奈良教育大学学術リポジトリNEAR
横光利一の 機械 について
著者 小川 勉
雑誌名 文学研究
巻 1
ページ 29‑31
発行年 1955‑07‑21
URL http://hdl.handle.net/10105/8903
作品の魅力の梶原をさぐつて見る必要がある︑それはゲ
ーテの生きた時代の特質︑そして現代我々の生きる時代
の特質の共通点を見いだした方が結論は早く由て来る︑
資本主義の興隆期においてもはや現代資本主義の矛盾は
内包されていた︑この事は先にロッテとヴエルテルとの
関係でのべたが︑この矛盾を︑ゲーテは作家の透視力と
そのヅアジステックな典型化への形象の中でえがき出し
ている︒ル若きヴエルテルの悩み〟の中の貴族とプル汐
ヨア汐Iの位置を︑現代の資本家と労仇者におきかえれ
ば事は簡単である︒この小説のプロツーが恋愛を中心と
している以上この作品は恋愛小瀧であるが︑恋愛の苦悩
が︑それだけ独立して他と何の関係もないと云う率はあ
り得ないし︑そんな物は永久に存在しない︑それは常に
社会との関連性のもとにおいてなされるべきはずのもの
である︑この中での恋愛的悲劇はすでに市民的ヒユーマ
ユズムが悲劇ででもあったのである︑要するに個性の自
由な発展が恋愛と事っ感情の自由な流露の型式でのぺら ヴエルテルを見て行きたいむ
横光利一の〝機械㌫ついて
ヽ tlI−
. バ り 日 日
二甲 三︶
た れ
ヽ ヽ
それに対する社会の所詮はとげがたい︑相剋を示し
時代の転換期の魂の斗い考えがき︑新らしく生れて
来るものに大きくよぴかける人間の讃歌であると︑私は この作品に於いては︑彼の独自の心理描写を中心として外形の描写は︑彼のリアリズムに飴れるもののみしか︑取入れなかった︒この点に︑現代の文学理論から非雉される所以があるのではないだろうか︑でも︑ここでは︑明らか芸術感の相違を示すものであり﹁文体﹂を露視する新感覚派の﹁人として唯物論に引き込まれなかった原因でもある︑だからとて︑一概に︑非狂せられる理由は︑何処にもない︑伊藤登が︑﹁芸術はエゴと環境の調和︑照応の美であり︑文学は言葉自体が生活の功利的用具であるから論理の秩序としている︑文学に於ける芸術は︑この論理の秩序の中に人間の感性の純粋な結晶を味うことだ︒﹂ ︵文学の方法︶と云っている棟に︑必ずしも︑全ての人間の感性﹂ いや一人の人間の感性を時間を越えて︑全て一つの方向に藤ると云う事は有り得ないし︑
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又有ってはならない︒ と︑云っては見たものの横光の
社会観は︑どの様であったろうわ︒
それは︑人間存在の不安定の意識から発していると云
える︑郊え畦 ﹁機械しの中での登場人物の対外感は︑
全く不安なものであると云う事である︑つまり︑社会挽
韓によって人間の遵命が左右されると亨っ事に盲覚めた
という事は︑その時代の袷賛していたマルクス主我の影
響によるものである︑人格を中心とする永続的実在の否
定︑又その価値付けの推移が︑どれ程不安を生み出した
聖中村光夫が﹁当時の世情が一般の生活に投げかけた
暗い不安を涼感とした背景として︑文学者たる事が︑文
学を信ずる嘉なのかuそれとも攣っ事なのか︑そのけぢ
めすらつきがたくなった作家の不安を端的に表明した﹂
と電かれている様に︑横光白身も︑その作家の一人であ
った︑その不安の具象として︑この﹁機械﹂が出来︑升
二次大戦のアプレゲールの文学と共通する︑自己の内に
内攻する不買 これが彼の世界への神経を麻卑させ︑こ
れによって︑彼の蜃境も誓荒れて来たのである︑つ・まり
彼の身牽攻めて来る協械という現象は︑﹁私たちの問に
は一切が明瞭に分っているかの如き見えざる梯城が絶え ず私た▼ちを押し進めてくれている﹂と横光が書き人間の行動が︑全て鶴械の都出したものを︑絵描が約束を辿る革であり︑小林秀雄が云う様に約束を辿る事は械域が機械を辿る事だから罪悪ではないが私の巨党にとって塗冒漠だ︑冒涜とは︑自覚との約束に過ぎぬから少しも全的に弼際な理論でない︑故に嘘に過ぎぬ︑この嘘は自分が死人でないから捨て切る事は出来ない︑それは︑つまり自分の無垢によるからこそ︑その姐を知らずに生きられるのであるとする︑この考え方は︑極めてニヒリステイクである︑そして︑この無垢が︑屡々︑苧環美衣への愛着︑女性美への感受性︑自然︑美術へのプル汐ヨアt的生活への愛となって現われたから始末が悪い︒
川端康成が︑この作品は︑私に幸福と不幸とを同時に
感じさせ︑その不幸は︑作者が拇うわ︑作中人物が担わ
なければならぬものである︑と亭っ︑その不孝は︑明ら
かに︑横光白身を圧迫しっつあるもので︑現在の私達か
ら見れば︑異常な様であるが︑畢レい世界での・貰い固定
せる道徳家の限界.と矛盾の−誓二品議事堕整票這嘉
したものである︒
一応︑ここらで切り上げる事にして︑その価値付けに
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入って行きたいと思います∵それより先にもこの彼の不
雫から救い得るものは︑何んであるか軍見たいむ
それは︑新しい道徳の設定された社会である︑新しい
道徳とは?︑ 彼の晩年に示した︑今まで見なかった様
な庶民を尊敬し︑愛情を示すことであったろうな決し
てそうではない︑河上徹太郎が去っているが︑戦後丁牙
二次︶の進歩的な意見から見れば︑甚だ覿曽党で反歓的
なものであるとし︑民衆から足を浮かしている︒
この様な現象として取られるのは︑彼の理想とする新
しい遺徳とは︑エゴを強く認める社会である︒
自分のエゴを自覚するもののみが︑自然にそれを抑制
する事を知るのである︑霧散的なものになるかも知れな
いが︑この社会ではうまく何事でも︑持ち運ばれ︑エゴ
認めない人間問には︑相互に︑約束を交わすことが出来
ない︑信じる事は負ける事で︑信じられる事は負ける事
である︑でも人間は信じたい︑と云う本能︒この点を鋭
く感知した者介川も原口統三︶は心理的破滅⁚・狂
気となる︑所が宗光には︑乾きがあり︑卑抜きがあった︑
俗人へと箪れて行った︑しかも︑その俗人は︑虚偽によ
って∵削り出された貴誌蔓った俗人であるも不合彗不 条理に反抗しながらも︑国民生活の列から脱している事では︑その不安と閻つたとは云い得ない︒けれど︑入間の不条理への反応の一面を社会性の目覚めの涼の欠如は︑見逃せないにしてもも 強烈で鮮美で新奇な感覚の追求によって碇認した事に価値を見出すべきであろう︒︵文科二︶
田 宮 虎 彦
文 甲 四
−足摺岬試論− 今 田 克 巳
的
﹁人生は小乱の中にしかないのである﹂と田宮氏は主
張する︒それが氏の小説の中に絶えず流れている︒果し
てこれは何を意味するのであらうか︒
氏の作品を読む者は必ずその暗さを先ず感じるであら
う︒或はその暗さ故に陰気な小説だと揆げ捨てる人もあ
る︒しかし我々はもう通歩︑何処からそれが来るのであるかを考えてみる必要がある︒
私は田嘗文学に対して︑その庶口悪道拓への愛情という
点からこれを放りあげ︐二︑三の問題華もったのでb ﹁
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