相対主義テーゼの中心的役割について
渡辺 邦夫
,*
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Samuel Johnson
Abstract
Plato s treatise of knowledge, the 7加08 6伽5, illcludes a rather prolonged consideration of the Relativity Thesis of Protagoras, the thesis that man is the
o
高?≠唐浮窒?@of all things. In the first part of the dialogue, which purports to exa甲1pe 狽??@definition that knowledge is perception, he treats as his main target the Relatlvlty
Thesis instead of the definition itsel£In this paper I hope to show both that this
was the best way for Plato, a realist and the defender of absolute truths,strategyt・且ght with hi・t・ue en・my・nd th・t hi・exp・・u・e・f th・hidd・n meani・g・・f
狽??@Thesis also made clear that the knowledge as was sought here concerned our general abilities to identify(perceptually or not)something in the world.
プラトンの傑作対話篇『テアイテトス』において,知識(ε肌στ躯η)とは何かと問われ,そ の第一部と呼び慣わされている部分では,ソクラテスの相手をつとめる対話者テアイテトス の「知っている人は自分が知っていることを知覚している(αtσOdvεoθα孔)と思えます。そし て,いまわたしにあらわれるかぎりでは,知識は知覚(α { 6eησt⊆)にほかなりません」(151el一
3)という答えをきっかけに,知識=知覚説という定義的言明についての検討並びに批判が遂 行される。検討において,まずソクラテスはテアイテトスの提唱した定義が,プロタゴラス
の相対主義のテーゼときわめて近い関係にあることを指摘する。
しかしきみは知識に関して容易ならざる言論を,かのプロタゴラスも語った言論を,語っ たようだよ。ただしかれは,別のしかたで同じそのことを語ったのだ。というのも,たし
かかれは,「万物の尺度は」人間である,「有るものには有ることの,ありもしないものに
はありもしないことの」と主張しているから。きっときみはこれを読んだことがあるだろ
うね。(151e8−152a4)
この「別のしかたで同じそのことを」(152al−2)という言い方は近年の有力な解釈者を,次の
方向に誘った。すなわち,ジョン・マクダウェルとマイルズ・バーニェトという,尊敬すべきすぐれた哲学者が二人そろって,1)これは知識=知覚説を「人間尺度」説からの論理的帰結 として導くことができるという示唆であるか,あるいは,「人間尺度」説によって解明するこ
『人文学科論集』36,pp.51−66. ◎2001茨城大学人文学部(人文学部紀要)
とができるという示唆である,と解釈した。そして,これに続く152c7までの箇所を,その ような導出のための議論と解釈した。さらにバーニェトは,この一連の箇所以後で,ギリシ アの多くの知識人が荷担する「流動こそ源である」という趣旨の説をヘラクレイトスの「流 動説」とした上で,模式図的に第一部の知識一知覚説の検討全体を,帰謬法的構造の議論と 考える。すなわち,
テアイテトス→プロタゴラス→ヘラクレイトス→言語の不可能性。ゆえにテアイテト スの定義は不可能である。2)
ここで「→」は,前者に荷担すれば後者にも荷担せざるを得ない,程度の意である。厳密に
一言って,そのような関係を本当に主張できるのか,わたしは疑わしいと思う。しかし,いま
はそのことではなく,より根本的であり,マクダウェルも共有する前提のほうを問題にした い。すなわち,プラトンがこの第一部で第一に問題にしているのはテアイテトスの知識=知 覚説なのか,というまさにそのこと,そして,とくにこの151d−152cの箇所において,プラトンはほんとうに,テアイテトスの定義をほかから導く,もしくはほかによって解明しよう
としているのか,ということである。わたしはこの二点において,マクダウェルとバーニェ トは間違っていると思う。そしてプロタゴラスの人間尺度説が,以下の議論の主たる検討の 的であると思う。以下,まずこの箇所の詳しい読みとりからこの点を立証し,しかるのち,このように解釈しても,或る解釈のもとでの「知識とは何か」との問いに対する,適切な応
答が得られるということを,プラトンの言説自身に即して,論じていきたい。
1
ワず,151e8−152c7全体を訳出し,テキストの文字通りの意味を把握することから始めよ
う。
ソクラテス:しかしきみは知識に関して容易ならざる言論を,かのプロタゴラスも語っ た言論を,語ったようだよ。ただしかれは,何かしら別のしかたで同じそのことを
語ったのだ。というのも,たしかかれは,「万物の尺度は」人問である,「有るものに
は有ることの,ありもしないものにはありもしないことの」と主張しているから。きっときみはこれを読んだことがあるだろうね。(151e8−152a4)
テアイテトス:はい,何度も読んだことがあります。(152a5)
ソクラテス:かれは,それぞれのものはわたしにあらわれる,そのようにわたしにとっ て有り,きみにあらわれる,そのようにきみにとって有る,しかるに,きみもわたし
も人間である一きっとこのようないみのことを言っているのだろう。(a6−8)
テアイテトス:はい,そのように語っています。(a9)
ソクラテス:その一方で,知恵のある人は,馬鹿なことを語らないのが似つかわしい。
そこで,かれに付き従っていくことにしよう。時として,同じ風が吹くときに,われ われの一・人は寒がり,もう一・方は寒がらない,ということがあるのではないか。また,
一方はそれほど寒がらず,他方はひどく寒がる,ということも。(bl−3)
テアイテトス:はい,それは実によくあることです。(b4)
ソクラテス:それではその場合,われわれは風がそれ自体として冷たいと言おうか,そ れとも冷たくないと言おうか。或いは,プロタゴラスの言うことに納得して,寒がっ ている者にとっては冷たく,寒がらない者にとっては冷たくない,と考えようか。
(b5−7)
テアイテトス:それがもっともなことに思えます。(b8)
ソクラテス:また,そのようにそれぞれの者にあらわれてもいるのだね。(b9)
テアイテトス:はい。(blO)
ソクラテス:しかるにこの「あらわれる」は知覚することだろう。(bll)
テアイテトス:ええ,そのとおりです。(b12)
ソクラテス:したがって,温かいものやこの類いのすべてのものにおいて,あらわれと 知覚は同一である。なぜなら,それぞれの者にとって,それぞれの者が知覚するその
とおりで,ありもするだろうから。(c1−3)
テアイテトス:そのように思えます。(c4)
ソクラテス:したがって知覚は,知識であるからには,つねに有るものに関わり,虚偽
のないものである。(c5−6)
テアイテトス:そうあらわれています。(c7)
やや長い訳文になったが,ソクラテスの論点はそれほど複雑でも,難解でもないと思われる。
まずかれは,テアイテトスの定義が,内容上,プロタゴラスの人間尺度説と一致するという。
このL致」の意味が解釈上の問題である。初めに挙げたバーニェトとマクダウェルではこ れは,テアイテトス説とプロタゴラス説のいわば二命題の間の同一性もしくは含意の関係で あることになる。これに対してわたしは,テアイテトスの定義である知識=知覚説のほうは 意味内容の比較的はっきりした「命題」として扱われてよいが,プロタゴラスの「万物の尺 度は人間である,有るものには有ることの,ありもしないものにはありもしないことの」は そのような明確な意味内容を云々できるものではなく,解読を要する謎めいた箴言にすぎな
い,と考える。そのことは,たとえば,152a1の「何かしら(τwα)別のしかたで」, a2の
「たしか(πOb)かれは」, a6の「きっと(πω⊆)このようないみのことを」のような限定句にお いて示唆されている。また,この訳出箇所の最後のほうのソクラテスの2回にわたる発言は 決定的であるように思われる。すなわち,まずかれは「したがって,温かいものやこの類い
のすべてのものにおいて,あらわれと知覚は同一である。なぜなら(γdρ),それぞれの者に とって,それぞれの者が知覚するそのとおりで,ありもするだろうから」(152c1−3)と言って
おり,テアイテトスの知覚にかかわる主張のほうを,プロタゴラスの主張内容の解明におい てあからさまに前提している。第二に,ソクラテスはこの箇所全体の結論にあたる文で「したがって知覚は,知識であるからには(t ヲ , Tω⊆επtσTημnOVσCt),つねに有るものに関わり,虚偽
のないものである」(152c5−6)と言っており,この分詞句の自然な解釈は,これまたきわめて
明らかに,テアイテトスの知識=知覚説が解明する主張でありプロタゴラス説が解明を要する主張であることを示唆する。
マクダウェルとバーニェトは152c2の「なぜなら_から」にあたるγdρを,写本の裏付け
のないまま,驚くべきことに「それゆえ(γ dσ)」と読み替える。そして,152c5−6の分詞句 を理由にでなく,結果のように解釈する。3)わたしはこのような読み方がまったく不可能であ
るとは言わないが,かれらと同じ手段に訴える前に,ふつうの接続詞の読みともっとも自然 な分詞句解釈をまず尊重することから始める。そしてその後,この二人の学者の隠れた先入見をそれとして明示し,かつ,その先入見を掘り崩していくことにしたい。
ソクラテスはまずプロタゴラスの「人間尺度」説における「人間が尺度」ということを
「わたし」や「きみ」にとっての「あらわれる」ことがらが,そのままわたしやきみにとって
「有る」ということになる,という意味に解析する。ここでの「わたし」や「きみ」がかれの
いう「人間」なのだ,のように(152a6−8)。そして,プロタゴラスが「馬鹿なことを言ってい
るわけではない」(bl)ことを実証しようとして,同じ風が二人の人にとって「冷たくもあり」
「冷たくなくもある」という事態を引く。風が「それ自体として」「冷たい」「冷たくない」と いうことは,このような場合に問題とならないという言質をテアイテトスから引き出し(b5一 8),一定の事例においては少なくとも,限定ぬきの「有る」は問題にならず,「_にとって」
という限定込みで,双方にとって「有る」ことになる。この場合の「有る」ことは当人に
「あらわれる(φαtvεταt)」とおりにあることであり,かつ,当人にあらわれるとは,このよう な事例においては,当人が知覚することである(b9−12)。
ここまでの議論は,テアイテトスが知識一知覚説を採った結果,プロタゴラス流の限定付
きの「有る」と,人ごとに分配されるような「真理」「知識」とに荷担することになった(マ
クダウェルとバーニェト)経過のようにも思えるかもしれない。しかし実際のやりとりにおいて,テアイテトスがプロタゴラスの説を「何度も読んだことがあります」と答えて(a5)以
後は,解釈・解明されているのはプロタゴラスの主張のほうであると読むのが自然である。この読みにおいて,プロタゴラスの「あらわれ」と「あること」とを即座に一致させる態度
が問題的であると見なされ(a6−bl),それが知覚の場面での「相反するあらわれ」という事実 の一解釈であるとするならば,(最終的な当否はともあれ)理解可能であるとされている。こ
のとき,明らかに,テアイテトスの知識=知覚説のほうが解明する主張になっている。それ 自体としては意味不明なプロタゴラス説の,知覚という場面における理解可能性もしくは「正当」性を論じるために,各人の知覚経験は,媒介ぬきにそれ自体誤り得ず,有に関わるよ うな「知識」であるという,テアイテトスの定義からの(知識の通常の条件のもとでの)直接 帰結が使用されているのだと思われる。
その一方で,プロタゴラス説の主張の言葉が,文字通りの意味は辛うじて「分かる」とし
ても,哲学説として何を言いたいのか,一見しただけでは不明である,4)ということは,それ
自体としても,明らかではないだろうか。「物差しは長さの尺度である」「ポンド原器は重さ の尺度である」ということばをきいて意味が理解できない人はいないであろう。しかし,「人
間が尺度である」ということが何を意味するか,哲学史の「知識」に汚されていない人は,一おそらく,まったく了解できない。これは通常了解されている尺度の関係を本来の適用範囲 でない領域にフィギュラティブに援用する使用である。したがって,知識=知覚説は現実に
解明の役に立つ。なぜなら,このテアイテトスの説をもってくるとき,「人間」すなわち経験
主体が知覚経験することは虚偽を免れ,外部からの修正を受けない「知」である,として「尺度」の意味を定めることができるように思われるからである。
ただし,知識=知覚説によるこのような解明は,おそらく最終的には,プロタゴラス説の 綾小化のいみでの「解釈」にすぎず,プロタゴラス自身の言説に込められた,いわば野心 たっぷりの含みは,この解明において,少なくとも表面上,いったんそぎ落とされる。すな わち,プロタゴラスにおいて,テアイテトスが罪もなく信じている公共・客観的な知および 実在・有・真理への荷担が,十全ないみでなされていたとは,とうてい考えられない。その
ことは,ここに訳出した部分でも,すでに明らかである。「風がそれ自体として冷たいと言お
うか,それとも冷たくないと言おうか。或いは,プロタゴラスの言うことに納得して,寒
がっている者にとっては冷たく,寒がらない者にとっては冷たくない,と考えようか」(b5−7)
との問いに対してテアイテトスは最後の選択肢を選ぶが,このことは,必ずしも「知識とは 何か」に対してかれが答えた答えと関係づけられて解釈されなければならないわけでは,な い。もう一つの有力な解釈は,プロタゴラスが公共的な知をそもそも否認し,有も真理も,
じっは幻想にすぎず,わたしやわたしたちの私製の「知恵」があるのみだ,とするものであ
る。
しかしこの箇所においては,明らかに,プロタゴラス説は知識に関わるわれわれの通常の 語りから定式化を得ている。それは,先ほど問題にした,議論の総括にあたるcl−7におい て,知識一知覚説とそれに伴う知識に関わる常識が使用されていることから,明らかであ
る。まず,「したがって,温かいものやこの類いのすべてのものにおいて,あらわれと知覚は 同一・である。なぜなら,それぞれの者にとって,それぞれの者が知覚するそのとおりで,あ りもするだろうから」(cl−3)において,元来のプロタゴラスの「あらわれるとおりに有る」と
同じ事態を,ソクラテスたちの責任において「知覚するそのとおりで,有る」と言い表せる ということから,少なくとも特定の領域においてはプロタゴラスの「Xへのあらわれ」を「Xの知覚」と言い換えられることが保障される。しかるのち,最終部で,「したがって知覚 は,知識であるからには,つねに有るものに関わり,虚偽のないものである」(c5−6)という台 詞で,知識の二条件(虚偽不可能性および知られるものが有るものであること)から,プロタ ゴラスのいう「あらわれ」が,すなわちソクラテスとテアイテトスに言わせれば知覚が,「
と」あらわれる(一知覚される)ことから,「.で」有る5)ことを導いてよいような,そのよ
うな構造になっている,という結論が述べられる。このようにして,プロタゴラス説の一通りの解明が行われたことになる。
この箇所における主役がテアイテトスの定義ではなくプロタゴラス説であることは,疑い 得ないように思われる。次節で,これに続く箇所の議論も,プロタゴラスの哲学説の解釈と
いう形で動いていることを示したい。
lI
u人間は万物の尺度である」というプロタゴラスの主張をみると,たんに「人間は...の尺 度である」のみが意味不明なのではないことにだれでも気づくであろう。「人間が万物の尺度
である」などという全称命題をどうして主張できるのか,われわれはまだ説明を受ける必要がある。
このことが152c8以下におけるソクラテスとテアイテトスの問題でもあったことは,直ち に明らかとなる。ソクラテスはまず,「するとカリスの神々にかけて,プロタゴラスは実は
まったき賢者であって,しかも先のことをかれは,われわれ多数の大衆に謎にしておいて,
弟子たちにはこっそりと「真理」を語ったのではないか」(152c8−10)のように言って,プロ
タゴラスのいわば「秘密の教説」を紹介し始める。すなわちホメロス以来の,パルメニデス を除くほとんどの知識人が,プロタゴラスにせよヘラクレイトスにせよ,流動変化こそがすべてを生み出し(d2−153b4),よいものであって(153b5−c4),たえざる運動変化が天体と世界 を維持するものである(c6−d5)という点で一致している。そしてこの秘密の教説によれば,実 はふっうに言うところの「有る」ことは「生成」「運動変化」に還元され,自体的なものは一
切なく,すべては互いの相関においてのみ「なる」のだ,というのである(153d8−154a2;156a2−157c3)。
この教説もしくは秘儀(156a3脚στhρtα)はプロタゴラスが秘かにもっているものとされて
いることにまず注意しよう。バーニェトの「ヘラクレイトス説」という呼称は不適切であり,6)また,かれの模式図のように,定義を支持するかぎりのテアイテトスが他の何らの前提
なしにこれに荷担しなければならない事情など,存在しない。むしろ,知覚・あらわれ的な 場面を離れても自体的なことがらが(たとえば思考されたり想起されたりして,或いはまた極端には,何らかの探究の,永遠の到達目標として)「有る」ならば,とうてい「人間は万物
の尺度である」と主張できなくなってしまうので,プロタゴラス自身がこの秘密の教説に荷
担せざるを得ないのだと思われる。
「秘密の教説」の主要部分を訳出し,ごく簡潔に論点をまとめ,解明されたプロタゴラス説
の一一応の完成を見届けることにする。.全体はそもそも動きであり,それ以外には何ものもない。しかし動きにも二つの種類
があって,それぞれが無数あるが,一方は作用し得るもの,他方は作用を受け得るもの である。そしてこれら相互の交わりとこすり合いから,数の面では無数の子孫が生じる が,それらは二様であり,一方は知覚されるもの,他方は知覚である。その知覚は,つ ねに知覚されるものとともに発現し,生み出される。そこで,知覚のほうだが,これはわれわれのもとでこのような名をもっている。つまり,視覚,聴覚,味覚,寒さの感覚,
暑さの感覚,それから快と苦,欲求と恐怖,さらにはほかの呼び名のものも。無名のも のは無数にあるが,また名をもつものもきわめて多い。一方知覚されるものの類は,こ れらのそれぞれに同族であり,多種多様の視覚には多種多様の色があり,聴覚には同様 に声がある。そして他の知覚にも他の知覚されるものが同族のものとして生じる。
(156a4−c3)
この話の趣旨は,これらすべてが,われわれの言うとおりに動いているが,その一方で それらの動きには,速さと遅さが内在している,ということにある。すなわち遅いもの は,自らのうちに,そして近づくものに対して,動きをもち,そのゆえにものを生み出
す。これに対して生み出されたものは,この事情から,より速い。なぜなら,それらは
移動しており,それらの動きは移動のうちにあるのが自然本来だから。それゆえ,眼と,
これと同類の他のものとが近づき,これらのいずれかが他のものの傍らに行ったとして も生まれないような,白さと,それと同じ生まれの知覚とを,生み出す。そのとき,眼 の側からは視覚が,そして色の産出に加わるものの側からは白さが,両者の中間で移動 している。それで眼は視覚で充満することになり,その場合に見える。ただし視覚に なったのではなく見る眼になったのである。一方そのとき色を眼とともに生みだしたも のは,白さでいっぱいになり,白さにはならずに白いものになる。それが木であろうが 石であろうが,この種類の色で結果的に色づくものがどんなものであろうが。そして他 のものの場合にも,硬いものであれ温かいものであれ,すべてにおいて,これと同じ方 式であると想定すべきである。それ自体とすれば,すでにあの時にわれわれが語ったよ うに,何ものもありはしないのである。そして互いに対する交わりにおいて,すべての ものが,そしてすべての種類のものが,動きから生じる。というのも,かれらの主張で は,これらのもののうちで作用をなすものも作用を受けるものも,それぞれ一つずつ何 ものかであると考えることは,確かなこと(παγtω⊆)ではないから。なぜなら,作用を受 けるものと一緒になる前に何か作用するものがあるということはなく,作用するものと 一緒になる前に作用を受けるものがあるわけでもない。そして或るものと一緒になって
作用するものが,他のものと遭遇すると作用を受けるものと判明するからである。
したがって,これらすべてのことから,初めにわれわれが語ったとおりに,何ものも それ自体としては一つのものではなく,つねに何かにとって・なるのである。そして
「ある」はあらゆるところから排除しなけれぼならない。ただし,われわれはこれまでに
もしばしば,習性と無学によってこの言葉を使用せざるを得なかった。しかし,賢者たちの言説によれば,それはそうすべきではない。また,「何か」「何かの」「わたしの」
「これ」「あれ」など,静止させる言葉に同意を与えるべきではなく,自然本来に即して,
「なる」「作られる」「滅びる」「変化する」と発語すべきである。それというのも,人が
何かを言論によって静止させるなら,そうする人は容易に論駁される(ε悦λεγKτoφだろ うから。そして,部分に即してもこのように語るべきであるが,それだけではなく,多くの集合体についても同様に語らなければならない。その集合体を人々は,「人間」「石」
それから各動物および各種のもののように定めている。(156c6−157c2)
これは「お話(μOθo⊆)」(156c3−4)の形で言われているが,趣旨は比較的明らかなのではなかろ
うか。二箇所で原語を引いた言葉(157a4「確かな」, b8「容易に論駁される」)は,それ自体
として・あるものに関してだれも確実なことは言えないであろうという,この理論の論者の 挑発的な態度を示している。そして,自体性および存在性格において異なる二種類の「存在 者」が識別されて「速いもの」と「遅いもの」と呼ばれている。当然,論者にとってもっとも手強い敵は,動きの鈍さのゆえに「ある」と発語したくなる「遅いもの」であろう。これ をいかに「動かしてしまう」かが腕の見せ所になる。ここから,お話のスタイルではなく議
論のスタイルで論点を提示できるように思われる。
まず,認識の確実性は知覚のみによる,と前提してみよう。
(1)知覚という出来事はそもそも一回的な一つの出来事に他ならず,その単一の事件が,事
の起こった場所一帯の一方の端に色などの「対象」があると思わせ,もう一方の端に視覚 などの知覚があると思わせる。しかし,色あっての視覚であり,視覚によって捉えられる ものとしての色なのだから,対象も知覚も,ともにお互いの関係性においてのみ「あり」(精確には,「生成し」),それ自体として,この関係性と独立に,「ある」わけではない,
と論じられる。(「速いもの」に関する議論)
(2)さらにここの秘密の教説の眼目として,その知覚の出来事に入りうるような,われわれ ならば「もとからある対象」「もとからある経験主体」と呼ぶであろうものもまた,実際に
は,そのような独立的な自体存在をもたずに「遅いもの」として関係的に「生成した」も のだと論じられている。すなわち,この議論によれば,知覚という原初的事件との関連でのみ,「見る眼」が生成したのであり,「白いもの」が生成したのである。
いま,かりに百歩譲って(1)の点を承認するとしよう。それでもわれわれは,ふつうには,
まず眼(と,さらにその前に,眼を部分としてもつ人)が「あり」,石や木が「あって」それ らがそれぞれ,見るもの(見る眼)になったり,白いもの(白い石)になったりする,と考え
るであろう。ここの理論によれば,それは転倒した考えで,何よりもまず初めに出来事とし ての知覚がある。人や石や木は,「集合体(dθρOLσμα)」(157b9)である。すなわち,この理論 によれば,眼は視覚の束であり,人は諸知覚の束であり,石や木は感覚される諸性質の束と 考えるべきであり,ゆえにそれ以前のものを語り得ないような原初的経験・作用としての知 覚の出来事においては,すべては生成したか,或いはそうでなければ,生成し始めたのであ る。この「生成」は性質の変化や場所の移動や量の増減といった,すでに物もしくは実体が あってそれについて語りうるような「なる」ことではない。もちろん,何かが初めに知覚以 前にあったのかもしれないが,ここでのポイントは,その何かにっいて,確実なことは言え ない,ということである。その「何か」に関することはすべて,想定上,知覚に基づかない ことになるからである。厳密にはそれは,まったく新たにものが誕生するような,アリスト テレス的な分類では「実体的」生成であることになる。ただしもちろん,この理論の論者は 実体を徹底的に否認するので,生成する「もの」はいわゆる実体ではなくて,同じ事件に由 来し,互いに対して相関的な関係項であるのにすぎない。一おおむね以上が,私見では,ここの理論の主張内容となる。
注意すべきはここの秘密の教説において,テアイテトスの知識=知覚説が前提されていて 活用されていると同時に,それはさしあたり明示的には「有」について,そして最終的には
「知」についての語りの余地が一切ない,秘教的な世界への,やがては使い捨てにされる水先
案内人のようにして,利用されている,ということである。それが前提されなければ,上の(1)も(2)もいずれも,そもそもの主張の適切性を失ってしまうことは明らかである。しかし
その一方では,この教説の結果として,知は有に関わるとすれば,われわれは知のない世界 にいることになり,逆に知識=知覚説がかりに生きるとすれば,われわれの知識と実在に関 わる,根本前提が誤っていることになる。このことがさらに何を意味するかを追跡すること は,それ自体として興味深い。しかしいまは,このようにして一応の完成を見たプロタゴラ ス説を前にして,プラトンが第一部の知識の議論において,なぜ定義そのものよりもプロタゴラスの哲学説のほうを重要視したのかという解釈問題に決着を付けることにする。
lll
oーニェトもマクダウェルも,或る意味では当然の前提から出発して解釈を始めたはずで ある。すなわち,この対話篇は知識に関するものである。かつ,テアイテトスは知識の定義 を提唱している。ゆえに他のテキスト上の主張はこの定義的言明のためのものに違いない。
この一見自然な推論が成り立たない,ということはなぜだろうか。
初めに問わなければならないことは,この作品において,プラトンが知識を「定義する」
ということで何をもくろんでいたか,ということである。この問題はさらに,なぜプラトン
は数々の積極的哲学説を含む中期対話篇を経たこの時期に,「何であるか」の問いと諸定義の
否認という初期の「実りのない」ソクラテス的対話に復帰したのか,という問題に連なる。そこでいま,議論の出発点として,初期ではソクラテスの対話相手の信念が相互に齪歯吾を来
たし,明言的に主張する定義的言明を破棄することになるような別の,より深層にある信念(群)を相手の中に発見することにソクラテスの腕の冴えがあった,ということを想い起こし
てみよう。この対話篇の対話相手は若い俊秀のテアイテトスである。かれの信念に注目しよう。そのときわれわれは,この数学の天才で哲学にも長じていたが早死にした仲間を,プラ トンが単に「吟味ぬきに」称えていたようには思えないことに気づく。テアイテトスははじ
め,知識とは何かというソクラテスの質問(145e9)に対して,かれの修得したものもそうで ないものも含めて,学問や技術の名前を列挙して答える(146c7−d2)。幾何学,天文学,音楽
術,靴作り術エトセトラ,エトセトラ。これに対するソクラテスの反応も,初期の読者にとって,すでに馴染みのものである。Lつのことを尋ねられて多くのことを与え,単純なも
のの代わりに多様なものを与えた」(d3−4)と言い,「靴作り術」も「大工仕事術」もいずれも
「.の知識」と説明されるので「知識がそのものとしていったい何であるか,知ろうともくろ
んで」問うた(e7−10)というわけである。
このような「例示の拒否」は,初期対話篇に頻出して7)ここで再現されたソクラテスの基
本的な手であるが,おそらく単なる再現ではない。なぜなら,勇敢さについて一般的定義を 求めること,敬慶について一般的定義を求めること,さらには徳についてでさえ,その一般 的定義を求めることは,定義される言葉である被定義項をこれとは別の定義項によって置き一
換え説明することとして理解されるが,そのような還元的定義が同じように「知識」の場合 に成り立っということは,少なくともおおいに説明を要することだと思われるからである。
事実,前節で「知識とは知覚である」との定義が,プロタゴラス説の解明において収奪され た挙げ句に使い捨て去られた経緯をふりかえるならば,主観主義的哲学に染まった者がこの ような還元的定義に魅力を覚えるであろうことは,むしろ明らかなことにみえる。知の客観
性,公共性は,心の諸能力諸状態の中では単純に「他に代え難いもの」ではないのだろうか。
どれかに「還元」してしまえば直ちに,そのことだけで,このわれわれの一つの公共世界と,
その世界との関係においてのみわれわれがもちうる個人としてのあらゆる意味が奪われてし まうのではないだろうか。これに関連して,テアイテトスという対話者は,なぜ一方で幾何 学等の学問知を知識の事例として承認しながら,他方で,直ちにそれらが知識の座を譲らざ るを得なくなるような「知識とは知覚である」という定義を語ったのかという,素朴ではあ
るがきわめてまっとうな解釈上の疑問が,むかしから口にされている。
私見ではプラトンは,このような事情をすべて承知していた。そしてあらゆることの問題 解決の糸口となる箇所を設定した。それがかれの,ソクラテス的産婆術に関わるコメントで ある。148e7−151d3という,例示の箇所と知識=知覚説の提出の箇所の間にくるこの箇所に
おいて対話者ソクラテスは,
(1)テアイテトスが知識に関して「陣痛」に悩んでおり,哲学的難問群,とくには「知識と は何か」との問いに,悩ましくも苦しんでいること
(2)ソクラテスは生めないが,産婆としてプロであるということ。すなわち,無知であって
哲学説を自分で出すことはできないが,相手の心から相手の深層にある哲学的見解を引き出してくることは,相手一一人でいるときには不可能である場合にも,できる,ということ
(3)ふつうの産婆と違うのは,生まれた子,つまり特定の哲学的見解が偽物である場合があ
り,これに対応して,ソクラテスはきちんと「始末」することができるということのおおむね三点を指摘する。ここからわれわれがすべきことは,文字通りに「孕んでしまっ
ている」テアイテトスのイメージをわずかの時間保持することである,とわたしは思う。
かれが生む子はかれの育ちとかれの品性とにふさわしい子ではないのかもしれない,とい うことがここで重要なことになる。通常の場合,「あの娘に限って」と信じられるような娘
が,こともあろうにやくざな男の毒牙にかかり「恋に溺れて」とんでもないことが起きても,
生む子は人間の子であって,その点では何ら問題はない。しかし,だれでも知っているとお り,思想のやくざには,より禍々しいものがいくつもある。そして,この場合に「溺れる」
ことは,直ちに自身の精神的生死に関わることが多い。前途有望とだれもが目する今般のテ アイテトスの事例もこれに近い。すなわちかれの知識=知覚説はテアイテトスが「孕んだ」
ものだが,由緒正しい教養と学問の伝統からもたらされたテアイテトス自身の知的遍歴から すると,明らかに傍系の,プロタゴラス流の「トレンドな」考えから「種」をもらったもの なのであろう。そしてかれがこの思想に夢中になって幾何学や天文学に関する「誹諦」に荷
担していることに(愚かにも)気がつかないとしても,それは怪しむに足りない。恋に溺れる
ということは,一・般的に,まさにそうしたことなのだから...。
このような事態に対話相手のテアイテトスが陥っていることが,この対話篇の原初的設定 であるように思われる。ここからは第一部の議論でプロタゴラス説が知識=知覚説に先んじ て実質的な検討の主対象になっていることも説明できる。一方で学問知の世界ですでに修練 を経て輝かしい実績を作っており,その点で「知識」に関して健全な主張を提出するための いわば第一の前提となる資格を満たしていながら,他方で「賢者」への憧れから,知恵と同
一視されるものとしての「知識」については((≠145d7−e6)プロタゴラスの教えに染まってお
り,一種の魂の分裂状況にあるテアイテトスを救い出すことが,初期作品におけるソクラテ スもそうであったように,ここでのソクラテスの第一の課題である。そしてこの課題のため に,プロタゴラス説のテアイテトス内部への潜入のしかたと寄生の実態を,いわば再現しな ければならないであろう。これが,私見では,プロタゴラス説が第一部の主たる検討対象であることの,一つの理由である。
第二の理由とわたしが考えるのは,前節までに見たかぎりでの,展開されたプロタゴラス 説は,少なくとも結果的に,それ自体としてソクラテスープラトン的な「知」に関わる語り に真っ向から,かっ同一平面上で,対立するものである,ということである。そのような語
りは,まさに一般的定義を要求する「例示の拒否」の議論において典型的にあらわれる。
一般的定義の要求は,「粘土」を典型例として行われる。粘土を「土と水を混ぜ合わせると
粘土ができる」のように説明して単純かつ分かりやすく「何であるか」に答えることができるのに,それをせずに「陶工の粘土」「炉作りの粘土」「煉瓦職人の粘土」のように例示を繰 り返すのは滑稽であろう。これと同様に,「何々の知識」と例示していくのではなく「知識と は何か」に一般性をもった答えを提出しなければならない,とソクラテスは論じる(147a1一 c6)。これに対してテアイテトスは,自分自身の幾何学における仕事を振り返り,今日であれ
ば「無理数とは何か」と言われるであろう問題に対して,自分たちが幾何学的表現による一
般解を与えたことを述べる(147c7−148b2)。このような一般性への指向は,さしあたり言葉の
意味の理解の問題に関わる態度として,定式化されよう。「それともきみは,人がそれの「何
であるか」を知らないものの名を理解すると考えるのだろうか」(147b2)とソクラテスは問
い,同意を得て,ここから「知識を知らない者が靴作りの知識を理解することもない」(b4−5)
という,例示の拒否のために十分な前提の同意を勝ちとっているからである。明らかにソク ラテスは,そして初期対話篇の対話者たちと同様ここのテアイテトスも,言葉もしくは名に よる同一措定(identification)という,われわれが日常的に行っている言語的な営みについて,
(1)われわれは世界のものごとに何らかの意味で「じかに」ふれていること
さらに
(2)そのふれ方を捉え返すことが,われわれにとっての学問知の出発点となる本質的定義の 探究であること
この二点を前提しているように思われる。
これに対して,前節で見た「秘密の教説」におけるプロタゴラスの立場は,この二点いず れについてもプラトニストと対立している。まず秘密の教説の一番の眼目は,有とそれにか かわる「はずの」指示・同一措定の営みが,厳密な言語において,幻想にすぎない,という
ことにあったことは明らかである。「ある」も,「何か」「何かの」「わたしの」「これ」「あ
れ」等の指示詞や代名詞など同一措定に欠かせない言語上の装置もすべて,「静止させる言 葉」(157b5,7)に他ならず,自然本来に即さないがゆえに厳密には排除されるべき表現である,というのである。そしてまた,プロタゴラスの本領としての「知恵」は,ものの本質の認識 ともおよそ学問的な知識とも別立てのものであり,善と有益性に関わるソフィスト流の世間 知であることになる(166a2−169d9,171d9−172b7,177c6−179dl)。
この対立は,もちろんただちにどちらが有利であるか,定めがたいものである。小論を閉
じるにあたり,次のいくつかの論点を提出しておき,残る問題は宿題ということにしたい。
1.プロタゴラス流の相対主義は,相対主義としての完成をみるというそのことのために,
「流動する知覚的な現象」の中で,このわたしにとってのこの赤,の類いのものにさえ指示も
同一措定もできない,という立場を採ることになった。赤いものとしての赤いものをまさに「それとして」指すことができないことになったからである。このことは,いまは詳説できな
いので推測というかたちで述べる他ないが,公共の知を明示的に排除したことの,一つの報 いであるように思われる。すなわち,いったん公共の知を排除したとき,この対象,この経 験主体をそれとして確保することは,できない。たとえば,同じわたしとしてこのワインを(健康時に)甘く感じ,(風邪を引いたときに)苦く感じるというとき,その「同じわたし」
について語ることでさえ,この立場ではできなくなる(158e5−160e5)。健康と病気の間みなら
ず,覚醒時の経験と夢の問,正気と狂気の間の区別もしくは差別も付けることができないというかたちで,「理論上の完成」をみることになるのである。単にわたしであるかぎりのわた
しは,わたしであることさえできずに,原理的な終点なしに時間的切片もしくは記述的断片 へと細分される。私的な指示はありえない,ということであろう。ここからは,言語の不可
能性(179dl−183b6)という明示的な反論も,さらには,このようにして確保された知覚の領 域は真理の領域と重ならず,したがって知識の領域とも重ならないとする最終反論(184b5一
186el2)も,すぐに手の届くところにある。いったん〈おおやけ〉を離れて〈わたし〉性の みの世界に行ってしまうならば,その世界における言語の成立は原理的に不可能であり,真 偽の区別も,それに伴って真理の領域も,世界のどこにも見あたらなくなってしまうのだと思われる。
2.このことは,知識の探究において,公共世界と,そのもとでの「わたし」の個人性という
こととを,互いを破棄しないかたちで保存しながら論じなければならない,ということを意 味するだろう。ここから,かりに知識の「定義」が問題であるにせよ,それを他のプリミティブな心的能力・状態への還元的説明として理解してはならない,ということが帰結する。
すなわち,知識は粘土とは,やはりおおいに異なるものだということである。粘土や勇敢さ を定義することは,知識の統制のもとで行われる。われわれの何らかの探究やその結果とし ての発見は,典型的に「知に基づく」活動なのであり,活動の結果である。まったく同じよ うにして知そのものを探究することは,自分の背中をこの肉眼で見ようとすることに似てい
るだろう。「できた」とすればそれはまがい物を握らされたということである。われわれの知
識定義は,もしそれが成功する見込みがあるのであれば,全体論的な説明となっていなけれ ばならない。知識,信念,欲求,十全な知覚,同定能力,説明能力,行為能力等は,どれか が事柄として先にあるものではなく,適切に設定された組ですべてがいわば同時的に解明される。この場合の「定義」は,そのための形であって,かりの道具にすぎない。
3.プラトンの知識¢πtστhμη)は,たとえば「伝聞による知識」を排除する(200d5−201c7)。
見た者にしか知られない事件は,見られなければならない。かつ,その件にとって適切な説 明能力をもっている場合にのみ知っているとされる。それはたとえば目撃であれば,視覚に 訴える力がある時であり,また,数学の定理の場合であればそれを実際に証明する能力があ る時である。現代のわれわれの使用する「知っている」では,もちろん伝聞による知識は知
識である。そして数学の定理にしても,「知っている」ためには必ずしも証明できなくともよ
い。何らかのかたちで「正当化Gusti且cation)」できれば,われわれは知っていると見なすので
ある。ここから,たとえばプラトンの「知識」は記述知と区別されるacquaintanceという特 殊な知(直接的に知性作用により「ふれること」)であるとか,われわれの「知識(know一 ledge)」ではなく「理解(understanding)」に相当するものである,とかの提案8)がなされてきた。直接的なふれることであるとすると,「知識」に対するソクラテス以来の定義的説明能力
の要求が宙に浮く。また,「理解」はわれわれの通常の使用では「説明」と対であり,その都
度の関心・欲求等に応じてきわめて融通無碍に程度を許す。しかしプラトンの「知識」は
「完全か不完全か」というきまったかたちで程度差を許容すると同時に,その一方でだれにお
いても,何に対しても「知っているか,いないかである」という厳しいそれ自体における選 別を迫る意味内容をもっている。しかも,かれの「知識」は少なくとも,われわれのいう「知っている」ことと或る密接な関わりをもっている。それは第一に知はわれわれの活動の文
句のない基礎である、ということであり,第二に,知っていることは個人的であってかつ共同体的である,という,そのことである。
解釈におけるわたしの提案は,かれの「知識」を,たとえば太郎を人として同一措定し,
3を数として同一措定するときに通常われわれが「人」を知っている,「数」を知っている,
と語るような意味で,同一措定に関わるような知としてかりに押さえる,というものである。
これは観察概念を表す語についてはじかの観察を,理論概念を表す語にっいては理論ないし
準一理論的理解を要求するように思えるからである。ただし,これについては,『テアイテト ス』第二部およびとくに第三部中の二つの知識定義(「真なる信念に(本質的要素の列挙能力と
しての)ロゴスが付け加わったもの」および「真なる信念に(他のものすべてとの識別ができ
る能力としての)ロゴスが付け加わったもの」)の検討箇所(206e4−208b10;208c7−210a9)を再 検討しなければならない。しかし対象を「そのものとして」同一措定するということが,わ れわれの日常の営みと,学問活動の発端とを結ぶものであり,かつ別の軸において,このわ たしという個人が,言語と思考において世界とじかにつながっていることの印となるもので あることは疑いない。この面で,プラトンの語りたかったことの全部とまではいかないにし てもかなりのことを,われわれの言葉で再考できるのではないかと思われる。なお付け加え ておくならば,そのような知識でさえ,差異性がそうであるのと同様に,根本的に多様であるということをこの作品の次に来る『ソピステス』257c7−d2でプラトン自身が認めている。
そして,同じ作品のより以前の箇所においてプラトンは,知識を得る,知られるようになる という「変化」を,そのことで事柄自体は変わらないはずだから言葉としてはいかにも苦し いのだがリアルな(世界の側の)変化として承認したいとかれは提案している(248e6−249d5)。
この二つの説明は,プラトンの「知識」をイデア的対象の単なる直接知とも,理解とも解釈
してはならないということを示唆する。
4.最後に,プロタゴラス説の「極私的体験」としての知覚はどうなるのか,それはプラトン 自身の哲学の中に位置を占めないのかという問題がある。真理の領域は別だという時のプラ
トンは,真理の属する共通者の領域とは別に,固有感覚的な知覚経験の領域を,プロタゴラ ス的な作用と被作用の単純なモデルから,魂込みの「経験的」モデルへと改鋳して,しかし
他の点ではあまり変更を加えずに設定している(184b5−186e12)。その一方でかれは,上にふ
れたように,目撃証言のみが知識のあらわれとなる事例によって,知覚的知識にコミットしている(200d5−201c7)。おそらく「私的」であるのは「情報」と今日ならば語るであろう9)レ
ベルで成立している,外界からの情報伝達であろう。これの存在と意義はプラトンも認める
ように思われる。ただしそれはそれ自体として経験ではない(「魂」のことがこれに加えて語 られなければならない)し,主観的な何かであるとも言えない。「私的」なのは関係が事実的
に各主体に「固有」であるという,その程度の意味にとどまる。それは隠されたという意味 で私秘的ではなく,科学的に探究されて何の差し支えもないものである。ここの上のレベルで正真正銘の知覚になるためには何が必要なのかを考えること,そして,ほんとうに「私的」
と呼びうる「あらわれ」が経験の成層のどこで捉えられるのかを考えることは,この時期の プラトンに始まり,アリストテレスを経て現在にまで至って続いている課題であろう。稿を 改めて検討したい。
*石を蹴りながら
注
1)John McDowell, P1α∫oτ舵αε 幽5,0xford l 973,6.g. p.121;M.F Burnyeat,7肋τん6α6 幽5 qプP1α o,
Indianapolis l990, PP.9−12.
2)Burnyeat, P.9.
3)McDowell, p,16, p. l l O, pp.120£;Burnyeat, pp. l l Off, p.272.
4)この点を中心に,この箇所について,わたしは The 7舵αε 8酪on Letters and Knowledge ,P加侃85 5 Vol.32(1987), No.2, pp.143−165, n.7において論じた。第一部でも第三部の「ソクラテスの夢」の 解釈においても,テキストにある単純と思われる主張をそのままクリア・カットな命題として立て,
基本的な論理的関係を問題にする手法には,一般的に問題が多すぎると考える。
5)この結論部で知覚と知識の関係が問題になっているということが,マクダウェルやバーニェトの解 釈の一つの動機であろうが,ここまでの解釈で結論部においてもプロタゴラス説の解明が引き続き 課題であることは明らかになったと信ずる。
なお,ε知α1の訳に「ある」でなく「有る」を宛てていることを不審に思う人もいることだろう。
わたしがこの訳語を好むのは,「存在する」が「_である」よりも訳として適切だという理由による ことではない。むしろ実際の議論では「冷たい(冷たく・ある)」のようにコブラとしての不完全用 法が主であることは明らかである。有と「有る」が適切であるのは,曲がりなりにも知識と事態の 成立ということへの荷担がなければ,この論脈でのテアイテトス説による解明がまったく意味をな
さなくなると思われるからである。
6)この点について,田坂さつき「「知識は感覚である」という定義をめぐって一プラトン『テアイテ トス』151d7−160d4の一解釈 」『湘南工科大学紀要』35巻1号(2001年)ll5−135頁,116頁およ び注5を参照。ただし田坂氏はバーニェトのすぐれている点(「ヘラクレイトス的」全面変化は,名 指される以前に,議論の上ではかなり早い時期から暗黙裏に前提されている,もしくは前提されざ るをえないと考えたこと)について,いささか冷淡にすぎるように思われる。
7)『エウテユプロン』6c−e,『ラケス』190e−192b,『メノン』72c−77a.
8)αM.E Burnyeat, Socrates and the Jury:Paradoxes in Plato s Distinction between Knowledge and True
Belief ,Arl5∫o 81嬬30clの5配〃16〃36伽り2%伽耀54(1980), PP.173−191.(邦訳:天野正幸訳「ソクラテスと陪審員たち」[井上忠/山本魏編訳『ギリシア哲学の最前線1』東京大学出版会1986年],
146−173頁)。
9)「情報」については,G. Evans,τ舵悔r 6 85(ゾRψ欄c6,0xford 1982, pp.121−142など参照。