はじめに(註1)
1:洞窟という図像定式の問題
カミッロは、「記憶の劇場」の第3階層を統べる図像定式を「洞窟Antro」と呼んでいる。これも また、第2階層の図像定式である「饗宴Convivio」と同様に、ホメロース『オデュセイア』に由来す るものである。
ホメロースによれば、イタケの国に「ポルキュスの入り江」と呼ばれる港があった。「ここでは2 つの岬が海の中に突き出て、海に向かって険しく切り立ち、入り江の両側ではなだらかに傾斜して いる…〔中略〕…入り江の奥の行き着いたところに、葉の長い1本のオリーヴの樹があり、その樹 の近くにはほのかに暗く心地よい洞窟があり、これはネイアスと呼ばれるニンフたちの聖域である。
洞窟の中には、石の混酒器や把手2つの 甕 がいくつもあり、蜜蜂がそこに巣食って蜜を貯える。ま
かめ
た石で作った巨大な 機 もあり、ニンフらはここで、紫色に染めなした目にあでやかな布を織る。ま
はた
た涸れることなき水も沸いている。洞窟の入口は2つあり、1つは北に向かってこれは人間の通路 であり、もう1つは南に向かって神のみが用いる。人はここから入ることはなく、これは神々の通 路である」(『オデュセイア』(XIII, 93-112)(註2)。
カミッロは、このホメロースによる記述を、以下のように解釈している。「それら機織りおよび蜜 作りは、混合され元素化された諸事物〔le cose miste et elementate〕を意味しており、我々は、7 つの洞窟それぞれが、自分が属する天体の本性に従って、自らに帰属する混合された事物および諸 元素を保持するようになることを望む」。すなわち、「洞窟」は、四大元素およびそれに関連する様 々な物質の生成過程に対応する図像定式である。
それでは、「記憶の劇場」全体における「洞窟」の位置および意義を確認していこう。「記憶の劇 場」は、超天界および天界にある宇宙の根本的原理としての7つのセフィロート(伝統的にはセ フィロートの数は10であるが、最も高みにある3つのセフィロートは劇場には含まれない)―それ らは7つの円柱によって表され、鑑賞者に最も近い場所に並べられる―を中心として、超天界、天 界、地上世界および人間文化が位階的に、そして拡散的に生成していく過程を構造化する。いわば、
カミッロはこの著作において、神による宇宙の生成と秩序的配置の過程を模倣しているのである。
足 達 薫
ジュリオ・カミッロ『劇場のイデア』 :翻訳と註釈 (3)
【翻 訳】
前回までの訳出部分で、天界の塊(あるいは天球)およびそれに属する7天体(7つの「(天体の)
扉Porta」)、および地上世界に属しながらもっとも天界に近い場所にある諸原理と、地上の物質世
界の基礎的素材としての第一物質(7つの「饗宴」)とが、すでに生み出されて いる。それらに続く
「洞窟」の階層には、そのようなより高次の諸原理によって「混合され元素化された」地上世界の素 材としての諸元素が、そしてそれに関連する諸事物が含まれることになるのである。
各「洞窟」に含まれる諸イメージの記述は、これまでの2階層に比べて、より曖昧かつ不規則的で ある。それぞれの「洞窟」の中には、四大元素およびそれらに関連する諸物質を示すイメージが無 造作に配置される。それらの数は、個々の扉ごとにまちまちである。さらに、1つの扉の中でのイ メージ同士の位置関係は一切記述されていない。これに比べると、「扉」や「饗宴」の階層では、個 々の扉にはある程度の統一性および規則性が保たれていたといってよい。「扉」の記述を見ると、超 天界の事物(セフィロートと天使)、天界の事物(天体とその属性)、寓話(関連する古代神話のモ チーフ)という象徴的な3要素が、整然と規則的に配置されているように見える(なお、劇場のなか でもっとも重要な場所として設定され、本来は「饗宴」にこそふさわしい図像―諸存在の幅ないし 広がり、パン、3人のパルカ、そして黄金の枝をともなう樹木―を与えられた《太陽》を除く)。そ して続く「饗宴」の扉では、古代神話に由来する2つないし1つのイメージと、それに関連する諸事 物を含む「カノーネ」ないし書物とが対にされて規則的に並べられている(本来は「扉」に置かれる べきティフェレト、太陽、そして神アポロンの図像を与えられた《太陽》を除く)。これら2階層に 比べると、「洞窟」の中に置かれる諸イメージは著しく不規則であり、読者に混沌とした印象を与え る。逆に、「扉」や「饗宴」は、相対的に明瞭なものとして感じられる。
このように比較してみると、カミッロが、「洞窟」という図像定式を―そして同様に「扉」や「饗 宴」を― 非常に効果的に用いていることがわかる。実際の洞窟を考えてみよう。洞窟は全体とし ては不定形であり、内部には暗闇が広がり、その中では事物を明瞭に見ることは出来ない。この
「洞窟」の階層についての記述を読む読者は、その図像定式に触発され、ほの暗い穴の奥底に奇妙 なイメージの群れが、戯れ、蠢いているような印象を得るだろう。
このような混沌とした印象は、地上の諸元素の生成過程― 第一物質から諸元素および事物が分 化し、生成していく過程―に対応している。カミッロはこの効果に意識的だったはずである。こ うした意味で、「洞窟」という図像定式の導入は、地上の物質的世界の生成過程の隠喩として成功し ていると考えてよい。これと同様に、超天界および天界に属する至高にして不動の原理を示す「扉」
や、より高次の諸原理の影響を地上世界にもたらす媒介的原理を示す「饗宴」の図像定式は、それぞ れにふさわしい構築性および明瞭性をかもし出しているのである。
2:「メルクリウスから衣服を差し出されるディアナ」の図像
「洞窟」の階層で語られている個々のイメージそれ自体もまた、しばしば、きわめて珍奇なもので ある。さらに、属する図像的伝統が見失われているものさえ幾つかある(このことは他の階層につ
いての記述でも同様だが)。『劇場のイデア』を理解するためには――既に強調したように、この著 作は、美術史的方法論に基づいて考察されるべき価値と可能性とを有している―、そのような特殊 なイメージに注目し、それが属する図像的伝統を解明することが必須となるだろう。そのための準 備として、ここでは、《月》の「洞窟」の中に置かれた「メルクリウスから衣服を差し出されるディ アナ」という特殊なイメージに注目したい。
カミッロは以下のように記述している。「メルクリウスから衣服を差し出されるディアナが第3 のイメージである。ギリシャの諸寓話の中で、以下のように読むことができる。すなわちユピテル は、ディアナが裸で歩いているのを見たが、彼女は純潔であるべきなので、それが彼には好ましく なかった。そして、メルクリウスに彼女のために一着の衣服を作るように命じた。しかし、どんな にたくさん彼女のために作ろうとも、そのどれもが彼女には快適に着ることが出来なかった」。カ ミッロはこのイメージの意味を以下のように説明している。「この逸話は我々に、変化とその種類 を、すなわち生成、腐敗、増加、減少、風化、場所と運動とに基づく変化を意味する象徴をもたら すだろう」。
「ギリシャの諸寓話の中で」と言明されているにもかかわらず、実際には「メルクリウスから衣服 を差し出されるディアナ」という図像の文献的典拠はいまなお発見されていない。しかし、そうだ からといって、この図像はカミッロによる擬古典的な創作であると断定することもまたできない。
なぜなら、カミッロの他にこの図像を知っていた人間が、16世紀イタリアに少なくとも1人は存在 したからである。ピエリオ・ヴァレリアーノPierio Valeriano(1477-1558頃)の著作『ヒエログリ フ 集、あ る い は エ ジ プ ト 人 た ち の 神 聖 な 文 字、お よ び そ の 他 の 人 種 の 文 字 に つ い て の 註 釈 Hyeroglifici, sive de sacris Aegyptiorum, aliarumque gentium litteris commentarij』(初版はバー ゼル、1556年)に付された、チェリオ・アウグスト・クリオーネCelio Augusto Curioneという人 物による「補遺」(1567年のバーゼル版から加えられた)がそれである (註3)。
クリオーネはここで、ディアナとメルクリウスによって構成される「ヒエログリフ」(ホラポロン 以来の伝統に基づき、寓意的意味を担うイメージとして理解されていた)について、以下のように 記述している。「ディアナ。諸事物の変容。メルクリウスが一着の衣服を差し出しているこの処女 はディアナであり、彼女は増大と縮小とによって生み出される変化を意味する。それゆえ、ギリ シャの詩人たちはこのように歌った。ユピテルは、ディアナが裸で、すなわち処女にはあまりふさ わしくないように見える格好で外を歩いているのを見て、メルクリウスに命じて彼女のための衣服 を作らせた。そこでメルクリウスは沢山の衣服を作ったが、しかし、そのいずれをもってしても、
彼女に似合わせ、快適に着させることが出来なかった。なぜなら、彼女は、彼が一着を準備してい るあいだ、あらゆる時間ごとに姿形を変え、背丈を伸ばしたり縮めたりして、それを着ることが出 来ないものとしたからである。かくして、この図は、諸事物の、意志の、霊魂の、あるいは心の増 大および減少という意味、およびヒエログリフである」(註4)。
カミッロとほぼ同様の記述だが、クリオーネによる記述の傍らには、木版画挿絵(図1)が置かれ
ている点は興味深い。なぜなら、カミッロもまたひょっとし てこのようなイメージを念頭に置いていたのかもしれない からである。それゆえ、考察の本道からは若干それることに なるが、記述の分析に進む前にこの挿絵についての基本的な 観察を行うことにしよう。
この挿絵の初出は1567年のバーゼル版である(版画家の名 前は不明であるが、少なくともその様式は、1556年の初版
『ヒエログリフ集』本編における諸挿絵のそれと一致してい る)。木版画に特有の抑揚のある曲線が、人物像たちを、そ して風景を形作っている。前景に2人の人物像―向かって 左にディアナ、右にメルクリウス―がいる。背景には、田 園と街なみとが概略的に描かれ、その上の空のニュアンスは、
ほぼ平行な直線の連なりによって表現されている。ディア
ナはコントラポストの姿勢を示し、矢筒を吊るす紐以外の衣装を身に着けていない。狩りの女神で もある彼女は右手には弓矢を持っている。左手をメルクリウスに差し出して、彼から衣服を受け取 ろうとしている。メルクリウスは、彼の典型的な持物である羽のついたサンダルと兜とを身に着け ている。
周知のとおり、既に1500〜1510年代から、ジョルジョーネやティツィアーノ(図2および図3)の ようなヴェネツィアの画家たちが官能的な古典的女性裸体像を描き始めており、そうした女性像は 同時代の版画メディアにも浸透していった (註5)。『ヒエログリフ集』「補遺」の挿絵に描かれたディ 図1 チェリオ・アウグスト・クリオーネ「ピエリオ・
ヴァレリアーノの『ヒエログリフ集』への補遺」(ヴェネ ツィア、1602年)第1書における「諸事物の変化として のディアナとメルクリウス」のための木版画挿絵
(Ieroglifici..., In Venetia, Appresso Gio. Antonio, e Giacomo de’Franceschi, MDCII, p.904)
図2 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《ディアナとアク タイオーン》1556-1559年、エジンバラ、スコットランド 国立美術館
(Filippo Pedrocco, Titian, Rizzoli, New York 2001,
Cat.205, p.249.)
図3 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 《ディアナとアクタイオーン》部分
アナ――そして同書の挿絵に登場するその他の裸体像たち――もまた、それらの1人である。しか し、こうした木版画挿絵における女性裸体像の姿は、同時代の絵画や彫刻、あるいは単体の版画に おける姉妹たちに比べて、幾分プリミティヴなものに見えるかもしれない。この様式は、小さな木 版画挿絵(およそ 5 cm四方)――現存する『ヒエログリフ集』の16世紀版本のほとんどがフォリオ版 であり、比較的大きいといってよいものであるにせよ(註6)――という媒体の制約から必然的に導か れるものである (註7)。
15〜16世紀の印刷本における木版画挿絵が同時代の視覚文化において果たしえた役割を、そのよ うな様式史的常識からのみ判断することは危険である。カルロ・ギンズブルグがその画期的な研究 の中で指摘したように(註8)、比較的廉価であったがゆえに広く普及した15〜16世紀の印刷本挿絵は、
同時代およびそれ以前の「美術」から一方的に影響されたのではない。時には、それら挿絵のほう が(そして翻訳書の場合には、訳文における原文解釈が)、ティツィアーノのような美術家の神話主 題画のための基本的な図像定式を形成することがありえた。美術家たちは、現代の美術史的視点か らすれば意外と思われる媒体―この場合は印刷本におけるプリミティヴな様式の木版画挿絵―か らポジティヴな霊感を引き出すことができたのである。そうだとすれば、それら挿絵もまた、絵画 や彫刻、あるいは単体の版画と同等の―時にはそれら以上の―自立性を有する一領域として考察 されなければならないだろう。
さて、カミッロの記述とクリオーネのそれとの関係について考察しよう。先に見たように、両者 の内容は基本的に一致している。さらに、古代の神話に典拠を求めているにも関わらず、具体的な 情報を示さない点(カミッロによれば「ギリシャの諸寓話の中で」、クリオーネによれば「ギリシャ の詩人たちは」)も共通している。それらの初出年代がなんらかの手がかりを与えてくれるかもし れない。つまり、『劇場のイデア』の印刷本の初版が1550年であり、一方、クリオーネによる『ヒエ ログリフ集』「補遺」の初版が1567年である。したがって、クリオーネがカミッロから孫引きしたと 考えられるかもしれないのである。
しかし、両者の記述を比較するならば、そのように単純な関係にあるとは考えにくい。カミッロ は、メルクリウスが作る服をディアナがことごとく寄せつけなかった理由を述べていない。これに 対して、クリオーネは、「なぜなら、彼女は、彼が一着を準備しているあいだに、あらゆる時間ごと に姿形を変え、背丈を伸ばしたり縮めたりして、それを着ることが出来ないものとしたからである」
と具体的に明記している。このように具体的な一節が、カミッロの記述における「無」から演繹さ れたとは考えられない。クリアーノはカミッロ以外の―そしておそらくカミッロもまた基づいて いた―なんらかの解釈的伝統に基づいていたと考えるのが自然ではないだろうか。
その伝統の正体はいまだ謎に包まれていると言わざるをえない。『劇場のイデア』に関する優れ た註釈版をそれぞれ編集したビアリー・ウェンネカーとリーナ・ボルゾーニも、この謎を前にして 沈黙を余儀なくされている (註9)。
しかし、カミッロが残した手稿『卜占への反論Adversaria rerum divinarum』の一節は、この問
題を考えるための重要なヒントとなるように思われる。この手稿でカミッロは錬金術的世界観に基 づいて、占星術の諸原理を省察する。そして、ある一節で、彼はこのように主張している。「…(前 略)…もし、〔足達註:錬金術の過程を実現に導く「石」の純白色が〕大いに変化するのを見たら、次 のことを思い出すがよい。すなわち、太陽が石の父であるのと同様に、月が石の母であるというこ とを。諸君も周知の通り、メルクリウスはいかなる方法をもってしてもディアナに衣服を着せるこ とが出来ないのだ。なぜなら、彼女の変化しやすさが、彼に彼女の尺度を測ることをさせなかった からである」(註10)。
この記述では、「メルクリウスから衣服を差し出される(そしてそれをことごとく拒否する)ディ アナ」という図像ないし物語が、錬金術の過程「作業Opus」において女性原理をつかさどる月の隠 喩として想起されているのである。そうだとすれば、カミッロの『劇場のイデア』における記述、お よびクリオーネの『ヒエログリフ集』における記述(および挿絵)もまた、そのような錬金術的思考 に基づいていたと推測することは出来ないだろうか。
実際、錬金術の象徴主義的伝統では、
月と同一視されたディアナが重要な役 割を担うことがある。時には、そうし た錬金術の世界観が、伝統的な図像を 改変させることさえあった。その一例 として、ヨハン・ダニエル・ミュリウス Johann Daniel Mylius〔1585〜1628 以降?〕による錬金術書『医化学論集 Opus Medico-Chymicum』(フランク フルト、1618年)に付された、版画家、
マトイス・メリアンMattäus Merian
〔1593〜1650〕によるエングレーヴィ ング(図4)―第3書「哲学のバシリ カ」の扉頁である―を検討しよう (註11)。
錬金術的宇宙観を集約するこの壮大な寓意的風景の主題はマクロコスモスとミクロコスモスの照 応関係である。鑑賞者は、エングレーヴィングならではの硬質かつ微細な―偏執的な、といっても よいかもしれない―印刻線の集積を、飽かず楽しむことが出来るだろう。画面の向かって左半分 は太陽によって照らされる明るい昼の世界、つまり男性原理の世界であり、右半分は月によってお ぼろげに照らされる夜の世界、つまり女性原理の世界である。それらの境界線である大地の中央部 分には、両原理に通じた錬金術師が、両手にそれぞれ斧を持ち、2つの胴体を持つライオンを前に して立っている。彼の全身には無数の星形が散りばめられている。錬金術の究極の目的である「作 業」は、男性原理と女性原理の結合ないし結婚coniunctioによって成立するのであり、この版画は 図4 マトイス・メリアン《哲学のバシリカ》、ヨハン・ダニエ ル・ミュリウス『医化学論集』(フランクフルト、1618 年)、第 3 書扉頁のためのエングレーヴィング(スタニスラス・クロソ ウスキー・ド・ローラ『錬金術図像大全』磯田富夫・松本夏樹 訳、平凡社、1988 年、p.162、図版 119 より)
その過程を図解している。錬金術師 は、その過程において自ら両性具有 と化し、身体を変容させ、神的存在 との一体化を経験するのである。
この興味深い図像全体については、
別のところで詳しく論じる必要があ るだろうが、ここで特に注目したい のは、夜の世界の細部、すなわち画 面の向かって右下の大地に立つ2人 物像である(図5)。向かって左の 裸体の女性は、鎖によって右手を縛 られ、天と固く結びつけられている。
その右手で葡萄の房を持っている。右の乳房からは星の光が放出されている。下腹部と左の乳房で は三日月型が輝いている。左手で持っているものもまた月であり、こちらは三日月と満月双方の特 徴を兼ね備えている。この月には顔が描かれており、月の満ち欠けがここで擬人化されていること が分かる。
さて、左側の裸体の女性が何者であるかについては即断せず、続いて右側の人物像を見てみよう。
この人物もまた月を支えている。この人物の頭は鹿の頭だが、その下の身体は人間の男性の衣服に 包まれている。彼は、オウィディウスが語る狩人、アクタイオーンと見なされるだろう。オウィ ディウス(『変身物語』III、138-253)によれば、狩人アクタイオーンは、水浴していた処女神ディ アナの裸体を覗き見てしまった罰として―ティツィアーノ作品(図2)が描き出すのは、その発覚 の瞬間である―鹿に変身させられ、ついには自分の猟犬たちによって噛み殺されるのである。そ うだとすれば、向かって左側に立つ裸体の女性もまたおそらくはディアナに関連していることが見 て取れる。以上の観察から、この女性像は女性原理それ自体の隠喩であり、さらにその姿は月の女 神であるディアナに見立てられているのだと考えられる。
さて、アクタイオーンは既に半ば鹿に変身しているが、その姿はオウィディウスの物語とは決し て一致しない。彼は微笑をたたえ(その優しげな目と口元に注目されたい)、右手で月を支え、ディ アナとしての女性原理の活動に積極的に協力している。その角では星々がまたたいている。彼が左 手で持っているのは、クローバーの葉であろうか。アクタイオーンと星、あるいはクローバーの葉
(キリスト教図像では三位一体の象徴として用いられることがある)との関連性は判然としない。
しかし、描かれたその姿から、少なくともその基本的な役割と意味はあきらかに推測されるだろう。
すなわち、彼アクタイオーンは、錬金術の「作業」に参加し、その過程の中で神的存在としての女性 原理であるディアナに出くわし、その結果自らの身体をも変容させながら、「作業」の成就をもたら す錬金術師の隠喩である。
図5 マトイス・メリアン《哲学のバシリカ》部分
実際、ディアナによって鹿に変身させられたアクタイオーンは、神秘主義者たちによって、神的 存在と合体する神秘的儀礼の通過者の隠喩としてしばしば用いられた。16世紀のカバラ主義者たち は、そうした神的なものとの邂逅においては、当初は「狩る者」であったはずの儀礼を通過する人間 が、「狩られる者」へと変容すると主張した (註12)。このカバラの奥義は、16世紀を通じて、プラトン 主義や錬金術、ヘルメス主義といった思考形態と結びつきながら流布していくことになる。例えば、
16世紀神秘主義の王者とも呼ばれるべきジョルダーノ・ブルーノGiordano Brunoの著作『英雄的 狂気Eroici furori』(パリ、1585年)の中の一節は、メリアンの版画の世界によく対応しているよう に思われる。「誰にとっても、太陽を、すなわち宇宙的なるアポロンおよびその究極の光を見ること は、その至高にして卓越した性質ゆえに不可能に見える。しかし、その影を、彼のディアナを、世 界を、宇宙を、諸事物の中にある自然を、素材の薄暗さの中に含まれた光を、すなわち暗闇の中で 輝くものとしての光を見ることはできる。それゆえ、この乾いた森の中において前述の幾つかの道 およびその他の道を駆け巡る多くの者たちのうち、ディアナの泉に出くわす者はごく小数に限られ るのである。多くの者たちが森に棲むあまり賢明でない獣たちを狩ることで満足してしまっている。
そして大部分は、風に向かって網を投げたとしても、蝿たちで手を一杯にするだけであることを理 解しえないでいる。私は言いたい、アクタイオーンたちは限りなく少数である、と。彼らは、運命 によって裸のディアナを見つめることを許され、それと引き換えにして、瞬く間に自然の身体の美 しい配列を剥ぎ取られ、神聖なる善性および美という2重の輝きから発するそれら2つの光の存在 に気づき鹿に変身するのである。つまり、彼らはもはや狩人ではなく、狩られる者となるのだ。こ の狩りの究極にして最終的な目的は、あの、あっという間に逃げ去ってしまう野生の獲物を獲得す るに到ることであるがゆえに、それに到るためには、追う者は獲物に、狩人は狩られる者にならな ければならない。これ以外の全ての種類の狩りでは個別の諸事物が獲得されるにすぎないため、狩 人は自らのもとに他の諸事物を、いわば自らの知性の口の中に吸い込むことによって、引き寄せる ことになる。しかし、この神聖にして宇宙的なる狩りにおいては、さらに、含まれること、吸収さ れること、そして結合されることが必要だということが、このようにして理解されるだろう」(註13)。 したがって、メリオンの版画におけるディアナとアクタイオーンの基本的意味は、以下のように 解釈されるだろう。女性原理の隠喩としてのディアナは、神秘の探求者としての錬金術師の隠喩で あるアクタイオーンと協力しながら、月の満ち欠け(女性原理が地上世界に与える影響)を支え、そ の作用を促している。かくして女性原理が夜の地上世界を支配する。ここでは、ディアナとアクタ イオーンの古代神話が、錬金術的世界観によって改変され、伝統的な図像から逸脱する表現を与え られているのである。
これまでの考察を振り返ることにしよう。まず、カミッロは「メルクリウスから衣服を差し出さ れるディアナ」という図像を、諸事物の変容それ自体の隠喩として記述していた。このような解釈 はカミッロのみならず、クリオーネのような博識な図像学者にも共有されていた。そしてカミッロ は『卜占への反論』の中では、この図像を錬金術の過程の隠喩として用いることが出来ると考えて
いた。このような錬金術的解釈は、例えばメリオンの版画やブルーノの記述において示されている ような錬金術的、あるいは神秘主義的な象徴主義 ―「作業」のディアナとアクタイオーンの神話へ の見立て―に類似している。
以上の諸点を総合すると、「メルクリウスから衣服を差し出されるディアナ」という謎めいた図 像は、特定の文献的典拠ではなく、口頭伝承に多くを頼る錬金術の象徴主義的伝統に基づいていた 可能性があるように思われるのである。もちろん、直接的な典拠の探求を放棄してはならない。し かし、その場合でも少なくとも、カミッロやクリオーネの典拠に関する記述を額面どおりに受け 取って、探求領域を古代ギリシャのみに限定してはならないとはいえるだろう。錬金術のように、
リアルタイムで生き、変化しつづけていた思想的・文化的伝統もまた充分に考慮されなければなら ないのである。「洞窟」の階層でカミッロが記述した「ディアナ」図像に関するこれまでの考察は、
そう示唆している。
なお、「洞窟」の階層に関する記述の分量の多さは、他の各章に比べて際立っている。そのため、
今回は前半部分(総論、《月》、《水星》、《金星》を訳出した。
註
註1 足達薫「ジュリオ・カミッロ『劇場のイデア』:翻訳と註釈(1)」、弘前大学人文学部編『人文社会論叢(人文 科学篇)』、第7号、2002年、pp.185-205;「ジュリオ・カミッロ『劇場のイデア』:翻訳と註釈(2)」、弘前大 学人文学部編『人文社会論叢(人文科学篇)』、第8号、2002年、pp.57-76。
註2 ホメロス『オデュセイア(上下)』(松平千秋訳)、岩波文庫、1998(1994)年、下、p.15. なお、文意をよりあ きらかにするために、訳文は日本語訳に基づきながら、幾つかの個所を改変したものである。
註3 ヴァレリアーノの著作が16世紀初期のヴェネツィアにおける視覚文化に与えたインパクトは、サルヴァ トーレ・セッティスによって強調された。Salvatore Settis, La《Tempesta》interpretata. Giorgione, i committenti, il soggetto, Giulio Einaudi editore, Torino, 1978, pp.95ff.(サルヴァトーレ・セッティス『絵画の 発明:ジョルジョーネ「嵐」解読』(小佐野重利監訳・石井元章・足達薫訳)、晶文社、2002年、pp.161-2.)
註4 私は、1602年ヴェネツィアで出版されたイタリア語訳から引用した。Ieroglifici, overo Commentari delle occulte significationi de gli Egittij, & d’altre Nationi, composti per l’eccellente Signor Pierio Valeriano da Bolzano di Bellune. Accresciuti di due Libri dal Sig. Celio Augustino(sic) Curione. Et hora da varij, & eccellenti Leterati in questa nostra lingua tradotti; & da noi con bellissime Figure illustrati: Opera degna, & vtilissima ad ogni sorte di persone virtuose. Con due Indici, vno de nomi de gli Authori, & l'altro delle cose trattate, & notabili in questi sessanta libri. In Venetia, Appresso Gio. Antonio, e Giacomo de’ Franceschi, MDCII, Di Celio Augusto Curione, De i Trattati de Gieroglifici, all’Eccellentissimo Dottor di Legge, M.Basilio Amerbacchio, libro primo, p.904, DIANA.
La MVTAZIONE DELLE COSE. QVella Vergine, a cui Mercurio porge vna veste è Diana, laquale significa quella mutazione delle cose che si fa per l’accrescimento, & per lo scemamento. Imperoche finsero i Poeti Greci che Gioue hauendo veduto che Diana se ne andaua ignuda, ilche par che poco a vna Vergine conuenga, comandò a Mercurio, che le facesse vna veste. Onde hauendo Mercurio molte vesti fatte, non puote però farne alcuna, che le stesse bene, & commodamente la vestisse, percioche ella mentre che egli ne preparaua vna si cangiaua, & mutaua ogni hora forma & statura, talche non se la poteua vestire. E’ adunque questa figura una significatione, & un gieroglifico dell’accrescimento,
& dello scemamento, ouero della mutazione delle cose, ò del consiglio, o dell’animo, & della mente.
ま た、図 1 も 同 版 本 か ら 引 用 し た。版 本 の 題 名(「我 々 に よ っ て 美 し い 図 版 で 飾 ら れ たda noi con bellissime Figure illustrati」)に反して、挿絵自体は1567年の初版を複製したものである。
註5 ティツィアーノ・ヴェチェッリオ《ディアナとアクタイオン》1556−1559年、エジンバラ、スコットランド 国 立 美 術 館(図 2 お よ び 3)。来 歴 に つ い て は 以 下 の カ タ ロ グ を 参 照 せ よ。Filippo Pedrocco, Titian, Rizzoli, New York 2001, Cat.205, pp.248-9.
註6 ヴ ァ レ リ ア ー ノ『ヒ エ ロ グ リ フ 集』の16世 紀 版 本 に つ い て は 以 下 の 基 本 研 究 を 参 照 の こ と。Paolo Pellegrini, Pierio Valeriano e la tipografia del Cinquecento. Nascita, storia e bibliografia delle opere di un umanista, Forum, Udine 2002, esp.pp.157-163.
註7 例えばフランスで出版されたオウィディウス『変身物語』印刷本の挿絵を見てみよう。同時代の絵画その他 のジャンルに匹敵するほどの古典主義的様式が達成されたのは、少なくとも1693年のフランス語訳版前後 で あ る。以 下 の 基 本 研 究 に 載 せ ら れ た 諸 図 版 を 参 照 の こ と。R. Chavallier, Recherches sur des traductions françaises des Metamorphoses d’Ovide illustrées et publiées en France a la fin du XVe siècle et au XVIe siècle, Jean Touzot, Paris 1989, pl.LXXXIV.
註8 カルロ・ギンズブルグ「ティツィアーノ、オウィディウス、そして十六世紀のエロティック絵画の規範」、
『神話・寓意・徴候』(竹山博英訳)、せりか書房、1988年、pp.141-75.
註9 Lu Beery Wenneker, An Examination of L’Idea del Theatro of Giulio Camillo, including an Annotated Traslation, with Special Attention to his Influence on Emblem Literature and Iconography, PhD.Diss., University of Pittsburgh, 1970, pp.122-123; Giulio Camillo, Idea del theatro, a cura di Lina Bolzoni, Sellerio editore, Palermo 1991, p.191, n.9.
註10 Giulio Camillo, Adversaria rerum divinarum, c.26v, cit. in Bolzoni, in ed.cit., p.191, n.9, ...et se vedete tanto variarvi, ricordativi che si come il Sole fu suo padre, così, la Luna è sua madre. Voi ben sapete che Mercurio non trova mai modo di vestir Diana perché la sua variabilità facea che esso
non potea prender misura. ボルゾーニはこの重要な一節を発見して引用しながら、カミッロとクリオー
ネが同一の錬金術の象徴主義に基づいて記述した可能性を指摘していない。
註11 Johann Daniel Mylius, Opus Medico-Chymicum, Francofurte 1618, In praefationem tertiam.
BASILICAE PHILOSOPHICA(図版の引用は、スタニスラス・クロソウスキー・ド・ローラ『錬金術図
像大全』磯田富夫・松本夏樹訳、平凡社、1988年、p.162、図版119より)。さらに以下を参照のこと。
Alexander Roob, The Hermetic Museum: Alchemy and Mysticism, Taschen, Köln-Lisboa-London-New York-Paris-Tokyo 1997, p.463; Gustav Friedrich Hartlaub, Mérian als Illustrator , in Zeitschrift des deutschen Vereins für Kunstwissenschaft, 1939, pp.29-50; Maurizio Fagiolo dell’Arco, Il Parmigianino.
Un saggio sull'ermetismo nel Cinquecento, Bulzoni, Roma 1970, fig.55.
註12カバラの奥義としての「変容」については以下を参照のこと。Ute Davitt-Asmus, La trasformazione dell’amante nell’amato. Parmigianinos Fresken in der Rocca Sanvitale , in Mitteilungen des kunsthistorisches Institutes in Florenz, XXXI.Band, 1987, Heft.1, pp.3-58.
註13 Giordano Bruno, Eroici furori, Introduzione di Michele Ciliberto, Testo e note a cura di Simonetta Bassi, Laterza, Roma-Bari 1995, Parte seconda, Dialogo secondo, p.127; cf. Parte prima, Dialogo
quarto, pp.54-5, 64-5. 紙幅の都合上、原文を引用しなかった。なお、カミッロ自身、「パーシパエー」の階
層における「土星」の項目のなかに、神秘主義的儀礼の通過者の隠喩としての「ディアナに接吻されるエン デュミオーン」という図像を挙げている(Ed.cit., pp.158-60)。これは、カバラの奥義の一つとしての「接吻 による死」に基づいている。この奥義については、前回の訳稿、p.60、註9に挙げた参考文献を参照のこと。
洞 窟
第3の階層は、それぞれの扉ごとに1つの洞窟を描き出すことになるだろう。それを我々はホメ ロースの洞窟と呼び、プラトンが『国家』の中で記述する洞窟と区別することにしよう1。さて、ホ メロースは、イタケの港を見下ろすところにある洞窟について歌っている。その中では、幾人かの ニンフたちが真紅の布を織っている。そして蜜蜂たちが彼らの蜜を産出するために出入りしている と歌っている2。それら機織りおよび蜜作りは、混合され元素化された諸事物〔le cose miste et elementate〕を意味しており、我々は、7つの洞窟それぞれが、自分が属する天体の本性に従って、
自らに帰属する混合された事物および諸元素を保持するようになることを望む。混合され、元素化 された事物についてのなんらかの情報を得ることが出来るように、私は次のように述べる。すなわ ち、モーセによって示された区分に従うならば、エロヒム〔Eloin〕はある日、天と大地とを作るた めに第一物質〔la materia prima〕を創造した3。しかし超天界を流れる小川〔ruscelli〕からのす べての影響力はその〔第一〕物質にとって適切なものではなかったため、2日目には、ラキア
〔Rachia〕すなわち諸天界の塊を形作ったのだが、これ〔のすべて〕は青空のことではない。なぜ なら、既に我々が述べたことによれば、それ〔青空〕は第8層〔天球:spera〕のみだからである。
〔エロヒムは〕超天界と地上世界との間に今しがた述べた広い塊〔天界の塊〕を置いたが、それは超 天界の小川を流れる濡れていない水とこちらの世界の濡れた水との間に区分を設けるためである。
それら超天界の水については、このように記されている。「天の上にある水よ、主を賛美せよ」4。 前述の天界の幅広い塊がかくして挿入され、それゆえ、上にある〔超天界の〕水の影響が〔第一〕物 質の力にとって適切である分より多くは下方へ降り注ぐことがなくなるのである。これらの水につ いては注意しなければならないことがあり、ナツィアンツのグレゴリウスは欺かれてしまい、それ らの水が透明な天界そのものであると理解してしまった5。それは虚しくも幾人かの者たちによっ て青空の上にあると語られてきたものであるが、聖なる書物および世俗の書物のいずれの中にも、
その理由も根拠も記されていないのである。3日目には、モーセが語るところによれば、エロヒム は天界の下のすべての水、つまり発芽の美徳〔le virtù germinative〕すべてが一箇所に凝縮するよ うに命じ、またさらに乾いた大地を出現させた。その目的は、今しがた述べたとおり集積せられた 発芽の美徳によってそれ〔乾いた大地〕を肥沃にすることだった。この事実について、〔モーセは〕
こう述べた。「地は草を産出し、そして(いうなれば)種を持つ果樹を産出せよ」6。4日目には、星 々〔luminari〕が作られて諸天界の塊の中に配置された。月は第1の層〔天球〕に、太陽が第4の 層〔天球〕に置かれ、それらを通じて影から光を、すなわち、まだ形成されていない事物から既に形 を与えられた事物を区別することができるようになった。5日目にはすべての動物の中への生命の 伝達について語られるが、それは以下のような意味である。つまり、水、すなわち発生の諸美徳が 動物たちの多様性を産出するのであるから、水棲の動物を、空を飛ぶ動物や大地を這う動物と同じ ように、しかしそれら上に棲む動物たちとは異なるものとして産出する。6日目には〔エロヒムは〕
人間を産出し、そして7日目には休息した。かくして、我々は、神は第一物質の後に新しい物質を 創造したのではなく、第一物質を素材としてすべての事物を形成したのだと理解するのであり、そ れらの事物を我々は混合され元素化された事物と呼ぶのである。そして、それらの事物を我々は7 本の円柱に対応する第3の階層における洞窟の扉のもとに見出すことになるが、人間はその例外で ある。人間は他から分離して形成され、すべての混合され元素化された事物の 主 にされたがゆえに、
あるじ
後に見るように、〔人間は〕固有の階層を持つことを我々は望むのである。
《月》
月の洞窟の扉のもとには、かくして、我々は5つのイメージを、すなわち、ネプトゥーヌス、ダ フネー、メルクリウスから衣服を差し出されるディアナ、アウゲイアースの家畜小屋、そして雲の 間のユーノーを見出すだろう。なんら驚くべきことではないのだが、ネプトゥーヌスは饗宴の階層 のもとにもいたし、メルクリウスのサンダル〔の階層〕や、プロメテウス〔の階層〕のもとでも再び 見出されはずである。こうしたことはさらに他のイメージにおいても、またこれ以外の他の天体に おいてもやはり生じるだろう。なぜならば、ホメロースもまた述べているように、オデュセウスは 天の神々の間にいるヘラクレスと地獄にいるヘラクレスを目撃したのであり7、このことが彼に とって否定されないことであるとすれば、我々にとっても否定されてはならないからである。これ らのことを踏まえて我々は、同一の事物について様々に異なるイメージを使用することによって記 憶を妨げることがないように、同一のイメージが異なる扉のもとに見出されるようにするのである。
プロテウスは、突如として不意に発生する形、自然の主体〔suggetto〕および事物を意味するだろ う。
さて、ネプトゥーヌスは饗宴〔の階層〕のもとでは最も単純な水の元素を意味するが、洞窟〔の階 層〕のもとでは既に混合された水の元素を意味するだろう。なぜなら、アナクサゴラスが長々と証 明して主張したように、この〔地上世界〕では我々は混合されていないかくも純粋な〔水の〕元素を 見出すことは出来ないからである8。さて、このネプトゥーヌスのイメージのもとには一冊の書物 が含まれるだろう。そこには、段による分割によって〔per tagli〕9、類における水〔l’acqua in genere〕および種における水〔l’acqua in specie〕がそれぞれ区別して配列されるだろう。そして、
類における水は全体と諸部分とに分割されるだろう。全体とは、言うなれば、水それ自体のみのこ とである。諸部分とは雫のようなものである。そこにはさらに、水の質および量も含まれるだろう。
質とは、真水と塩水、動かない真水および流れる真水、およびその他の現象のようなものである。
そしてこれに加えて、深部の水や川岸の水、そしてその他の水に属する場所、さらに水棲動物であ る。このネプトゥーヌスのもとにはまだ人間が入り込んでいない。なぜなら、それ〔人間〕は動物 たちのうちでも最後に創造されたからである。しかし、メルクリウスのサンダル〔の階層〕のもと にネプトゥーヌスを見出すときには、それら〔メルクリウスのサンダル〕は人間が、自然に基づき、
そして技芸の埒外において彼の眼前に創造されたそれぞれの事物に対して行いうる操作を意味して
いるため、彼〔ネプトゥーヌス〕はそのカノーネ〔canone〕10の中に水に関連する人間の諸操作、お よび自然の諸操作を含むことを我々は望むのである。このことは、饗宴〔の階層についての記述〕
でも述べたとおりである11。
そしてプロメテウス〔の階層〕のもとでは〔ネプトゥーヌスは〕水を支配する諸技芸〔le arti sopra le acque〕を我々に示すだろう12。
月桂樹に変身するダフネーは森の象徴になるだろう。そしてここには、かつてテオフラストス13 やその他の著述家たちが樹木について〔de plantis〕と題して書き記した事柄が、その結果、すなわ ち〔樹木によって生み出される〕影とともに含まれるだろう。
しかし、メルクリウスのサンダル〔の階層〕のもとでは、ダフネーは、折ること、運ぶことのよう な、木に対する自然の諸操作を意味するだろう。そして、プロメテウス〔の階層〕のもとでは、庭園 および木に対するすべての技芸を含意するだろう。
ダフネーは、実際のところ、すなわち森であり、月すなわち森の女神ディアナの支配下に置かれ る。なぜなら、彼女は(すでに述べたように)湿度〔humidità〕の女王であり14、湿度なしにはいか なる植物も生長しないからである。これについて、ウェルギリウスは、『農耕詩』第4歌の中でこの ように歌っている。
同時に万物の父なるオーケアヌス、100の森、
100の川の守護者たるニンフの姉妹たちにも祈りを捧げた15。
メルクリウスから衣服を差し出されるディアナが第3のイメージである。ギリシャの諸寓話の中 で、以下のように読むことができる。すなわちユピテルは、ディアナが裸で歩いているのを見たが、
彼女は純潔であるべきなので、それが彼には好ましくなかった。そして、メルクリウスに彼女のた めに一着の衣服を作るように命じた。しかし、どんなにたくさん彼女のために作ろうとも、そのど れもが彼女には快適に着ることが出来なかった16。この逸話は我々に、変化とその種類を、すなわ ち生成、腐敗、増加、減少、風化、場所および運動によって生じる変化を意味する象徴をもたらす だろう。そして、アリストテレスによって唱えられたすべての〔変化の〕種が17、それぞれ区分され、
段による分割によって示される。
この〔ディアナの〕イメージは、パーシパエー〔の階層〕のもとでは、操作による、あるいは身体 の変形による人間の変化を意味するだろう。
そして、メルクリウスのサンダル〔の階層〕のもとでは〔ディアナは〕事物を動かすこと、あるい は変化させること、受け取ること、配列すること、即座にあるいは迅速に行われる操作を意味する だろう。しかし、プロメテウス〔の階層〕のもとでは12の月々およびその諸部分を含意するだろう。
アウゲイアースの家畜小屋は、ギリシャ人たちによってそう呼ばれていたものである18。アウゲ イアースはこの上なく豊かな財産と諸領地を持つ王であったが、飼っていた獣たちが多大に増えて
しまったので、彼の国土を糞尿で満たし、土地の肥沃さを腐らせてしまったのである。さて、この イメージのもとに一冊の書物を置くことにしよう。そこには、世界の諸事物の汚さ、カビ、腐敗
〔fracidumi〕、卑しさ〔la viltà〕、不完全さ、そして同じように愉快ではない諸事物が含まれるだろ う。
これと同じ〔アウゲイアースの家畜小屋の〕イメージはパーシパエー〔の階層〕のもとでは、人間 の身体の汚さ、そして耳、鼻、爪、目といった部分のそれのような汚物、汗、唾液、吐瀉物、経血、
尿などを含意するだろう。
しかし、メルクリウスのサンダル〔の階層〕のもとでは〔アウゲイアースの家畜小屋は〕汚れた操 作、すなわち汚すこと、染みをつけることなどを意味するだろう。
そしてこれらの〔アウゲイアースの〕家畜小屋は月の支配下に置かれる。なぜなら、そこには腐 敗した湿度以外の汚れが一切ないからである。
雲の間のユーノー。ユーノーは空気を意味し、そしてそれを覆い隠す雲は、我々に、自然の中に 隠された事物〔という意味〕、および逍遥学派からは知りうるもの〔scibili〕と呼ばれている事物、つ まりいまだ知られてはいない事物という意味をもたらすだろう。そしてさらに短い時間のことをも 意味するだろう。そしてこれらの事物は月の支配下に置かれる。なぜなら、我々はそれほど短時間 で姿を隠してしまう天体を他に持たないからである19。
この〔雲の間のユーノーの〕イメージは、パーシパエー〔の階層〕のもとでは、人間が自分自身の ために行いうる自らの隠蔽を意味するだろう。
しかし〔雲の間のユーノーは〕メルクリウスのサンダル〔の階層〕のもとでは、人間による事物な いし他の者の隠蔽を意味するだろう。
《水星》
水星のもとには6つのイメージがあるだろう。金の羊毛、原子、ピラミッド、解かれていないゴ ルディオスの結び目および解かれたそれ、そして雲によって作られたユーノーである。
金の羊毛20(もっとも、それは神秘的哲学においては主なる神がその子孫たちの中の少数にのみ 与えることを望む至高の贈物という意味を有している。そして〔金の羊毛は〕あのようにして行わ れた誘拐〔per così fatto rapto〕21、すなわち、英雄たちの集会、最初の船22、イアソンが風もない のに川に落としてしまった世界にただひとつのサンダルの喪失〔という一連の出来事〕にとって重 要な意味を持つものでもある。ここから偶然にも着想を得たのが金羊毛騎士団〔l’ordine del
Tosone〕である23。また、これ〔イアソンの神話〕は、新しい王子に対してペルシャ人たちによって、
暴君となることがないよう、最初に教えられなければならない事柄だったゾロアスターの魔術と一 致している)は、我々によってこの黄金の羊皮がその神秘の高みから我々の必要性の低みへと引き 下ろされるならば、重量の判断、ないし触覚の判断に属するすべての対象、例えば、重いおよび軽 い、ざらざらした、まろやかな、硬い、柔らかい、そしてこれらに類似する対象のイメージとして
役立つだろう24。これらの事物は、しかしながら、人間の埒外にあるということは理解されなけれ ばならない25。
これと同じ〔金の羊毛の〕イメージは、パーシパエー〔の階層〕のもとでは、人間の身体における 同様の〔重いと軽い、ざらざらした、まろやかな、硬い、柔らかい〕諸事物を意味するだろう。
そして〔金の羊毛は〕メルクリウスのサンダル〔の階層〕のもとでは、硬くする、まろやかにする、
ざらざらにするなど、技芸を用いずに行う操作を意味するだろう。
そしてこのような意味をともなうこのイメージは、水星の支配下に置かれる。なぜなら、重量の 判断を主に行う部分である手が、水星の事物である双子座に属するものだからである26。
原子は我々にとって、諸事物におけるすべての分割された量〔tutta la quantità discreta delle cose〕を意味するだろう。
そして〔原子は〕パーシパエー〔の階層〕のもとでは、例えば何者か 〔alcuno〕のように、人間た ちにおける分割された量を意味するだろう〔傍点は訳者による〕。
しかし〔原子は〕メルクリウスのサンダル〔の階層〕のもとでは、人間によって技芸を用いずに分 割された量を、例えば、連続した事物をバラバラにすること、分断すること、分散させることを意 味するだろう。
そしてこの主題〔原子の分割〕は水星によって統べられる科学であるところの算術に属するもの であるから、彼〔水星〕の支配下にこの〔原子の分割の〕イメージは置かれる。
ピラミッドは諸事物における連続した量を意味する。
〔ピラミッドは〕パーシパエー〔の階層〕のもとでは、大きい、小さい、中くらい、のように、人 間におけるそれ〔連続した量〕である。
〔ピラミッドは〕メルクリウスのサンダル〔の階層〕のもとでは、高くすること、低くすること、太 らせること、細くすることのような、技芸を用いない操作を意味する。
これら2つの量〔分割された量と連続した量〕のうち、一方は算術に属し、もう一方は幾何学に属 している。それらはいずれも三叉の矢をふるうヘラクレスに帰属しており、プロメテウス〔の階層〕
のもとではそちらのイメージの中に含まれるだろう。
解かれていないゴルディオスの結び目は、アレクサンドロス〔大王〕に対し解かれるべき問題と してもたらされたが、彼は我慢できずにそれを切断した27。これにより、紐あるいは帯のような、解 かれていない〔implicatca〕連続した量〔という意味〕が含意されるだろう。
そして〔解かれていないゴルディオスの結び目は〕メルクリウスのサンダル〔の階層〕のもとでは、
諸事物をもつれさせることを意味するだろう。
解かれたこの〔ゴルディオスの〕結び目は、解かれ、明らかにされた事物を意味するだろう。
そして〔解かれたゴルディオスの結び目は〕メルクリウスのサンダル〔の階層〕のもとでは、もつ れた事物を解くこと〔を意味する〕。
雲によって作られたユーノーは寓話から引き出されたものである。それによると、ユーノーはイ
クシオンから姦通のため追いまわされ、彼のもとに彼女に似せて作られた雲の身体を出現させたが、
それと彼は褥を共にしたのである28。さて、この悪戯はそのような作られたものによってこの男に 対して行われたのであるがゆえに、この人物像のもとには、見えはするが真実ではない諸事物が含 まれるだろう。
〔雲によって作られたユーノーは〕パーシパエー〔の階層〕のもとでは、模倣者の狡猾で詐欺的な 本性を意味するだろう。
〔雲によって作られたユーノーは〕メルクリウスのサンダル〔の階層〕のもとでは、偽装すること、
および欺くこと〔を意味する〕。
そしてこの〔雲によって作られたユーノーの〕イメージは水星に従う。なぜなら水星は諸悪の創 案者〔l’autor delle malitie〕だからである。
《金星》
金星の洞窟〔の階層〕のもとには5つのイメージが、すなわちケルベロス、香草の壺を頭にのせる 娘、アウゲイアースの家畜小屋を清めるヘラクレス、ナルキッソス、そして岩の下のタンタロスで ある。
ケルベロスは3つの頭とともに描かれるが、これは、食べること、飲むこと、眠ることという3 つの自然の必然性を意味するためである。これらは人間が思弁することを多大に妨げるがゆえに、
ウェルギリウスはこのように歌っている。すなわち、アエネイアースは、巫女の忠告に従って、高 みにある諸事物についての瞑想へと到達しようと望み、それ〔ケルベロス〕に団子を投げ与え、すぐ に通りすぎるのである29。これは、いかに我々がそれら3つの必然性を満たさなければならないと しても、もし瞑想の時間を持ちたいならば、それらを満たす時間を最低限にするべきだろう、とい う意味である。このイメージは、かくして、洞窟〔の階層〕のもとでは、餓え、渇き、そして眠気に 属する諸事物、食物、飲物、さらに眠気に誘う諸事物を含むだろう。そしてこの像は金星の支配下 に置かれるが、それは〔それがもたらす〕快楽ゆえである。
〔ケルベロスは〕パーシパエー〔の階層〕のもとでは、餓え、渇き、眠気、そしてそれらの諸結果 を意味するだろう。
〔ケルベロスは〕メルクリウスのサンダル〔の階層〕のもとでは、食べること、飲むこと、眠ること、
そしてそれらの結果として生じる自然の諸操作〔を意味する〕。
さらに〔ケルベロスは〕プロメテウス〔の階層〕のもとでは、料理、美味なる食宴、そして音楽や 歌のように健やかに眠りへと誘う悦びを意味するだろう。
香草の壺を頭にのせる娘は、かつてローマで発見されたものであり30、洞窟〔の階層〕ではすべて の匂いを意味する。そしてそれがウェヌスの壺であるがゆえに31、金星の支配下に置かれる。
〔香草の壺を頭にのせる娘は〕メルクリウスのサンダル〔の階層〕のもとでは、匂いを嗅ぐこと、
匂いを発することのように、技芸の埒外にあり、なおかつ匂いに対する我々の諸操作を意味する。