十七世紀におけるイスパニアの経済的衰微
その他のタイトル Economic Decline of Spain in the 17th Century
著者 宮下 孝吉
雑誌名 關西大學商學論集
巻 14
号 4
ページ 295‑314
発行年 1969‑10‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/00021204
(295) 25
十七世紀における
イ ス パ ニ ア の 経 済 的 衰 微
宮 下 孝 吉
I
イスパニアの経済的衰微の問題は, この問題が十七世紀の判定者によって 最初に提出されたときから現在にいたるまで,最も熱心な諸論議を起した。
イスパニアや外国の著作者たち諸グループがその研究に没頭し, しばしばむ き出しの先入観を以て研究された。アメリカ人の歴史家ハミルトンはこのこ とを繰返して指摘している。かくして, ドイツの記者たちは崩壊の大きさを 誇張している。彼らはドイツ人を一部分の祖先とするカール五世という人物 を対照的に讃美しようとしている。イクリア人も同様に誇張を示している。
というのほ彼らはドイツ人とは異なって,彼ら自身の国の没落について誰れ かに非難を浴びせようと欲している。すなわち,この没落はイスパニアのイ タリア支配と偶然に一致し,かつ関連しているからである。フランスやイス バニアの著作家たちはブルボン家の経済政策を激賞しようとしてあの衰微な いし崩壊を誇張している。最後に各国の自由主義者や新教徒たちは,人種上 の少数者たちの宗教審問や追放に非難を投げている。
しかしながら,これらの誇張は十七世紀におけるイスパニアの牧畜,農耕,
工業の衰微を指示するきわめて豊富な証拠が偶然に存在していることをわれ われに忘れさせるべきものではない。 「土壌の乾燥,森林伐採,~穫不足,
国外移出,たびたびの追放,死手譲渡,慈善施与,聖職者の発展普及,浮浪 人階級,労働に対する軽蔑,貴族の称号を獲得しようとする熱狂,家族世襲 財産制度,物価の騰貴,賃銀の上昇,租税,たびたびの戦争,国王の寵臣お
26 ( 2 9 6 )
十七世紀におけるイスパニアの経済的衰微(宮下)よび国王自身の弱体」ということがこの国の悲惨な経済情勢を描くためにく りかえして用いられている。ではあるがこれらの頭廃の諸原因はあまりに多 すぎて,そのうちでヨリ強い理由がないことは疑いない。すなわち十七世紀 の一般的な経済危機のなかには,イスパニアの場合では,政治上の無能力,
生産上の不能率,社会的な分裂が集中していた。この危機の起源は
1589
年に おけるフィリッボニ世の死にいたるまでは明瞭にはならなかったけれども,遠く古い時代に遡っていた。大ザッパにいって,カスティリアとアラゴンと の合併
( 1 4 7 9
年)から,ボルトガル合併( 1 5 8 0
年)までの1
世紀間にイスパニア が政治的優位を達成したのだが,フィリッポニ世の死( 1 5 8 9
年)からカロロ二 世の死( 1 7 0 0
年)まで1
世紀間にこの国は第二流国家に低下した。I I
人口の停滞と減少については,十六世紀の末年代の人口増減の状況が一応 判るけれども,そのようなイスパニア全体の人口増減についての史料はない。
例えば,カクロニアの場合には全世紀中に人口調査は行なわれなかった。こ のような状況のもとでは,著作家たちによって相異なる数字が示されるのは 不思議ではない。イスパニアの人口は十七世紀を通じて
8 0 0
万を少しばかり 距たり,十七世紀を通じて停滞したと見る人があれば,他方にはハミルトソ は全人口の約2 5
%を失ない,フォン・ベロッホと共に1 7 0 0
年頃イスパニアの 人口は約600
万にすぎないとする。停滞か減少か,たしかな事実は十六世紀 のイスパニア人口の上昇線は中断したことである。他方において,人的資源 の新しい分布へとますます向かう傾向があった。すなわち,以前の時期の求 心的傾向は十七世紀にはイペリア半島の周辺部の人口をいよいよ有利な状況 におく関係に途を譲った。この傾向はカクロニアのような小さな地域にも明 瞭であり,そこでは沿岸の定住地が内陸の人口中心地を犠牲にして急増した。人口減退については地域差があるけれども,一般にいって, 2つの様相が 区別される。ひとつは,十七世紀前半は不景気の時期であり,大疫病の時期
( 1 6 4 8 ‑ 1 6 5 4
年)の末から回復の時期であった。この大疫病は西部地中海地域に 集中してレヴァソト(ルーションからアンダルシアまで)に影響を与えただけで十七世紀におけるイスパニアの経済的衰微(宮下)
( 2 9 7 ) 27
はなく,南部からまたアラゴンからメセーク台地にも侵入した。しかし,そ の流行についての記録は決定的ではなく, したがってどのような一般化も確 定され得ない。例えばガリシアの場合には人口の喪失は十七世紀の最初の20‑30
年には中庸であったが,ボルトガルの反抗,その結果生じた戦争以後に は次第にヨリ大となった。果してそうであるならば,十七世紀の後半中の「回復」ということはこの地域では誤りでないこととなる。
十七世紀の人口停滞を指摘している専門家たちは,その原因を専ら研究し ているが,その最も重要なものを看却している。それは,疫病という要因が 人口の発展に与えた範囲程度である。人口の過程の中に周期的に介在する伝 染病が人口減少の傾向に決定的に影響した。
中世的な制度の残存,経済的没落とくに農業衰微から起った多くの地方に おける栄養不良状態の持続は,十七世紀の疫病の特別な有毒性を説明する。
当時は収穫と人口数との間にはきわめて密接な関係があって,陸上輸送の不 十分な制度は大量の穀物船積輸送に対処し得なかった。ハップスプルグ時代 のイスパニアが依然そうであった封鎖経済では,地方の食糧供給はその農業 資源が生産し得たものにまで低下された。ただ,沿岸諸都市では収穫不足の 場合にほ穀物を輸入することができた。このような状態のもとでは,死亡率 は地方の農業生産の昇降と密接に結びついていた。
疫病の結果については,疫病のために失われた地方または地域の住民はリ3
または出に達している。この数字は教区の記録における死亡数から計算され たものではない。全国について信頼に値する数字がないことを考慮すると,
それ故に,われわれは十七世紀中のイスパニア・レヴァントにおける人口損 失は,他の何処よりも多く,伝染病のたえざる勃発に少なくとも帰すること ができる。尤も,これに対し
1 , 0 0 0
につき4 0
または5 0
台の出生率が認められ る。疫病は
1 6 0 0
年代カスティリアについては1 5 8 91 5 9 1
年,16291631
年,16501654
年,1 6 9 4
年というふうに1
世紀の間に4
回大疫病が流行している。それは平均して
2 5
年の周期であった。一般にこれらの疫病は,全国に影響を 与えかつ,これを克服することは困難な人口喪失であった。最もひどい疫病28 ( 2 9 8 )
十七世紀におけるイスパニアの経済的衰微(宮下)すなわち
16481654
年のそれは,その一連の大事件の末期に起ったものだが,イスパニアをその歴史の中で最も危険な時期のひとつにおいた。その他の疫 病については栄養不良と死亡率上昇とに密接な関係があるという説を裏書し ている。
1 6 5 0
年頃の疫病経路は,先ず.アンダルシアに始まり( 1 6 4 8
年),ムル シア,ヴァレンツアに拡がり,さらにカクロニア,次いでアラゴンに亘って 流行を強化しマエスラスゴ地方を経由してフランスに入ってこれを襲ったが,最後にはマジォルカ,サルディニア,ナボリヘと伝播しナボリでは
1 5 5 6
年ま でも持続していた。疫病ほ食糧供給に依存するとすれば,十六世紀の最後の
2 0
ー3 0
年代および 十七世紀の初年代の長期の乾燥に疫病が大いに関連したと考えても誤りでほ なかろう。乾燥は多くの収穫物の量的不足であり,その結果,栄養不良が起 り,疫病が勝利して人口減少をもたらした。この点において十七世紀は,十 四世紀と同様にイスパニア人口史にとって致命的な世紀であった。m
十六世紀の末年には一方,自己の諸企業によって没落したプルジョア,他 方には繁栄しているけれども不活発な貴族があった。この状態はイスパニア 労働者階級の精神的態度に最も不幸な結果をもってしまっていた。この激し いバラドックスを起した経済的要因の残存と活発なものと不活発なものとの 2つの対立的なグループヘとその後社会構造を分解させたことは,十七世紀 に確認された。それは,当時称せられた機械的な諸職業に社会的不名誉とい
う謎をおいた慣習や法律によってである。
内外の諸例はこの命題の裏書に用いられ得,多くの著作家たちは十七世紀 のイダルゴ(下級貴族)の態度をレジャー論の一例としている。労働の嫌悪か ら,怠惰を子供らしく誇りとする態度が生じた。 「ロンドンにその良質の毛 織物を存分に製造させよ。オランダにその婦人服を,フィレ ノツェにその毛 織物を,西インドに彼らの海狸やビクーニャ(野生ヤマ)を,ミラノにその錦を,
イクリアやフランドルに彼らの麻織物を……われわれイスパニア人の資本が それらを入手する間は。すなわち,それが証明する唯一のことは,すべての
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( 2 9 9 ) 29
国民がマドリッドのために日雇職人を訓練し,そして,マドリッドは諸州会 の女王であることである。何んとなれば,すべての世界はマドリッドに仕え,マドリッドは誰人にも仕えはしないから」。 これはカロロニ世の幼少時代で,
1 6 8 0
年の財政的災難の直前に述べられた一文筆家のばかげた弁護であった。貧しい庶民にのみ課せられた直接税などの不利益があって,何の利点もな く, うめき苦しみつつ,十七世紀の彼ら庶民がその身分を変更して他のグル ープの中に上昇しようと熱中したのは何にも不思議ではない。身分上昇の方 法はいろいろある。先ず第一歩は,下級貴族身分
( h i d a l g u i a )
の特許を買入れ ることであった。この結果は,周知である。 「庶民階級は製作場,手工場で 労働するのを軽蔑し,彼らの子供らを,1
人が獲得すれば他の人が損失する ような別の経歴へと進路をとらせた」。 結局のところ「怠惰,人口減退,犯 罪の増加,何処にも見られた貧窮」であった。第二歩は,貴族の特権を獲得することである。この獲得欲ほ十七世紀のイ スパニア人を魔物のように取りついて騎士
( h i d a l g o )
の部類に入ろうとするマ ニアである。このマニアの結果を,一寸みよう。伝統的には騎士たちは,下 級貴族一般と同様に,軍役を供する代わりに免税の特権を得ていた。庶民が 国王に諸税を支払ったのに,騎士は武力をもって国王を防禦した。しかし,十七世紀における職業的な軍隊の創設および軍事的な専門職業の不信用は,
騎士からその職能を奪った。そして,騎士はその社会的地位を,戦争しに出 るのではなく出征しないことにしばしば利用した。他方,すべての市民の協 力を必要とした国王の財政入用は庶民と非庶民との障壁を飛び越えて,以前 には租税を納めていなかった特権的階級にまで課税を拡張した。
このようにして,貴族への十七世紀イスパニア人のマニアが普及した。庶 民と騎士(イダルゴ)との身分の境界がますます不精確となった。騎士は権力 をもたないから貴族ではなく,自由人となることが出来たが隷従の地位にあ ったから,必ずしも自由ではなく,騎士グループの大部分を構成したが,軍 事的勤務から免除されていなかった。そうだとすれば庶民とどこに区別があ るのか。現実にこの区別は純形式的であった。イダルゴは社会の上位に位し,
彼の位階が影響をうけないとの条件のもとであらゆることを受諾した。要す
30 ( 3 0 0 )
十七世紀におけるイスバニアの経済的衰微(宮下)るに,十七世紀カスティリアのイダルゴたちはイスパニアの経済から巨大な 人的資源を奪った。この人的資源は他の全く不生産的な職業に移った。それ は教会,官吏,海上での職業である。
最盛期のイスパニア人は労働を全く避けたのではないけれども,彼らは庶 民的と考えた仕事に努力を払うのを拒んだ。イタリア,フランドル, ドイツ または西インドで彼らの名誉を維持し名声をはせ栄光を達成しようと努力を 惜しまなかった同じ人が,最もよい環境のもとにあってすらも,財産またほ 多くの場合にその他の寄生生活からの中位の所得で生活するのを全く喜んで いた。かくして,彼らは国家を「怠惰なかつ堕落した共和国」に変化させた。
しばしば著しい特徴を示した生活に対するイスパニア人のこの態度は,貴族 へのマニアと健全な労働への不十分な返報との発展と偶然に一致し,ている。
この状況は貧民の必要をますます減少させ貧民たちの苦楽超越を増加させた。
この点において当時の文献は,生活困難におち入った社会をごまかし,同時 にまたその難問題を隠すのに熱中している。
貧窮ほフィリッポ四世の治世にひとつの頂点に達した。この王は一般的な 食糧供給問題を解決する能力がなかった。例えば
1 6 5 2
年におけるセヴィリア に民衆の反抗が起ったほどであり,これは飢饉によって起された典型的な反 乱で市場地区が2 1
日間も動乱にまかされ,またコルドヴァその他アンダルツ ア諸都市にも同様な反乱がくりかえされた。同様な諸運動を回避するため国家が提案した救済策は疫病対策よりも下手 であった。国家の食糧供給政策は当時盛行していたマーカンティリズム的な 観念によって指令された。すなわち重要物品に対する最高価格の指定,「低廉 なパン」であり,貧しい労働者への保障を無視した単純な価格戦争をするこ とは失業者群を増加する。彼ら労働者は最低生活賃銀を与えないような職を すてねぼならなかった。貧窮状態を断乎として非難した聖職者の態度もこの 問題のヨリ賢明な見解に答えなかった。修院士たちのスープの無料支給しま,
あらゆる種類の浮浪人や貧民に無差別に分配され,ひとつの生活の仕方の地 位にまで昇せた。これは「イスバニア人が施与物を与え,または受取る行為 に特質を賦与したような宗教的な特殊微妙な雰囲気に貢献した原因であり」,
十七世紀におけるイスパニアの経済的衰微(宮下) (
3 0 1 ) 31
「乞食はよく組織された仕方で生活し,物乞いを儲けの多い商売に変じさせ たから,乞食ということは恥かしいことではないと思わせた。」
IV
アメリカの発見や植民に伴なって十六世紀中頃以来は,イスパニアは多く のヨーロッパ実業家の集合地であった。十六世紀の末には,貴金属の流入に 加えて,一層の刺激としてこの国の工業的衰微があった。それは西インド船 隊に食糧を供給することを外国からの輸入品に依存させた。
十六世紀中は,最も優遇された商人は国王と同盟していた国々の土着民で あり,それはヂェノア人,フランドル人, ドイツ人などであった。ヂェノア 人は
1 5 2 8
年の条約以来いろいろの利益を与えられていた。彼らはポルトガル 人によってイスパニアでの地位から追い出された。ボルトガル人はアフリカ に勢力を確立したので,西インドに大いに必要な黒人奴隷の供給を任意に開 き,または閉じることができた。事実,1 6 4 0
年にはセヴィリアに2 , 0 0 0
人の ボルトガル商人がおり,その大多数はユダヤ人または改宗者であった。司教 座聖堂の過去帳から判断すると彼らの数は増大しつつあった。ポルトガルの 改宗者すなわち,いわゆるマラノス( m a r r a n o s )
は宮廷そのものの中で,また,カンクプリア海に沿う主要な港に優位を期待することができた。彼らの主要 な事務所はハンプルグにあった。この都市は
1 5 8 5
年にイスパニア軍隊がアン トウェルペンを攻略した後に逃げて行ったところである。イスパニア国王支 配からボルトガルが分離独立したことは,ボルトガル人にイスパニアをその 植民地に拡大するのを終らせた。フランドル人については,カール五世の好意に依存していた。低地地方か らイスパニアヘの輸出貿易は低地地方の反逆まではきわめて活発であった。
この反逆事件は商取引に支障を与えた。他方,オランダ人はイスパニア海運 業や商業の大敵となった。
1 5 7 1
年におけるラ・プリールの陥落と1 6 4 8
年にお けるウェストファリア講和との間には,オランダはイスパニア・ボルトガル を犠牲にしてひとつの植民帝国を切りとった。他方,南部のワルーン人は旧 教徒であり,フランドル人はイスパニアに忠誠を誓った。しかし,戦争は彼32 (302) 十七世紀におけるイスパニアの経済的衰微(宮下)
らの国における商工業を役に立たせなくした。その当然の結果,イスパニア との貿易にはね返りをもたらした。しかし,イスパニアとの貿易は存続した だけではなく「
2 0
年間の休戦」以後オランダがイスパニアと再び戦かうにい たった1 6 2 1
年以後には,かなりの繁栄期を経験した。アンダルシアにあるフ ランドル人の居留地は大きかった。1 5 9 6
年にフランドル人の全組合がイギリ スの攻撃に対してカディス市を防守するために組織されたことを思い起せば よい。最後に,カール五世時代に国王の大金融家であったドイツ人は十六世紀の 末年から商人や水夫としてイスパニア沿岸に現われた。これはハンザ諸都市
(ドイッハンザ同盟の成員)によって実行された活動である。これらの諸都市は オランダ諸州の反抗を利用して,イスパニアヘ反抗者の供給した木材,穀物,
諸器具,金属類,軍需品をもってきた。中立者として,ハンプルグ人その他 のハンザ商人たちはマドリッドやフリュッセルの政府に優遇され,この取引 に大成功を博した。とくに,イギリスとフランスとがイスパニアと戦った際 にはそうであった。オランダ人その他のハップスブルグ家の敵手たちに追求 されて, しばしばスコットランドやアイルランドの北方附近を回航せねばな らなかったハンザの海運業の引受けた大危険は,獲得される筈の大利益によ って十分償われた。
160921
年の休戦中,イスバニアとハンザ間の貿易は著 しく減退したが,その後回復に努力したので連合諸州の承認( 1 6 4 8
年)が以前 の盛況を再興した。西インド貿易からの利益の誘惑はきわめて大きく,イスパニア国王の敵で あった国々すらもこの国に立入る機会を失なおうとはせず,外国商人たちの 居留地は各港で増大した。フランス人は彼らのなかで顕著であった。ナント 出身の商人がセヴィリア,マラガ,カナリア諸島に現われたが,これはビル バオの商人の保護があったからで,ビルバオ商人の諸特権はセヴィリア,マ ラガの間に存する貿易協定のおかげで両市が共同に享受したものである。ビ トレ出身の商人たちはカディス,サンルカー,プエルト・デ・サンタマリア と
1 5 6 0
年以後諸契約を展開した。最後に,カナリア諸島行のルート上の碇泊 地としてセヴィリアやカディスを夙に考えていたノルマンディ人は十六世紀十七世紀におけるイスパニアの経済的衰微(宮下)
( 3 0 3 ) 33
以後これらの都市にしばしば寄港した。イスパニアの海港諸都市に地歩を確 立したフランス人の数は判らないが,フランスの領事がカディス( 1 5 7
辟F
また は1 5 8 1
年),セヴィリア( 1 5 7 8
年),バルセロナ( 1 5 7 8
年),ヴァレンシア( 1 5 9 3
年) に駐在していたことは彼らの重要性を証明している。フランス人については,十五世紀の末に夙に始まっていた農民,牧畜民,
小職人の大流入の継続をあげねばならない。カクロニアヘの移入は
1 6 2 0
年以 後激減したが,その他のイスパニア地方へは一層盛んな移入民があった。ア ラゴンやヴァレンシアでは,フランス農民がムーア人の追放後に作物の継続 を確保した。カスティリアの諸都市では,フランス人が土着民の心をはねつ けたような賤しい諸職を実行した。十七世紀の末頃までにイスパニアの大都 市や都市におけるフランス人の圧力は著しくなっていて,彼らに対する民衆 のはげしい反抗すらも起ったほどである。十七世紀の失墜しつつあるイスパニアヘ到来した最後のものは,イギリス 人とオランダ人とであった。しかも,これは理解できる。彼らは,イスパニ アの最もうらみ重なる敵であったのみならず,彼らのプロテスクントとして の地位も彼らとイスパニアとのひとつの障害であった。しかし,生活の仕方 を求めるのが必要である。というのは,イスパニア国王は西インドを所有し ていたけれども,アムステルダムやロンドソは西インドに供給するに必要な 諸工業をもっていたからである。この事実はセヴィリア,カディス,マラガ,
プニルト・デ・サンクマリアにいるプロテスクントたちがもっていたひとつ の特殊な制度のなかに移された。十七世紀の末頃までにサンクンデルもこの 同じ特権的状態を獲得しようと努めた。しかし,国王はその公認的権限を授 与しなかった。
十七世紀の後半にはイスパニアとりわけカディスとの巨大な取引がアムス テルダムをヨーロッパの主要な貨幣市場に変化させた。すなわち,アムステ ルダムに集中化された通貨の保有量は大いに著しくなって,その結果,この 都市は,マーカンティリズムの諸原則に反して,自己の貿易のために東イン ドにのみならず多数のヨーロッパ諸国に貴金属や鋳貨の輸出を許可した。三 十年戦争中にすでに活発であったが,この取引は
1 6 4 8
年の講和以後には最高34 ( 3 0 4 )
十七世紀におけるイスパニアの経済的衰微(宮下)点に達した。このときにはイスパニアとフランスとの敵対関係がイスパニア 人自身を彼らの最近の敵オラソダ人の商取引に便宜を与えさせた。十七世紀 の最後の
20‑30
年代にはオラソダやイギリスの商人がパネデスやマレスムの プドー酒から作られたプランディの活発な買手としてカクロニアの諸港に現 われた。十七世紀におけるイスパニアの弱体を原因として,これらの外国人の活動 はこの国の利益に損害を与えた。貿易の事項を詳細に採り上げると,ほとん どすべての海上貿易,とりわけ西インドと行なった海上貿易を独占したのほ 彼ら外国人であった。この過程を当時のイスパニア人はよく知っていて,判 例による数多くの苦情やこの情況に対する文献上の証拠がある。この 2つほ この過程を通してのイスパニアの虚勢を無限にくりかえしている点において 偶然に一致した。外国人はイスパニアのなかで最大の収入を得ている。 「公 的収入に対する証書すなわち公債で
1 , 0 0 0
万以上,私的負債に対する証書す なわち抵当契約の数は無限であり,それに十字軍の資金のすべて,沢山の聖 職禄,委託契約,牧師収入,年金」これである。V
農業の衰微はムーア人の追放からであった。十七世紀の初め頃にはイスパ ニアの土壊は,牧畜を伝統的に優位においたために,常に大いに無視されて いたので,激しい打撃をうけた。以前にはカスティリア王国で回教からキリ スト教に改宗を強制され
( 1 5 0 2
年),アラゴン王国で15 2 5
年に同様の強制を受 けていた回教徒ムーア人の追放ほ,1 6 0 91 6 1 1
年に宜告され,そのため,農 業はいままでもっていた最も熟練した人的資源を奪われた。この宜告の第 5 条はムーア人の 6%を免除したが,それは住居,砂糖製造所,米作,灌漑制 度を保存して,新しい定住者たちを教えるためであった。彼らムーア人は強 制的に改宗されたが,同化しなかった被征服ムーア人の残余であった。時と しては小売商であり,よりしばしば農耕者であって,領土奪回運動の大領主 たちに奉仕した閉鎖的共同体を構成した。この運動はイスパニアが解決する ことなしに2
世紀を耐えていた国土の植民問題であった。1 6 0 0
年頃には,多十七世紀におけるイスパニアの経済的衰微(宮下) (305) 35
くの反乱,鎮圧,追放,大量の難民の出現後に,一般的な反抗の危険であっ たといわれるが,実はそうではないであろう。しかし,地下に潜ったキリス ト教徒,敵意,スパイ,略奪者,巨額を差押えた商人は,ムーア人を危機の 瞬間に全く明瞭な他人の罪を負う身代りに変じた。ムーア人は余りにも多産 的であり, しかも倹約であった。これがほんとの罪であった。
追放された人数はカスティリアおよびアラゴンでは30万人に近くイスパニ ア人の約3%である。しかし,追放は異なる地域に均等な影響を及ぽしたの ではない。アラゴン王国を構成する地域,とりわけヴァレンシアは大打撃を うけた。この地域では再植民の問題はきわめて緊急であったが,これは常に 解決されたとは限らない。例えばヴァレンシアでは,ムーア人村落の約半分 が1
6 0 9
年に放棄され,1 6 3 8
年でも依然住民をみなかった。アラゴンでは,こ れと逆に,追放されたムーア人の残した空間のなかに充員することに成功し たのはプランス移入民であった。経済面では諸結果は一層重要であった。きわめて勤勉に働らくムーア人そ のものの追放によって生じた労働力の不足,農業上のエリートの消減は,領 主たちが支払った利子収入または都市の投機業者たちと契約した抵当貸付か ら取得した年金収入の消滅を意味した。抵当貸付または年金に人々が投資し た金持階級の極端な熱中を思い起すと,ムーア農民の脱出によってこの寄生 的社会のなかに起った崩壊を理解することができる。ムーア農民は結局のと
ころこの寄生的社会を支えていたのである。
地主貴族は「窮乏と破壊」を阻止するために,追放されたムーア人の財産 を没収することに満足せず,遂には抵当貸付に対する利子を 5%に引下げる ことにした。かくして,循環は完全である。すなわち,影響をうけている農 業経済の始めた処置は封建経済に直接の影響を与え,遂にはその債権者であ ったプルジョア経済に影響を及ぼした。それ故に,ハミルトンの楽観的見解 にもかかわらず,全イスパニア経済制度が追放によって損失を被むったとい
ってよい。
瀧漑農業を特色とした農民たちの追放と並んで,農業経済の基礎ほ穀物,
オリーヴ,プドー酒であるという古い封建的観念の確固たる勝利が現われた。
36
( 3 0 6 )
十七世紀におけるイスバニアの経済的衰微(宮下)栽培を継続すべき他の作物はグラナダの南部においては甘庶と棉花とにすぎ なかった。同じ地域で,ヴァレンシアおよびムルシアでは生糸,北部の多く の地域では麻および亜麻,地中海沿岸地域では米であった。事態を一層悪化 させたのは,農産物価格のたえざる下落をみたような世紀には特筆すべき進 歩が現われなかった。
十七世紀におけるイスパニア経済の争う余地のない事実のひとつは家畜の 損失である。連続的な一連の統計数字が現存していないけれども,クライン の研究によって, この世紀の後半にはメスク(牧羊組合)の支配した羊の頭数 は
2 0 0
万頭以下であることが判る。これは,1
世紀以前に始まっていた数の 減少を確証する事実である。この現象には多くの原因があった。十六世紀の 最後の20‑30
年代および十七世紀の初年代に地中海の気候が乾燥した時期で あってそれが原因だという人もあれば,また他の人々はこの要因に加えて,カクロニアとボルトガルにおける戦争の結果として,慣習的な牧地および羊 欄の使用を中断して牧畜の発展に混乱が生じたという。そして最後に,十八 世紀に没落べきものの前兆であるメスクに反対して浴びせられた諸攻撃を忘 れてはならない。
十七世紀にはメスタの名誉ある総会に対して公然たる戦斗が宣言された。
この有力な組織ほ恐れられたと同時に尊敬もされたが,各種の批判の標的と なった。メスクの特権的成員たちに対する反対は等族議会,諸裁判所,農業 や囲込みの弁護者たち,そして,国王への大債権者たちから起った。諸攻撃 はとくにアルカルテ・エングレガドールの権勢に集中された。彼は組合の総 裁であって,彼の権力は各方面に亘って限定され彼の裁判権が疑問視された。
メスクはこの攻撃のまえには一歩一歩譲歩した。その主要な支持は国王と の同盟であって,国王は
1 6 1 9
年に消費税( s e r v i c i ode m . i l l i o n e s )
と交換に牧羊 者たちの組合への加入を自発的と宣言しこの組織の裁判官の職能を制限して しまっていたけれども,その代わりに1 6 3 3
年に組合の特権を再興し放牧地へ 十分な保護を与えた。1 6 3 3
年の命令書は新しい土地の開墾を禁止し,1 5 9 0
年 以来認容されたすべての耕地—私有ならぴに市有,公有,共有,未栽培地 ーは許可期間の満了したときには許可を得て又は無許可で放牧地に転換さ十七世紀におけるイスパニアの経済的衰微(宮下) (307) 37
るべしと命じた。この命令の実行にはそのような土地の境界設定および調査 を必要とせざるを得ない。かくて,無数の訴訟事件や損害賠償の起訴が生じ,
これらが多くの諸感情をかき立て,農耕や非移住牧畜を悲惨な状況におち入 れた。
この独占立法にもかかわらず,事態の進行を変化させることは,もはやで きなかった。というのは,牧羊の危機がメスタを行きづまりの小路におしこ んだからである。
1 6 8 5
年以後には,さし迫った破産の脅威がメスタの計算記 録に見られる。この最後の様相でほ大家畜信託組合はますます国王の支持を 期待できなくなった。貧乏な後期ハップスプルグ王家はメスタの反対者たち と補助金目的で協定して支払能力の少ない組織からの「貸金」を交渉するこ とを用意していた。このように,十七世紀を通じて,以前にほきわめて有力 な牧羊組織の敗退が徐々に準備されつつあった。VI
十六世紀の中頃から十八世紀の初めまでのイスパニアの工業については,
議会記録や勅令集にはわれわれを確信させる証拠がないとしても,
1 6 1 9
年に おけるカスティリア国会,1 6 2 0
年の緊急州会を調べると,その中に見られる 悲しむべき真理によって十分に確信を与えられる。この頃の州会はフィリッ ボ三世の不時の死によって何ら効果をもたなかった。また,1 6 5 5
年に救済策 または少なくとも困窮を救助する若干の案を宮廷と交渉しつつあった貧困化 し没落した諸都市とりわけトレード,コルドヴァ,セヴィリア,グラナダ,ヴァレンシシアのいろいろな努力,請願,強求はイスバニア工業の弱体化と 崩壊とを反映している。
1 6 5 5
年に解散された17
のギルドがある。これはこの工業的衰微没落の明白 な証拠である。とくにカスティリアの古い商工業都市の人口減退ほ次の頁通りであった。
トレードやセゴヴィアの人口喪失は,カスティリアの発展のひとつの指数 としてとくに意義が深い。十七世紀の末のブルゴスやクエンカの回復は原毛 の輸出再開と関連をもっていたことであろう。
38 ( 3 0 8 )
十七世紀におけるイスパニアの経済的衰微(宮下)都 市
1 5 3 0
年1 5 9 4
年1 6 4 6
年1 6
糾年 プ ル ゴ ス1 , 5 0 0
世帯主2 , 6 6 5 6 0 0 1 , 8 8 1
ヴァラドリード6 , 7 5 0 8 , 1 1 2 3 , 0 0 0 3 , 6 3 7
ノぐレンシア1 , 3 6 4 3 , 0 6 3 8 0 0 9 7 2
サ ラ マ ン カ2 , 4 5 9 4 , 9 5 3 2 , 9 6 5 2 , 4 1 6
ア ヴ ィ ラ1 , 5 2 3 2 , 8 2 6 1 , 1 2 3 9 6 5
セ ゴ ヴ ィ ア2 , 8 5 0 5 , 5 4 8 1 , 6 2 5
卜 レ ー ド
5 , 8 9 8 1 0 , 9 3 3 5 , 0 0 0 5 , 0 0 0
ク エ ン カ3 , 0 9 5 8 0 0 1 , 6 4 1
この死に瀕する十七世紀における元気づける条件のひとつは, リニルガナ やラ・カヴァダ(サンタンデル)での大砲や武器を鋳造する製鉄所の設立であ った。オリヴァーレス公家,ベルギー人ジャン・クルティウス,ルクセソプ ルグ人ジォルジュ・ラーバントなど諸政策に援助されて,これらの都市にすぐれた冶金場が開設された
( 1 6 2 2
年)。要するに,これはカスティリアの製造工業の衰微に寄与したいろいろの要 因を考えることを許す。すなわち,第ーは低地地方,イギリス,フランスの 工業がカスティリアよりもすぐれていたこと。第二はアメリカ産銀の流入の 結果,イスパニアの物価はヨーロッパの物価よりも高かったこと。第三は十 六・七世紀においてはカスティリア人には資本主義的精神が少なかったこと。
第四はハップスプルグ王家がヨーロッパに干渉したが,その千渉は不幸に終 ったこと,これである。
この衰亡過程の現実化は大いに拡がり,十七世紀の末頃カロロニ世の治世 中には回復のための一般的な願望があり,それを達成する多くの計画が考案 されたほどである。カスティリアでは1679年に通商・通貨院が創設され,こ れは十八世紀には実りおおい結果をもたらした。
1674
年には32人のアラゴン 代議員ほこの王国の経済資力を回復しようとしてオーストリアのドソ・ホア ンを議長として団結した。しかしこの委員会は商業の自由かそれとも制限か という重大論争によって行き詰まりとなった。カスティリアでは一世代の人 々がナルシス・フェリウ・デ・ペニアの学説に賛同して団結し,外国技術者 たちの援助を得て積極的な結果をおさめた。最後に,一般的にいって,1682
十七世紀におけるイスパニアの経済的衰微(宮下)
( 3 0 9 ) 39
年の勅令ほ,それが絹織物,毛織物,または貴族にはふさわしくないその他 の織物製造場を所有しまたは所有させた点において,美術,商業の復興への 第一歩であった。ギルドはイスパニアの工業生産を十七世紀に停滞させたと普通非難をうけ ている。十八世紀の啓蒙思想家たちの攻撃非難を反復しつつ,ギルドの弁護 者すらも工業の停滞をギルドに帰している。その理由とするところは,営業 加入への諸制限や諸特権の体制をギルドがもっていたからだという。
ハップスプルグ家時代のギルドの歴史は,未だ書かれていない。公刊済お よび未公刊の史料は数量的に莫大であるが,公刊された史料は非常に有益だ とはいえない。なんとなればその著者たちは彼らの研究を,過去を理想化す る見解に基づかせており,ギルドが発生し発達した経済生活の原基すらも意 識しなかったからである。この制度がきわめて古いものだと考えたので,彼 らは古い特権諸都市のギルドとその附近の町に彼らの独占的な特典から正に 逃れるために起っていたギルドとの間に十六世紀から存在していた粘りづよ い対立を無視して,ギルド制が画ー的に進歩したと信じたからである。カク ロニアにおいてすらもギルドは比較的新しいものだ。景気の変動とギルドの 活動との間の関連も忘れられており,一層重要なことだが,国家が工業政策 からではなく税収入のための願望からギルドを劃ー的な規則に従わせ厳重に 統制したことが忘れられている。
これらの諸点を指摘したから,われわれは今やハップスプルグ支配時代の ギルド史に集中し,この国の工業衰微の責めを測ることができる。カクロニ アやヴァレンシアにおけるギルド生活に形態を与え,またカスティリア王国 にギルドの創設を奨励したフェルディナントとイサベラの諸方策の後に,十 六世紀はギルド団体の登場を特徴としていた。動機ほこの時期の拡大する経 済に引続いてのイスパニアの工業拡大であった。知られた創設を単純に吟味 すると,最も近世的なギルドが十六世紀の後半に設立され,その出発点は
1 5
30
年で,それ以後の開設が多い。例えばプルゴスでは市場目当ての園芸家は1 5 0 9
年に,製革工は1 5 1 2
年に,靴修繕工は1 5 2 8
年に,そして石工は1 5 2 9
年に 特許を得た。1 5 4 0
年以後には縫取師( 1
迅峠こ),皮革商人( 1 5 4 5
年),靴匠( 1 5 5 2
40 ( 3 1 0 )
十七世紀におけるイスパニアの経済的衰微(宮下)年),皮革紐工師
( 1 5 7 0
年),炭焼( 1 5 7 4
年),帽子製造師( 1 5 8 9
年),猟湯番人( 1 5 9 1
年)。トレードでは,1 4 4 6
年に認可された製蠍工のギルドに加わったのは染色 エ( 1 5 3 0
年),屠殺業者(肉屋,1 5 6 0
年),パン屋( 1 5 8 0
年),錠前師( 1 5 8 2
年),箇 屋( 1 5 8 8
年),藁細工師( 1 5 9 8
年)である。同様な現象はサラゴッサにみられる(鍛治医
1 5 4 0
年;羊毛すきエ1 5 5 0
年;馬具匠,布団工,錠前師,帽子製造師〔いずれも1 5 5 6
年〕,麻織エ1 5 6 5
年;毛織エ1 5 6 7
年;ガラス吹エ1 5 8 5
年;運送人夫1 5 9 0
年)。そし て,バルセロナやヴァレンツアですらも数多くの等しいリストが作成される。これと同時に,町に現われたギルドは第二次的な重要性のものである。経 済の繁栄は日雇職人たちを大都市に移動させた。そこでは親方となることが 困難であったが,附近の町や村々においてすらも親方として身を立てた。ィ スパニアにおけるこの現象に対しては今日まで注目が払われることが少なか った。しかし,新しいギルドの強味は否定できない。カクロニアにはその証 拠がある。例えば
1 5 5 8
年のサバデルにおける毛織エギルドの創設はバルセロ ナの有力な毛織物仕上エと競争をしている。その他の地域にもこれ以上の数 の実例が見出されるのは疑いない。景気変動の繁栄期にはギルド問題はなかった。ギルド問題は,イスパニア の外国貿易が衰え始めたときに起り,衰微と共に労働縮減が生じた。そこで,
ギルドは経済生活の収縮に対する抵抗の組織というものになった。ギルドの 歴史では十七世紀はたしかにこのような状態であった。事業の停滞化や国家 の増大する租税要求に襲われて,ギルドはあわれな貧しい生活をした。一般 にいって,組織的妨害,圧迫,不正,寡占等々の予見し得る弊害を伴なった。
漸次に人々ほギルドを重荷と考え始めた。とりわけ,比較的近時に開設され た所ではそうであった。
1 6 7 8
年にほ,カラクユードの等族議会ではギルド弾 圧の声が起った。しかし,貨幣が豊富であった所ではギルドは繁栄しつづけ た。これはマドリッドの場合である。マドリッドの五大ギルド( C i n c oGremios Mayores)
が設立されたのは事実十七世紀においてであった。ギルドを厳重な統制下におく国王の利害はその財政的入用が増大しつづけ たので,まさに同じ十七世紀に加速度を増した。保障された租税の基礎とい うものをもとうとすることは当時のイスパニア財務省の改革者たちの計画に
十七世紀におけるイスパニアの経済的衰微(宮下) (311) 41
とって欠くべからざる重要なことであった。その故に,通商・通貨院が
1 6 7 9
年に創設されたとき,ギルドは行政上および経済上の事項について同院の管 轄下におかれたのである。伝統的な独立性を維持していたカタロニアやヴァレンシアのギルドを例外とすれば,ギルドの生命環は過ぎ去った。すなわち,
ギルドはそれを創設した国家の統制に終局的に全く復帰し,かつ,国家自体 が遂にはギルドの除去を判決命令した。
V I I
「中世生活の調和を破り人間の精神のなかに落着のない不安の種子を蒔いた 法令」としての商事法はイスパニアの黄金時代の豊富な特殊文献を特徴づけ ている。勿論,若千の例外はあった。とりわけカタロニアやヴァレンツアで は,十四世紀以来の実業界により有利な神学上の伝統が生きつづけていた。
地中海型の偏向に反対するスコラ学の伝統の熱心な継承者であるドメニコ派 は,大ザッパにいって,この地域では倫理的な諸偏見が経済活動一般に反対 するイダルゴの心理の偏見を強めた。このさまざまな偏見は農業や工業の衰 微と結びつけられており,
1 6 0 0
年代におけるイスパニア商業の没落に責めのある諸要因に寄与した。
半島の内部については,商業の発展を妨げた意見や諸法律から出てきた沢 山の障害物があった。すなわち,道路や運輸の不足,貴族たちが商人を取扱 った軽蔑,供給政策,独占,先買権,当時のやみ商人
( r e g a t o r e s )
の介在,国 内関税(徴税道路,市税,このほか私人の享有する相続権による税金,近隣地域から 生産物や食糧の導入を防止するための特定の地域的特権), 価格の固定通貨の変更 など,これである。国外商業は停止しなかったが,それはほとんど全く外国人の手の中に入っ た。イスバニアにおける外国商人たちの居留,彼らにとって奨励されたアメ リカとの密貿易については既にふれた。しかし,外国人たちは厳重な法規,
行政上の規則によって押えられていた西インドとの正規な貿易をも支配する に至った。密貿易が重要となるに従って,たえず縮小しつつある合法的交易 の流動は,ほとんど全く外国人の勢力下におちた。しかも,ここにわれわれ
42 (312) 十七世紀におけるイスパニアの経済的衰微(宮下)
は他の諸国の商工業の優位,イスパニアの租税制度の悪影響および不満足な 関税組織に注目する。
1 6 9 1
年には,イスパニアが排他的独占を公式に継続し ていたアメリカ貿易への種々の国々が参加した割合はフランス人が25%
,ヂ ェノア人が21%
,オランダ人が19%
,フランドル人が11%
,イギリス人が1 1
%,ハンブルグ人が
7 . 6
%で,イスパニア人はたった3 . 8
%であったという。これらの数字は絶対正確だと受取る必要はないけれども,早くも
1 6 1 9
年です ら西イソド貿易の閉。は外国人によって行なわれていたとの苦情が出ている ことを思い起すと,イスパニアはアメリカの富の所有のために他のヨーロッ パ人と行ないつつあった勝負にきわめて巾広い収益を失なってしまったと結 論してよい。衰微はイスパニアの他の貿易ルートにも認めることができる。この衰微の 範囲を詳しく知ることはできないが,衰微の現象を見出すことができる。か くして,プルゴスでは
1 5 9 4
年と1 6 1 9
年との2 5
年問に作成された海上保険証券 の数は2 0 0
通を超えなかったが,他方十六世紀の中頃における年平均は1 , 0 0 0
通以上であったし,または商業記録を通じてみると,1 6 3 0
年と1 6 6 0
年との間 にはバルセロナの海上貿易は大体においてフラ、ノス人とヂェノア人との手中 にあって,その活動範囲は次第に小さくなりリスボソとシチリアとに終って いることが判る。このような状況は,
1 6 4 0
年までイスパニアとボルトガルとの連合帝国が世 界商業の中心であって,植民地世界とヨーロッパ大陸との接触点をセヴィリ アおよびリスボンにもっていたこ・とを思い起すと, よく判る。半島の政治的 統一が解消した後ですらも,イスパニア・アメリカのブロックはすべてのヨーロッパ国民の経済にかなりの勢力をもちつづけていた。
交易活動の中心地をみると,必要不可欠の生産物はセヴィリアとリスボン に集まった。第一に銀,次いで砂糖, ココア,胡椒,皮革,さまざまの染料 用植物,これである。これらに附け加えねばならぬのは,イスパニア産の生 産物で,これは絹,鉄,羊毛である。そして反対方向では,イスパニア人や 植民地の使用する小麦その他の食糧品'.軍備および商船用品,多量の製品が イベリア半島に入って来た。極東や新世界からは,盛んな商業生活が主要な
十七世紀におけるイスパニアの経済的衰微(宮下)
( 3 1 3 ) 43
海上交易ルートに沿って行なわれていた。主要ルートには最も重要なフラソ ス,イギリス,オランダの諸港,バルト海商業拠点,ハンブルグを経由して 中部ヨーロッパを含んでいるが,遠く北部ロツアのアルハンゲルにまで達し ていた。他方,イスパニアの海港は西地中海の最良のルートとりわけイタリ アのレグホ`ノ行のルートを支配した。これは十七世紀におけるイスパニア経済の衰微の基本原因のひとつであっ て,海上が外人の手におちてしまった。イスパニアはその独占地域内に西イ ンド貿易を組織するためにきわめて大きな行政問題に遭遇した。
1 6 1 0
年以後 には,西インド貿易に用いられた船舶の数は次第に少なくなり,1 6 4 0
年には 最低のトン数に達している。事実,1 5 9 0
年以来,ポルトガルの船隊が大西洋 就航を保障するのに援助を与えていた。1 6 4 0
年の景気後退から生じた貨物運 送の危機は外国船が初めて用いられたけれども,克服され得なかった。おそ らく,この現象は,軽くかつ一層航行に適するナウ船に有利になりガレオン 船の消滅によってもたらされた航海上の変化と多少関係があった。しかも,イスパニアの水夫たちはオランダ人やイギリス人が各地に導入した新しい類 型の船(シップ型)に自らを適合させるのに困難を経験した。もしこれが大西 洋地域に起ったならば,外国人たちに閉鎖されなかった場所に起ったことは 何であったかをたずねるのは無益である。フランス人はレヴァントにおける 貿易を支配した。イギリス人は北海と西地中海との間における貿易を支配し た。ハ ノザ同盟はバルト海における貿易を支配した。オランダ人ほどこでも 支配した。というのは,オランダは十七世紀の大海上勢力であったから。こ の時期におけるイスバニアの商船隊の衰微はどのようなものであったかを知 るには,カクロニア人は中世後期においてはその海上勢力を妨げられなかっ たが,いまや,東方の財貨を手に入れるにほマルセイユに,イギリス人によ ってもたらされたバルト海の小麦を買入れるにはレグホンに赴いたことを述 べれば十分であろう。同様なことはカンタプリアの諸港に起った。そこの主 要な入用品は外国船によって充たされた。
イスパニアはその海運がおびやかされた危険に対しては,イギリスの航海 条令のような対策をもし講じていたならば,その危険に対して自衛し得たこ
44 ( 3 1 4 )
十七世紀におけるイスパニアの経済的衰傲(宮下)とであろう。しかし,これはこの国を先ずオランダと,次いでイギリスと戦 争を行なわねばならなかったことであろう。オランダについてほ,イスパニ アはミュンスク一条約で大失策をした。この条約はすでに明白であったオラ ンダの法律上の独立を承認しただけではなく,イスパニアをオランダ人に広 く公開してしまった諸条項によって不利な条約に譲歩したからである。同時 に,あらゆる不正な取引を許す関税表が,商品の重量を基礎として設定され た。この譲歩政策のおかげで,フィリッボ四世の政府は,フラソスと,その 後間もなくイギリスと行なった戦争においてオランダの中立を達成したので ある。軍事上の撤退もこれと共に新しい経済的譲歩を伴なわなかった。
1 6 5 9
年にはピレネ一条約によって,フランスは関税を免除されてカクロニアに財 貨をもたらす権利を獲得した。そしてすぐ後の1 6 6 7
年にほ,イギリスとの通 商条約(エミンネテ協定)の方法でイスパニアはこれも亦重量に基づいたきわ めて不利な関税率で以て,イギリス財貨にイスパニア国境を開放した。この2つの傾向―イスパニア商船隊の衰微と国内市場を外国財貨への開 放ー一ほ,強力な輸出政策によってのみ回避することができた。不幸にもこ れは起らなかった。これと逆に,まさにあの時,海外に売却された伝統的な 諸財貨ほ量および質において活発な競争をうけた。十七世紀の中頃にほ,イ スパニアの羊毛は多くの地方諸市場でアイルランドの羊毛にとって代わられ,
同時に,スウェーデンの鉄がバルト海を超えてイギリスやフラ ノスに入り始 めた。絹も,この生産物ではビエモ ノトがますます進歩してきたのに当面し て,退却した。
したがって,ハップスプル家によって始められた関税免除制度は,この国 の利益にとっては,きわめて小さな利点に変化したのである。