを実証 しました。 し か し、 リシュリューの もとで状況は変わ りまし た。いつの間にか、国民国家の要求が、ほかの すべての忠誠心 にとって代 わっていました。こ のことは、有名なラ 。ロシェルの包囲の ときに、きわめてはっきりと表面化 します。カルヴァン 派のラ・ロシェル市民は、イギ リスのチャール ズ
1世
と条約 を結び、そのため明 らかに自国に たい して反逆行為 を犯す ことにな りましたが、それで もかれ らは条約のいかなる部分 もそのよ うに解釈 されるべ きではない と宣言 しました。
この宗教戦争の真只中で、それに先立つ
16世
紀 の8つ
の宗教戦争 とは対照的に、国民国家の要求が宗教 の要求 と同 じくらい強い もの と感 じら れるようにな りました。
近代社会における主権 と人間の良心 との衝突 か ら、最近では「精神的移住」 と呼ばれている 新 しい現象が生 じています。それが どのような ものかは、スピノザ、メリエ師、カン ト、テオ ドール 。モムゼ ンの4人の実例 によって明 らか にな ります。4人すべてに共通 しているのは、自 分が生 きた国の政治秩序 を拒絶 しなが らも、そ れを攻撃することはで きなかった、あるいは攻 撃 しようとは しなかったという点です。例 えば スピノザは、哲学者 としての人生を送るために、
政治システムに依存することをやめました。18 世紀 に生 きたメリエ師は、その生涯 をカ トリッ
クの司祭職 に捧げました。無神論的共産主義 と しての彼の正体は、3巻か らなる『遺言集』に よつてやつと明るみに出されました。カン トは、
外見上はプロイセ ンの大学教授 として生涯を過 ごし、一度 も講義 を休 まなかったこと、また一 度 も自分が決めた日課 を欠かさず励行 したこと を誇 りに思 っていました。 しか し彼 は、革命的 な思想 を抱いていたけれども、それをあえて発 表することは しなかった、 と手紙のなかで漏 ら しました。 もっとも、真実でないことはなにひ とつ発表 したことはない、 とも書 き加 えてあ り ますが。ほんの数年前 に公表 されたテオ ドール・
モムゼンの遺言5には、真の自由主義者が嫌悪の 対象で しかない政治システムの もとで経験 した 葛藤が、隠 さずに述べ られています。彼の場合 は、政治活動への願望が学問への欲求に勝 つて いました。 しか し、これら4人には共通点がひ とつあ ります。それは、4人とも、われわれの知 識 にたい して実質的な貢献、ス ピノザ とカン ト の場合は、それに加えて革命的な貢献をしたこ
とです。
自由主義の時代一一 この時代 を私たちはみな 知識人の黄金時代 としてふ り返る傾向にあ りま す一一 には、知識人は自由な生産者です。 自由 な大学、自主独立の新聞、政党が競い合 うシス テム、これ らは、 自由な市場で自らの生産物 を
141
フランツ・
L。ノイマン
販売 して生 きる知識人にとって好 ましい ものば か りです。
16世 紀か ら19世紀 までの全期間にわたって、
「精神的亡命」、「精神的移住」は、反権力者 にとつ てのひとつの選択肢です。 しか し、たとえ実際 に祖国を去るとか、祖国か ら追放 されるとして も、比較的容易に新 しい住処 を見つけられます。
16。 17世 紀 には、宮廷移住 (と呼んで もよさそ うなもの)があ ります し、18・19世 紀の移住 に おいては、 自由な
(つ
まり「故郷 を追われた」) 知識人一一 グルツェン、バ クーニ ン、マルクス、バイロンーーが 自由に放浪 しました。
しか し、近代の国民国家のなかで新 しい現象 が起 こります。それは、近代社会の官僚制化 と、
それにともなって生 じた知識人の役人化傾向で す。知識人の役割は、 ますます難 しい状況に直 面 します。ジュリアン・バ ンダは、おのれの使 命 にたいする知識人の背任行為 を非難 し、知識 人の存在 を可能にしている道徳的原理 に背いた と咎めました。この道義的非難 をさしあた り脇 に置いて、社会学的分析 に専念するとすれば、実 際にます ます多 くの知識人が社会の役人になっ ていることが分か ります。官僚制化の過程 は、疑 い もな くインテリゲンチャにまで及んでいるの です。 ソクラテスが身をもって示 した知識人の 役割は、危険にさらされることにな ります。イ ンテリゲンチャはこうして現状の擁護者 にな り ます。ある国の文化か ら別の国の文化への移行 をとて も難 しくしているのは、こうした知識人 の地位の変化 と社会環境 の変化なのです。
このような傾向の行 きついた先が、全体主義 国家です。全体主義国家は、伝統的な強制手段 を用いるだけでは満足 しません し、満足するこ とがで きません。この点に絶対主義 との違いが あ ります。全体主義国家は、独裁体制たろうと するなら、人間の思想 を完全 に支配 しなければ ならず、そうすることによつて文化 をプロパガ ンダに変えなければな りません。思想の計画的 な堕落に耐えることので きる人はほとんどいま せん。 このような状況下での精神的移住 は、知
的活動の完全 な放棄 を意味 します。実際、
ドイ ツとイタリアの精神的移住者の知的産物は何か あったのか とい う問いには、「なにもなかった」
と答えざるをえません。精神的移住者の机の中 は空っぽで した。独裁政治の期間中に書かれて 机の中に隠された一一 そ して全体主義体制の転 覆後 に出版 されるのを待 っている一―原稿 は、
まった くあ りませんで した。 こう言ったか らと いつて、私は反ナチ知識人を攻撃 しているので はあ りません。そうではな くて、なぜ知的生産 がなかったのか、全体主義体制に反対 した知識 人の唯一の救済策が、なぜ身体的移住で しかあ りなかったのかを、説明 しようとしているので す。
すでに述べたことか らも明 らかで しょうが、
ナシヨナリズム 〔国民社会主義〕の時期の移住 は、これまで とは比べ ものにならないほど痛 ま
しい もの とな ります。知識人にとつて祖国を諦 めなければならないとしたら、居所 を変えるだ けではすみません。歴史的伝統、共有 された経 験 をすべて捨てなければな りません。新 しい言 語 を学ばねばならず、新 しい言語環境のなかで 新 しい言語 を使 つて考えた り経験 した りしなけ ればな りません。要するに、 まった く新 しい生 活 をつ くりださなければならないのです。それ
は、職業、財産、地位を失うというのではなく
(こ
の喪失だけでも十分に痛ましいことですが
)、これから ,頂 応 していかなくてはならない違う国 の文化の重みに耐えなければならない、という ことなのです。
このような順応は、移住が一一ナチス・ ドイ ツの場合のように一一耐え難い状況からの解放 であるとしても、 決 して容易ではありません。 国 民社会主義にたいする嫌悪は、決 して心理的苦 悩を和 らげてはくれません。 「政治学者 (pOuic狙
scholars)」
と私が呼ぶ人たち、すなわち、国家 と
社会の問題を扱 う知識人―一歴史学者、社会学
者、心理学者、政治学者一一にとつてさえ慰め
になりません。というよりもむしろ、特にかれ
らの場合には慰めになりません。これらの知識
社会科学
人は、政治の残忍 な事実を扱 うことを余儀 な く されました
(あ
るいはそうされるべ きで した)。敢 えて申しあげますが、特 にこれ らの政治学者 は心理的困難に直面 しました。 というのは、政 治がかれ らの関心で したか ら、かれ らは、 より 良 くもっとまともな政治システムのために積極 的に戦つた
(あ
るいは戦 うべ きだった)からです。そのため、祖国を去ることを余儀 な くされ た政治学者は、財産 と家族 をともなって追放 さ れた人間、追放 された学者、追放 された政治人
という3重の運命 に苦 しみました。
社会学的一般化 を試みるとすれば、次のよう に言 うことがで きるで しょう。
移住する知識人が、自分の社会的基盤 を移すことが で きるならば、つまり、移住先の社会的環境が これま での環境 と基本的に類似 しているならば、移住 は容易 になる。
新 しい聴衆が、以前 の聴衆 と似た ような人々か ら 成 っていて、 申 し分のない話 し相手が得 られるなら ば、知識人の移住は容易 になる。
(こ
の一対の考えはハ ンス・シュパイアーによる。)6
この
2つの カ テ ゴ リー を、
5つの状 況 に当 て
はめ て み る と、次 の よ うな結論 に達 します 。
古典古代 のギ リシアのように、文明が一箇所 に集中 し、政治 と文化がひとつであるとすれば、知識人の移 住は一般 に知的能力の衰弱 をもたらすで しょう。知識 人 としては死 んだ も同然の状態 になるか もしれませ ん。
中世の普遍的文明においては、知識人の聴衆 と社会 的基盤は、程度の差 こそあれ、どこへ行 っても同 じで した。中世の大学の学生 と教師は、実質上あらゆる国 か らやって来 ましたが、ひとつの言葉 を話 し、ひとつ の言葉 を書 き、同 じ基本的価値観 を持 つていました。
近代国家機構の生成期 には、特殊な
(特に軍事的、行 政的 )技 能 を持つ者は、実際に報酬の割増 を要求する こともで きました。かれ らの聴衆 と社会的基盤は、ど の宮廷で も本質的に同 じで した。
国民国家が出現すると、すでに示 したような理由で 知識人の移住 は難 しくな りますが、 18。 19世 紀 には、
全 く自由な移住 と同様 に精神的移住の余地 も残 されて います。
理由は明 らかだと思いますが、より具体的に論 じな くてはならないのが、ドイツの全体主義です。これは、
ドイツの実情 とドイツの知識人の立場 を分析すること によっては じめて可能 とな ります。
ドイツの知識人の精神状態 は、
1933年
よ り ずっと前か ら、懐疑 と絶望 に支配 され、 シニシ ズムに近い もので した。いわゆる1918年
の革命 は、2つ
の競合する政治理論 を生みだ しました。ウイルソン主義 とボルシェヴィズムがそれです。
これらの競合する知的潮流が ヨーロッパ と特に ドイツに与 えたインパク トは、い くら過大に評 価 して もしす ぎることはあ りません。ウイルソ ンの国内外での民族 自決 を説 く壮大な理論、戦 争 をな くすための国際連盟は、 ドイツの自由主 義 と ドイツの民主的労働運動 を鼓舞 しました。
レーニ ンの革命 は、労働者 と知識人の一部 に とつては、千年至福説的な偉業のように見えま した。抑圧 を終わらせ、個人を解放 し、政治権 力 を廃絶する革命のように見 えたのです。
どち らの理論 も挫折 しま した。民主主義が とつ くに失敗 していたのは、それが敗北 とあま りにも強 く結びついていたか らです。 ドイツの 民主主義は、アングロサクソン諸国で見 られた ような自力 による高揚 を経験 したことが一度 も あ りませんで した。 ドイッの自由主義は、 ビス マルクによって堕落させ られ、帝国主義的拡張 と引 き換 えに自由を売 り渡 して しまっていまし た。 ドイツ社会民主党は、巨大な官僚機構 と化
して、高賃金 と引 き換 えに社会的自由を売 り渡 して しまっていました。そ してボルシェヴィズ ムは、暴力機械へ と変貌 して しまい、マルクス の哲学 を悪用 して、対外的にはソ連の国力増強 に専念 し、対内的には支配派閥の圧殺 に熱中 し ました。
この空白期 に、伝統的なナシ ョナリズムの理
フランツ 。L。 ノイマ ン
論、復古的な理論が、
ドイツの知識人 と特 に大 学生活 を再び支配 しは じめました。大学が、ま さに反民主主義の中心 となったのです。誤解の ない ようにしてお きましょう。私は、民主主義 を説 くことが大学の使命だとは考えていません。
この点では、マ ックス・ウェーバーが『職業 と しての学問』 という有名な講演で述べた考えに 完全 に賛成 します。しか し、民主主義 を嘲笑 し、
ナショナ リス トの情念 を煽 りたて、過去の制度 を誉めそや し、さらにこのことを隠すために自 分は「非政治的」であると主張することは、 も
ちろん同様 に大学の役 目ではあ りません。
私の個人的な経験 を話 させて ください。私が 1918年 の春 にブレスラウの大学に来たとき、こ の大学の高名な経済学者は、彼の最初の講義で、
無賠償 。無併合の平和 を説 く
1917年
の平和決議 を非難 し、ロンウイとブリエの併合、ベルギー の ドイツ保護領化、東欧の広大な地域の ドイツ 植民地化、そ して海外植民地を要求 しました。さ らに高名な文学の教授 は、カン トの観念論哲学 に敬意 を表 したのち、その哲学か らドイツの勝 利、ドイツの君主制、そ して実質的に前者 と同 じような講和条約 を、定言命令 として導 き出 し ました。私が
1918年
の秋にライプツイヒに来た とき、そこの経済学の教授 は、1918年
の10月
と いう時点になってさえ、全 ドイツ同盟 と参謀本 部の講和条約 を支持することが必要だ と考 えて いました。また歴史学者は、民主主義は物質偏 重のアングロサクソンにはふさわしいけれ ども、本質的に非 ドイツ的な政治組織の形態であつて、
ゲルマ ン民族の理想主義 とは相容れない もので ある、と結論づけていました。1919年 の夏にロ ス トックに移 った とき、私 は大学教授 たちに よって公然 と説かれた反ユダヤ主義 と闘うため に、学生 を組織 しなければな りませんで した。最 後 にフランクフル トに移 った とき、私が直面 し た最初の仕事は、相当数の教授 に秘かに支持 さ れた学生たちによる政治的。身体的攻撃か ら、新 任の社会主義者の大学教授 を守る手助けをする
ことで した。
こうした教説を宣伝 した り実践 した りしてい たのは、決 して三流の教授ではな く、それぞれ の大学のいわゆる権威だったことを認識するの は、当を得たことです。ヴイルヘルム・フォン・
フンボル トの偉大な伝統はもはや存在 しません で した。フレデリック・リルゲは、『学問の悪用』
という小 さな本で ドイツの学問の変容 を鋭敏 な 感覚で正確 に描いています。
確かに
1924年
から1930年
のあいだに小春 日和 の時期があ りました。共和国は確立 したように 思われました。革命、カップー揆、ルール占領、インフレーシ ョン、ヒ トラーのビアホールー揆、
共産主義者の蜂起一一 これ らはすべて遠い過去 のことのように思われました。ウイルソン主義 が前進 しているように見 えました。アメリカの 繁 栄 は ドイ ツ に強 烈 な印象 を与 え ま した。
「フォーディズム」一一 ドイツではこう呼ばれて いたのですが一一 は、あ らゆる問題 を解決 して くれるように思われました。そこへやつて来た のが、1930年 、大恐慌、失業、そ して政治構造 の段階的な崩壊で した。それ とともに、 ドイツ の大学内では復古的な傾向がいっそ う強 ま り、
小春 日和で大いに達成 されたかに見 えた成果は 無 に帰 して しまいました。というよりもむ しろ、
ナチズムを生みだ したのです。
ナチズムによってひき起 こされた知識人の移 住 は、それ以前の もの とは根本的に違っていま した。
4つ
の理由を指摘することがで きます(4
つの理由すべてがひとりの人間に同時に存在す ることもあるで しょうし、また しば しば実際に そ うで した)。 それらは、政治的理由、民族的理 由、宗教的理由、そ して道徳的理由で した。政 治的な動機 によつて移住 した人々には、実際 に、
保守的なナシ ヨナリス トか ら共産主義者にいた るあらゆる政治的志向の人が含 まれていました。
ですか ら、亡命者たちのあいだに政治的な統一 は存在 しなかつた し、また存在 しようがあ りま せんで した。第
2は
民族的な迫害で、体制 に反 対 したか否かを問わず、ユ ダヤ人のグループが 迫害 を受けました。そのなかには、半混血のユ社会科学 144
ダヤ人や四半混血のユ ダヤ人 さえもい ました。
第
3の
理由は宗教的なもので した。ナチズムは、反宗教闘争 を戦略的な理由か ら完遂することは で きませんで したが、明 らかに反キリス ト教的 で したか ら。そ して最後が体制にたいする道徳 的嫌悪感で した。 これには、体制の不道徳性の ゆえに「精神的移住」 さえも不可能だという確 信が結びついていました。
このように、
1848年
の移住 とは違 っていまし た。こちらのほうはまった く政治的な理由によ るもので、そうであるがゆえに、移住は一時的 なものにす ぎない と亡命者は考えていました。しか し、ナチズムは単に ドイツの政治システ ムを変えただけではあ りません。 ドイツその も のを変えたのです。当初か らの亡命であれ、少
し間をおいてか らの亡命であれ、多 くの人たち にとって、
ドイッとの絆の最終的切断は自らの 存在 を意識的に移植することで した。
ここで再び私の経験 について述べたい と思い ます。 ドイッの近 くにいて ドイツとの接触 を絶 やさないために、私は最初の
3年 (1933〜 36年
)をイギ リスで過ごしました。ロン ドン・スクー ル・オブ 。エ コノミクスの大学院で政治学の研 究 を続行するかたわら、私は難民の政治活動 に 積極的に参加 しました。体制を内部か ら転覆す るという望みを葬 らざるをえない と認識するよ うになったのは、ほかならぬイギ リスにおいて で した。イギ リスの政権党グループの宥和政策 と、当時は野党であった労働党の平和主義 を見 て、私やその他の多 くの人々は、ナチ体制は弱 まってい くどころか、 ヨーロッパ列強の支持 を 得てます ます強 くなるだろうと確信 しま した。
こうして、(心理的 。社会的 。経済的な)断絶が 不可避 とな り、新 しい生活が始 まることにな り
ました。
しか し、イギリスは新 しい生活 を始める国で はあ りませんで した。私
(や
他のすべての人々)はイギ リスをとて も愛 してお りましたが、イギ リス社会はあまりにも均質的であまりにも柔軟 性 に欠け、(特に失業 という状況下では
)雇
用機会 も限 られ、政治はあまり心地 よい ものではあ りませんで した。イギ リス人にな りきることは 到底で きないだろう、 と私は感 じました。こう して合衆国が、3重の移行(人間として、知識人 として、政治学者 として)を遂げるという試み が うまくい きそうな唯一の国と思われたのです。
この移行が成功 したのは、私だけでな く他の 多 くの人たちの場合 も、なによりも合衆国 とそ の国民ならびに大学のおかげです。このことは、
ドイツの大学の物質的 。非物質的報酬のほうが 全体的にみてここよりも良 くなっているにもか かわ らず、
ドイッに戻 るのを選んだ亡命者はご く少数であるとい う驚愕すべ き事実 によって、
証明 されています。
1936年
に合衆国に亡命 してきた知識人がここ で受 けた決定的な印象 は どんな ものだったで しようか。思 うに、消えずに残 っている3つ
の 印象があ ります。ローズベル トの実験、国民の 性格、そ して大学の役割です。ローズベル トの実験 とアメリカ国民の性格が われわれにとって何 を意味 していたかをここで 詳 しく分析することはで きません。懐疑的な ド イツ人にとってさえ、ローズベル トのシステム は、
1917年
以来宣伝 されて きたウィルソン主義 が単なるプロパガンダではな く、現実であるこ とを意味 してお りました。それは、ドイツ共和 国崩壊の原因 となったあの同 じ問題 を、好戦的 な民主主義が解決で きた実例で した。
同 じように、そ しておそ らくそれ以上に印象 的だつたのは、アメリカ国民の性格、その持 ち 前の親 しみやす さ、同志愛 に近い隣人精神です。
多 くの人たちが 〔アメリカ人の〕こういった特 徴 を分析 した り歌で誉め讃えた りしていますの で、私がそれをくり返す必要はないで しょう。ア メリカ社会の開放性は、ひとたびヨーロッパ と、
特 に ドイツと絶縁 した者が、この社会に再統合 されるプロセスを、す こぶる容易にして くれま した。
で も、学者にとって最 も重 きをなしたのは大 学で した。すでに申しあげましたように、これ
フ ラ ンツ 。
Lまで と類似 の社会的状況 に身 を置 ければ、学者 に とってある文化か ら別の文化へ の移行 は楽 に なる と思 われ ます。 しか し、 ドイツと合衆 国の 状 況 は、大学事情 の点で似 ているで しょうか。そ れ とも、相違点のほ うが類似点 よ りも大 きいで
しょっか。
ドイツの学問は一般 に 3つ の知的 な影響 の も とにあ りま した。
ドイツ理想主義 、マル クス主 義 、そ して歴 史主義 です。これ ら 3つ はすべ て、
あ らゆる現象 をその体系 内に納 め ることを要求 す る包括 的 な思想体系である とい う点で共通 し てい ます。 これ ら 3つ はすべ て、歴史的伝統 を 非常 に重要視 してい ます。 ですか ら、
ドイツの 学者 の思考 はなによ りもまず理論 的・歴史的で、
経験 的・プラグマチ ックである こ とは稀 で した。
これが 懐疑主義 を助長す ることにな ります。歴 史的 に思考す る学者 に とって、歴史的過程 は し ば しば以前 のパ ター ンの くり返 しです。革新的 な出来事 は こう して「主要 な歴史的傾 向」 の犠 牲 に されて軽視 され ます。 これ は一一 も しマル クスの理論 におけるように、歴史は特定の方向 に進 むのだ と考 え られ るな ら―― 急進主義 を助 長す るで しょう。 そ して これ は常 に、教条主義 とほ とん ど変 わ らないある種の厳格性 を助長す るのです。
そ もそ も理論 的・歴史的 アプローチ には、ア ングロアメ リカの哲学 にたいす る軽蔑が付随 し てい ます (あ るい は、付随 してい ま した
)。私 の 哲 学 の教授 が ロ ックや コンデ イヤ ックや デュー イを小馬鹿 にす るの を今で も耳 に します。一方 ホ ワイ トヘ ッ ドは当時沈黙 をもって遇 されてい
ま したが、今 も同 じです。
こう して、全体 的 にみ る と、理論 と歴史 を崇 敬 して経験主義 とプラグマ テ イズム を軽 蔑す る 気 風 の な か で 育 て られ た ドイ ツの亡 命 者 は 、
まった く正反対 の知的雰囲気 (楽 観 的で、経験 主義的 な志 向 を もち、非歴史的で同時 に独善的 な
)のなか に入 ることにな りま した。
根本 的 な相違 は、知 的伝統 だけで な く、実社 会での大学 の地位 において も歴然 としてい ま し
ノイマン
た。 ドイツの大学 は 自らをエ リー トの養成場 と み な してい ま した。 ただ し、 このエ リー トに属 す るか否かは、知的な業績 ではな く、 もっぱ ら 社 会経 済的 な基準 で決 ま りま した。一方 アメ リ カの大学 は、民主的な教育原理、す なわち、ア メ リカ国民 ので きるだけ多 くが教育 の恩恵 に与 る とい う教育原理 を実践す る機 関で、エ リー ト の養成 は教育 とい う活動全体 のほんの一部 にす
ぎませ んで した。
ドイツの大学 は人文主義 の原理 を教 える総合 大学 と自称 してい ま したが、 とっ くの音 に法律 家、医者、高等学校教 師 といった専 門的スキル を獲得す るための専 門学校 の単 なる寄せ集め に なってい ま した。 これ にたい してアメ リカの大 学 は、その一般教育課程 において フ ンボル トの 原理 を実際 に復 活 させ ていたのです。
ドイツの大学教師は、かな りの高給 と並 はず れて高 い社会的威信 を占有す る特権 的階級 の一 部 で した。 アメ リカの大学教 師 は、 こう した特 権 をまった く享受 してい ない も同然 で した。 ド イツの大学教 師は、 ほ とん どいつ も学生 を、研 究者 とい う自分の天職 を妨 げる撹乱要 因 とみ な してい ま した。 アメ リカの大学教授 は、 なによ りもまず教 師であ り、 自分 の学生 たちの聴罪師 になる こ とさえ稀ではあ りませ ん。
この ように、知性 の面 で も制度の面 で も、相 違点 は今 も昔 も大 きく、おそ らく類似点 よ りも 大 きいで しょう。 この新 しい経験 の イ ンパ ク ト にたい して、
3つの異 なった方向へ の反応があ
りえ ます し、そ して実際 にあ りま した。
亡命 してきた学者は、これまでの知識人としての地 位を棄て、無条件で新 しい方向へ進むことを受け入れ てよいし、そうした人もいました。
また、その古い思想構造 をそっ くり保持 してよい
し、そうした人 もいました。そ してかれ らは、アメリ
カのや り方を全面的に改造することを自分の使命 と考
えてもよい し、あるいは反対 に
(アメリカのや り方を
軽蔑 して
)自分 自身の島に引 きこもることもで きま
す。
社会科学
最後に、新 しい経験を古い伝統と統合 しようと試み ることもできます。思うに、これはきわめて難 しいけ れども、きわめてやりがいのある解決でもあります。
最後 の態度 の研究 は、社会政治学の役割 と社 会政治学者の機能―― こういった ことに私 は精 通 してい ます―― を分析す ることに よっておそ
ら く最 もよ く明 らか にす ることがで きます。
すで に申 しあげ ま した ように、
ドイツの学問 を特徴づ けているのは、19世 紀 における偉大 な 哲学大系の展 開 と、同時 にそれ らにたいす る批 判 です。一方 には カ ン ト、ヘ ーグル、マ ルクス がお り、他方 にはニーチ ェとフロイ トがい ます。
しか し、 カ ン トとヘーゲルは急速 にステ レオタ イプ化 し、社会政治思想 にたいす るかれ らの直 接 的 な影響 は結局 の ところ悲惨 な もので した。
ヘ ーゲルの大学での影響 は保守的な もので した が、大学外 での影響 は (マ ル クス を通 じて
)革命 的 な もので した。 カ ン トの哲学 は しば しば唯 物論 的志 向 に観念論 的仮面 を提供 しま した。 こ の こ とは、 カ ン トの認識論 と倫理学の両者 に も と もと備 わ っていた こ との ように思 われ ます。
カ ン トの認識論 では、理性 と現実 のギ ャ ップは 埋 め られてはい ませ ん。彼 の倫理学では、定言 命令 の形態 と性格が強調 されたため、具体 的な 欲 求 はすべ て一― それが どんなに恣意 的な もの
であろうとも――普遍的法則の地位 にまで高め られました。 こうして、ヘーグル哲学 とカン ト 哲学は、 どんな進歩的な思想の流れを形成する こともあ りませんで した。マルクス とフロイ ト は ドイツの大学か ら追放 され、ドイツ。ブルジョ ワジーの徳(つ
まりは悪徳)に
たいするニーチェ の批判は、それ とは正反対の ものに変えられてしまいました。
こうして、偉大な業績があったのは歴史学 と 法学の分野で した。 しか し、歴史学や法学が現 実の社会 と政治に取 り組むのはおそ らく無理で しよう。現実の社会 と政治の研究は、
ドイツの 大学 にその場 を見出す ことがで きないの も同然 で した。学問 とは本質的に
2つ
のことを、思索す るこ と、そ して書物 か ら学ぶ ことを意味 して い ま した。ですか ら、われわれが社会政治学 と 呼ぶ もの は、主 と して大学 の外部で進 め られ ま
した。
例外が ひ とつあ りま した。マ ックス・ ウェー バーです。社会政治学が教 え られている ところ で は、彼 の名前 は よ く知 られお り、敬意 を払 わ れてい ます。マ ックス・ウェーバ ーの偉大 さは、
3つ
の もの―― 理論 的 な枠組
(私と しては妥 当 性 に疑間 を持 ってい ますが
)、膨大 な量 のデー タ の駆使 、学者 の政治的責任 についての十分 な 自 覚一― を独特 の仕方で結 びつけた点 にあ ります。
しか し、
ドイツでの ウェーバ ーの影響 は きわめ て限 られてい ま した。 もっぱ ら彼 の方法論 に議 論 を集 中す ることによって事実上 ウェーバ ー を 抹殺 して しまった ところに、
ドイツの社会科学 の特徴があ ります。彼 は経験 的な研 究の必要性 を訴 え、学者 の社会的責任 を強調 しま したが、ど ち らも注意 を払 われ ませ んで した。 ウェーバ ー が本 当 に生 き返 つたのは、 この合衆 国 において です。
しか し、
ドイッはいつの時代 に もこうであっ たわけではあ りませ ん。かつて1870年 以前 には、
ドイツ と ドイッの大学 には政治学があ り実践 さ れてい ま した。 コロ ンビア大学の政治学部が ド イツの国家学 を模範 に してバ ージェス によって 創設 された こ とは、興味深 い ことです。 ロテ ッ ク とヴェルカー、ロベ ル ト・フォン 。モール、ブ ル ンチュ リ、 ダールマ ン、そ して と りわけロー レンツ 。フ ォン・ シュ タイ ンは、第一級 の政治 社会科学者で した。行政学、政党の分析、政治 制度の比較、社会構造一― これ らはすべ てかれ
らによって教 え られ研究 されたので した。
ところが、 こう した状態 は ドイツ帝 国の樹立
と強化 とともに終焉 を迎 えま した。それ ととも
に自由主義 は、その政治的役割 を放棄す ること
にな ります。
ドイッの 自由主義者 は、法治国家
(法に基づいた国家 )の 理論 に集 中 しま した。こ
れ は、 もはや法 の起源や創造が理論 の関心 で は
な くなった こ とを意味 します。理論 の関心 は、
フラ ンツ・L・ ノイマ ン
もっぱら国家にたいする市民の権利、特 に市民 の財産権の定義 に限定 されました。政治社会科 学はこうして法学にとって代わられ、法学の分 野では実に偉大な業績が生みだされました。
こうして、およそ
1875年
以降、官憲国家 (権 威主義的要素)と、私的権利の防御 にしか関心 のない法治国家 (法的要素)が、政治社会科学を瞬 く間に破壊 しました。大学で養成 されるの は、国家を統治 した り私的権利 を防御 した りす る法律家、グルマ ン民族の優れた徳 を宣伝する 教師、技術者、理論家 と歴史学者です。社会 と 政治を改革することに関心のある社会政治学者 は、 もはや養成 されません。社会政治学者のこ のようにはなはだ しく異なった役割は、おそ ら
く政治学者が遭遇 した大 きな相違です。
社会政治学にたいする ドイツか らの亡命者の 貢献 を評価することは、まった く不可能です。ナ チ体制の性格は、すでに強調 しましたように、は なはだ しく異なった政治的 。理論的志向を持 っ た学者の移住 をひき起 こしました。ですか ら、15 世紀 にビザ ンチ ン帝国か ら逃げ出 したギ リシア の学者 と比べるのは不可能です。難民 となった ヨーロッパの学者はあまりにも多様で したから、
かれ らの貢献、特 に社会政治学にたい してなさ れた貢献 を正確 に特定するのは、事実上不可能 です。 これは、自然科学者の場合 とは対照的な 点です。おそ らく、芸術史や文学史などの よう な個別領域での歴史的・哲学的貢献の場合 とも 対照的か もしれません。影響があま りにも漠然
としてお り、あまりにも拡散 しているため、容 易に確認 した り測定 した りで きないのです。
そのうえ
1933年
以前 において も、社会科学の 分野ではヨーロッパ と合衆国のあいだで知識人 の相互交流は活発で した。ロベル ト・ミヘルス、ヴィルフレー ド・パ レー ト、そ してガエ タノ。モ スカの 〔エ リー ト理論の〕輸入は、
1933年
以後 の移住 によるものではあ りません。論理実証主 義の ウイー ン学団が合衆国で勢力 を得 たの も、ドイツとオース トリアでの政治的変化 とは関係 がなかったように思われます。 これ らの傾向の
いずれ もが、私にはあまり有益だったとは思え ません。それ らはともに、アメリカの社会科学 に見 られる非歴史的 (ない し反歴史的)な傾向 と反理論的な傾向を強めることになったか らで す。
しか しなが ら、私自身 と同様 にヨーロッパの 偉大な哲学・歴史大系の伝統のなかで育て られ た者は、 自分たちは
2つ
の点でアメリカの社会 科学 に考慮 を促すことになったか もしれない と 考 えています。まず第 1に 、われわれは懐疑的な考え方を持 ち込みました。私や他の多 くの人々は、社会科 学が世界 を変える可能性 についての並 はずれた 楽観主義 を共有することはで きません。われわ れの期待はもっとささやかなものです。歴史的 過程 によって規定 された社会科学の限界は、は るかに狭い ものです。
第
2に
、われわれは、社会科学の調査研究 を 理論的枠組のなかに置 こうとしました。われわ れの多 くか らみると、理論的枠組にたい して経 験的データ収集の重要性が強調 されす ぎるよう に思われました し、今で もそのように思われま す。経験的な調査研究 をあま りにも重視すると、問題 をその歴史的な意義の点か ら考察するのが 難 しくな ります。膨大な量のデータの駆使 をあ ま りにも強調すると、学者 を単なる作業員にし て しまう方向に進みがちです。そのようなプロ ジェク トには多額の資金が必要 となるため、他 への依存傾向が強まり、私の見るところでは結 局は知識人の役割 を危険に晒す ことにな りかね
ません。
これ ら
4つ
の危険は誇張 されているか もしれ ません。で も、それ らが存在することは確かで す。異なった伝統 を持つ ところか ら難民 として やって来た学者は、その理論的な知識 と歴史的 関連 についての認識 とを発揮することによって、そうした危険を少な くしようとすべ きで しよう。
ペール教授 とパノフスキー教授の講演概要から、
かれらもまた私 と同 じ見解であることを知って います。
社会科学
しか し、おそらくもっと重要なのは、このよ うなアメリカの政治社会科学の関心が、われわ れに何が要請 されているかを認識 させて くれた ことです。つ まり、学問は純理論的・純歴史的 なものであってはならないこと、理論 と実践 を 調和 させることが社会科学者の役割であること、
そのためには血なまぐさい現実への関心 とその 分析が必要であることです。 こう した認識 に よつて社会政治学者の役割の理解は深 まりまし た し、このような認識 を私 に与 えて くれたのは 合衆国です。
一時滞在で ドイツに戻 った ドイツの学者 は、
いつ も決 まって ドイッの大学改革をめ ぐる大論 争 に巻 き込 まれます。 ドイッの大学の精神 と制 度 を改革するためになされたことはほとんどな にもあ りません し、カリキュラムを変えるため にもほとんどなにもなされていません。学生 と 教師のあいだには今 なお深い溝があ ります。真 の人文主義的一般教育は依然 として不在です。
夜間大学 もまだあ りません し、政治社会科学は 今 もまった くひ弱な苗木のままです。しか し、わ ずかなが らもなされた改革の大半は、帰国 した 難民やアメリカの訪間者にそそのかされてなさ れたのではな く、かれらの格式張 らないや り方、
学生への関心、現実の政治や社会にたいする強 い関心 を模範 としてなされたものです。
帰国 した学者は、いつ も決まって奇妙 な立場 に置かれます。彼は、ここ合衆国では しば しば 経験的研究への熱狂 と闘つて理論 と歴史の必要 性 を力説 しないではい られないのですが、逆 に ドイツでは経験的研究 を擁護する側 にまわらざ るをえな くな ります。亡命 した ドイツの政治学 者の意義はこの2重の役割 にこそある、 と私は
目下考 えてお ります。
ここで初めのところに戻 らせて ください。そ こで私はこう述べ ました。外的状況だけでな く 役割 も変わるために、知識人にとって亡命 はき わめてつ らい経験だった し、新 しい文化的環境 に適応するのは困難 を極める作業だった、と。そ して最後 に、ここ合衆国では変わることはわ り
と容易であった、 という点を強調 しました。
変 わることがその ように容易であつたのは、
まった くもってアメリカ国民のおかげです。つ ま り、かれ らの寛大 さと親 しみやすさのおかげ です。このような短期間にこれほど多 くの知識 人を吸収 した国は、ほかにあ りません。少な く
とも
520人
の亡命者 に生 きる場 を与えて くれた 方々と機関にたい してここで敬意を表するのは、場違いなことではないで しょう。亡命外国人学 者救援緊急委員会のステイーヴン・ ダガン博士 とベテイ・ ドルーリさん、ロックフェラー財団 とカーネギー財団、ローゼンワル ト基金、多数 の民間組織、教会、フレン ド会、大学や研究機 関に、敬意 を表 します。
しか し、財政的な援助 にもまして重要だった のは、大学が リスクを冒 して も敢えて私たちを 雇つて くれたこと、友好的に私たちを迎え入れ て くれたこと、そ してほとんど怨嵯の的になら ずにすんだことで した。
悲劇的な問題 を幸せなかたちで解決すること がで きたのは、こうした心理的な要因のおかげ なのです。
原 註
1. Plato,Rc′
"bJJc(CornfOrd transl。 )Bk.VI
(COdOrd cho XXII)。
2. Plato,Cr肋(Jowe■
transl.).私
はJowe■
訳 のchance"を
fate"と いう語に代えた。その ほうが英語読者には意味がよく通じるだろ うと思われる。〔訳注:こ
の箇所の訳文はOtto Apeltに
よる独訳に基づいている。〕3.G.G,Coulton,"¶
he Death Penalty for Heresyfronl l184 to 1921 A.D。 "in Mcaα
ιフαJ sttjιs,XVIII(1924),1‑18.
4.Montesquieu,動
ι ttJガ′ぽ 物 枷SNeW York, 1948)へ
の私の序文 (pp.xx対‐― ii)。5。
英訳 は2″αJd Prasι
んちVol.I,No.1,p.71に ある。6. In!'勁