1.問題の所在 2.アッサム雲南説 1) アッサム雲南説以前 2) 渡部忠世による作物史的研究(以上本誌第 769号) 3) 中川原捷洋によるアイソザイム分析(以上本誌第 781号) 3.東亜半月弧説 1) 成立過程 2) 特色(以上本誌第 804号) 4.考古学による最近の成果 1) 藤森栄一の縄文農耕論 A.縄文農耕論前史期 B.藤森栄一の縄文農耕論期 C.藤森栄一以降の縄文農耕論の展開(以上本号) 2) 中国での考古学の成果 5.分子遺伝子による新発見 6.照葉樹林文化論の修正 7.結語 4.考古学による最近の成果 日本人の食生活は,既に論じたように,パン食に代表される粉食が増加してきた。しかし,その中 心は依然として米食であるといえる(田畑 2004:(30))。柳田國男を創始者とする民俗学は,このよう に主食として米食を好むという指向性をもつ日本社会の特質を,材料である米すなわちイネの栽培が 稲作と称せられていることから,稲作社会と名づけ,かかる特質を有する社会や文化の論究を研究課 題としてきた。つまり,民俗学においては,稲作社会が主要な研究対象として位置づけられてきたの である。民俗学は,研究対象を稲作社会に限定した結果,日本列島において稲作が実施されなかった 社会,すなわち稲作以前の社会に関する研究は等閑視される傾向がみられた。1)その理由は,稲作以 前の社会,すなわち縄文時代の研究は,従来考古学を中心に実施されてきたことと大いに関係してい る,と推察できる。というのは,周知のように,考古学は遺跡や遺物によって人類の歴史を研究する 学問分野である。そのため,遺跡や遺物が出土しなければ,その存在は認められないという立場を取 らざるを得ない。縄文時代に関しては,近年まで,水田址などの遺跡,炭化米に代表される遺物が出 土していないことから,農耕が存在しなかったということが,いわば既知のこととされてきた。 しかしながら,考古学の発掘技術の進歩などに伴い,縄文時代後期後半や晩期2)の遺跡において局 地的ではあるが農耕が存在したことが確認されている。このような考古学の成果を受けて,近年にお いては,高等学校社会科日本史の教科書にも,原始農耕のはじまりという項目の中で,「前期から中 期にかけての遺跡からは荏胡麻え ご ま粟あわヒエ栗イモなどが発見され,後期から晩期の遺跡では石鍬いしぐわ 学苑 No.852(32)~(48)(201110)
稲 作 の 起 源
(Ⅳ)
照葉樹林文化論との関連において
田 畑 久 夫
とともに小豆あ ず きや麦などの雑穀ざつこく類や,最近では稲の畑作が行なわれていたことを示す遺跡もみつかって いる」(青木ほか 2004:9)と記載されるようになった。なお同教科書では,縄文時代の原始的な農耕 が確認できる代表的な遺跡として,福井県の鳥浜貝塚(前期),また稲作が行なわれていたことを示 すイネの花粉が,岡山県の朝寝鼻貝塚 南溝手遺跡(いずれも前期から中期)で発見されたと註記され ている(青木ほか 2004:9)。 以上論じたように,近年では高等学校社会科日本史の教科書にも,弥生時代初期ではなく,縄文時 代後期から晩期には稲作(畑作を想定)が,局地的ではあるが実施されていたことが明記されている。 しかしながら,それ以前においては,既に述べたように,一部の研究者を除いて,縄文時代には稲作 を含む農耕が存在しないという見解が主流を占めていた。かかる見解に対して,縄文時代後期よりも 更に千年以上も古い中期に農耕が実施されていたと強く主張する代表的な研究者として,藤森栄一が 挙げられる。藤森栄一は,縄文時代中期にみられる農耕を「縄文農耕」と呼び,その実証的な調査 研究をほぼ独力で精力的に試みた。 本稿の課題は,照葉樹林文化論との関連において,稲作の起源を論究することである。しかし,わ が国の考古学研究者の多くは,これまで論じてきたことから容易に判明する如く,稲作の起源は日本 列島における稲作を含む農耕の起源であり,その解明に主要な関心がおかれていた。かかる研究を主 導する研究者で,代表者でもある藤森栄一の縄文農耕論を基軸に検討していく。 1) 藤森栄一の縄文農耕論 我々日本人が居住する日本列島に食糧を栽培するようになったのは,どのような形態で,いつごろ からであろうか。3)考古学の定説としては,次のようである。すなわち,中国の大陸部4)から直接に 東シナ(東海)を渡るか,あるいは朝鮮半島を南下して北九州に伝来したとされる。かかる稲作が北 九州に伝来した時代は弥生時代初頭であり,イネのみではなく,稲作の技術を取得した集団も同時に やって来たと推定してきた。しかしながら,近年,自然科学研究者との学際的研究(interdisciplinary studies)の進展により,縄文時代にはイネを含む作物の栽培が実施されていたことが判明している。 この点に関しては,既に紹介したとおりである。すなわち,縄文農耕の存在が確認された現在こそ, 縄文時代に稲作を含む農耕が存在したという視点から,考古学での発掘成果などを踏まえて,縄文農 耕に関する意義の再検討が迫られているといえる。かかる意味からも,藤森栄一に代表される縄文農 耕論についても,改めて検討を加える必要があると思われる。 とりわけ,照葉樹林文化の核心地域に該当する東亜半月弧において発祥したとされる,稲作を含む 照葉樹林文化の主要な文化要素は,ユーラシア大陸東部の温帯南部のみにみられる同様の自然地理的 条件を有する西南日本(糸魚川=静岡構造線以南の日本列島)に伝播したのが,縄文時代であると想定 されているからである。5)さらに,照葉樹林文化論の提唱者の 1人である佐々木高明は,わが国に最 初に伝来した農耕は,多くの考古学研究者が想定するように,水田を利用する稲作,つまり水田稲作 (水稲栽培)ではなく,山間部で主体に行なう,ソバ(Fagopyrum esculentum Moench),アワ,ヒエ, ダイズ(GlycinemaxMerrill),アズキ(Vigna angularis(Willd)OhwietOhashi)などの雑穀の栽 培を中心とする焼畑農耕で,しかも稲作はかかる栽培作物の 1つの陸稲であったとする(佐々木 1971: 8285)。6)
以上の縄文時代に焼畑農耕が存在したとする佐々木高明の主張は,藤森栄一が唱える縄文農耕論と 類似している点が見受けられる。その類似点とは,農耕形態が焼畑であることである。しかし,成立
年代に関しては,佐々木高明の場合,縄文時代後晩期,藤森栄一の場合は縄文時代中期とし,それ ぞれ異なった時期が想定されている。にもかかわらず,照葉樹林文化の日本列島への展開を考える場 合,藤森栄一に代表される縄文農耕肯定説は再検討に値する見解であるといえよう。以下では,考古 学研究者による縄文農耕論を主張する代表的研究者として藤森栄一の研究を中心にとりあげ,論を展 開していく。具体的な順序としては藤森栄一を主軸とし,以前および以後の 3期に区分して検討を行 なう。7) A.縄文農耕論前史期 日本列島において,水田稲作が本格的に開始されるのは弥生時代からであった。弥生時代は,農耕 社会が確立するという,日本社会にとっては生業形態上の一大転換期であった。かように,弥生時代 が日本社会にとっても一大転換期であったということが史実として確認できるようになったのは,わ が国考古学の輝かしい調査研究の成果であるといえよう。とはいうものの,弥生時代になって日本 列島に水田稲作が急速に拡大するためには,次に述べるような前提条件が必要となる。その前提条件 とは,前時代,すなわち縄文時代において,既に作物を栽培したり,ある種の農耕が成立していたの ではないか,という疑問である。つまり,弥生時代に水田利用という形式で稲作がスムーズに実施で きるには,縄文時代の日本列島において,ある種の農耕が実施されていたのではないか,という推測 である。確かに,北九州に水田稲作が伝来したことが史実であるが,北九州にイネのみが単独で伝来 したわけではない。イネを栽培する技術をもった集団も同時に北九州に上陸したとされている。8)し かし,水田稲作を日本列島に伝えた集団の規模は大規模ではなかった。そのことも一因となり,縄文 時代から日本列島に居住している集団(縄文時代人)が,かかる栽培技術を取得し,稲作が西日本各 地に拡大していったと考えられている。 以上論じたように,日本列島に水田稲作が伝来する以前において,再度論点を繰り返すことになる が,いわば漠然とした形態であるけれども,縄文時代にある種の農耕が存在したのではないか,とい う疑問が,縄文時代の歴史を究明している考古学研究者の間で論じられてきた。考古学研究者の間で 縄文農耕論と称される論争がそれに該当する。この論争は,約 1世紀という非常に長い歴史を有して おり,考古学を代表する論争である。9)かかる論争に関しては,中山誠二が「従来の縄文農耕論はそ れを論証するだけの十分な考古学的な証拠を欠き,それが百家争鳴たる状況を生み出してきたことも 否めない」(中山 2010:3)というような学問的状況である。それ故,本論争の全体像の把握を容易に するために,縄文農耕に関する考古学研究者による主要論文の題名一覧表(第 2表)を作成した。以 下では,この第 2表を参照しつつ,検討を行なう。 第 2表 考古学研究者による縄文農耕関係文献リスト 文献 番号 期 氏 名 発表年度 文 献 名 掲載雑誌出版社名など 備考 1 2 3 4 5 6 7 A . 縄文農耕論前史期 神田孝平 鳥居龍藏 鳥居龍藏 鳥居龍藏 大山 柏 森本六爾 大山 柏 明治19年(1886) 大正13年(1924) 大正13年(1924) 昭和元年(1926) 昭和 2年(1927) 昭和 8年(1933) 昭和 9年(1934) 『太古石器考』 『諏訪史 第 1巻』 『下伊那の原史及先史時代』 『先史及原史時代の上伊那』 『神奈川県下新磯村字勝坂遺物包含地調 査報告』 『日本原始農業』 「日本石器時代の生業生活」 叢書閣 信濃教育会諏訪部会 信濃教育会下伊那部会 信濃教育会上伊那部会 小宮山書店 東京考古学会 改造 161 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
文献 番号 期 氏 名 発表年度 文 献 名 掲載雑誌出版社名など 備考 8 9 10 山内清男 江坂輝弥 江坂輝弥 昭和12年(1937) 昭和15年(1940) 昭和19年(1944) 「日本に於ける農業の起源」 「後期縄文式文化期に農耕が行われたか」 「武蔵野台地の中期縄文式文化期湧泉周 囲聚落に就いて」 歴史公論 61 貝塚 18 人類学雑誌 5911 △ △ △ 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 B . 藤森栄一の縄文農耕論期 藤森栄一 藤森栄一 藤森栄一 伊沢幸平 宮坂英弌 藤森栄一 澄田正一 国分直一 酒詰仲男 酒詰仲男 賀川光夫 芹沢長介 江坂輝弥 酒詰仲男 藤森栄一 江坂輝弥 坪井清足 藤森栄一 春成秀爾 藤森栄一 藤森栄一 武藤雄六 藤森栄一 永峯光一 赤松啓介 八幡一郎 藤森栄一 坂詰秀一 渡辺 誠 藤森栄一 藤森栄一 賀川光夫 江坂輝弥 乙益重隆 佐原 真 藤森栄一 昭和23年(1948) 昭和25年(1950) 昭和25年(1950) 昭和26年(1951) 昭和27年(1952) 昭和28年(1953) 昭和30年(1955) 昭和30年(1955) 昭和31年(1956) 昭和31年(1956) 昭和31年(1956) 昭和31年(1956) 昭和34年(1959) 昭和36年(1961) 昭和36年(1961) 昭和37年(1962) 昭和37年(1962) 昭和38年(1963) 昭和38年(1963) 昭和38年(1963) 昭和38年(1963) 昭和38年(1963) 昭和39年(1964) 昭和39年(1964) 昭和39年(1964) 昭和40年(1965) 昭和40年(1965) 昭和40年(1965) 昭和40年(1965) 昭和40年(1965) 昭和41年(1966) 昭和42年(1967) 昭和42年(1967) 昭和43年(1968) 昭和43年(1968) 「日本焼畑陸耕の諸問題」 「日本原始陸耕の諸問題」 「縄文中期の生活立地」 「栗帯文化論」 「石器時代の食生活」 「石棒と原始農業」 「日本原始農業発生の問題美濃尾張 の先史考古学的研究」 「栗と芋」 「日本原始農業試論」 「先史農耕」 「中国先史土器の影響」 「縄文文化(性格とその位置)」『日本考 古学講座』3 「縄文文化の時代における植物栽培起源 の問題に関する一考察」 『日本縄文石器時代食料総説』 「縄文中期農耕存否に関する新資料」 「縄文時代の植物栽培存否の問題」 「縄文文化論」『岩波講座 日本歴史 4』 「縄文中期文化の構成」 「藤森栄一の『縄文中期文化の構成』を 読んで」 「縄文時代農耕論とその展開」 「中期縄文土器の貯蔵形態について」 「縄文中期に於ける石匙の機能的変化に ついて」 「勝坂期をめぐる原始農耕存否問題の検討」 「原始農耕についての断想」『日本考古学 の諸問題』 「勝坂文化圏の中心」 「縄文中期農耕肯定論の現段階」 「縄文時代晩期の生業問題」 「縄文中期農耕論関係主要文献目録」 『井戸尻遺跡』 「釣手土器論縄文農耕肯定論の一資料 として」 「縄文時代の農耕」 『日本文化の起源縄文時代に農耕は発 生した』 「弥生時代開始の諸問題」 「日本農耕起源論批判『日本農耕文化の 起源をめぐって』」 「顔面把手付土器論」 夕刊信州 11月 20日 歴史評論 4-4 史前誌 4 信濃毎日新聞 12月 12日 諏訪教育 2 農業信州 10 名古屋大学文学部論集 史学11 陸南文化 7 考古学雑誌 422 貝塚 51 古代文化 20 河出書房 考古学雑誌 443 土曜会 日本考古協会発表要旨27 立正考古 20 岩波書店 考古学研究 91 考古学研究 101 考古学研究 102 考古学手帳 20 考古学雑誌 493 信濃 163 雄山閣 信濃 165 古代文化 155 古代文化 155 古代文化 155 中央公論美術出版 文化財 4112 考古学ジャーナル 2 講座社(現代新書) 考古学研究 143 考古学ジャーナル 23 文化財 10 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ ○ ○ ○ ○ ○ ○ △ ○ ○ ○ △ △ △ ○ ○ ○△ ○ ○ ○ ○ △ △ ○
参照すれば明らかなように,第 2表には縄文農耕に関連した主要論文の題目が発表出版年代順に 掲載されている。しかし,本稿の副題が照葉樹林文化との関連においてとなっていることからも推察 可能であるが,第 2表に掲載した論文の多くは,縄文農耕の存在を認める,縄文農耕肯定論者の論攷 が主体である。照葉樹林文化論は,中尾佐助が「農業起原論」(中尾 1967)および『栽培植物と農耕 の起源』(中尾 1966)において提唱された文化論である。10)かかる照葉樹林文化論の母体とでもいう べき照葉樹林文化は,中尾佐助が上述の著作で指摘した世界の 4ヶ所の農耕文化の起源地(発祥地の こと筆者註)の 1つである,マレー半島に起源をもつ根栽農耕文化の一部が北方に進出して,後に 「東亜半月弧」と称されることになる地域に形成された照葉樹林帯固有独特の文化を指す。11)照葉 樹林文化論は,かようなプロセスで形成されたので,あるタイプの農耕文化論あるいは稲作文化論と 看做されてきた。かかる特色を照葉樹林文化が有している。そのため,照葉樹林文化論の提唱者にと っては,日本列島における稲作を含む農耕に大いに関心をもつことになるのである。さらにそれに加 えて,既に指摘したように,照葉樹林文化は縄文時代に日本列島に伝来したことも,縄文農耕に注目 する理由とされる。 考古学研究者の中でも,縄文時代における農耕の可能性を唱えたのは,神田孝平であった。神田孝 平は,その主著(第 2表,文献番号 1,以下文献 1と略す。以下同様)の中で,石器時代にみられる打製 石斧を鍬などの農具と看做した(戸沢 1994:118)。当時縄文時代は時期および年代は勿論のこと,名 称も確定していなかった。しかし,打製石斧は後に縄文時代に製作された石器と認められたので,神 文献 番号 期 氏 名 発表年度 文 献 名 掲載雑誌出版社名など 備考 46 47 48 49 宮坂英弌 藤森栄一 渡辺 誠 藤森栄一 昭和43年(1968) 昭和44年(1969) 昭和44年(1969) 昭和45年(1970) 『尖石』 『縄文の世界』 「縄文時代の植物質食物採集活動について」 『縄文農耕』 学生社 講談社 古代学 154 学生社 ○ ○ △ ○ 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 C . 藤森栄一以降の縄文農耕論の展開 賀川光夫 渡辺 誠 岡田正彦 松永満夫 松本 豪 戸沢充則 戸沢充則 能登 健 佐原 真 玉田芳英 昭和47年(1972) 昭和50年(1975) 昭和50年(1975) 昭和52年(1977) 昭和52年(1977) 昭和54年(1979) 昭和58年(1983) 昭和62年(1987) 昭和62年(1987) 平成 2年(1990) 『農耕の起源』 『縄文時代の植物食』 「縄文中期住居址出土の炭化種子」 「アワ類似炭化種子」 「長野県諏訪郡原村大石遺跡で発見され た炭化種子について」 「縄文農耕論」『日本考古学を学ぶ(2)』 「縄文農耕」『縄文文化の研究 2』 「縄文農耕論」『論争学説 日本の考古 学 3』 『大系日本の歴史① 日本人の誕生』 「縄文時代に農耕はあったか」『争点日 本の歴史 1』 講談社 雄山閣 どるめん 5 どるめん 13 どるめん 13 有斐閣(有斐閣選書) 雄山閣 雄山閣 小学館 新人物往来社 ○ △ ○ ○ ○ ○ ○ ○△ △ ○△ 註 1.論文発表後,単行本あるいは論文集などに再度収録されているものも存在するが,最初に発表された論文のみを 記載した。 2.備考欄の○印は縄文農耕肯定論,△印は同否定論を表わす。なお,○△は論争史を整理したものである。 3.発表年代,研究者名,題目などに誤りがみられた場合,表中では訂正しておいた。 4.縄文農耕とりわけ縄文中期農耕の研究は平成 2年(1990)以降,他分野が研究の中心となっているので,同期以 降の研究史の整理を省略した。 〔出所〕藤森栄一(1970):『縄文農耕』学生社の巻末に付けられている縄文農耕論に関する文献目録,戸沢充則(1994):「縄 文農耕論の段階と意義」明治大学考古学博物館編:『市民の考古学 1.論争と考古学』111~147ページ所収の表 1 (116~117ページ)などを参考にするとともに,筆者の知見をも加えて作成した。
田孝平が縄文農耕の最初の主唱者となった。 以上論じた神田孝平のような説は,当時つまり明治時代から大正時代においては,考古学に関心 興味を有する研究者の間では一般的な見解であった。時代は少し下るが,人類学的な研究業績におい ても大変著名な鳥居龍藏の見解も,この期を代表するものであった(文献 2,3,4)。鳥居龍藏は,磨 製石器と打製石器とが共存するのは何故であるか考える必要があるとし,「磨製のものは裁断,刳彫, 殺戮に適し,打製は土地の掘り返しに適する(中略)それらの作業にはこの打製の石斧が最適するよ うな気がする。土地を掘る考えを更に一歩進めて,原始的な農業があった事を物語る材料となりはし ないか。今日に於ては未だこれは想像に過せない(下線筆者註)」(鳥居 1924:91)。かかる鳥居龍藏 の見解を更に進めたのが,大山柏であった(文献 5)。大山柏は,神奈川県の勝坂遺跡から出土した粗 製打製石斧の形態を分類し,それが「土き」であると考えた。このタイプの「土き」は,アフリ カ,ニューギニアなどの未開民族間では原始農耕と呼ばれている初歩的な農耕に使用されている。こ の事実から,大山柏は,「しかして直接農具として,土きありとすれば,原始農耕の存在は可能で ある」(大山 1927,小林編 1971:302303)と論じ,原始農耕(縄文農耕)の可能性が極めて高いと看做 した。大山柏のかかる見解は,その後にみられる縄文農耕論者にも,多大の影響をもつことになった。 神田孝平,鳥居龍藏,大山柏などの研究者は,上述したように,いずれも打製石斧を農耕具と考え, かかる石斧が出土することによって縄文時代に農耕が存在していたとする立場を貫いた。これらの縄 文農耕を肯定する立場に対して,多くの考古学研究者は否定的な見解を有していた。その否定的な説 の代表者が山内清男(文献 8)であった。 山内清男の批判点は,打製石斧を,植物性食料採取用として利用される土掘り具(「土き」)であ ることまでは承認する。そして,これらの打製石斧は,中部地方の山間部に限定された地域のみに検 出され,他地域,例えば,東北地方の山間部などでは出土しない。かかる事実は以下のことを示唆し ている。つまり,中部地方の山間部に当時農耕が存在していたのであれば,この地方とほぼ類似した 自然条件を有する東北地方の山間部においても,打製石斧の存在が確認されなければならない。しか し,それが確認されていない。農耕という生業形態は一度成立すれば,採集狩猟の段階よりも多く の生産物(食料)が期待できる。それ故,各地に拡散するのが一般的な傾向といえる。にもかかわら ず,それがみられないのは,打製石斧が中部地方の山間部という局地的な地域において,植物食料採 取用として利用されたものであるからである,と結論づける。さらに,遺跡からの穀物類の出土もな く,出土した土器にはその圧痕なども存在しないことから,農耕の存在は完全に否定される。 かように論を展開して,山内清男は,縄文農耕の存在を強く否定する。その根底には,「日本に於 いて現今栽培されて居る農作物の種類は夥しい数に達するのであるが(中略)先づ国民的食糧である 稲をはじめ,穀物類は凡て外国から渡来したものである」(山内 1937:266)という記述からも想定さ れるように,日本列島で栽培されている作物,とりわけ穀物はすべて外国からの渡来物であるという 指摘である。この点は,上述の神田孝平,鳥居龍藏,大山柏などの縄文農耕論者にはみられない新し い見解であるといえる。中山誠二によれば,かかる主張は,「その後の縄文農耕論の展開を考える上 でも重要である」(中山 2010:4)とされ,その後に展開される縄文農耕論において,新たな論点が提 出されたことになったという。このような山内清男の主張が,当時の考古学研究者の間で急速に拡大 し,多くの考古学研究者の支持を獲得したのは,戸沢充則によれば,
当時日本考古学界とりわけ縄文時代研究の主要な潮流は,山内氏が中心となってはじまった縄文土器の 編年 へんねん 研究によって形成されつつあった時期ですから,こうした山内氏の縄文農耕否定説は,その後の縄文研 究に根強い影響を与えた(戸沢 1994,明治大学考古学博物館編:121122)。 と論じ,当時縄文時代研究の第 1人者の発言であった点も見逃せないと指摘している。かくして,山 内清男の縄文農耕に関する反論が発表されて以来,考古学研究者による縄文中期農耕論は,一時影を 潜めることになった。12) B.藤森栄一の縄文農耕論期 縄文農耕論は,前述してきたように,考古学研究者間では,第 2次世界大戦終了まで縄文農耕否定 論が主流を占めていた。ところが,第 2次世界大戦終了後では,考古学研究者の大勢は従来と同様, 縄文農耕の存在を認めない否定の立場をとったが,強力に農耕文化の存在を主張する肯定論者が登場 した。その肯定論者とは藤森栄一のことである。かかる藤森栄一の主張は,第 2次世界大戦後におけ る縄文農耕論争に関して,多大の影響を与えるほど説得力に満ちた見解であった。すなわち,藤森栄 一によって縄文農耕論争に新しい局面が大きく展開することになる。それ故,本稿では,既出の第 2 表にみられる如く,第 2次世界大戦終了後藤森栄一によって新たな縄文農耕肯定論が展開される以前 の期間を,縄文農耕論前史期と名づけ,かかる論争の検討を加えてきたのであった。以下では,そこ での議論を受けて,その後の縄文農耕論争の展開を藤森栄一の縄文農耕論期と命名し,縄文農耕論前 史期と同様の方法で検討していくことにする。 藤森栄一が考古学に興味関心を抱くようになったのは地元長野県諏訪中学校(旧制)在学中から であった。その当時,藤森栄一は独学で異常といえるほどの情熱をもって考古学の勉学に勤しんだ。 中学校卒業後は,家業である文具兼書店を継がねばならなかったので,進学は放棄せざるを得なかっ た。しかし,考古学への興味関心は衰えることがなかった。考古学関係の雑誌に論攷を発表したこ とを契機として,弥生時代研究で大変著名な考古学研究者森本六爾の知遇を受けることになった。そ れ以降,藤森栄一は,森本六爾の学問的態度は勿論のこと,その人間性にも深く傾倒していくことに なる。このように,藤森栄一が森本六爾に深く感化されていくことになったのは,次のような理由が あったからであると推察される。第 1は,藤森栄一同様,森本六爾の最終学歴が中学校(旧制)卒業 であり,ともに中学校在学中から考古学に対して非常な関心をもち,独学で勉学に励んでいたこと。 第 2は,種々の理由から大学に進学しなかったため,大学の研究者を中心とするいずれの組織にも所 属しなかった。すなわち,アカデミズムの権威や安定した地位を得た学者とは縁がなく,在野の研究 者であった。第 3は,第 2と関連するが,それにもかかわらず,多くの研究者を育成したリーダー的 な性格をもつ。以上の 3点が共通点として挙げられる。13)かような学問的特徴がみられる,藤森栄 一の縄文農耕論を次に検討していくことにする。 藤森栄一は,前述したように,森本六爾による学問的影響を非常に強く受けた。そのためか,A. 縄文農耕論前史期においては,森本六爾の主要な関心であった弥生時代の水稲農耕文化の研究に従事 してきた。14)第 2次世界大戦後,郷里の長野県に戻った藤森栄一は,郷里周辺に縄文時代の遺跡が 多数存在しており,容易に縄文時代の遺物が表面採取可能なことなどから,縄文時代の研究に学問的 情熱を向けることになった。その理由の 1つに,中学校在学中から周辺地域において遺物の表面採取 を熱心に実施していたため,かかる地域の遺跡分布が既に頭の中に入っていたものと考えられる。す
なわち縄文遺跡について,いわゆる「土地勘」を有していたのである。そのような関係から,第 2次 世界大戦後最初に発表された論文(文献 11)は縄文農耕に関するものであった。15)この論文は,藤森 栄一の直系の弟子の 1人と目される武藤雄六が「その後日本考古学界の最大の論争の一つとなる,縄 文農耕論のきっかけをつくるという,学史的な意味をもち,また先生自身の縄文農耕に対する一連の 論考はすべてこの論文が基礎となっている」(武藤 1979:243)と述べているように,第 2次世界大戦 後の縄文農耕論の端緒となった論文である。16) 本論文の考察の動機は,宮坂英弌が長年かけて発掘した尖石の遺跡では数 10軒にも及ぶ竪穴住居 址が発見された。しかし,縄文時代の狩猟生活を表徴する石器である石鏃はわずか 100ぐらいしか出 土しなかった。近くの和田峠にはホシガトウと称される黒曜石に覆われた山塊があり,この黒曜石が 中部地方一帯の石鏃資源の供給源になっているにもかかわらずである。以上述べたように,藤森栄一 は,縄文遺跡から出土する石鏃に興味をもち,調査研究を開始したのである。その結果,石鏃につ いては, ( 1) 大遺跡には少なく,中小遺跡には多い。 ( 2) 広範囲に住居が拡散している遺跡に少なく,狭い立地に密集した遺跡に多い。 ( 3) 大遺跡,すなわち大集落はほとんど中期縄文時代に限られる。 ( 4) 小遺跡,すなわち立地の環境によって掣肘されている遺跡は必ずしも石鏃が少ないとはいえ ない。 という 4点の特徴が認められる。これらの 4点の特徴を総合的にみてみると,縄文中期において大集 落が形成されたのは,縄文中期という文化期の差よりも集落立地に関係するものであると考えられる。 つまり,小集落で多量に石鏃が出土するのはその場所が石鏃の製造跡,やや大きい集落はその消費地 であると推定できる。それ故,縄文中期の大集落の形成要因としては,狩猟以外の原因を考える必要 があると結論づける。以上の石鏃と同様の分析手法で,縄文時代中期の遺跡から出土する打製石斧 (打石斧と呼ぶ),乳棒状石斧,石皿,石棒,凹石など特徴のある石器類の分析検討を行なう。その 結果,当時の家庭,集落と集落立地の状況を含めて,「ユーラシア大陸新石器時代の寒冷な森林地帯 に始まった,ハック陸耕に類似するものでなくて何であろう。(中略)この縄文中期の高燥台地の生活 が焼畑陸耕生活によったものと考えていることは,むしろきわめて自然的ななりゆきであるに違いな い」と論じるのである。17) 以上述べたように,藤森栄一は,縄文中期の遺跡から出土する石鏃や打製石斧などの文化遺物の存 在状況から,同時期においては縄文農耕が存在していた,と強く主張したのであった。かような藤森 栄一の主張は,昭和 45年(1970)に刊行された主著(文献 49 藤森 1970)によって集大成された。本 書は,一部の書き下しの章を除き,学術雑誌などに発表した論文が主体として編集されている論文集 という形式の書物である。以下では同書を参照することで,藤森栄一の見解などを中心に分析検討 していく。 藤森栄一は,縄文農耕論の研究史に関して次のような見解をもっていた(文献 30 藤森 1970:151 169など)。18)そこでは第 2次世界大戦前までの縄文農耕存在論争を非常に要領よく整理したが,そ の内容に関しては,本稿の註 12)においてその一部を既に紹介したことがある。そのため,多少重 複するが次のように内容を纏めた。すなわち,縄文農耕論を最初に提起したのは大山柏であったとす る。大山柏は,森本六爾が ・弥生式水稲農耕文化・の理念を,その著作(文献 6)の中で発表したと
き,弥生時代の前段階である縄文時代においても農耕が存在していたことを明確に予言していた。と ころが,森本六爾の没後,「この縄文農耕文化論者が,全く鳴りをしずめてしまい,弥生時代農耕文 化論のみに止ってしまった」と指摘する。その理由の 1つとして,山内清男が縄文農耕存在(肯定) 論に真向うから反撃を加えたからである。山内清男は,現在(縄文時代のこと筆者註)において,農 作物の存在の証拠がないことは明らかな事実であると言い切った。山内清男は当時縄文式土器編年研 究において,大変著名な研究者であり,宮城県の桝形囲貝塚で発見された土器底に付着していた痕 が縄文式でないことから,このような主張をとらせるようになった,と藤森栄一は推定している。 以上のような第 2次世界大戦前までの考古学研究者たちの動向を受けて,藤森栄一も縄文農耕存否 論争に積極的に加わることとなった。クリの木の分布図と縄文中期遺跡の分布とを比較検討し,同期 の縄文文化の繁栄はクリの実によって支えられたものであると看做す伊沢幸平の栗帯文化論(文献 14)19),および八ヶ岳西麓の縄文中期大集落群の,あまりにも狩猟的でなさすぎる石器群の様相を数 字を用いて示した宮坂英弌の研究(文献 15)の影響が大きかった。これらの縄文農耕存在論に強力な 反対を表明したのが,芹沢長介を筆頭とする研究者であった。芹沢長介は,この点に関して,「肯定 論者はロジカルな能力をまったく払っていない,つまり,既出の論法すべてが不備であるが故に納得 しないのであって,これから,われわれは遺物遺跡をクロノロジカルに整備した上でこそ,農耕存否 の判断が下されるべきではないかというのである」と論じた。つまり,芹沢長介は縄文農耕存在論そ のものに反対したのではなく,縄文農耕存在(肯定)論者の学問のもって行き方に異議を唱えたので あった。20) さらに,藤森栄一の上記論文が発表されたのを機会に,直接本論文に対して批判を行なったのは, 春成秀爾(文献 29),永峯光一(文献 33),赤松啓介(文献 34)であった。藤森栄一は,これら 3名の 研究者による批判に対して,個々に具体的に反論を展開し,自らの主張である縄文農耕の存在を強く 訴えた(文献 36 藤森 1970:170178など)。 春成秀爾は個人のみの見解ではなく,考古学研究会の合評会の結果をとりあげたものであると前置 きして,「藤森は実際の農耕資料がなくとも,農耕を組み立てようとしているが,(中略)栽培植物が, 考古学的資料と共に検出されることが望ましいわけである。それにしても肯定論を通観しての弱さは, 石器の機能と用途の論証が不充分なことである」と批判した。また赤松啓介は,考古学全般にみられ る一般的な欠点として,原始農耕と農業の差を明確にしていない点,つまり農耕の概念などの把握が 充分にできていないとし,批判を展開した。以上の春成秀爾および赤松啓介の批判は,当時の考古学 研究者の多くにみられる意見を代表したという性格であり,藤森栄一の縄文農耕存在論に対して直接 に正面切っての批判とはいい難い側面を有していた。一方これら両名の見解に対して,永峯光一の主 張は直接に藤森栄一が唱える縄文農耕存在論に対してであった。すなわち,永峯光一は,藤森栄一が 縄文農耕の存在の例証としてきた中部地方の山岳地帯においては,中期縄文文化の繁栄は,ユリウス リップスなど外国人研究者の著作の影響を受けて,高級採集民族が残した文化であるとした。藤森栄 一は,この永峯光一の見解を「現段階における常識的否定論というものは,考古学の場合いくつかの 新しい発展にブレーキをかけてきたことを銘記すべきである」として退けた。さらに永峯光一は,藤 森栄一が唱えるような原始農耕を基盤にした文化はあり得ないと断言した点についても,「考古学な る,偶然という埋没と,偶然という発掘の微妙な相関関係からなる資料学において,ないといいきる ことのむずかしさを知らないのだろうか」と述べ,考古学界一般の奇妙なこだわりに対して皮肉って
いる。しかしながらとはいうものの,上述の 3名の研究者による縄文農耕批判は,藤森栄一にとって 自らの資料を再度見直す作業に着手する契機となったことも事実であり,目下その作業が進行中であ るとする。21)その研究は,自らが編集した井戸尻遺跡の大部な報告書(文献 39)および単行本(文献 47)などの著作として結実したのである。 なお藤森栄一は,縄文中期の栽培植物存在の肯定の根拠として,次の 18項目を挙げている。それ ぞれの項目には詳細な理由が付けられているが,以下ではかかる理由を省略し,その項目のみを列挙 しておく。 ① 栗帯文化論 ② 石鏃の稀少問題 ③ 片の復活 ④ 石匙の大形類型化 ⑤ 石皿の盛行 ⑥ 凹石の意義 ⑦ 土掘具の盛行 ⑧ 石棒:立石と祭壇 ⑨ 女性像としての土偶 ⑩ 土器機能の分岐 ⑪ 蒸器の完成 ⑫ 顔面把手付甕 ⑬ 神の灯 ⑭ 貯蔵具の形態 ⑮ 埋甕の問題 ⑯ 蛇,人体,太陽の施絞 ⑰ 集落の構成 ⑱ 栽培植物の問題 以上のような特徴がみられるのが藤森栄一の縄文農耕論である。かかる藤森栄一の縄文農耕論は, 縄文農耕存在論を代表する立場といえる。しかし,縄文農耕の存在を完全に実証するには到らなかっ た。その理由を中山誠二は, 藤森の縄文中期農耕論は,集落,石器,土偶,特殊な土器,祭祀具,栽培植物など多岐にわたる諸現象か ら見た総合的な見解であり,今日的には卓見とすべき点が非常に多い。しかし,農耕肯定論に固執するあま りに,論理的な矛盾や実証的な方法論から逸脱する部分があったことも否めない。さらに,栽培植物の存在 を明確にできなかった点も大きな障害となっていた(中山 2010:7)。 と論じている。 以上検討してきた藤森栄一の縄文農耕論は,主著(文献 49 藤森 1970)および単行本(文献 49)の 出版をもって完成した。22)この期には,第 2表にみられるように,澄田正一(文献 17),江坂輝弥 (文献 23,26など)23),坂詰秀一(文献 37)なども縄文農耕存在論を展開した。 なお,この期にこれまで論じてきた縄文農耕の存在を体系的かつ総合的に論じた研究者として,賀
川光夫があげられる(文献 21,41,50)。賀川光夫は,九州地方の遺跡の発掘調査から縄文農耕の存在 を明らかにしようとした。 一方,上述した縄文農耕存在論全般に対して,大変鋭い反論を投げかけた研究者が存在する。その 研究者とは,佐原真である。佐原真は縄文農耕論を異論と称し,「批判力のない一般読者に向って無 責任に放言する態度はあらためてほしい」(文献 44)と自説を展開した。 C.藤森栄一以降の縄文農耕論の展開 藤森栄一は,昭和 48年(1973)に他界した。縄文農耕論は,藤森栄一の死去および上述した佐原 真などの研究者からの非常に強力な批判や反論にさらされたため,一旦沈静化に向かった。ところが 1974年に,諏訪市荒神山遺跡(縄文時代中期)の第 70号住居址から,アワと推定されるパン状に固ま った炭化種子が発見された。炭化種子の出土状況は,上下に重複する 2軒の竪穴式住居址の下層住居 址の床面上からであった。かかる炭化種子は出土状態が確実で,かつ時代も縄文時代中期であると特 定できた。そのため,栽培植物資料の最初の発見とされた(文献 52)。すなわち,縄文中期に栽培植 物の存在つまり農耕が実施されていた大変有力な証拠であると考えられた。さらに,荒神山遺跡の近 くに位置する大石遺跡(縄文時代中期)からも同様のアワ状の炭化種子が出土した。この炭化種子も 種子が焼けてタール状に固まっていた。この時点で,荒神山遺跡から出土したアワ状の炭化種子と同 様,大石遺跡から出土したパン状の炭化種は,外形などから判断して栽培植物のアワであるとの見方 が考古学研究者の間で広がり,栽培種のアワに近い栽培植物であるということになった(文献 53,54)。 しかしながら,アワと推定された炭化種子を走査電子顕微鏡を用いた灰像法で調べてみると,炭化種 子はアワではなく,エゴマ(Perillafrutescensvar.frutescens)やシソ(Perillafrutescensvar.crispa) などに特有の「わらじ状細胞」が確認できたことから,エゴマまたはシソであろうとの結論が出され た(松谷 1988:105108)。 このように,他分野の研究者の協力を得て縄文農耕の研究が進められた。しかしながら,前述の事 例からも明らかな如く,考古学研究者が期待する縄文農耕の存在に関する物的証拠が得られていない。 そのため,考古学研究者の間では,縄文農耕,とくに縄文中期農耕を唱える研究者がほとんど存在し なくなった。かような考古学の研究アプローチに代わり,縄文農耕の存在を主張しだしたのは,民族 学(文化人類学)あるいは農学のアプローチからの研究であった。かかる研究アプローチの代表者と しては,日本および海外での焼畑農耕の実証的研究(佐々木 1970,1972)に従事してきた,佐々木高 明の研究が挙げられる。佐々木高明は,自らの焼畑研究の成果を踏まえたうえで,縄文時代中期に日 本列島の山間部において焼畑農耕が実施されていたと推定している(佐々木 1971など)。しかし,他 分野からの検討は,考古学研究者による縄文農耕の検討という本号の主旨から離れることになる。そ れ故,他分野からの論文著作の検討分析はすべて割愛することにした。 かくして,考古学研究者間では,縄文農耕とくに縄文中期農耕の存在は否定的なものとなった。し かしながら,近年における考古学の発掘技術の著しい進展などにより,縄文時代中期ではなく晩期に おいて,農耕(水田稲作)が実施されていたことが確実となった。この種の遺跡の発見が各地にみら れることなどから,近年では,考古学研究者は縄文中期農耕ではなく,縄文晩期および弥生初期の農 耕に関心をもつようになった。24) 稲作の起源に関しては,日本のみならず中国においても強い関心がもたれ,中国人の考古学研究者 により発掘が盛んに実施されている。近年では新しい考古学の成果も多い。これらの点に関しては次
回の冒頭の部分において検討する。 註 1) しかしながら,この点に関して,数は多くないが異なった見解をもった民俗学研究者も存在する。かかる 立場を主張する研究者として坪井洋文が挙げられる。坪井洋文はその著作の中で次のように論じている。 第 1にあげるべきは,・農耕の弥生時代起源論・である。(中略)それには『古事記』,『日本書紀』などを 典拠とした神話を史実とする史観(皇国史観をいう筆者註)が,肯定的に力を与えてきたし,学校教育に よって補強された結果,国民一般に弥生起源論に関して疑問をいだかせる契機を与えなかったのだといえ よう(坪井 1979:204)。 と論じ,農耕すなわち水田稲作の弥生起源に対して強く疑問を呈したのであった。坪井洋文は,上述の観点 から水田稲作を基盤とする文化体系に加わらない民俗の存在を認識する必要があると主張し,水田稲作とは 異なるアワ(Setaria italica Beauv), ヒエ(Echinochloa esculentum Moench)などの雑穀類やサトイモ
(Colocasiaantiquornm Schott)などのイモ類を主作物とする作物体系が存在することを明らかにしたのであ
った(坪井 1979:68)。かかる坪井洋文の主張に対して,佐々木高明は,「日本文化には稲作を基軸とする価値 体系によって特色づけられる第一の類型のほかに,畑作を基軸とする第二の文化類型が存在する。このこと を坪井さんは民俗学の立場から強く主張したのである」(佐々木 1982:1617)と述べ,坪井洋文の指摘を高く 評価したのであった。 2) 縄文時代および弥生時代に関して,考古学および関連する自然科学の進展により,従来の各時期の年代と は異なる年代が提示されている。本稿においては参考および引用した文献で用いられている時期や年代をそ のまま用いた。理由は,今後新しく提示された各時期の年代に換算しなければならないと思われるが,かか る新しく提示された数値が確定していないからである。現在新しく提示された時期の年代に関しても統一さ れていなく,多少異なっているようである。以下では,現行の高等学校社会科日本史の教授指導書に記載さ れている各時期の年代を示しておく。 縄文時代は 6時期に区分される。各時期の年代は, 草創期(約 1万 3000年前~1万年前) 早期(約 1万年前~6000年前) 前期(約 6000年前~5000年前) 中期(約 5000年前~4000年前) 後期(約 4000年前~3000年前) 晩期(約 3000年前~2300年前) とされる(『詳説日本史(改訂版)教授資料』編集会編 2011:11)。 同様に弥生時代に関しては,時期区分が長らく用いられていた前期中期後期という 3区分ではなく, 以下のように 4時期に区分され,しかもその上限が約 500年上がっている。なお,以下の区分では年代の表 記方法が上述の縄文時代とは異なっているが,統一しないで引用文献の記載のままにしておいた。 すなわち弥生時代は, 草期(紀元前 950年~紀元前 780年) 前期(紀元前 780年~紀元前 380年) 中期(紀元前 380年~0年) 後期(0年~紀元後 200年) とされる(青木ほか 12名 2004:12)。 3) 当時(縄文時代)の日本列島に居住している集団は,日本人と称されていなかった。当時日本列島には日本 国という国家が存在していなかったからである。日本人とは日本国を形成する主要民族だからである。当時
日本列島に存在した国家は倭国で,その住民は倭人と呼ばれていた。日本という国家の名前が最初に登場し たのは,7世紀後半のこととされる。かかる事実から,とりわけ縄文時代の住民である倭人と 7世紀以降の 日本人は同一民族であるといいきれるであろうか。魏志倭人伝などの記載では,倭人の一部は朝鮮半島南端 にも居住している。日本列島における稲作を含む農耕の伝来を考察する場合,農耕を行なった主体の問題は 避けることのできないテーマであるが,本稿の主題ではないので,今後の検討課題としたい。 4) 中国大陸という用語は,第 2次世界大戦以前において,台湾と区別することなどから習慣として使用され ていた。現在でも,かかる用語が踏襲され中国大陸という名称が,例えば,日本を代表する新書である岩波 書店発行の岩波新書にも中国大陸という名称を書名とした書物(『中国大陸をゆく近代化の素顔』)が出版さ れたり,最新の社会科日本史教科書(三省堂『日本史 B』10頁)にも使用されている。周知のように,大陸と は,ユーラシア,アフリカ,北アメリカ,南アメリカ,オーストラリア,南極の合計 6大陸以外存在しない。 もし,中国大陸が存在するのであれば,カナダ大陸,ブラジル大陸などのように国家名を冠する大陸や,ヨ ーロッパ大陸のように地域名を冠した大陸も存在することになるのではなかろうか。一考を要する問題とい えよう。かかる意味から,本稿では,「中国大陸」ではなく,中華人民共和国の大陸部という意味で「中国の 大陸部」とした。 5) 周知のように,照葉樹林文化の発展段階に関しては,中尾佐助の 5段階説に対して,佐々木高明は中尾佐 助説を修正した 3段階説を採用している。その 3段階説とは, ① プレ農耕段階(「照葉樹林採集半栽培文化」) ② 雑穀を主とした焼畑段階(「照葉樹林焼畑農耕文化」) ③ 稲作卓越ドミナントの段階(「水田稲作農耕文化」) の 3段階である。以下の第 1表にみられるように,佐々木高明の 3段階説の①段階としては縄文時代前期, ②段階としては縄文時代後晩期,③段階としては縄文時代晩期あるいは弥生時代初頭をそれぞれ日本列島 に伝来した時期と想定している(佐々木 1986:3133)。 なお佐々木高明は,上記②段階が照葉樹林文化のクライマックス(全盛期)としている(佐々木 1982:32)。 第 1表 日本基層文化の形成 時代 時 期 年 代 摘 要 照葉樹林文化の発展段階 旧石器 時代後期 Ⅰ 期 約 30,000年前 13,000年前 12,000年前 10,000年前 6,000年前 5,000年前 4,000年前 3,000年前 2,400年前 2,000年前 1,750年前 1,400年前 氷河期 Ⅱ 期 Ⅲ 期 細石刃文化の流入 縄文時代 草創期 縄文文化の成立 土器,弓矢,竪穴住居(定住化) 早 期 気候温暖化 縄文海進 ①プレ農耕段階 前 期 照葉樹林採集文化の伝来(ウルシなど) 中 期 縄文人口の極大期 後 期 照葉樹林焼畑文化の伝来 西日本への展開 ②雑穀を主とした焼畑段階 晩 期 稲作文化の伝来 気候冷涼化 ③稲作ドミナントの段階 弥生時代 前 期 稲作文化の西日本への展開 中 期 後 期 邪馬台国の時代 古墳時代 支配者文化の伝来 (渡来人) 弥生時代以前の年代は14C年代による。 筆者註 ①最近の考古学などの成果による時代および時期の区分ではない。 ②摘要などの一部を省略した。 〔出所〕佐々木高明(1993)7ページ表 1を一部修正して作成。 後氷期 倭国争乱
このように,縄文時代は,照葉樹林文化の日本列島(西南日本)への伝播においても重要な時代といえる。 6) 陸稲に関して,佐々木高明は,日本列島の焼畑栽培作物の中でほとんど欠けているという。この事実は, 「にもかかわらず,日本の焼畑にオカボがほとんど栽培されなかったということは,オカボを伴わない日本の 焼畑の輪作体系の特色が,かなり古い時代に形成されたものであることを暗示している」(佐々木 1971:136) と論じる。その理由としては,このような陸稲を伴わない輪作体系は,恐らく東南アジアにおいて,陸稲が 焼畑の主作物として拡大する以前のものであるからであると主張する。さらに,かかる輪作体系は,弥生時 代の水田稲作の受容以前に,わが国において既に成立していたことを示唆することになる。つまり,弥生時 代の水田稲作受容後に,わが国の焼畑農耕が成立したのであれば,焼畑での栽培作物中もっとも単位面積当 たりの収量の高い陸稲は,その主要作物の 1つとして受け入れられたに違いないからである(佐々木 1972: 136)。なお,筆者が実際に見聞した,ベトナム社会主義共和国最北西端に位置する,ハージャン(HaGiang) 省メオヴァク(MeoVa・c)県では,単位当たり収量に関しては水稲の方が陸稲の約 2倍であるので,条件が 許せば,陸稲の栽培から水田利用の水稲栽培に切り替えたいということであった。 7) 本稿で示した 3区分以外に,例えば,戸沢充則は,以下のように 5時期(5段階と称している筆者註)に区 分している(戸沢 1994:115)。 ( 1) 縄文農耕論の原型が示された段階 ( 2) 縄文農耕の存在が論じられた段階 ( 3) 縄文農耕論の視野が拡大された段階 ( 4) 縄文農耕の実証性が評価された段階 ( 5) 縄文農耕の歴史的意義が問題にされるようになった段階 8) 形質(自然)人類学を専攻する金関丈夫が,「弥生式初期に,長身の異系統の要素が一時的にはいってきた。 そして,その後しだいに,より圧倒的な数を有していた原住民(縄文時代人のこと筆者註)の中にとけ込んで, その本来の性質を失なった」(金関 1957)と述べているように,水田稲作が日本列島に伝来したとされる弥生 時代初期において,長身の異系統の要素が入ってきたということは,稲作の技術をもった集団が日本列島に やって来たことを意味している。つまり,イネとともに稲作の技術をもった異集団が入って来たことが,具 体的に証明されたことになる。金関丈夫が調査した遺跡は,北九州に近い土井ヶ浜遺跡(山口県下関市)など である。同遺跡から水稲を含む農耕に関する遺物が出土している。 9) 縄文農耕に関する論争以外にも,考古学には次のような論争がみられた。例えば,杉原荘介と芹沢長介と の間で争われた「前期旧石器時代」存否論争,山内清男と歴史学者喜田貞吉の両者によって雑誌『ミネルヴ ァ』誌上で戦わされたミネルヴァ論争。梅原末治,森本六爾,小林行雄,佐原真,春成秀爾など著名な考古 学研究者を巻き込んだ銅鐸の起源と年代に関する論争,富岡謙蔵,小林行雄,更に中国人研究者王仲殊など で激しく展開された三角縁神獣鏡の製作論争などが挙げられる。 10) 本文に引用された中尾佐助の文献は,出版年度からみると逆になっている。つまり,出版が 1年遅れた 「農業起原論」が古い。その理由は,「農業起原論」を早く脱稿したが,その論文をもとにして遅れて完成し た『栽培植物と農耕の起源』の方が早く出版されてしまったからである(山口 2004)。 11) それ故,中尾佐助は,照葉樹林文化を,当初世界の農耕文化の起源地の 1つである根栽農耕文化が北上し て形成された,照葉樹林地帯固有独特の文化と考えていた。すなわち,中尾佐助は,「東亜半月弧」を核心 地域とする照葉樹林文化は,根栽農耕文化の「北方展開」型と考えていた。ところがその後,哲学者上山春 平の司会の下で,中尾佐助が佐々木高明と討論を行なった席上で,最後の氷河期である第 4氷河期の終了ご ろに,「東亜半月弧」に居住していた温帯の黄色人種が集団で南下して来た。この南下した集団こそが根栽農 耕文化に多大の貢献をしたと主張した(上山佐々木中尾 1976:32)。つまり中尾佐助は,従来自らが主唱し てきた根栽農耕文化の「北方展開」説を翻し,照葉樹林文化が南下したのが根栽農耕文化であると結論づけ たのである。かかる中尾佐助の新しい説は,照葉樹林文化「南方展開」説と名付けられ,従来の説を大きく
変更するものであった。 この中尾佐助の新説に対して,従来の立場を踏襲したのが佐々木高明であった。かくして,中尾佐助と佐々 木高明の間で激しい論争が繰り広げられた。しかしながら,かかる論争の当事者である中尾佐助の死去など から,現在では従来の「北方展開」説が支持されている。この点に関しては,中尾佐助佐々木高明論争と 称して,拙著の中で紹介したことがある(田畑 2003:2932)。詳細は拙著を参照されたい。 12) むしろ,この時期において,縄文時代に焼畑農耕などの農耕が存在したという説を唱えたのは,小野武夫 (小野 1942)をはじめとする農学研究者など考古学以外を専攻する研究者であった。 なお,藤森栄一は,この期の縄文農耕存否論を思考の型の上からという限定条件を付けているが,縄文農 耕肯定論の代表として森本六爾を,否定論の代表として山内清男をそれぞれとりあげている。森本六爾を肯 定論の代表者としているのは,藤森栄一が森本六爾の考古学に対する学問的態度などに心酔し,生涯師とし て仰いだことによると思われる(藤森 1963 藤森 1970:154)。 13) 藤森栄一の学問的態度や性格などについては,藤森栄一と同郷の出身で,同じ諏訪中学校に学び,その後 藤森栄一を師と仰いだ考古学研究者戸沢充則の解説(戸沢 1995)などから要約した。 14) 森本六爾の弥生時代の水稲農耕文化に関する研究をはじめ,弥生時代関係の諸論文は,没後遺稿集の 1冊 (森本 1941)として出版された。その遺稿集の編集を行なった中心人物が藤森栄一であった。 15) 第 2表にみられるように,藤森栄一が第 2次世界大戦後最初に発表したのは論文とはいえないものであっ た。すなわち,地元の新聞の文化欄に掲載された記事であった(文献 11)。この新聞記事は,考古学研究者よ りも歴史学や民族学を研究する,他分野の研究者から予想外の反響があったという(戸沢 1994 明治大学考古 学博物館編:123)。 16) 本稿が縄文農耕論争という論争をあつかっている性質上,引用に関しては正確性が他論文以上にとくに要 求される。それ故,それぞれの研究者からの直接引用に関して,引用文献およびそのページ数を明記してき た。しかしながら,藤森栄一については論文などからの直接引用が非常に多い。そのため,他の研究者同様 本文中に引用文献およびそのページ数を各々明記すると,文章が煩雑となり,読みづらくなる懸念が生じる。 かかる懸念を避けるために,藤森栄一の論攷などからの直接引用に関しては,その箇所を他論文の場合と同 様に鉤括弧のみで示すこととし,引用文献およびそのページ数を省略した。 17) かかる点に関して武藤雄六は,藤森栄一が唱える縄文中期農耕論の根底には,採集生活では支え切れない 人口の増大をもたらした中期における大集落の発展という考え方が当初から存在していたと指摘している (武藤 1979:246)。 18) 本論文のテーマは「縄文時代農耕論とその展開」である。しかし,主著(文献 49 藤森 1970)では,同内 容であるがテーマ自体は「縄文農耕論とその展開」となっている。 19) しかしながら,伊沢幸平の研究は地方紙上に発表された。またその後伊沢幸平には,かかるテーマに関す る研究の発展はみられなかった。それ故,伊沢幸平の見解は等閑視されることになった。 20) 武藤雄六によれば,その後九州西日本各地の,少なくとも縄文時代晩期にはなんらかの農耕が存在した と考える気運が起こり,その影響を受けて芹沢長介も,同期の九州における栗耕の可能性を唱えるようにな ったという(武藤 1979:252)。 なお,武藤雄六は,九州西日本各地という用語で,九州と西日本とは異なる地域として把握しているよ うな印象を受ける。しかし両地方は地域的には隣接しているが異なっている。常識的には九州は西日本に含 まれるので九州西日本としないで西日本とするのが妥当であろう。 21) その例として,縄文時代の代表的な石製器具の 1つである石匙に関する論文(文献 32 藤森 1979:104115), 宗教的要素の観点からみた各種の石器に関する論攷(文献 40 藤森 1970:4556)などが挙げられる。 22) 藤森栄一が唱える縄文農耕論に関して,戸沢充則は,「氏の縄文農耕論は縄文時代やその文化の観方を変え, 研究の内容と質を変え,日本考古学の学問としての性格を問いなおしたもの」(戸沢 1994 明治大学考古学博物
館編:130)と非常に高い評価を与えている。なお,戸沢充則については,安田喜憲が「現代の日本考古学の 基礎を確立した山内清男にはじまる繩文農耕論に対する根深い不信は,自他ともに現在の日本考古学をリー ドする主潮流の研究者のなかにも受け継がれている。そのなかでただ一人,繩文農耕論に対し理解を示し, 積極的にとりくんでいる」(安田 1987:176)研究者であると看做している。 23) 江坂輝弥は,第 2次世界大戦以前(A.縄文農耕論前史期)においては第 2表の文献 9,10にみられるように 縄文農耕の存在を否定していた。 24) 最近の考古学などの飛躍的な進歩により,既出第 1表にみられる如く,縄文時代および弥生時代の絶対年 代が大きく変動している。そのことから,例えば,佐原真のように,水田稲作の栽培が開始された時期を, 縄文時代晩期としないで,弥生時代にするという見解も存在する。戸沢充則によれば,「縄文土器を伴う板付 や菜畑の水田址は「早期弥生時代」のものだとし,早期という新しい弥生時代の時期区分を提唱した」(戸沢 1994:147)という。 〔引用文献〕 青木美智男ほか 12名(2004):『日本史 B』三省堂 青木美智男ほか 12名(2004):『日本史 B改訂版指導資料』三省堂 上山春平佐々木高明中尾佐助編(1976):『続照葉樹林文化東アジア文化の源流』中央公論社(中公新書) 大山柏(1927):『神奈川県下新磯村字勝坂遺物包含地調査報告』『史前学研究会小報』創刊号 小林行雄編(1971): 『論集日本文化の起源 1.考古学』平凡社 299~305ページ所収 小野武夫(1942):『日本農業起源論』日本評論社 金関丈夫(1955~57):「土井ヶ浜遺跡調査の意義」朝日新聞(西部版)1955.9.30,1956.10.19,毎日新聞(西部版) 1957.8.26,8.27. 金関丈夫(1976):『日本民族の起源』法政大学出版局 249~259ページ所収 佐々木高明(1970):『熱帯の焼畑その文化地理学的比較研究』古今書院 佐々木高明(1971):『稲作以前』古今書院 佐々木高明(1972):『日本の焼畑その地域的比較研究』古今書院 佐々木高明(1982):『照葉樹林文化の道ブータン雲南から日本へ』日本放送出版協会(NHKブックス) 佐々木高明(1986):『縄文文化と日本人日本基層文化の形成と継承』小学館 なお同書は,巻末に補論を加 えて講談社の講談社学術文庫(2001年)に入れられている。 佐々木高明(1993):『日本文化の基層を探る ナラ林文化と照葉樹林文化』日本放送出版協会(NHKブックス) 『詳説日本史(改訂版)教授資料』編集委員会編(2011):『詳細日本史(改訂版)教授資料』山川出版社 田畑久夫(2003):『照葉樹林文化の成立と現在』古今書院 田畑久夫(2004):「稲作の起源(Ⅰ)照葉樹林文化論との関連において」『学苑』769(30)~(39)ページ 坪井洋文(1974):『イモと日本人民俗文化論の課題』未来社(ニューフォークロア双書) 戸沢充則(1994):「縄文農耕論の段階と意義」明治大学考古学博物館編:『市民の考古学 1.論争と考古学』名著 出版 111~147ページ所収 戸沢充則(1995):「解説 永遠の「かもしかみち」」藤森栄一『解説付新装版かもしかみち』学生社 273~296 ページ所収 なお同書は,最初藤森栄一が経営していた書店兼出版社葦書房から昭和 21年(1946)に出版 されたが長らく絶版となっていた。その後学生社から昭和 42年(1967)に新版として出版されたが,この版 も絶版となった。 鳥居龍藏(1924):『諏訪史 第 1巻』信濃教育会諏訪部会発行 古今書院発売 鳥居龍藏(1976):『鳥居龍藏全集 第 3巻』朝日新聞社 1~429ページ所収 中尾佐助(1966):『栽培植物と農耕の起源』岩波書店(岩波新書)
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