◎特別寄稿
孫文と日本関係研究方法論
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目《
辛惇 孫文は中国の近代歴史と共に歩み︑この歴史を創造した
政治家であり︑その思想の形成と革命運動の発展は近代中
国歴史の変遷過程そのものを示しているのである︒
孫文は︑その共和思想の形成において主に欧米の影響を
受けており︑アメリカ合衆国のような共和国を建設しよう
とした︒彼の三民主義はフランス革命時代の自由・平等・
博愛のスローガンの影響を受けており︑それを中国化した
ものであった︒思想史的認識論の視角からいえば︑欧米列
強は孫文の共和革命に対し親近感を感じ︑自国のような新
国家建設を目指す孫文を政治的に積極的に支持・支援すべ
きであったが︑歴史事実はこれとまったく逆であった︒孫
文は前後五年間余り欧米に滞在し革命に対する支援を訴え
たが︑カントリとホーマ・リi等限られた欧米人の個人的
協力しか得られなかった︒
孫文は三十余年間の革命生涯においてその三分の一に当
たる十余年間日本に滞在していたが︑その共和思想の形成
において日本から受けた影響は極めて少なく︑明治維新に
よって欧米文化を摂取し急激に近代化を促進した客観的結
果が彼の革命信念と意志を固め︑その革命運動を鼓舞した
に過ぎなかったし︑彼の共和国の理想と日本の立憲君主制
は政治的に対立していた︒しかし︑このような孫文と日本
孫文 と日本関係研究 方法論
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の関係(以下︑﹁孫日関係﹂と略称)は︑欧米列強とは逆
に非常に密接であった︒孫文は日本を革命運動の基地とし︑
日本に期待し︑その支援を要望した︒日本は一時的であり
ながらも時には彼の革命運動を支持・支援した︒孫文の革
命運動の主要なメンバーも留日学生であり︑貴賓として正
式に訪問した国も日本であり︑国の首脳らと面会・会談し
た国も日本であった︒孫文はまた日本の民間人や様々な大
陸浪人から支持・支援を受けたのであり︑これは政治・思
想史の常識をはるかに超えたものである︒このような矛盾
した現象及び日本と欧米列強との逆現象はなぜ起こるので
あろうか︒
孫文の革命運動の時代︑中国は日本と欧米諸国の半植民
地であった︒中国の門戸を開放して中国に対する侵略を開
始し︑中国において最大の植民地権益を持っていた国はイ
ギリスであった︒しかし日清戦争或いは日露戦争後︑日本
がイギリスに交代して中国侵略の先鋒になり︑中国の最大
の敵国に転換し始めた︒中国はまずこの最大の侵略国にな
りつつある日本と戦うべきであり︑このため中国の社会潮
流も反日的であった︒しかし中国民主革命の先駆である孫
文は︑この社会潮流とは逆に︑日本に期待し︑日本の支援
の下で中国国内における政敵を打倒して共和革命の目的を
達成しようとした︒これは帝国主義列強に反対し︑不平等
条約を廃止して自立した独立国家を建設しようとする孫文 の革命運動の目的と矛盾するものであるが︑このような矛
盾した現象はなぜ起こるのであろうか︒
孫日関係において見られる上述のような矛盾した現象
は︑既に歴史的事実として客観的に存在するものである︒
このような歴史的現象をどう解釈し評価するかは︑当面の
歴史家の任務である︒しかし孫文自身もこの矛盾した自分
の行動に対し明確な解釈をしていない︒このような情況で
その真実を解明するのも容易なことではない︒
過去の孫日関係研究において︑意識的であれ無意識的で
あれ︑各自が一定の研究方法論を駆使してその関係の本質
を究明し評価しているが︑これによって同一の孫日関係の
歴史的・客観的事実に対する研究の視座が異なり︑見解が
対立して論争が起こるのである︒孫日関係研究において個
別的問題(例えば満洲租借問題︑中日盟約︑小池張造宛書
簡︑大隈重信宛書簡の真偽等)を除き︑一般的歴史事実そ
のものに対しては分岐と論争がないが︑その原因或いはそ
の性格と評価の問題になると︑研究方法論の相違とそれに
よる視座の相違によって見解が分かれるのである︒同一の
孫日関係の歴史的・客観的事実について統一した共通の見
解を追求し︑その真実を解明して孫日関係の未来の歴史的
な姿を再現するためには︑まず孫日関係研究の方法論を再
検討する必要があると思う︒
本論文は具体的歴史事実に基づき孫日関係の研究方法論
を再検討し︑対立と矛盾にあふれた孫日関係の問題点を再
究明することにする︒
孫文の対日認識
孫日関係研究の第一の課題は︑孫文の対日認識と日本に
対する言論を検討することである︒
認識は︑客観的存在の意識的反映である︒孫文(一八六
六ー一九二五)は日本からいえば︑明治と大正時代に生き
た歴史人物であり︑その政治活動は明治後期から大正に至
る時代になされた︒この時代の日本の客観的存在が︑孫文
の観察と思考を通じ対日認識として形成されたのである︒
この対日認識の原点は明治維新であり︑維新に対する認識
によって孫文と日本が結ばれ始めたのである︒孫文が明治
維新と日本について言及した最初の一文は︑一八九四年六
月直隷総督兼北洋大臣﹁李鴻章への上書﹂であった︒この
上書で孫文は︑﹁試みに日本一国を観るに︑西人との通商
で我におくれ︑西方にならうことで我におくれながら︑そ
の維新の政治から日いくばくもなく今日の成功大いにみる
ム べきものがある﹂と語り︑維新後の日本を高く評価した︒
その後も維新のことに触れ︑﹁日本の維新は中国革命の第
一歩であり︑中国革命は日本維新の第二歩である︒中国革
ム 命と日本の維新とは︑実際同一意義のものである﹂と述べ た︒明治維新は両義的な性格を有する変革であり︑対内的
には資本主義近代化の道を歩み︑日本の社会発展において
進歩的役割を果たしたが︑対外的には富国強兵のスローガ
ンを掲げ軍国主義の道を歩み︑朝鮮と中国を侵略し始めた︒
維新後の日本は社会的進歩と対外的反動が共存した両義的
社会であったため︑その客観的存在の反映としての孫文の
対日認識も自然に両義的であった︒孫文は一面においては
維新とその後の日本を賛美し︑その社会発展を仰ぎながら
日本に学ぼうとし︑一面においてはその対外的侵略を指
摘・批判した︒これは矛盾した現象であった︒
しかし過去の孫日関係研究においては︑このような矛盾
した両義的関係を主に︑対外侵略つまり中国に対する侵略
に照らし︑日本の中国侵略に対し明確な︑系統的な認識が
あったか否かを問い︑これによって孫日関係を究明しよう
としたが︑これは孫文の対日像の表部分ではあるものの︑
その全体像ではない︒中国侵略をめぐる孫文の対日像は︑
孫文の両義的対日像の一部分であり︑孤立したものではな
く︑対日全体像の一部分としてその影響を受けながら存在
するのであるから︑孫文の日本に対する期待と日本の中国
侵略に対する認識との関係を論ずる時に︑日本の近代文明
を吸収しようとすることと日本の努力に依拠しようとする
ことは本質的に異なる問題であるから︑この両者を区別す
べきである︒
孫文 と日本 関係研究方法論 X63
日本の社会は絶え間なく変化・発展しているために︑孫
文の日本に対する認識も無限である︒日本は︑他の国と同
様に︑その歴史・社会・政治・経済・教育・文化・軍事・
外交等様々な面があり︑小さな国でありながらも広い国で
ある︒このような日本を全面的に︑系統的に認識すること
は︑日本語が通じない孫文としては不可能なことであり︑
孫文の対日認識が根本的に転換したとする一九一九年以後
もこうであった︒
日本の中国侵略に対する認識もそうであった︒一八七四
年日本の台湾出兵より始まる中国侵略から︑日清・義和
団・日露・膠洲湾占拠とあいつぐ侵略とその侵略政策の決
定・執行過程︑及び侵略と国内政治︑経済と世論との関係
等︑侵略をめぐる様々な問題に対し深い研究と認識を持つ
のも不可能なことである︒ために孫文はこのような問題に
触れず︑日本の中国侵略に対する認識も系統的でなく︑全
面的でないのも事実である︒この意味から言って︑日本の
中国侵略に対する孫文の認識は感性的であったといえるか
も知れない︒しかし人間の認識は︑その認識論からいえば︑
感性的認識から理性的認識に発展すべきである︒感性的認
識は事物と現象に対する外部の感覚であり︑この感覚を通
じて︑その内部の矛盾した運動とその運動法則及びその周
辺世界との内在的関係等を理解することによって理性的認
識に到達するのであるが︑理性的認識はまた一つの概念と して現れるのである︒このような認識論からいえば︑日本
が中国を侵略する国であるとの認識は︑一つの理性的概念
であり︑この意味からいえば︑孫文の対日認識も理性的認
識に到達し︑その侵略的本質に対して理性的認識があった
といえる︒
日本が中国に対し侵略し︑日本が侵略国家であるか否か
の根本問題において︑孫文の認識は明確であった︒孫文は
終始明確に︑日本が中国を侵略して中国の領土を占拠・分
割し︑中国に脅威を与えている事実を暴いていた︒一八九
四年十一月︑孫文がホノルルで最初に建てた革命組織興中
会は︑日本の中国侵略に対する認識があったための直接的
産物であった︒孫文は興中会の章程で﹁方今強隣環列し︑
虎視眈々としてわが中華の豊富な鉱産物や豊かな物産に垂
誕するや久し︒蚕食鯨呑すでに踵を接して到る︒分割の憂
バヨ い実に目前にあり﹂と指摘した︒これは日清戦争による日
本の中国侵略と分割を暴いたものであり︑孫文が日本の侵
略に対する認識があったために革命の道を歩み始めたこと
を示している︒その後一九〇三年九月に発表した﹁支那保
全分割合論﹂においても︑日本の福建と漸江一帯に対する
ムる 侵略を暴き︑日露戦争の時にはフランスと連合して日本に
抵抗する意志を表明した︒一九一〇年日本が朝鮮を併合し
た後︑孫文の対日警戒心は一層高まり︑一九=年二月三
日宮崎酒天宛の書簡で︑﹁貴国の政策は恐らく既に変化し︑