横光利一における東西対立
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(2) 横光利1における東西対立. 同日夕刻、横光は、「街角で、疲れて、青ざめて、沈みこんで、むっ. ラ.ガルドで見た血まみれのキ-スト像に横光は衝撃を受けるのであ. ないが、『旅愁』には-わし-述べられていて、ノ-トルダム・ド・. る。この聖堂に対する印象は、『欧州紀行』では一行もしるされてい. イユの街を歩きまわり、ノ-トルダム・ド:フ・ガルドを訪れてい. るまで、ほとんどの日本人訪欧老がしていたように、横光も、マルセ. の、ヨ-ロッパについての第1印象である。まず彼にとって、ヨ-ロ ワパほ「自由」としてあらわれた。それから、交通手段が飛行機に変. 自由さをわれわれは見たのである」(『欧州紀行L3)と書く。これが彼. 関を通過するということがおこって、横光は、「フランス人の最初の. その他の船客は横光を含めて、ほとんど荷物も調べられることな-税. 船客たちの中の一番年長者だけが荷物を調べられて、税金をとられ、. 昭和十一年三月二十七日、横光はマルセイユに着-。上陸後税関で. さておいても、まっ先に読むべき本であることにほ変りがない。. つりしている」群衆を目撃する。そして. る。. ヽ. ようになっている」(『旅愁』)という矢代の気持は、ほぼそのまま横光. れぬ背水の思いである。酒一滴も出ないのに頭は酔いの廻った酔漢の. 士の気持に似ているように思」う。そして、「ここまで凍れば後へは悼. 主人公矢代は、「今の自分を考えると、何とな-、戦場に出て行-兵. 『旅愁」には、マルセイユ上陸前の緊張感が詳細に措かれている。. こういった第一印象は横光の西欧観に最後までつきまとうことになる。. にして、「自由」として、同時に「地獄」としてあらわれたのである。. 彼は書-。このように、横光にとっては、西欧は、上陸した第一日日. これは想像したより、はるかに地獄だ」(傍点平野)(『欧州紀行』)と. ヽ. ならざるをえなかった。それもよ-注意して見るとその死体はキリ. とは云うものの、いきなり度胆を抜-この仕掛けには矢代も不快に. 外の明るさから急に踏み這入った暗さに、矢代の眼は狼押していた. 裸体の男がロから血を吐き流したまま足もとに横たわっていた。. 「その途端、矢代はどきりと胸を打たれた。全身蒼白に痩せ衰えた. の風景を眺めたあと、矢代たちの1行は寺院の内部へ入っていく。. 興味深い記述が行なわれている。聖堂の立つ丘の上から、明るい南仏. ダム.ド.ラ・ガルドで見た、例の血まみれのキリスト像をめぐって、. 『欧州紀行』では全-言及されていないが、『旅愁』では、ノ-トル. な作品を生む原動力になったものだ。. がない。しかしまさにこのような精細構造こそが『旅愁』という尤大. 置せずにはいられないといった精細構造ほ不幸であるとしか言いよう. る」豊かで美しい田園風景を眺めながら、それに、植民地の悲惨を対. 見ながら、ふと気がつ-と、なお植民地の勃興を考えているのであ. すぐあとにほ、こう善かれている。「私ほこういう伏惚とした風景を. の不幸ほ、異国の風物の美にひたりきることができなかったことだ。. 杏の花に包まれたロ-ヌのゆるやかな流れ」(『欧州紀行』)だ'S横光. の木の芽の柔らかさ。連り下るなだらかな牧場。点在する風雅な農家。. がおしょせてくる。「けれども、どうにも莫しい。桃杏一時に開く春. 葉の.背後にあったことを見のがしてほなるまい。だがすぐに興奮の波. 州紀行『)と書い.ているが、酔漢のようになった興奮状態がこういう言. 展開する。横光は、「私は冷やかに眺めることばかりに努力した」(『欧. マルセイユを発ってパリへとむかう。車窓にはフランスの田園風景が. の、上陸前の精細状態であったと考えてよいだろう。三月二十八日、. 二.
(3) さねば承知をしない、この国の文化にもやはり一度はこんな野蛮な. 淀れているどろりとした色まで実物そのままの感覚で、人々を驚か. ことができのたである。同時にこのような横光の経験は、久慈(モデ. 光は、『旅愁』前半での矢代と千鶴子の恋を、あのように美し-描-. 平野)と岡本氏は書いている。このような経験があったからこそ、構. リファンになった横光さんは、酔ったやうに街々を歩き廻った」(傍点. ときもあったのかと矢代ほ思った。しかも、この野蛮さが事物をこ. ルは岡本太郎氏であると言われているが). l. l. l. l. I. について、「人通りは少な-、美しさは平凡で古-、何の. と書き、オ-ギュスト・コント通りについては、「私に. と書き、シャンゼリゼについては、「パ. (以上『欧州紀行』)と書いている。. 会だろう。初めて家へ帰ったような気持ちになる。私のロンドン行は、. 横光ほ、パリ滞在中、何度か、フランス以外の他のヨ-ロッパの国. l. のめされて青黄色い顔をしていた」(「旅愁の人」)と書いている。しか. ヽ. へ旅行しているが、たとえば五月四日から五月八日までイギ-スに滞 l. し、岡本氏が、フランス語も全-できない不馴れな横光を何かと手助 l. 在して、パ-へもどった時忙ほ、「三時にパリへ着-。何と気楽な都 ヽ. パリの雰囲気を讃仰しはじめた」(傍点平野)のである。「すっかりパ. l. けしてやるにつれて、横光の「憂欝、孤掲感が目に見えて柔らげられ、. の美の極を尽したもの」. を最高と認める」と書き、また、コンコルド広場についても、「人工. 何となく俗っぽ-なければ価値を失うものだ。私は好みを殺してここ. ン・ゼ・サンゼリゼ-であろうと思う。文化の最高に位置するものほ. リ-の中最も俗っぽ-、しかも何人が見て7?一番高雅な所はロンパ. ほ、神気寒倹たるものがある」. -グスト・コント通りだ。人は殆ど通らないが夜のこの通りの美しさ. も好きな通りがある。それほルクサンブ-ル公園の外郭に沿った、オ. りであろう」. 手袋一つにしてからが純芸術品ばかりだからだ、恐ら-世界最高の通. 目立ったものもないにも拘らず、ショウウインドウに出ている品物は. ずの通り」. たとえば、「リユウ・ラ・ボニッシイからサン-ノレの長さ十町足ら. のだが、それでも手放しでパ-を賞賛しているところが何ケ所かある。. 『欧州紀行』は概して西欧文明の影の部分に言及したところが多い. という欧化主義者にも投影. こまで克明に徹せしめなければ感覚を承服することが出来なかった. されていると見るのほ誤りではあるまい。. に気がついたのである。. と影の部分、そして東西文化をへだてる、ほとんど克服不可能な落差. かくしてヨ-ロッパに上陸したまさにその日に横光ほ西欧文明の光. れ東洋とは違った文化だとそろそろ観念もし始め」るのである。. 「日本人が文化が分るのどうのと云ったところで'それは全-われわ. 風景」そのままの南仏の景色がのどかにひろがっている。そして彼ほ、. いう思いで建物から外へ出」るので居った。外忙ほ「セザンヌの絵の. ほない。矢代は、「一つヨーロッパの秘密の端っばを覗いてやったぞと. ほど、仏教的、神道的宗教観に慣れ親しんだ日本人を戸惑わせるもの. ヨ-ロッパ中どこへ行っても見られるこの血にまみれたキリスト像. 生れ育って来たのにちがいない」(『旅愁』)0. という人間の気持ちである。この-アリズムの心理からこの文明が. ストの彫像である。皮膚の色から形の大きさ、筋に潤った血の垂れ. たま. 岡本太郎氏は、「冬枯れのパリで合った時、横光さんほ憂欝に打ち. 2 I. 横光利1における東西対立. 三. ヽ. 69. ヽ.
(4) 暁光利一における東西対立. l. ヽ l. I. l. ヽ. l. リ-という所は戻るたびに心が落ちつき、気楽になる街だ」(『欧州紀 、イタリアなど五ケ国を旅して'パ. リヘもどって来た折にも、彼は、「夜十一時、パリ-着。旅から帰る. 行』)と書いている。オ-ストリ-. 毎に深みのさらに増して来るのは、いつもながらーパ-ーの不思議さ だ」「私ほこういう街へ戻って来る度に心が静まりなを一層計り知れ ぬ深さを感じてい-」(『欧州紀行』)と書-0 槙光はパリの魅力を充分感じとることができたのであり、だからこ そ久慈という人物を描-ことができたのである。墳光自身は後に詳述 するようにけして久慈自身になりきることはできなかったのだが、瞬 間的には久慈と同じ思いにひたったにちがいない。久慈は、「ああ、 もう日本へは帰りたくない」とか、「あ-あ'どうして僕はパリへ生 れて来なかったんだろう」とか発言して、しばしば矢代を苛立たせる のである。. とにゆだね、おもむろな姿をとって動かなかった。女神に添えて噴. 今は満ち足りて静かに下を見降ろし、風雨に年老いた有様を月と星. そこの八方にある女神の巨像はそれぞれおのれの文化の荘重さに、. 四. り植物となって夜のパリの絢欄たる技術を象徴してあまりあった。. 水がまた八方から昇っていた。それはこの広場を鎮ばめた宝玉とな. ちり. パリ-を見直すために行ったようなものだ」と書いたあと、次のよう に続けている。. ヽ. たとえば矢代たち一行がコンコルド広場を訪れる場面は次のように 描写されている。. いう都市の素暗しさを内心でほ認めぎるをえないのである。「もう、. このような久慈とほ事あるごとに対立して喧嘩をする矢代もパリと. 「もう、僕は日本へほ帰らん」と云った。(『旅愁』). 駄々っ子のような声で、. いった。しかし、久慈だけは手に引っ掴んだ帽子を自乗に振り振り′. と東野ほ云って歩き出した。1同ほ東野の後からぞろぞろついて. 「眠る方が、いいですよ。さァ行きましよう」. 「あたし、もう眠いんですもの」. 「何がそうです」. 「でもそうだわ」. と久慈ほ腹立たしそうに云った。. 「君は何んでも、さァ行きましようだ」. 「さァ、行きましようよ」. と見え一人離れて歩いた。. ている三人の暗黙のうちにひしめき合う頭を'千鶴子ほもう感じた. 東野ほ黙って広場を眺めながらまた俳句を作っていた。突き立っ. ばかりだ」. から見れば、東京のあの醜態ほ何事だ。僕はもう吉を噛みたくなる. 「何んて凄い景色だろう」と久慈は荘然と立ち尽して云った。「これ. すご. 1週間見ぬ間に、マロニエの花ほ咲き切ってしまっている。グラ l. ンプルヴア-ルから、サン・マルタソまで歩きつづけ、サンゼ-ゼ ヽ. -へ引きかえし、飽かず街街を眺め廻した.(傍点平野)(『欧州紀. l. また、ル-アンに小旅行を試みて、パリにもどってきた時には、「パ. 行.il).
(5) 僕ほ日本へほ帰らん」と言う久慈をからかって、「二十年ここを見て. 鶴子はつぶや-。オペラ座でほ、「行きちがう人の中からさまざまな. 香りが漂い移り、耳飾りや曳き摺るような銀狐や、垂れ下った真珠、. 自や黄色、水色などとりどりなソワレの顕れるに随って、矢代は、絢. I. いると、小便をここへした-なるそうだよ」とに-まれ口をたたく矢. 欄無双な時間が今自分の周囲で渦巻きを起しているのだと思った」(傍 点平野)。. だが、こういう幸福な瞬間はやがて日本に帰れば無残に打ちくだか. れるであろうことを矢代も千鶴子もすでに直観しているのである。欠. l. (傍点平野)と考えるし、千鶴子ほ、「日本へ帰ってから変るのほ、. やはりあなたの方だわ、あたし、あなたが変ってもあたしほ変らない. と矢代に言うのである。. た時にどのような運命をたどるのかということが、実際、『旅愁』後. ヨ-ロッパでだけ味わえた、夢のような錯乱した瞬間が、日本へ帰っ. と思う。きっとあなたの方が変ると思うわ」. I. 代は、「千鶴子も自分もパ-に総がかりで攻めよられたことにまた間. I. 代も次のような感想を抱-0. l. 違いほなかった。これが日本へ近よって行-度びに1皮ずつ剥げ落ち. I. 矢代ほそう云いながらも東にチュイルリ-の宮殿を置き、西ほ. ヽ. 「横光さんほ憂欝に打ちのめされて青黄色い顔をしていた」(「旅愁の. には、ヨ-ロッパ賛歌. とは程遠い文章がふんだんに書きつけられている。四月四日日付の個. 所には、「巴里へ着いてから今日で1週間も立つ。見るべき所は皆見. てしまった。しかし、私はこの事ほ書-気が起らぬ。早-帰ろうと思. う。こんな所は人間の住む所じやない」(傍点平野)という文章が見え. る。「絢欄無双な時間」を一方でほ味わいながら、在パリ中の横光を. ヽ. l. 半部のテ-マのひとつになるのである。. l. ヽ. 人」)と岡本太郎氏が言うとうり、『欧州紀行』. I. __. てい-としたら、実際は、自分たち二人ほ今は夢を見ているのと同じ. l. シャンゼリゼの大公園に接し、北にはマデレユヌ大寺院、南に河. ヽ. だ」. を対してナポレオンの墓場を置いたこのコンコルドの広場の美し さにほ、さすが云うべき言葉もなかった。. そして、久慈ほ、そう考える矢代に、駄目を押すかのように、「こ こが、世界の文化の中心の、そのまた中心なんがからなァ」と叫ぶの である。これに対して'矢代ほ'「何もそう早く音を上げなくたって. 良いだろう。こうなれや、周章てた奴は損だ。--」と皮肉な言葉で 応ずるのだが、これは、作者横光がパリ滞在中に味わったにちがいな い内面の葛藤の投影であると考えてよいだろう。 矢代と千鶴子の恋はパリを中心とするヨ-ロッパの舞台がなければ. った、おぞましい因襲のうず巻ぐ日本では不可能なものであった。. 成立しえないものである。それは、すでに暗い時代へと突入しっつあ. 「西洋という抽象の世界」、そしてそういう世界に沈潜した者に「突発 してくる旋の錯乱」、「旅の愁い」があってこそ成立するのであり、そ れがこの恋を比類な-美し-しているのである。就中'『旅愁』前半. 部で最も美しく措かれているのは'矢代と千鶴子ポチロルを訪れ山小 屋に泊る場面と'パリのオペラ座に歌劇『ヴオレッタ』を観に行-場 面である.「もうこんな楽しいことって'1生にないんだと思うと' 何だか恐ろしくなって来ましたわ」とランプのともる山小屋の中で千. I. 五. わ. 横光利一における束西対立. 3. あ.
(6) ヽ. -. -. -. ヽ. 横光利一における東西対立. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. l. ヽ. l. I. l. l. I. I. l. ヽ. l. l. l. l. じたものだ」(「先駆者横光利ご)。吉田によれば、荷風や藤村が措き. はなくて、直接にその外国の現実の中で思索し、意識することから生. ことで我々の精細の世界で作り出した外国の現実によって知る憂欝で. 我々自身、何れも経験している筈の、外国の文学作品や思潮に接する. 云々という引用文について、次のように解釈している。「この憂欝が. たとえば吉田健一は、先にあげた「巴里の憂密という言葉がある」. いだいた総体的な想念が何であったかはほぼ確定できるのである。. 勿論『欧州紀行』全体からは何かが伝わって-るし'横光が滞欧中に. 度が、前に言ったことと矛盾するような文章をしばしば書かせている0. とほ何一つ見逃すまい」(吉田健一「先駆者横光利ご)とする記述態. 『欧州紀行』ほ論理的脈絡をもっていない。「自分の内部で起きるこ. といった言葉が見えるが、それぞれに原因がちがっている。. ちがうのである。その他のところにも、「寂家」とか、「退屈と虚無」. れば、何とか理解できるのだが、この両者の憂容は内容があきらかに. l. のだと思う方があるいほ正確かもしれぬ」という記述が見える。六月. 味がある。しかし、ニイチェの云う如-正当だから神経衰弱になった. 『欧州紀行』五月二日日付の個所には、「たしかに少し神経衰弱の気. 行』に見られるような一種名状しがたい意識の動揺はけしてなかった0. 欧の現実も、同じ次元で取扱われている。彼らにあってほ、『欧州紀. った認識はけしてしていなかった。彼らにとっては、日本の現実.も西. 本製の物尺は、パリ-へ来れば二倍にしなければ底へほ届かぬ」とい. 岡本氏の主束を認めたであろう。鴎外、淑石、荷風のいずれも、「日. 違だからである」(「旅愁の人」)と言っているが、おそら-横光自身、. も致し方がないのである。それは容量ではな-、質の相違、次元の相. 州紀行』)ということである。岡本は、「実ほ二倍にしても三倍にして. 本製の物尺は、パリ-へ来れば二倍にしなければ底へは届かぬ」(『欧. 日本の現実とは異った現実として意識することから-る結論ほ、「日. l. ることで、『欧州紀行』の全体が解けて-る。ヨ-ロッパの現実を、. これは非常に説得力のある解釈であるし、この吉田の解釈を適用す. それほ自意識の問題であり、近代の特徴をなしているものが、自意識. はなく、絶えず我々自身に向けられていなければならない。それ故に. って成立するものであるから、「その現実を知るのには、眼は外にで∫. なる。なぜならば、現実というものは人間の意識と外界との交渉によ. 利一はヨオロッパに現れた日本の最初の近代人だった」ということに. 子を被せたものにすぎない」ということになる。したがって、「横光. とはない」し、「荷風が措-パリの娼婦ほ玉ノ井の女に大きな麦藁帽. でセエヌ河のことを読んでも彼等の文章を読む上で別に不自由するこ. だしたパリは、けして現実のパリそのものではな-、「隅田川の積り. 一ヽ. 」/. であるのと同じく現実の想念は近代に属している」からである。. -. ように思われ、ふと取りすがったものを見ると、いづれも壊れた砕片. l. だ。殊に雨にでも降り寵められれば、建物の果さが身の除けようもな く心に参み渡って来る」と書かれているがこれは前述の文章に-らべ. 憂淋野な思いに迫られたことは、まだなかった。身が粉な粉なに砕けた. いう言葉がある。私もこの年まで、度度憂苦な経験をしたが、こんな. れはほとんど理解不能な文章である。別のところには、「巴里の憂撃と. ヽ. 終始おそっていた、「憂欝」とは何だったのだろうか。たとえば、『吹. I ヽ. ヽ. 州紀行』の六月三日付の個所に、.「パ--と云う所はどこの国のもの. ヽ. でもなく、パリ-と名付けられた特別の国だと思う'ここには豊かな ヽ. 知識と性とがあるだけだ。感情のある真似をした-てならぬ悩み l. これがパ-1の憂密の原因である」(傍点平野)と善かれているが、こ. ヽ.
(7) l. 1日付の個所には、「人ほそれぞれ心に聾を持っている。日本にいる. と自分の聾の部分にほ、滅多に気付くものでほない。しかし、一たび ここへ踏み込むと、ひどい聾の部分が'逆毛立って、刺さり込んで来 るのである」と記されている。これはたしかに、典型的なカルチャショックの症状である。帰国間近の七月十五日日付の所を見ると、「私. ヽ. ヽ. (傍点平野). の第二回の通信を読んでいるとパ--へ着いた当時の事が書いてある。 ヽ. ヽ l. l. あのころひどく興奮して、あえいでいる様が、いろいろ思い出され、 ヽ. 苦しみ」. 「酔っぱらいはフランスにはいない。智能の低級な老でなければ酔. っぱらわないという見解を持っていて、そんな者が現れると直ちにカ フェーから掴み出されてしまう」. 「どちらを向いても美人揃いというものは、美人が一人もいないの と同じ事だ」. 「この国の運転手や給仕には、一国の総理大臣同様な格服容貌の男. に立ててある。誰もここではこれを装本とは見ない。聖典と並んだ生. 「仏訳になった印度のカ-マストラが堂々たる新刊屋の店頭の一線. カルチャ-ショックに陥った横光の自意識にうつったパリほ'しか. と彼の前にあらわれる。持てる限りの感受性と知性をほたらかせなが. ば親しむほど、一方では、「外国という越ゆるべからざる穴」が黒々. と彼自身が書いている。パ-生活を楽しみ、パリという都市に親しめ. しまう」「半年以上この地にいる者は必ず何らかの意味で馬鹿になる」. 疲れることだろう。「隙き間もな-押し重なって来る考えに、ぼけて. 事あるごとにこのような認識をしなければならないというのは何と. て近代に及んだ」. 奪ったのだ。この幾何学の勝利ほ人心の中に於てでも暴威を迂しくし. 「デカルトに始った都市国家の智的設計ほ、ヨ-ロッパから個性を. 葉があるだけだ」. 「フランス人ほ笑うことが非常に少い。笑う必要を感じぬだけの言. 国民の複雑な歴史を説明してあまりある」. 理の書として扱う誠実さほ、公衆の面前で接吻して顔色1つ動かさぬ. り出してみる。 「人間の資本ほ金だということ 釆て初めて分る」 「整然とした威儀を正した食卓で、紳士淑女がなに一つ非の打ち所 のない典雅さでフォ-クを使っている真最中に於てでも、いきなりパ ンダケは手掴みだ」 「深夜に森林の中を一人歩-凄さより、コンコルドの広広とした人 工の極みの中を歩-物凄さは、ほるかに人人を興奮させることだろう。 私はここへ来て真の感傷というものを感じた。自然というものは要す るに自然なだけだ」 「パリ市民の理想は日曜日になると森へ男女で来ることだと云う説 も耳にした。もうただ野蛮になりたくて仕方がないというパ--人の 横光利1における東西対立. 七. この簡単なことが、この巴里へ. し読んでいてなかなか面白いのである。『欧州紀行』からいくつか取. あろう。. が多い。ところが、ここの大臣ほ日本の給仕のような寒げな顔をして. ヽ. 自分も高い峠を越したものだと、振り返る気持が強い」. ヽ. いる老が多い。筋肉の量は精細の量と反比例しているようだ。これが. l. とやや余裕を見せている。『欧州紀行』の中に散見される理解不能の. l. 文化というものだ」. ヽ. 文章は、カルチャ-ショックの症状が重-なった時に善かれたもので. l.
(8) 構光利一における東西対立. ら、横光はその暗い穴を照らし出そうとするわだが、穴は探すぎて光. l. l. -. この題ほ私のつけた題でない。私の通信は、巴里そのものを書-の.が l. ヽ. ヽ. ヽ. (傍点平野)自然人対高級な都会という対立図式こそ、横光が西. 欧滞在で得た総決算であった。この図式は、帰国後、『旅愁』 て、日本対西洋という図式となって展開されるのだが、小説ほついに 未完に終り、彼自身を死に至らしめるのである。横光はとんでもない 重荷を背負いこんで、西欧から帰ってきたのである。. 、もし横光が、『欧州紀行』だけを残して死んだのならば、それは. 4. 雑誌掲載に至るまで、発表された前後を含めれば、ほぼ十一年もかか. は、昭和十二年四月から発表されはじめて、二十一年1月号の最後の. ほ未完で終ったのだが、それでも、現在あるような形に達するまでに. て、物語が日本で展開される、後半部にこそあるのである。この小説. ったことだろう。しかし、『旅愁』の本領ほ実は主人公矢代が帰国し. される通俗的な物語となり、単なる帰国報告をかねた平凡な小説とな. 愁』の前半だけを書いて終りにすれば、それは、異国情緒の中で展開. 片づけられたであろうし、笑い話ですんだことだろう。あるいは、『旅. 一時的にカルチャ-ショックに陥った作者の不出来な紀行文学として. におい. 出され、形成されてゆ-心理の推移を偽りな-眺めるのが目的であ. 目的ではなく、私という1個の自然人が'この高級な都会の中へ細りッ. ヽ. 里』という第二信は、こちらの日本人の間で問題を起したらしいが、. 七月二十日日付のところにはこう書かれている。「私の『失望の巴. ろう。. が底まで達しない。これが横光の苛立ちの原因であると考えてよいだ. る」. であっただろうか。彼は、ファッシズムへと向かいつつあった時代の. きたのである。帰国後の横光の、日本に対する第一印象はどんなもの. の現実」がそれこそどうしようにもないほどに鮮明に浮かびあがって. 見た時、おそら-彼の胸中にはパリに滞在していた時以上に、「日本. 横光は、昭和十一年八月、シベリア経由で帰国したが、日本を再び. (「先駆者横光利こ). こそ彼が作家の生命を賭して措こうとして釆たその現実だった。. をなしている形をして鮮かに浮び上って来た日本の現実は、それ. ら選んだ道だったからであり、彼がパリにいる間に、1つの世界. 々な秘密を作品を書-ことで解こうと努めたことが、彼が初めか. 片付ける訳には行かなかった。何故なら、現実を直視してその様. 験した筈のことであるが、横光の場合ほそれを一つの経験として. れは外国で少しでも長く生活したことがあるものならば誰でも経. の現実というものの実感が彼の胸のうちに烈し.-廻って来た。こ. 槙光はパ-の、又ヨオロッパの現実に親しめば親しむ程、日本. 吉田健一氏は次のように書いている。. 説)と証言している。. み悩んでいたかほ、誰の目にも明らかだった」(新潮文庫『旅愁』解. 者に、顔を合せる機会が多かったが、この長編にどれほど作者が苦し. ことは不可能になってくるのだ。丸岡氏も、「たまたまこの期間町作. たわけのわからない西欧体験をカルチャ-ショックとして笑いとばす. く、これ程の年月を費やしたことを考えれば、「欧州紀行』で示され. っているのである0約半年の滞欧で背負った重荷に解決をあたえるべ. 八.
(9) からの引用文. に見られるような、「1種すすけた青粂とした淋しさを湛えていた」. 点平野)と言わせたりしている。しかし、『厨房日記』. l. I. 西洋から帰って来た多-の青年が、船上から神戸を見て、悲し. l. ヽ. 趨勢にコミットしていたこともあって、日本ないし日本文化批判の言. のこの1節は貴重なのであ. といったような刺激的な言葉で日本批判をするようなことは後にも先. l. く善かれた『厨房日記』(昭和十二年一月)などを見ると次のような. ヽ. 葉は披からほとんど聞-ことができない.i.それでも、帰国後間もな. にも1度もなかっただけに、『厨房日記』. る。横光も荷風などと同じように一度は瞬間的に日本を冷たく見放し. ヽ. 描写に出会わすのである。. たことがあったのにちがいない。. ヽ. 西洋から帰る多くのものが、船中から神戸を見て、思わず悲し l. さに泣き出すというもの狂わしい醜態がある。(傍点平野). l. I. l. I. そうじ. ヽ. l. 家の掃除をさせている間、梶ほ久しぶりに一人市見物に出てい. 、. ヽ l. った。すると、あれほど大都会の中心を誇っていた銀座ほ全-低. 、. l. きたな、. 、. l. く汚く見る影もなかった。. しよ六ノ'Jよ]O-. 、. ヽ. 「これが銀座だったのか」. ・.. 梶ほしばらく街を見廻して立っていたが、寒そうに吹-風の中 ヽ. をモダンな姿で歩-人影も、どこの国の真似ともな-一種すすけ ヽ. l. 濫費をしなければ西欧に追っつけるものではなかった。内充して 外に現れることが形式の本然であるならまだまだ日本の内側は火 の車だと思った。(傍点平野). 横光は帰国後、日本という国の貧寒さに深い衝撃を受けたのである0 そして「日本の文化は物の中側にある知的文化が特徴」であり、外側. さはただちに内側の「貧寒」さをあらわすことになってしまう。横光. の形式は内側の表われであると彼のように考えれば'外側の「貧寒」. ヽ. ヽ. ヽ. ヽ. ほ、東京や日本文化の貧寒さを、荷風の如-'事あるごとに大声で述 l. べたてたりはしなかったけれども、それでも、『旅愁』でコンコルド ヽ. 境光利1紅おける東西対立. 広場に立った久慈に「これから見れば、東京のあの醜態は何事だ」(傍. ヽ. l. ヽ. ヽ. に絶望することなのであるが、矢代横光は、. 識人の転向が終り、日本は、今から思えば低脳集団ともいうべきナシ. になるには、ほんの一歩の距離しかないのである。そして世は正に知. 日本文化ほ西洋文化に劣らず優秀なのだという幻想にしがみつ-よう. う国の貧寒さを認識して衝撃を受けることから、いや、そうではない、. く。そういった意味で横光の渡欧は誠についていなかった。日本とい. ということが、横光をずるずると戦争協力の方向へ引きづりこんでい. しかし日本の貧寒さをそのまま貧寒さとして冷た-認識できなかった. それを'「もの狂わしい醜態」「弱まり崩れた心根」と考えるのである。. 「貧寒さ」. 洋行帰りの青年が、神戸を見て泣き出すというのは言うまでもなくI. く沈むばかりだった。(傍点平野)(『旋愁』). I. 分の中に潜んでいたのだろうかと、矢代は不快になり、l層悲し I. 日本という国の. l. ヽ. 、. ヽ. ヽ. みのあまり,泣き出すという、弱まり崩れた心板もやはり同様に自 た斎条とした淋しさを準えていた。梶は日本の文化は物の中側 ヽ. l. -. ヽ. ヽ. にある知的文化が特長だと常に思っていたが、しかし、外から見 ヽ. ヽ. 、. l. ヽ. かけたこの貧寒さを取り除けるためにほ、少なからざる虚栄心の. ヽ. ヽ. 九. ヽ. ヽ l.
(10) 横光利一における束西対立. ヨナリスト共の支配下に入っていたのである。横光が渡欧していた期. 共協定成立、翌年の昭和十二年七月七日、嚢清橋事件、七月二十八日、. イン旅行をあきらめている)、横光帰国後の十一月二十五日、日独防. 戦線内閣成立、七月十七日、スペイン内乱勃発(横光はこのためスペ. 紀行』『旅愁』で言及されている)、六月六日、レオン・プルムの人民. 十六日、人民戦線繍領を要求して仏労働者ストライキ(これほ、『欧州. 閣成立,五月三日'仏下院選挙で人民戦線派が過半数を獲得、五月二. ロッパの現実からヨオロッパ人の精細上の活動が生れて、それがヨオ. ロッパの思想になり、その思想も精細の活動もそのまま又ヨオロッパ. すから、そこを何んだって、西洋の論理で東洋が片づけられちゃ、. 西洋が二十世紀だからといって、東洋もそうだとは限らないんで. 横光ほ矢代にこう言わせている。. 白の構造を探ろうとしたのである」(「先駆者横光利ご)0. 確な聯閑がある筈だと考えて、その意味で日本の現実が持っている独. の精細活動も、思想も、その現実との間に感覚的にも掴めるまでに明. と同様に、日本の現実から生れてその日本の現実を作っている日本人. の現実に返って、現実と精神と思想が感覚的にも一体となっているの (横光は箱根丸船中でこの三-スを聞いている)、三月九日、広田内. 間だけにしばってみても、昭和十一年二月二十六日、二二丁六事件. 10 的なものになってい-。. 実に古神道の世界であった。そして横光の悲劇はここにいたって決定. 江戸文化、京都、奈良文化、あるいは、仏教的、儒教的世界でもなくI. こから横光の日本文化探険がはじまるのだが、横光の行ついたはてほI. 西洋の基準をもって測るからだ。日本にも「美点」ほあるほずだ。こ. することに対する異議申したてである。日本が「貧寒」にみえるのは. ここで横光が持ちだしているのは、西洋の基準で東洋-日本を裁断. なんだろうと、僕は思うんです。. が発展したり、押し寵められたり、引き延ばされたりしている始末. 台無しにすべきかどうかという、そこの疑問から今のすべての論争. 僕等の国の美点は台無しですから、果してそんなに周章てて美点を. わ. 日本軍華北で総攻撃開始、といった具合で、後は太平洋戦争という奈 落の底へむかって'日本ほ狂ったようにころげ落ちつつあった。 吉田氏も指摘したとうり、横光が西欧へ行って一番痛感したことは、 日本と西欧とでほ、同じ「現実」といっても、まるでその内容がちが うということであった。つまり、横光は、文化というものは、体系性、 完結性をそなえた、独自の構造体であることに気がついたのである。 『欧州紀行』には、「文化の相違のために限をまわした」という表現が. 見えるし'『旅愁』ほ、ただただパリに酔い痴れている久慈に対して、 矢代に'「東京とパ-のこの深い断層が限に見えぬか」と言わせてい る。同じく『旅愁』でほ、「西洋と東洋というものは、開きが大きい. よ。この開きを日本がどうするか、というのが今後の世界だ」と東野 に言わせている。この「断層」はまず帰国後の横光に日本という国の 「貧寒さ」としてあらわれたのである。だが、文化というものほ、独 自の完結性を待った構造体であるという認識を横光はすでに欧州旅行 中に得ていた。日本がい-ら「貧寒」であってもそれ自体の独自な構 造を持っているほずであるし、吉田氏の表現を再びかりれば、「ヨオ. あ.
(11) たす. (矢代は)その危倶を取り払う努力をするにほ、何か適当な他の. 力を語りねばいられぬときが来そうな気持がした。そうして、そ. の他の力とは、いったいどこからそれを探し出せば良いのだろう。. 実際、矢代はそんな千鶴子のカソリックをも赦し、むしろそれを. 援ける平和な寛大な背後の力を欲しかった。しかし、それには仏. 教でも駄目だと思った。また神道でもなお悪かった。そうしてみ. ると、日本の中にあるものでほ、古神道以外に先ず矢代には一つ. のである。『欧州紀行』を見ると、. 京都はすでに電池の切れた日本である」「奈良、京都などは東洋的に見. いたるまで日本人の精神を支配した原始宗教のことであり、古神道の. 古神道とほ言うまでもな-、弥生時代から古代天皇制国家成立期に. たのかもしれない。. ならないと滞欧中に痛感した時、彼の頚にはすでに神道のことがあっ. く素地ほ充分あったのである。日本人ほ日本の基準で物事を考えねば. く分った」というような認識がすでにあり、横光が、古神道に行きつ. の紳川ガラシャにさんざん悩まされた忠興に自分をなぞらえ苦しむ。. られた生活の悲劇は'今もなおそのまま自分と千鶴子との間でつづけ られる性質の倶れでもあった」そして矢代は、「西洋で自分の拾って のである。. 釆たものほ、忠興を苦しめたその頑固なカソリックだけなのであろう かと、自然に心も陪-なる」. 母体となったものは、狩猟採集時代のアニ.,、ズム、自然信仰などであ. 1. 古神道ほこういったコンテクストの中で持ち出されてくる。. 横光利一における東西対立. 1. 努める日夜の忠興と'あ-までそれに抵抗するガラシャとの間で浜ぜ. えぬ、というこの不思議さも、ヨ-ロッパへ来て見て初めて私にもよ. 「無我夢中で東洋的なものにしがみつ-、救いはこれだ」とか、「奈良、. どうもいつも損ばかりして来た」. ということになる。そして、「あまり高級すぎて人には分らない点が、. や仏教のように、他の宗教を排斥するという風な偏見が少しもない」. を認めない、日本人本来ey非常に平和な希い」であり、「キリスト教. 古神道とは、矢代の説明にょれば、「一切のものの対立ということ. ん古神道の書物を買い漁るようになるのだった。. あさ. 「カソリックを信じる妻に悩まされ、その信仰を思い翻えさせようと. 華数倍着であるということである。矢代は、カトリックに改宗した妻. クの大友宗麟にほろぼされたという歴史的事実であり'彼の母親が法. カソリック信者であり、これに対して、矢代の先祖が同じくカソリッ. いるが、矢代が彼女との結婿をためらう理由は、直接的にほ、彼女が. 帰国後の矢代と千鶴子との関係を妨げる要因はいろいろと描かれて. うのが、この作品の中心的主題であると言ってよいだろう。. な恋愛関係が、日本という現実の場でどのような運命をたどるあとい. 矢代と千鶴子との関係である。西欧という抽象的な場で発生した甘美. も見つからなかった。このようにして、矢代は暇を見てはだんだ 想小説なのであるが、小説全体の構造を太糸として享えているのは、. という小説ほさまざまなテ-マが錯綜している一種の比較文化論的思. しているため、彼は千鶴子との結婿になかなか踏みきれない。『旅愁』. されたという設定になっており、さらに、矢代の母親ほ法華教を信仰. いうのも、矢代の先祖はかってカソリックに改宗した大友宗麟に滅ぼ. カソリックを信仰する恋人千鶴子との関係に思い悩むことである、と. 『旅愁』において、矢代が古神道に行きつ-きっかけになるのほ、. 5.
(12) 境光利一における東西対立. る。矢代は、古神道のお祈りとほどんなものなのか聞かせてほしいと 千鶴子に言われて、次のように答える。 人のほ知らないが、僕のほイウエと発音するだけなんですがね、 これを早-いうと、いわゆる気合みたいになって、エッと聞える けれども、まァそれでも良いのです。. イウニというのほどういう意味なのかとさらに、槙三に訊ねられる と、矢代はこう答える。. 言霊ではイは過去の大神で、りは現神でエほ未来の神のことで. ことだま. す。ですからこの三つを早-締めて一口に、エッと声に出してお. 祈りするのですが'そうすると、日本人なら誰だって元気が満ち て来るでしょう。このイという字とりという字とを大昔は石にし. 本を基準にして考えますからね」という矢代の決意から持ち出されて. いる古神道は、それ自体では何らの有効性を持ちえず'西欧近代科学. の精華のひとつである集合論を対置させ、その二つの間に類似性を幻. 想することではじめて価値を帯びる仕組みになっているのである。そ. の他、『旅愁』には、龍安寺の石庭が近代庭園法の数学に合致してい. るとか、排中律と関係があるとかいったおよそ馬鹿気た議論が大まじ. めでくり返しなされているが、このように西欧文化の枠組の中でしか. 日本文化に意味を与えることができなかったことを見ても、横光の西. しかしこれは横光だけの問題でほな-、当時の時代の風潮のひとつ. 欧後遺症がどれほどのものであったかがわかるのである。. でもあった。指導層をほじめとした日本人の総体が「神風」が吹いて. 必ず日本が勝利するといった集団的ヒステリ-状態をやがてむかえよ. うとしていたし'日本浪漫派のような、「わけもわからぬような昂揚. (『悲劇の解読』)にしていたのである。そして横光ほそういう時代風潮. した心情の横行する雰囲気のなかでこういう言説が知識人を総なめ」. して祭らせたのですね.ところが、淫らな形をしているという理. それからほ日本が大変だ。しかし、日本は困り出すと、何んのこ. れたというたようなもののなかに、横光の本当の悲劇ほなかったと吉. 付されたり、当時もマルクス主義派やリベラリズム派にょって冷笑さ. しかし、横光の言説や行動が、「現在は白けはてた滑培感で1笑に. に便乗して、たびたび時局演説会や対談に出ていたのである。. とだか分らずとも、エッといって、元気になって何んだってやっ. 横光利一の悲劇も「旅愁」の主人公の表白する滑梧感も、存在. 「近代以後に於ける世界の普遍的な原理を意味していた」からであるC.. う概念ほ世界史的な時間を独自には構成しえないし、一方の西欧は'. 本>という原理を対立させたことにある。というのも、<日本>とい. 本氏は言う。氏にょれば、横光の悲劇ほ<西欧>という原理に、<日. へいはく. の口から語らせるにいたって頂点に達するのである。「僕はやはり日. 碍である」(『悲劇の解読』)と書いている。この「悲惨と滑梧」さはさ らに、幣畠の切り方と数学の集合論には関係があるという想念を矢代. 青木隆明氏は、「この矢代の説明する理念ほ涙が出るほど悲惨で滑. ちまう。これが生という愛情ですよ。. という、この二つの言霊の根本を引っこ抜いたものだから、さぁ. 由で、控嗣だなどと云って引っこ抜いてしまったのです.LTp'イゥ』. て、勿論古代文字ですが、どこの国へも一つずつ神社の御本体と. 山二.
(13) しえない∧日本>という原理をヨ-ロッパとその原型としてのギ リシャに対置させようとしたところに発祥した。原理的な無のう えで現代ヨ-ロッパの全重量を個人の肩に背負いこもうとしたの である。そして手当り次第に対比しうる伝統的な素材をかきあつ めて俄づ-りの原理をつ-りあげようとした。(『悲劇の解読』)0. これが吉本氏の結論である。これほ説得的な結論であるけれども、 私にはある疑問がきざして-る。横光が、こういったへ-ゲル流の知 らなかったのではないか、と私は思う。吉本氏の主張ほ、太宰治がか. 識を持っていたとしても構光の悲劇を解消するような手がかりとはな. かえこんでいた問題はボディビルをやれば一気に治癒してしまう程度 のものにすぎないと言った三島由紀夫の言い草に似ている。 「ヨ-Pッパとかギリシャとかに対比しうる概念は、日本を包括し たいならば、ただアジアという概念だけである」と吉本氏は言うが、 ギリシャ、ロ-マ、中世、ルネッサンス、近代といった具合に終始1. 賞して同一原理のもとで文明を発展させてきたヨ-。ッパのようにア ジアという概念は明確な輪郭を持たないし、第一アジアとほどういっ た国々のことをさして言っているのであろうか。さらに言えば、アジ アという概念は、ヘ-ゲルの歴史哲学に典型的に見られるように、も ともとヨ-ロッパ人がヨ-Pッパ文明のネガ像として生み出したもの であってアジア人が作りだしたものではない。日本のファシスト政府 ぶかって「大東亜共栄圏」という観念を使ってアジア侵略を目したこ とがあったが、それが内容空疎なたわ言であったのは、もともとアジ. アという統1原理など存在しないからである.だから枝光がアジア概. たことほ明らかである。. 日本人が西欧を訪れて、徹底的に思い知らされるのほ、カフェ-で. コーヒ-を飲んでも、ホテルで部屋の交渉をしても、何気なく石畳の. 舗道を歩いていても、ことごと-実感させられるのほ、西欧文化の異. 質性と、日本という国でやしない育てられた日本人としての感覚と習. 慣である。ほとんど生理感覚化した日本人としてのアイデソティティ. が、わっとせきを切ったように襲って-る。アジア的原理など考えて. いる暇はない。だいたい、日本人の大部分はアジアの他の国などへ行. ったことがないのである。構光ほかって上海を訪問したことがあった. が、インドにもタイにもベ-ナムにも行ったことがなかった。われわ. れ日本人がヨ-ロッパを論じょうと思えば、日本をそれに対置させる. 以外全-方法がないのであって、それほ、正しいとか間ちがっている. とかいう以前の、事実の問題なのである。そして横光が、『旅愁』そ. の他で行なっている比較論ほ、「一つの根本的な事実を掴むことから. 始めて、その衰実の生きた印象から1歩も後退しない」(「先駆者横光. 利一))という方法が徹底的につらぬかれているのである。そしてこ. のような方法をとることにょってしか比較文化論は成立しえないので ある。. 西欧の悪夢にとりつかれた横光が、ついに行きついたはてが、日本. の原始農耕社会を支配していた原始宗教たる古神道であった。そして. 一切の対立を解消して、キ-スト教も仏教をも包容してしまう雅量を. もつような原理として横光は古神道をとらえたのである。. 帰国後間もなく書かれた『厨房日記』には、主人公梶がトリスタン. 一≡. 念なるものを対置したとしてもいっこうに問題の解決にほならなかっ 横光利一における東西対立. 6.
(14) 横光利一における東西対立. ・ツiラを訪れて、文化論を展開する場面が出て-る。横光がパ-滞 在中に岡本太郎氏とト-スタソ・ツァラを訪問したのは、昭和十一年 六月十二日であり、ニし欧州紀行「「には、r夜、岡本太郎君が友人の家を 訪問するから、一緒に遊びに行こうと誘って-れたので出かけてみる。. 日記.L一にほこの時の訪問の様子がなまなまし-描かれているが、ここ. 行-先はト-スッアンツアラ7の家だ」という記述が見える。『厨房. で問題にしたいのは、日本のことをたずねられて、主人公梶が答える 次のような条りである。. 左翼ほなかなか繁栄したときもあります。しかし、日本ほ苦か らそのときの思想状態を是非必要と感覚しないかぎり、どのよう な思想も行為も無駄となりますから、そのために秩序ぶ乱れる恐. の外敵の侵入ほ歴史上に現れている限りでは二百七八十回ほどあ. ります〇一回の大地震でそれまで営営と築いて来た文化は1朝に. して潰れてしまうのです。すると、直ちに国民ほ次ぎの文化の建. 設を行わねばならぬのですが、その度に日本ほ他の文化国の最も. 良い所を取り入れます。山世代の民衆の一度は誰でもこの自然の. 暴力に打ち負かされ他国の文化を継ぎたす訓練から生ずる国民の. 重層性は、他のどこの国にもない自然を何より重要視する秩序を. 心理の問に成長させて釆たのです。そのため全国民の知力の全体. ほ、外国のように自然を変形することに使用されずに、自然を利. 用することのみに向けられる習慣を養って来たのは当然です。. 一見でたらめな月本論と思われるかもしれないが、ここにほ槙光. の考え方の基本原理がか-されている。これについては吉本氏が次. のように的確な解釈を下している。. I. れが生じると、これを枯らしてしまう自然とい・う恐ろ.しい力があ. I. るのです。この自然力は物理的なもので、ヨ-ロッパの知性も日. l. 本へ侵入して来る度に、この自然力と争わねばならぬのです。′つ. 横光はまず第1に、自然の威力以外は頭上を遣り過ごしてしまう. ものとしか政治権力の消長と交代と内乱を感じないできたアジア的. I. まり、日本はいかなる思想も物もそれを選択する場合に個人の意. l. 志では出来ません。自然力に任せてこれの命ずるままに従わねば. 一四. な村落の平穏な限り、そのあいだに形成された情緒、温和な安息で ヽ. あるとともに歯がみをしたいような蒙昧さで、支配者たちの横暴を l. 横光が、欄熟した西欧文明のまっただ中に投げだされた時、終始彼. 指そうとしていた。(傍点平野)(『悲劇の解読』). 思想を、頑迷に、だが寛容に遣り過ごさせてしまう状態を、横光ほ. な村落の親和的な感情が、たんに命題として知儲に宿った「左翼」. 許容してきた村落の感性的な原理に触れようとした。このアジア的. I. ならぬのです。個人の役に立たぬそのような日本では、従って第 一番の芸術家や思想家は自然という秩序です。日本の左翼も自然 発生から自然消滅の形をとって進行していますが、それほ思想の 無力というよりも、思想と同程度に整えられた秩序の強力なため なのです。. 日本という国について外国の人人に知っていただきたい第一の ことは、日本には地震が何より国家の外敵だということです。そ. l.
(15) 意味で、西欧は、明治以来、日本人を試す、試金石であった、.と言っ てよいかもしれない。. 横光の場合に限って言えば、彼は、福島県の東山温泉で生まれ六歳. までそこですごしている。アジア的村落共同体の雰囲気を濃厚にもっ. ていたこの地域に彼が生まれ、幼少時をすごしたことは、結果論にす. ぎないとほいえ、決定的で為ったように思われる。また、青年時代に. 西欧的な教養を深く身につけたという形跡もないし、彼は外国語をほ. とんど知らなかった。そうかと言って、幕末や明治初期の留学生のよ. うに武士道倫理(これほ西欧的なものに対抗しうる唯1の倫理=行動. 規範である)や漢籍的教養とも無線であった。こう書いて-ると、横. 光が、「アジア的な村落の平穏とひどい蒙昧の同居に逆説的な理想」. (『悲劇の解読』)を見つけるに壷ったのほ必然のように思えて-る。. さらに、当時の時代の趨勢が外側からそれを正当化するように働いて、. 彼の悲劇を強化した。現在ならば西欧から帰った人間が、日本的村落. に充満する親和的な感情を大声で言いたてても、それほ個人の趣向の. 問題として片づけられてしまうだけである。. 私は横光のなかに、近代知識人の精細的衰弱を見ないわけにほいか. ない。幕末明治期の知識人は、和魂洋才をとなえることで西欧文明に. 感に陥ることはな-'事実西欧の土を踏んでもある程度自信をもって. ら彼らはどれほど西欧語や西欧文化を学んでも、自己喪失という危機. 振舞うことができた。横光にはそれが欠けていた。だから彼は一気に、. 括抗できるほど強固な、武士道倫理や漢籍的教義をもっていた。だか. ように、双方のバランスをうま-取るか、あるいは横光のように自己. 村落共同体的原理とそれに付随する原始的イデオロギ-たる古神道へ. 度は類型的には三つしかない。『旅愁』の西欧心酔老、久慈のように. の内部原理のみに徹底的にしがみつ-か、そのいずれかである.困難. と退行する以外になかったのである。そういった意味でほ'「原理的. 一五. な無のうえで現代ヨ-ロッパの全重量を個人の肩に背負いこもうとし. なのほ、何が原田で、人がその三つのうちのある特定の態度をとるよ. 横光利1における東西対立. うになるのかということを解明することである。そこにほあらゆるも. 自己遺棄を行ないながら、泉質の文明と一体化するか、鴎外、淑石の. にして己れの本質が露呈され、それに衝撃を受けた場合、取り得る態. それを正当化しなければいられないことにあった。西欧の異質さを前. に、「痛ましいもの」とほとらえずに、ひたすらそれにしがみつき、. 横光の悲劇ほ、西欧で露呈された己れの内部原理せ、森有正のよう. じた悲劇に至るまで、そのニュアンスほさまぎまである。. い田舎者であることに気がついたというような笑い話から、構光が演. ほどこれに足をすぐわれる。西欧へ行って自分がほじめてとんでもな. 気に露呈され'眼前に.つきつけられることである。感受性の強い人間. 気がつかない、内部の何かが(横光の言葉を使えば「聾の部分」)が一. 西欧を訪れh@,」とのこわさのひとつは、日本で生活している時には. 共同体的感性原理のうづきでみったと言えよう0. きたくて仕方がなくなる」とかいった表現は、すべて彼の内部の村落. れだ」とか、「どういうものか巴里にいると、日本の田舎の.温泉.に行. 行』に見られる、「無我夢中に東洋的なものにしがみつく'救いほこ. 感性原理を侮辱するものとして彼の蔽には映じたのである。『欧州紀. 感性をそなえていながら、他方では、そういった文明ほ、彼の内部の. きものであった。1方でほ豪壮華麗な西欧文明を味わい楽しむだけの. の内部がうづいていたものこそこの村落共同体的な感性原理というべ. のが介在してくる1生まれ.-趣味、教養'教育、資質、等々.
(16) 暁光利一における東西対立. た」(『悲劇の解読」ニという吉本氏の主張は正しい。たとえ、横光が、 己れの本質として持ち合わせた原理が西欧的原理に対置された時、ほ. ほ日本でも有名な湯治場であったが、避暑客のまったく去ってし. まった〓何の淋しい山峡では、野分の後に早-も秋雨を降らせて. に浸ったり、暇にまかせてその地の歴史を検べたりしながら身を. 影響を受けたものは殆どなかった。矢代は真黒な太い木組の浴槽. 汲とん. いた。見たところ、このあたりの風習や気質には珍らし-西洋の. 彼にとっては何の救いにもならなかった。感性的な裏づけのない命題. 休めた。. の家のようなものだった。町の南端に流れている河鹿の多い川の さるす. かじか. 百軒あまり人家の密集している町は、湯に包まれた1つの木造. 的観念や真理ほど彼が嫌ったものはないからである。そして悲劇とは、. とんど無にも等しい無力なものであることに気がついていたとしても、. 二ハ. それが悲劇だと知りながら、破局まで演じなければいられないような 宿命であると解釈すれば、構光が演じたのはまさに悲劇そのものであ ったと言える。. 横光は、「どうも巴里にいると'日本の田舎の温泉に行きた-て仕 方がなくなる」と『欧州紀行』に記しているが、事実彼は帰国後の昭 和十一年九月に、一ケ月ほど温海温泉に滞在している。そしてこの滞 在は'アジア的村落共同体の理想を確認するための滞在でもあった。 この時の経験は、『厨房日記』や『旅愁』で展開される文化論の下地 になっている。. 巧赦な樹木の繁りを見せて矢代ほ倦きなかった。. が日光に輝いていた。その周囲を包んだ変化に富んだ山波の姿は、. か.&や. 水中から湯の煙が立ち昇り、百日紅の花の下を、泡立つ早い流れ. べり. 稲の重く垂れ廉いている穂に、裾の擦れ流れる音が爽やかだっ. た。これを耕し刈り採る苦労を少しも知らぬ自分だと矢代は思っ. まだ誰かが、年中怠らず労務をつづけていて-れる辛苦が歓ばし. たが、見る限り、いちめんに実った穂の波うつ中に浸っていると、. 彼ほ宿の子供と一緒に、竹を細-切り接いで作った蛇の玩具の青. おもちや. く思われ、せめてこれを感じることだけは忘れぬようにと戒めた。. の温泉へ休養に行-ことにした」のである。「あんな所より箱根の方. く. これだけ取り出せば、これは単に日本の平穏な田園風景の描写にす. てみたりして、山村の心にも馴れしたしんだ。(『旅愁』)。. 線に随って歩いたり'波の洗う芭の中に1群の寂しい墓標を尋ね. すすき. こともあった。無花果の実の熟れ連った海沿いの白い道を、水平. いちじ. い尾を握って、戯れに稲の穂の中を泳がせつつ海の方へ出て行く. 矢代の行った温泉場はその地方でも特に質朴で'古風なことで. 横光自身の実感でもあった。. き倦きして、疲れるばかしだからなァ」と答えるが、これはそのまま、. 母に対して、「それや面白いですよ。西洋らしい所を見るのはもう倦. が良さそうなものだけれどね。何が面白いの。あんなところ」と言う. 北の郷里もこの際よ-見直して置きたい」という理由で、「母の郷里. 矢代は、旅の「疲れを挟みほぐしてしまいたいだけでなく、母の東. も. ,.1'b. 7.
(17) ぎないのだが、描写している人間が、「近代以後における世界の普遍 トなか. 的原理」(吉本、前掲書)たる西欧文明に切りこみ、それをわがものと するだけの教養を雅量も欠いていた田舎人の横光であると思った瞬間、 われわれは何とも言えない哀れさを感ずる。だが皮肉なことにこの平 穏なはずの村落共同体での疎開生活が、結果的には彼の肉体を弱め、 彼の生命をうばうことになる。 時代の趨勢ほ暗-なるばかりであった。昭和十二年十二月、日本軍 南京占領、十三年四月、国家総動員法公布、昭和十四年五月、ノモン ハン事件、昭和十五年十月、大政翼賛会発会式、十六年十二月、日本. 軍ハワイ真珠湾空襲開始'昭和十七年、-ッドゥエ-海戯、十八年二 月'日本軍ガダルカナル島撤退、十九年六月'マリアナ沖海戦(空母、 戦闘境の大半失なわれる、同年十月、レイテ沖海戦(連合艦隊の主力. の内部原理を正当化し、防衛することであった。. 短編「微笑」(横光の死後、昭和二十三年1月に発表された). 「アインシュタイソの相対性原理の間違いを指摘し」. にほ、. て、二十一歳で. 博士号を取ったという、帝大在学中の栖方という青年が登場する。彼. は新兵器の殺人光線を研究していたのだが、完成まぎわになって、放. 戦の報を聞き、「口惜しさのあまり発狂死亡」するのである。栖方はI. およそ現実ばなれした、神秘的な超能力を持つ人間として描かれてい. るが、こんなものを信じなければいられなかったほど、戦中の横光は. 精細的に退嬰化していた.この短篤を読んでいると、なぜ彼が臆面も. 「神風」. みたいなものがわき上って. なく戦争協力者となりえたか痛いほどにょくわかるのである。現実的 な勝算など全-ないのに、いつか. には、彼が. 最終的にほ日本が勝利すると信じきっていた一部の指導者と大衆層の. 蒙昧ぎに横光もどっぶりとひたっていた。. 横光の戦中戦後の生活と精細状態を記録した『夜の靴』. ヽ. 失なわれる)'二十年四月、米軍沖縄本島に上陸、同年八月六日、広. どのような状態で敗戦をむかえたかがなまなまし-措かれている。. ヽ. 島に原爆投下、同年八月十四日、ポツダム宣言受諾、そして、同年八. l. 月十五日、かの「玉音放送」が行なわれ、敗戦となる。. 駈けて来る下駄の音が庭石に輝いて一度よろけた。. I. 1方横光ほ、この間、何をやっていたのであろうか。昭和十三年十. すると、柿の木の下へ蘇れた義弟が真っ赤な顔で、「休戦休戦。」. I. 一月、華北、華中を四十日間にわたって旅行(翌年この時の経験を. といふ。. といふ.借り物らしい足駄でまたそこで輝いた。蹟きながら、「ポ ツダム宣言全部東認。」. l. 「ほんとかな」. l. 「北京とパリ」に発表)、十五年八月、再び温海温泉に滞在、日本文学. や ヽ. 者会議の発起人となる、十六年五月、文芸銃後運動中部地方班に参加、. く. l. に加わる、十七年、大東亜文学者大会の決議文起草に加わ. 日 l. 「ほんと。今ラヂオがさう云った。」 ヽ. り、代表となって宣言を行なう、二〇年1月、家族を疎開させ、同年. ヽ. (傍点平野)(「夜の靴」)0. 私はどうと倒れたやうに片手を畳につき、庭の斜面を見て一いた。. _■. 「みそぎ」. 六月には自らも夫人の郷里に疎開、のちに山形県西田川郡上郷村に移 り、ここで敗戦をむかえた(以上、神谷忠孝氏作製の「横光利一年 譜」にょる)。ここに浮かび上ってくる姿ほ、戦争協力者としての横. 光利1であるO彼にとっては戦争に協力するということほ、即、自己 横光利1における束西対立. 八月 ヽ. びと.
(18) 横党利一における東西対立. のように横光の精細の軌跡をたどってみると、日本人が外在原理を拒. 孝『簡光利一』論)を企てた横光が最後に行きついた端であった。こ. そして、「何と私はこのごろ汎神論的に物が併と映るのだろう。日本. 否する時、どれほどの精神的貧困に陥るかということがわかってくるO. め、いっさいの専制と官僚制とを放置するか、自己犠牲に堕するか、. 権力としては蒙昧で安逸で惰限をむさぼっている<無>にすぎないた. 関せずという距離から看過するものだからである。いいかえれば自己. らないのほ、権力と支配とが頭上を暴威を振って通過するのを、われ. 吉本氏ほ、「アジア的な村落の原理.が板抵から覆滅されなければな. の思想はいつもここで停止して釆たやうだ」といった言葉が散見され る以外ほ、政治批判や自己反省らしきものは、この作品にはまった見られない。これには、極東裁判で個人的な責任を認め七うとしなか った戦犯政治家たちの精細構造とどこか通じるものがある。 疎開中の横光の生活は悲惨なものだったらしい。「米は勿論、味噌 も醤油も金銭でほ買へない」といった食料難。「私は限い。蚤の.ため. あるいは自らを専制と官僚制そのものと化してしまうだけである。横. 光はこの原理を魅力だけで視た」(吉本、前掲書)と枝光を批判してい. るが、問題なのは、村落原理を覆滅するようないかなる内在的原理も. I. っつけられ」(『夜の靴』)と横光は書いている。そして、こういった精. 「おれほ毎日毎日、批評家からやっつけられ、右からも、左からもや. はるかに強固な深層意識にょって容易に駆逐されてしまう。債光は西. て外在原理というものほ人間の表層意識にしか-いこむことができず、. El本人が狂奔した文明開化の時. そこで彼の内部でどっとふき出てきたのが、農耕民的な深層意識で. あった。思えば、西欧的原理の導入に". 代は、.明治二十年代で終りをとげている。そして明治二十年代に発生. 横光ほそういう日本の近代史の側面を己れの個人史の内部で演じたの. したナ)ヨナ-ズムは、昭和の軍国主義者にいたって頂点に達した。. である。横光を見て私が思うことは、どんなに浅薄に堕することがあ. いということである。. っても、われわれほけして外在原理-西欧的原理を拒否してはならな. 病勢悪化し、腹膜炎を併発して午後四時一三分死去した」(神谷忠孝. 比、およびその発展としての東洋精細にょる西洋精細の超蒐」(神谷忠. これが、「ヨ-ロッパ旅行にょって芽生えたヨ」ロッパと東洋の対. 「横光利一年譜」)のであった。. 時意識不明となる。原博士の診察で胃潰嬉と診断される。同月三〇日、. て昭和二十二年十二月一五日には、「夕食のあと胃に激痛が起り、一. 神秘的観念=古神道を信ずる彼が行きつ-必然の結果であった。そし. 法」といった得体の知れない治療法にこる。これは、東洋的と称する. ±二日)となってあらわれる。一時的に回復すると、彼は、「蜜蜂療 もないまやかしにすぎなかったことにはじめて気がついたのである。. 欧を訪れて、大正昭和期の翻訳文化で学んだ自分の南欧的教養が、板. するか、外圧に押されるかしなければ、変化したためしはない。そし. 日本にはないということである。日本の歴史ほ常に外在の原理を導入. I. に私は一目三時間より眠ってゐない」(『夜の靴』)といった悲惨な生活。 これが、矢代が西欧旅行の疲れをいやすために安らったのどかな田園 風景の背後にかくされていた、村落の実態であった。そして敗戦の失 意にあった横光には次から次へと不運がおそって-る。昭和二十一年. l. 細的苦悩と悲惨な生活の結果は、脳溢血の発作(昭和二十一年六月二. 六月には、「新日本文学」にょって、戦争責任者の1人に列挙されたo. I. これを痛ましいというべきか滑梧と言うべきか、私にはわからない(). 山<. l.
(19) 考. 献 一論』、双文社出版、昭和五三年 一の軌跡』、国文社、昭和五四年. 善本隆明『悲劇の 解読』、筑摩書房、昭和五四年. 文芸読本『横光利. 『横光利一全集』' 河出書房新社'昭和五六年-五七年 『横光利一読本』' 河出書房'昭和三〇年 一』、河出書房新社'昭和五六年. 文 横党利一における東西対立. 九. 参 神谷忠孝『横光利 剛『境光利. 梶木.
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