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戦後七〇年 沖縄の地に想うこと戦後七〇年が経ちました 今も 戦争で生命を落とされた方々が国内外の激戦地で眠っておられます ガダルカナル サイいおうとうパン パラオ 硫黄島 そして沖縄 沖縄では日本国内最大の地上戦が行なわれ 日米あわせて 20 万人超の死者 行方不明者が出ました 1952 年に日本の

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2015年12月12日

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✖ ● ● 〈主な在沖アメリカ軍〉 ➀ 嘉手納か で な基地(空軍) ➁ 普天間ふ て ん ま基地(海兵隊) ➂ 辺へ野の古こ(基地移設予定地) そのほかにもキャンプハ ンセンや北部訓練場などが ある(実弾演習あり)。これら のアメリカ軍施設は沖縄本 島全体の18.2%を占める。 北谷 ちゃたん 読谷 よみたん 首里 (司令部) 喜屋武き ゃ ん 嘉数か か ずの戦い(1945.4/8~4/23) 沖縄戦最大級の激戦。日本軍 は 10 倍以上もの敵に持ちこ たえた。戦死傷者約64000 人。 シュガーローフの戦い (1945.5/12~5/19) アメリカ海兵隊史上最大とな った戦闘。あらゆる火器を投 入するアメリカ軍に対し、日本 軍は洞窟に潜んで応射した。 この戦いののち首里の司令部 が陥落し、軍民ともに南部に なだれこむこととなった。 アメリカ軍の沖縄本島上陸 (1945.4/1) 本島の中西部(読谷村から 北谷村にかけての海岸)に 4 月1日早朝より上陸を開始。 たった1日でロケット弾や迫 撃砲弾を含め、10 万発超の砲 弾が撃ち込まれた。物量戦で 劣る日本軍が水際での決戦を 放棄したため、アメリカ軍は 容易に内陸部へと歩を進め た。集結したアメリカ軍の戦 力は 548,000 人。左写真はそ の当時の様子。 (写真出典: HP『沖縄公文書館』より)

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戦後七〇年――沖縄の地に想うこと 戦後七〇年が経ちました。 今も、戦争で生命を落とされた方々が国内外の 激戦地で眠っておられます。ガダルカナル、サイ パン、パラオ、硫黄い お う島とう――そして沖縄。 沖縄では日本国内最大の地上戦が行なわれ、日 米あわせて20 万人超の死者・行方不明者が出まし た。1952 年に日本の本土が主権を回復し、その後 の高度経済成長に浮かれる一方で、沖縄はアメリ カの施政下で辛苦の日々を送りました。沖縄がア メリカから日本に返還されたのは、主権回復の20 難壕で、ご遺骨や遺留品の収集を続けてこられた 方です。 昭和20 年3月、アメリカ軍の上陸を前に沖縄本 島北部に家族ごと疎開した際、国吉様はまだ幼稚 園児でした。そして、アメリカ軍の攻撃から逃げ まどううちに家族は離散してしまいました。亡骸なきがら となったお母様と再会したのは終戦後のことだそ うです。たとえ亡骸でもお母様と対面できたとき の安心感は忘れられない――それがご遺骨収集を はじめるきっかけだった、と国吉様は仰せになり ます。それは、収集をたゆむことなく続けてこら れた国吉様の心の支えでもありました。 戦後七〇年も放置されてきたご遺骨。 万感の想いを胸に、それぞれの参加者はバスに 乗り込みました。 年後となる1972 年のことでした。 こうした複雑な政治的事情のなか、戦争の犠牲 となった方々のご遺骨は、現在もその数が不明で、 相当数の方々が地下に眠っておられるものと思わ れます。 私たち鍵山教師塾の参加者のうち、このたび希 望者が集まり、ご遺骨の収集をお手伝いさせてい ただくことになりました。 にわかに押しかけた私たちを快く受け入れて下 さったのは、那覇市内にお住まいの国吉勇様です。 国吉様は60 年間、「ガマ」とよばれる鍾乳洞の避 参加者一同が朝7時 45 分に 集合し、国吉様にごあいさつを しているところ(左写真)。 国吉様は私たちの案内役を お引き受けいただいたうえに、 ヘルメットやツルハシ、熊手や 長靴など 20 人分を全員分貸し て下さいました。何から何まで お世話になりました。 ご遺骨収集の現場 と なった糸満市喜屋武地 区(那覇市内から車で約 40 分)。アメリカ軍に追 い詰められた 沖縄戦最 後の激戦地です。

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ご遺骨が今も眠るガマ(避難壕) 私たちが向かったのは糸満市喜屋武地区。 広大な畑と空き地におおわれた、のどかな南国 の田舎の風景です。すぐ隣には小学校もあります。 私たちは畑の間の農道を歩いて、裏山まで進んで いきました。 沖縄本島は海底にあったサンゴ礁が隆起してで きた島で、長い年月を経て風や雨に浸食されたた め、ごつごつとした岩だらけの地形となっていま す。裏山には、石灰岩などでできた自然の鍾乳洞 があちこちにあり、沖縄戦の末期には日本軍の陣 地や野戦病院、住民の避難壕などとして用いられ ました。 当時、ガマの中には寝床が作られ、軍医や看護 婦、衛生兵らが看病にあたりました。時は5月か ら6月ですから、梅雨の真っただ中です。蒸し暑 くて暗い壕のなかで聞こえるのは、負傷兵のうめ き声と、絶え間なく外で響く銃声や戦車の轟音ば かりだったに違いありません。壕に運び込まれる 負傷者の数は日ごとに増え、末期には1日に4000 人の兵士が亡くなっていったという報告もありま す。やむを得ず手足を切断された負傷兵の傷口に 蛆うじがわき、死臭や汚物臭が漂う――そんな地獄の なかを、命を懸けて看護して下さっていたのが若 き学徒たちでした。 私たちがこれから入らせていただくガマとはそ ういう場所です。いったい私たちに何ができると いうのか。ただただ自問するばかりです。 (左写真)避難壕跡のある裏山。手前にある畑 も含めて全て私有地。私たちがご遺骨を収集で きるのも地主の方の理解あってのことです。 (右写真)今回も、国吉様とともにご遺骨の収 集に携わる南埜安男様(一番上)から手ほどき を受けました。私たちの作業する現場を一手に 準備して下さったのも南埜様です。 身体ひとつ分がギリギリ入る程度の 小さなガマの入口を降りていく参加者 (左写真)。私たちが足を踏み入れる、ま さにその土の下にご遺骨が眠っている に違いありません。70 年もの間、ずっと 掘り出されることを心待ちにして。

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漆黒の闇に閉ざされた空間で、目に見える世界 と想念の世界の区別があいまいになってきたのか もしれません。私たちが普段生きている文明世界 は、ご先祖様の血の犠牲の上に打ち立てられたも のであって、その犠牲なくして今の自分たちは存 在し得ないのだ――想念の世界のなかで、知らず 知らずのうちに「対話」をしていた参加者も少な くありませんでした。合掌。深謝。そして祈り。 ご遺骨は沖縄県平和祈念財団に属する戦没者遺 骨収集情報センター(糸満市)に納められ、仮安置 されます。70 年の長きを耐え忍んだあとで、よう やく陽の目を見た御霊み た まのお立場に立てば、この世 の中は果たしてどのように映るのでしょうか。 ご遺骨の収集に没頭する参 加者(写真 上右・上左・左)。 ガマの中ではLEDの高性 能ヘッドライトや懐中電灯 の 青 白 い 光 だ け が 頼 り で す。狭くて身動きの取れな いところでは孤独に作業す るほかありません(上右)。 入口から差し込む 光(左写真)。壕内 は断末魔の地獄と 化し、外では銃弾 の音が絶え間なく 響く。そんな阿鼻 叫喚の暗闇に差し 込む光――その先 にあるのは何なの でしょうか。

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沖縄戦について 政治や歴史の知識に深く傾倒するのは反対だと いう方もおられるかと思われます。確かに、知識 が深まりすぎると「主義」「主張」が強く塗り固 められ、ご遺骨への想い(正確には、ご遺骨を通 じた御霊への想い)を歪ませてしまう場合がある のかもしれません。しかしながら、私たちはそれ らに対して無知のままでよいのでしょうか。 1945 年2月から丸1カ月をかけて、6821 名の 戦死者を出しながらも、アメリカ軍はついに硫黄い お う 島 とう を攻略しました。そこから息つく間もなく、ア メリカ軍は沖縄にやってきました。 艦艇1500 隻、輸送船 450 隻、兵員は 548,000 人(うち上陸部隊は183,000 人)――サイパン島 やレイテ島から続々と沖縄洋上に集結しました。 アメリカ軍が使用した銃弾・砲弾の数は270 万発 を超え、機関銃弾3000 万発が発射されました。 戦艦からの艦砲射撃は地形が変わるほど激しく、 「鉄の暴風(Typhoon of Steel)」と表現されたほ どです(不発弾は2015 年現在でも約 2300 トン が残っています)。 アメリカ軍にとって、日本本土を攻略するため には、硫黄島と沖縄に航空基地を築いて拠点化す ることが不可欠でした。太平洋戦争の勝敗を決す るのは沖縄戦である――そう言っても過言ではあ りませんでした。連合国側の死者・行方不明者は アメリカ軍が14,006 人、イギリス軍が 82 人、そ して日本側は県内外合わせて188,136 人(県内の 死者・行方不明者122,228 人のうち、民間人が 94,000 人)。こうして、沖縄住民の4人に1人を 巻き込んだ、太平洋戦争における最大にして最後 の戦闘が始まってしまったのでした。 壕を爆破して日本兵が出て来るのを待つアメリカ海兵隊員。ライフルを構えて待ち構えている。これがい わゆる「ブロートーチと栓抜き作戦(blowtoach and corkscrew)」(1945 年5月 アメリカ海兵隊撮影)

第 22 海兵連隊 第 1 大 隊 A 中 隊 と 共 に 警 戒 し な が ら 那 覇 郊 外 に 迫 る 戦 車。(1945 年5 月 ア メ リ カ 海兵隊撮影)

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1944 年7月、サイパン島の戦いで日本軍は水 際に全勢力を注入しましたが、アメリカ軍との物 量戦には勝てず、同島は陥落しました。その失敗 に鑑みて、のちのペリリュー島(パラオ諸島)や 硫黄島では、内陸部にアメリカ軍を誘い込んでの 持久戦が展開されるようになりました。アメリカ 軍が沖縄の内陸部まで容易に南侵できたのも、そ のような持久戦の方針を継承したからです。しか しながら、この捨て身の方針によって戦闘は激化 し、甚大な被害をもたらすこととなりました。 アメリカ軍はまず1945 年3月 26 日に慶良間 諸島を攻撃しました。そして同諸島上陸後、つい に4月1日、沖縄本島中西部(読谷村~北谷村の 海岸)に上陸しました。まもなくアメリカ軍は中 飛行場(のちの嘉手納基地)などを占領し、強力 な防空網をつくりました。そして同軍は嘉数か か ず高地 (宜野湾市)へと南進することになります。 嘉数高地には丘陵が重なって天然の防塁を形成 していたため、日本軍の最も強固な陣地となりま した。一方、アメリカ軍にとって、日本軍の司令 部がある首里(那覇市)を攻め落とすうえで、そ の通り道である嘉数高地を占領することは避けて 通れませんでした。こうして、日米両軍が出来る 限りの火砲を投入した嘉数の戦いが行なわれたの です(4月8日~23 日)。 日本軍はアメリカ軍の10 分の1の戦力で迫撃 砲・機関銃・擲弾筒などを巧みに使用し、互角以 上に戦いました。4月8日~12 日の5日間でア メリカ軍は合計2880 人の死傷者を出し、極度の 混乱に陥ったといわれます。 その後膠着状態が続いて、アメリカ軍の攻撃は 行き詰りました。しかし同軍は日本軍に対して、 徹底的な艦砲射撃と「ブロートーチと栓抜き作戦

blowtorch & corkscrew

」で臨み、形勢を逆転 させることに成功しました。「ブロートーチと栓 抜き作戦」とは、戦車の支援と激しい集中射撃で 日本兵を壕に追い込み、そこで毒ガスやガソリン などを流し込んだうえで火炎放射器の猛射をする 作戦です。最後には大量の爆薬で陣地ごと吹き飛 ばすのです。 4月19 日、窮地に陥った日本軍は速射砲や迫 撃砲に加え、「嘉数の対戦車戦」と呼ばれる特攻 作戦を行ないました。陣中で急造した爆雷を背負 った日本の特攻兵が、アメリカ軍の戦車のキャタ ピラをめがけて体当たり―動けなくなった戦車 に日本兵が群がり、天蓋やのぞき窓から手榴弾を 沖縄本島に上陸し進軍するアメリカ軍の戦車部 隊。しかし日本軍の抵抗は激しかった。 (1945 年4月 アメリカ海兵隊撮影) 嘉数高台付近へ進撃準備中の第193戦車大隊 C中隊。歩兵隊による高台の占拠で、戦車はその 向こうの広場に出ることができた。 (1945 年4月 アメリカ陸軍撮影) 火炎放射器に焼かれた乾パン。こうした遺留品が 今も出土する。戦争資料館蔵(国吉様ご自宅)

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投げ込んだり、拳銃を乱射したりするのです。ア メリカ軍は、投入した戦車30 両のうち実に 22 輌が日本軍に破壊されました。 しかし、物量に優るアメリカ軍は次第に白兵戦 で日本軍守備隊を後退させ、4月23 日に嘉数高 地を占領しました。この戦いで日本軍の戦死傷者 は合わせて64,000 人にのぼり、嘉数住民の半数 以上がアメリカ軍に殺されたそうです。 嘉数高地でアメリカ陸軍が苦戦している間、ア メリカ海軍の将兵は日本の激しい特攻にさらさ れ、4月1日から23 日の間に 60 隻の艦船が撃 沈されました。そして1100 人のアメリカ兵が戦 死し、2000 人以上が負傷しました。その甚大な 被害は、海軍のニミッツ司令長官と陸軍司令官の バックナー中将を相互不信に陥らせたほどでし た。 アメリカ軍を翻弄ほんろうした自軍兵の攻撃力を過信し た日本軍は5月初旬に反転攻勢に転じました。軍 の戦力が消耗しきってしまうまでに総攻撃を行な い、普天間までの戦線を回復するつもりでした。 しかしこれは大失敗となり、かえってアメリカ軍 は日本軍司令部のある首里に向って、掃討戦を展 開しはじめました。 (上写真)京都の塔と嘉数の塔 嘉数に投入された第 62 師団(独立混成旅団)には 京都出身兵が約 3500 人所属し、そのほとんどが故 郷に帰ることなく嘉数で戦死しました。京都の塔 はその追悼のためのものです。日本軍を支援した 嘉数住民を悼んだ嘉数の塔も並置されています。 また、近くには朝鮮半島出身者をまつる「青丘之 塔」もあります。 火炎放射で変形 した薬ビン(左 写真)。同じく炭 化した米(下写 真)。これらは白 梅学徒隊が活躍 した壕から出土 しました。(戦争 資料館 蔵) (右写真)個人用の対糜爛び ら ん性ガスの消毒剤 成分は晒さらし粉(消石灰に塩素を吸収させた粉 末。漂白剤)を主剤としたもので、使用に際して は水に溶いて汚染部分に擦り込みます。このよう な生々しい薬品が次々と壕から出土しています。

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こうしてアメリカ軍は、首里の目と鼻の先にあ る安里あ さ と高地に進軍し、5月12 日から 18 日にか けて、日本軍と激しく衝突しました。これをシュ ガーローフの戦いといいます。 戦闘が行なわれた1週間で持ち主が11 度も交 代するほど、日米両軍の攻防戦は熾烈でした。陣 地に立てこもって抵抗する日本軍、それに対して アメリカ軍はお得意の「ブロートーチと栓抜き作 戦」で応戦しました。 アメリカ陸軍の史料によると、当時アメリカ軍 が進んだ距離は1日で60 メートル、しかし丘陵 部を25 メートル前進すると、日本軍の猛烈な反 撃でまた元の陣地に押し返されるという始末でし た。結局、アメリカはシュガーローフの戦いに勝 利しましたが、その代償は大きく、戦死傷者は 2622 人に及び、1289 人の神経症患者を出してし まいました。 その後、5月21 日より 10 日間にわたって沖 縄本島では大雨が降りました。地面はぬかるみ、 車両の運用が困難となったため、アメリカ軍の攻 撃は一時停滞しました。この大雨の奇跡のおかげ で、沖縄の守備を統轄する日本陸軍の第32 軍約 30,000 人は、アメリカ軍の包囲網をかいくぐっ て首里を脱出できたのでした。そして5月27 日、牛島満司令官ら第32 軍首脳は豪雨と夜陰に 紛れて徒歩で首里を撤退し、30 日未明には新司 令部を摩文仁ま ぶ に(糸満市)に設置しました。 こうして、沖縄最南端の摩文仁岳を中心とし て、沖縄戦最後の激戦が行なわれました。しかし ながら、この時期の日本軍の史料はほぼ皆無で す。どのような戦いがどこで、どれほど激しく展 開されたかは、アメリカ軍の史料に依拠するほか ありません。 6月11 日から 17 日にかけては、国吉台地の戦 闘(糸満市西部)が行なわれました。日本軍は第 24 師団配下の歩兵第 32 連隊(連隊長北郷格郎大 佐)以下、約1500 人の守備隊が応戦しました。 隣接する真栄里高地では同第22 連隊(連隊長吉 田勝大佐)が海兵隊相手に同地を死守しました。 「丘の上では戦車の支援なしには立つこともでき ない」ほど、日本軍の攻撃は激しかったといいま す。アメリカ軍の戦死傷者は1150 人。ここでも 大きな代償を支払うこととなりました(日本側は 軍民とも戦死傷者数不明)。 これらの戦いがアメリカ優位のうちに終結しよ うとしている6月17 日、アメリカ軍はバックナ ー司令官自らが牛島司令官宛てに親書で降伏を勧 告しました。ほぼ同時期に、ビラ800 万枚をまい て、日本兵や民間人にも投降を促しました。牛島 司令官はこれを拒絶し、翌18 日にバックナー司 令官自身が日本陸軍の砲撃で戦死しました。 とはいえ、もはやこの時期、日本軍の戦線は崩 壊していました。喜屋武地区を守備していた第 24 師団も指揮系統が崩壊し、組織的抵抗は不能 の状態となっていました。 6月20 日、アメリカ軍は摩文仁岳東端を占 領。977 人の日本兵が捕虜になりました。そし て、ついに6月23 日未明、第三十二軍司令官牛 島満中将と参謀長 長ちょういさむ勇中将が摩文仁の軍司令部 で自決しました。これで組織的な戦闘が終了しま した。沖縄ではこの日が「慰霊の日」として休日 に指定されています。 (上写真)シュガーローフ(日本名 安里五十二高地) 「シュガーローフ」とはアメリカ南部で好んで食べ られた菓子パンのこと。この丘を頂点として、ハー フムーン・ホースショアとそれぞれ名づけられた二つ の丘が三角形を形成していました。写真は真北か らシュガーローフを臨んでの撮影。 (1945 年 アメリカ海兵隊撮影) YouTube「沖縄最後の戦い」(1945 年 アメリカ陸軍撮影) 焼け野原での銃撃戦や日本兵と思われる人物が投降す る場面などが収められている。撮影場所は不明。映像は 沖縄県公文書館提供。https://youtu.be/LGZIG06dn_o

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ご遺骨が語りかけるもの 国吉様や南埜様のご指導のおかげで、たくさん のご遺骨を土や岩の下から掘り出すことができま した。再び陽の光を浴びるために、70 年もの間 ずっと待っていて下さったのです。最期はきっと 断末魔の苦しみ――怖くて、そして痛く熱く苦し かったに違いありません。 当時の様子を振り返ったひめゆり学徒隊の島袋 とみ様(当時18 歳)の記事が産経ニュースにあ りました。以下転載させていただきます。 梅雨の蒸し暑さに加え、死臭や汚物臭が漂う暗 い壕内で無数の人がうごめいていた。「水、水 を」「おしっこ、おしっこ…」。戦闘で負傷し、 手足を切断した負傷兵たちはうめき声を上げなが ら、18歳だった島袋とみ(88)=沖縄県沖縄 市在住=のモンペの裾(すそ)をつかんだ。「と にかく今を必死で生きなければ」。島袋は自分に そう言い聞かせながら介護を続けた。 沖縄師範学校女子部本科に通っていた島袋が 「ひめゆり学徒隊」として那覇市東南5キロにあ る南風原陸軍病院第一外科7号壕に配属されたの は、卒業を目前に控えた昭和20年3月23日 夜。米軍が慶良間諸島などを空襲し、沖縄侵攻を 始めた日だった。 病院といっても丘陵地に横穴を掘った壕や、ガ マと呼ばれる自然の洞窟に寝床を作っただけ。軍 医や看護婦、衛生兵は約350人。ここに島袋ら 15~19歳の女学生222人が教師18人に引 率されて看護補助要員として動員された。「兵隊 さんの声を子守歌だと思いなさい。」看護婦にこ う言われながら島袋らは負傷兵の食事や下の世話 に追われた。 壕に運び込まれる負傷兵は日ごとに増えた。傷 口には蛆(うじ)がわき、包帯の上から動いてい るのが分かった。包帯を交換する度にピンセット で取り去ったが、数日するとまた新たな蛆が傷口 に食い込んでいた。 遺体運びも女学生の仕事だった。日が暮れると 4人1組で担架に遺体を載せ、壕外の埋葬地に運 んだ。だが、死者は日に日に増え、まもなく埋葬 する穴もなくなった。・・・・・・(中略) 6月18日夜、軍医の命令を受けた教師が命じ た。「事態はいよいよ緊迫している。直ちに学徒 隊を解散する。これからは各自の責任で行動して ほしい」 そう言われても外は砲弾飛び交う最前線。島袋 らがどうしてよいか分からず、うろたえている と、軍医は軍刀を振りかざした。 「敵はすぐ近くまで来てる。歩ける者は出てゆ け。出ないものはたたき切る」 やむなく壕を飛び出した。「みんな行かない で。私も連れてって…」。同級生の悲痛な声がず っと耳の奥に残った。 島袋らが逃げ落ちた島南端の絶壁沿いに広がる 密林には、日本兵と住民が息を潜めてひしめいて いた。 米軍は火炎放射器で周囲を焼き尽くしながら間 近に迫ってきた。島袋も自死を決意した。だが、 偶然再会した教師が紙片を差し出した。「死ヌノ ガ能ジャナイ」。これを見た島袋は生きる道を選 び、ほどなく米軍に保護された。ひめゆり学徒隊 で生き残ったのは教師を含め104人だった。 (上写真)参加者が拾った ご遺骨や遺留品を判別する 国吉様。人骨か獣骨か、サン ゴ礁のかけらか木片か。熟 練した方でないとその判別 は難しいようです。

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ご遺骨は何の音もなく帰ってこられました。 辛かったとも悔しかったとも言わず、何ら語り かけることもなく。 収集されたこれらのご遺骨は遺骨収集情報セン ターに仮安置され、最終的には隣接する国立沖縄 戦没者墓苑(糸満市字摩文仁)にまつられます。 現在も6月23 日の慰霊の日には、多くのご遺族 の方々が参集され、思い思いにお花やお菓子、お 酒などをお供えして、御霊のご冥福をお祈りして います。 とはいえ、たとえ勲章をもらい、たとえ高く崇 められたとしても、骨は骨であることに変わりあ りません。ご遺骨を依より代しろとする御霊に自分を重 ねてみたとすれば、いったいどのような気持ちに なるのでしょうか。 参加者のひとりが国吉様よりある体験談を伺っ たそうです。それは、遺骨収集をなさる国吉様に 対して、掴みかからん勢いで詰なじる方がおられたと いうお話でした。 「何で日本軍の兵隊の骨なんか拾うのか!」 ガマの外ではアメリカ兵、そしてガマの内では 日本兵によって虐待されたのだ――と伝え聴かさ れた沖縄戦の生存者の子孫は、今も少なからずお られます。そのお立場からすれば、憎き日本兵の 骨を沖縄人(ウチナンチュ)が拾うということ に、どうしても鼻持ちならなかったに違いありま せん。 しかし、ご遺骨の収集を支援して下さるある沖 縄の方がこう仰せになりました。 「沖縄戦で亡くなったウチナンチュが12 万人 で、日本兵が6万人、アメリカ兵も入れて全部で 20 万人ならば、収集される遺骨のうち6割がウ チナンチュさ」 掘り出したご遺骨のどれがウチナンチュのもの で、どれが日本兵か分かりません。もしかしたら アメリカ兵かもしれません。また、どのご遺骨が 兵隊さんで、どれが非戦闘員のものかも分かりま せん。そもそも、それらを区別して「拾う」「拾 わない」の判断をする必要がどこにあるのでしょ うか。 ご遺骨は、御霊はどう思われるのでしょうか。 薩摩藩の侵攻。琉球処分。 沖縄戦の惨禍。米軍施政下での被害と屈辱。 そして現在、沖縄は米軍基地問題で大きく揺れ 動いています。今やそのシュプレヒコールは、慰 霊のお祈りをかき消すほどの大音量です。 私たちは教師として、真摯にこれらの問題を学 ばなければなりません。しかしながら、特定の政 治色に染まるより先に、頭で難しい議論を展開す るより先に、まずは行動を起こし、心を寄せるこ とが大切なのではないでしょうか。ご遺骨を収集 させていただくことで、その真実に少しでも近づ けるように思われてならないのです。(了) (右写真)収集した鎖骨や頭骨、歯な どのご遺骨の一部 (上写真)収集したご遺骨を丁寧に 並べる参加者

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(上写真)1日で収集したご遺骨のすべて (右上写真)国吉様のご自宅「戦争資料館」

緊張した面持ちで入らせていただく参加者 (右写真)「戦争資料館」の中を覆い尽くす遺留品 (下写真)国吉様・南埜様・佐古先生を囲んでの撮影

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