朝日新聞大阪本社所蔵
「富士倉庫資料」 (写真)
―全体の解説―
早瀬 晋三
1. 写真の「発見」
日本の敗戦後61年目の2006年に,朝日新聞大阪本社で大量の写真が「発見」された。そ の多くは,戦場,占領地で朝日新聞社特派員などによって撮られた写真である。敗戦の際,
毎日新聞大阪本社を除く多くの新聞社は,軍からの圧力で戦争にかんする所蔵写真を焼却処 分したため,存在しないはずのものであった。朝日新聞大阪本社では,戦況が著しく悪化し た1944年9月6日,主要な保存写真や創刊号以来の紙面を,空襲による焼失などを恐れて 奈良県の天理図書館に疎開させた。これらの資料は,戦後47年5月6日に受けだしたもの の利用されないまま倉庫を転々とした後,78年から「富士運送株式会社」(大阪市西区)倉 庫に預けられ,99年に大阪本社3階の保管棚に収納されて「富士倉庫資料」と呼ばれるよ うになった。しかし,社員が日常的に行き来する場所にあったにもかかわらず,注意を払う 者はいなかった。
2006年1月,「朝日新聞」が前年から取り組んでいた中国吉林省の公文書館に所蔵されて いる満洲国の文書を報道するにあたり,山本有造京都大学教授(当時)に写真の提供を求め たところ,「貴社には古い写真が多数保管されているはず。まず,社内を探してみてはどう か」と示唆されたことがきっかけで,大量の写真が「発見」された。写真は,73箱のド キュメントボックスに,タイトルごとに小分けされ,封筒に入れられていた。その数,7万 枚以上であった。これらの写真をもとに,06年7月から09年3月まで,月1回,計33回に わたって「朝日新聞」に特集記事「写真が語る戦争」が連載された。また,7万枚以上のな かから約1万枚を選び,09年1月に一般利用者が検索できるデータベース「朝日新聞歴史写 真アーカイブ」http://www.asahi.com/information/db/history_photo/として公開した。筆者 は15人の評価委員のなかの唯一の東南アジア研究者として,選定にあたった。だが,評価 の対象になった東南アジア関係のものは,インドシナや東インド(現インドネシア)が中心 で千数百枚しかなかった。ほとんどは,1931年の満洲事変前後から写真が疎開した44年ま での中国にかんするものであった。「発見」のいきさつから写真全体の評価などについては,
連載終了後に出版された,朝日新聞社「写真が語る戦争」取材班『朝日新聞の秘蔵写真が語 る戦争』(朝日新聞出版,2009年,222頁)に詳しく書かれている。
かねてより,大阪本社の保管棚で見た写真のなかに,評価対象とならなかったものがある のではないかと疑念を抱いていたことから,それを確認するため2015年2月に大阪本社を 訪ね,保管棚に4箱,数千枚の東南アジア関係の写真があることがわかった。インドシナ,
タイ,ビルマ,フィリピン,シンガポール,マラヤなどで撮られたもので,評価対象となっ
たものとあわせると,東南アジア全域をカバーすることになる。封筒ごとに表題が付いてい たが,間違っていたり無関係のものが入っていたり,また別の国・地域のものが混入してい たり国・地域が不明のものがあったりで,写真の数ははっきりしないが,おおよそ東インド 1262枚,インドシナ895枚,フランス領インドシナ・タイ国境紛争88枚,タイ815枚,ビ ルマ663枚,フィリピン572枚,シンガポール368枚,マラヤ321枚,合計5000枚ほどに なる。ただし,これらのなかには,本や雑誌そのものや本や雑誌に掲載された写真,絵葉書 などを撮ったものが少なからず含まれている。
これらの東南アジアの特派員などによって撮影された写真が,どのようにして日本に運ば れ,保管されたのか,同じく焼却命令から免れた毎日新聞大阪本社の例から想像できる。
『「毎日」の3世紀―新聞が見つめた激流130年』(毎日新聞130年史刊行委員会,2002年,
全3巻)下巻(376‒78頁)によると,大本営から焼却命令が出たのは,「戦犯追及に使われ る恐れのほか,撮影した者の責任も問われる恐れがあった」からで,東京に本社がある新聞 社は焼却処分に応じざるを得なかった。それにたいして,毎日新聞社だけは,つぎのように 写真原稿の流れが大阪本社を軸にしていたことから,免れることができた。
戦時中,外地の特派員たちが撮影した写真のオリジナルネガはすべて大阪本社に運ば れ,保管されるシステムになっていた。例えば上海戦線で撮影されたものは上海〜長崎 の連絡船にのせられ長崎支局が門司へ届けた。空輸された場合は福岡経由で門司へ届 き,現像された。急ぎのものは門司から東京・大阪・名古屋へ電送されたあと,生のネ ガは必ず大阪に送られてくる。通常は大阪写真部で現像,焼き増しなどの処理をした。
ネガが到着すると,写真部員は通し番号を付け密着にした写真をスクラップブックに整 理する。キャプションと撮影年月日,撮影者氏名もきちんとつけてである。
[略]
整理保管と同時に検閲用に4枚,東京・大阪・西部・中部の各編集局用に1枚ずつ,
計8枚を焼き付けて列車便で送った。検閲用に4枚というのは,陸軍省・海軍省・内務 省情報局に各1枚と,許可になった時,返却してもらうための1枚が必要だったからで ある。東京本社からの連絡で,許可になったものには「検閲済」,ならなかったものに は「不許可」のゴム印を押し保管した。許可になったものでも写真の集マ マ成[修正]や キャプションの直しが赤字で書き込まれたプリントが東京から戻されてきて,これも ファイルされた。
大陸からばかりでなく,マニラ,セレベス,インドネシアなどで特派員が撮った報道 写真も大変な数にのぼった。
検閲をした側の報道部員の平櫛孝(当時陸軍少佐)は,著書『大本営報道部―言論統制と 戦意昂揚の実際』(光人社NF文庫,2006年)で,つぎのように述べている(89頁)。
検閲には,決まった担当者がいたわけではなかった。新聞社の前線特派員からの電報 または写真は,いつ本社へ入ると決まっているわけではない。その中には明日の朝刊に すぐにも組み込みたい原稿がある。報道部の検閲は,午後五時までというわけにはいか ぬ。少なくも朝刊の締め切り時刻まではつきあうため,若い者が順番でこれにあたっ た。昼間は報道部の部屋で,午後五時以降は報道部員の更衣室の片隅に机を運びこん で,検閲にあたった。新聞社に着いた写真フィルムは,ただちに現像され,印画紙の乾 くのも待ちきれずに,オートバイで大本営報道部の検閲係に持ち込まれてくる。検閲は まず写真説明を読み,まだ発表してはいけない兵器(例えば戦車砲,大型発動艇の舳先 の部分)が写っていないかをみて,何もなければ「検閲済」の判を,修正をすれば使っ てよいものには,砲身の口径をぼかすとか,この部分を削るとか,指示をして,「検閲 済」の判を捺して,「ご苦労さん」とつけ加えてかえす。このご苦労さんには,使いの オートバイの人と,この原稿を送ってきた前線特派員に対する感謝の意味をふくめてい るつもりであった。やむをえず保留不許可の判をおすのは未発表の新作戦の前線よりの もので,担当者個人だけでは判断できない新しい作戦や兵器について,明日その専門家 の出勤を待ってから決定にいたるまでの「保留」だった。
「保留」「不許可」の多かった日は,勤務を終わって市ヶ谷の坂をおりるとき,生死の 巷で身の危険もかえりみずに写した写真を没にしてしまったことが,どこか心の奥に ひっかかって,足が重かった。
戦場でも検閲がおこなわれていたことは,たとえばビルマでは「富士倉庫資料」の写真の 裏に押された「ビルマ派遣軍森部隊報道部検閲済」「ビルマ派遣軍宣伝部検閲済」などのス タンプに担当者の印が捺されていることからわかる。
毎日新聞大阪本社は,1944年に空襲が始まると,戦火を逃れるためにこれらの写真を奈 良の王龍寺に疎開させ,焼却命令が出ると「特派員たちが命にかけて撮影した写真は社の貴 重な財産であり,歴史の遺産である。焼き払うことなどできるものか」と守り抜く決断をし て,密かに疎開先から旧大阪本社の地下金庫室に隠した。その結果,この「大阪本社秘蔵写 真」をもとに,毎日新聞社は1975年から『一億人の昭和史』15巻などを出版し,シリーズ 総数95冊へと発展することができた。
2. 写真の目的
これらの写真は,戦場写真として前線の戦闘シーンもあるが,むしろ戦時下の日常生活を 知るために有益なものが多い。2015年1月9日に早稲田大学文学部を中心とした学部生20 人余が「富士倉庫資料」の写真を見て,書いた感想文からその全体像がうかがえる(授業を お借りした菊池陽子先生に感謝いたします)。
学生A:写真を見ると結構な割合で掲載不可,不許可の文字があって驚いている。一見 何の変哲もない風景画だったりするのに,どこを読みとれば軍部にとって不都合な情報 が表われているのか…当時の検閲が相当厳しいものだったことがうかがえたし,命を はって戦場におもむき,撮った写真が検閲にかかってしまった戦場カメラマンの心境や いかに…と思った。
学生B:スマトラのアチェで 人魚 と書かれた写真を見つけた。おそらくマナティ?
だと思われる。ダヤクン族の女性の笑顔がとても素敵な写真もあった。日本はこのよう な現地の人々ののどかでつつましやかな暮らし,日常を奪ってしまったのだと思うと胸 が痛んだ。
学生C:写真裏のキャプションが残っているのが資料として面白い性格を持っているの ではないかと思いました。例えば「砲身をぼかして可」「軍人の肩章を消す」という指 示や,部隊名は伏せるよう訂正されているところから当時の検閲の実際がうかがえるこ とや,一方戦地ではなく現地の人々やその生活を写した写真なども,キャプションを見 ると当時の日本から見たその地の人々に対する認識が読みとれるという点でも価値が高 いと考えられます。また,北京の婦人警官の記事などもあって女性職業人への関心は現 在とも共通しているように感じられました。そのほか現地の人々が笑顔で写っている写 真も印象的でしたが,日本人記者はある程度好意的に迎えられていたのでしょうか。情 報の伝達において軍と民間の中間に位置するジャーナリストの視点から近現代のアジア を見ることのできる意義深く貴重な資料でした。
学生D:その膨大な写真には戦争における劇的瞬間ではほとんどなく,何げない一時が 多く写っていたように思います。それらから特に感じたのは兵士たちが私たちと本当に 変わらない日本人であるということでした。集団で遠くから整然と並んでいる写真から は私の知る戦時の兵士たちであるという印象がありませんでしたが,数人で笑ったりま た大人数で楽しそうにする姿から本当に私たちと同じ若者であったのだ,という当たり 前である事実に驚きました。現在では信じられないことですが,兵隊さんになることが 素晴らしいという人工的な風潮,周りの人が日本国のためにと叫ぶ状況,それらが積み 重なることで人は全く異なる考え方・生き方をするということを再び実感しました。
この東南アジア関係だけで5000枚ほどにおよぶ写真は,いったいだれが,どのような目 的で撮ったのだろうか。朝日新聞社と日本軍占領地との関係は,萩森健一『本社の南方諸新 聞経営―新聞非常措置と協力紙』(朝日新聞社内部資料,1969年,460頁)に詳しく書かれ ている。それによると,日本陸軍は,東南アジア各地を占領する南方作戦が一段落した 1942年9月10日付の通牒で,「朝日新聞」にたいして,ジャワ軍政地域において軍管理の
下,日本語新聞社を設立して,「現地軍政に協力して日本文化の進出,興隆,現地邦人の啓 発,原住民の教化にあたり,さらに土語および外字新聞の指導,若くは直接運営等に当る」
ことを委託した。「東京日日新聞」(1943年に「大阪毎日新聞」と題号を統一して「毎日新 聞」となる)はフィリピン,「読売新聞」はビルマ,同盟通信社と提携13地方新聞はマ レー,シンガポール,スマトラ,北ボルネオを分担した。
いっぽう,海軍も文化工作のため,1942年11月12日付で「朝日新聞」に南ボルネオ地 域における新聞事業を委託した。セレベス(スラウェシ)地域は「大阪毎日」,セラム地域 は「読売新聞」が担当した。
陸軍から委託された朝日新聞社はジャワ新聞社を設立し,1942年12月8日に「ジャワ新 聞」(日刊),43年1月1日にグラビヤ画報「ジャワ・バルーDjawa Baroe」(月2回),同年 12月8日に「カナジャワシンブン」(週刊)などを創刊した。「ジャワ新聞」は45年9月28 日,991号をもって閉刊した。殉職者は14名。
いっぽう,海軍民政地域では1942年12月8日にバンジャルマシンで「ボルネオ新聞」(中 部版)を日本語とマレー語で創刊し,43年4月29日にバリクパパンで東部版を日本語とマ レー語,同年8月1日にポンチアナクで西部版を中国語とマレー語で創刊した。中部版は45 年9月15日まで発行,東部版は同年8月20日にサマリンダに転進して2日ほど発行,西部 版は同年8月30日まで発行した。殉職者は5名。
なお,ジャワ新聞社とは別に朝日新聞社ジャカルタ支局があり,両者が一元化されたのは 1943年10月のことであった。朝日新聞社員は,戦争中,本社支局員,陸軍報道班員,海軍 報道班員,ジャワ新聞社のように占領地で設立された現地新聞社員と分かれることになっ た。「富士倉庫資料」として残された写真には,特派員名の入ったものもある。文献史料や インタビュー調査でわからなかったことが,読みとれる写真も多く含まれている。詳しく は,拙稿「日本占領・勢力下の東南アジアで発行された新聞」『アジア太平洋討究』第27号
(2016年10月)を参照してください。
3. 写真の特徴
1942年9月10日付の陸軍からの通牒にある「日本文化の進出,興隆,現地邦人の啓発,
原住民の教化」にそった写真を,これら5000枚ほどの写真のなかに見いだすことができる。
だが,これらのなかには戦争勃発以前に撮られたものも含まれており,この通牒をきっかけ に写真の内容が大きく変わった印象はない。また,戦況の変化(悪化)や戦場・占領地の状 況によって,違いはあるのだろうか。
まず,戦場・占領地での日本人戦没者数を確認する。千鳥ヶ淵戦没者墓苑のパンフレット には240万の戦没者が国・地域(2003年現在の表記)別に示されている。この戦没者のな かには,1937年7月7日の日中戦争の本格化以降の「各主要戦域毎の軍人軍属及び一般邦人 の数」が含まれている。「樺太,千島,アリューシャン」24,400,「ロシア及び旧ソ連新独立
国家(NIS)諸国(旧ソ連本土)」52,700,「モ ン ゴ ル」1,700,「中国東北地区(旧満州)
245,400,「中国本土」465,700,「北朝鮮」34,600,「韓国」18,900,「沖縄」186,500,「台湾」
41,900,「インド,ミャンマー(ビルマ)」167,000,「タイ,マレーシア,シンガポール」
21,000,「ベトナム,ラオス,カンボジア(旧仏印)」12,400,「フィリピン」518,000,「イ ンドネシア」25,400,「ボルネオ島」18,000,パプア州(旧西イリアン)」53,000,「東部 ニューギニア,ビスマーク・ソロモン諸島」246,300,「硫黄島」21,900,「中部太平洋」
247,000。これら戦没者の数から,東南アジアではフィリピンが激戦地,ビルマがつぎ,そ のほかの国・地域ではそれほど激しい戦闘がおこなわれなかったことが想像される。だが,
「富士倉庫資料」の写真から戦況の悪化や戦場・占領地の状況による違いは感じられない。
全体の特徴として,2点あげることができる。ひとつは,全土にわたって写真が撮られて いることである。もうひとつは,少数民族が紹介されていることである。インドネシアで は,ジャワ島だけでなく,ボルネオ島(カリマンタン島),セレベス島(スラウェシ島),ス マトラ島各地の様子がわかる。封筒に書かれた地名を見ても,インドシナではカンボジア,
ラオスのほかベトナムの「トンキン,ホンゲイ,ターグエン,カオパン,ユエ,ハイフォ ン,ラオカイ,ショロン,ハノイ,サイゴン,ドンダン,アロン」,タイでは「チエンライ,
チエンマイ,ドンムアン,ランプーン,バンコック,アユチヤ,チエンダオ」,ビルマでは
「モールメン,メミヨー,シヤン,ラングーン,マンダレー」がある。
これらのことから,欧米植民地権力が充分におよばなかった地域や民族にも,日本が進出 しようとしていたということができるかもしれない。すくなくとも,新聞社は「大東亜共栄 圏」の隅々まで報道の対象としていた。また,戦略的な意味で重要な植民地政府の建物の写 真が多く残されているが,植民地権力の象徴となった記念碑の写真も残されている。なかに は,現存しないものがある。たとえば,フランス植民地政府が第一次世界大戦に従軍し戦死 したベトナム人兵を悼んで,1927年11月にサイゴン(現ホーチミン市)に建てた大戦慰霊 碑(Monument aux Morts de la Grande Guerre)や28年11月11日にハノイに建てた慰霊 碑(Le Monument aux Morts)は,それぞれ日本占領後の45年と反フランスデモ中の64年 に壊されたが,「富士倉庫資料」の写真(写真番号2303, 2109)のなかに見ることができる
(「富士倉庫資料」にはないが,プノンペンにあった慰霊碑は75年に共産主義勢力によって 壊された)。これらの写真から,欧米植民地支配の一端が見えてくる。
〈おわりに〉
1943年11月5〜6日,東京で大東亜会議が開かれた。太平洋海域での戦況が悪化するな か,日本の支配・影響下にある大東亜諸国家が結束を強化するため,全会一致で大東亜共同 宣言を採択し,つぎの5項目を綱領として掲げた:「(一)道義に基づく共存共栄の秩序の建 設,(二)自主独立の尊重と互助敦睦,(三)伝統の尊重と民族の創造性の伸暢,(四)互恵 的経済発展,(五)人種差別の撤廃,文化の交流と資源の開放」。
朝日新聞所蔵の写真から,日本にとっての「大東亜共栄圏」の理想像が見えてくる。日本 兵と子どもたちの仲睦まじい交流,日本語教育を通した日本文化の浸透,女性の日本文化へ の親しみと奉仕,日本の武術を通しての日本精神の理解さらに自己犠牲,そして,なにより 日本兵が寛げる占領地が,写真から読みとれる。このことは,新聞社がただたんに軍の指示 に従って戦争協力しただけでなく,軍の意向を一歩先取りしていたということができる。日 本のグラフ誌の歴史を考察した井上祐子は,著書『戦時グラフ雑誌の宣伝戦―十五年戦争下 の「日本」イメージ』(青弓社,2009年)で「大東亜共栄圏構想下の〝かくあるべき姿〟を 伝えるもの」(298頁)と評価している。
そして,読者をその気にさせたのは,対英米開戦が現実味を帯びてくるより早い時期で あったことが,たとえば「シンガポールの中心地」の写真の説明文からわかる。ビクトリア 記念館前のラッフルズ銅像,オベリスクなどの説明を,「この広場にも又,日の丸が翻る日 が来るのだ」と結んでいる。イギリス帝国「東洋艦隊」の拠点シンガポールを,日本が占領 することが自明のことのように書かれている(写真番号0732)。1940年6月14日にドイツ 軍によりパリが陥落し,戦後イギリス帝国が解体されることが予想されてから,イギリスの 根拠地のひとつであるシンガポールが日本の版図に入ってきていた。詳しくは,山本文史
『日英開戦への道―イギリスのシンガポール戦略と日本の南進策の真実』(中公叢書,2016 年,315頁)を参照してください。
これらの写真からえられる文字情報,および文字以外の情報を分析し,さらに実際に新聞 に掲載された写真と記事を分析することによって,日本兵や現地の子ども・女性の笑顔の背 後にある戦時下のメディアの実像が見えてくるかもしれない。
朝日新聞社は7万枚から1万枚を選ぶにあたって,ボックス番号,封筒番号,写真番号
(封筒ごとと通し番号)をふり,全72巻におさめた。たとえば,F059A-02-1-42441は,
ボックス番号F059A,封筒番号02,封筒内の番号1,全体の通し番号42441を表す。東南ア ジア関係では,以下のものが含まれている。これらのほか,シンガポール陥落を西日本各地 で祝う様子の写真が155枚ある(F070A-12〜13, 055243〜055397)。
巻 箱-封筒-写真番号 通し写真番号 封筒ごとの枚数 国・地域 第43巻 F059A-02-1- 42441〜42452 12 仏印 第43巻 F059A-03-1- 42453〜42545 93 仏印・タイ国境紛争 第43巻 F059A-07-1- 42546〜42634 89 仏印 第43巻 F059A-12-1- 42664〜42731 68 タイ 第43巻 F059A-15-1- 42732〜42893 162 仏印 第43巻 F059B-02-1- 42913〜42920 8 仏印 第55巻 F069B-25-4- 54806〜54807 2 仏印
第62巻 F086A-01-1- 61188〜62012 825 東インド(シンガポール1枚を含む)
第64巻 F117A-01-1- 63524〜63665 142 東インド 第64巻 F117A-12-1- 63749〜64010 262 東インド
合計1,663
選定の対象にならなかった東南アジア関係の写真は,F078〜F081の4ボックスにおさめ られている。これらのボックス内の封筒,写真にも独自に新たな番号をふった。たとえば,
F078(13)0764は,ボックス番号F078,封筒番号13,写真番号0764を表す。
箱(封筒) 写真番号 枚数 封筒記載のタイトルなど 備考 F078(1)0001〜0110 110 タイ Bangkok バンコツク
市街 〜昭和20年
(2)0111〜0167 57 タイ
(3)0168〜0240 72 Singapore 〜昭和20年 1枚の写真を2枚にコピー したものを含む。仏印雲南 国境の橋1枚を含む
(4)0241〜0328 88 Singapore 〜昭和20年 英領マレー1枚を含む
(5)0329〜0369 41 Chien-Rai チエン ライ 北 泰 ビルマ国境 〜昭和20年
(6)0370〜0444 75 Singapore 〜昭和20年
(7)0445〜0563 119 Chienmai チエンマイ
〜昭和20年
シンガポール1枚を含む
(8)0564〜0568 5 Don Muang ドン ムアン
〜昭和20年
(9)0569〜0622 54 タイ Lumpun ランプーン
〜昭和20年
(10)0623〜0641 19 タイ 〜昭和20年
(11)0642〜0679 38 タイ Bangkok バンコック
〜昭和20年
(12)0680〜0763 83 Singapore 〜昭和20年 1枚の写真の裏書きを2枚 にコピーしたものを含む
(13)0764〜0913 150 タイ 〜昭和20年
(14)0914〜0941 28 タイ 〜昭和20年
(15)0942〜0954 13 タイ Ayuthia アユチヤ
〜昭和20年
(16)0955〜0959 5 タイ Chiendao チエンダオ
〜昭和20年
(17)0960〜0985 26 タイ 風俗 習慣 〜昭和 20年
(18)0986〜1020 35 タイ 象狩 〜昭和20年
(19)1021〜1086 66 タイ Bangkok バンコック
(寺院) 〜昭和20年
(20)1087〜1116 29 Singapore 官公庁 及 軍関係 1100:番号を飛ばしたため 写真なし
F079(21)1117〜1122 6 ビルマ 建設 (戦前→戦時 中) 〜昭和30年
(22)1123〜1132 10 ビルマ Moulmein(モール メン)
(23)1133〜1136 4 ビルマ Maymyo メミヨー
(24)1137〜1146 10 都邑 ビルマ
(25)1147〜1280 134 ビルマ 戦前 風俗,市民生 活 昭和8‒19年
マニプール1枚,雲南1枚 を含む
(26)1281〜1392 103 ビルマ 戦前→戦時中 市民 生活,風俗
1382〜91はA1で1枚のポ スター,カンボジア1枚を 含む
(27)1393〜1430 38 ビルマ シヤン地方
(28)1431〜1527 97 ラングーン (戦前→戦時中) シャム1枚,印度2枚を含む
(29)1528〜1562 35 ビルマ マンダレー王宮跡 Mandaley 建物,仏像 (戦 前→戦時中) 昭和4‒18年
(30)1563〜1650 88 宗教(寺院) 戦前→戦時中 仏像 昭和4‒27年
ビルマ
(31)1651〜1701 51 ビルマ 婦人・子供 (戦前
→戦時中)
(32)1702〜1779 78 ビルマ 産業。経済。(戦前
→戦時中)
F080(33)1780〜1853 74 仏印 新聞記事1枚を含む
(34)1854〜1872 19 仏印 Tonkin(トンキン)
(35)1873〜1885 13 仏印 ベトナム
(36)1886〜1940 55 仏印 ラオス 地図切り抜き1枚を含む
(37)1941〜1954 14 インドシナ 宗教関係 雑誌ページ2枚を含む
(38)1955〜1966 12 仏印 カンボジア
(39)1967〜1992 26 仏印 Hongay ホンゲイ
(40)1993〜2007 15 仏印 Tanguyen ターグエン
(41)2008〜2048 41 仏印
(42)2049〜2051 3 仏印 Kao-Pan(カオパン)
(43) 0 インドシナ 風俗習慣 空封筒のみ
(44)2052〜2060 9 仏印 Hue ユエ
(45)2061〜2068 8 仏印 Haiphong(ハイフォン)
(46)2069〜2090 22 仏印 Lao-Kai(ラオカイ)
(47)2091〜2104 14 仏印 Cholon(ショロン)
(48)2105〜2249 145 仏印 Hanoi (〜20)
(49)2250〜2302 53 インドシナ 原住民
(50)2303〜2363 61 サイゴン (〜20)
(51)2364〜2370 7 インドシナ Dong Dang
(ドンダン)
(52)2371〜2394 24 インドシナ Along(アロン)
F081(53)2395〜2497 103 マラヤ 産業経済 比 島75枚,マ ラ ヤ23枚,
昭南5枚
(54)2498〜2526 29 スマトラ海
印度洋
}
諸島終戦前 〜昭和20年
雑誌記事3枚を含む
(55)2527〜2616 90 戦前のフィリピン(地勢) 写真22枚,本1冊
(56)2617〜2696 80 比島 Manila マニラ周辺 マニラなし,セイロンのみ だが,「セイロン島スマラ ン」14枚は「東イ ン ド ス マラン」の間違い
(57)2697〜2750 54 比島(風俗・土民生活) 戦前
(58)2751〜2765 15 比島(火山・高原) 戦前 タール火山
(59)2766〜2851 86 比島戦前 Manila マラカニ アン宮殿
(60)2852〜2898 47 マレー連邦 Penang(ペナン) 切り抜き2枚を含む
(61)2899〜2902 4 マレーシア Swettenham ス エツテンハム港(戦前)
(62)2903〜2942 40 マレー連邦Kuala Lumpur 戦前
(63)2943〜3034 90 マレー(戦前 戦中) 昭和 4‒17年
(64)3035〜3135 101 比島 Manila 寺院 教会 公園
マニラなし,すべてマレー 半島
(65)3136〜3278 143 比 島 Manila 戦 前 市 街 雑 観 中国人街
冊子1冊
(66)3279〜3388 110 フィリピン ダバオ 〜昭和 20年
3,376