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「子ども理解」に関する教授学的考察

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

「子ども理解」に関する教授学的考察

著者 上野 ひろ美

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 42

号 1

ページ 81‑96

発行年 1993‑11‑25

その他のタイトル A Study on the View to Understand Children

URL http://hdl.handle.net/10105/1714

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「子ども理解」に関する教授学的考察

上 野 ひろ美

(奈良教育大学教育学教室) (平成5年4月30日受理)

1.実践における子ども理解‑客観主義からの脱却‑

(1) 「観察」による「子ども理解」

近年、 「子ども理解」ということが強調されている。即座に思いあたるのは、性格テスト、発 達テスト、生活実態調査、友達関係についてのソシオメトリ‑的把握、興味・関心についての傾 向調査など、総じて「調べる」ことで対象を知ろうとする、説明科学としての子ども理解である。

それに対して、 「調べて」せまる子ども理解では、生きた子どもの姿はとらえきれないとして 重視されるようになった子ども理解の方法に、 「観察」がある。実際のところ保育研究において、

いかに正確に子どもの姿をとらえるか、いかにして子どもの生活を内面ごと見てとるかというね らいのもとに、 「子ども観察」が精力的におこなわれている。観察は、子どもの「あるがまま」

の生活を「生きて動いたままにとらえる方法」日 としてもっとも有効であるとされているのであ る。

いうまでもなく、現象から出発して、子どもの生活とその内面を深くとらえること、子どもと 子どもの関わりの展開を知ることなど、教師や保育者はリアルな子どもの姿を把握することを求 められており、そのうえに立って教育的指導の手だてを講じなければならない。しかしながら忘 れられがちなのは、観察という行為が、どのようなものであれ決して観察者の関与しない中立的 で客観的なものではないということである。子どもをとらえようとするとき、われわれはまず、

外にあらわれている現象を手かかりに、そこから性格や内面を推し量ろうとする。一見当然に思 えるこの点に、子どもの発達や学力を形成していくうえできわめて重要な問題がひそんでいる(2'。

「観察して」知られる子どもの様子や実態は、個々の子どもの「自然な、内なる自己展開」な のではない。子どもは困難に遭遇して今までのやり方では処理できない事態(問題)に出くわし た時、自己の処理の仕方を変える。このことは、子どもの内から湧き起こる力に注目したすぐれ た発達理論として今日広く認められているところであるが(3)、教育や保育の営みにとってそれが 安易な自然成長論に堕してしまうことを警戒しなければならない。

観察において一見「客観的」に見えることが、実は主観性を示してもいる。この点について麻 生武氏は、 「『客観的観察』とは、観察対象と観察者との『心的距離』が大きい観察」のことをさ

すのであって、それは、 「対象から『心的距離』を大きく取るという観察者の主観のあり方」を 示していると言う。その場合、観察対象に対する「心的距離」の小さい観察が「非科学的」 「主 観的」であり、 「心的距離」の大きい観察が「科学的」 「客観的」であると誤って結論しないよう、

警告している。すなわち対象にたいしてどのような距離をとるかは、観察対象と観察者との関係 に規定されているのである。観察したことを語ったり文字化することが可能なのは、 「私たちが

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出来事の一部に選択的に注意を向けそれを概念的に把握しそしてそこで生み出された諸概念の系 列を『観察された現象』として物語り的に再構成」(4)しているのである。

子どもの発達は単なる自然展開の過程なのではなくて、望ましい自己展開を促進するようなあ る種の条件が必要である。その「ある種の条件」をつくりだす仕事がひとえに教師・保育者にか かっているのである。子どもは、観察者との「関係」にしたがってさまざまな像を示すのであり、

子どもと直接交流する人にしか見えてこない現象がある。いわゆる「客観的観察」は、眺めてい るその瞬間もまた、子どもにとっては、大人によってつくりだされている発達条件のひとコマに なるという「場」の視点が欠落することになる。

このように考えれば、 「調べて」知る方法や「客観的観察」とは異なる子ども理解の原理が求 められてくる。

(2)実践における子ども理解の4つの視点

教育・保育は子どもの内面にささやかな変化を生みだす営みである。調査し、観察しているそ のときもまた、教育・保育のひとコマであるという点が、第三者的な観察行為とは決定的に異な る。それでは「説明」される一般的、抽象的な理解ではなくて、実践における子ども理解とはい かなるものであろうか。ランゲフェルトは「その子どもが表現するところのものを、彼が自分の 人生にどのように相対しているかという、彼の全体的な人間としての在り方に深く関わるものと

してとらえること」(5)が子ども理解だと言う。

抽象的でない具体的な子ども理解をおこなうための原理的把握は次の三点である。 ①歴史性 のなかに明示される。子どもには過去や発達があり、行動や恩考においても過去が否応なしに決 定を下している。子どもはひたすら今ここに、ある特定の空間と時間の中に生きている。 ②一 回性の個人的なるものが表現される。教育や人間形成に関与するのは、標準化された人間ではな く個々の子どもである。 ③全体性における連関。個々人のいかなる内面的なものも、より大き な心的連関に組みこまれている。そのときそのときの一回性と教育状況は歴史的、全体的な連関 のなかにある(6)。

このように「歴史性」 「一回性」 「全体性」においてとらえることを原理として、実際の子ども 把握はきわめて具体的、個別的になされる。ランゲフェルトのいう、その子どもが「人生に相対

している」現われは、子どもの表現をとおして顕在化する。そうすると、子どものさまざまな表 現にたいして、それらを人間的なものの現われとして価値を与え、認め、意味づけていくことが 具体的な子ども理解ということになってくる。

実際のところ教育や保育は子どもと向き合うところから始まる。実践における子ども理解の視 点として次の4点を指摘したい(i)。

① 表情・しぐさを読む

子どもは身体や表情で自己表現、自己主張をしている。子どもは言葉で語ることのできる範囲 よりはるかに広く、多くのことを感じているし理解してもいる。言葉で表現できないことを身体 で伝えているし、逆に伝えたくないことも身体をとおして現われてしまう。その意味で身体的応 答は、子どもにとって、より根源的な自己表現である。

表情やしぐさを子どもの表現としてとらえることは、その子の内的部分に分け入ることのでき る関係をっくりあげるという意味からも、子ども理解の出発点となる(8)。

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②言葉を読む

子どもは独自の意味づけをおこなう、と言ったのはフレーベルである(9)

。子どもはしばしば論

理的でない。が、大人の期待するある種の正確さをもたないこと、言葉の定義的意味を語りきれ ないことが、果たして子どもがいまだ「わかっていない」ことなのだろうか?

言葉の意味を考えるためには、定義的意味だけでなく、「らしさ」としてあるようなイメージ を考慮しなければならない。定義的意味は制度としてあらかじめ決定されているが、「らしさ」

としての意味は子どもが何かについて語るという行為のなかではじめて現われてくる。すなわち 言葉を単に単語の定義的意味の問題として考えるのではなく、子どもが実際に使用する文脈の中 でとらえることが必要なのではないか。

子どもの発する言葉はイメージ的、詩的であるので、日常の意味において子どもの言葉を把握 しようとするとしばしばとらえ損なう。しかも、「定義としてわかる」「正確にわかる」こととは 別に、むしろ心へのくいこみの深さにおいて、「わかった気になる」ことがある。加えて、定義 的意味は客観的事態として抽象的に語られるが、イメージ的意味は子どもの場合とりわけその都 度子どもの主体的な構えが関与する。言葉が伝達手段だけであるならば、使用される概念はすべ て既知でなければならないが、言葉は同時に認識の手段でもあるのだから、使い方のルールだけ が問題になるわけではない。子どもが語るイメージは、それにたいする子どもの態度が含まれて いるために、概念‑の翻訳のしにくさがあるのである(畑。

M.ボラニーの提起した、概念や表象として対象化されない知識としての「暗黙知」の概念は、

子どもの言葉を読むための示唆に富んでいる。ボラニーは、言葉による明示の限界を超えて知る ことの可能性を強調している。「我々は、語ることができるより多くのことを知ることができる」。

語ることができる以上のことをわれわれがそれに先だって知っている。これを「暗黙知」と名づ ける。われわれにとって問題が見えるということは、隠されている何物かが見えることである。

それは、まだ包括的にとらえられていないが、それでも発見できるかもしれない何物かについて、

われわれは「内観(intimation)」をもつ。つまり「暗黙知」をいうことによって、際限なく明 噺さを求めることが逆に、複雑な対象の理解を妨げてしまうことを警告しているのである。前言 語的な領域における、世界の把握の仕方の可能性と積極的意味とを追求しているわけである(ll)。

子どもの理解は身体的なものを基盤にして成立している。子どもの概念形成は対象の客観的特 徴ではなく、自分自身の行動や経験の「型」にもとづいている。子どもは具体的・経験的状況を 離れては、概念を意識できにくいのである。幼児や低学年児童に見受けられる、動作を伴ったり 言葉と動作を一致させたりする「身体への共鳴」はそのことをあらわしている。われわれは不明 瞭なものをより明確なものに、構造の嘩味なものをよく構造を知っているものに、直接経験でき ないものを経験ずみのものになぞらえ、そして最終的には身体的なものを基盤にして非身体的な ものを概念化しているわけである。このように考えれば、事物や現象の概念は、記号的ラベルで 表現されるだけでなく、定義的・形象的イメージ、それに身体的経験の型という三つのレベルで とらえられると考えることができる。

このことは、レトリックの再評価につながる。言葉の特性が概念とともにイメージを含むこと にあるとすれば、純粋に概念的な恩考をのみめざした論理主義、しばしば生活世界から離れてい く抽象思考に対して、生活世界に着地するような言語にのっとった思考が再発見されなければな らない。子どもの言語の問題は、こうした地平にあるわけである(12)。

「言葉を読む」という子ども理解の第2の視点は、言葉が新たな対象のとらえ方、子どもの新

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たな意味作用をもたらすことを前提している。意味が与え直されるのである。ここでは大人もま た、世界の再構造化を迫られることになる。実践において「子どもに学ぶ」と言われるのは、こ うした局面を含みさしている。

(卦 活動の文脈でとらえる

新幼稚園教育要領ならびに新保育指針は、 「遊びをとおしての総合的な指導」という方法的視 点をうたっている。文字どおりに解すると、旧教育要領の各領域活動を否定しているかに受けと れる。実際のところ全国各地の幼児教育‑保育実践には、音楽や造形、自然観察などの「分化」

した活動を敬遠しがちな事態が広く生じている(13)。

ところで教育や保育の仕事には、他のジャンルとはまったく異なった性質がある。大人が自然 や社会の現象や法則、あるいは文学作品などを理解しようとするとき、その認識対象と対時する。

「私」が作品と向かい合い、それの理解や解釈に及ぶ、 「私」と「対象」との二項関係である。理 解に努めようとすればするほど、 「私」は分析、総合、一般化というように、対象に入りこむこ

とになる。対象認識の論理である。

これに対して教育や保育の論理は、大人が対象理解に努めるだけでは末だ成立していない。対 象と向かい合い、それの理解や共感につながる活動をおこなうのは子どもである。大人がどれだ け感動し深い理解を示したとしても、それが子どものものにならなければ末だ対象認識の域にと どまっている。保育者に求められるのは、子どもとともに活動や遊びに没頭することだと言われ るが、その表現は正確でない。つまり教材に子どもを「出会わせ」、活動に「引きこむ」技量が 必要なのである。教育や保育の論理が対象認識の論理と決定的に異なるのは、大人が子どもをし て活動・教材に「出会わせる」という三項関係であることによるIH)。

したがって子どもが「出会う」活動の内実を豊かに深めていくことが、保育に不可欠な課題と してあるのである。それが旧六領域であろうとその範噂外の活動であろうと、である。その意味 で、幼・低学年段階では「総合化」を重視し、中・高学年段階では「専門分化」をめざす今日の 教育課程の傾向にあってなお、保育者は子どもの総合的活動を「分化」させる「目」を常に求め られている。

このように、逆説的表現になるが、子どもの内面にのみ注目するのでなく、 「いま」 「目の前 で」その子がおこなっている「活動の文脈」をとらえることによって、その子の達成や工夫、迷 いをも把握することができる。こうした視点をもつためには、 「○○遊びはこのようなもの」と いう子どもの遊び活動の固定的、定型的なとらえ方を改めなければならなくなる。子どもが今お こなっている「活動の文脈」でその子をとらえること、これが子ども理解の第3の視点である。

子どもを活動の流れのなかで見ることで、その子に関わる手がかりが見えてくるからである。

④ 子ども相互の関わりを読む

子どもをとらえる視点の第4は、子どもの傾向、特性を絶対視しないで、関わりのなかで見る ことである。ひとりの子どもをみつめるよりも、子ども相互の関わりのなかで、いっそう個々を とらえることができる(15)。

子どもにとって他の子どもたちとの関わりは決定的である。それは一定の人間関係というもの が、子どもにとってある種の生活の論理になっていくからである。たとえばある子の言動は、彼 をとりまく他の子どもたちとの関係のなかでそのような現われ方をしているのである。関係のな かで「選択」されているのである。

したがって子どもをとらえるためには、ひとりの子どもだけをみつめるのでなく、その子をと

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りまく他の子どもとの関わりを読みとることである。そうすることによって恩わぬ姿が見えてく るし、当のその子どもにたいする関わり方のきっかけを発見することができる。

子どもをとらえるためには、まず、目に見える、聞こえる現象を手がかりにするしかない。

「内なるものは、外なるものにおいて、外なるものを通して認識される」(フレ‑ベル)。しかし ながらフレーベルも続けて述べているように、「外なるものから一方的に内なるものを推しはか ることは、教育には不可能であるし、許されることでもない」(16)

。すなわち「観察」して見える

ことを手がかりとしつつ、その見え方に依拠しながらなし得ることを探すところに、実践におけ る子ども理解の要諦がある。

「眺めて」見えることを手がかりとしつつ、その見え方に従いながら働きかけることによって、

子どもの内なるものが姿を表わしてくる。教師や保育者が、かくあれかしと願う子どもの姿に向 かって働きかけるなかで見えてくる。子ども理解というとき、ただ子どもを把握するだけでは、

教育はいまだその使命を果たしてはいない。文化の担い手として教師や保育者が子どもに示す要 求は子どもの外側から迫らざるを得ないのであるが、子どもの日常的な現象や要求とは常に矛盾 しぶつかり合う。その緊張関係にあって、子どもにつけたい力に向かって働きかけるなかで子ど もの内面が見えてくるのだし、子どもの内面に変化を生みだすことができる。

2.津守真氏における「子ども理解」

津守真氏によれば、理解するとは、「子どもの表現を自らの表現の可能性として受けとり、そ こで理解された意味を、自分と他人に共通のことば、あるいは伝達可能な行為に移すこと」(1nで ある。保育は相互性をもった、保育者と子どもの共同活動である。したがって理解もその共同活 動のなかでこそ意味をもつ。そして、子どもの表現が行為による表現であるように、大人も自ら の理解をまず行為によって表現し伝える。実際の保育においては、大人の理解は、相手の子ども との間で行為を通して意味をもつ。

津守氏は、子どもの「あるがまま」の生活を「生きて動いたままにとらえる方法」としての

「観察」を強調した時期から、「客観的観察」では掬いきれない子どもの事実に言及することに よって、子ども理解のあり方を一貫して追究してきている。氏の研究の軌跡そのものが子ども理 解に関する多様かつ重要な視点を示しており示唆深い。氏の数々の著作や所論に学びながら、

「子ども理解」の焦点となる問題群を取りだしてみたい。

(1)子どもの行動を表現としてとらえる

子どもの行為をその子ののっぴきならない自己表現としてとらえることから子ども理解は始ま る、というのが氏の主張である。

「私が子どもの世界に参与し、あらゆる感覚と全存在をもって子どもと交わるとき、子どもは 自らの世界を私に開いて見せる。そのとき、私が見ている子どもの行為は、単なる行動の断片で はなく、子どもの存在の世界の表現となる。行動の仕方、表情、しぐさなど、異体的な行為その ものに、子どもの世界はあらわれている」。り8)

子どもの行為を表現として受けとめる態度は、いわゆる客観的観察とは異なる。外から観察さ れる行動は、その子にしてみればいわば外縁部分であり、子どもの内的世界を覆ってはいない。

保育者は「外から」子どもの行為を眺めるのではなくて、子どもの傍らで、時間と空間をともに

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する保育の場において、子どもの行為の意味を受けとめることができる。そのことを氏は次のよ うに言う。

「外部から第三者によって客観的に観察される行動は、子どものなす行為の一部分である。子 どもの生活に参与する保育の実践においては、おとなは子どもと一緒に生きているから、子ども を対象化して行動を観察していない。子どもとの応答の中で、自分の全感覚をはたらかせて、子 どもの行為を知覚し、子どもの世界に出会う。そこで知覚された行為は子どもの世界の表現であ る」(19)

外部から観察される行動は、その裏側に体験の世界を伴っているわけで、それはその人の体験 の世界の、いわば「外縁の部分」である。そして外的行動の相互関連は必ずしも因果関係をなす ものではなく、相互の関連を示唆しているにすぎない。つまり「外的に観察される行動は、他の 外的行動に直接結びつくのではなく、その人の体験の世界にもどり、そこから新たに出発」する

というのである。(20)

子どもの行動は単に因果関係からなるのではなくて、相互関連にあるという把握は、ランゲ フェルトらの指摘する子ども理解の視点と共通している。もとより保育は、保育者と子どもが空 間と時間を共有することから始まる。大人は子どもと向き合い、ともに生活しようとする。その とき、子どもが行動としてあらわす内面世界を表現として理解しようとすること、このことを氏 は強調しているのである。表現とみなす行為には、身体、表情、描画などさまざまある。 「こと ばに表現する以前に、子どもには、直接体験に密着した心的イメージがある。それは、ことばに あらわすよりも、描画にあらわすことがもっと容易であり、身体の動きにあらわすことは、更に 容易である」 (21)

(2)観察について

われわれが知覚する子どもの行動は、子どもが感じている世界の表現である。子どもの世界は 文字に記録するのが困難な、表情や小さな動作やことばの抑揚などに表出される。氏によれば、

保育者は単なる観察者ではなくて、感じるべき存在である。

「われわれが知覚する子どもの行動」というときの知覚は、氏によれば、全感覚器官を動員し て観察したものをさすが、それだけでは子どもの全体像の把握は充分でない。子どもの世界のか くされた部分を知るためには、 「知覚によって媒介されながら、知覚をこえて『感じる』力をは たらかせることが必要になる」からである(22)。ここに言う「感じる」力とは、知覚を契機としつ つ、知覚から自由になって、 「相手の世界の心の波動にあわせて、こちらの感じ方をかえていく ことのできる力」(23)を意味している。すなわち外的行動の観察をはるかに超えて、いわば感得の 世界に入ることである。

観察はこのように限りなく「感得」の世界に近づくものであり、客観的観察とは異なる。観察 行為は本来の「保育行為の一部」にすぎないのである(24)。

(3) 「発達」 「活動の発展」 「計画的活動」への疑問

津守氏の諸論では、従来の教育学や発達心理学で用いられてきた概念に対する疑問や批判がし ばしば呈示される。 「発達」 「活動の発展」 「教育的価値」 「計画」等がそれにあたる。

① 「発達」について

たとえば「発達」について、氏は次のように述べる。

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「発達を直線運動としてとらえる考え方は、われわれの中に深く根ざしているようである。し かし、それが唯一の発達のとらえ方ではなく、もっと粁余曲折し、また、ある状態の時に、突然 に、飛躍的に出現するような考え方をすることができるのである。子どもの発達に即して指導す るというとき、発達を直線のように考えて、その階段を昇ってゆくように刺激を与え、次の段階 にまでひっぼり上げることを目標とするのが指導であると考えるのは、一面的であるように患う。

子ども自身が探し求め、ある状況のときに、出口がほどけて、子どもの中から何かが出てきて変 化するような発達の考え方をとると、実際の指導も変化してくるであろう」o(班)

発達が直線的ではなく螺旋的であること、連続的のみならずきわめて非連続的側面をも併せも つこと、また次のステップへ上昇する「縦の発達」のみならず「横の発達」が重視されるべきこ となど、発達研究や保育・教育実践は発達観の内実を豊かに提示してきている。氏の指摘が、単 純な連続的発達観に立ち、その結果として訓練的に子どもを追い立ててしまう保育のあり方にた

いする批判にあるとすれば、 「発達」研究ないし保育実践の側がそれを受けとめなければならな いだろう。が、氏において発達概念そのものが否定されているのではないかという疑問が残る。

そのことは氏の指摘する「実の世界」と「虚の世界」からも窺える。氏は何もしないこと、空 想にふけること、目的のない役に立たない活動などをさして「虚の世界」と名づける(26)。自分の 力の及ばない出来事や条件によって願いや期待が妨げられたとき、欲求不満とか攻撃とか逃避と いう顕著な行為に陥るのではなくて、子どもの前には「目立たない別の世界」が広がる。それが

「虚の自己実現」であるという。そして「実の自己実現」を妨げられた人は、 「そのような状況に 置かれたからこそ、両義的世界の全体像の認識が可能になり、虚の側に身をおいたときの他者に 対する温かい理解や、恩いがけない自分自身の独自な世界の開拓が可能になる」(2nという。

人間が常に両義的存在であること、内的矛盾をはらんでいることは子ども観の問題として重要 な指摘である。子ども理解の原則のところでみたように(歴史性)、子どもの発達は社会的歴史 的に規定されているのである。

この点に関わって、発達研究と教育的価値との関連についてのすぐれた指摘がある。それは教 育が子どもの発達をあるがままに任せたり、あるいは強制するなりして、結果として現状への適

応をのみ望むならば、これは発達的に批判されなければならない。逆に発達研究が、発達過程を 現在の環境に適応していくという見解をとるならば、教育的に批判されなければならないL2串。

津守氏の発達観からは、従来の子ども把握がテストや計測という「客観的」方法でなされてき たことに対する批判に立ち、子どもの深層の部分や葛藤部分に光をあてようとしていることに積 極的意義を兄いだすことができるものの、 「実」と「虚」を相対化してとらえてしまっては、真 の意味での発達の観点が希薄になるのではないか。確かに今日、何が進歩で何が正常かという基 準が不明確になり、異質なものとの共存をめざそうとするいい意味での思想潮流がある。しかし、

発達の観点に関して言えば、安易な能力主義に転落しないためにも、いっそう厳密な検討が必要 であろう。

発達を一個の人間の個体の変化の過程として認識するだけでは十分でなく、 「教育学的課題」

(padagogische Aufgabeランゲフェルト)として認識することが重要なのであり、子どもの行 動を、子どもから差し出され、問われる課題として受け取るという発達観が求められる(nJ。

② 「活動の発展」

氏は「外的発展と内的発展の一致」ということを重視する。 「活動の発展」の考え方が、見え る世界における「外的」な発展にのみとらわれがちなことに対する警告である。

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88 上 野 ひろ美

「大人の目に見えるところで活動が豊富になり、空間がひろく用いられ、長時間続くならば、

活動が発展したことになるのであろうか。大人に見える世界での活動の発展は、子どもの内的活 動の活発さを保証しないであろう。子どもが物ととりくみ、あるいは他の子どもとともに遊びに 投入して、その物のもつ原型にまでふれる体験となっていくとき、そこに内的な活動の発展があ る」。(調)

そして大事なことは、外的な発展ではなくて、大人自身が生きて動いているかどうかというこ とであり、それが子どもに影響するのだと言う。つまり、「大人が発展と考えて用意した意図そ のものが発展に役立つのではなくて、大人がそれと取りくむ生きた熱気が、子どもをもその渦の 中に巻きこんでいる」のである(3り。そうなるときに子どもも自分の活動を展開させるのだし、活 動の外的発展と内的発展とが一致してくる。

そして、ひとたび子どもが自分で投入できる活動を見出したら、大人は干渉してはならず、子 どもが自分でそれを試し、自分のやり方で展開させればよいという。「ひとつの活動は、それ自 らの中から次の活動を生み出す。子どもには、その活動をすること自体がよろこびとなる。でき 上がりや形や結果は問題にならない」(32)

遊びにおいて、できあがりや結果が問題でないということはいうまでもない。遊びは遊ぶこと をおいて他に目的を有してはいない。が、外的発展と内的発展の「相互関係」ではなくて、「一 致」と言うとき、その内実はどのようにとらえられるだろうか。遊び文化は子どもの外側に存在 する。見よう見まねで、それでいてきわめて創造的に子どもは遊ぶ。つまり子どもの発達は文化 が内面化される過程なのである。そしてその内面化の過程は単純な模倣や外からの注入なのでは なくて、子どもが自ら活動するなかで選択されて獲得される。ここにも、「発達」の概念把握に 通じるところの、発達における「内」と「外」との関係把握が問われている。

③「計画的活動」について

「発達」「活動の発展」と同様のことが、実践における計画についてもいえる。たとえば氏は次 のように言う。

「ことばを組み立てることを先にして、それに従って保育をしていくのがよいという考え方が ある。ねらいとか、目標とか、指導上の留意点とか、予想される活動とか、そういうものをこと こまかに書かなければ計画性がないと思う考え方がそれだ。ことば上で筋が立ち、合理的に組み 立てられても、保育の実践はそれとは関係がない。ことばを合理的に組み立てるほど、それに従 わねばならないような気を起こさせ、そのために、実際の場では、おとなからも子どもからも、

いきいきした精神を奪ってしまうのだ」。し㍊)

こうした記述からは計画的活動についてのきわめて否定的な響きが伝わってくる。が、ここで も留保が要りそうなのである。そのひとっとして、氏は別のところで次のように述べている。

「おとながある計画をもったとき、その熱意に触発されて、子どもも何かをやりはじめることは 多く見られる。そのうちに、子どもは自分から別の面白さを兄い出して、おとなの考えとは違う ことをやりはじめるのだが・‑(略)」。(訓)っまり計画を持った大人が放射する熱意それ自体が子ど もを誘う場合のことをさしているのである。ここで言う大人の熱意は、どのように湧いてくるも のなのか。

それにたいするひとっの回答として、それは周囲の大人や子どもが「本気」であることとされ る。「他者のはじめた活動にひきっけられ、それに参加するのは、多くの場合、ことばによるの ではなく、おもしろそうにやっているその熱気に誘われるのである。最初にやっている大人や子

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どもが本気でなかったら、あるいは子どもにやらせようとする意図だけの場合には、子どもはそ こに誘われない」。伽)

このようにまず保育者の熱気、それに周囲が本気であることが、予めの計画よりもいっそう重 要だというわけである。まさにそのとおりである。従来の教育や保育研究がまず内容研究ないし 指導計画の作成に力点を置き、実践がそれの「消化」にあったことは否定できない事実だからで ある。しかしながらその批判は計画それ自体の不必要性として主張さるべきものではない。計画 が設定されていることと、それを実施することとの関わりが問題なのである。

氏が否定するのは、あらかじめ用意されたプログラムを「一律に実施する」ことなのである。

実践の本質は「子どもと応答しつつ、自らの思索により、自分の判断によって、自らの行為を選 択する」鵬ところにあるのだからである。実践は計画どおりに運ばないことの方が多い。その結 果を自分の身に引き受けねばならない保育者にとって、子どもとの応答のひとつひとつの決断は

「勇気を要する」ものである。

この問題は結局のところ保育案論に帰着する。元来保育案は、教材・活動のイメージにもとづ いて、たとえば遊びの展開のなかでどのようなことが子どもに起こり、その際に保育者がどのよ うな働きかけをするかについて、いくつかの場面、何人かの子どもを念頭におきながらの腹案と して成立するものである。そうすることによって、逆に予想や意図に反したさまざまな展開に対 して対処することが容易になるからである。

つまり計画は計画のために作成されるのではなくて、最終的には実践において、個別的、具体 的な問題に直面して発揮される「速やかな判断と決断」としてのタクト形成として把握すべきで ある(37)。瞬間瞬間の応答こそが実践の生命線である。保育者が子どもと出会い、子どもを活動や 教材と出わせ、友だちと出会わせる、保育者の働き返しとしてのタクトである。そのための瞬間 瞬間の応答力を保育者がどこで身につけるのかという問題に逢着した時、またしても実践と計画 の相互関係という弁証法に行き着いてしまう。その力をつけるのは計画一実践の連鎖においてで ある。すなわち計画は必要であり、問題はそれの生かし方にあるととらえることによって、氏の 計画‑の批判は生かされるのではなかろうか。

(4)省察と実践

津守氏は、保育は実践と実践後に考える作業とから成るとして、保育後の省察を重視している。

省察とは保育実践の最中に子どもとの間で体感として直接とらえたた記憶を確認する作業のこと である。実践の最中の生きた体験に立ち戻り、一面的でなく多面的に、想像的に、自分自身との 関係のなかで、そして共同性のなかで自分に独自な理解を深めるのである(瑚。

「省察は保育者の自由な精神作業である。自分に感じられたイメージにしたがって、それに形 を与えていくとき、最初の知覚とは違った新たな側面を発見する」。(39)省察は保育の実践に欠く ことのできない作業である。省察によって、子どもの理解は深められ、次の日の実践はそこから 出発する。日々の省察において子どもの理解が完全になされることはあり得ないが、不十分なま まに、大人も子どもも次の新たな日を迎え、新しい一日を形成する。新たな省察がその上に重ね られる。こうして、子どもの成長と大人の成長とが、 「保育において同時に進行する」ことがめ ざされる(40)。

「行為の意味は、保育者が子どもに応じ場面に応じて新たに発見するのであって、同様の行為 も一回ごとに違った意味をもつ。一般的には周知のことも、保育者が、きょう眼前の子どもにつ

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90 上 野 ひろ美

いて意味を見出したときには、新鮮なよろこびがある。子どもと保育者の生活の状況には、ひと つとして同じものはなく、それぞれ異なった過去、現在、未来をもっから解釈は生活の連鎖の中 での思索の重要な素材となる。解釈は思索の中で新たな生命力を得る」。(41)

(5)子ども理解

では総じて氏の子ども理解とはどのようなものなのか。

いろいろの背景をになって登園する幼児の状況をことごとく保育者が理解することは不可能で もあるし、また必要なことでもない。氏にとってもっとも必要なのは、子どもが登園してきたそ のときに「どのような感情や意気ごみをもっているかをそのままに感じとること」である。その ためには相手をわかろうとする白紙の心となって迎えること、言い換えれば「無構造の心の構 え」で迎えることである(4め。

また、外にあらわれる行動は、その子の「内的世界を含めた全体の一部分」であるので、その 部分だけをとって命名すると、その窓を通しての一面的理解に陥る。しかもそこでの命名だけが、

その子どもを代表するものとしてひとり歩きしがちであり、子どもの心の中で起こっていること には目を向けずに、 「そのことばに対する『対策』だけが論議されることになりかねない」。(43)

子ども理解はその子と向き合っているときに瞬間的になされる。瞬間的になされるその場の理 解は、 「ほとんど無意識のうちに」 「体感によって」行われる。そして、保育者の理解のしかたは 身体による応答の中に表現される。子どももまたそれを通して保育者の心を読みとり、子どもと

しての応答をすることになる(44)。

このようにみてくると、 「保育において頚在は現在の視点から理解される」(45)というのが氏の 子ども理解ないし保育観の核心であるように思われる。客観的データでもって測定するのではな く、また保育者が強烈な願いを伴って保育の場に出向くのでもなしに、向かい合って体感によっ て理解し、それを身体で子どもに伝え、応答し合う。仮にこちらの理解が妥当でなければ、 「子 どもの抵抗がそれを知らせてくれる」(46)から、修正をはかることができる。

つまるところ氏の「子ども理解」は、子どもの心的発展の実現をめざしている。大人が、表現 を手がかりにして子どもの世界を理解しようと努めるとき、子どもは心の願いをいまだ自分でも 十分に理解してはいない。 「大人が理解することによって、子どもは次の段階へと心的発展をす る」のである(4乃。すなわち子ども理解のためにはまず、子どもの心の動きを、表現された行動を 通して、いかに読みとるかという課題が保育者に課せられる。この読みとりが「大人による助 力」であり、子どもは「自身が、模索していてたずねあてることができなかったこと」にいきあ たることができる。そのとき、 「子どもは大人から理解されたという実感を得て、次の生活に向 かって進んでいく」。ォサ

保育が相互性をもった保育者と子どもの共同活動であり、理解も共同活動のなかで意味をもつ という人間学的認識をここにみることができる。

3.応答関係のなかでの意味づけ (1)子どもの経験の質を問う

実践における「子ども理解」は、抽象化された一般的理解ではないということをみてきた。活 動のなかで当の子どもが、現実にたいして具体的にどのように関与しているかを見てとることが、

(12)

子ども理解のひとつの要件である。本論l‑(2) 「実践における子ども理解の4つの視点」で挙 げた「表情」 「言葉」 「活動の文脈」 「関わり」はそのための具体的な試みである。

ところで保育や低学年実践では、 「何かをさせておく」式の遊びや活動が少なくない。総合的 活動を重視するという名目の下で、活動の種類や量が増えることはあっても、質が問われること はほとんどない。さまざまな活動のなかで、子どもたちはどのような経験をしているのだろうか。

経験とは、 「活動する身体」をそなえた主体がおこなう他者との間の相互行為である。それは、

われわれが何かの出来事にあって、 「能動的に」、 「身体をそなえた主体として」、 「他者からの働 きかけ」や抵抗を受けとめながら、振る舞うときに生じる(49)。ただ何かの出来事に出会うだけで なければ、ただ能動的に振る舞えば足りることでもない。その際にどうしても欠かせないのは、

身体をそなえた主体として、他者からの働きかけ(‑抵抗)を受け、それにたいする能動‑受動 の状態にさらされることである。五感を働かせ、実感を伴い、抵抗を受け、発見し、達成感で終 わる。そして最終的に経験が経験になるということは、現実との関わりが深まることである。

従来、経験や実践は、理論の普遍性や論理性がいわば「過信」されたため、決断し選択する自 己の身体性に十分な考慮が払われてこなかった。実践とは、主体が機械的、一方的に対象に働き かけてそれを変える=rとではなく、自己や他者や世界との、また理論との形式的な相互性から成 るものでもない。実践とは、各人が身をもってする決断と選択をとおして、隠された現実の諸相 を引き出すことである。実践はまた、すぐれて場所的、時間的なものである。空間的、意味的な 限定を受けているからこそ、実践は、歴史性をもった社会や地域のなかでの人間の、現実との凝 縮された出会いの行為として成立するのである叫。

経験のなかでより能動的なもの、特に意志的で、決断や選択をともなうところのものが実践で あると考えれば、経験とはこのようにとらえることができる。経験が経験として成立する条件を 保育・教育実践のなかで満たすことで、子どもの経験の質を高めることができる。

(2)フィールド的な知(臨床知)

こうした経験のとらえ方は、教師・保育者の側の経験としての実践にもあてはまり、子ども理 解の転換をせまられる。

従来の諸学問が依拠してきたのは、 ①普遍性 ②論理性 ③客観性である。これに対して、

これまでの科学概念からはみだした領域、対象との身体的な相互行為を中核とする臨床的領域が 成立しつつある。精神医学、文化人類学、動物行動学、看護学、教育・保育実践学などがそれに あたるO今日、臨床的な仕事における真理とは何かという問いが立てられている(51)。

これらの領域では、上記3つの科学の原理が軽視し排除してきたものが逆に顕著なのである。

それらはたとえば、次のように変化してきている。 ①無限・絶対空間としての場所把握から、

固有の場所としてのとらえ方へ ②論理的な一義性・単線的な因果関係から、事物の多義性と してのシンボリズム(象徴表現)の原理へ ③客観や対象は主観や主体の働きかけを受ける受 動的なもの(主観と客観、主体と対象の分離・断絶)という把握から、働きかけを受けつつ働き かける受動的な能動とも言うべきものであるという把握へ(52)。

総じて、個々の場所や時間のなかで、対象の多義性を十分考慮に入れながら、それとの交流の なかで事象をとらえる発想の台頭といえる。教育・保育実践もまたそこに位置している。教育・

保育実践が直面している課題は、 ①物事を対象化して冷ややかに眺めるのではなくて、他者や 物事との間に生き生きとした交流を保って、相互主体的かっ相互行為的に関わること ②物事

(13)

92 L 野 ひろ美

を抽象的普遍性の観点からのみとらえるのではなくて、個々の事例や場合を重視し、物事の置か れている状況や場を重視すること ③分析的・論理主義的であるというよりも総合的・直感的 なものを見直すこと、である。

原理上、論理的っまりは無時間的に明示し証明してみせることができる近代科学の知に対して、

ここにいう臨床的・フィールドワーク的な知の方は、その正しさを同じような仕方で明示し証明 することができない。自他の間の緊密な相互関係のなかで観察し、感じとったことを言語によっ て記述する場合(たとえば保育記録や実践記録がこれに該当する)、その記述が正しいか正しく ないかということをすぐには判定しがたいからである。経験は論理に比べて自己を根拠づけるす べを欠き、多分に唆昧さを含んでいるように見える。津守氏もその点について触れている。 「み ずからを関与させて、子どもの可能性を実現させる過程をつくりあげるところに、保育がある。

その力動的な過程は、保育の外に立っ科学的研究の方法論と成果に適合しないという理由で、価 値が認められないことが多かった」.倒

しかしながら、フィールドワークの記録にしろ、保育記録にしろ、観察し感じとったものを言 語によって記述した場合、その記述は、ある期間にわたって多くの人々の検証にさらされれば、

どこまで信頼できるかを判定することは可能である。行為の積み重ねとしての経験の働きについ ても同様で、経験の教え告げることは決して唆昧ではない。 「人間の感覚は頼りがいがなく、理 性によってこそ背後にある確実な構造が認識可能になるのだ、という一般的前提」は変更をせま

られ、 「身体経験にもとづく認識に新たな意味が生じて」(朗)いるのである。

実際のところはいまだ冷ややかな対象化や形式的な計量化が相互行為の場に持ちこまれること が多い。教育・保育も例外ではなく、テストは言うまでもなく、先に述べた「客観的観察」がそ の現われである。臨床という相互的コミュニケーションの場にふさわしい究明の仕方が必要であ る。

教育・保育の「現実」は、対象との「関係の相互性」あるいは相手との交流である。科学はあ らゆる主観性、あらゆる主体とのかかわりを排除すべきだという主張が正当に見ようとしなかっ たものは生活世界である。その出発点をなすのは、生活世界に関する「単に主観的で相対的な」

直観であった。生活世界の重要性は、とりわけ、それが直接に経験できる根源的な明証性の領域 にあることである。生活世界の概念は、意志的な志向性っまりは実践的な志向性と結びついてい る。

先に触れたボラニ‑の「暗黙知」についても同様のことが言える。暗黙知は、身体性や技能と 密接な関係をもっている。 「生命体の活動に関する知識は、了解的な認識によらなければならな い」 「生きているものの能力についてわれわれが観察することは、同種の能力への依拠と相呼応

しなければならない」と述べられているように155)。

相互関係のなかで子どもをとらえていくことが、子ども理解の核心である。

(3)意味の付与、意味の了解 ‑解  釈‑

それでは相互関係のなかで、子どもに「経験」を成立させることをめざす大人の働きとはいか なるものであろうか。実践において、教師や保育者による助力、働きかけと呼ばれるものである。

教師や保育者が子どもに及ぼす教育的影響力である働きかけの原型は「イナイイナイバア」に 見られる。これは、ともに遊ぶ大人に向けられる子どもからの絶対的信頼、 「待っ」こと、相手 が見えず不安にかられる時間が次第に長期化して「見通し」がもてるようになること、向かい

(14)

合って遊ぶ楽しさ感覚を共有すること、などの要因から成り立っ遊びである。

「イナイイナイバア」において、遊び手は同時に遊ばれるものである0 「イナイイナイ」と最初 にしかけるのは大人である。 「イナイイナイ」と呼びかけ、隠れ、 「バア」と現われるたびに、大 人と子どもは「きゃっ、きゃっ」と笑いと喜びをともにする。 「もうちょっと、もうちょっと」

とじらしながら姿をあらわすタイミングをはかる大人と、 「いまか、いまか」と待ち続ける子ど もの間には、期待が共有されており、解決の瞬間に向かって両者は呼応し、高まっていく。やが て子どもが「バア」と遊びを催促してくることにもなり、遊びはさまざまに変化する。

いずれにしても、 「イナイイナイバア」に興じるそのなかでは、 「呼びかけるもの」と「呼びか けられるもの」、 「遊ぶもの」と「遊ばれるもの」の役割交代は自在である。いわば、向かい合う 大人と子どもは交代自在な相互関係のなかにある(56)。 「絶対に姿をあらわしてくれる」という向 かい合う大人にたいする信頼、呼びかけにたいして必ず応答があり、期待を共有して呼応し合う という共同的性格、これがこの遊びの成立条件である。ここに、向かい合い、呼びかけ、応答す ることによって「交代自在な相互(応答)関係」に入るという、遊びにも学習にも共通して窺え る性格がある。

大人が最初の一撃を引き起こしているのだが、交代自在な相互関係として現象する関わりのあ り方は、教師・保育者による指導のありようを考えるのに示唆深い。大人からの一方的関係では なくて、相互関係の成立に教師・保育者の助力(‑指導)の本質を求めるならば、 「遊び一遊ば れる」関係はそうした相互主体的に関わることの原点をなしているからである(・5刀o

上の事柄に顕著なように、子どもとはどうやって意味をあらわしたらいいかを学びつつある者 である。幼い子どもは、微笑に代表的にみられるように、自分の動作を、自身の意図から出たも のと周りから解釈してもらうことによって、意味のあるあらわし方を学び始める。ままごとでつ くったものを大人に見せにくる子どもに、 「おいしそうね」 「ジュースですか」とかえすことも、

「追いかけ遊び」に興じるためにオオカミや赤ずきんのストーリーを介在させることも、大人に よる意味づけである。これらの意味づけに支えられて、子どもはイメージを明確にしたり遊びの 約束事を理解していく。

子どもの心は来るべきものへの期待と予感に満ちているのだが、自身でそれを表現できないた めに、誰かに表現してもらうのを待っているのである158。子どもが示す表現行為は常に向かい合

う他者との関係を前提として、その上に成立する行為である。意味づけは、実践における教師や 保育者の解釈といえようが、それはいわば子どもがとらえている意味を、大人の理解し得る意識 の中にもちこむ作業だといえる。解釈の作業は、人間精神の本来の働きからいえば、実践に伴っ てあるO実践そのものが解釈なしには成立し得ないのである(59)。

このように考えれば、子ども理解ということについての、ランゲフェルトやダンナ‑の規定に 立ち返ってくる。理解とは、 「その子が表現するところのものを、彼が自分の人生にどのように 相対しているかという、彼の全体的な人間としての在り方に深く関わるものとして捉えること」

(ランゲフェルト)であった。ダンナーはまた、 「理解とは、なにかを人間的ななにかとして認識 し、同時にその意味を把握すること」だと言っている。(醐

われわれは表現をとおして、子どもの内的な部分にまで深く分け入るという状況をつくりだす ことができる。それは子ども理解に先行してあるのではなくて、子どもの内的部分に分け入るこ とのできる関係をつくることと並行してつくりだされる。そして、関係のなかで意味づけ、それ によって変化し、関係自体が変わる。

(15)

94 上 野 ひろ美

「教育と人間形成に関しては、たえず更新される目的を追求し、価値を模索することが必要で あり、その意味を洞察し、解釈していかなくてはいけない」(61

。〕結論に到達するために計測した

り、数量化することで、証明を取るのではなく、常に新しくなるものに対して、教育的意味に方 向づけるのである。

常に新しくなるものに対して、教育的意味に方向づけるという意味において、教師(保育者) の意味づけは子ども理解のもっとも本質的な構成要素となる。「臨床における解釈の妥当性は、

実験科学のように実証的証拠によって証明されるのではなく、患者が明るい希望をもって自らの 未知を歩むようになること」(62)とェリクソンも述べるように、向かい合う相互関係のなかで意味 づけ続けることによって、子どもの意欲を育てつつ文化的価値の世界に誘うのである。

く引用及び参考文献)

(1)津守真『人間現象としての保育研究』光生館1977p. 8

(2)上野ひろ美『幼児教育の原理‑ 「まなざし」の保育実践』高文堂出版社1990pp.104‑108 (3)たとえばピアジェ、滝沢武久訳『思考心理学』みすず書房1979

(4)麻生武「子どもの観察‑自己に回帰する眼差し‑」 (別冊『発達10‑発達論の現在』) ミネル ヴァ書房1990

(5)ランゲフェルト、岡田渥美、和田修二訳『教育と人間の省察』玉川大学出版部1988p.Ill (6)へルムート・ダンナ‑、浜口順子訳『教育学的解釈学入門』玉川大学出版部1988pp.3卜34

(7)上野ひろ美「発達の『場』づくりのための三つの視点」関西教育学会課題別研究討論(5)幼稚園と小 学校の接続・提案資料 於・流通大学1990。上野ひろ美「子どもをとらえる三つの視点‑ 『眺めて 知る』から『働きかけて理解する』へ‑」 (『現代教育科学』 No.410 明治図書1991)

(8)竹内敏晴氏による一連の実践的身体論(『ことばが努かれるとき』思想の科学1975、 『ドラマとしての 授業』評論社1983、 『子どものからだとことば』晶文社1983など)参照

(9)フレーベル、荒井武訳『人間の教育』岩波文庫1964 (10)尼崎彬『ことばと身体』勤草書房1990

(ll) M.ボラニー、佐藤敬三訳『暗黙知の次元』紀伊国屋書店1988p.15,pp.40‑41

(12)上野ひろ美「『遊び』と『学び』の統一的把握」 (文部省科学研究費補助金総合研究A研究成果報告書

「低学年カリキュラムの『分化と統合』に関する研究」水越敏行代表1993)

(13)と野ひろ美「新幼稚園教育要領の成立と問題群」 (奈良教育大学『教員養成における「保育内容」の研 究』 1990)

(14)吉本均『訓育的教授の理論』明治図書1974

(15)この観点を自覚的に究明してきているものに「集団づくり」の実践と理論があり、著作も多い。乳幼児 保育でいえば、松原多恵子実践はその代表的なものである。たとえば松原多恵子「私立幼稚園での実践 例(Ⅱ)」 (茂木俊彦編『障害児保育の理論と実際(下)』都政人協会1976)など参照

(16)註(9)に同じ p.16

(17)津守真『子どもの世界をどうみるか』 NHKブックス1987p.15 (18)津守真『保育の一日とその周辺』フレ‑ベル館1989p.39 (19)註.(17)に同じ p.134

(20)註(1)に同じ p.ll

(21)津守真『自我のめばえ』岩波書店1984p.138

(22)津守真『子ども学のはじまり』フレーベル館1979p.105 (23)同上書 p.107

(24)註(18)に同じ p.44

(16)

(25)註(22)に同じ p.16

(26)註(20)に同じ pp.160‑161,註(17)に同じ p.21 (27)註.(17)に同じ p.23

(28)関原太郎『子どもの心と発達』岩波書店1979p.33 (29)註(18)に同じ p.77

(30)註(22)に同じ p.152 (31)註(22)に同じ p.154 (32)註(20)に同じ pp.179‑180 (33)註(22)に同じ pp.72‑73

糾 津守真『保育の体験と思索』大日本図書1980p.265 (35)註(20)に同じ p.87

(36)註(34)に同じ p. 8

(37)吉本均編『授業展開のタクトをとる』明治図書1989 (38)註.(17)に同じ pp.183‑193

(39)註(34)に同じ p.10 (40)註(17)に同じ p.186 (41)註(18)に同じ pp.8ト82 (42)註(22)に同じ p.33 (43)註(17)に同じ p.130 (44)註(34)に同じ p. 8 (45)註(17)に同じ p.160 (46)註(17)に同じ p.131 (47)註(17)に同じ p.15 (48)註(17)に同じ p.6

(49)中村雄二郎『哲学の現在』岩波書店1981

(50)中村雄二郎『感性の覚醒』岩波書店1975、同『共通感覚論』岩波書店1979、同『場所(トポス)』

弘文堂1989、同『哲学の水脈』岩波書店1990 (51) 1.田敏『リ‑ビリテーションを考える』青木書店1983

(52)中村雄二郎『臨床の知とは何か』岩波新書1992 (53)註(18)に同じ p.14

(54)山内靖「システム社会の現代的位相」 『思想』岩波書店1991. 6‑7 (55) M.ボラニー、長尾史朗訳『個人的知識』 ‑ーベスト社1958 (56)西村清和『遊びの現象学』勤草書房1989

(57)上野ひろ美「現代の子ども・青年の人間的自立‑ 「イナイイナイバア」から「かくれんぼ」への応答 関係のなかで」 (教職科学講座5 『教育方法学』福村出版 近刊)

註(9)に同じ p.153 註(18)に同じ p.81 註(6)に同じ p.57 註(6)に同じ p.35‑36

エリクソン、鍍幹八郎訳『洞察と責任』誠心書房1971

(17)

96

A Study on the View to Understand Children

Hiromi Ueno

{Department of Pedagogy, Nara University of Education, Nara 630, Japan) (Recieved April 30, 1993)

The major purpose of this study is to suggest some principles in understanding children in class. "Objective observation" as scientific method is not suitable as a way to understand children in educational fields. Because in education, the relationship be‑

tween teacher and child is not the same as the relationship between reseacher and object

in natural science. In a field work, including educational practice, the teacher and their

children are in interaction as Subject to Subject, not as Subject to Object. Such being

the case, I think it most important for teachers to give meaning to behaviors and words

of children in interaction. To be汀Iore specific, teachers should image the simile and

metaphor of what children are saying and to distinguish contexts of play and action of

children. Teachers can understand children through their behaviors, actions and words

in face‑to‑face situations. I suggest that we should reappraise "Hermeneutics" in

educational fields.

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