一兵︵武士︶と農︵百姓︶との身分離︑階級敵差別を明確にし前者による後者の支配を社会制度としてうちたてようと
する政策︒また︑広くそれの実現する過程や︑結果として生じた現象をもさして用いられる︒中世から近世への移行期に
特有に現われ︑近世的社会編成の基本原理となった︒﹂︵朝尾﹁兵農分離﹂﹃国史大辞典一︑一九九一年︶
近世社会は︑武士と百姓との身分的・階級的差別を基本原理として存立する社会であって︑その原理は中・近世移行期
に兵農分離政策によって創出されたというのが︑ひろく流通している理解である︒逆にいえば︑中世は武士と百姓の階級
的・身分的差別が不明確な︑兵農未分離の社会だったことになる︒この点で中世社会と近世社会の編成原理は根本的に異
なっていたとみられているのである︒兵農分離が研究史上︑時代区分の鍵だといったのは︑この点に関わる︒
兵農分離論ノートー戦争と平和の視角から1︵稲葉︶ 本論の課題は︑日本の中世と近世を区分する研究史上の鍵とされてきた﹁兵農分離﹂研究を整理するなかから︑筆者自
身の仕事も含めた近年の研究動向に即した︑中.近世移行期研究の成果を確認し︑展望しようとするものである︒
戦後に限っても︑兵農分離論は長い歴史をもっている︒まず兵農分離の定義を一般向けに示した︑朝尾直弘の見解をみ
てみようc
﹁兵︵武坐
兵農分離論ノートー戦争と平和の視角からI
はじめに
稲葉
綱 陽
型植朱仏淵杓汀以荊グ奄巧L﹂1L︾§剛ツ酎叫いい捌個叫叫当c羊川︾鳴きこや人〃叱脂価肩罫LGm厩汀叱白詞娼部︑廻幻鋤印し﹂刈皿掴紗部︑網勾睡剛孝叱圭α︾zや︲幸﹂勤釧仁一牌いごv毒§汀以南w城罰脂妃暑y
でに戦前から存在したが︑一九五三・四年に発表された﹁安良城論文﹂を契機に︑これらを太閤検地によって実現された
封建的土地所有︑つまり兵Ⅱ武士Ⅱ封建領主による封建地代︵年貢と労働地代としての夫役︶の実現と︑収取の対象とな
る小農経営の確立との関係において理解しようという研究動向に転換したのである︒ 戦後の兵農分離研究は具体的にどのようにすすめられてきたか︒一九七七年の段階で︑朝尾は次のように述べている︒﹁兵農分離の研究史は︑兵︵武士︶と農︵百姓︶l副次的に商工と農をふくむlの身分的分離とその形成過程︑および前者の都市集住と後者の農村への緊縛を内容とする地域的分離とその形成過程︑の二側面を追求してきた︒そしてまた︑これを日本における封建制度展開の歴史とのかかわりのなかでとらえようとしてきた︒この遺産のうえに︑安良城論文以後︑太閤検地を兵農分離の画期とする見解が一般となり︑戦前の政策史的側面にかぎられた把握から︑封建的土地所有との関連においてとらえる視点が共有されるようになった︒﹂︵朝尾﹁中世から近世へ﹂︑同﹁日本近世史の自立﹄校倉書房︑一九八八年︑ 兵農分離論ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︶
こうした理解は︑歴史教育の場にも深く浸透している︒手許にある高等学校の日本史教科書︵詳解日本史B﹂改訂版︑三
省堂︑一九九九年初版発行︶は︑﹁刀狩と兵農分離﹂の項を設け︑①農民の一撲防止と耕作専念を目的とした農民の武器没収Ⅱ
刀狩令︑②武家奉公人・農民・町人の区別を明確にする身分統制令Ⅱ人掃令︑③朝鮮侵略体制のもとでの戸口調査︑④以
上によって確立される職業にもとづく身分制度を徹底させる︑武士・商工業者と農民との居住空間の分離︑これらを兵農
分離政策の具体的内容として記述している︒まずはこのような兵農分離Ⅱ移行期像にかかわる研究史を︑二つの段階に分
けて検討してみたい︒
一○四〜五頁︶ 一小農経営の自立と兵農分離政策
安良城盛旺による兵農分剛︿α直接離請及側多く側ないか︑一大借稚馳伍歴史厳意義﹂︵救出一力五匹年︶に求附そり︐
発言が核心的な見解であろう︒︵安良城﹁幕藩体制社会の成立と構道御茶の水書房︑一九五九年︑二三三〜四頁︶
①﹁太閤検地を通じて︑いわゆる兵農分離が実現される︒兵農分離それ自体は︑明かに国人一撲対策乃至封建家臣団統制
策として行われたと考えられる︒即ち︑家臣団を城下町に集中せしめる法令の大多数が︑家臣団の妻子を人質として取る
規定を随伴していることによってこの様に理解され得る︒﹂
︒②﹁ところで︑この様な兵農分離が︑農民の土地保有にどの様な影響を及ぼしたかについて若干考えて見たい︒ここで︑
給人が自己の所領に在地している場合を考えて見よう︒その場合︑その所領には当然﹁百姓﹂小経営が展開しているが︑
その場合︑この給人の土地所有に対立する小農民の耕地保有は往々にして劣弱なものとならざるを得ない︒何故ならば︑
給人は多かれ少なかれ﹁下人﹂を持ち︑自己の所領の一部分を手作地として経営するのが当時の一般的事情であり︑この
様な手作経営の為に︑給人は︑種々雑多な形態で︑窓意的に農民の剰余労働を取り立てようとしたし︑また事実取ってい
たからである︒︵中略︶従って︑兵農分離の貫徹を通じて︑農民に対する窓意的な収奪が排除され︑農民の土地保有が安
定的なものとなる結果を生み出してきていることに注意を払いたい︒﹂
③﹁この段階の農民対策の基調として︑一貫して小農民自立政策が取られている事実に注目したい︒一つには︑先に指摘
した︑兵農分離によって︑給人を所領より引離す過程が同時に小農民自立を促進する結果を生み出すこと︑即ち︑兵農分
離政策自体が小農民の自立をバックアップする関係になっている﹂
第一に︑戦国期の給人Ⅱ武士の所領支配に︑農民の剰余労働収奪者︑つまり小農経営の阻害者たる位置が与えられてい
る点︵②︶に注目したい︒第二に︑統一権力による国人一撲対策と家臣団統制のための﹁給人を所領より引離す﹂兵農分
離政策︵①︶が︑結果的に︑給人の窓意的支配による小農経営の阻害を取り除き︑豊臣の政策基調である小農民自立政策
︵太閤検地による農民の土地保有確立︶と整合的に作用した︑と理解されている︵③︶点である︒
兵農分離論ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︶
大山にあっては︑在地小領主の家父長的百姓支配︵中世後期の領主直営田経営への剰余労働力収奪︶と小農経営との対
立Ⅱ矛盾は︑小農経営Ⅱ百姓の側の闘争によって戦国期をつうじて限界にまで激化するものと想定されている︒そして在
地小領主層に権力基盤を置く大名権力は︑兵農分離という対応によって︑極限にまで深化した在地小領主の在地性を一挙
に否定し︑封建制を再編せざるをえなくなったとされるのであるp大山は安良城よりも踏み込んで︑兵農分離を︑兵農未 拶L六五年︶ 兵農分離論ノートー戦争と平和の視角から1︵稲葉︶
第一の点︑給人と小農経営との在地における対立の問題は︑その後の研究に継承されて︑ことに中世史研究の側からの
村落領主論︑小領主論︑地主論等として︑その階級的性格や大名権力による政治的編成のあり方が追究された︵永原慶二
編﹁戦国大名の研塵吉川弘文館︑一九八三年︑所収諸論文参照︶︒第二の点は︑安良城にあっては︑兵農分離政策は結果的に小
農経営の自立を促進したものとされていたが︑その後︑むしろ兵農分離政策そのものが︑給人の所領支配と小農経営との
間で激化する矛盾への対応であったとする理解へと展開した︒大山喬平は中世史の側から次のように述べた︒
﹁戦国大名権力の基盤はすぐれて室町末l戦国期の所産たる在地小領主層におかれていた︒十五十六世紀初頭における
家父長制原理の飛躍的拡大︑武装名主への周辺農民の包摂・隷属化Ⅱ小領主制の強化は小経営の発展を基底とする生産力
発展の方向に逆行するものであったが故に︑戦国大名権力の強大化は権力と農民の矛盾をますます激化する方向でのみ動
いたのである︒そして中世末l戦国期の農民闘争がやみがたく展開するものであったからこそ︑領主直営田経営と農民的
小確な解答をいやおうなしに迫られて
いったのであった︒︵中略︶戦国大名のかかえこんだ矛盾が解き難いものであったからこそ?織豊9幕藩権力は領主層の
階級結集の形態転化を軸として兵農分離︑石高制の採用︑領主直営田経営の廃絶︑大規模な潅厩工事と新田開発さらには
小農経営の安定化を政策として次々にうちだし︑そのことによって︑中世以来の社会的矛盾を彼等なりの方法によって止
揚し︑封建制を再編したのであった︒﹂︵大山﹁室町末6戦国初期の権力と農民﹂︑前掲﹃戦国大名の研究﹂一七二〜三頁︑初出一九
初出一九七一年︶ 分剛状態に漣区して激化の一途をたとる在地の生産力問題への︑まさに権力的対応と位置づけたのである嶋
これに関連して︑一九六二年段階で幕藩権力研究の方向性を提起した朝尾は次のように述べていた︒
﹁兵農分離は︑兵が農を支配する形態であり︑兵が農を支配するためにみずからを支配階級︵所有者階級︶として農から
引き離し︑みずからの階級的編成をおこない︑支配のための暴力機構を構成し︑同時に︑農民を土地に緊縛し︑それから
貢租を収奪する︑すぐれて階級的な関係として成立するのであって︑けっして︑直接生産過程における物質的労働と非物
質的労働の自然史的に形成される分業関係ではない﹂︵朝尾﹁幕藩権力分析の基礎的視角﹂︑同前掲﹁日本近世史の自立﹄一六七頁︶
これは︑﹁農業生産発展の必然的な帰結としての兵農分離﹂を構想する佐々木潤之介の兵農分離理解に対する発言であ
り︑大山と同様︑兵農分離を階級闘争への対応としての支配階級Ⅱ兵の階級的編成と百姓の土地緊縛の問題と捉える視角
が徹底されている︒
これに対して︑佐々木は自身の兵農分離論を次のように展開した︒
﹁荘園制に基礎をおく︑いわゆる﹁中世﹂の︑長期にわたる解体過程の終末として︑土一摸・国一摸.一向一撲・戦国大
名の争乱期があった︒そしてその解体の過程は︑小百姓の自立に伴い︑新たに形成されてくる領主層が︑その小百姓経営
を領主的土地所有と経済外強制とによって搾取していこうとする方向での︑新たな社会関係を形成してくる過程でもあっ
た︒このような過程は︑総称して︑兵農分離の過程であるといえる︒この兵農分離の過程を前提としてもち︑それに基礎
をおきつつ︑さらにその過程を兵農分離制として国家支配の原理にまでたかめて︑統一政権が成立した︒︵中略︶兵農分
離制が兵農分離と決定的に異なる点は︑兵農分離過程を︑国家的な規模と強さとにおいて︑身分制的に編成したものが兵
農分離制であるということにある︒﹂︵佐々木﹁幕藩体制論﹂︑同﹁幕藩制国家論下﹂東京大学出版会︑一九八四年︑六四一〜四頁︑
佐々木は︑中世後期をつうじて︑小農経営と領主的土地所有との分離という新しい社会関係が形成される一兵農分離の
兵農分離諸ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︶
兵農分離論ノートー戦争と平和の視角から1︵稲葉︶
過程﹂が進行するとみている︒これは政策によってすすめられた事態ではなく︑小農経営の自立が不可避とした社会的現
象であるとされる︒したがってこれを前提として登場した統一政権の課題は︑経営と所有との分離によって生じた新たな
階級関係を国家的規模において総括することにあり︑具体的には国家支配の原理としての身分制的な編成がそれにあたる
とする︒これを佐々木は﹁兵農分離制﹂と呼び︑﹁兵農分離の過程﹂と区別した︒中世後期の政治過程を領主経営と小農
経営との矛盾の激化の過程とみるか︑小農経営と領主的土地所有の分離の過程とみるかで︑大山・朝尾説と佐々木説は大
きく異なっているが︑佐々木説によって︑移行期の身分制問題があらためて論理上に組み込まれ●た点に注意しておきたい︒
以上︑まことに不充分ながら︑安良城論文︲太閤検地論争を契機に展開した兵農分離論についてみた︒こうして︑兵農
分離政策には日本における封建制の成立なり再編の内実をなす︑在地小領主層の在地性の否定Ⅱ都市への集住と小農経営
の確立による領主的土地所有の確立︑さらにそれを国家的に編成する身分編成策たる位置が与えられたのである︒
議論の特質と問題点について考えてみたい︒まず︑右の各論者とも︑兵農分離政策を小農経営︵百姓の単婚小家族によ
る農業経営︶の確立ないし安定化の契機として位置づける点では共通しているのが注目される︒これら先学に共通した課
題設定上の問題意識はどこにあったのか︒次の安良城画朝尾の文章は︑それを物語っているように思われるや
﹁著者の本来の研究テーマは︑幕藩体制社会解体過程を通じて形成され︑明治維新Ⅱ地租改正を通じてその体制的確認を
うけ︑今次農地改革によって改革の対象となった︑半封建的な地主的土地所有の史的研究にあった︒従って側著者にとっ
ては︑本来︑地主制研究の前提として始められたに過ぎない︑太閤検地及び幕藩体制社会下の領主制の本来的構造を究明
するこの課題が︑一つの魅力あるテーマとして︑強く著者を捉えるに到ったのは︑この﹁太閤検地の歴史的意義﹂作成に
よる﹂︵安良城前掲﹃幕藩体制社会の成立と構造﹄﹁はしがき﹂︶
﹁近世成立期の研究にこころざしたのは一九五七・八年のころであった︒幕末・維新期のいわば解体過程を研究している
うちに︑その原型にたいする関心が大きくなってしまった︒戦後のこの分野の主流的な方法は農民層分解を追求するもの
これらの問題点は︑
的に検討してみよう︒ であったが︑分解以前の農民層の存在形態を︑それをとりまき相互に影響しあう社会構造の特質において把握しなければ︑分解そのものを把握することができないのではないかというきわめて単純かつ素朴な疑問が︑その動機であり︑おのずから日本近世史全体の特質をさぐる方向に進んだ︒﹂︵朝尾﹃近世封建社会の基礎構造﹂御茶の水書房︑一九六七年︑﹁序にかえて﹂︶
歴史家は︑過去をその総体として認識しようとするのではなく︑自らの生きる時代の問題への関心によって過去の諸事
象を選択的に取り出し︑それらの相互関係を確認しながら叙述を行う︒その意味で︑歴史学は歴史家の生きた時代の価値
観に規定された選択的な体系であると言いうる︒安良城・朝尾の問題関心は︑戦後日本にまで色濃く存在した封建通制の
克服︑そして敗戦までこの封建遺制に経済的条件を与え続けた寄生地主制の形成過程にあった︒そしてこの﹁半封建的な
地主的土地所有﹂が近世社会をつうじた農民層の分解によって形成されたものである以上︑その歴史的本質を理解するに
は︑分解する小農経営の存在形態︑さらに遡って小農経営の成立のあり様が究明されねばならなかったのである︒
しかしこうした兵農分離論には大きな問題があったといわざるをえない︒
第一に理論的な問題として︑封建社会を構成する三大要素たる小経営・共同体・領主制のうち︑共同体の問題︑すなわ
ち戦国期の村落の問題が組み込まれていない点である︒個々の小経営は︑それらを構成員とする共同体の公共機能によっ
て一次的な統合をうけて再生産するという封建社会の基本原理を︑なぜか右の研究史は欠落させていた︒
第二に︑兵農分離はいわば結果として不動の位置を占めており︑それを実現した刀狩令・身分統制令・武士の城下町集
住令といった個々の政策施行過程の分析がほとんど行われないまま理論的な論争が継続し︑兵農分離政策論なり過程論が
具象との緊張を欠いたことである︒
これらの問題点は︑ほぼ一九八○年代以降明確に自覚されるに至り︑多くの実証的成果を生んでいる︒章を改めて具体
兵農分離論ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︶
1百姓と暴力1村落の﹁発見﹂
一九七五年︑水本邦彦は論文﹁土免仕法と元和・寛永期の﹃村上において︑次のように述べて︑共同体Ⅱ村を組み込
まない幕藩制構造論を批判した︒
﹁こうした研究史の展開を顧みるならば︑差し当って我々が考えねばならぬ問題の一つは︑ウクラード論として展開され
てきた在地構造分析の成果を︑いかに階級闘争あるいは権力構造に関わらせるか︑いかなる媒介項でもって両者を繋ぐか︑
ということであろう︒ウクラード論からストレートに階級闘争代・国家のあり様を把握する方法はもはや有効ではない︒本
章で私が考えたいことはへ近世における村が︑この在地構造と階級闘争5人民支配方式を繋ぐ媒介項の一つたりうるだろ
うということである︒村の問題は年貢村請という形で近来再び重視されているが︑私がこの村に着目するのは︑近世農民
が7小農や質地地主などどいった露わなウクラード論的姿態をもってではなく︑村を媒体として領主に対時しているとい
う点においてである︒そこには明らかにウクラード論や︑小農自立政策といった枠内に閉じこめきれぬ︑支配l被支配レ
ベルのファクターが内包されていると考える故である︒﹂︵水本︷近世の村社会と国家﹂東京大学出版会︑一九八七年︑三一〜二頁︶ この二○世紀末一二世紀初頭を生きる歴史家は︵もちろん筆者も含めて︶︑一九五○〜六○年代の歴史家と伺梯な価
値観・問題意繊でもって歴史像を構成することは当然できない︒事実︑近年の実証的兵農分離論は︑朝尾も含めて︑新た
な視角からの分析成果をおさめてきている︒それは︑戦争の権利を主権として保持し続け︑国民に戦争協力の義務を様々
な形態でもって要求し続ける国家のあり方の変革を現代的課題として明確に意識した︑いわば﹁戦争と平和﹂の視角であ
る
〔
兵農分離論ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︶
二戦争と平和の視角から
さらに水本は同論文において︑領主の年貢収取方式が在地の変化に対応できず元離した状況で︑百姓たちが村において
土地台帳を修正して百姓相互の負担の均等化をはかった︵土免仕法︶事実を︑詳細かつ具体的に分析して︑百姓の集団的
運営による村の機能と近世初期におけるその成立を説いた︒
水本による﹁村の発見﹂を︑中.近世移行期の問題として捉えたのは︑中世史研究の側であった︒勝俣鎮夫は︑水本に
よって寛永期に成立すると見通された﹁百姓の集団的運営による村﹂を戦国期の和泉国日根野庄に見いだし︑戦国期に一
般的に成立したそのような村さらに町を基礎に近世の国制を理解すべきだとの視点から︑次のように述べた︒
﹁中世後期に新しく登場してきた村や町の成立に社会体制上の転換の要因をもとめ︑この村や町を基礎とする社会体制の
成立に近代日本の出発点を見いだす見解も古くから存在している︒本章の目的も︑この近代の村の母胎となった新しい村
の成立が︑家とともにその後の日本社会に規定的性格を付与したものであり︑あえていえば︑幕藩制なる政治形態もいわ
ば村町制の成立が生みだしたひとつの政治形態にすぎないという認識のもとに︑荘園制︵在地領主制︶から幕藩制へでは
なく︑荘園制︵在地領主制︶から村町制への転換という視点を設定し︑その視角から戦国時代の一村落を分析し︑村の成
立の意義を考察することにある︒﹂︵勝俣﹁戦国時代の村落﹂︑同﹁戦国時代論﹄岩波書店︑一九九六年︑九三頁︑初出一九八五年︶
この論文で勝俣は︑村を社会の基礎単位とさせる村請制の成立︑家役による村財政︑自検断を前提とした領主と村の相
互交換的関係を︑十六世紀初頭の村落について確認した︒さらにこれらの論点は実証的研究によって厚みを増し︑戦国期
村落の社会的機能の実態と︑それを前提とした領主と村落との政治的関係から︑中.近世の移行を見通すことができるよ
うになった︵稲葉﹃戦国時代の荘園制と村落﹂校倉書房︑一九九八年︑参照︶︒
しかし︑戦国期に成立した村や町が荘園制︵権門の大土地所有と現地の荘園制的土地制度︶を破壊し︑近世社会の基礎
が準備されたという理解は︑兵農分離論の側からみれば︑移行期の諸政策の歴史的意義を解消するものとなる︒中世l戦
兵農分離論ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︶
兵農分離論ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︶
国期の村落に固有な歴史的特質・矛盾を確認しておく必要がある︒
戦国期の村落Ⅱ惣村は若衆を中心に武装し︑山野河海の用益Ⅱ知行を実力によって維持する主体であった︒藤木久志は
当該期の村落が中世的自力救済の主体であり︑﹁兵具﹂の行使︑﹁相当﹂の報復︵同害報復︶︑近隣の﹁合力﹂という三点
に集約される︑独自の紛争解決の体系を備えていた事実を︑豊富な事例をもとに明らかにした︵藤木﹃豊臣平和令と戦国社
会﹂東京大学出版会︑一九八五年︑同﹃戦国の作法﹂平凡社︑一九八六年など︶︒さらに田中克行は︑惣村研究に名高い近江菅浦惣
の形成過程を詳細に分析し︑十四世紀︑隣村大浦との相論をつうじた領域秩序の形成過程で︑村の成員が村に対する義務
を平等に果たす自治的な惣が成立したと指摘した︵田中﹁惣と在家・乙名﹂︑同﹃中世の惣村と文量山川出版社︑一九九八年︑所
収︑初出一九九六年︑また稲葉香評﹁史学雑誌﹄一○八︲八︑参照︶︒惣村の﹁自治﹂とは本来的に︑隣村との武力的対立と無縁
には成立しえない性格のものであった︒近世国制の基礎をなす村落の形成過程は︑とうぜん村社会の領域秩序形成の過程
でもあったわけだが︑それは村落が自ら保持する殺人・掠奪などの暴力と格闘する過程でもあったのである︒
藤木が明らかにしたように︑村落は︑村の内外に自らの暴力を制御して平和状態を創出する﹁相当の儀﹂︵これは後の
喧嘩両成敗法に受継がれる︶を原則とした様々なルールⅡ﹁作法﹂を形成させていた︒決してアナーキーが支配したわけ
ではない︒しかし︑現代の国家間の戦争がそうであるように︑実力行使を伴う権利闘争の場では価法を逸脱した過大な人
的物的損失が発生するのは不可避であった︒藤木は︑村落どうしの紛争解決の作法を高く評価するとともに︑この点にも
注目した︒かくして︑村落の自力救済権への規制のあり様が︑統一権力固有の問題として検討されるに至るのである︒
2豊臣喧嘩停止令と刀狩令
右の分析をもとに藤木は︑﹁兵農分離﹂について次のように述べた︒
﹁かえりみて︑兵農分離という言葉が中世から近世への移行期を画然たる断層とみる立場から︑通俗的にほとんど万能の
同書で藤木は豊臣の天下誠一の広実を大名から村落に至る中世的自力救済権の制限と豊臣の裁判椛への紛争鯛狭め集
中の過程と捉え︑豊富な事例蓄積をもとにこれを﹁豊臣平和令﹂の展開として総括し︑豊臣は村落に対して︑﹁天下悉ケ
ンクワ御停止﹂﹁当御代喧嘩停止﹂という法︵藤木はこれを﹁喧嘩停止令﹂と命名した︶によって︑武器を用いた相当の
報復や近隣合力を規制してこれを刑事罰の対象とし︑紛争解決を豊臣の裁判へと委ねるよう義務づけた事実を明らかにし
た︒藤木が注意を喚起してやまないように︑豊臣によって中世的な紛争解決のあり方すべてが否定され︑中世村落の自律
性すべてが剥奪されたわけではない︒しかし︑中世村落の武器行使︑殺人の権利は明確に規制されたのである︒
さらに藤木は︑この平和令が村落に受容された理由を︑自力の惨禍つまり自力救済の恐怖からの解放という現実的願望
が民衆の側に存在した点に求めた︵同前掲替第二章︶︒そして同じ視点から︑兵農分離政策の根幹をなし︑中世農民の徹底
的武装解除策とみられていた刀狩令を豊臣l徳川初期にわたって分析し︑次の点を明らかにした︵同第三章︶︒
第一に刀狩令の実施実態は︑その令書第一条に示されるような徹底的な百姓武装解除︑農村の武器廃絶だったのではな
く︑当初から多様な武具のうち刀のみを対象とし︑帯刀免許制を伴ったことに示されるごとく︑中世において自力救済能
力者たる標識であった帯刀権を規制の対象とする身分政策の性格が強いこと︒近世の百姓身分は原則として脇指のみを着
用し続けたとみられ︑身に帯びた脇差の形状に公儀から身分に見合う規制をうけた︒
第二に︑豊臣刀狩令の目的が︑﹁現ニハ刀故及闘課︑身命相果ヲ為助之﹂と喧伝され︑令書第三条で﹁百姓御あはれみ﹂
兵農分離論ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︶ 弛訳既棚︾念として閥唖穆α籾αように標恢われ恥灘めて以一氷いこたいとれだけの在︲月か堀遮きたのであろう鴫それな⑦に戸呉︽臓分剛のたしかな具象としては刀狩りとか武士の城下町集住といわれる事態の外にほとんど何も思い浮かべることができず︑この言葉を聞きあるいは使うたびに何か心許なくとりとめのない思いをする︵中略︶兵農分離とは果たしてどれだけゆたかな具象を直接の基礎として成立した命題であったか︑そのことを一度は根底から問い直してみる必要があるのではないか︒﹂︵藤木前掲﹁豊臣平和令と賊国社会﹂﹁序﹂︶
右の藤木の議論は︑豊臣の政策を突然の強権発動と見るのではなく︑勝俣鎮夫の戦国法Ⅱ領国平和令論︵勝俣﹃戦国法
成立史論﹄東京大学出版会︑一九七九年︶を前提とし︑少なくとも戦国大名段階の動向の総括と見る点に特徴がある︒そして
刀狩論にみられる﹁農の成熟﹂という視点は︑室町〜戦国期の民衆戦争動員の分析によって︑兵と農との社会的職責の分
離を問う﹁中世的兵農分離﹂論へと展開している︒
勝俣は︑戦国大名が検地によって︑主︵大名または給人︶をもち軍役を負担する兵と主をもたない百姓とを確定したと
する︒そして戦国大名北条氏の緊急動員を目的とする人改令を分析して︑主をもたない百姓を大名が動員するにはことさ
ら﹁国家﹂防衛の論理を持ち出して︑しかも二十日間に限定されていたとし︑ここに兵と農の明確な区分を指摘した︵勝
俣﹁戦国法﹂︑同前掲﹃戦国法成立史論﹂所収︑初出一九七六年︶︒ 慎穿幽胆等久幽圃駕蜘ノー︲︑︲︲w即答弓.と国︲壬小v矧個伯″守殉が〃・I〆璽綱里詞詞﹄
﹁国土安全︑万民快楽の基﹂と強調されていたように︑この政策が喧嘩停止令と同様に︑中世百姓と村落の武力による紛
争解決の惨禍から百姓を解放する歴史的意義を担うものとされていたこと︒
第三に︑刀狩令の身分政策は︑令書第三条の﹁百姓は農具さへもち︑耕作を専に﹂という文言や︑豊臣の寺社政策にお
ける﹁寺僧行人其外僧徒︑学文噌無之︑不謂武具鉄抱以下被捲置段︑悪逆無道﹂﹁寺僧行人以下︑心持被相噌︑可被専仏
事勤行事﹂︵高野山文書︶という兵具狩りの論理に明示されるように︑武士Ⅱ武具︑僧侶Ⅱ仏事︑百姓Ⅱ農具という職能別
身分編成をめざすものであったこと︒
こうして藤木は﹁兵農分離の具象﹂を︑自力救済の惨禍を解消するものとして百姓に受け入れられた百姓の武器行使・
殺人権の廃止︑すなわち百姓︲村落の武力発動態勢の制限と︑農の成熟を前提とした職能別身分編成の施行に見いだした
のであった︒
3中世的兵農分離
右の藤木の議論は︑
4兵農分離の﹁兵﹂とは何か11武家奉公人の発見
最近︑朝尾︵﹁兵農分離と戦後の近世史研究﹂﹃歴史科学﹄一四五︑一九九六年︶も指摘しているように︑小農経営の自立と封
建的土地所有の形成を焦点とする兵農分離論の問題は︑兵についての具体的分析を欠いたまま﹁兵Ⅱ武士Ⅱ封建領主﹂と
してきた点にもある︒高木昭作は︑天正十九︵一五九一︶年八月のいわゆる身分統制令第一条の︑
奉公人︑侍・中間・小者・あらしこに至るまて︑去七月奥州へ御出勢より以後︑新儀に町人・百姓に成候者於有之ハ︑
其町中・地下人として相改︑一切おくへからす︑
という規定における﹁侍﹂を士農工商の士Ⅱ武士にあたるものとしてきた通説を否定し︑﹁侍・中間・小者.あらしこ﹂
は﹁奉公人﹂つまり武家奉公人の種類を示すものである︵﹁侍﹂は﹁若党﹂の別称︶ことを論証し︑右をはじめとする豊
臣の身分法令を︑朝鮮侵略の動員体制における武家奉公人確保を意図した時限立法であるとした︵高木﹁いわゆる﹃身分法
兵農分離論ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︶ これら一中世的兵農分離﹂論は︑佐々木潤之介が展開したような︑中世後期における所有と経営の分離の問題としてあ
るのではない︒中世社会をつうじて形成された︑兵Ⅱ軍役︑農Ⅱ夫役︵陣夫役︶という︑職能に応じた役負担の区別の問
題である︒詳しくは次章で述べるが︑これを前提に︑戦争における百姓の負担の実態とその歴史的背景を究明することが
大きな課題となる︒ これをうけた藤木は︑北条氏の三次にわたる民衆動員令︵武田や豊臣の進攻という超非常事態に限定される︶を詳細に
分析し︑動員日数の限定︑兵狼の給付︑恩賞の約束︑後方配置の特約という動員条件︑村請に依存したことによる不正申
告・動員忌避の実態を明らかにし︑その理由を﹁人夫なら出すが兵は出せぬという︑中世ほんらいの職能の峻別︑つまり
中世的な兵農分離をたてにとった︑民衆の事実上の徴兵忌避﹂に求めた︵藤木﹁村の動員﹂︑同﹁村と領主の戦国世界﹂東京大
学出版会︑一九九七年︑所収︑初出一九九三年︶︒
高木の研究によって︑従来兵農分離政策の根幹とされてきた一身分絃制令﹂とそれに連なる豊臣②一遮α柱令憾武家
奉公人を焦点に再検討されることになった︒また菊池浩幸は︑戦国期毛利領国における人返規定は百姓ではなくて奉公人
を対象としたものであったとし︑中世の武家奉公人をめぐる政策の分析に切り口をつけている︵菊池﹁戦国期人返法の一性
格﹂﹃歴史評論五二三︑一九九三年︶︒
ところで︑高木の所論の時徴は︑近世大名と戦国大名の軍団編成の比較から︑戦国大名の軍役負担者Ⅱ給人︵武士︶が
日常の農業経営における使役の延長として奉公人や陣夫を動員調達したのに対し︑近世大名は検地による蔵入地の創出を
基礎に︑給人︵武士︶・奉公人・陣夫すべてに直接兵根を支給したとし︑ここに両者の質的断絶を見いだす点にある︒こ
れは前章でみた安良城盛昭の戦国期Ⅱ給人盗意支配説を軍団編成のレベルで展開したものといえよう︒これに対して︑藤
木久志は︑戦国期武家奉公人を慢性的に続く飢鐘状況で﹁食うための戦争﹂Ⅱ人や物の掠奪へと群がった傭兵であるとし︑
戦場の掠奪や奴隷売買の実態へ百姓の奉公人Ⅱ傭兵化によって過疎化する村の実情︑その奉公人の東アジア世界にまで広
がる流動性︑さらに豊臣・徳川による一連の奉公人対策などを活写した︵藤木﹁雑兵たちの戦場﹂朝日新聞社︑一九九五年︶︒
あくまで具象によって展開される藤木の叙述は衝撃に満ちているが︑ことにここで注目したいのは︑豊臣の一連の法令を︑
奉公人をめぐる都市・農村対策として読み解き︑関東・奥羽制圧以後の﹁浪人停止令﹂﹁身分統制令﹂﹁戸口調査令︵人掃
令︶﹂といった︑兵農分離政策の根幹をなすとされてきた法令を︑国内の戦場が閉ざされたために雑兵Ⅱ奉公人が都市 兵農分離論ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︶
令﹂と﹃一季屋禁令﹂︑同﹃日本近世国家史の研究﹄岩波書店︑一九九○年︑所収︑初出一九八四年︶︒また高木はこの法令を︑豊
臣が武家奉公人と百姓を区別し︑関東・奥羽征服を画期として朝鮮侵略へと突き進むなかで奉公人・百姓の人返を徹底し︑
戦闘において主人︵武士︶を補佐する奉公人と︑戦場に物資・兵糧を運搬する百姓︵陣夫︶を含む軍隊を︑豊臣及び大名
の兵根給付によって編成し維持するための全国法令と位置づけた︵高木﹁近世の身分と兵農分離﹂初出一九八○年︑ヨ公儀﹄権
力の確立﹂初出一九八一年︑ともに同前掲書所収︶︒
以上のように︑近年の研究は︑戦国期の民衆が戦争にどのように関わったのかを追究し︑平和令のもとでの移行期の諸
政策の実態を見定めようとしている︒筆者がこの研究動向を﹁戦争と平和の視角﹂とみて︑継承しようと考えるのは︑豊
臣l近世の平和についての次のような高木や藤木の発言が︑現代的問題関心を示しているからにほかならない︒
﹁公儀権力の全国制覇の過程は︑同時に全国土と人民の公儀の軍隊への編成過程であったところに︑その特質が求められ
る︒公儀権力は戦国の大名や国人・土豪の争乱を︑公儀の名によって﹁私戦﹂として停止を命じ︑これに従わぬ者は﹁征
伐﹂し︑服属する者は新たに軍団の内部に組み入れた︒こうして拡大される軍団は︑公儀に対する義務として徴発された
百姓を非戦闘員として含んでいる点で︑戦国大名のそれとは異なっていた︒﹂︵高木弓公儀﹂権力の確立﹂︑同前掲書二○一頁︶
﹁近世の平和は︑かって特別の場所に特別の恩恵として与えられた禁制による平和︵戦時掠奪からの局地的保護ll稲葉
註︶が︑全国大に拡大されたという性格を︑最後まで色こくもったのである︒現在の日本では﹁核の傘﹂による平和をあ
り余る外貨で買おうという潮流が優勢なように見える︒この潮流は︑明らかに上記の禁制による平和の延長上にあり︑国
民を戦争に動員する権力の論理に道を開くものであるが︑他方ではこの論理が︑近世以降の民衆にある程度以上の有効性
を発揮してきたことは否定できない︒﹂︵高木﹁乱世﹂展史学研究﹂五七四︑一九八七年︑七九頁︶
﹁平和令の海外持ち出しという史実︵豊臣の朝鮮侵略ll稲葉註︶のもつ深刻さは︑日本で民衆の合意のもとで実現した
平和の体制が︑朝鮮にとっては抑圧の体制にほかならなかったのに︑日本の権力も民衆もともに︑その事実にまったく気
づかないまま︑平和令を押し売りし︑平和侵害の回復を名とする﹁征伐﹂に乗り出し︑ともに加害者となった︑という点
兵麗分離論ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︶ うとしているのである︒ ︵普請場︶に大流入する動向の阻止策︑都市の治安対策と位置づけた点である︒中世をつうじた農の成熟︑﹁中世的兵農分離﹂を説く藤木は︑内戦を収束させた豊臣が戦場という行き場を失った雑兵Ⅱ傭兵Ⅱ奉公人を抱え込み︑そのエネルギーを制御しようとする過程に︑﹁豊臣の平和﹂の芋む矛盾や︑さらには東アジアにおける日本国家の位置の変化を見究めよ
右の問題を︑中世後期の内乱と村落さらに大名領国Ⅱ平和領域の形成過程にそくして考えたものが筆者の二CCC年
度歴史学研究会大会報告﹁中世後期における平和の負担﹂︵﹁歴史学研究一七四二︑以下﹁前稿﹂という︶であった︒以下︑こ
の報告を高木・藤木らの所論と関わらせつつ︑研究史上の論点を深めてみたいと思う︒
兵路一分創岬黙恥ノート−期毎︒と平︽羽α﹄我使︽力らl宝稲空弗︶
にあるのではないか︒その意味で︑一国の平和に同意を与えた日本民衆は︑豊臣政権とともに︑朝鮮侵略の加害責任を免
れることはできない﹂︵藤木﹁民衆はいつも被害者か﹂︑同﹃戦国史をみる目﹂校倉書房︑一九九五年︑所収︑二五五頁︑初出は一九八
七年︶
兵農分離は百姓を戦争から解放したのではない︒紛争解決の手段を自らの裁判権と強制に集中した統一権力の平和のも
とで︑百姓はその平和を享受する代償として︑統一と侵略の戦争に特定の形態でもって参加せざるをえなかったのである︒
領域の平和を維持して人民の生存の保護を果たし︑人民が保護を求める権利を認める国家は︑その人民に国家の戦争への
協力を義務として要求する︒豊臣の平和と兵農分離は戦争のためのどのような負担を百姓に定着させたのか︑またその歴
史的素地は内乱の中世社会のどこにどのように旺胎され︑内乱と侵略の歴史過程をどのように規定したのだろうか︒筆者
の関心はこの点にある︒高木・藤木の発言にもかかわらず︑中世や戦国の戦争を論じるのに兵Ⅱ武士のみを取り上げる傾
向は強い︒しかしそれでは戦争の歴史的実態が倭小化され︑いまだ戦争と不可分でしか実現しえない﹁平和﹂の現状や︑
戦争を主権として保持する国家のあり方の変革という現代的課題と︑接点を持ち得ないと考えるからである︒
1村の公事Ⅱ陣夫役・域普請役の成立
藤木が明らかにしたように︑戦国大名の一 三中世的兵農分離と﹁平和の負担﹂
戦国大名の領国において︑戦争をめぐる兵と農の分離は進行しており戦国大名か一樹匡﹂
砥腸隠二職匡過文拶北条H淵﹄八三六号︲永祢七年二五六匹﹂に此定︶
江戸衆らからの出陣要請をうけて︑里見軍との短期︵三日︶決戦を決意した氏康は︑秩父・西原に出陣を強く促しながら
具体的な軍備を指示している︒①短期決戦なので﹁腰兵狼﹂で出陣せよ︑陣夫は自分も準備していない︒②出陣人数は特
に指定しないが︑本人は馬上にて鑓を装備すること︒③ただし中間・小者は﹁達者﹂な者を残らず召し連れるように︒
つまり戦国大名領国下で軍役をつとめる個々の給人領主の軍隊は︑基本的に︑②馬上で武装し戦闘に従事する武士Ⅱ給
兵農分離論ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︶ 汀哩塞卵和ご令匙拝加肋ソ糸〃当c1L︾§J砲声に刑麺今匙匡封LG1L孝鳥圃勤匡辱﹃ソz︽幸﹂LL凹帽嘩寺嘩弐Lユ赤イ司副針眺卒L生α乞十八︲1L4〃1L剛や岸匹淵淘か晩径黄防園田紀z︑〃哩客に制麺令包弄州詞判欠の構成員として機能していた︒天正十三︵一五八五︶年︑ルイス・フロイスが戦国期の日本での二十年間以上にわたる見聞をもとにまとめた﹁日欧文化比較﹂には次のようにある︒
われわれの間では︑馬︑単峰酪舵︑酪舵等が兵士らの衣類を運ぶ︒日本では各人の百姓冒呂減易が彼の衣類や食糧を
背中につけて運ぶ︒︵ルイス・フロイス著︑岡田章雄訳注﹃ヨーロッパ文化と日本文化﹄岩波文庫︑二六頁︶
フロイスは物資の運搬に非戦闘員たる百姓が動員されている点を︑ヨーロッパにはない戦国日本の軍隊の特徴と注目し
た︵但し︑馬の徴発も伴うのが一般的である︶︒これが当該期の戦争に不可欠とされた百姓の陣夫役である︒さらに︑高
木も引用した次の北条氏康書状は︑戦国大名の軍隊の構成を示すものである︒
房州衆五六百騎二て︑市川二陣取︑岩付へ兵狼送候︑︵中略︶此時打而取所由︑江戸衆・高城以下数度申越間︑明日
五日自当地具足二て︑腰兵狼乗馬二付︑各懸候︑然者必々明日昼以前二当地へ可打着候︑︵中略︶自元三日用意二候
間︑陣夫一人も不召連候︑人数馳着次第︑馬上二て鑓を持︑必々明日五日昼以前︑可打着候︑一戦儀定間︑中間・小
者なり共︑達者之者共不残可召連候︑土屋や大見衆へ此分堅可申遣候︑恐々謹言︑
正月四日氏康︵花押︶
秒父殿
前稿において︑佐脇栄智︵﹁後北条氏の基礎研究﹂吉川弘文館︑一九七六年︶・池上裕子︵﹃戦国時代社会構造の研究﹂校倉書房︑
一九九九年︶らの研究に依拠しながら述べたのは次の点である︒
第一に︑北条氏の天文十九︵一五五○︶年のいわゆる税制改革以後︑百姓陣夫役は大普請役︵領国の城普請︶と並んで︑
領国において百姓がつとめる主要な役Ⅱ﹁公事﹂であったこと︒第二に︑その賦課基準は︑北条氏の検地によって打ち出
された村高によっており︑陣夫役はおよそ村高四○貫文に一人十〜二十日間︑出陣のたびに徴発され北条氏から給人に与
えられ︑大普請役は村高二○貫文に一人毎年十日間であること︒第三に︑村落には︑公事負担の反対給付として︑検地の
際に村高の十分の一を免除する︵年貢からの免除となる︶﹁公事免﹂が北条氏によって公認されたこと︒・陣夫役と大普請
役は︑﹁中世的兵農分離﹂のもと︑領国における百姓の公事であり︑それは村を単位とした戦国大名検地における反対給
付の設置という条件のもと︑村請によって果たされていたのである︒高木説の問題は︑こうした戦国大名検地論や公事論
α凶剛再卦今迩脇留包還スてし圭忽vと畑ぃ1由旬庵
このような公事は︑戦国大名検地が施行されていない地域においても︑武家領主のもとでの村請の成立とともに︑村の
負担として実現されていた︒天文二○︵一五五一︶年︑若狭国太良庄本所惣百姓中が︑新しく領主となった山螺氏に提出 陣夫については殆ど論及しない︒ 兵農分離論ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︶
人本人︑③給人に従い戦闘を補佐する中間・小者などⅡ奉公人︑①兵根などの戦場への運搬に従事する陣夫Ⅱ百姓︑とい
う三構成をとっていたのである︒
問題は︑給人なり戦国大名なりが奉公人や陣夫をどのようにして動員したかにある︒すでにみたように高木は︑給人が
日常の農業経営における領主的使役の延長上に︑彼らを動員したとし︑太閤検地をつうじてそれを直接編成した近世大名
との段階差を強調する︒これに対して藤木は︑③の奉公人を戦場での掠奪を生命維持の手段とせざるをえない民衆とみて︑
領主の百姓支配とは全く別の次元から彼らの活動のダイナミズムを捉えることに成功した︒しかしその雑兵論は①の百姓
竺馴や稀て柳兵たように菌一要なα側苓拙開扇剛︲零亨認雷儲二区︽駁隠幅における公事具負托↑α細騨緬券三剛呼︿に掲張弓脳二匡鋤布に一柵境仙して
くる村請制が︑兵の戦争に不可欠な陣夫役を最初から自らの負担する﹁公事﹂として控除つきで組み込み︑出発した事実
である︒その負担方式はすでにみたように戦国大名検地のあり方を規定したが︑さらに︑惣無事令のもと関東への出兵を
ひかえた徳川が︑天正十七︵一五八九︶年五ヶ国惣検地に際して︑村宛に広範に発布した家康朱印定書において︑
陣夫者︑弐百俵二壱疋一人宛可出之︑荷積者下方升可為五斗目︑扶持米六合︑馬大豆壱升︑地頭可出之︑於無馬者︑
歩夫二人可出之︑夫免者︑以請負一札之内︑壱段二壱斗充引之︑可相勤事︑︵和泉清司編扇奈忠次文書集成﹄︶
との一条を設けていることが注目される︒それぞれの村の検地結果を基準とする陣夫︵人と馬︶負担基準の明示とそれに
見合う﹁夫免﹂の控除︑さらに﹁地頭﹂Ⅱ給人による扶持米・飼馬料の給付規定は︑戦国大名北条氏の検地・公事賦課方
兵農分離賎ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︶ した指出に︑自らの負担としての﹁公事﹂Ⅱ陣夫役と︑それに対する領主からの控除Ⅱ﹁公事給﹂﹁永夫銭﹂を書き込み申告したのはその事例である︵高鳥甚兵衛家文書﹁福井県史資料編9中・近世七﹂︶︒
さらに︑それに先立つ十四世紀後半の丹波や播磨などの守護領国において︑陣夫役や領国・前線の城普請役はすでに百
姓の﹁公事﹂として現象している︒東寺領の大山庄や矢野庄︑先述の太良庄では︑守護が大田文記載田数によって荘園に
賦課したこれら公事を名主百姓が名別に負担して︑事後︑その具体的内容と分量︑さらにそれに見合う控除分を荘園領主
に納めるべき年貢からの除分Ⅱ﹁国下用﹂として算用状に記載し︑荘園領主に申告し続けた︒荘園領主は申告分の半分な
り全額を年貢から控除することで︑実際に名主百姓に守護方公事のつとめへの給付を行っていたのである︒
このように︑陣夫役や城普諭役という百姓の軍事的負担lこれらなしに兵の戦争遂行は不可能であるlは︑中世後
期における領国の形成に伴って︑荘園制負担体系とそれにとって替わった村謂制によりつつ実現され続けた︒荘園制から
戦国大名領国下での村請制に至るまで︑それが一貫して控除を伴っている事実は︑夫役動員が領主の盗意的支配とは無縁
のものであったことを示す︒
2近世百鉛失殺α逝渦
中世社会における村請制の成立つまり﹁農の成熟﹂は︑戦争における陣夫役や城普請役を村の公事として背負い込んだ︒
そしてこれらの役は︑幕藩体制下では年貢とならぶ百姓の基本的な負担たる夫役として存続する︒幕藩制国家での百姓夫
役は豊臣・徳川初期の百姓陣夫役の変形であり一般化である︑とした佐々木潤之介は︑それが屋敷を保有する百姓から軍
雪事力編成を統一集中した公儀Ⅱ国家公権に属する﹁共同利益﹂への労働力徴発であり︑国家公権に集中された︑年貢とは
異なった労働地代と規定した︵佐々木﹃幕藩制国家論上﹂東京大学出版会︑一九八四年︑第Ⅲ章︑初出は一九七五年︶︒さらに久
留島浩は︑﹁中世以来基本的には区分されてきた︑百姓の役すなわち人夫役︵﹁体役﹂﹁力役﹂︶︑武士の役すなわち軍役
︵邑具﹁体役﹂︶﹂が︑近世においては﹁全国的に固定され制度化されることになった﹂という注目すべき視点から幕末の戦
争における百姓動員を分析し︑幕藩制国家がついに農を兵として動員することができなかった一方で︑農は幕末の戦争に
おいても国家的に固定された百姓役たる陣夫役をつとめた事実を︑﹁百姓にとって︑戦時には自身で陣夫役を勤めること
が︑百姓としてのステイタス・シンボルであるという意識﹂によるものとし︑そうした自己認識の自己変革が困難だった
点に幕藩制国家支配の﹁歴史的重み﹂をみている︵久留島﹁近世の軍役と百姓﹂﹁日本の社会史第4巻﹂岩波書店︑一九八六年︑
所収︶︒
なりたち久留島はまた︑徳川が戦争をなくして百姓の成立を保障してきたところに支配の正当性の根拠をおき︑その﹁御国恩﹂
に応えるため長州戦争に協力せよ︑という幕末における幕府側の百姓動員論理に注目している︒佐々木のいう﹁国家公権
に属する﹁共同利益﹂﹂というのも︑この﹁御国恩﹂論理と同じものをさすと筆者には思われるが︑こうした動員論理は 兵農分割話ノートー闘争と斗荊α描食力らI︵和謝﹄
式と酷似している︒統一政権の陣夫役動員と︑それを目的の一つとする検地は︑戦国期に下から成立し北条氏など戦国大
名領国の基礎となっていた村請制に依拠しつつ︑賦課と控除川給付の統一的基準を定めたものにすぎないのである︒
近世百姓夫役の起源
すでに戦国大名北条氏の当主朱印状においても顕著にみられる︒
○此度臨時普請雌可為迷惑候︑第一為御国︑第二為私候間︑於百姓等も奉公可申候︑御静誰之上可被加御憐懲候︑︵﹁戦
国遺文後北条氏編﹂一二九六号︑徳延百姓中宛︶
○年内分国中境目之仕置為可成堅固︑豆相武三ヶ国之人足灸寺領・社領等迄︐悉申付候︑苦労二存候共︑御国為静誰候
之間︑田名人足四人申付︑中十日小田原城普請可走廻候︑︵同前一三三九号︑神尾善四郎宛︶
いずれも永禄十二︵一五六九︶年︑武田氏の侵攻という超非常事態に際して村請の枠を超えた城普請を領国中枢部の村
に求めた北条氏の動員論理は︑﹁これは﹁私﹂の利益であるとともに︑それに優越する﹁御国﹂の利益つまり御国の﹁静
読﹂Ⅱ平和のためである﹂というもので︑長州戦争に際して幕藩体制の存亡をかけて百姓を説得した幕府代官の台詞と瓜
二つである︒注意すべきは︑どちらの場合も持ち出されている﹁御国﹂の平和は全くの幻想ではなく︑北条領国において
もそれは領主間・村落間紛争の北条氏による裁決︵目安箱制︑稲葉﹁中・近世移行期の村落フェーデと平和﹂︑歴史学研究会編﹁紛
争と訴訟の文化史﹄青木書店︑二○○○年︑所収︶という徳政も含めて︑現実の状態であったことである︒だからこそ北条氏
もこの論理で百姓を説得できる可能性を想定したわけだが︑それはいわば﹁百姓が享受している平和のための負担﹂とし
て要求されているのである︒前稿で﹁平和の負担﹂と表現したのは︑このことである︒
さらにこれは︑室町期の領国で公事として定着していた陣夫役などにも当てはまる︒守護にたいする﹁平和の負担﹂発
生の瞬間を告げた︑十四世紀内乱における荘園の代官・名主百姓の言葉を聞こう︒
結解状内二貫文立用事︑去年巳悪党乱入之段︑可為実事之由︑風聞之間︑守護使糟屋九郎・千町三郎︑悪党乱入之時
者︑最前可馳向之由申之間︑無為之時者︑馬喰物分︑雛為如形︑可致沙汰之旨︑就約束遣之畢︑︵年未詳加賀軽海郷
代官︵?︶注進状案﹁鎌倉遺文﹄三二二○二号︶
悪党乱入に悩まされたこの荘園では︑その排除を守護使糟屋・千町両名に委託し︑その代償として︑﹁無為﹂Ⅱ平和な
兵農分離論ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︶
兵脳分剛騰ノートー卿争と平荊勿祈角力ら1︵稲葉︶
時にも彼らの飼馬料を荘園の側が負担するという﹁約束﹂を交わし︑それには荘園領主に納めるべき年貢二貫文を充当し
た︑と荘園領主に報告している︒室町期守護領国における公事は︑守護によって維持される平和を享受したときの対価と
して発生したのである︒次の事例はそうした事情をさら幅具体的に示す︒
弥随子日︑両御方之軍勢等︑日夜朝夕上路刻︑令乱入子庄家︑牛馬巳下資財等不知其数︑至子米・大豆等者︑悉令負
運︑︵中略︶無代仁被運取之間︑所詮可及餓死之上者︑於向後者︑令会向子一所︑捨身命問答仕︑可防申之由︑令同
心合力︑連日依警固仕︑雛停無窮之乱妨︑於面々費者︑凡不可勝計︑其後守護・国司在国之間︑可為静誰欺之由相存
之処︑或時者可出軍勢︑或時者可兵根米・馬物具等沙汰︑不然者︑称御敵召取其身︑可焼払家々之旨︑風聞︵建武四
︹一三三七︺年︑美濃国大井庄庄家申状案﹃岐阜県史史料編古代中世三﹂︶
十四世紀内乱のさなか︑交通の要所にある大井庄︵現岐阜県大垣市︶は︑両軍の乱入と私財の掠奪に晒された︒名主・
百姓はこれに対して﹁同心合力﹂して武力行使も含めた防衛にあたり︵これを前稿では﹁地域防衛﹂と概念化した︶︑膨
大な負担を背負い込むことになったが︑やがて﹁守護・国司﹂が在国すると︑名主・百姓は自力の防衛負担から解放され
た︒しかし彼らには守護・国司が行う戦争への﹁軍勢﹂供与︑兵根米・馬・戦時物資の負担がすぐさま要求された︒その
拒否は︑守護6国司の﹁御敵﹂化︑つまり領国のもとでの平和喪失を意味したのである︒
陣夫役のつとめは︑﹁公儀﹂支配の枠内での百姓のアイデンティティーとして天から降ってきたものでは決してない︒
内乱のなか︑平和状態の実現と維持を守護に委託することによって武力行使も含めた地域防衛の人的物的負担から解放さ
れたまさにその瞬間︑中世百姓は平和維持者たる守護に対するこれら新しい義務を背負いこまざるを得なかったのである︒
このように︑中世後期をつうじた内乱の過程で︑百姓の戦争のための労働Ⅱ陣夫役・城普請役を公事として組み込んだ
領国が︑その内部では戦争の停止した領域︑すなわち平和領域として展開してゆく︒これが﹁中世的兵農分離﹂の実態で
あった︒
住ヤズドよそ刈掴似億弾芦推力笹匡α平和を一写零寺する剛対価︿と↑恥化したところに南取立した随エ大把﹄肘嘆里臣圃赫咋αもと豊一目
の平和への対価として存続するが︑豊臣は︑その平和Ⅱ惣無事の名のもとに︑朝鮮侵略にのり出す︒ほんらい︑内乱のな
かで中世百姓の現実の生活安全保障のコストとして発生し︑それ故にこそ領国における﹁公事﹂と呼ばれた陣夫役は︑同
時に戦争のための負担でもあった︒陣夫役は︑こうした両義的な歴史的性格のうち︑後者を極限にまで肥大化させられて︑
ついに対外侵略戦争のための負担労働となったのである︒その動員規模は︑一大名の軍団全構成員のじつに四割にも達し
たく藤木久志﹁織田・豊臣政遮小学館︑一九七五年︑三二五頁以下︶︒百姓は︑この動員にどう対応したのか︒
兵農分離論ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︶ しかし特定の政治敵・地理的条件のもと守談や戦国大名の領国という形態ではなくて︑みずから一国﹂と称する空間
を統括する地域権力が形成される場合がある︒それが戦国期に畿内近国各地に出現した惣国一摸である︒これは一般に大
名の領国支配を拒否した自治組織︵一撲︶と評価されており︑階級的本質によればそれは間違いではないが︑唯一残る伊
賀惣国一撲徒書︵山中文書︶がその冒頭に︑
従他国︑当国へ入るニおゐてハ惣国一味同心二可被防候事︑
と規定しているのをみれば︑惣国一摸が地域防衛体制の発展型であることは明らかであろう︒惣国一摸の百姓も無償の平
和を享受できたわけではないのである︒
こうした惣国は移行期の政治過程において姿を消し︑中世百姓の公事Ⅱ陣夫役は徳川の平和のもと︑公儀への百姓夫役
へと﹁変形﹂し﹁一般化﹂して実現され続けるが︑やがて幕末の戦争において本来の軍事的本質を露にしたのは︑久留島
の指摘するとおりである︒しかし中世の終末において︑この百姓役は︑﹁平和の負担﹂としての矛盾をさらけ出していた︒
前近代日本が唯一引き起こした対外侵略︑豊臣の朝鮮侵略においてである︒
四朝鮮侵略と百姓陣夫役
天正十六︵一五八八︶年閏五月︑国衆一撲鎮圧とともに熊本に入った加藤︵薪熊本市史史料編第三巻近世I﹂二三号︑以
下断らない限り同書の収録番号を示す︶は︑同十九年八月︑﹁来三月︑至大唐可被成御動座之旨︑被仰出候事﹂と豊臣の侵略
・動員をうけて︑﹁侍・下人二よらす︑よハものをハ可残置候︑国者・隣国者たりといふ共︑奉公望之者有之者︑可相拘事﹂
︵四四号︶と武家奉公人の精選と広範な募集を指示し︑さらに︑
此地︵名護屋ヵ︶へ越候刻人足千石二付て︑四人つ慰申付候︑然者此度召連候人足之残有次第︑又左衛門尉を奉行二
と述べて︑村高に応じた夫役動員の徹底を命じている︒本論の関心から確認しておきたいのは︑加藤の侵略動員が﹁てつ
ほうの者一人つ愈も可抱置候︑国中昔之奉公人悉かりいたし︑てつほう五百丁・千丁二ても早々可差渡候﹂︵五三号︶とい
う鉄砲の大量使用に必要な武家奉公人の大動員と︑村高に応じた村請の陣夫役動員として始まった事実である︒これは他
の九州諸国でも同様であったろう︒
しかし隣国豊後では︑大友氏の動員体制は破綻をきたし︑大友吉統の改易と豊後の豊臣蔵入地化が強行される︒この時︑
豊後でおきていた事態については︑中野等の詳細な研究がある︵中野﹁﹃豊臣大名﹂大友氏と吉統除国後の豊後﹂︑同﹃豊臣政権
の対外侵略と太閤検地﹂校倉書房︑一九九六年︑所収︶︒それは︑侵略の開始とともに大友吉統が家臣田北氏に述べた次の言葉
に集約される︒ ︵四四号︶と武家奉公人︵
此地︵名護屋力︶へ
付︑早々可差越候︑ る注目すべき史料群である︒ 兵農分離論ノートー戦争と平和の視角からI︵稲葉︼
豊臣と諸大名は︑検地によって確定された村高に応じて︑朝鮮への陣夫役を村に賦課した︒侵略期に加藤清正が国もと
の家老加藤喜左術門尉・下川又左衛門尉らに宛てた一連の書状は︑﹁平和の負担﹂の侵略動員が不可避とした矛盾を伝え
其方領地百姓連々一雅意︑殊唐入儀申付候処︑田地可差返之由申候哉︑︵﹁大分県史料二五巻﹂所収﹁田北一六文書﹂二