『日本アジア研究』第
11
号(2014年3
月)最後の徴兵で沖縄戦に駆り出されて
――ハンセン病療養所「星塚敬愛園」聞き取り――
福岡安則
*
・黒坂愛衣**
ハンセン病療養所「星塚敬愛園」に暮らす
80
歳代男性のライフストーリー。宮平栄信(みやひら・えいしん)さん――園名は岡忠(おか・ただし)――は,
1926
(大正
15
)年,沖縄県渡嘉敷村生まれ。1945
(昭和20
)年1
月,繰上げ徴兵 検査。同年3
月,入営。同年6
月23
日の沖縄戦の戦闘終結以後,12月の投降 まで,沖縄本島を逃げまどう。1950
年5
月,沖縄愛楽園入所。1954
年,軽快 退所。1年間,米軍基地で働いた後,結婚の約束をした岡みどりさん(園名)と本土へ渡る。安定した仕事が見つからず,
1955
年,夫婦で星塚敬愛園に再 入所。妊娠したみどりさんは,沖縄の宮平さんの実家で出産,一子をもうけ る(なお,夫妻にはもう1
人,みどりさんの連れ子の男子がいる)。1968年,再び退所して,愛知県のトヨタ自動車株式会社の工場に勤務。
1986
年,満60
歳の定年を機に敬愛園に戻り,今日に至る。宮平さんが,わたしたちの聞き取りの依頼に応じる決意をしてくれたのは,
沖縄戦の体験者として,いわば生き証人としての語りを,もはや何も知らな い若い人たちに伝えたいという想いからである。その想いゆえに,宮平さん は,あえて,園名=偽名ではなく,本名で,自分の語りが公表されることを 望まれた。
じっさい,宮平さんの語る沖縄戦は,すさまじい。旧制中学を繰上げ卒業 で召集された同級生
15
人のうち,生き残ったのは宮平さんただ1
人だったと いう。米軍が上陸したのに対して,「斬り込め!」の命令で突撃した日本兵 を待ち構えていたのは,米軍の機銃掃射であり,緒戦で彼の所属する部隊は 跡形なくなったという。さらに,撤退した沖縄本島の南端では,アダン樹に 隠れる民間人たちが米軍にアダン樹ごと丸焼きにされた光景を目撃してい る。半年後,投降した宮平さんが,しばしの捕虜収容所暮らしのあと,故郷 の島に帰ると,彼の姉は「集団自決」で無残な死をとげていたことを知る。宮平さんの場合,「沖縄戦」と「ハンセン病」という,いずれも希有な体 験を
2
つながらに,重層するかたちで体験している。戦後しばらくして,宮 平さんはハンセン病を発症。沖縄愛楽園に入所するが,特効薬プロミンが登 場していたことで早期に回復し,また,後遺症がほとんどなかったことによ り,やはり後遺症のない妻と一緒での社会復帰が可能となった。それゆえもあってか,どちらかといえば,彼は「ハンセン病」体験は淡々 と語ったが,それでも,彼の語りを通して,わたしたちに見えてくる貴重な 情報がある。仕事を求めて本土に渡った宮平夫妻だが,安定した職が得られ
* ふくおか・やすのり,埼玉大学名誉教授,社会学
** くろさか・あい,埼玉大学非常勤講師,社会学
本稿は
JSPS KAKENHI Grant Number 22330144
,25285145
の助成を受けた研究成果の 一部である。ずに,みずから鹿児島の「星塚敬愛園」に再入所する。そのとき,つれあい の妊娠を知り,宮平さんの里である沖縄の島に,妻をいわば“逃がす”こと で,「堕胎の強制」から逃れたのであるが,妻が沖縄愛楽園入所以前に産ん だ連れ子は,敬愛園の附属保育所に入れたが,ふたりのあいだに新たに生ま れた子どもは,敬愛園の保育所には入れてもらえずに,外の児童養護施設に 託さざるをえなかったという。昭和
30
年代になってもなお,入所者の妊娠・出産・育児を認めようとしない,療養所側の頑なな姿勢がここでも再確認さ れるのである。
宮平さんは,2012年
4
月22
日の聞き取り時点で,86歳。聞き手は,福岡 安則,黒坂愛衣。2012
年9
月26
日に補充聞き取り。〔 〕内は,文意を明確 にするための編者による補足である。2013年6
月1
日に原稿確認。原稿確認 の際の補足の語りは《 》で示した。キーワード:沖縄戦,ハンセン病,ライフストーリー
沖縄の慶良間列島に生まれる
ぼくのなりゆきはですね,もう
50
所帯ぐらいの,小さな部落ですから,部 落そのもの自体が一家族みたいなものですよ。だれがどうした,だれが立ち小 便(しょんべん)をしたって,ぜんぶわかって。あの,それじゃ,最初からスタ ートしましょうかね。わたしは〔普段は〕園名(ニックネーム)を使ってるんだけれども,本名(ほん めい)は宮平栄信(みやひら・えいしん)です。〔なにか悪いことでもして〕逃亡し て,隠れてでもいるンであればですね,本名(ほんめい)は秘密(あれ)だけど,
〔そうではないから,出していただいてけっこうです〕。大正
15
年〔生まれ〕,寅年(とら)です。〔
86
歳。〕〔生まれたのは〕沖縄県島尻郡渡嘉敷村(とかしきそん)字(あざ)阿波連(あは れん)。離れ島です。飛行機が沖縄空港に降りるときに,左側に海が見える場合 にはですね,あすこに離れ島があるんですよ。ニックネームで慶良間(けらま)
と言っています。ぼくなんかは,那覇に近いほうだから,前慶良間(めぇけらま)。 親父は,鰹船に乗って,一本釣りをやっておったんですが,終戦後,南洋か ら引き揚げてきて,〔そのあとは〕半農半漁です。〔やっと〕自活するような〔暮 らし〕。親父は三男ですから,親からの,畑やら田んぼの譲り受けはほとんど なかったと思う。きょうだいが多いもんですからね,分け前がなくて。
ぼくのきょうだいは総勢
5
名おったんですけどね。2
人はもう戦前に亡くな ったんですよ。それで残った3
人がですね,いちばん〔上〕は女。ぼくが中に 挟まって。〔下に〕妹が〔いて〕。いま現在のところ〔健在なのは〕妹と〔わた しの〕2人です。小学生のときに家族でポナペに
〔ぼくは〕小学校
4
年まで島におってですね,それから南洋に,親父が「来 い」と言うもんで,おふくろと姉さんと妹とぼくと〔家族〕4
人でポナペへ行 った。当時,数えの11
だからよくわからんけれども,〔まず〕鹿児島へ来て。それから,汽車に乗った覚えはあんまりないんですよ。だから,なんで行った かよくわかりません〔が,とにかく〕下関へ行って。下関から船で〔横浜へ〕。
富士山を海から見た。〔日本を〕出るのは,横浜から。パラオ丸で
1
週間ぐらい,海の上に。パラオ〔島〕へ行って。トラック〔島〕へ行って。それから,
ポナペかな。〔港ごとに〕荷物を降ろし,そこに降りるひとは降ろして。また,
そこから次のところへ乗るひとは乗って。
〔親父はポナペで〕鰹釣りですよ。沖縄出身のひとが,鰹節の製造〔をやっ ていた〕。〔鰹を〕獲ってきて,〔鰹節に〕加工して,乾かして。ほぃで,それ をどっか,内地に送るンかどこへ送るか〔そこは〕よくわからんですけれどね。
ポナペは,意外と,豊かなところですよ。〔言ってみれば〕親父から勘当さ れても生き延びていける。椰子の実があるし。バナナが自由自在にあるしです ね。山芋みたいなもんがあるし。それで,火の心配がないんですよ。火を熾(お こ)すのには,藁やゴミを集めてですね,摩擦を起こしてやれば,火〔がつく〕。
それで,水はあるし。
むこうの島民〔との交流ですか〕。学校は別にあったんですよ。そこで,ま ぁ,本を読むというよりか,日本語を勉強するという格好ですね。ぼくらが行 ったときは,
24
,5
〔歳〕ぐらい,30
〔歳〕ぐらいの,おっさんみたいのもお って。あらぁ,いくつなンだろうかって。殺害事件が起きたときでもですね,なんだかんだ彼たちばかりを責めて。「そ んなことをしてはいかん。人殺しをしてはいかん」と。それで,話は終わり,
警察の。
どっちかというと〔島民たちを〕苛めて。学校にも,ボーイというのがおっ てですね。ようするに,学校の小使い。だから,休み時間に,友達どうしで,
「おい,あれ,呼んでこい」つってから,「椰子の実を取れ」と言って。そし てまた,上手いものなぁ。このぐらいの鉈で,こうこうこうやって〔実を切り だして〕。――椰子の実,おいしいですよ。
中学受験で沖縄に単身戻る
それがですね,おじさんが〔渡嘉敷村の〕助役しておったんですよ。村長や らずに,万年助役。そのかわり,采配を振るってですね,ワンマンなあれだっ たんですが。だから,ちょうどぼくなんかの中学受験のときにも,おじさんが 勝手にあっちだこっちだって,捌(さば)くって,受験させよったんです。
パラオには〔昭和〕16 年には中学ができて,サイパンには実業〔学校〕が ずっと前からあったんですよ。〔しかし,ポナペには〕中学がないもんだから,
高等〔科〕
2
年のときに,沖縄のそのおじさんにですね,「とにかく中学に行 かすように」ということで,ぼくは単身,島に戻ってきたんですよ。〔学費は 南洋から〕親父が送ってくれて。〔ぼくが通った中学は〕いまはもうないんですが,〔私立の〕開南(かいなん)
中学だった。真和志(まわし)のほうにあったんですが,いまは那覇市になって ます。〔もう勉強よりも〕軍事教練。執銃各個教練(しつじゅうかっこきょうれん)。 中学
3
年までは教科書(ほん)を見たことがあるが,もう4
年からは飛行場 の掩体壕(えんたいごう)掘り。それから,高射砲陣地作り。学校もいい加減な もんで〔勉強は〕なにもせんで,穴掘りばかりさせるもんだから,「おまえの ところに行こうや」って,友達同士誘って,国頭(くにがみ)のほうに〔遊びに 行ったこともある〕。しかし,もう,アメリカが空襲に来て。
10
・10
(じゅうじゅう)空襲いうてで すね,〔昭和〕19年の10
月の10
日(とおか)。それは,ただ,那覇の港におる船だけに爆弾を落として,陸はやらんかったです。
1
日に1
回か2
回ぐらい来 て,船をやって。繰上げ卒業,徴兵検査,入隊
ぼくはちょうど戦争に巻き込まれてのあれですから,〔旧制の〕中学も,あ ンときは
4
年で切上げ卒業ですよね。卒業前,〔昭和〕20年の1
月に徴兵検査 を受けて。そして,兵隊へ行ったわけですよ。〔同級生が〕15
名ぐらい行って,そのまま帰ってこんですから。ぼく
1
人〔生きて〕帰った。ぼく1
人〔生きて 帰って〕来たもんだから,〔同級生の〕親からは,えらい嫉妬を受けてですね。「うちのなになには,どこに?」小さい沖縄の本島でですね,「どこへ行った か知らんか?」と。
〔兵隊に〕出ていくときは「行きます」と言って,みんなに見送られたんで すよ。「行ってきます」じゃなくて,「行きます」。そして,月桂冠の清酒(あれ)
で別れの盃(あれ)を〔して〕。――〔ぼくの島に来た日本軍の隊長は〕赤松大 尉っていって。そして,《ベニヤ板で作った》舟でアメリカ〔の軍艦〕に体当 たりをするという,そういう形式の特攻隊の演習日になったら,民間人はみん な,演習は見ちゃいかん,うちから出てはいかんということで,
3
月の1
日(い っぴ)に入隊するようになってたんですけども,3
,4
日ぐらい,ぼくは遅れて 入隊したんですよ。〔それと〕海を渡ってくるのに,そのころ〔敵の〕潜水艦 が出没するということで,そのあいだを縫って那覇まで来にゃいかんかった〔ということもあって〕。そして,那覇の軍司令部に行ったときには,もう焼 けてなかった。臨時的に真和志(まわし)のほうに司令部(それ)があって。で,
そこに行って,「何部隊に入れ」という指令〔が書かれた〕紙切れを見せたら,
「うん,これは,真和志の国民学校だ。わかるか?」「はい,わかります」「じ ゃあ,行きなさい」と。――ぼく〔が配属になったの〕は球(たま)
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大隊。楠瀬(くすのせ)大隊長。大尉だったです。〔その前に〕戦争の稽古をしてると きは,教育隊〔に所属〕。〔初年兵で,位は〕二等兵です。星,
1
丁です。で,ひとりでノコノコやってきたら,もう部隊の演習が始まっておった。最 初は,銃を持って匍匐(ほふく)前進。第一匍匐,第二匍匐,第三……〔とある〕。 とにかく立てば立つしこ敵の標的になるから,しゃがむ。しゃがんで体位を低 くすればするほど,当たる率は少ない,というふうに,練習をしよったんです よ。
それで,
3
日遅れたからですね,3
日分の官物に「注記,入れなさい」「ぜん ぶ名前を入れなさい」と言われたから,丁寧にやってたら,「もう,終わった か?」って。「いや,まだです」「帽子は終わったか?」「いや,まだです」「な にも終わらんじゃないか!」「はい」「早うせにゃいかん」。演習に行って,昼 飯食べに帰ってきたときに,「もうできたか?」「いや,まだです」「早ぅしな さい」。「早くせぇ,早くせぇ」って。もう,〔宮平の〕「み」だけぜんぶ,入れ ておったんですがね。そうしたときにですね,トイレに行くために自分の部屋 から出たんですよ。そしたら,「どこへ行くか?」「便所へ行ってきます」。そ こで「便所」と言うたもんだから,叩かれ役。「厠(かわや)」と言わにゃいか んかった。ほうして,〔戻ってきて部屋に〕入ったら,「おい,おまえは泥棒か?」っていうから,「いえ,違います」「飛び込まんか!」水泳のように,部屋へ「飛 び込め!」足から入ったら,「手から入るんだ。頭から入るんだ」って。
そのうち,「おまえたちは,あと何ヵ月もすれば,おれたちよりも〔位が〕
上になるから,いまのうちに叩いておかにゃいかん」って,なりだしたですよ。
〔中学を出てるぼくたちは〕幹部候補〔生〕の受験,受ける〔ことになるから〕。
〔ところが,わたしは〕それをまた,申し込まなかったために,また叩かれ役 ですね。わからんとよ。申し込みなさいとか,何しなさいという予告はないも んだから。で,「いや,それはわかりませんでした」と言ったら,また怒られ る。「わからない」ということは,教えてないということでね。「忘れました,
と言わんか!」って。「われわれは教えたんだ」と。「おまえが忘れたんだろう が!」
そのときに,「軍人勅諭」を,覚えるのはいいけれども,書くのがですね,
変体仮名で書くんですよ。あれが厄介で。それから,「戦陣訓」。あれはむずか しくて,なかなかわからんかったけれども,いま言うたように,「忘れました」
という言葉しか〔使ってはいけない〕。「わかりません」ていうことは〔禁句〕。
〔「忘れました」と〕言わにゃあ叩かれる。
擲弾筒分隊に配属
そうこうするうちに,3月
23
日に,敵の,飛行機の爆撃が始まったわけで すよ。ぼくなんかは,真和志の楚辺(そべ)国民学校ですね,あそこに,あの,兵舎がないもんで,そこの学校の校舎(あと)をぜんぶ接収して,そこで兵隊 の演習しておったんですけれどですね。
3
月の23
日にそこを引き払って,首 里の後ろの経塚(きょうづか)というところに行って,そこで待機。ちょっとし た松林に陣を取って,教育隊長が「穴を掘れ」と。で,自分の衣服類を入れら れるぐらいの壕を自分たちで〔掘って〕。それで,そこに,着物とか私物とか そういうのをぜんぶ納めて,蓋をして埋めた。もう,そこには二度と来ンとい うあれだったんじゃないかと思いますね。首里というところが沖縄戦の首脳部〔のいるところ〕ですよね。で,そこが やられるということはもう,降参と一緒で。そこが大きな〔戦略拠点〕なんで,
そこまで行って。で,これは只事じゃないというので,「みんな,戦闘配置に 付け!」と。「戦闘配置に付け」と言っても,〔まだ〕その練習はしてないんで すよ。――だいたい一個小隊という小隊はですね,4分隊からなるんです。一 分隊はつったら,15名ぐらい。4分隊で
60
名ぐらい。それで,第1
分隊と第2
分隊は,小銃班。第3
分隊が,歩兵で花形の軽機関銃ですね。第4
分隊が,擲弾筒(てきだんとう)。
擲弾筒(てきだんとう)というのは,撃ったらですね,遠距離を彎曲で弾が落 ちる。分隊長が「距離,何百。撃て!」と言ったら,〔砲撃手は〕自分の勘で,
こうやる。これを見張る班長が丘のところにおって,弾着がですね,敵の手前 で爆発したか,通り越して爆発したか,それを見る。擲弾筒の距離を測って,
オシベリ,ヒキマシの合図をするわけですよ。オシベリは〔弾が標的に〕届か ない〔という合図〕。ヒキマシは〔弾が標的を〕飛び越してるわけですよ。あ の,転輪(てんりん)というんです,〔弾の飛ぶ〕距離を調整(あれ)するの。
弾薬手は,こっち側のほうに筒がありますから,半屈(かが)みになって弾 を入れる。そして,「距離,何百」って言ったら,こう,転輪ひきますよね。
これ,夜の仕事ですからね。相手〔の攻撃〕は昼だけども,こっち〔の反撃〕
は夜だものね。すべて〔暗闇のなかで〕手の感覚〔だけでやる〕。〔指のこの形〕
これ,3センチ。これ,10センチ。自分自分でからだに教えて。これ〔掌を開 けば〕
15
センチですね。というふうに,基本を自分のからだで覚えておかん と,弾の飛ぶ距離とかいろんなものが〔正確に設定できない〕。アメちゃんの 場合には,もう〔敵が〕おろうがおるまいが,乱射すれば,どれかが当たる。そういうかっこうの〔やり方〕。〔彼らは〕弾は〔いちいち〕持って歩かんです よ。置いていくんです。で,これは,次の人のものになる。日本〔軍〕は,そ うじゃない。一発でも〔無駄に〕撃っちゃいかんと。持ち歩きするあいだに〔そ の兵隊が〕倒れてしまえば,その弾はぜんぶ〔回収していく〕。
最初はもう,いまいうたように匍匐前進〔の訓練〕。〔しかし〕なにも持たん で,ただ這(ほ)うて歩くだけじゃあ,これでは仕事にならない,ダメだとい うことで,蛸壺を掘りだした。蛸壺を掘って,そこに爆雷をですね――あの,
急造爆雷というんですよ。急いで造る爆雷ですね。四角い,このぐらいの箱に 火薬を詰めて。それで,〔敵の〕戦車が来るときに,戦車の〔下に投げ込む〕。
それ,
2
メートルは投げられんぐらいの重量(あれ)ですよ。ちょうどぼくたち の年(じだい)に2
回,徴兵検査があったんですがね。ぼくらよりも1
つ上のひ と。で,ぼくたち。ぼくたちがもう最後の徴兵検査だった。二十歳(はたち)と言うてるけれども,いまの子どもさんたちに〔合わせて満で〕言わしたら,
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〔歳〕何ヵ月という年齢なんですよ。だから,〔まだ大人の体になりきって なくて〕急造爆雷を投げきれんですよ。投げて,引っ込んで,伏せて,ってい うような稽古。はたして,至近距離(そこ)に来るまでにはね,むこうは,草 刈りカマキリみたいなもので,ババババババッて撃つでしょうが。顔をあげる 余裕なんかないですよ。それで,蛸壺を掘って〔爆雷を持ってそこに隠れて待 つという〕そういう戦車対戦法ですね。それでやろうということで,教えられ た。「おまえは,なになに1
人を連れて,壕を掘って……」壕といっても〔せ いぜい〕頭が入るようなやつで。で,戦車に対する対戦法を,こう,真っ暗で 投げる練習しなさい,と。だけど,それは〔実戦では〕やれんかったですがね。もう,それやる前に……。
4
月1
日,米軍上陸〔実際には〕それする間もなく,現地入隊の初年兵だけでは戦争はできんと 思うたんでしょうね。これじゃいかんと。はじめて自分の本部隊にですね,連 れて行かれた。受取人が来て,ぼくと比屋根(ひやごん)というのと
2
人は,擲 弾筒分隊から何々大隊に連れて行かれたんですよ。連れて行かれたら,城内(し ろのうち)中尉ちゅう中隊長がですね,「きみたちの島に,敵1
人たりとも許す べきじゃない」と。許すべきじゃないって,もう〔敵は〕北谷(ちゃたん)に上 陸してるんだね。許している。アメリカは,最初は,中城(なかぐすく)湾のほうから,見せかけの上陸〔作 戦〕をやったんですよ。それでどういう反応が出るかって,やって。で,〔い ったん〕引き下がってですね,こんどは反対側に行ったんだ。北谷のほうに。
あそこから,砲弾を撃ち込んで。それで,もうこれで大丈夫と思うたときに上 陸開始して。すぐ,沖縄本島を真っ二つに分断(あれ)してしもうて。〔それが〕
4
月の1
日ですね1。1 補充の語り。《〔米軍はほんとの上陸地点を〕相手に悟られンように,最初は,東海
で,中隊長は「ゆっくり休め」と。「きょうはゆっくり休んで,あしたから 戦闘に参加するから」。麦藁を敷(ひ)いた〔ところに〕,毛布
1
枚を半分に折 って,半分は被って,半分は敷布にして。そしたところが,〔「ゆっくり休め」と言った〕口が乾かんうちに,非常呼集をくった。「斬り込みに行くから,小 銃,乾パン,水筒,手榴弾,一式を準備しろ!」準備しおわらんうちに,「出 発!」
それで,ある程度行って,それこそ匍匐前進ですね。這(ほ)うて前進(あれ)
するときに,〔みんな敵の〕弾に当たって。それで,ぼくの後ろから尻(けつ)
を突つくんですよ。「前進しろ」と。前のひとをぼくは押すんだけども,応答 なしです。前を突つくけれども,前が進まんもんだから,ぼくも進まん。そう こうしてるあいだに,後ろのほうの中隊長がやられてしもうて。そしたら,上 等兵がですね,「こりゃあ,いかん」と,担いで,あの,沖縄の墓ですね,あ あいう四角い門中墓(あれ)がありまして。あすこにですね,担いで行こうと したら,人間が立ったら,弾の当たる確率は大きいですから,その上等兵もや られた。たら,背負い投げですよね。担いで,立ち上がって,下がろうとした ときにやられたもんだから,あンなかに背負い投げ。そして,班長だったです かね,それが「下がれ!」つった。「下がれ!」つったから,いま言うたそこ に飛び込みかたですよ。匍匐前進しよったのに,「下がれ!」つったから,こ の端っこのほうから飛び込んだら,バリバリバリって。けっきょく,下がって るぶんだけは,弾はうわずってですね。〔命が助かりました。〕
もう,自分の元々(あたりまえ)の分隊は,ないんですよ。戦死してしもうて。
このひとはあっち,このひとはあっちって,決まった名前だけはあるんですけ ど,人間がおらんですよ。みんな斬り込みつって,行ってからね,亡くなって ですね。
それで,朝の
2
時ごろ,嘉数(かかず)の壕に帰ってきたときに,こんどは,御前会議ですよね,将校連中が。そしたら,下士官の班長がですね,「とにか く,夜は〔敵への攻撃を〕やります」と。「昼は,みんな下がって,ちゃんと
〔身の安全を〕確保しましょう」と。「いや,上からの命令は,突撃せよ,と いう命令だから,行かにゃいかん」と。〔無謀な〕昼〔の攻撃〕は,ぜんぜん 生きる可能性(みち)はないじゃないですか。それでも,そういうことをする べきか。いまみたいに,夜間は攻撃に行って。で,昼は引き下がって〔という
岸の,中城のほうからですね,いちおう,上陸の形式をとって。それですぐ下がって ですね,こんどは反対側の北谷のほうに,
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メートル〔間隔〕ぐらいの艦砲射撃。敵さんは機械で操作しておるんでしょう。第一弾着から,西側のほうに,東側のほう に,ということで,北谷から泡瀬(あわせ)のほうにって,艦砲射撃でずうっとぶっ た切ってしもうて。すぐ,舟艇(しゅうてい)が海岸に〔押し寄せて〕上陸開始です よ。上陸開始をした連中は,前進あるのみですよ。とにかく前進しなければ,後ろの 補給ができんからですね。もう,前進一方ですよ。けっきょく〔沖縄本島の〕北と南 が分断されて。そして,ずうっと攻めて。ほで,首里がやられる前に,真栄田がやら れたもんだから,応戦ができんわけですよ。真栄田がやられたもんだから,首里のほ うの部隊はもう,下がる以外ないですよ。》――このような語りは,当時のご自身の 体験ではなく,後から学習をとおして知り得たことによる解説であろう。宮平さんの 語りは,基本的に,体験によるものと学習によるものとによって,構成されていると いえよう。
戦術でいくか〕。〔どちらの戦術を取るにせよ〕もう,分隊とか中隊とかなんと かという部隊の名称はないんですから,〔とにかく〕生きた人間がせにゃいか んですよ。「とにかく動いている者はこっち来い」つってからに。ぼくなんか は機関銃〔の訓練〕はやってないけれども,機関銃の弾薬手(だんやくしゅ)と いって,弾ばっかり担がせて。自分の私物は持てンかったですよね。それで,
そのときは,いちおう下がろうということで,嘉手納(かでな)の嘉数というと ころから首里まで下がって,それから出直すと。で,真栄田(まえだ)という,
いまの普天間のヘリ〔の米軍基地があるところ〕ですね,あれの端っこの岸壁 みたいなところには,琉球国王の陵(りょう)があるんですよ。浦添(うらそえ)
というところに。だから,嘉数のほうから下がってですね,首里のなかに沢岻
(たくし)という地名があるんですけど,そこで一服して。さぁ,真栄田の戦線 に行くということで,みんな,それぞれの物を持って。そして〔前進して〕行 って,夜が明けたら,そこ,〔敵の〕戦車が待ち構えていて,〔弾を雨あられと〕
撃ち込まれて。それで〔こっちは〕弾はもう,あるだけぜんぶ撃ちつくしてで すね。
この真栄田の戦線ではですね,ぼくの戦友が歩哨に立ってたんですよ。交替 しようと思うて,「交替,交替」って言って,糸を引っ張るんだが,応答がな いですよ。おれが這(ほ)うて上がっていってあれしたら,「やられたぁ」って 言うもんね。「あ,そうや」ちって,ぼくが壕の中に引っ張りこんだら,軍医,
つっても,上等兵ぐらいの衛生兵(あれ)が,「おい,宮平。手榴弾を取れ。水 を取れ」って。手榴弾(それ)を持っておって,爆発すれば,ほかのひとまで 迷惑をするから。〔それに〕「水を,いま,飲ませちゃいかん」。それで,水筒
(それ)を取っておったら,こんどはまた〔わたしを〕呼んでからに,「水を飲 ましな」。ゴクッと,こう,飲んだら,終わったですよ。
ちょうど〔そのとき,ぼくはひどい下痢をした〕。水がないもんだから,一 斗缶みたいなので,下の田んぼの水をですよ,夜のうちにあれしにゃいかん。
それはもう,一斗缶の
3
分の1
ぐらいしか持てんですよ。片手で〔持って〕走 って坂を登らにゃいかんのだから。で,その泥水を飲んだせいかですね,もう,下痢して。飯盒をですね,尻(けつ)に据えて。それで,ピーピーピーピーや って。〔そこへ敵の〕戦車から撃った弾がですね,崖の上をぜんぶ破壊して,
石ころが落ちてきた。だから,ぼくの上に重なったひとは,石とぼくとに挟ま れて,そして撃たれて,亡くなってしもうた。で,その晩,もう,出るべきも のは出てしもうたから,それすんでですね,夜の
1
時,2
時ごろですかね,な んとかまた,首里まで下がったんですね。そしたら,首里の壕でですね,足をやられて歩けン負傷兵は,もう,これは ダメだというんで,手榴弾を渡して,これで自決しなさいと。兵隊は,意外と,
簡明ですよ。手榴弾を渡されたということは,死ぬんだ,ということで〔もう,
ジタバタしない〕。で,「連れて行ってくれ」と言ったのは,階級がちょっと上 だったですよ。それを,われわれ初年兵〔が担がされて……〕。ぼくなんかは 腕をやられたから生きのびたンです。足をやられたら,もうダメだった。――
〔ぼくは〕右腕(ここ)に破片傷(はへんしょう)を受けて。〔破片が〕刺さった の,わからんかったですよ。軍服の上着を脱いだら,血がでてましたので〔は じめてわかった〕。
南風原(はえばる),あすこに総合陸軍病院があって。それでそこに行って。
そこの負傷兵は,蛆虫が湧いてですね,たまらんもんだから,水で洗う。そこ では,女学生が看護婦の代役(あれ)で〔頑張っていたけど〕,手一杯だったん ですよ。それで,ぼくなんかは足がやられてないせいで,元気だから,水汲み ですよ。一斗缶に半分以下ぐらいですね,引っさげて歩く。面白いことに,艦 砲射撃の砲弾の跡の水溜まり,あれ,消毒水になるンかな。ほかの生物(あれ)
がおらんですよ。たとえば,蛙だとか,オタマジャクシとか,いろんなそうい う生き物がおらんですよ。だから,その水を持っていって,それを消毒用の水
(あれ)に〔使った〕。ぼくたちも,その水で洗うぐらいですよね。足の切断,
腹部の破片,そういう兵隊はなんか薬を使うけれども。そして,いま言うたよ うに,首里,真栄田,その戦線でやられて負傷した連中が,ほとんど南風原の 陸軍病院〔に収容されて〕。そこでもあれだったですよ,「もう,死なせてくれ」
と言うのが〔いて〕,大変だった。看護婦も,なにも弾が飛んでこないところ ならまだしも,弾が飛んでくるところだから,どうにもならんですよね。
民間人がアダン樹ごと丸焼けに
しかし,そこも「下がれ」の命令があって。で,南風原の陸軍病院から,真 和志(まわし),知念,玉城(たまぐすく),そういうふうにずうっと,喜屋武(き ゃん),摩文仁(まぶに)のほうまで下がって行った。
首里からの撤退(さがり)は,〔米軍が〕ちょうど北谷(ちゃたん)から勝連(か つれん)半島,そして,宮城島(みやぎじま)の,いまのガソリンのタンクがある ところ,あそこまで沖縄本島をいっぺんにぶった切ってしもうた。だから,北 側(こっち)は北(こっち)に逃げる。南側(こっち)は南(こっち)に逃げる。それ で,南のほうに追いやられた民間人がかわいそうだったです。隠れ場所がない。
持ち物がない。食い物がない。カラの鍋釜を持って歩くだけですよ。炊くもの がない。サトウキビだけは,まぁなんとかありましたけど。で,摩文仁,喜屋 武,あすこは
3
ヵ村がだいたい1
つになってるんですがね。それで,糸満は西 海岸のほうになるんですね。知念,玉城は東海岸のほうになる。東のほうは,こっから敵が来るんだといって,西へ行くわけ。西のほうは,西から撃たれる もンだから,「いや,西は危ないんだ。東に〔逃げよう〕」。お互いが入れ違い ですよ。自分たちの遭うた,その身の考え方から,お互いが交差してるような もンですよね。それが最終的には,摩文仁の,いまの〔平和の〕礎(いしじ)
がある丘,あすこが南の果(はて)になりますから。で,そこへぜんぶ集めら れた。もう,逃げるにも逃げようがない,行くにも行きようがない,というか っこう。
そこに来たら,ちょうど魚を網を張って追い込むのといっしょですね。最終 的な,揚げかたですよ。それで,あっちも見たら,民間人。こっちも見たら,
民間人。どこもかしこも民間人ばっかり。民間人ですから,子ども連れて,じ いさん,ばあさん引き連れてっていう行動ですから。〔われわれ初年兵は上官 から〕「あそこから,米を取ってこい。何を取ってこい」って言われるでしょ。
鍋釜にはなんにも入ってないから,取りようがないですよね。われわれは,ま ぁ,生きるか死ぬかの戦いをする兵隊(にんげん)だから,いいものの,相手は もう,民間人で,弾もなんにも持ってるんじゃないし。
敵が攻めてきて,〔沖縄本島最南端の〕喜屋武(きゃん)岬まで追いやられて ですね。そこの海岸に下りてから,何日もっておらんですよ。ただ,いっぺん,
ひどいめに遭うたのが,米軍が戦車で来て。火炎放射器で,海岸ばたのアダン 樹をぜんぶ焼いた。民間人があるだけの鍋釜やらなんやら持って,子どもやら を引き連れて隠れてるところを〔狙い撃ち〕。丸焼けですよね,人間が。腹ふ くれて,もう,みんな死んだ。あれだけ繁っているアダン樹がぜんぶ,棒切れ みたいですよ。焼けてしもうて。
そして,やっこさんたち,ガソリン〔入り〕のドラム缶を落として,それに 鉄砲で撃てば引火する。ガソリンですから,燃えやすい。昼
1
日おって,そう いう状態だったから,これはもう,ここにはおれんと。今晩のうちに〔敵の包 囲網を〕突破しにゃいかんと。3
名ぐらいずつ,それもおなじ分隊の知ってい る同士じゃないですよ。ただ,でたりばったりで,「とにかく,行こう」「行こ う,行こう」つって。内地〔出身〕の兵隊は地形がわからんから,「一緒に連 れて行ってくれ」。ぼくも沖縄のもンだけど,そこははじめてだもンな。地形 はわからん,どこがどこやら。喜屋武(きゃん),摩文仁(まぶに)〔に追い詰められて〕,あの海岸まで下りた んですがね。6月
23
日は,司令官の牛島中将に長(ちょう)参謀長が,あそこ で,夜明け〔前〕,3
時ごろに,日本式の切腹をしてですね,そして「介錯を 頼む」と2。だから,解散命令をして,とにかく指揮系統がなくなった時点で,あとは三々五々でですね。「大きな隊を組んでは行動するな。生き延びること だ」と言って。自分たちの分隊も,もうね,散って。
《〔自分では,戦争が終わったとは思ってないわけだから〕とにかく,ここに おってはいかん,と。北に行かにゃいかん,と。国頭(くにがみ)は山林地帯だ から,あすこへ行けば,友軍がまだ残ってるんだと。むこうに行くように,す べて,そういうふうな躾けされてたから。喜屋武の,摩文仁海岸で,もう,あ れからは海だから,こんどはバックしにゃいかんというふうなあれですね。
で,あすこでもう,〔逃避行は嫌だ,投降したいということで〕海岸に泳い で〔出て〕,敵の潜航艇によじ登ろうとした兵隊が,陸のほうから鉄砲を撃た れたですよ。同じ日本兵がですね,「こんな意気地なしの者はいかん」と言っ てからに。弾は,前からばかり飛んでくるんじゃない。後ろからも飛んでくる。》
半年間の逃避行生活
《最初,喜屋武(きゃん)から飛び出たときには,「できるだけ少人数で,
2
,3
名でグループを組んで行きなさい」と。だけどもう,みんな戦死し,怪我し,ナニしているもんだから,突き当たりばったりですよね。「名前は?」と。も う名前だけですよ。〔所属〕部隊もそんなもの,ぜんぜん関係なしに。「じゃ,
こっちから行こう」「あっちから行こう」というふうにして。で,夜だけの行 動。昼は隠れて。とにかく,鼠じゃないが,夜出て。とりあえず壕を探して歩 けばですね,人間にぶつかるという,その,関連がありますのでね。そして,
まず,じぃっと,日本人であるか,と。それで,兵隊であろうが,民間人であ ろうが,味方であれば,対話をやって。で,「一緒に行こう」というふうにな るんですよね。津嘉山(つかざん)に来て,壕に入ったら,人間がだいぶおった
2 この日に司令官と参謀長が切腹によって自死したという情報は,もちろん,一兵卒 であった宮平さんがその時点で知るところではなかった。「後から」知ったことだと いう。
んですよ,10 名あまり。そうしたところが,こんどは,黄燐弾(おうりんだん)
を壕のなかにぶち込まれたもんだから,ここにも長いことはおれんと。それで,
そこは,その一晩で飛び出て。――〔津嘉山に行ったのは〕まだ夏ですよ。
津嘉山から首里に行くまでが,通れんですよ。那覇から与那原(よなばる)ま での街道は,やっこさんたちの車の通路になってますから。そこを通り越すの には,幕舎と幕舎の合い中〔を通り抜けるしかない〕。ですから,台風が来る のを待たにゃあいかんですよ。それで,とにかく,津嘉山で様子を見て。で,
〔台風襲来かと見込んで〕出かけるんですけど,ただ雨が降っただけ〔とか〕。
嵐が伴わんと〔危ない〕。米軍(かれたち)は,時間的にですね,銃の射撃を撃 つようになってるんですよ。日本兵が通ろうが通るまいが,とにかく,30 分 なら
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分,バンバンババーンと撃つもんだから,どうしても,しゃがまにゃ いかん。しゃがむたびに,〔テントの〕ロープに引っ掛けて,転んだりする。それで,明かりの少ないところ,弾の飛んでくるのが少ないところと,そうい うところを選んで,行く。だけど,「ダメだ。これじゃ,きょうはダメだ」と いうので,2,3回,引き返してる。
幕舎と幕舎の合い中をくぐって,津嘉山を通り越して,首里に行くまでがで すね,日にちを食うたですね。で,弁ヶ岳(べんがだけ)に行ってから,〔仲間 と〕はぐれたもんだから,
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人になった。》〔そうやって逃げ回っているとき〕食べ物は心配せんでもよかった。おかし なことに,サトウキビはですね,腹,壊さんですよね。〔ただし〕サトウキビ,
食べた滓(もん)を,また,ぜんぶ埋める態勢をしておかんといかんですから ね。〔われわれの〕所在地を〔敵に〕判明されんように。ただ噛んで〔そこら に捨てて〕おったんじゃ,やっこさんたちが来て,銃で撃たれるから。〔食べ 物は〕もう,それだけですよ。だから,腹は〔一時的には〕膨れて。〔しかし〕
小便(しょんべん)したら,もう腹減ってる。腹が減って,しんどくて。
だけど,そこを一晩,突破したら,意外と,よかったですよ。津嘉山あたり へ来てからはね,ゆっくりと飯も〔炊けた〕。飯を炊いてもべつに支障のない ところで飯を炊いて,ほんとうの隠れるところはこっちというふうに〔場所を 使い分けて〕。〔米は〕日本〔軍〕の糧秣(りょうまつ)が保管されてる壕を探り 当ててですね。そして,それを炊いて食べた。それと,アメリカの兵隊の,携 帯口糧(けいたいこうりょう)というかな。〔第〕一線に持って歩く〔お弁当みた いなやつ〕。あれの食べ残しを漁(あさ)りました。リーレーション3と言いよっ たですね。「
B
」〔というマークが付いたの〕はブレックファースト一食分。缶 詰も入ってるし,パンもあって。チョコレートなんかも入ってる。朝昼晩,朝 飯,昼飯,晩飯だからね。ブレックファースト,〔ランチ〕,ディナー。いっぺ んは,歯磨き粉をですね,間違えて食べて。アハハハハ。元日本兵の宣撫班に投降
それで〔最後は〕,首里までのぼっていったんですよ。あすこに行ったとき に〔仲間から〕はぐれて。もうどうにもならん〔と観念して〕4。で,そのと
3 米軍の携帯口糧は「レーション」(ration)というのではないかと思われるが,語り 手の発音のままにしておく。
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2013
年6
月1
日の補足の語り。《とにかく,津嘉山(つかざん)をなんとか通り越しき,〔米軍に〕捕虜にされた日本兵が宣撫班(せんぶはん)〔になっていて〕,「戦 争終わったんだから,もう出てきなさい」と。それで,合言葉(あいず)がある。
合図をして,〔正しい〕相槌が打たれれば,味方(おなじもの)だと。で,違っ た場合には,手榴弾を投げるかっこうでもしておかにゃいかん。
〔ぼくの場合〕首里に来て。で,宣撫班というのが出てきて。むこうはもう,
米軍の服装をしてる。こっちが「山」って合図して,〔むこうが〕「川」って返 事して。「ああ,これは,相槌があるから大丈夫だ」って。それで,「もう戦争 終わったから,出てきなさい」って言ったから〔投降しました〕。
かりに,ぼくひとり捕まえた場合には,「おい,どっかに,まだ〔日本兵が〕
隠れておるところがあるんじゃないか。もう,こんな無理せんで,出てきたほ うがいいじゃないか」「うん,あすこにも,ここにもおるよ」と言えば,「それ じゃ,おまえ,そこに行って,話をしよう」。で,いま言うたリーレーション の食料を何個か持っていって。夜の
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時2
時ぐらいになったら,水浴びをした り,飯を炊いたり,いろんなことをする集まり場所があるから,そこで待って おって。そして,夜明けまで話をして。それで,何人か集まったら,屋嘉(や か)の収容所へ〔連れていく〕。石川には民間〔人〕の収容所,屋嘉には軍関 係の収容所があったですよ。その収容所へ行ったらもう,みんな〔がいて〕。「あらぁ,あんたも元気だっ たねぇ」。自分の島からもですね,なんで捕まったのか,屋嘉の収容所に来て おったですよ。むこうにおればいいのによ,民間人として,自分の島に。そこ は,兵隊でなくてもね,入れられよった。というのは,〔兵隊が〕みんな「〔自 分は〕民間人,民間人」と言ってやるもんだから,「もう,こっちへ来たもの は,ぜんぶ,こっちへ入れ」って。
捕虜収容所生活
《〔捕虜収容所の話? 兵隊であっても〕みんな「ぼくは民間人だ,ぼくは民 間人だ」と言って,戦争責任(あれ)から逃れようとする行為が〔あって〕,も う,米軍のほうでは「いや,もう,これは,みんな兵隊だ」つって。で,軍人 は「
PW
」という印鑑を押してですね,区分けをしておったわけですよ。また,屋嘉(やか)の収容所では,沖縄のグループと内地のグループと〔区別してお った〕。そして,こんどは,階級によって区別する。
〔
PW
(戦争捕虜)とプリントされたシャツを〕着けんと,仕事はさせんかっ たですよ。〔仕事に〕出て行けばですね,米軍の塵箱漁りをして,そっからチ ョコレートを拾って食べ,何をするという,自由というんですか,そういうあ れができよったもんだから,みんな,その仕事に〔行きたがった〕。〔仕事に出るって〕雑用です。米軍がトラックに乗せて〔連れていく〕。テン トが倒れておれば,それを直すとか。病院関係のところに連れて行って,後片 付けをするとか。〔労賃は〕なにもないですよ。だから,見返りとして,自分
て,首里の弁ヶ岳のぼって。
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人で首里のあすこまで来てですね,こんどは,壕探し ですね。とにかく人間に会いたいという,それが〔強い〕。その人間に会うたときに はですね,もう,なんともいえない感じですよ。子どもであろうが何であろうが,人 間に会いたいという。壕(そこ)には食糧とかいろんなものがあるけれどですね,飯 を食うとかなにをするとかいうよりかは,人に会いたいなぁという観念が強かったで すよ。》で,塵箱漁るようにして。食べられるもの,チョコレートや何やらを取って帰 ってくるというあれだけど。だけど,帰りしな,それを持って帰ってくるとき に,途中の石川の〔民間人の〕収容所の前を通るときに,みんな投げてやりよ ったですよ。屋嘉〔の収容所〕まで来ると,ぜんぶ取り上げられるもんだから。
〔捕虜収容所の食事はどうだったか,ですって?〕腹が減ってるから,〔問題 は,とにかく〕量ですよね。腹がふくれる,満腹というあれはなかったんじゃ ないですかね。〔主食は〕米じゃないです。だから,お湯を沸かして,それに 該当するものを,麺類でもなんでも入れてやるとか。〔コーヒーはけっこう飲 めました。〕さっきのリーレーションにですね,入ってるから。ちょうどコッ プの代わりになるビニール袋があって,あれに〔コーヒーを〕入れて,お湯を 入れて,振ってですね。溶けるまで,ちょっと揺すっておって。で,そのまま では熱いから,冷えるまではちょっと待たにゃいかん。
〔収容所では〕「沖縄のひとは,べつに,演芸をやってもいいよ」と。そこへ,
こんどは,内地の兵隊もいっしょに合算してからに,いろんなことをやりおっ たですよ。〔沖縄の歌をうたったり〕踊りをしたり。三味線も,缶カラに棒を 通して,音階を調節してからね。いい音でした。捕虜収容所みたいには感じな かったですよ。どっか,山の上に登山でも行ってるような,アハハハハ。〔と にかく〕もう,弾に撃たれて亡くなる心配はせんでもいいからですね。》
沖縄戦を語り残す
こんどの場合でも,先生がたが〔話を聞きたいと〕来たときにも,どうする かって〔考えた〕。ぼくの友達がですね,師範学校出の者だったけれども,お なじ兵隊に行ったんですよね。「宮平君,ひとつ本を〔書こう〕。自分たちの経 験をね,とにかく,こういう戦争だったというものを残しておかんと,子ども たちは,知らない,わからない。自分たちは間違ったかもしらんけれども,や ったことに対しては,間違ったことでも,こうしてやったんだということだけ は,示さにゃならんぞ」と。「だから,おまえも,おれの本に一言書け」って 言うておったけどですね,それもせんうちに
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年ぐらい前に亡くなった。――兵隊での戦友。〔自分を含めて〕
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人だけしか生き残りはおらんかったンです よね。60
名ぐらいですね,初年兵が集まって。現地に行く途中で1
人は,弾に当 たって,やられて,内臓が出てしもうてですね。「アイタッ,アイタッ」。あれ もおもしろいもンで,内臓は外に出ると,プカッと,こう,広がるんですね。まだ教育隊のままで,ほんとうの自分の部隊に配属にはなってなくて,教育隊 長が「敵をやっつけんうちに,自分が先死ぬことはないぞぉ」つって,励まし ておったけど。「はい」「はい」って言うけども,もう,息をするたんびに,ポ コポコポコポコ〔傷口から血が〕出て。ランプを,こう,点けたらですね,〔内 臓が〕ボッと出てるですよ。亡くなったけどね。
だけど,あれですね。兵隊に行っても,案ずるより産むがやすい。そんなに まで叩かれることどうのこうのと言ったけど。理にかなった叩かれすれば,あ あ,なるほど,悪かったなぁと思う。理にかなわんようなだけは〔御免だけど〕。
とにかく学校時代に「軍人勅諭」というの,覚えておったからいいけれども。
それで,〔初年兵は〕みんな沖縄のもンばかりでしょうが。〔召集〕延期,延期 になって,もう
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になってるひとたちが,かわいそうでしたよね。「軍人勅諭」はもちろんわからん。《「一(ひとつ),軍人は忠節を尽すを本分とすべし」
〔で始まる〕》五ヶ条も言えないしですね。ましてや,「戦陣訓」なんていうの は,全然わからん。だから,それだけはもう,悲惨(あれ)だったですね。〔そ れと,軍隊では〕沖縄語はもう,絶対使っちゃあいかん。
《〔召集延期のひとがいたのはなぜか,ですって?〕沖縄というのは,小さい 島だから,職業がないでしょ。だから,職を求めて,南洋あたりにぜんぶ出て 行って。で,帰ってこんもんだから,召集令状,赤紙が来ても,〔本人に〕届 かんわけ。》
姉は集団自決で亡くなった/家族の引揚げ
〔けっきょく〕半年ぐらい,逃げ回ってた。終戦になったということがわか らんから,逃げ回ってた。〔ぼくが〕捕まったのが,昭和
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年の12
月だった かな。それで,正月前には,自分の島に帰されたですよ。で,島に帰ったら,家も焼けてですね。ひとつの家の中に
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所帯,5
所帯ぐ らい,竈(かまど)をあっちに作り,こっちに作りして。〔終戦後には〕ぼくはまたぼくで,ひとり生き残っておったけれどね。姉さ んは亡くなったからね。姉さんは〔戦争中に〕同郷のひとのところに嫁に行っ たもんで,〔やはり,ポナペから故郷の島に帰っていて,ぼくが〕兵隊に行く ときは,姉さんが見送ってくれたわけですよね。――〔慶良間では〕集団自決 があってですね。日本軍からやったんじゃなくして,自分たち同士で。最初は,
手榴弾をやって。それが,栓を抜いて叩くけども,爆発しないで。爆発すれば,
バンとやって〔一瞬で〕死ぬんだけども。それがせンもんで,あとは,鉈で棒 切れを作って,叩き合いっこですね。だから,もうほんと,修羅場みたいに,
見るに忍びないっていうふうな。うちの従姉妹でも,それをやって,半身不随 みたいで倒れておって。それでもう死んだものとして,さらされてたら,〔運 良く生きていて〕米軍に引き取られて,治療をして,生き残っておるのがおる がね。――〔姉の〕旦那は,なんか,トラック〔島〕から徴用でニュージーラ ンド〔に連れて行かれて〕。それで,生き延びて,帰ってきたら,姉さんは亡 くなってた。
家族は,いつごろ南洋から引き揚げてきたかなぁ。〔ぼくは〕助役をしてお ったおじさんのうちに〔また〕終戦後も〔しばらく〕居候(いそうろう)。で,
そうこうしてるあいだに,うちの親父なんか帰ってきた。ポナペ(あすこ)が,
サイパンみたいに,地理的に日本本土を攻めるのに都合のいいところであれば,
それはもう,生きてはおらんかっただろうと思うんですがね。ポナペは攻撃さ れなかった。また,〔ミクロネシアの〕島ではいちばん大きいんですよね,ポ ナペが。それだから,食べ物にしても,裕福ではないだろうけれど,まぁ,わ りによかったですよ。
〔南洋から引き揚げてきてからの〕親父は,とにかくもう,半農半漁。畑を 耕して,芋を植えて,それを採って食べる。海のものはそれなりに,暇々に魚 は獲ってきて,という〔暮らし〕。とにかく,なにか事業をして,鰹節をつく ってどうのこうのということは,もう,できなかったですね。
ハンセン病の発症/自分から押しかけるように屋我地へ
〔ハンセン病の発症? 最初気がついたのは〕昭和