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世 期 に お け る 近 江 商 人 西 村 市 郎 右 衛 門 家 の 経 営

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(1)

西村 市郎 右衛 門家 は近 江国 蒲生 郡日 野︵ 現︑ 滋賀 県蒲 生郡 日野 町︶ に本 拠を おき

︑武 蔵国 葛飾 郡二 郷半 領平 沼村

︵現

︑ 埼玉 県吉 川市

︶に 出店 を開 いた 安永 三年

︵一 七七 四︶ を創 業と する 近江 商人 であ る︒ 日野 の近 江商 人は 関東 地方 へ進 出 し醸 造業 を展 開す るも のが 多い が

︑市 郎右 衛門 家も その 一つ とい える

︒天 保・ 弘化 期の もの とさ れる 日野 地域 の資 産家 番付

﹁日 渓持 丸鑑

﹂で は︑ 最上 段に 位置 づけ られ てお り︑ 近世 後期 には 有力 な日 野商 人と して 認識 され てい たこ とが う かが える

︒な お同 家に つい ては

﹃近 江商 人事 績写 真帖

﹄や

﹃近 江日 野町 志﹄ など でも すで に取 り上 げら れて いる

︒た だ し近 世期 に関 して は︑ 三代 目が 記し た﹃ 木曾 日記

﹄に つい ての 記述 が多 く︑ 同家 の経 営実 態に つい ては ほと んど 明ら か にな って いな い︒ そこ で本 稿で は近 世期 にお ける 西村 市郎 右衛 門家 の経 営を

︑同 家の 事業 展開 を中 心に 検証 して いく こ とに する

世 期 に お け る 近 江 商 人 西 村 市 郎 右 衛 門 家 の 経 営

本 村 希 代

四七

︵ 一︶

(2)

第一 初代 市郎 右衛 門安 詮に よる 経営 西村 市郎 右衛 門家 が二 郷半 領平 沼村 に店 舗を 構え るに いた った 経緯 は︑ 市郎 右衛 門家 の本 家に あた る西 村徳 右衛 門家 が︑ 同じ く 二郷 半領 番匠 免村

︵現

︑埼 玉県 三郷 市︶ に出 店を 展開 して いた こ とに 関係 する

︒初 代市 郎右 衛門 安詮 は父 であ る四 代徳 右衛 門安 順 のも と︑ 嵯峨 屋豊 三郎 とし てこ の番 匠免 で酒 造業 を任 され てい た︒ 豊三 郎は 初代 の幼 名で ある

︻表 1︼

︒な お平 沼村 や番 匠免 村を 含 む二 郷半 領は

︑西 に古 利根 川︵ 現︑ 中川

︶︑ 東に 江戸 川と いう 二 つの 大河 川に 挟ま れた 地域 であ る︒ 低地 であ るが ゆえ 両河 川の 氾 濫を 受け やす いと いう 難点 があ るが

︑流 通面 を考 えた 場合 は︑ 水 運の 便に 恵ま れた 地で あり

︑そ のこ とが 出店 展開 にも つな がっ て いた と思 われ る︒ ここ で本 家西 村徳 右衛 門家 につ いて も略 述し てお く︒ 西村 徳右 衛門 家は 近江 源氏

・佐 々木 氏の 支流 福永 秀高 の後 裔で

︑元 和八 年

︵一 六二 二︶ 生ま れの 得右 衛門 秀綱 を初 代と する

︒初 代得 右衛 門 は日 野町 大窪 にて 医業 を営 んで いた が︑ 漆器 商に 転じ

︑そ して あ

【表1】 西村徳右衛門家・西村市郎右衛門家の歴代当主 西村徳右衛門家

岡本町中野氏次男 3代目徳右衛門長男 小泉氏次男

西村市郎右衛門家

4代目徳右衛門次男 初代市郎右衛門長男 川合村森嶋吉兵衛四男 西生来村川島八左衛門九男 為七長男,慶応2年(1866)家督相 続,隠居後は名を市仙とする 出典:「西村徳右衛門家系譜」(私家版)・「西村市郎右衛門家系譜」(私家版)

備考:今日伝わっている歴代徳右衛門の数え方は,徳右衛門家と市郎右衛門家で異なっている。市郎右衛門家に 伝わる数え方により,初代市郎右衛門の父を四代目徳右衛門としたが,徳右衛門家では,初代市郎右衛門の 父は三代目徳右衛門にあたる。

元和8年(1622)〜宝永6年(1709)

〜宝暦3年(1753)

〜安永2年(1773)

〜文化9年(1812)

安永7年(1778)〜嘉永2年(1849)

文化13年(1816)〜慶応4年(1868)

嘉永5年(1852)〜大正12年(1923)

延享2年(1745)〜文化5年(1808)

安永7年(1778)〜嘉永3年(1850)

文化7年(1810)〜慶応3年(1867)

天保3年(1832)〜文久元年(1861)

安政2年(1855)〜大正13年(1924)

当 主 名(幼名)

初代:得右衛門秀綱(徳太郎)

2代:徳右衛門安慶(松之助)

3代:徳右衛門安順 4代:徳右衛門順秀(徳助)

5代:徳右衛門武則(豊次郎)

6代:徳右衛門秀之(熊吉・慎太郎)

7代:徳右衛門安秀(定吉)

当 主 名(幼名)

初代:市郎右衛門安詮(豊三郎)

2代:市郎右衛門定縁(市蔵)

3代:市郎右衛門安則(与四郎・市蔵)

(為七)

4代:市良右衛門(千太郎)

四八

︵ 二︶

(3)

とを 受け 継い だ二 代徳 右衛 門安 慶も 同じ く漆 器を 扱っ た

︒徳 右衛 門家 は延 享期 に関 東へ 進出 した とさ れて おり

︑番 匠免 村に 出店 を構 えた のは おそ らく 二代 目徳 右衛 門と 考え られ る︒ そし てこ の本 家徳 右衛 門家 にお いて 平沼 村へ の新 規出 店計 画が 持ち 上が った

︒し かし 出店 交渉 途中 の安 永二 年︵ 一七 七三

︶九 月︑ 初代 の父 であ る四 代目 徳右 衛門 が死 去し てし まう

︒そ こで 初代 は借 りて いた 酒蔵 を返 却し

︑酒 造道 具一 切 を売 却し て番 匠免 を引 き払 い︑ 店名 前を 幾久

︵菊

︶屋 徳右 衛門 とし て平 沼店 の運 営を 担う こと にな った

︒平 沼店 は商 売 不勝 手の ため 借金 がか さみ

︑店 の相 続が 出来 なく なっ た平 沼村 仁兵 衛が 所持 して いた もの であ った

︒屋 敷地 五畝 六歩

︑ 畑地 三畝 八歩

︑合 計八 畝一 四歩 の地 所が 一六 五両 で質 流れ とな って おり

︑こ れを 初代 が引 き受 け︑ さら にそ こに 付属 す る住 居家 一ヶ 所︑ 見世 一棟

︑土 蔵二 棟︑ 水油 仕事 場一 棟︑ その 他油 道具 など を六 十両 にて 買い 受け た

︒な お店 名前 だけ でな く︑ 初代 自身 もし ばら く徳 右衛 門と 称し てい る10

︒こ れら がと もに 市郎 右衛 門と 改ま るの は文 化期 ごろ から であ る︒ では 初代 は平 沼店 にお いて どの よう な事 業を 展開 した ので あろ うか

︒平 沼店 では 仁兵 衛よ り仕 事場 や道 具を 譲り 受け た関 係か ら︑ 油絞 業を 行っ てい た︒ 安永 五年

︵一 七七 六︶ 一一 月︑ 前沢 藤十 郎役 所か らの 問い 合わ せに 次の よう にこ た えて いる11

武州 葛飾 郡 弐郷 半領 平沼 菊 村 屋徳 右衛 門

右徳 右衛 門儀

︑同 領番 匠免 村罷 在候 所︑ 去々 午ノ 一月 平沼 村江 引越

︑油 之儀 者去 ル未 四月

絞り 初申 候 一菜 種之 義者 多分 ハ近 村ニ 而手 前遣 ニ作 り候 菜種 を持 参致

︑油 ニ取 替申 度旨 申聞 候得 ハ︑ 取替 を絞 り申 候︑ 右取 替 近世 期に おけ る近 江商 人西 村市 郎右 衛門 家の 経営

︵本 村︶

四九

︵ 三︶

(4)

分絞 り切 候而 菜種 無之 候節 者︑ 下総 国庄 内領 野田 町市 場ニ

﹈宛 相調 絞り 申候 一絞 り高 之儀 者壱 ヶ年 ニ菜 種百 弐三 拾石 程相 絞り

︑油 ハ弐 拾四 五石 絞出 申候 一油 捌方 之儀 者多 分者 近村 ニ而 菜種 ニ取 替申 候︑ 少々 茂残 り候 油有 之候 節ハ

︑江 戸深 川元 場大 和屋 伴次 郎方 江差 遣 申候 一当 年菜 種買 入直 段之 義者

︑金 壱両 ニ八 斗八 升位

九斗 位迄 買入 申候

一当 時菜 種有 高之 儀者

︑当 年取 替候 分買 入候 分共

︑百 弐三 拾石 有之 候内

︑此 節絞 り﹇

﹈三 拾石 程有 之候

︑野 田 町ニ 而買 入候 菜種 ハ凡 八拾 石程 買入 申候 一取 替之 外菜 種買 入候 儀者 少分 之義 ニ御 座候 間︑ 前金 等遣 候儀 無御 座︑ 現金 ニ買 入申 候︑ 尤仲 買等 申者 無御 座︑ 野

田町 ニ﹇

﹈直 買ニ 仕候 一荒 物商 内を 重ニ 仕︑ 間々 ニ油 絞り 申候 一是 迄冥 加永 等相 納候 儀ハ 無御 座候

︑此 上被 仰付 次第 当申 年分

冥加 永上 納可 仕候 油を 絞り 始め たの は店 を開 いた 翌年 の安 永四 年︵ 一七 七五

︶四 月か らで ある

︒原 料と なる 菜種 は近 村よ り集 め︑ 絞り 油と 交換 する かた ちを とっ てい る︒ ただ し菜 種が 不足 する 場合 は江 戸川 をへ だて た下 総国 庄内 領野 田町 市場 にて 購入 し︑ 一方

︑絞 り油 が残 った 場合 は江 戸深 川の 大和 屋へ 売却 して いる

︒平 沼村 には 古利 根川 に江 戸運 送の 河岸 場が あり

︑江 戸 まで の舟 路は 約十 里で あっ た12

︒そ して 一ヶ 年あ たり 一二

〇〜 一三

〇石 の菜 種か ら二 四〜 二五 石の 絞り 油が 出来 たが

︑主 たる 事業 はあ くま でも 荒物 商売 であ ると して おり

︑油 絞業 だけ でな く︑ 販売 業も 兼営 して いた こと がわ かる

︒ また 寛政 六年

︵一 七九 四︶

︑出 店商 売を 行う 上方 出身 者に つい ての 調査 が行 われ た13

︒初 代の 返答 から 創業 より 約二 十

五〇

︵ 四︶

(5)

年た った 平沼 店の 様子 を見 てみ よう

︒ 乍恐 以書 付奉 申上 候

百性

徳右 衛門

一本 店

徳右 衛門 一家 内

九 人 一壱 ヶ年 商内 高凡 五百 両 右商 売躰

︑小 間物 荒物 類水 油 一高

当村 屋敷 地所 持 右者 徳右 衛門 義廿 壱ヶ 年以 前安 永三 午年 当地 江罷 下り

︑平 沼村 仁兵 衛方

地面 并家 蔵等 一式 譲り 請商 売渡 世仕 来候

︑ 勿論 農業 一切 不仕 候︑ 右御 尋ニ 付奉 申上 候処 相違 無御 座候

︑以 上 寛政 六年 寅四 月 初代 は平 沼村 へ移 って きた 安永 三年

︵一 七七 四︶ 以来

︑農 業は 一切 行わ ず︑ 仁兵 衛か ら譲 り受 けた 家財 をも とに 商売 を展 開し てき たと して いる

︒水 油・ 荒物 の他 に新 たに 小間 物も 扱う よう にな った が︑ 創業 当初 の事 業内 容と さほ ど変 化 は見 られ ない

︒商 売の 規模 は年 間五 百両 ほど で︑ 奉公 人も 抱え てい たこ とが うか がえ よう

︒し かし 初代 が死 去す る直 前 に記 した 文化 五年

︵一 八〇 八︶ の﹁ 譲り 状﹂ には

︑次 のよ うに 記さ れて いる14

︒ 近世

期に おけ る近 江商 人西 村市 郎右 衛門 家の 経営

︵本 村︶

五一

︵ 五︶

(6)

譲り 状 一金 三千 四拾 弐両 弐歩 也

吉川 店有 金高 水車 場・ 酢造 場・ 徳用 金共15 内此 訳ケ 一金 千六 百両 也

市蔵 江譲 り金 一金 七百 両也

徳蔵 江同 断 一金 四百 五拾 両也

三四 郎江 同断 一金 六拾 両也

おふ ぢ江 同断

尤内 金拾 両ハ 先年 預り 置候

︑右 五拾 金為 利足 年々 金五 両ツ ヽ被 遣可 被下 候 一金 百両 也

お吟 江譲 り金 此者 義至 而不 仕合 成者 故不 便ニ 存候 故︑ 右金 子譲 り置 申候

︑右 金子 御預 り置 被成 候而

︑一 生御 世話 被成 被 遣可 被下 候︑ 勿論 為小 遣金 年々 金弐 両ツ ヽ御 渡被 成可 被下 候 合金 弐千 六百 拾両 也 右之 條々 譲り 金分 ケ致 置候

︑勿 論別 紙ニ 委細 書有 之候

︑徳 蔵・ 三四 郎義 ハ商 売勘 定之 上年 々歩 分ケ 被成

︑勿 論廿 ヶ 年ニ も及 申候 ハヽ

︑相 応之 元手 金ニ も相 成可 申候

︑其 節商 売勘 定之 上御 分ケ 可被 成候

︑尤 時節 来り 相応 之屋 敷有 之 候ハ ヽ御 求被 成候 而普 請被 成被 遣可 被下 候︑ たと へ別 家ニ 成候 とも

︑右 之趣 何事 茂身 上一 所ニ 被成 候而 内込 可被 成 候︑ 右三 人替 り

関東 江下 り被 成御 世話 専要 ニ存 候︑ 猶又 諸道 具之 義ハ 市蔵 了簡 次第 ニ而 いヶ 様共 御分 ケ被 成︑

五二

︵ 六︶

(7)

年々 心掛 置被 成︑ 御買 被成

︑可 然与 存候

︑何 事も 兄弟 の仲 むつ まし く被 成相 談被 成︑ 兄の 申義 を不 相背 子孫 繁栄 専 要ニ 存候

︑為 後書 置譲 り状 如件 文化 五辰 年三 月

市郎 右衛 門 市蔵 殿 徳蔵 殿 三四 郎殿 又書 添商 売引 当テ 之義 者徳 蔵江 者溝 沼村 水車 場ニ 御座 候 又商 売引 当テ 之儀 ハ三 四郎 江者 平沼 村酢 造場 歩分 ケ半 分︑ 彦野 村酒 造場 歩分 ケ壱 歩七 厘五 毛之 積り ニ御 座候

︑為 念 如此 ニ記 シ置 候 文化 五辰 年三 月 又外 ニ似 合敷 商売 躰有 之候 ハヽ

︑相 談之 上い ヶ様 ニも 被成 可然 存候 長男 市蔵

︵後 の二 代市 郎右 衛門 定縁

︶︑ 次男 徳蔵

︑三 男三 四郎

︑妻 ふぢ

︑ま た長 女吟 へ財 産を 分与 する とあ る16

︒息 子 たち へは

﹁何 事も 兄弟 の仲 むつ まし く﹂ しな がら

︑長 兄で ある 市蔵 にし たが うこ とが

﹁子 孫繁 栄﹂ のた めに も大 切だ と 説き

︑そ の上 で徳 蔵と 三四 郎の 商売 引当 とし て︑ 水車 場・ 酢造 場・ 酒造 場を あげ てい る︒ つま り初 代は 当初 の油 絞業

・ 販売 業か ら水 車稼 ぎや 醸造 業へ も関 与す るよ うに なり

︑経 営規 模を 順次 拡大 させ てい った こと がう かが える

︒ 水車 場は 平沼 村か ら離 れた 新座 郡溝 沼村

︵現

︑埼 玉県 朝霞 市︶ にあ り︑ 幾久 屋市 右衛 門と いう 名前 で運 営さ れて いた17

︒ 新座 郡域 は武 蔵野 台地 の縁 辺に あた る︒ それ ゆえ 河川 や用 水な どで は適 度な 水流 の落 差を 得ら れ︑ また 台地 の畑 では 多 近世 期に おけ る近 江商 人西 村市 郎右 衛門 家の 経営

︵本 村︶

五三

︵ 七︶

(8)

くの 穀類 が生 産さ れて いた こと から

︑水 車に て穀 類を 搗い たり

︑粉 挽き した りす る︑ 賃稼 ぎが 盛ん であ った18

︒た だし ど のよ うな 経緯 で︑ また いつ から 関与 する よう にな った かな どは 不明 であ る︒ 一方

︑平 沼村 の酢 造場 はも とも と宇 兵衛 なる 人物 が営 んで いた もの であ った

︒し かし 損金 が続 いた ため

︑宇 兵衛 は初 代へ 酢造 場を 引き 受け て欲 しい と依 頼し た︒ そこ で寛 政五 年︵ 一七 九三

︶よ り名 義を 改め

︑初 代が 引き 続き 酢造 場を 相 続す るこ とに なっ た19

︒ また 彦野 村︵ 現︑ 埼玉 県三 郷市

︶の 酒造 場に つい ては

︑詳 細は わか らな いが

︑享 和期 には すで に酒 造業 にか かわ って いた と考 えら れる20

︒ この よう に初 代は 平沼 店を 拠点 に多 店舗

・多 業種 化を 行っ てい った

︒特 定の 事業 のみ によ る経 営は

︑損 失が 生じ た際 のリ スク も大 きい

︒危 険分 散を はか り︑ 経営 の安 定化 を目 指し たと いえ る21

︒﹁ 譲り 状﹂ の文 末に も﹁ 又外 ニ似 合敷 商売 躰有 之候 ハヽ

︑相 談之 上い ヶ様 ニも 被成 可然 存候

﹂と 記し

︑柔 軟な 事業 展開 が今 後も 市蔵 を中 心に 続け られ てい くこ と をの ぞん でい る︒ そし て﹁ 譲り 状﹂ を記 した 九ヶ 月後 に初 代は 死去 する

︒享 年六 四で あっ た︒ 第二

﹁勘 定品 数帳

﹂に みる 西村 市郎 右衛 門家 の経 西村 市郎 右衛 門家 では 毎年 一月 に前 年の 勘定 改め を行 って おり

︑天 明七

〜文 化一

〇年

︵一 七八 七〜 一八 一三22

︶︑ 文化 一一

〜嘉 永二 年︵ 一八 一四

〜一 八四 九23

︶︑ 嘉永 三〜 慶応 二年

︵一 八五

〇〜 一八 六六24

︶︑ 慶応 三・ 四︵ 明治 元︶ 年︵ 一八 六 七・ 一八 六八25

︶分 をそ れぞ れま とめ た﹁ 勘定 品数 帳﹂ が合 計四 冊存 在す る︒ これ ら帳 簿の 記載 方法 は年 によ り多 少異 な るが

︑お おむ ね有 金・ 平沼 店の 商品 在庫

・貸 付金 など の資 産を まず 列挙 し︑ その 上で 借入 金な ど負 債を 差し 引き

︑純 資

五四

︵ 八︶

(9)

産を 算出 して いる

︒安 永九

〜寛 政八 年︵ 一七 八〇

〜一 七九 六︶ の﹁ 勘定 下書 留26

﹂を 含め れば

︑経 営に かか わる 収益 まで は判 明し ない にし ても

︑近 世期 にお ける 市郎 右衛 門家 の資 産状 況と 事業 展開 を概 観す るこ とは 可能 とな る︒ そこ で﹁ 勘 定品 数帳

﹂を 中心 に︑ 市郎 右衛 門家 の経 営を 見て いく こと にす る︒

︻表 2︼ は﹁ 勘定 下書 留﹂ と﹁ 勘定 品数 帳﹂ から 純資 産の みを 取り 出し てい る︒ 純資 産は 天保 期半 ばに 加速 度を 増し なが ら順 調な のび を示 し︑ 嘉永 三・ 四年

︵一 八五

〇・ 一八 五一

︶に は五 七〇

〇両 台に まで 達し てい る︒ しか しそ の後

︑ 二千 両以 上大 幅に 減少 し︑ 安政 期は 三六

〇〇 両前 後を 推移 して いる

︒そ して 万延 元年

︵一 八六

〇︶ にさ らに 五百 両ほ ど 減少 し三 一八 三両 にま で落 ち込 み︑ その 後再 び増 加に 転じ る︒ では なぜ この よう に純 資産 が変 動す るの であ ろう か︒ そこ で︻ 表3

︼は

﹁勘 定品 数帳

﹂で 資産 とし て計 上さ れて いる もの の中 から

︑平 沼店 の主 要な 商品 在庫 高を 掲出 した

︒ 売上 高な どは わか らな いの で︑ この 在庫 高だ けで 市郎 右衛 門家 の経 営を 直接 的に 判断 する こと はで きな いが

︑他 の史 料 でも 情報 を補 いな がら

︑初 代以 降の 平沼 店の 事業 につ いて も検 討し てみ よう

︒ 平沼 店で は開 店当 初よ り油 絞業 と販 売業

︵水 油・ 荒物

・小 間物

︶を 兼営 して きた が︑

﹁水 油﹂

・﹁ 店代 呂物

﹂以 外に

﹁有 質﹂ が常 に大 きく 計上 され てお り︑ 実際 には 質屋 業も あわ せて 営ま れて いた こと がわ かる

︒質 屋は 農村 にお ける 身近 な 金融 機関 であ り︑ 農間 余業 とし ても 数多 く見 られ る︒ 具体 的な 質物 や利 率な どは わか らな いが

︑市 郎右 衛門 家の 場合

︑ 規模 の小 さな 質屋

︵子 質屋

︶へ 資金 を融 通す る親 質屋 の役 割を 担っ てい た27

︒天 明六 年︵ 一七 八六

︶に 資金 融通 を依 頼し てき た葛 飾郡 広嶋 村︵ 現︑ 埼玉 県吉 川市

︶伊 右衛 門の 事例 を見 てみ る28

︒ 近世

期に おけ る近 江商 人西 村市 郎右 衛門 家の 経営

︵本 村︶

五五

︵ 九︶

(10)

0

1780 1785 1790 1795 1800 1805 1810 1815 1820 1825 1830 1835 1840 1845 1850 1855 1860 1865 1,000

2,000 3,000 4,000 5,000 6,000 7,000

純資産の推移

【表2】 純資産

安永9年 1780 722 天明元年 1781 805 天明2年 1782 690 天明3年 1783 680 天明4年 1784 735 天明5年 1785 799 天明6年 1786 809 天明7年 1787 915 天明8年 1788 974 寛政元年 1789 1,064 寛政2年 1790 1,123 寛政3年 1791 1,204 寛政4年 1792 1,249 寛政5年 1793 1,237 寛政6年 1794 1,361 寛政7年 1795 1,448 寛政8年 1796 1,568 寛政9年 1797 1,642 寛政10年 1798 1,733 寛政11年 1799 1,828 寛政12年 1800 1,954 享和元年 1801 2,064 享和2年 1802 2,094 享和3年 1803 2,197 文化元年 1804 2,232 文化2年 1805 2,276 文化3年 1806 2,316 文化4年 1807 2,357 文化5年 1808 2,330 文化6年 1809 2,334

文化7年 1810 2,440 文化8年 1811 2,502 文化9年 1812 2,576 文化10年 1813 2,694 文化11年 1814 2,784 文化12年 1815 2,851 文化13年 1816 2,938 文化14年 1817 2,965 文政元年 1818 2,975 文政2年 1819 3,043 文政3年 1820 3,101 文政4年 1821 3,131 文政5年 1822 3,157 文政6年 1823 3,237 文政7年 1824 3,306 文政8年 1825 3,358 文政9年 1826 3,400 文政10年 1827 3,420 文政11年 1828 3,480 文政12年 1829 3,530 天保元年 1830 3,469 天保2年 1831 3,569 天保3年 1832 3,688 天保4年 1833 3,726 天保5年 1834 3,812 天保6年 1835 3,816 天保7年 1836 3,848 天保8年 1837 4,022 天保9年 1838 4,357 天保10年 1839 4,478

天保11年 1840 4,597 天保12年 1841 4,713 天保13年 1842 4,879 天保14年 1843 5,0‐9 弘化元年 1844 5,124 弘化2年 1845 5,240 弘化3年 1846 5,289 弘化4年 1847 5,440 嘉永元年 1848 5,5‐‐

嘉永2年 1849 5,697 嘉永3年 1850 5,791 嘉永4年 1851 5,734 嘉永5年 1852 3,636 嘉永6年 1853 3,694 安政元年 1854 3,609 安政2年 1855 3,64‐

安政3年 1856 3,574 安政4年 1857 3,573 安政5年 1858 3,588 安政6年 1859 3,612 万延元年 1860 3,183 文久元年 1861 3,262 文久2年 1862 3,467 文久3年 1863 3,768 元治元年 1864 4,133 慶応元年 1865 4,496 慶応2年 1866 5,140 慶応3年 1867 5,374 慶応4年 1868 5,192 出典:「勘定下書留」(#190)・「勘定品数帳」(#175・179・186・188)

備考:両未満については切り捨てた。

虫損のため解読できない箇所は「‐」とした。

五六

︵一

〇︶

(11)

【表3】 平沼店商品在庫高

店代呂物 349 389 442 470 511 486 549 564 457 459 532 595 582 559 631

692 649 653 733 808 778 758 759 677 792 77‐

802 1,‐‐3 95‐

635 831 836 1,163 1,695 1,600 2,491 2,709 2,603 1,730 出典:「勘定品数帳」(#175・179・186・188)

備考:両未満については切り捨てた。

虫損のため解読できない箇所は「‐」とした。

水 油 124 194 170 117 199 227 238 199 300 295 279 150 315 323 31‐

301 276 2‐5 290 212 326 317 180 271 169 271 227 250 272 181 185 277 257 337 493 303 495 431 791 786 441 有 質 1,226 952 982 1,095 1,103 909 1,001 1,107 1,240 1,179 1,071 1,309 1,401 1,348 1,518 1,563 1,434 1,408 1,475

1,090 1,177 999 1,103 1,136 976 972 902 793 735 964 981 924 629 522 587 616 511 700 1,374 786

1828 1829 1830 1831 1832 1833 1834 1835 1836 1837 1838 1839 1840 1841 1842 1843 1844 1845 1846 1847 1848 1849 1850 1851 1852 1853 1854 1855 1856 1857 1858 1859 1860 1861 1862 1863 1864 1865 1866 1867 1868 文政11年 文政12年 天保元年 天保2年 天保3年 天保4年 天保5年 天保6年 天保7年 天保8年 天保9年 天保10年 天保11年 天保12年 天保13年 天保14年 弘化元年 弘化2年 弘化3年 弘化4年 嘉永元年 嘉永2年 嘉永3年 嘉永4年 嘉永5年 嘉永6年 安政元年 安政2年 安政3年 安政4年 安政5年 安政6年 万延元年 文久元年 文久2年 文久3年 元治元年 慶応元年 慶応2年 慶応3年 慶応4年

店代呂物 171 191 211 182 184 204 202 205 202 188 203 195 223 252 268 255 262 305 289 327 319 340 366 343 345 341 375 383 351 343 305 315 311 310 317 357 332 320 326 386 416 水 油

34 102 34 65 27 86 106 75 86 61 83 85 80 92 113 158 132 100 109 109 92 69 96 146 115 127 133 117 76 64 108 128 199 119 86 107 83 109 124 有 質

216 309 413 560 628 495 731 718 638 586 781 843 631 625 658 987 695 670 610 659 744 814 1,003 962 972 1,103 860 842 866 994 954 947 981 965 951 1,026 1,118 1,105 1,068 1,062 1,183

1787 1788 1789 1790 1791 1792 1793 1794 1795 1796 1797 1798 1799 1800 1801 1802 1803 1804 1805 1806 1807 1808 1809 1810 1811 1812 1813 1814 1815 1816 1817 1818 1819 1820 1821 1822 1823 1824 1825 1826 1827 天明7年 天明8年 寛政元年 寛政2年 寛政3年 寛政4年 寛政5年 寛政6年 寛政7年 寛政8年 寛政9年 寛政10年 寛政11年 寛政12年 享和元年 享和2年 享和3年 文化元年 文化2年 文化3年 文化4年 文化5年 文化6年 文化7年 文化8年 文化9年 文化10年 文化11年 文化12年 文化13年 文化14年 文政元年 文政2年 文政3年 文政4年 文政5年 文政6年 文政7年 文政8年 文政9年 文政10年

近世 期に おけ る近 江商 人西 村市 郎右 衛門 家の 経営

︵本 村︶

五七

︵一 一︶

(12)

入置 申一 札之 事 一此 度私 義勝 手を 以貴 殿江 質物 相送 り申 度旨 達而 申入 候得 者御 承知 被下 忝奉 存候

︑し かる 処︑ 右質 物高 直成 もの 数 多有 之︑ 私方 より 書付 差遣 札通 りニ 者金 子御 借渡 シ難 被成 旨御 尤ニ 奉存 候︑ 依之 私方

申入 候者

︑何 連之 質物 ニ 而も 札通 りニ 而金 子借 用申 し候 上ハ

︑貴 殿方 江少 シも 御損 等決 而相 立申 間敷 候︑ 若流 質有 之候 者私 方ニ 而御 返し 可申 候︑ 万一 壱品 たり 共流 レ候 ハヽ

︑外 質物 御差 留御 払可 被成 候︑ 左候 上元 利金 調達 不仕 候ハ ヽ︑ 急度 私方 是 金相 済可 申候

︑依 之請 人ヲ 立一 札入 置申 所︑ 如件 天明 六年 午二 月

松伏 領広 嶋村 質物 送り 金子 借り 主 伊右 衛門

! 請人

八右 衛門

! 弐郷 半領 平沼 幾 町 久屋 徳右 衛門 殿 質物 を送 るこ とに つい ては すで に了 解済 みと なっ てい る︒ ただ し高 価な 質物 が多 いこ とか ら︑ 伊右 衛門 が希 望す る額 を借 り受 ける こと は難 しい とさ れた よう であ る︒ そこ で伊 右衛 門は

︑も し質 流れ にな って も幾 久屋 へ決 して 迷惑 はか け ない とし て︑ 請け 人を 立て て申 し入 れを して いる

︒こ の伊 右衛 門に はじ まり

︑近 世期 に市 郎右 衛門 家の 子質 屋と なっ た 者は 合計 五十 名に のぼ る︒ 二郷 半領 およ び古 利根 川西 岸村 々に て﹁ 農業 之間 慥成 百姓 質取 来候 処︑ 元手 金手 廻り 兼﹂ ね

五八

︵一 二︶

(13)

た者 たち であ った29

︒ むろ ん同 時期 に五 十名 の子 質屋 と取 引し てい たわ けで はな い︒ しか し子 質屋 は親 質屋 の中 でも 河岸 や川 筋村 の親 質屋 を選 んで 取引 する 傾向 が強 いと され る30

︒平 沼村 は古 利根 川筋 にあ り︑ 市郎 右衛 門家 もそ の条 件に 該当 する

︒ま た葛 飾郡 川藤 村︵ 現︑ 埼玉 県吉 川市

︶吉 左衛 門の よう に︑

﹁農 業之 間慥 成百 性質 取候 而渡 世仕 度奉 願出 候ニ 付︑ 其段 御取 締御 出 役様 江奉 願上 置候 所︑ 然上 者元 手金 手廻 兼候 節盤

︑貴 殿方 江送 り質 いた し候

﹂と31

︑文 政改 革以 降の 関東 取締 出役 によ る 質屋 統制 下で32

︑市 郎右 衛門 家の 子質 屋と なる よう 命じ られ た場 合も 見受 けら れる

︒こ れら のこ とか ら市 郎右 衛門 家は 二 郷半 領周 辺で ある 程度 規模 の大 きな 親質 屋で あっ たと 考え られ よう

︒ しか し﹁ 有質

﹂高 は天 保一 四年

︵一 八四 三︶ の一 五六 三両 を最 高に

︑次 第に 減少 して いく

︒一 方︑

﹁水 油﹂

・﹁ 店代 呂 物﹂ 高は

︑そ の後 も増 加を 続け る︒ 特に

﹁店 代呂 物﹂ 高は

︑安 政四 年︵ 一八 五七

︶に 一度 千両 台に のぼ りそ の後 減少

︑ 文久 期以 降は 急激 に増 加し てい る︒

﹁店 代呂 物﹂ は平 沼店 で取 り扱 われ てい た荒 物・ 小間 物類 をさ す︒ その 中で も特 徴 的な 商品 とし て莚 があ げら れる

︒二 郷半 領は 武州 米の 産地 でも あり

︑莚 や縄 とい った 藁工 品の 生産 が農 間余 業と して さ かん であ った33

︒弘 化四 年︵ 一八 四七

︶の

﹁莚 売帳

﹂を 見る と︑ 足利

・佐 野・ 藤岡

︵以 上︑ 下野 国︶

︑館 林︵ 上野 国︶

︑熊 谷・ 忍・ 行田

・加 須・ 鴻巣

・幸 手︵ 以上

︑武 蔵国

︶︑ 古河

︵下 総国

︶と いっ た地 名が 見受 けら れ︑ 市郎 右衛 門家 は北 関 東に 販売 網を 展開 して いた こと がわ かる34

︒ なお 取引 先の 中に は荒 物屋 とい った 屋号 にま じり

︑忍 の日 野屋 庄右 衛門

・行 田の 日野 屋又 右衛 門・ 熊谷 の島 屋喜 兵衛 の名 前も あが って いる

︒こ れら は蒲 生郡 内池 村︵ 現︑ 滋賀 県蒲 生郡 日野 町︶ 鈴木 忠右 衛門 の出 店と 考え られ

︑そ れぞ れ で酒 造業 が営 まれ てい た35

︒莚 は酒 樽を 保護 する ため に巻 いて 用い るな ど︑ 酒造 業で は必 需品 とな る︒ 市郎 右衛 門家 では 近世 期に おけ る近 江商 人西 村市 郎右 衛門 家の 経営

︵本 村︶

五九

︵一 三︶

(14)

出店 周辺 の産 物で ある 莚の 需要 を︑ 関東 で醸 造業 を展 開す る日 野商 人の ネッ トワ ーク の中 に見 出し

︑こ れら を結 びつ け たと いえ る︒ さて

﹁勘 定品 数帳

﹂の 商品 在庫 高は

︑﹁ 有質

﹂高 が弘 化期 より 減少 し︑

﹁店 代呂 物﹂ 高が 幕末 期に かけ 急増 する

︒﹁ 有 質﹂ 高と

﹁店 代呂 物﹂ 高の 変化 は︑ 純資 産が 急激 に落 ち込 んだ 嘉永

・安 政期 を挟 むよ うに

︑そ れぞ れ前 後し てお こっ て いる とも 見て 取れ る︒ ただ し純 資産 の減 少は

﹁有 質﹂ 高の 減少 幅以 上に 大き い︒ それ ゆえ 商品 在庫 高が 純資 産の 変動 に 直接 的な 影響 を与 えて いる わけ では ない よう であ る︒ そこ で次 に︑ 市郎 右衛 門家 で展 開さ れる 平沼 店以 外の 事業 につ い ても 見て みよ う︒ 市郎 右衛 門家 が水 車稼 ぎの 他︑ 酢や 酒と いっ た醸 造業 にも かか わっ てい たこ とは 先述 の通 りで ある

︒﹁ 勘定 品数 帳﹂ から は︑ これ ら平 沼店 以外 で展 開さ れる 事業 への 貸付 額が わか る︒

︻表 4︼ は水 車稼 ぎ・ 酢造 業・ 酒造 業に かか わる 個 別貸 付先 とそ の金 額を

︑﹁ 有質

﹂高 が減 り始 める 以前 の天 保期 から 取り 上げ てい る︒ 同じ 貸付 先で あっ ても

︑年 によ りそ の記 載名 にば らつ きが ある ため

︑判 然と しな い部 分も 多い が︑ まず 水車 稼ぎ は︑

﹁中 弥﹂ なる 人物 への 貸付 二五 五両 が︑ 天保 二年

︵一 八三 一︶ から 嘉永 四年

︵一 八五 一︶ まで 続い てい るこ とが わか る︒

﹁中 弥﹂ への 貸付 は︑ 天保 元年

︵一 八三

〇︶ にも 一九

〇両 あり

︑﹁ 損金

﹂と 明記 して いる 年も ある こと から

︑実 際に は 長期 間に わた り返 済不 能と なっ てい たよ うで ある

︒ま た醸 造業 では

︑平 沼村 酢造 場と 思わ れる

﹁酢 蔵﹂ へ天 保六 年︵ 一 八三 五︶ より 四〇 両︵ 天保 一一

・一 二年 は三 九両

︶︑ 彦野 村酒 造場 と思 われ る﹁ 彦野 蔵﹂ へは 天保 二年 より 二一 六両

︵天 保元 年は 二四 一両

︶︑ とも に天 保一 二年

︵一 八四 一︶ まで 貸付 が続 く︒ しか し両 蔵へ の貸 付は 天保 一三 年︵ 一八 四二

︶ より 合算 され

︑嘉 永四 年ま で﹁ 諸方 貸損 金﹂ など とし て処 理さ れる よう にな る︒ これ らの こと から 天保 期の 段階 にお い

六〇

︵一 四︶

(15)

【表4】貸付金

備考

番匠免酢蔵引請

溝沼水車増井江貸・下川岸酢蔵引受岩井酒蔵引受

岩井火災

出典:(#171818(#備考:・両未満については切り捨てた。・安政2年嵯峨屋・安政4年間中蔵の貸付高は虫損のため解読できない。 業(両)彦野店24彦野蔵損金21彦野蔵損金21彦野蔵損金21彦野蔵損金21彦野蔵損金21彦野蔵21彦野蔵21彦野蔵21彦野蔵21彦野蔵21彦野蔵損金21

酒造場32間中蔵71間中蔵74・嵯彦殿入金20酒造方1081・嵯彦殿45間中蔵1015・嵯峨屋75間中蔵71・嵯峨屋75嵯峨屋55嵯峨屋55嵯峨屋5513嵯峨屋[]31嵯峨屋63・間中蔵6嵯峨屋63[]2嵯峨屋63・岩井46嵯峨屋65・岩井60嵯峨屋65(同額差引処理あり)・岩井11岩井10岩井蔵12岩井蔵10岩井蔵20岩井蔵12

酒造場31 貸金無尽損金酢蔵彦野損金90貸金酢蔵彦野損金90酢蔵彦野損金90貸金酢蔵彦野損金35彦野損金貸損43彦野蔵并貸金損49彦野損金諸方貸損49諸方貸〆57諸方貸〆60諸方貸損金60 業(両)

酢造場45

酢蔵2酢蔵損金40酢造場40酢蔵損金40酢蔵40酢蔵40酢蔵39酢蔵損金39

酢蔵入金48酢蔵51番匠免酢蔵51・川酢蔵23酢蔵入金32・川酢蔵24堀切蔵36・川酢蔵29堀切蔵21・川酢蔵損金6堀切蔵11堀切蔵78

堀切蔵51堀切蔵61堀切蔵12酢蔵12酢蔵13堀切蔵90酢蔵16酢蔵20酢蔵28

酢くら12酢蔵11

酢造場45 水車稼ぎ(両)溝沼店20・中弥殿19水車中弥殿損金25水車中弥殿損金25水車中弥殿損金25水車中弥殿損金25水車損中弥殿貸金25水車中弥殿貸金25水車中弥殿貸金25水車中弥殿かし金25水車中弥殿貸金25水車中弥殿25水車中弥殿貸金25水車中弥殿25水車中弥殿25水車中弥殿25水車中弥殿25中弥殿25みそ沼33・中弥殿25中弥殿25中弥殿25・水車方7中弥殿25・みそ沼店20溝沼38・中弥殿25みそ沼12溝沼店85 183018311832183318341835183618371838183918401841184218431844184518461847184818491850185118521853185418551856185718581859186018611862186318641865186618671868 天保元年天保2年天保3年天保4年天保5年天保6年天保7年天保8年天保9年天保10天保11天保12天保13天保14弘化元年弘化2年弘化3年弘化4年嘉永元年嘉永2年嘉永3年嘉永4年嘉永5年嘉永6年安政元年安政2年安政3年安政4年安政5年安政6年万延元年文久元年文久2年文久3年元治元年慶応元年慶応2年慶応3年慶応4年

近世 期に おけ る近 江商 人西 村市 郎右 衛門 家の 経営

︵本 村︶

六一

︵一 五︶

(16)

て︑ 平沼 店以 外で 展開 され る事 業︑ 水車 稼ぎ

・酢 造業

・酒 造業 のす べて で︑ 恒常 的な 損金

︑不 良資 産を かか えて いた こ とが うか がえ る︒ その 一方 で市 郎右 衛門 家で は︑ 天保 期末 から 弘化 期に かけ 新た な蔵 への 貸付 をは じめ てい る︒ もっ とも 早い のは

︑﹁ 勘 定品 数帳

﹂の 天保 一四 年︵ 一八 四三

︶に 登場 する

﹁酢 蔵﹂ であ る︒ なお 平沼 村酢 造場 は損 金と して 別項 目が 立て られ て いる ため

︑こ の天 保一 四年 の﹁ 酢蔵

﹂と 平沼 村酢 造場 は別 のも のと 考え られ る︒ では どこ の酢 蔵な のか

︒こ れに つい て は︑ 市郎 右衛 門家 では 天保 一二 年︵ 一八 四一

︶よ り番 匠免 村の 酢蔵 を引 き受 けた こと がわ かっ てお り36

︑弘 化二 年︵ 一八 四五

︶に は﹁ 番匠 免酢 蔵﹂ への 貸付 記載 も見 られ るこ とか ら︑ 平沼 村で はな く番 匠免 村の 酢蔵 をさ して いよ う︒ また そ の後

︑﹁ 勘定 品数 帳﹂ では

﹁酢 蔵﹂ に混 じっ て﹁ 堀切 蔵﹂ とい う蔵 が見 受け られ るが

︑こ れも 同じ く番 匠免 村の 酢蔵 と 考え られ る︒ なお 番匠 免村 の酢 蔵は 幾久 屋市 平の 名前 で営 まれ

︑明 治期 以降 も市 郎右 衛門 家の 事業 とし て続 く37

︒つ まり この 貸付 の 開始 は︑ 平沼 村酢 造場 にか わる 新規 酢造 経営 がは じま った こと を意 味し てい よう

︒さ らに 弘化 二年

︵一 八四 五︶ より

﹁川 酢蔵

﹂が 登場 する が︑ この 酢蔵 の所 在地 はわ から ない

︒ また 弘化 三年

︵一 八四 六︶

︑﹁ 彦野 損金 貸損

﹂と は別 に﹁ 酒造 場﹂ への 貸付 三二 三両 が見 られ る︒ この

﹁酒 造場

﹂は 同 年に

﹁岩 井酒 蔵﹂ を引 き受 けて いる こと から38

︑そ の後

﹁勘 定品 数帳

﹂で 見ら れる

﹁岩 井﹂ およ び﹁ 岩井 蔵﹂ と同 じ蔵 で あろ う︒ なお

﹁岩 井蔵

﹂は

︑下 総国 猿島 郡岩 井村

︵現

︑茨 城県 板東 市︶ で酒 造業 を営 む間 中家 の蔵 と考 えら れ39

︑﹁ 勘定 品数 帳﹂ の﹁ 間中 蔵﹂ もま た同 じ蔵 をさ して いよ う︒

﹁間 中蔵 酒造 勘定 書40

﹂な どが 市郎 右衛 門家 に残 って いる こと から

︑ やは り酢 造業 同様

︑彦 野酒 造場 にか わり 新規 酒造 経営 を間 中蔵 にて はじ めた もの とい える

一六

参照

関連したドキュメント

Ross, Barbara, (ed.), Accounts of the stewards of the Talbot household at Blakemere 1392-1425, translated and edited by Barbara Ross, Shropshire Record series, 7, (Keele, 2003).

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1アメリカにおける経営法学成立の基盤前述したように,経営法学の