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レジャー産業と顧客満足の課題

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Academic year: 2021

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自然と人間の住まい方

∼宗教建築を通した比較文化的考察∼

白石 晃子 生活文化学科 はじめに... 1 1章 概観:宗教建築における形態と自然観... 2 1.日本の宗教建築... 2 2.キリスト教建築 ...15 2章 ...24 象徴:宗教建築に見る自然観と人の住まい方...24 1.ドアと鳥居 ...24 2.十字架と注連縄...25 3.石造と木造 ...27 3章 事例:建築に見る自然観と都市...29 1.三峯神社 ...30 2.氷川神社 ...31 3.明治神宮 ...32 4.正福寺...33 5.実例が示すもの...33 4章 現代の課題:自然観と環境倫理...34 1.地球環境と近代主義...34 2.エコロジー的空間とエクメーネ...34 3.自然に対する人間の義務と権利、 ...35 そして責任...35 4.日本人の環境への態度...35 おわりに...36 参考資料...36 1.引用文献 ...36 2.参考文献 ...36 3.図表の引用...37 4.脚注...37

はじめに

今日我々は、世界中のほとんどの地域で相互につな がり合うことが出来る時代を迎えている。それは交通 機関や情報メディアの発達によるものだけではなく、 政治外交の進展によって互いの存在を認め、理解でき る場が整いつつあることの結果である。しかし 2001 年9 月 11 日の米国同時多発テロ以降の混乱、イラク 戦争やその戦後処理の難航から、国際社会は未だ不安 定な状態にあることが明らかになった。現実は相互理 解の場があり、達成の努力がされているにも関わらず、 実際にはそれがうまくいっておらず、まだまだ不十分 なものなのだ。現代の我々が平和な社会を築くために は、多様な文化の違いや関係性を、基本的ものの見方・ 考え方の部分から問い直し、十分な相互理解につなが る方法を考えることが重要な課題なのではないだろう か。 相互理解の改善について問い直すためには、特定の 文化体における外界に対する関係の仕方を明らかにす る必要があると考える。一つの文化体の外側には、そ れとは別の文化体や自然環境がある。そして文化体と 外界の関係の仕方は、文化体によって大きく異なる。 本論文では特に、自然との文化体の関わり方に注目 したい。それはその作業が人間の根本にある思想・理 念の理解に役立ち、もう一方の外界である異なる文化 体への関係の仕方の理解につながると考えるからであ る。 自然との関わり方の違いは、農耕牧畜(何を食べる か、どう育てるか)・衣類・建築(都市設計)などの違 いとして具体的に表れる。文化による根本的な考え方 の違いを考えるためにも、これらの具体例を通して分 析することが不可欠である。特に国際関係という具体 的な場面をテーマにするためにはより一層重要なこと であると考える。しかし研究を進める上で文化事象に 見られる具体面の違いは、物理的な自然条件や、それ に対応する技術の発達水準などに従った「用」の部分 で大きく左右されていることが多く、人々の考え方・ 物事の把握の仕方のような「意」の面を引き出すこと の出来るような事例はあまり多くない。本論分では自 然に対する文化の姿勢の違いを研究するために、建築 を取り上げることにするが、「用」よりは「意」の部分 が比較的色濃く反映していると考えられる宗教建築を

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主に対象とすることにする。 研究対象とする文化体の一つとして、日本を取り上 げる。日本は文化・民族・言語・経済・政治といった 様相が空間的に一つの地域にまとまっている、どちら かといえば例外的なものの一つである。他方、西欧で はこれらの様相の重なりが多重的である。言語・経済・ 民族などは、それぞれの範囲が歴史的に変化すると共 に互いの重なり合い方も複雑である。そこで対象とし て、あえて漠然と「キリスト教文化体」としてみた。 他の文化体と比べて文化交流や国際舞台において日本 との相互理解が進んでいると考えられがちな地域につ いて、個々で改めて交互の基本的な異同を「考え直す」 ことを試みたいと考えている。

1章 概観:宗教建築における形態と自然観

文化体の基本的な価値概念を見直すためには、個別 の事象における表れ方を通じて分析するべきだと考え る。考え方は直接には書物に見られるような思想表現 に表されるものであるが、歴史の段階において、ある いは文化の違いにおいては必ずしも比較可能な形での 思想表現が残されているとは限らないからである。研 究対象として衣食住に関わるもの・芸術様式・政治形 態・宗教などを挙げることが出来る。しかし多くの例 では比較される個々のものの違いは、自然や経済など の外的諸条件によって大きく左右されがちで、必ずし も文化による考え方の違いを反映したものとは捉えが たい。その点で宗教建築は、他の具体例よりも直接の 用途から遠いところにあり、より象徴的な面を多く持 つものであると考えられる。一般の建築が自然条件や 用途と経済的効用のバランスに左右されて大きく形態 を変えるのに対し、宗教建築は神を祀る・崇めるとい う目的が大きいためにあえて外的条件に左右されない 傾向があると考えられる。 宗教建築に表れる様々な違いの分析を通して、文化 体における基本的な考え方や価値概念の違いを理解す る手がかりを得ることが出来るのではないだろうか。 宗教建築では、文化体ごとに、また文化体の中でも 時代や状況によって経済の発展段階や技術状況・美術 様式・個々の建築目的などが複雑に絡み合って、様々な 多様性を生んでいる。またなかには、他の文化体では 宗教建築とは呼べないような材料の組み合わせやスケ ールのものもあるだろう。しかし神を祀っていること、 そしてそれを象徴するものであるという点では共通で ある。日本の宗教建築とキリスト教のそれについて的 を絞った場合、共通点することとして宗教建築独特の 装飾(絵画や彫刻を含む)があることと、人の集まる 空間(建築や広場)があることが考えられる。また神 を祀る場所として、一般建築以上に荘厳で長い期間そ の場に存在することを考慮されたつくりになっている ことも共通の特徴である。 一方、共通項以上に個別の文化体による表れ方違い が大きいと感じることも宗教建築の特徴である。祀っ ている神の違いの他に、材料や装飾も大きく異なる。 それでは日本とキリスト教の宗教建築はどのように違 うのだろうか。ここからは両文化体に表れる形態の違 いをまず整理してみたい。

1.日本の宗教建築

日本の宗教建築とはどのようなものであろうか。そ れらについて我々がイメージする時に共通して表れる ものは、巨大な鳥居や門・緑地・注連縄・仏像、ある いは木造建築、建物全体としては比重の大きな屋根な どがあるのではないだろうか。また石段を設置して、 少し高い場所に建てている場合が多い。実際の具体例 は以下の通りである。

1−1.形態上の分類

図1 京都 清水寺 図2 奈良 唐招提寺金堂

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図3 奈良 薬師寺金堂 図4 長野 善光寺本堂

図5 群馬 妙義神社 本殿・弊殿・拝殿 図 6 京都 平等院鳳凰堂

図7 仙台 大崎八幡神社本殿 図 8 奈良 興福寺北円堂

図9 岡山 吉備津神社 本殿・拝殿 図 10 滋賀 園城寺光浄院客院

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図13 滋賀 宝厳寺唐門 図 14 新潟 浄念寺本堂 図 15 京都 石清水八幡宮楼門 図16 兵庫 浄土寺浄土堂 図 17 京都 八坂神社本殿 図18 兵庫 鶴林寺太子堂 図 19 島根 出雲大社本殿 図 20 滋賀 苗村神社西本殿 図21 高知 土佐神社 図 22 山口 功山寺仏殿 図23 奈良 円成寺春日堂・白山堂 図 24 大阪 住吉大社本殿 図 25 滋賀 日吉大社東本宮本殿 以上のように、一口に日本の宗教建築と言っても 様々な形態が存在する。屋根の形や装飾・平面の数・ 建物全体の向き(どこを正面にするか)・色などが異な る。中でも目につきやすい違いは、屋根にまつわる点

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が多いのではないかと考える。形一つとってみても、 平面はほとんどが四角形だが、屋根は様々である。木 造の本体を風雨から保護するための部分として、そし て大きく目につきやすい点から芸術の対象として、屋 根はこのように様々に発展したのではないだろうか。 従って日本建築を本体のみについて考える場合、屋根 によって分類することは、自然への対応の仕方ともの の見方の両方が表れるのではないかと考えられる。こ こでいくつかの外見上の違いにより、個別の宗教建築 を分けてみたい。

A 屋根の形

◆ それぞれの面が三角形で一つの屋根が全体を覆っているもの 興福寺北円堂(図8’)浄土寺浄土堂(図 16’)鶴林寺太子堂(図 18’) ◆ 四角形の面が二つのもの 左上から宇佐神宮本殿(図12’)八坂神社本殿(図 17’)出雲大社本殿(図 19’)苗村神社西本殿(図 20’) 住吉大社本殿(図24’)

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◆ 四角形が二つ以上合わさって出来ているもの 清水寺(図1’)善光寺本堂(図 4’)妙義神社 本殿・弊殿・拝殿(図 5’)平等院鳳凰堂(図 6’)大崎八幡神 社本殿(図7’)吉備津神社本殿・拝殿(図 9’) 園城寺光浄院客院(図10’)大笹原神社本殿(図 11’)土佐神社(図 21)円成寺 春日堂・白山堂(図 23’) ◆ 四角形の面と三角形の面があるもの 唐招提寺金堂(図2’)奈良 薬師寺金堂(図 3’)石清水八幡宮楼門(図 15’) ◆ 特殊な形のもの 宝厳寺唐門(図13’)浄念寺本堂(図 14’)功山寺仏殿(図 22’)日吉大社東本宮本殿(図 25’)

B 正面の向き

◆ 三角形(屋根の三角形の空き・面)

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興福寺北円堂(図8’)浄土土寺浄土堂(図 16’)鶴林寺太子堂(図 18’)出雲大社本殿(図 19’)住吉大社本 殿(図24’) ◆ 四角形(屋根の四角形の面) 左上から唐招提寺金堂(図2’)薬師寺金堂(図 3’)平等院鳳凰堂(図 6’)大笹原神社本殿(図 11’)宇佐神 宮本殿(図 12’)八坂神社本殿(図 17’)苗村神社西本殿(図 20’) ◆ 複合面(三角形に作られた屋根の空きの下に四角形の屋根が付けられたもの) 左上から清水寺(図1’)善光寺本堂(図 4’)妙義神社本殿・弊殿・拝殿(図 5’)大崎八幡神社本殿(図 7’) 吉備津神社 本殿・拝殿(図 9’)園城寺光浄院客院(図 10’)土佐神社(図 21’) 円成寺 春日堂・白山堂(図 23’)

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◆ 特殊な面 宝厳寺唐門(図13’)浄念寺本堂(図 14’)石清水八幡宮楼門(図 15’)功山寺仏殿(図 22’)

C 装飾

◆ 十字がななめについたもの 吉備津神社本殿・拝殿(図 9’)出雲大社本殿(図 19’)円成寺春日堂・白山堂(図 23’)住吉大社本殿(図 24’) ◆ 最上部に丸い装飾があるもの 興福寺北円堂(図8’)浄土寺浄土堂(図 16’)鶴林寺太子堂(図 18’) このような整理を基にして、日本の宗教建築における自然との関係の仕方(姿勢)について、屋根の形態から 考察してみたい。まず始めに日本の宗教建築を神道の神社建築と仏教の寺院建築に分けることにする。神社建築 は日本古来の神を祀っているのに対して、寺院建築はインドから中国、朝鮮半島などの大陸を経て伝わった仏教 の思想を広めるために建てられた。これらは長い歴史の中で互いに影響し合い、様々な様式・工法を生んだ。大 崎八幡神社本殿(図7)と園城寺光浄院客院(図 10)は神道と仏教で、宗教が異なるにも関わらず、形態はほと んど同じに見えるのは、その相互関係の結果だと推測される。

1−2.形態と自然観の分析

A 神社建築

神道では元来、神が降臨するとされた樹木や岩、山などを信仰の対象にしており、今日のような本殿は持たな かったと言われている。これらの神が宿る岩(磐座 いわくら )、木(神樹)に囲いなどの少し手が加わったものが磐境いわさか・神籬ひもろぎ 1である。磐境・神籬はいずれもその背後にある山を信仰の対象としており、その山麓に奉拝のための施設として 置かれていた。その後農耕が始まると、五穀豊穣を祈る為に祭事を行なうようになり、その為の場所として、仮 の社殿を作るようになった。これが現存する常設の社殿のもとになったと考えられている。 このように社殿を持たなかった神社の建築的要素に最も影響を与えたのは中国から伝来した寺院建築の手法で あった。これは8世紀ごろ行なわれた「神仏習合」により、国内の主要な神社の中に「神宮寺」と呼ばれる寺院 の建設が相次いで行なわれたことや平安時代に「本地垂 迹すいじゃく説2」が唱えられたことが原因である。

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このような歴史的な相互の関係から、仏教伝来前の社殿の形態には日本独自の自然に対する対応の仕方やもの の考え方が表れ、伝来後には独自の形態と外来のものの融合の仕方が表れるのではないかと考えられる。従って 伝来前と伝来後で様式を分けて参照する。 A−1.仏教伝来以前(日本独自)の形式 ◆ 住吉造 大 おお 嘗 じょう 会え3のための仮設の建物(大 嘗 宮だいじょうぐうせいでん正殿)を神殿として受け継いだもので、中央に扉をつけた妻入り4の形式。 切妻造5で檜皮葺の屋根、棟上に千木6と堅魚か つ おき7を置く。両開きの戸の内部に「室むろ8(外陣)」があり、さらに奥に 扉をつけて一段床を高く張った、神のための「堂(内陣)」が設けられている。住吉大社(図24)が代表例。 ◆ 大社造 田の字型に柱を設置した平面を持ち、左右非対称な位置に扉をつけた妻入りの形式。出雲地方に多く、出雲大 社(図19)が代表例。 図26 大社造 側面 図27 大社造 正面 ◆ 神明造 弥生時代以降の穀物を収めるための倉庫であった高床に、切妻屋根がついた「校倉 あぜくら 」が次第に神をまつる建物 に転用されたもの。平入り9で妻壁から少し離れて棟持ち柱があるが、これは実際には屋根を支えておらず、象徴 としての役割を持つとされている。伊勢神宮が代表例。

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図28 神明造 A−2.仏教伝来以後の様式 奈良時代の仏教伝来後に建てられた神社は仏寺のように屋根の反りが大きい。また土台を設けて縁側と手すり を取り付けた。さらに仏像をまねて神像という礼拝物を祭るようになった。平安時代に取り付けられた回廊や楼 門も仏教の影響である。 仏教伝来後の神社建築の変化は、外来のものに対する適応の仕方ではないだろうか。特に真っ直ぐだった屋根 流れが反ったことは、一つの考え方の変化(あるいは分化)と捉えられると仮定する。つまりものごとを緩やか に考える仕方が加わったのではないかということである。 ◆ 春日造 妻入りの正面に庇をつけ、千木と堅魚木を設けた形。庇の形が唐破風のものや、屋根が2連になったものがあ る。方1間・切妻造・妻入りの建物で、井桁い げ た10に組んだ土台の上に乗っている。屋根は檜皮葺、棟上むねあげには堅魚木 と置おき千木ち ぎが置かれ、主体部分に向拝ご は い11と呼ばれる片流12の屋根がついている。平面は正面にのみ縁が付き、木階 が設けられている。建具は正面を板扉とする他は板壁で、軸部は丹、板壁は胡粉ご ふ ん13が塗られている。代表例は春 日大社。 図29 春日造 ◆ 日吉 ひ え 造 正面3 間と側面 2 間の主体部分の前面・側面に庇を延ばした形式。入母屋い り も や造14の屋根の背面の庇を切り落とし、 両端を 縋すがる破風は ふ15にした形式で千木も堅魚木もない。内陣は主体部分と一致し、正面中央にのみ板扉がついている。 その他の部分は板塀。四周に高欄付きの縁を回し、正面中央に木階と浜床が設けられている。日吉神社(図25) のみに見られる。 ◆ 流ながれ造

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切妻造の平入りを正面とし、千木も堅魚木もない反りの付いた屋根が流れるような形をしている。正面には木 階をつけ、その前方に柱を立てて向拝を設け、向拝の下には浜床という低い床が張られている。通常の一間以外 に、横に長くした三間のものや、千鳥破風16をつけたものもある。代表例は上加茂神社や下鴨神社。 図30 流造 ◆ 八幡造 仏寺の双堂の様式を取り入れたとされ、平入りの建物2 間(本殿と奉祀のための前殿)が前後に「相の間」と 呼ばれる部屋でつながれた形式。宇佐神宮(図12)が代表例。 A−3.宮寺(石の間造) 前述の八幡造を発展させた形式であり、古くからの神道の神々ではなく実在する人間の霊を祀った神社に多く 見られる様式なので、神社と寺院両方の性格を持つ。その起源は大宰府に流罪となった菅原道真の霊を祀った北 野天満宮だとされている。 実在の人間を神と同等の地位にすることは、非常に野心的な印象を抱かせる。日本古来の神が自然に関わるも のだったことから考えても、この頃には仏教伝来から受け継がれた思想である、「自然信仰よりも人物信仰」の図 式が出来上がりつつあったのではないだろうか。また日本の建築としては珍しい石が使われている相の間が普及 したことも、それまでとは違う自然観も見られると推測できる。 ◆ 八棟やつむね造 本殿と拝殿を「石の間」でつなぎ、一つの屋根を掛けたもの。北野天満宮に見られる。近世に入ると秀吉を祀 った豊国廟へと受け継がれた。豊国廟も拝殿、本殿が石の間でつながれている。 ◆ 祇園造 大規模な平面が複雑に配置され、内陣と礼拝堂が大きな屋根で覆われた形式。奥行きの深い入母屋造の外観は 仏教建築に見られるものである。八坂神社17のみに見られる。 ◆ 権現造 豊国廟をモデルに徳川家康の霊を祭った日光東照宮に見られる形式で、彫刻が前述の様式よりも立体的に発展 させたもの。入母屋造で平入りの本殿と拝殿が棟を平行させて並び、その間を両殿の棟に交差する棟を持つ石の 間の屋根がつないでいる。また拝殿の正面には破風がついている。 図31 権現造 正面 図32 権現造 側面

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◆ 浅間 せんげん 造 拝殿と本殿をそれぞれ1 階と 2 階に分けたもの。代表作は富士山本宮浅間神社。 A−4.自然との関係の傾向 仏教伝来前の3 つの様式で特徴的なものの一つは、入り口の向きだと思われる。平入りと妻入りは宗教建築と して作られる前に、それらの元となった建築がどのような経緯を持っていたかで違っている。妻入りは日本の住 居が元になっており、平入りは元々の神道が農耕の神を祀っていたため、倉庫を基にした形である。故に妻入り の宗教建築は主に人間に対して開かれた形式、平入りのそれは主に神に対して開かれた形ということが出来るの ではないだろうか。自然と人間に対して開かれた宗教建築を別々に持ちながらも、同様にそれらを祀っていたと いうことは、日本には違った種類のものを両方等価と考える仕方があったのではないかと推測される。 また自然を取り入れる技術としては、倉庫を神の社とする方法の他に堅魚木がある。堅魚木は水の象徴とされ 火災除けのまじないの役割を担っていた。日本の建築は木で大部分を作ることによって森とつながり、そして水 にちなんだ装飾を作ることによってもう一つの自然である海とつながっている。これは日本人がいかに自然とつ ながることを重視していたかの表れだと思われる。 個別の事例の中で多く見られた、三角形と四角形が合わさった正面を持つ形が仏教伝来後から作られたという ことが、の春日造の例で分かる。この方法によって一つの形態として完成しているものに、他のものを合わせる ことに対して寛容になった姿勢を感じることは出来ないだろうか。今までの自然のための建築方法と人間のため の方法が分かれていた時代とは違う、それらを一緒に考える仕方が生まれたと考えられる。これは日本仏教が自 然と釈迦両方を敬うことにつながらないだろうか。一方仏教と神道の様式が合わさったことで、それまでの神社 建築が象徴していたような人間にとって必要だった、自然との境界が失われたことで自然そのものに対する信仰 心は段々と失われていったように思われる。それは千木や堅魚木が屋根の上から消えたことでも分かる。 そして中世の武将を中心に宮寺の建築が進められたのは、天照大神をルーツとする天皇への対抗心があったか らかもしれない。屋根も複雑になり、その形態によって人と自然、あるいはその両方に開かれているなどの分類 をすることが難しくなっている。この複雑さは古来にはあった、自然への神聖視の希薄化と考えられる。故に宮 寺には自然信仰は見られず、神社という神格化された力と、実在の人間の権力を併せ持った建築であると言える。

B 寺院建築

寺院建築は仏教思想を表現し、その研究や修行・信仰の場として使われてきた。日本における仏教の伝来は 6 世紀頃だとされ18、平安時代に天台宗・真言宗などの密教が伝わった。平安末期から鎌倉時代には浄土宗・浄土 真宗・時宗・日蓮宗などが開かれ、大陸からは禅宗が伝わり中近世を通じ発展した。その過程で日本古来の信仰 である神道や民間信仰などを習合し、外国文化だった仏教は日本的なものに変遷していった。様式も当初は大陸 から伝えられた意匠や構造だったが、奈良・平安を通じて日本の風土や好みによって国風化された。鎌倉時代に は新たな技術の再来と同時に、人的交流や資材の物流・建築道具の発達などにより、さらに多様な様式作りが可 能になった。また平地には大陸から伝来した技術に忠実な建築が作られる一方、山岳では自由で独自性の高い建 築が数多く作られた。 中世の戦乱期になると東寺や延暦寺、東大寺などの古い寺院は力を失い、復古的な建築様式を用いて再興し、 反対に台頭してきた浄土宗や日蓮宗は華やかで巨大な建築を建てた。この時代は礼拝や巡礼が盛んになり、それ に合わせて参拝空間の確保が行なわれた。だが江戸中期に全盛を迎えた後は、過去の様式の継承と再現に終始す るようになった。寺院建築は各時代に修復・再建が繰り返されたので、一つの寺院の中に様々な様式の建築が混 在していることが多い。

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寺院建築は、形は大陸から伝わってきたもので、技法は日本化したものなので両方の制約を受けているが、神 社建築と比べて、元々の宗教理念・様式が日本にないので日本の伝統からある程度自由であったことが想像でき る。だとすれば純粋の外来のものを日本化させるという技術の中には、先述の神社建築で「つなげることをよし とする性格」と述べた点が、ここでも実証されるのではないだろうか。 B−1.様式の変遷 ◆ 和様 6世紀から8世紀にかけて大陸から伝来した仏寺の建築様式に対して、これらが日本化した様式を和様と呼ぶ。 日本は地震が多発するため、大陸から伝わったものは構造的に弱い。そこで柱と梁の交わる部分(組み手)を強 化する方法が発達した。また湿気も多いので痛んだ部材を簡単に取り替えられるように、江戸時代まで一切釘を 使わなかった。組み手の種類には「大斗だ い とひじ肘木き19「三斗組み つ ど ぐ み20「出組21「三手先み て さ き22」がある。代表例は法隆寺伝法 堂・講堂、東大寺法華堂、薬師寺東塔。 図33 和様 立体図 図34 和様 断面図 ◆ 大仏様(天竺様) 聖武天皇(位 724∼749)によって建てられた奈良東大寺の大仏堂が、1180 年の戦乱23によって焼失したが、 翌年中国の天竺で建築を学んだ僧、重 源ちょうげんが大仏殿の再建に着手した。その際初めて用いられた様式が「大仏様 (天竺様)」である。この様式の第一の特徴は「さし肘木24」である。その他に柱と梁の断面がそれ以前の時代の ような四角形でなく、丸い上に全体が太くしっかりとした部材を用いており、装飾が少なく簡素だががっしりと した様式である。代表例は東大寺大仏殿、浄土寺浄土堂(図16)などで、主に奈良地方に見られる。外来の工法 をそのまま使用した点では和様が目指した日本に適した建築とは言いがたい。地震に弱い構造で、後にたくさん の大仏様の宗教建築が倒壊している。 図35 大仏様立体図 図36 大仏様断面図

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◆ 禅宗様(唐様) 前述の重源が最新の仏教として大陸から持ち帰った禅宗の建築様式。和様や大仏様が床を張るのに対し、床を 張らずに土間に直接石の礎盤を置き、その上に柱を立てる。また柱梁が角断面で部材が細く、繊細なイメージを 持つ。小さな斗 ます 25や肘木26を整然と積み重ね、一重ながら周囲に幅の狭いもこし27を廻して、たちの高い外観を作 る。内部においても尾垂木や虹 こう 梁 りょう 大瓶束 だいへいづか 28や海老虹梁29などを組み上げている。欠点としては柱や肘木を伴わな い組み物(詰組)が使われるために地震に弱いという点がある。代表例は大徳寺法堂、正福寺地蔵堂があり、京 都に多く見られる。 この様式も大仏様と同じく構造が弱い。また床を張らずに土間に石の礎盤を置くなどの、今までの日本の宗教 建築とは大きく違う様式である。これは禅という特殊な仏教様式から来るのだろうか。一方古来、屋根の形態に 腐心してきた日本人にとって、禅宗様の屋根の形態は興味深かったのだろう。神社建築においてもこのように流 れの途中で形が変わるものが見られる。 図37 禅宗様立体図 図38 禅宗様断面図 ◆ 折衷様 鎌倉時代に大規模な地震が頻繁に起こった為、大陸から伝わった技法で建てられた寺院の多くが倒壊した。そ こで大仏様と禅宗様に、伝統的な和様をおり混ぜた地震に強い新たな様式が考案された。この様式を「折衷様」 と呼び、大工の自由な発想、個性により様々な建築が生み出された。代表例は観心寺本堂、鶴林寺本堂(図18) がある。 前述の 3 様式を自由に織り交ぜることが出来たので、工法・装飾共に良いところを持ってくることが出来た。 この折衷様の後は新たな様式が生み出されなかったということから、これが日本における仏教建築の限界であっ たとも考えられる。古来のように屋根に腐心することもなく、和様の時代に丈夫な柱に執念を燃やすこともなか ったので、ここから先の芸術が美術に向かったことも理解できるのではないだろうか。 B−2.自然との関係の傾向 屋根の形によって分類していた神社と異なり、寺院建築は柱や梁などの支える部分によって分類されていると 考えられる。見た目を変えずに内部だけを、気候条件に合わせて即座に変化させることが出来るのは、それまで の神社建築で培われた木や自然に関する知識の深さを物語っていると感じる。また屋根を四面に延ばす仏教建築 の様式は雨の多い日本では重宝され、結果神社建築にも影響を与えたのではないかと推測出来る。 大仏様のがっしりとした丸い柱や梁は、仏教と日本人の自然観をつなげる役割をしたかもしれない。そこから 日本仏教が自然と結びつくきっかけが出来たのではないだろうか。一方、禅宗の建築物は床を張らないという点 が特徴の一つである。神社建築の屋根に見られるように、自然から少しずつ離れる傾向にあった日本人は禅宗様 の、自然と直接つながっている工法を日本的な自然につながるように感じていたのではないかと考えられる。

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1−3 相違と共通点

神社建築と寺院建築は、今まで見たようにそれぞれの分類方法やコンセプト(宗教思想)も異なるにも関わら ず、今日の我々がそれらを混同しがちであるのは何故だろうか。その一つには使われている材質が同じであるこ とが挙げられるが、そのほかにも象徴するもののいくつか、例えば大きな門と鳥居、立地条件などなにか共通す るものがあるせいではないだろうか。それらが他の文化体とは明らかに違う、一つの調和の中に存在しているた めだとも仮定できる。それはやはり、最も古くから日本人の心に存在する神である「森」なのではないだろうか。

2.キリスト教建築

キリスト教建築とは、キリスト教という一つの宗教思想に基づいて作られた建築である。石造りで随所にキリ スト教にまつわる装飾(十字架・聖職者や聖母・聖書にちなんだもの)が施され、建物の上部には鐘が付けられ ていることもある。そしてほとんどの場合がその町でもっとも目立つ建物になっていると考えられる。まずは個 別の具体例を参照する。

2−1.形式上の分類

図39 ローマ 図40 イタリア イル・レデントーレ聖堂 図 41 ドイツ ヴォルムス大聖堂 イル・ジェズ聖堂 図42 ソ連 図 43 ノルウェー 図 44 フランス 図 45 イタリア ウラディミール大聖堂 ウルネスの教会堂 サクレ・クェール聖堂 チェルトーサ

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図46 フランス 図 47 イタリア 図 48 オーストリア サン・セルナン サン・ピエトロ大聖堂 ザンクト・カール・ボロメウス聖堂 図49 イタリア サンタ・ 図 50 ドイツ 図 51 シチリア モンレアレ大聖堂 マリア・デッレ・グラーチェ聖堂 ハイリッヒ・クロイツキルエ 図52 フランス パリ大聖堂 図 53 フランス 図 54 イギリス カンタベリー大聖堂 アングレーム大聖堂 図55 フランス 図 56 ドイツ ケルン大聖堂 サン・ジョルジュ・ド・ボッシェルヴィル修道院教会堂

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図57 イタリア シエナ大聖堂 図 58 イタリア ミラノ大聖堂 図 59 フランス サンテティエンヌ 図60 ドイツ 図 61 フランス アルビ大聖堂 図 62 イギリス シュパイヤー大聖堂 ウエストミンスター大聖堂 以上に見るように、キリスト教建築としてひとま とめに見なしがちなものも、実にその形態は多様性 である。日本の建築とは歴史的にも技術や芸術様式 の違いからも、大きくスケールの異なるキリスト教 建築を日本の例のように単純に分類整理することは 出来ないと考える。建築に現れる自然との関係・傾向 を分類する前に、キリスト教建築の様式の違いをま ず外見から分類してみる。

A 細長い塔

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を持つもの

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左上からイル・レデントーレ聖堂(図40’)ヴォルムス大聖堂(図 41’)ウラディミール大聖堂 (図 42’)サ ン・セルナン(図46’)ザンクト・カール・ボロメウス聖堂(図 48’)モンレアレ大聖堂(図 51’)パリ大聖 堂(図52’)シエナ大聖堂(図 57’)ケルン大聖堂(図 56’)ミラノ大聖堂(図 58’)シュパイヤー大聖堂(図 60’)ウエストミンスター大聖堂(図 62’)

B 上部(屋根部分)全体の形態について

◆ 平らなもの イル・ジェズ聖堂(図39’)チェルトーサ(図 45’)サンタ・マリア・デッレ・グラーチェ聖堂(図 49’)モ ンレアレ大聖堂(図51’) ◆ 鋭く尖ったもの カンタベリー大聖堂(図54’)ケルン大聖堂(図 56’)ミラノ大聖堂(図 58’) ◆ ドームがついたもの イル・レデントーレ聖堂(図40’)ウラディミール大聖堂(図 42’)サクレ・クェール聖堂(図 44’)サン・ ピエトロ大聖堂(図47’)ザンクト・カール・ボロメウス聖堂(図 48’)

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C 外側に柱があるもの

左上からイル・レデントーレ聖堂(図40’)サン・ピエトロ大聖堂(図 47’)ザンクト・カール・ボロメウス 聖堂(図48’)ハイリッヒ・クロイツキルエ(図 50’)パリ大聖堂(図 52’)カンタベリー大聖堂(図 54’) アルビ大聖堂(図61’) これらの外見の違いは技術の発展の他には何に由 来しているものなのだろうか。それはキリスト教が 長い歴史の中で、あるいは場所ごとにどのように捉 えられてきたかが関係していると考えられる。その 捉え方の実践として建築が多様に変化していったの ではないだろうか。キリスト教の教えの捉え方とそ の実践の過程を合わせて考えるための方法の一つに、 様式の観点から宗教建築を見直すことが挙げられる。 キリスト教建築の様式の歴史的な流れを通して見る ことは、西洋人のものの見方・考え方や、その変化 を考える手助けになるのではないだろうか。ここで は西洋人の考え方が大きく変わるルネサンスを中点 に、その前後に分けて考察する。

2−2.形態と様式の分析

A 中世の教会建築

313 年のミラノ勅令31以降4 世紀から 15 世紀に至 るまでのヨーロッパ建築の歴史は、ほとんどキリス ト教建築の歴史であるとしても過言ではない。それ までの抑圧32からの解放の反動とも取れるほどに建 築への情熱は激しく、先端の技術や建築構造に加え、 キリスト教思想・美学・哲学までもが教会の形式に 影響を与えた。ミラノ勅令直後の初期キリスト教建 築は、バシリカ式と集中堂式という2 つの形式を生 み出した。これらは近世においてもキリスト教教会 の基本形式になっている。その後395 年の東西ロー マ分割後、初期キリスト教の建築が東ヨーロッパに 建設されるようになると、それらは独自性を強め、 6 世紀頃にギリシア正教のビザンティン様式に発展 する。 一方ゲルマン民族の侵攻33を受けて476 年に帝国 が滅んだ西ヨーロッパでは、当初は初期キリスト教 建築の伝統を受け継いでいたものの、800 年に戴冠 したカロリング朝フランク王国のカール大帝(位 768∼814)によって、それまでの模倣から脱却した 新しい建築を建てられた。これらの7 世紀ごろから、 10 世紀にカロリング朝が滅びる34までの建築は「プ レ・ロマネスク」と呼ばれている。 プレ・ロマネスクに続く様式は、フランク帝国の 周縁地域であったイタリアのイベリア半島から興っ た。その薄暗い静寂を持つ11 世紀から 13 世紀まで の様式をロマネスクと呼ばれる。そしてその後フラ ンスで生まれた13 世紀初めから 16 世紀までの大聖 堂をゴシックと呼ぶ。ビザンティン様式が集中堂式 を採用したのに対し、ロマネスク・ゴシックはバシ リカ式を採用している。 初期キリスト教から始まる中世のキリスト教建築 は、まず今まで公的なものとしてはなかった空間作 りから始まると考えられる。その場所の作り方は、

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従来の建築から何を選択し、いかにしてキリスト教 的なものを入れるか・作っていくかという試行錯誤 だったのではないだろうか。その選択方法にキリス ト教に対する見方が表現されるのではないかと考え られる。 A−1.様式の変遷 ◆ 初期キリスト教 ローマ帝国がキリスト教化された4世紀から 476 年に西ローマ帝国が滅亡し、ゲルマン民族による統 治がされる6世紀頃までのキリスト教建築を指す。 歴史的な時代区分ではローマ時代である為、建築も ローマ時代のものを習った形である。その一つがバ シリカで、これは広い長方形の内部を列柱がいくつ かの空間に区切った建築のことである。「バシリカ」 という用語は、帝政期のローマで「集会室」を表す 言葉として使用され、その後キリスト教の集合を伴 う礼拝に使われるようになり、最終的に教会そのも のを表す言葉になった。バシリカ式教会堂も古代ロ ーマのバシリカと同じように、列柱で3 つ、あるい は5 つに平行に分けられた細長い空間からなる。長 方形の短辺の片方の中央に半円の空間があり、そこ を一段高くして司教席(カテドラ)が作られた。ま た教会の入り口の前には前庭が広がっており、洗礼 されていない者はそこから先に進むことは許されな かった。 一方、古代ローマのマウソレウム(墓廟)を倣っ て作られた形式35が集中堂式教会であった。これら は円形や正八角形・正六角形・正方形などを基本形 とし、その回りに対称的に従属空間を作り、中心に ドームをかけた求心的な建物である。マウソレウム の流れをくみ、殉職者や聖人の墓や聖跡、マルティ ルウム36としても建てられた。また当時の洗礼は体 ごと水槽につかる形を取っていたので大きな水槽を 置く為の建物も必要であった。その際の集中堂式洗 礼堂は7 日間で一つのサイクル37となっているキリ スト教の伝統から、新たな始まりという意味で正八 角形に作られることが多かった。墓廟がキリスト教 会の形式として採用された背景には、キリストの死 と何らかの形でつながっていたいということではな いだろうか。 ◆ ビザンティン建築 ローマ帝国の東西分裂後、コンスタンティノポリ ス(現イスタンブール)を中心に東ヨーロッパで独 自に発展した様式。古代ローマの文化を継承しつつ、 ギリシアやオリエントの伝統も受け継いでいる。5 世紀頃までは初期キリスト教建築を倣っていたが、 6 世紀にアギア・ソフィア大聖堂38が建てられた頃か ら独自性を発揮した。第一の特徴はスクィンチ39 るいはペンディンティヴ40・ドームである。このド ームには、ほとんどの場合クリストス・パントクラ トール(万能の主キリスト)が描かれた。アギア・ ソフィア大聖堂の後のビザンティン建築には通常ド ームがかけられ、それは矩形の平面にドームのかか った集中堂形式の、ギリシア十字式教会堂に発展す る。また北イタリアのヴェネツィア、ラヴェンナな どの諸都市はビザンティンとの関係が深かった為、 後のロマネスクにも影響を与えたとされている。 9 世紀後半に円熟を迎えた中期ビザンティン建築 は、ギリシア十字式教会堂という新しい様式を生み 出した。そのバリエーションの一つ41である十字ド ーム式教会堂は、四隅の太い角柱が、ドームとその 周囲の4 本の短いトンネル・ヴォールトを支えてい る。さらに両側に側廊、東側の端部に内陣、西側に ナルテクス(玄関廊)が付け加えられ、中央のドー ムの真下の平面と側廊・内陣・ナルテクスの部分が 十字であることからその呼び名が付いた。 ビザンティン様式の一番の特徴はドームとギリシ ア十字式であると考えられる。ドームは数学や力学 などの神が作り上げた自然の法則を実践するための ものであると同時にその形が天界を示しており、も とからある建築を模倣したものから、キリスト教の それへと宗教建築が移行したことの表れではないか と推測される。ギリシア十字もキリスト教の一番の 象徴が形態を占領した点で同じことが言えるだろう。 ◆ プレ・ロマネスク建築 ローマ分裂後、メロウィング朝フランク王国がゲ ルマン民族の中で始めてローマ・カトリックに改宗 する。ここからいわゆる西欧社会が生まれる。初期 キリスト教建築後の7 世紀から 10 世紀ごろまでの 西欧の建築を「プレ・ロマネスク」という。この建 築様式を扱った人物の中心はメロウィング朝の後に 政権を引き継いだカロリング朝のカール大帝である。 カール大帝は「ローマに倣え」42をモットーに礼拝

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堂の建設を進めた。この頃になるとキリスト教は広 く普及し、洗礼志願者の数は減少していた。その為 大きな洗礼堂の必要性がなくなった。また墓廟が教 会堂の地下に設置されるようになったことなどから、 それまで敷地の中に点在していた様々な要素が教会 堂の中に集約された。「ローマに倣え」は典礼におい ても進められ、本来は正面入り口が西側に設けられ、 東側に本陣を置いていた教会の向きを、西側にもア プシスを置くことで西向き(西構え)に変え、ロー マ式典礼43が出来るようにした。この大胆な様式の 変化は皇帝の権威を示す場としても機能したという。 「西構え」と並ぶプレ・ロマネスクの特徴として、 クリュプタがある。これは聖遺物を納め、礼拝する ための場所として教会堂内陣の下に設置されたもの である。アシプスの地下に設けられた墓室の周りを 周歩廊が回るものや矩形の通路が初期の形だが、 徐々に発展し、アシプスの外壁を越えたものや、二 層になるものも作られた。 ◆ ロマネスク建築 語源は「ローマ風」で、現在のフランスに相当す る地方で発展した。この時代のフランスは封建制の 確立44によって力をつけつつあった地域であり、封 建制の権力が宗教権力に結びついてさかんな建築活 動を展開した。ロマネスクの最大の特徴はヴォール ト45架構の技術の確立、バシリカ式平面の展開とそ の組織化である。だが一つの典型に収まることはな く、地域や宗派によって様々な形態があるのでロマ ネスクは緩やかな統一性でしかない。 北フランス・ドイツは 11 世紀に入ってもそれ以 前の木造天井を維持したが、地中海南部のイベリア 半島やイタリアでは石造のヴォールトを使い始めた。 ヴォールトは構造上アーチの外側に開こうとする力 を生むので、その力に抵抗した高い建物を作ること、 そして強度を保ちながらどのように採光するかがロ マネスクの課題であった。さらにバシリカ式平面は、 多数の祭壇の配置や祭室の展開を見せる形式に変化 し、それらの教会堂平面は「エシュロン型」や「ベ ネディクト型」と呼ばれ、西欧に広く普及した。 ロマネスクの時代は後に広まるゴシックと比較し て、修道院が知的活動・芸術活動の中心で、その表 現が可能な一握りの修道士を中心に発展した46とい う特徴がある。ロマネスクの教会は、小さなドア・ 厚い壁わずかしか入らない光に神聖性を見出してい たと考えられる。それは神の栄光を実践できるのは 修道士であるという閉鎖的な考え方が影響している のだろう。多数の祭壇・祭室も、大勢での祭祀より も小さな集団での祭祀をよしとし、これも閉塞感を 重視する表れではないかと考えられる。 ◆ ゴシック建築 語義は「ゴート人の(野蛮)な」という軽蔑であ る。ロマネスクがその絶頂にあった 12 世紀頃に北 フランスで始まり、ドイツ・イギリスでそれぞれに 発展した中世建築の完成形。上昇感が強く、典型的 な形を温存する北フランスや、さらに上昇感を追及 したドイツ、リブの装飾を追及したイギリスなど地 域色が色濃い。 ゴシック建築は都市の一般市民の為の建築である。 ロマネスクにおいて限られた光が採光されていたの に対し、ゴシック建築は堂内に溢れる光の実現に腐 心した。壁面を極力減らし、替わりに一面に張られ たステンドグラスはその顕著な例である。その一方 建築技法のいくつかはロマネスクから選択している。 ゴシックの三大要素とされている尖頭アーチ47、リ ブ・ヴォールト48、フライング・バットレス49はいず れもロマネスクを発展させて出来たものである。ま た西正面の双塔50もロマネスクからの継承で「調和 正面」と呼ばれている。調和正面はナルテクスや西 構えのように身廊の前の独立した空間、あるいは信 者を選別する為の空間ではなく、時を刻む鐘を置く ことで都市生活の中に教会を融合させる目的を持ち、 また民衆を身廊に直接招くための身廊と一体化した 空間であった。 ゴシックの特徴は神の栄光が万民に開かれたこと を象徴していると考えられる。万民とは都市の住民 のことで、キリスト教建築を大きく作ることにより、 開かれた形で作ることによりキリスト教が都市住民 の近くに置きたかったのではないだろうか。人間に 対してのメッセージ性を取り入れたことは、次の近 代に通じる予兆とも取れる。 A−2.神と権力の場所 中世のキリスト教建築は、まず権力構造が始めか ら表れていたということが出来る。これは初期キリ スト教からゴシックまでの一貫した特徴だと言える。

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時の権力者一人によってそれまでの様式が変えられ たということは、コンスタンティヌス帝以来のキリ スト教と権力の構図が続いていると予想される。 ローマのバシリカを習った際にカテドラを一段高 く作ったということは、それまでの同じ地域の人の 集まりである集会に、権力が加わったことの表れで はないだろうか。これは後のカトリックのヒエラル キーの元とも考えられる。プレ・ロマネスクの「ロ ーマに倣え」はローマの権力に倣う、という形だっ たのかもしれない。ゴシックの壮大さはその最たる ものであろう。一見趣が違うように感じられるロマ ネスクも、「近づきがたい」という点でやはり権力で あると考えられる。建築が神の業の実践という考え 方が色濃くなったビザンティン様式からは、神の権 力がより偉大になったことを表すと考えられる。つ まり優れた技術は神の手の中にあると考えられたの である。 一方礼拝堂や墓廟が重要視され、発展した時代を 挟んでいることは、中世の人間の精神世界が神の存 在を元に作られていたことの象徴ではないだろうか。

B 近代の教会建築

建築における近代とはルネサンス51が始まった 1420 年頃から 19 世紀の終わり頃までをさすとされ ている。内容的には古代の建築用語が復活し、それ らが変容しながらも古典主義としての一貫性が保た れたものである。その時代の中で建築の中心課題や 原理、そして建築の担う社会的役割などが変化した ことや、近代に向かった西欧諸国の社会情勢社会に よって様々な様式へと分化していった52。しかしこ こでは教会建築という規定から、扱う様式をルネサ ンス建築とバロック建築に留めた。 15 世紀にルネサンス建築はイタリアで古代ロー マやギリシアの建築を復興させる形で生まれ、西欧 全体に拡大していくが、イタリア以外の国には復興 させるべき古代建築がなかったので、専らイタリ ア・ルネサンス様式の模倣という形を取った。 それが宗教対立やナショナリズムやナショナリズ ム運動を経て、17・18 世紀になると大きく 2 つの傾 向に発展した。その一つ53がバロックである。プロ テスタントに対するカトリックの優越を歌ったバロ ック建築はローマで始まった。古典用語を近代的に 解釈し、主情的・絵画的・力動的な総合芸術舞台と なった。バロック建築はオーストリアや南ドイツに 大きな影響を及ぼし、ロココ式内装と結びついた荘 厳な建築を生み出した。 中世の神のための宗教建築とは異なり、人間を中 心にした考え方が反映された宗教建築は、神の素晴 らしさよりも人間の素晴らしさを象徴するようにな ったのではないかと推測する。その為に神の持つ象 徴性は利用されたのではないだろうか。 B−1.様式の変遷 ◆ ルネサンス建築 北イタリアで興った建築で、フィレンツェのF. ブルネルレスキ(1377-1446)に始まる。しかしフ ィレンツェには古代建築はなく、当時はロマネスク 建築に古代の原理や形態を見出していた。古代の建 築が実際の遺構に基づいて研究され、細部の意匠や 比例・類型・構想に至るまでが模範とされたのはブ ラマンテ(1444∼1514)やラファエロ(1483∼1520) の時代からである。そしてこの時代以降(16 世紀後 半)の建築家が古代建築と同様に、ブラマンテらの 建築を模倣したことからマニエリスムの時代に入り、 ルネサンス建築は終焉を迎える。 ルネサンス建築は、古代あるいは中世の建築の伝 統がルネサンスの人文主義に基づいて人間の理性に 訴えかける、美しく計算された調和・均衡を重視し ている。中世においてバシリカ式が採用されたのに 対し、ルネサンスでは集中堂式が選択されたことも、 円や円に近い形をバランスが取れた理想的な形とし たためであった。 ロレンツォ・メディチが1492 年に没した後、後 ろ盾を失ったフィレンツェは勢力が衰え、次第にル ネサンスの中心がローマに移った。ここで前述のブ ラマンテ・ラファエロらが活躍している。 ◆ バロック建築 16 世紀の宗教改革54に対するカトリックの反動が 当時の社会の気質と結びついて、17 世紀のイタリア に生まれた様式。「バロック」の語源は不規則な形の 真珠を意味するポルトガル語「バローコ」であると 言われている。それが 18 世紀頃のフランスにおい て「風変わり・不規則」などの意味が付け加えられ、 18 世紀末には、17 世紀イタリアの「風変わり」な 芸術の特徴に対する蔑称として使われた。ルネサン

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ス様式を継承しながら、躍動するファザード55やダ イナミックな内部空間を発展させた。この特徴はル ネサンス建築が世界を秩序と見なし、理性的だった のに対して、バロック建築は混沌と見なし、動的・ 感情的になったことに由来すると考えられる。それ らは動的な曲線・豪華な細部・過剰な装飾の柱に見 られる。ファザードに数階貫いて設置された大オー ダー56、木摺りスタッコ57、トロンプ・ロイユ58(騙 し絵)、三重殻ドームが独自の技法とされている。 バロック建築の時代は絶対王政の時代であり、建 築はその注文主である国王や教会の権力を象徴する ために建てられるようになった。祝祭も空間装置・ 視覚効果・音楽などで仰々しく彩られたものになり、 かつての静寂の中で行なわれた形式からかけ離れた ものになった。そして教会堂は祝祭(説教を含む) という、権力の民衆に対する絶好のプロパガンダの 機会を引き立てるための舞台装置に変容した。 B−2.人間の場所 ルネサンス建築において古代建築の模倣がされた ということは、宗教建築が神の作った法則の実践に なる前に戻るということである。しかし墓廟という 元々が故人を象徴する目的で作られていたものが、 その形を重視して用いられ、人間の理性に訴えるよ うに作られたということがやはり人間中心の近代的 であると感じる。やはり教会が神のためではなく、 信者・教会に対してのものになったと考えられる。 またバロック建築は、理性的で整然としたルネサ ンスとの違いはあるものの、それはカトリック・プ ロテスタントという対立構造があったことが原因だ と考えられる。しかし既に神の法則を離れたものと いう点では類似しており、近代性を保持していると 考えられる。 近代は宗教建築の技法や目的が神の手から離 れ、人間のものになったという点で中世とは全く 違った様式である。神のものではないので人間の 勝手に合わせて形態が変わり、バロックまで行き 着いたのではないだろうか。やはり神の象徴性は、 日本の宮寺のように人間の象徴に利用されるだ けになってしまったとも考えられる。

2−3.自然との関係・自然の場所

キリスト教建築は中世・近代で神を中心にするか、 あるいは人間が中心とするかで空間の扱われ方と捉 えられ方が大きく異なる。しかし両方の時代を通じ て自然は排除されている。従って自然の排除がキリ スト教建築全体の特徴として考えられるのではない だろうか。 中世は自然を神の摂理の表れと捉え、近代で客体 として主体(人間)の外側にあるもの・単なる現象 の表れと見なされた。これは自然が意思を持ち、常 に人間の相手として表れている日本の場合と大きく 異なる点である。 それでは西洋において、自然とはどのようなもの なのだろうか。中世では世界のすべてが神の摂理に よって説明され、その現象は調和の取れた数学的な ものだとされた。だから西洋では周りの混沌とした 現象を秩序立てて考えてきたのである。秩序立てら れた自然とは宇宙のことである。そして日本人が自 然と呼ぶようなものは、西洋の視点で見れば自然で はなく、混沌とした現実なのだ。キリスト教建築は 神とつながるための場所である。故に神の秩序とは 反対の秩序のない現実の自然をそこに登用するわけ にはいかなかったのではないだろうか。

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2章

象徴:宗教建築に見る自然観と人の住まい方

1 章で見たように、宗教建築は同じ宗教を象徴す るものであっても、時代や国が変われば大きく変容 するものである。また日本では寺院建築が神社建築 に影響を与えたように、時には異宗教までもが様式 の変容の一要因になるのである。(西洋ではイスラム 教とキリスト教の建築が互いに影響しあっている。) それでも我々が大きく異なる個別の宗教建築を、何 とか同じ宗教ごとに分類出来るのは、それらの宗教 建築に共通する部分があるためではないだろうか。 その共通部分が宗教の象徴するものではないかと考 えられる。また宗教は、一つの文化体の考え方を具 体的に表したものであるため、その文化体の一つの 象徴としても考えることが出来る。そこから宗教の 象徴は文化体の象徴であるとも言うことが出来るだ ろう。 宗教建築が文化体を象徴するものであるとすれば、 宗教建築自身の外界との関係を見ることで、文化体 の外界との関係が見えてくるであろうと予想できる。 従って宗教建築の自然に対する作られ方は、文化体 の自然に対する作られ方に通じると言えるのではな いだろうか。 そこで本章では、象徴の表れ方の違いは、文化体 ごとの考え方やものの見方の違いを表すという仮定 のもとに、西洋と日本それぞれの宗教建築に共通す る特徴をいくつか取り上げ、それらが象徴するもの の違いを比べることにした。また日本の仏教と神道 が混在する日本の宗教建築においては、より日本的 なものとして一番初めに国に根付いた宗教である神 道の神社建築を取り上げる。1 章の始めにもそれぞ れ個別の宗教建築に共通する特徴を挙げたが、その 中でも特に象徴的なものとして3 つの事例を挙げて 比較する。 まず①キリスト教建築のドアと日本の鳥居―内側 と外側(外界)の教会の作り方とそのもとにある考え 方。次に②十字架と注連縄―キリスト教と神道の象 徴の比較(何を象徴するものなのか)。そして最後に ③石造建築と木造建築―自然に対する働きかけとし ての建築素材の選び方を取り上げることにする。

1.ドアと鳥居

宗教建築は、何らかの方法で宗教空間を作り上げ るものである。その意味で神聖な空間の内側と外側 に、ある境界を設ける必要がある。さらにその外界 にも2 つの区別があると考えられる。ひとつは人に 対する自然である。そしてもうひとつは宗教空間・ 時間に対する日常生活ではないだろうか。特に都市 においては日常生活との切り離しが、神聖な空間に 求められているのではないかと考えられる。キリス ト教の教会では、そのドアをくぐった後に外側の自 然環境とは明確に切り離された神聖空間が広がる。 そして同時にそれは日常生活とも別世界なのである。 一方日本の神社では様相が異なる。まず境界は建 物の入り口ではなく、鳥居をくぐることである。鳥 居(門)をくぐりぬけると、生活空間から神聖な空間 に足を踏み入れたと実感する。もちろん建物には人 間を収容できる空間があり、神聖な雰囲気を保って いるが、建内部に入らなくてもその前で参拝するこ とが出来る。神社では、建物ではなくその敷地全体 に神聖性があると考えられるのである。またもう一 方の外界である自然に対しては、西洋と日本の宗教 建築の入り口は違う機能を果たしている。自然は出 入り自由で、また神社・寺院の敷地内は豊かな自然を 感じさせる場合が多い。それは古代神道が自然と神 を一体と捉えていたからではないだろうか。 以上の違いから、日本と西洋とで宗教建築の入り 口を比較すると、何と切り離しているのか、そして どこに入るのかという点で、宗教建築の持つ意味が 全く違うのではないかという仮説が立てられる。

1−1.教会のドア

教会のドアは様式によって様々に変遷するが、最 も興味深いのは中世のロマネスクとゴシックの比較 59である。ロマネスクのドアは小さく閉ざされてい るがゴシックのドアは広く大きい。これは宗教建築 が、ロマネスクの時代には限られた修道士のみに対 して開かれ、ゴシックの時代になりようやく民衆に 開かれたことの現われである。程度の差はあるもの の、人間(信者)に対してはずっと開かれたもので あり続けた。それでは切り離されたものは何であろ うか。 西洋の一般的な建築では、日本の宗教建築の鳥居

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に似た形を取るものと考えられるものは門である。 門は町や城と、自然との境目に存在する。そして「こ こから先は人間(所有者)のいる土地である」とい う目印で、外敵を防いだり、自然の空間との切り離 しという物理的な意味合いが大きいと考えられる。 宮殿や城で門を目にすることがあっても教会で見る ことがないのもそのためではないだろうか。つまり 外敵を防ぐ必要のない西洋の宗教建築の入り口は、 建物のドアである考えられる。教会のドアは町とは 切り離された(外側の)神聖な空間への入り口なの である。 門の方がドアより大きく威圧的ではある。しかし ながらドアは門よりもさらに強力な仕切りであると は言えないだろうか。なぜならば門の外側からは中 の様子を見ることが出来、内側からも外の様子を見 ることが出来るのに対し、宗教建築のドアは中に入 らなければその様子が分からず、また中に入ってし まえば外の様子が全く分からないからである。従っ て西洋の宗教建築は、完全に神のみとつながるため の場所で、その他のものは排除する傾向があると考 えられる。その他というのは日常生活と自然である。 自然も神聖空間から排除されたのは、古代から西洋 では自然を人間に敵対するもの・制圧するものとし て考えられてきたことが由来すると考えられる。や はり宗教建築も城的に作られていたのである。

1−2.神社の鳥居

図63 北野天満宮 鳥居 鳥居とは神社の入り口(参道の前)にある一種の 門であり、神々の空間と人間の生活空間を仕切るた めのものであると考えられる。鳥居という言葉の起 源は定かではなく、中国やインドからの外来説の他 に、天照大御神が岩戸隠れした際のエピソード60 関わっている。同じく語源についても「通り入る」 「鳥がいる」「止まりい(止まれ)」など数多くの説 がある。それぞれの部位は、二本の柱と柱の上に乗 せたものが笠木か さ ぎ、その下に水平に通された貫ぬきと呼ば れている。 我々は、鳥居をくぐった時から始まる神社の神聖 空間から「森」を連想させるのではないだろうか。 それは町の神社の場合に最も町の中で緑が多い場所 であることや、いくつかの神社が山の中に建てられ ていることに由来すると考えられる。日本における 森の神聖視は、古代神道において森そのものを神と する見方から始まっているが、これはキリスト教に は決して見られない特異な性質である。日本人にと って森が神の存在と重なる理想の場所だとすれば、 その正反対のものは雑然とした日常生活の場所であ る。鳥居は物理的にはさらに狭い空間に通じる入り 口である。しかし象徴的には雑然とした日常生活を 切り離し、神社の敷地内の小さな「森」を通して無 限に広がる本物の森への入り口としての役割を持つ と考えられる。

1−3.比較

西洋の宗教建築は、神以外のものを排除し神のみ とつながるための装置だと考えられる。するとその ドアはつながりよりも切り離しのための部分なので はないだろうか。なぜならばドア自身は神とのつな がりを持たず、その空間への入り口に過ぎないから である。それに対して鳥居はつながりのための部分 だと考えられる。鳥居も日常生活との切り離しの役 割を担っているが、その内外の風景を完全に隔てて はいないからである。それは自然に対する対応の仕 方と一致する。従ってドアと鳥居の機能の違いは、 自然が西洋と日本でどのように捉えられてきたかの 違いと取ることが出来ると考えられる。

2.十字架と注連縄

西洋と日本における神の存在のシンボルの代表は 十字架と注連縄であると考えられる。両方とも神に 関係のある場所に配置され、神の存在を象徴するも のの中でそれらは、そこの文化体に暮らす者が最も 目にすることが多いものだからである。しかしそれ らは、崇め祀られるという点では両文化体で同様の 神に由来するものでありながら、我々が抱くイメー ジは全く逆である。十字架は日常生活の中でアクセ

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サリーとしても使用可能な身近な存在である。その 一方、注連縄は何か近づき難いものではないだろう か。また「神の存在のシンボル」という理解のされ 方は一貫しているが、それらがどのような観点から 神の存在を象徴しているのか・神の存在はどこにあ るのかということについてはあまり考えられていな いのではないだろうか。これは十字架と注連縄がど のような経緯から作られ、どういう場合に使われて きたのかを参照することで、少しずつ明らかになる のではないかと考える。

2−1.十字架

十字架は、キリスト教会の祭壇や屋根の上に飾ら れた十字の模様や装飾のことである。十字架の始ま りはイエス・キリストがローマへの反乱分子と見な され、第5 代ローマ総督ポンティウス・ピラトスに よってゴルゴダの丘で処刑された時に貼り付けられ た十字の板だとされている。以来キリスト教徒たち はこの十字架を宗教の象徴としてローマ帝国の迫害 時代には小さな十字を胸にネックレスとして付け、 容認後には神への感謝の動作として十字を切るよう になった。つまり十字架は、悲しみ(迫害)と喜び (容認)の両方の感情の表れであったと考えられる。 この悲しみと喜びはキリストの死と復活についても 言い表すことが出来る。そしてその感情のどちらも キリストの貼り付けという歴史的な事件から派生し ているものである。 その後313 年にミラノ勅令を出し、キリスト教を 帝国統一のための基盤としたコンスタンティヌス帝 は、十字架を戦争における勝利の象徴として扱った。 以来多くのキリスト教地域、国家で十字架を国旗・ 戦旗に取り入れられ、その結果キリスト教以外の地 域では十字架は自分たちの生活の安定を妨げる憎し みの象徴にもなっている。従って十字架は歴史的な 一点から始まっているが、それがいつの時代にも通 じるような人間の感情を表す普遍的なものだと言え るのではないだろうか。 また十字架は教会内の祭壇に取り付けられている ことから、教会内でも直接神とつながるための装置 だと考えられる。西洋の昔話で十字架が魔よけ的に 使用されたのも、神とのつながりが濃かったからで はないだろうか。

2−2.注連縄

図64 注連縄(民家・神棚) 注連縄とは神社の建物の正面あるいは敷地の一角、 我々の生活空間では神棚に装飾してある太い縄のこ とであり、一般的には聖域を表す目印として知られ ている。歴史の中で最も古く登場する注連縄は、奈 良時代に完成した「古事記」や「日本書記」の中に 書かれた、天岩戸を封印したものである61。そこか ら注連縄が特別な区域を表し、現在においても我々 が注連縄の中には近づけないという気持ちを起こさ せるもとになったと考えられる。また太陽や農業が 登場するエピソードで注連縄が見られることから、 注連縄が日本の生産の中心であった農業に深く関わ りを持っているということが分かる。そして注連縄 は一年ごとに新しいものに取り替えられるという特 徴を持つ。この1 年というサイクルも自然を意識し て作られたと考えられる。 注連縄のそれぞれの部分は、縄・〆の子62・紙で63 の3つの部分に分けられ、縄が雲を、〆の子が雨を、 紙垂が雷を表している。このことから古くから農耕 を生活の糧としてきた日本人にとって、いかに自然 現象が重要だったかがうかがえる。つまり注連縄で 囲まれた空間は日常生活とは切り離された空間を示 唆する目印であると同時に、五穀豊穣を願う日本人 の信仰心の象徴でもあったことが分かる。 ところで聖域を表す目印が、なぜ近づき難いのだ ろうか。それは日本人にとって神がどのような存在 だったかを表していると考えられる。神道の神は自 然そのもので、日本人の農耕生活に大きな影響を与 えるものである。しかも感情を持っている(例えば 怒ると嵐になる等)ので、機嫌を損なわないように 注意しなければならなかった。そこで生活空間との 仕切りを作ることによって、一種の警告をするよう になり、時を重ねるごとに警告そのものではなく、

図 3  奈良  薬師寺金堂              図 4  長野  善光寺本堂
図 28  神明造  A−2.仏教伝来以後の様式  奈良時代の仏教伝来後に建てられた神社は仏寺のように屋根の反りが大きい。また土台を設けて縁側と手すり を取り付けた。さらに仏像をまねて神像という礼拝物を祭るようになった。平安時代に取り付けられた回廊や楼 門も仏教の影響である。  仏教伝来後の神社建築の変化は、外来のものに対する適応の仕方ではないだろうか。特に真っ直ぐだった屋根 流れが反ったことは、一つの考え方の変化(あるいは分化)と捉えられると仮定する。つまりものごとを緩やか に考える仕方が加わったのではな
図 46 フランス                  図 47 イタリア                                図 48 オーストリア  サン・セルナン                      サン・ピエトロ大聖堂                  ザンクト・カール・ボロメウス聖堂  図 49  イタリア  サンタ・              図 50 ドイツ                            図 51  シチリア  モンレアレ大聖堂  マリア・デッレ・グラーチ
図 57 イタリア  シエナ大聖堂        図 58 イタリア  ミラノ大聖堂                                  図 59 フランス    サンテティエンヌ  図 60 ドイツ                                図 61 フランス  アルビ大聖堂                                    図 62  イギリス  シュパイヤー大聖堂
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