教育費用分析の展開過程(2) : 教育経済学研究の一 齣
その他のタイトル Educational Cost Accounting and Higher Education (II)
著者 澤村 栄治
雑誌名 關西大學經済論集
巻 7
号 1
ページ 56‑83
発行年 1957‑04‑01
URL http://hdl.handle.net/10112/15670
56 f or
I ns t i tu t i on s o f Hi gh er d E uc at io n)
[•J
]
四
教
育 費 用 分 析
の
ー ー 教 育 糎 済 學 研 究
︵一︶においては︑大学教育財政管理上の改善にはじまり︑費用支出項目の分類と︑それに応ずる費用支出
のパァセント分析を経て︑更に単位原価技術︑すなわち教育原価計算へと展開し来った経緯をば︑いわば歴
史的・理論的にとりあっかつて来たのであるが︑本編はいうまでもなくそれにつづくものなのである︒
一九
三
0年に設置せられた﹃大学教育機関標準報告全国委員会﹄
(T he National
Co
88
i t t e e o n St an da rd Reports
は︑さきにのべた如く︑大学会計改善のために大学財務報告書の一律性を期
( 1 )
して検討を重ね︑その年九月に第一回報告を﹃アメリカ合衆国における綜合及び単科諸大学の財務報告書の研究﹄
( 2 )
として発表︑翌一九三一年七月には﹃単科及び綜合諸大学の財務報告書の諸書式の提案﹄を公けにし︑大学教育機
関における会計記録及び報告書の一律性の基礎をおかんとしたのであるが︑
り︑ひろく注目を惹くに至ったところの単位原価技術︑すなわち教育の原価計算の可能性に関するひとつの試論を
の
澤
齢ー—
展 開 過 程
ここにこれらを基盤として問題とな
村
(二)
榮
五六
治
~7
( 3 )
提供したものが〜すなわち翌一九三二年六月の﹃大学教育における単位原価研究で用いられる諸方法の研究﹄であ
( 4 )
ったことは︑すでにのぺたところではある︒
ところがこの﹃全国委員会﹄の研究目的が︑大学財務の一律的な報告書の標準を求めるにあったことと︑
﹁︵委員会に於いて︶最も一致しなかった点は︑原価を計算する単位の
( 5
選択よりも︑単位原価研究のための費用支出項目の分類の問題であり﹂︑委員達が最も時間を費したのは﹁支出の ).
( 6 )
︵7) 正確にして詳細な分類﹂であった︑という事情にもより︑同年七月には﹃目的による費用支出の分類の勧告﹄を公
けに
した
︒
ついで︑さらにこれに関連する大学財務上の諸問題︑
標準となるような会計手続を考究︑逐次
( 8 )
﹃単科及び綜合諸大学の内部財務報告書の諸書式の提案﹄
( 9 )
﹃単科及び綜合諸大学の在学生数報告書の諸書式の提案﹄
( 1 0 )
﹃附属事業の財務報告書の諸書式の提案﹄
状によるものである︑
教育
費用
分析
の展
開過
程︵
揮村
︶
原価研究で用いられる諸方法の研究﹄の際︑
を一九三二年八月に︑
を同年十一月に
と考えた﹃全国委員会﹄は︑ たとえば在籍学生数とか附属事業などについても
を同年十月に︑
五七
それぞれ公判し︑いずれも各方面に多大の影響を与えたが︑一九三五年︑これらは集大成せられて﹃単科及び綜合
( 1 1 )
諸大学の財務報告』ー~以後簡単に『報告』とよぶーーとなり、シヵゴ大学より刊行せられたのであった。
さて上記﹃単位原価研究で用いられる諸方法の研究﹄において︑﹁最ものぞましい単位の選択の問題は︑原価研
( 1 2 )
究を行っている各個人のおもいおもいにとかれている﹂ことが指摘せられ︑当時において単位原価技術には標準と
なるようなものの見出され難いのは︑まさしく原価計算のために必要な費用支出項目の分類の正確に行われない実
( 1 3 )
﹁一九三二年以降とみに改良されて来た﹂費用支出項目分類を
﹃単
位
大学事務管理 かかげて例示しているものである︒ ﹁詳細な手続に用いられる書式﹂ ﹁簡易な手続きに用いられる書式﹂ 括的にとりあっかい︑
(D et ai le d Pr oc ed ur e)
教育費用分析の展開過程︵澤村︶
基礎として︑原価算定の標準的な方法を検討・研究し︑
題して発表したが︑
﹃単位原価研究の目的と展望﹄
﹃原価算定に含まれる諸要素﹄
﹃簡
単な
手続
﹄
﹃詳
細な
手続
﹄
(S ho rt P ro ce du re )
委員会﹄の﹁最も重要な功績のひとつ﹂であり︑
( 1 4 )
その結果を上記﹃報告﹄の附録Aに﹃単位原価の算定﹄と
これは同報告の一七七頁より二四九頁にいたる七三頁にも及ぶものであり︑内容は︑
(P ur po se a nd Sc op e o f Un it
, c
o st s S tu di es ) (F ac to rs i nv ol ve d i n Co st Co mp ut at io ns )
などにわかれ︑単位原価技術の目賭する主要点︑ならびにその長短や︑原価計算のやり方の要点など︑きわめて概
(F or ms fo r U se in De ta il ed P ro ce du re )
このように︑単位原価研究を行うために注意ぷかくまとめられたプログラムを準備したことは︑
﹁大学の職員達がそれを研究し︑そのまとまった技術に基いて単
(1
5)
位費用支出のデェタ計算のモデルとするがよいであろう﹂ことをすすめるラッセルは︑それが当時におけるこの方
面の研究に寄与するところ大であったことをたたえているが︑
るところであったとみえ︑
( 1 6 )
第一巻﹄を刊行せる際︑ 一九五二年にアメリカ教育審議会
その末尾の第九章 (F
or ms f or U se in Sh or t Proce
du re )
を三種類
を五八種類
この点はラッセルのみならず︑一般もひろくみとめ
(A me ri ca n Co un ci l on E du ca ti on )
が﹃単科及び綜合
(17) ﹃間接費用支出の割当と原価の決定﹄の参考文献用と
五八
まさしく﹃全国
59
教育
費用
分析
の展
開過
程︵
澤村
︶
五九
第二
には
︑
原価数字
( co s t f i g u r e s )
して︑前記﹃財務報告﹄中よりこの﹃単位原価の算定﹄の部分のみを抽出︑抜刷の形で添附しているほどなのである︒
従来の単位原価技術については毀誉褒貶相半ばしたところから﹃報告﹄は︑ーー'
ー﹁単科及び綜合諸大学における単位原価算定のための︵ここにのぺる︶手続を紹介するにあたり︑原価研究の目的
( 1 )
と価値とに関して本委員会の立場が明瞭に理解されなければならない﹂︑と冒頭してその﹃単位原価研究の目的と
﹁単位原価研究は︑それが行われている諸大学の管理において価値があることのわか
った事例は沢山ある︒だがしかし他の事例ではその実際上の価値が少なかったものもある︒単位原価研究があらゆ
る事例において実際上の価値あることを証明出来なかった理由は︑部分的には少くとも次の事実によるであろう︒
第一には︑研究を行うにあたつての適切にして精確な手続の欠けていること︑
を適正に解釈することが出来ないこと︑第三には︑おそらく最も意義のあるものであるが︑単位原価の決定だけで
( 2 )
は財務上及び管理上の諸問題が解決されないということを明らかにしえないこと︑などである﹂︑といつている︒
ここに﹁実際上の価値あることを証明出来なかった理由﹂として挙げられている三つの点のうち︑第一の﹁適切
にして精確な手続の欠けている﹂のは︑緩説した如く︑当時の単位原価技術の研究程度がなお未熟であったという
実情を考慮すれば︑それもまた止むをえなかった︑
釈することが出来ない﹂ことや︑第三の﹁単位原価の決定だけでは財務上及び管理上の諸問題が解決されないとい
うことを明らかにしえない﹂ことなどは︑単位原価技術上たしかに﹁おそらくもっとも意義のあるもの﹂にちがい 展望﹄をはじめ︑︐その中で︑
[~11
]
といつてもよいであろう︒しかし第二の﹁原価数字を適正に解
前記
﹃単
位原
価の
算定
﹄に
おい
て
60
︶
t io n a l co mp ar is on s
うるとこるなのではなかろうか︒ Erziehungsfaktor)
のそれであり︑ ない︒もと︑大学教育財政の分析にあたり︑﹃費用支出の︒ハァセント分析﹄や﹃単位原価技術﹄などが考究され来つたのは︑前にも言った通り︑大学教育行政の目的のため意義ある目安をうるためであり︑単位原価技術で求められた原価数字が大学教育行政の諸問題を解決するにあたつて適正に解釈されなければならないだけでなく︑さらに決
( 3 )
︹4)定された単位原価が︑財務上及び管理上一般﹁産業における原価と同じように作用し﹂︑﹁測定による管理
( co n t ro l
)﹂
に役立たなければ︑
これらについての詳論は他日にゆずるにしても︑なお一言つけくわえるならば︑すなわち従来の単位原価技術の
研究者や︑また当の﹃全国委員会﹄すらも︑単位原価技術を大学教育財政分析へ援用するにあたり︑
れをそのまま︑
ので
ある
︒
けだ
し︑
のために用いたからであるとして﹃報告﹄は︑ おそらく単位原価を求めることの意義は失われざるをえないであろう︒
一般産業のそ
いいかえると会計操作の技術として大学会計に直輸入しようと試みた︑または試みようとするとこ
ろに︑﹃報告﹄が指摘するような︑﹁解釈されないということを明らかにしえない﹂︑という脆弱さを暴露している
( 5 )
あくまで大学教育財政分析における単位原価は︑﹁教育因子としての経営﹂
( E "
r
B et r i eb a l s
﹁教育﹂現象との関連性における原価数字を分析・追求するのであって︑大学会
計帳簿にあらわれた会計的数字を探索するのではないからである︒まさにこれは︑単なる教育会計学を超えつつ︑
なおそれを包摂する︑わたくしのいう﹃教育経済学﹄︵停
on om ic s o f Ed uc at io n)
きかった原因のひとつは︑
教育
費用
分析
の展
開過
程︵
澤枯
︶
の立
場に
して
︑
はじめてよくなし
さて︑単位原価研究が従来ともすればあまり効果がないといわれた主な理由は︑それを﹁大学間の比較﹂
( i n t e r i n s t i t
, u
﹁過去における単位原価研究に対して不満の大
ひとつの機関の原価をもって他の機関の原価に比較しようとしばしば試みられたことで 六0
61
( 6 )
ある﹂︑といい︑それは﹁ことなった機関において決定された単位原価は︑それらが同一の手続によって算定されて
( 7 )
いる場合にのみ比較されうる﹂ことを無視した結果に他ならず︑いうならば﹁ことなった機関における算定は︑こ
とに比較される機関が大きさ︑範囲︑位置や組織において大巾にことなっているならば︑同じ個人によってなされ
(8 )
る場合にのみ比較されうる︑といつても過言ではないであろう﹂︒けだし︑たとえば﹁学生の教育だけを実際上
唯一の目的としている小さな教養大学
( Li b e ra l Ar ts Co ll eg e)
で算定された原価は︑研究や拡張講座︑あるいはそ
の他のサァヴィス活動などのような諸目的をもつて大巾に学生の教育を補足している綜合大学
( Un i v er s i ty )
で算定
( 9 )
された原価とは︑・区別せずには比較さるべきでない﹂からである︒
これらの点についてはすでにモゥレイも︑また一九三二年の﹃全国委員会報告﹄も︑
...L.. ノ
または いずれも同様な難点のある
ことを指摘してはいるが︑わたくしは︵一︶において︑教育測定及び評価の見地をも加味した教育経済学の立場か
ら︑いささかの批判を加えたのである︒その際︑教育原価
( co s t o f i ns t r uc t i on )
の比較が単一の大学内か︑
単一の学部内において行われる場合には︑種種の偏差をおこしうる変数
( va r i ab l e s)
がある程度極小化するが故に︑
( 1 0 )
なにほどか精確な教育成果の測定に役立たしめうる︑とのべたのであるが︑﹃報告﹄もほ性同じ結論に達している︒
すなわち﹁原価研究は︑もし正しく行われるならば︑教育機関の内部の管理上価値あるにちがいない
(s ho ul d b e o f va lu e)
︒原価の決定はあるひとつの機関内における管理や財政上の実際を︑完全に分析する第一歩のひとつと考
( 1 1 )
えられてよい﹂︑とされ︑単一機関の内部管理においては︑教育行政や財政の測定評価に役立つ十分な条件とみなさ
れている︒というのは︑教育測定の基礎となるデェタが同質的材料集団から選ばれうること︑及びこれを整序する
手続が常に同一性を保ちうること︑などが単位原価技術を成立させる基礎条件に符合しうるからででもあろう︒な
.教
育費
用分
析の
展開
過程
︵揮
村︶
教育
費用
分析
の展
開過
程︵
渾村
︶
おシェラアは︑﹃報告﹄が
"
sh ou ld be o f v a l u e '
̀
して︑それを断言的結論ではないとみなしているが︑
( 1 2 )
というのは﹁いささか疑問のあることをあらわしている﹂ものと
( 1 3 )
それは以前にも棲説したように︑一九三五年頃までの単位原
価研究の展開事情からしては︑.むしろその程度は当然であった︑といえよう︒またさらに︑たとえばハンゲェトの
( 1 4 )
あげる如き平均費用とか限界費用とかまで分析対象とすることが︑単位原価技術には必要なことである︑というよ
うな
︑
いろいろの角度からとりあげられる不備な点はなおも多くあるにしても︑それは当時におけるすぐれた研究
ただ﹃報告﹄が﹁ひとつの機関内﹂ではと限定しながらも綜合大学を﹁ひとつの機関﹂とみる立場に立ち︑ーー曇
この点はある意味においてはまさしくそうであるにはちがいないがー﹁教育に与かる
de pa rt me nt s, sc ho ol s
や
co ll eg es
とか
︑
カルキュラムとか︑学生の進学水準とかの間における原価の偏差︑また数年にわたる機関全体とし
てみた
( th e
甘
s t i t u t i o n a s
a
wh ol e)
原価の偏差は︑ただちに原価を決定する諸因子をさらに検討する段取りになる
( 1 5 )
にちがいない﹂︑とのべ︑また﹃原価算定に含まれる諸要素﹄の第一に掲げている﹃管理上の基盤﹄
( Ad m i ni s t ra t i ve
( 1 6 )
B as i s )
の中でも︑﹁機関全体に適用する原価がおそらく算定される最初の原価にちがいない﹂︑とのべている点な
どは︑むしろ批判の的となってもよいであろう︒けだし︑わたくしが単位原価技術の行われうる﹃管理上の基盤﹄を
( 1 7 )
﹁単一の機関﹂とするのは︑すでに︵一︶で若千関説したとおり︑﹁教育費計算単位﹂
( un i t o f i ns t r uc t i on a l c o s t co m‑ p ut a t io n
s )という教育測定の立場からみて最も妥当と考えられうるからであって︑﹃報告﹄のごとくに﹁単一の槻関﹂を
綜合大学の場合にとれば︑たとえ管理上統制的一様性を保持出来るとしても︑管下にある各学部ごとにある意味で
( 1 8 )
は少くとも異質的な教育が行われ︑またミレエの指摘する如き教育の水準
( l e v e l s o f i ns t r uc t i on )
による差等もありう であったことにはかわりはないのである︒
'
ノヽ.
63
るがために︑単位原価技術を行うべき材料集団がまことに複雑となり︑
較︑すなわち﹁大学間の比較﹂の場合とかわらない事情と︑そこに当面を余儀なくされざるをえないであろう︒
さて﹃報告﹄は﹃原価算定にふくまれる諸要素﹄の第一に﹃管理上の基盤﹄をかかげ︑
( 1 )
第一の諸要素のひとつは︑本研究の行われる管理上の︑すなわち学問上の︑基盤である﹂とし︑
る原価がおそらく算定される最初の原価にちがいないであろう︒加えて機関の主だった区分︑すなわち
co ll eg es
と
か
啓h
8l s
とか︑その他の学問的単位とかにおける原価と︑その区分内における教育の各種部門の原価とを知るこ
とは価値がある︒更に提供される各種のカルキュラムや課程などの原価も重大である︒そして最後に︑各種の成業
すなわち
Ju ni or
, co
ll eg e
とか
Se ni or
, col
le ge
とか︑または
Gr ad ua te
とかの
( 2 )
レヴェルにおける学生教育費を知ることが望ましい﹂︑とつづけている︒これは大学教育費用支出の分類上ではラッ
( 3 )
セルのいう﹁機構単位︑すなわち位置づけ﹂
が単位原価技術の﹃管理上の基盤﹄とされるに適するのは︑
( 4 )
通常であり﹂︑教育評価の対価物として価値あるのはかかる基礎による教育予算だけである︑と認むべき実情にも
( 5 )
とづくのであろう︒なおラッセル自らもこの﹁機構単位﹂を重視してはいるが︑これはまた﹁注意ぷかく規定さる﹂
べき﹁分析の主題﹂のひとつとして︑
( 6 )
ならない﹂︑とするものに相当するでもあろう︒
教育費用分析の展開過程︵椰村︶
︶
︑
レヴェルr
l e v e l s o f ac hi ev em en t
︹i i i
︺
ハンゲェトの
六
﹁分析の範囲
( t h e s co p o f e t h e a n a l y s i s )
﹁教育機関の予算は機構単位の基礎で調製されるのが
( Or g a ni z a ti o U n n i t o r L o c a t i o n )
の基準によるものというべく︑
これ
﹁原価決定上考慮さるべき
﹁機関全体に適用す
が決定されなければ ﹁単一の機関﹂とはいえ数個の大学間の比
64
拙稿﹃教育経済学の一般理論﹄に詳論するであろう︒ 重要でなければならない︒けだし︑ 教育費用分析の展開過程︵薄村︶
ところで﹃報告﹄の﹃管理上の基盤﹄としてあっかう費用支出分類は︑ただに﹁機構単位﹂によるのみならず︑
( 7 )
さらにラッセルのいう﹁機能﹂
( f u n
c t i o
n )
! : , / .
よるものをも併用している︒いうまでもなくこれは︑明記されている
ところではないがいわば当然のことであり︑あるいは既定のこととして詳言を省略されたのでもあろう︒もと教育
の単位原価分析にはこの﹁機能﹂の観点よりする費用支出分類が︑
ex
pe
ns
es
との二大区分であるが︑ ﹃管理上の基盤﹄として︑
﹁機能﹂観点よりまず分類さるべきは ﹁機構単位﹂と同様
a c a d
e m , i
c expen8€
" s
と
no
n, a
ca
de
mi
c
( 8 )
この点は﹁原価研究の価値に関して懐疑的である﹂ミレエですらも
" a
d m i n
i s t ,
r a t i
o n
an
d g e n e r a l "
とょ
' p l a
n t
o p e r
a t i o
an
nd
m
ai
nt
en
an
ce
̀︑とが原価計算を行いうる
ぁ5
]
と述べており︑ ﹁二つの主要な範疇で
﹁これらの経費費目は︑単科又は綜合大学の教育職員とはことなった管理職員の責任事項で
( 1 0 )
あって︑従つて﹃管理費用﹄
( a d
8甘
i s t r
a t i v
e c o s t
s )
として分類されるものであろう﹂からである︒
また﹃報告﹄が﹁各種の成業レヴェルによる学生の教育費﹂︑といつているのは︑ウェルズの﹁各種の教育レヴェ
( 1 1 )
ルをまかなう方法に対する要件﹂︑というものに相当し︑教育原価計算のビィクに当る問題であり︑その原価分析 は極めて困難であるが︑単なる教育会計学
( E d u
c a t i
o n a l
A c c o
u n t i
n g )
ではそれはまさに超限数的範囲であって︑こ
こにわたくしが﹃教育経済学﹄なるものを考えた動因のひとったる﹁教育と経済との切点﹂の問題があるといえよう︑
( 1 2 )
( T a n
g e n t
e n , P
u n k t
)
であるだけにコォヘンの哲学をかれば︑
さ れ ば
﹁ 切 点
﹂
﹁ 教 育
11
経済﹂現象における﹁教育﹂
と﹁経済﹂との生産点
( E r z
e u g u
n g s p
u n k t
)
であるといつてもよいであろう︒なおこれらについては他日発表予定の
六四
615
原価算定の諸要素の第二は﹃原価研究で用いられる期間﹄
(P er io d of T im e c ov er ed i n a Co st S tu dy )
であ
って
︑
( 1 )
﹁原価研究を関係させるに適切な期間を選択することの重要である﹂ことはいうまでもない︒
(a pp ro pr ia te
)という形容詞は入念な︑しかも極めて重要な意味をもつものとおもわれる︒というのは
( 2 )
財政的デェクとが本研究で用いられる期間にとくに適応することが本質的な要件である﹂から︑﹁期間﹂
︵年
二学
期制
の︶
学期
︵器
m
gter)
とか︑または大
of
甘 T
1 e)
は﹁学期すなわち四分の一学期
(t er m or q ua rt er )と
か︑
( 3 )
学年度
(a ca de mi c ye ar )
とか﹂が用いられるであろう︒
上すぐれた見識というに値する︒たとえばラッセルの如き﹁原価分析﹂研究者でさえ︑
てはあまりこれには論究を加えず︑ただ﹃予算手続﹄のところにおいて予算期間の問題に関し︑
政期間として学期か月か︑または他の明瞭に規定された期間かを採用することも出来ようが︑しかし経験の示すと
( 5 )
ころでは年度
(t he ye ar )
とすることが最も適当な予算期間である﹂
大学年度を予算期間として原価分析の行われるべき﹁期間﹂の前提とみなしているのは︑その﹁原価分析﹂が何程
( 6 )
か事後的操作の色彩を脱しきれないところからして︑また無理からぬことといいえよう︒
( 7 )
この点はラッセルよりもハンゲェトの方が﹁原価分析の技術﹂(T8
hn iq ue s of C os t An al ys is )'
に 由
tE
1し
てお
り︑
( 8 )
彼は﹃分析の主題﹄の第一要件として﹁分析の行われる期間が決定されなければならない﹂ことを指摘し︑その期間
の中ででも﹁どのような特殊な期間で﹂
(w it h wh at sp e c if i pc er io ds
)︑として﹁原価研究﹂の対象の如何による﹁期
( 9 )
間﹂上の変差を暗示しており︑かかる考慮の下に度たび﹁問題とされる期間﹂
(t he ti me period or
th e period
un de r
教育
費用
分析
の展
開過
程︵
揮村
︶
︹i V
︺
六五
とのべているにすぎない︒彼がこのように︑
﹁適
切な
﹂
﹁在学生数と
﹁大学ではその財 この点をやや詳細に分析しているのは︑﹁原価分析﹂研究
( 4 )
﹃費用支出の分析﹄におい
(P er ic d
この
66
た﹂
が︑ ︹ > ︺ 教育費用分析の展開過程︵渾村︶
さてわたくしが原価分析において﹁期間﹂を重要視すぺきだとするのは︑原価分析が﹁教育の原価計算﹂
c at i o na l o r I n s tr u c ti o n al Co st Ac co un ti ng )
で4のス
3か
ぶ uhソ
︑土
JS
い は
4の
/ * 6 で
﹁蜘
5宰E
﹂シ
d^
ク析
対年
年と
ナ
9る ょ
9のであり︑し
かも教育はまさに﹁過程﹂
も一課目
(a c re d i t)
のそ
れが
︑
th e
ye
ar
( pr o c es s )
として把握されねばならないからなのである︒けだし︑教育過程が︑
te rm or qu ar te
rで終了するものもあれば︑また
を要するものもあり︑
ac ad em ic y e a r)
と符合しない︑すなわち二つの大学年度にわたる講義もあり︑
が大学教育の現状であるからである︒ここにハンゲェトの﹁問題とされる期間﹂を条件とすることが適切であると
﹃報告﹄が﹁原価研究で用いられる期間﹂をとりあげながら︑そ
( 1 1 )
の﹁最も望ましい期間は完全な正規の大学年度
( th e f u l l , r e g ul a ar ca de
B
i c ye ar )
である﹂︑としているのは︑正鵠
を射んとしてまさにそれを逸したとのそしりを免れえないのではなかろうか︒
( 1 )
さて第三の要素として﹃報告﹄がかかげるものは﹃使用される諸単位﹄
(U ni ts em pl oy ed
) である︒もと原価算定に
は﹁原価の基礎となる諸単位の選択﹂が﹁重要﹂であり︑すでに﹃報告﹄以前に﹁使用されていた単位は数種あっ
.
﹁同委員会では﹂それらを検討した結果︑標準的とみなされうるものを推奨した︒すなわち﹁学生﹂st ud en
t) または﹁学生数︑もしくは在学生数﹂︑ 考えられる所以も存する︒この観点からすると︑
( th e n um be r o f s t u de n t s o r th e e nr o l lm e n t)
が対価甚盤とされる その他隔年のものもある︑
らに
またさらに一ケ年が普通といつてもその
( 1 0 )
re vi ew )
を分析条件として論じているのである︒
器m窟
te r
で完結するもの︑さ
一ケ年が正規の
六六
一大学年度
( th e
というの
(a n
少くと (
Ed u‑
67
てラッセルのいう如く︑ ﹁単位原価が出席学生
( st u d en t si n
at te nd an ce )
数を基礎とさるべきであるならば︑
( 7 )
在籍名簿を計算する標準的な方法をもつことが肝要である﹂︑と指摘しているのであって︑まさにこの点にまつわ
る曖昧さが除き去られずしては︑原価算定上﹁学生﹂または﹁在学生数﹂を容易に使用することはむつかしいであ
ろう︒たとえば大方の大学において︑在学生として報ぜられる数は︑﹁一ケ年の間のある時に在籍者名簿の頁に名
( 8 )
前のあらわれたすべての学生﹂をいみしているのが通例であるが︑これらの中には一学期のうちある時間だけ出席
するものもあれば︑また十ニヶ月︑すなわち一ケ年間の全時間課程を修めているものもあり︑これらを同列に︑少
くとも教育の原価計算対価物として同一に︑取あっかうことは出米難い︑といわなければならないであろう︒従っ
﹁在学生数報告にあたつて﹃学生﹄についての精確な定義の欠けていることが︑単位原価
技術では単に在学生
(t he st ud en t e nr o l le d )
( 9 )
る︑という暗示を与えたのであ﹂ろうことは︑
さればハンゲェトも﹁総合経費
( 1 0 )
c os t s )
が問題とさるべきならば︑学生数が全時間学生の等価量であらわされる﹂︑というのである︒
教育費用分析の展開過程︵揮村︶ めており︑またラッセルも︑
想像するに難くない︒ というよりもむしろ
f u l l
, t
im
e
をいみするのか︑
これ
らに
は︑
とこ
ろで
︑
﹁教育のある型や︑またはある水準についてのコストは︑学生
( 4 )
当り
( pe r st ud en t)
同一であるべきだ
(s ho nl
db e )
ということ﹂が﹁前提﹂とされるのはいうまでもないのである︒
( 5 )
として学生を用いることは評判通り不精確である﹂こ﹁作業測定単位
(u ni t o f wo rk me as ur em en t)
とは︑︑レェの指摘するところであり︑彼はその理由を︑
わち在学する全学生とは︑ ﹃トルーマン報告書﹄のいうように︑ す2)のである︒なおハンゲェトも﹁教育の単位原価では︑
﹁学生全時間等価量
六七
( f u l l , t er e st ud en t e qu i v al
g
t s ) ︑
( 6 )
それとも
pa rt
︑ 巳 n e
をいみするのか﹂︑の曖昧さにもと
﹃全時間等価量﹄学生が常に問題とさるべきであ
で 巴
適当な分母は学生数である﹂︑
(o ve
r , al
l
すな としているのであるが︑勿論
68
は ︑ ( 部における教育原価
1 5 )
い﹂であろうからである︒
( co s t o f i n s tr u c ti o n )
とは︑総費用支出を全人口で除してえた商であるから︑
﹁教
育の
﹁学生在籍者数を基礎とする単位原価は︑しばしば﹃個人当り原価﹄として引合
( 1 2 )
いに出されることがある﹂が︑﹁この術語の使用は不精確である﹂︒けだし通常財政学研究でいう﹃個人当り原価﹄
これを教育財政の分野に移して用いるならば︑
( 1 3 )
﹃個人当り原価﹄とは︑全人口で教育のための総費用支出を除したものをいみすることになろう︒従って﹃個人当
( 1 4 )
り原価﹄という術語は︑学生当り費用支出を問題とナることが意図されている場合には避けらるべきである﹂︑と
ラッセルはいう︒しかし乍ら︑財政学上の術語であるからそれをそのままに教育会計学に援用するのは当をえてい
ない︑とするのはいささか乱暴な推論の趣きがあり︑かえつてむしろわたくしが︵一︶で関説した如くに︑教育会計
学上計算の誤謬をおこしやすいという点を︑問題として指摘すべきであったであろう︒たとえば︑﹁ある単一の学
は大学に在籍する学生の総数に関係させられることが正当ではありえな
たとえばヴァン・ダイク
( 1 6 )
ところで︑教育の原価分析において使用される諸単位として﹁在籍する学生﹂を用いることについては︑教育原
価計算論者の中にも︑その曖昧さを払拭しえないことを理由に︑反対する人びともある︒
﹁個々の学生は正確な単位でないことがしばしばある︒というのは︑学生はその修得する課業の量において相
当差異がありうるからである︒ひとつの大学に在籍する学生の多くは︑従来の四年制大学コースを修業しおわるた
め各学期所定の時間数教室や研究所に出席し︑正規の研究コォスをおさめているとしても︑多くの学生の修める課
業の量には多い少ないがあるが︑これはそれぞれ学生の便宜や機会を設けるための経費の多寡を招来することであ についてふれておこう︒すなわち︑
( 1 1 )
ラッセルはさらにこれと関連して﹁個人当り原価﹂
(p er c ;p i t a
c g百︶について関説しているが︑ 教育費用分析の展開過程︵渾村︶
六八
いま若千これ