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心理学におけるパラダイム転換と今日のヴィゴツキー研究

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(1)

今 日のヴ ィゴ ツキー研究

教育 ′い理学教室 取 憲 一 郎

KenichirO Takatori*:Paradignl transformations in psychology and present day's

Vygotskian research.∽ 夕物α′げ 肋ιЯ

,σ%秒

E″%何

肋η

,駒

カ万

br%力

ι

熔カ

〈巳航 εα″θ%α′St・″%じι〉,1985,27,263-275)

1.

は じbうに

チェコ出身の心理学者

MarkOvaは

,そ

の著書″Paradittns,Thought,and Langtlage(D″におい て

,今

日までの主要な心理学において支配的であつたデカル ト派パ ラダイムを廃 して

,ヘ

ーゲル派 パラダイムヘ と転換すべ きことを主張 している。それは

,人

間を思考者 として よ りも行為者 として とらえ

,思

考や意識 も力動的に とらえることへの転換の必要性 を説 いた ものである。 ところで

,Markovaの

この ような主張に呼応す るかのように

,近

,国

際的に もまたわが国にお いて も

,ヘ

ーゲルか ら多大な影響 を受 けたソビエ トの今世紀前半の心理学者 ヴィゴツキーが新たな 注 目を集めている。た とえば,米国では,WertSChゃ Coleを中心 とす るグループがヴィゴッキーの翻 訳 を世 に送 り出 しているし

?ヴ

ィゴツキー・レオ ンチ ェフ・ル リヤな どの理論 を中心 にして ソビエ ト 心理学の紹介や論評のための単行本の編集が 目につ く伊 また,ヨーロッパで もオランダの

Veerを

中 心 として

,ヨ

ーロッパの哲学的伝統 をぶ まえた上 でのヴィゴツキー研究

,あ

るいはヴィゴツキー学 とで も呼び うるような注 目すべ き研究動向が見受 けられる

Pさ

らに,わが国において も,認知心理学 者たちが

,上

に述べた米国の認知心理学者

(WertSCh,Coleな

)の

影響 を受 けて

,ヴ

イゴツキー の理論 をとり入れはじめている伊 ヴィゴッキーについて書 かれた ものを読めばわか るのだが

,ヴ

ィゴッキーは研究生活の初 めの こ ろは

,デ

カル トやスピノザを愛読 していたが,その後,´デカル ト派パ ラダイムにあきた らな くな り, ヘーゲルやマルクスの著作 に親 しむようになった と言われている。Markovとの主張す るデカル ト派 か らヘーゲル派へのパ ラダイム転換 は

,今

世紀初 めのヴィゴツキーの著作 の中にすでに明 らか に認 め られ るのである。それ を

,わ

れわれ は今 まで とりたてて気 にもとめなか ったのだが

,近

年 にな り 心理学研究者の意識の前面 にパ ラダイム転換の必要性が感 じられはじめて

,改

めてヴィゴツキーの 諸著作が見直 され ることになったのであろう。

(2)

高取憲一郎:心理学 におけるパ ラダイム転換 と今 日の ヴィゴツキー研究 ヴィゴッキー・ ルネ ッサ ンス とで も呼ぶべ きこの ような現象は

,ソ

ビエ トで も彼 の金集が出版 さ れた ことに も見 られるように

,彼

の母国 ソビエ トにおいて も起 ってはいるが

,単

にソビエ ト心理学 内部 における現象 とい うよ りも

,世

界的な心理学のあ り方その ものにも関わ るような底 の深い大 き な歴史の流れではないか と思われる。 そこで

,本

稿 では

,現

在の世界で最 も鋭 くヴィゴツキー理論の本質 をとらえ

,さ

らに積極的に展 開 している

2人

の若手 ブィゴツキー学者である

,オ

ラングのVeerと 米国のWertschの諸論文 を参考 にしなが ら

,ヴ

ィゴッキー理論 を心理学のパ ラダイム転換 ととらえた とき

,ど

の ような問題が解明 すべ きもの となって現われ るのか

,ま

たそれは哲学的思想 の流れか らみれば どのよ うに位置づ けら れるのか

,な

どを探 ってい くことにす る。 この ような作業 を通 じて

,わ

が国の心理学界 の一部 に見 られる心理学 とい う学問の商品化 (もちろん これは日本社会全体 に浸透 している商 品化 と無縁では ないが

)と

遊戯化か ら

,わ

ずかで も心理学 を学問の側へ

,科

学の側へ とひき寄せ ることに寄与で き れば幸である。 それではまず

,ヘ

ーゲルの思想がヴィゴツキーに どのような影響 を与 えているか

,

とい うことか ら議論 を始 めることに しよう。

2.ヴ

ィ ゴ ツキ ー にお け るヘ ー ゲ ル の 影 響 オラングの若手ブィゴツキー研究者であるVeerはヴィゴッキーの短 い研究生活 を4つの時期 に区 分 している伊第1期は,1917年から1924年にか けてで,この時期 には処女作である″芸術心理学″(1925) を世 に問 うた。 これは

,ロ

シアの言語学者ポテブニャの影響で言語の重要性 を習得 したヴィゴッキ ーがその成果 をまとめた ものであるが,こ の期 は

,言

語や文学の研究以外 にもデカル トやスピノザ, ドイツ古典哲学 とマル クスの諸著作 にも親 しんだ。第

2期

は,1924年か ら1927年であ り,″心理学の 危機の歴史的意味〃(1927)と いう注 目すべ き論文 を著 している。 さらに

,こ

の期 には

,精

神分析学 やピアジェ心理学

,ゲ

シタル ト心理学

,哲

学的教育学 な どの研究 も行 なっている。 ただ

,こ

こでは ゲシタル ト心理学 とヴィゴツキーの関係 についての最近の研究成果 についてふれてお きたい

pそ

れに よれば

,ゲ

シタル ト心理学者Koffkaは

,ル

リヤたちが1930年代 に中央 アジアのウズベ キスタンで行 なった有名 な調査 に参加 した とい うことであ り

,Koffkaゃ

Lewinと ヴィゴッキー

,ル

リヤの間 には データの交換 も実際に行なわれていた ということである。その後,よ うや く1930年代 の末 になって, ヴィゴツキーによ り文化―歴史理論が具体化 されるに及 んで

,ヴ

ィゴッキー学派 はゲ シタル ト心理 学の影響か ら解放 された という。第

3期

は1927年か ら1930/31年にか けてで

,こ

の期 は

,高

次心理 機能の発達の文化―歴史理論が提唱 された ことが特徴である。第4期は,1930/31年であ り

,ヴ

ィゴ ツキーの著作の中では最 も有名であ り

,ご

く最近 まで欧米 の心理学者にはヴィゴッキー といえば こ れ しか知 られていなか った ″思考 と言語″ に代表 される時期である。 この期は

,ヴ

ィゴッキーの研 究の流れか らみれば

,子

どもの言語行為および思考 における認識的要因か ら

,情

動的・ 動機づ け的 要因への転換,そして記号 その ものの研究か ら語の意義の研究への転換が図 られた時期である。

Veer

,以

上の4つの時期の うち

,従

来 ともすれば第

3期

,第

4期

に注 目されが ちであったが

,初

期の 第1期と第2期の重要性 をいささか も過少評価 してはな らない と考 えている。 そのわ けは

,

とくに この2つの時期 に発展 させ られ成熟 させ られた哲学的

,方

法論的見解のなか に重要 な ものが数多 く 含 まれると考 えるか らである。 ところで

,Veerは

ヴィゴッキー心理学の諸 カテゴ リーの源流が誰 にあるかを論 じている伊それに

(3)

よれば

,内

面化 はヘーゲル とジャネであ り,と くにヘーゲルのVerinnerlichungに ある。同様 に

,発

生的分析 はマル クス とブロンスキー

,記

号 はポテブニャ

,コ

ミュニケーション(交通)はヘーゲル, 心理機能の知性化 はスピノザ

,科

学的概念 と生活的概念ではヘーゲルである。 さらに

,ヴ

ィゴツキ ーの発達観

,な

かんず く最近接発達領域 とい う概念 は

,や

は リヘーゲルの教育論か ら影響 された も のであ り

,こ

れは

,ヴ

ィゴッキーがルソーの教育論 に対 して批判的であった ことと合わせ考 える と 興味深い。 このようにヴィゴツキー心理学の重要 な中核的諸 カテゴ リーの源流 をざっ と見渡 しただ けで も

,ヴ

ィゴツキーの初期2期における重要性

,

とりわけヘーゲルに対する依存度の大 きさが明 らかである。 Veeが 9はヴィゴッキーがデカル トか らヘーゲルやス ピノザの哲学へ転向 したのは,心理学 における デカル ト的パ ラダイムに満足で きなかったためである と指摘 しているが

,ヴ

ィゴツキーがヘーゲル やマル クス と同 じぐらい熱心 に研究の対象 とした哲学者 にスピノザがいる。 レヴイチ ンによれば '° ヴィゴツキーのスピノザ崇拝の強 さのために,多 大 な感化 を受 けて,ヴ ィゴツキーの妹 ジナイーダ・ セ ミョーノヴナは自分の専攻論文のテーマにスピノザ哲学 を選んだほ どであるとい う。 そこで

,Veerの

2つの論稿 を紹介 しなが ら

,ス

ピノザ とヴィゴツキーの関係

,お

よび

,ヘ

ーゲル か らともに影響 されたヴィゴツキー とミー ドの類似性 とい う問題 についてふれてお こう。わが国で はこの ような形のヴィゴツキー研究 とい うのは存在 しないので

,Veerの

分析 しているようなヴィゴ ツキーの知 られざる側面 については

,今

までわれわれ は無知であった。 それゆえに

,わ

れわれ に と って貴重な知識 を提供 して くれ るものである。 まず

,ス

ピノザ とヴィゴッキーの関係か らみてい こう!ゆVeerは

,ス

ピノザ もヴィゴツキー も知的

機能 (intellectual function)す なわち思考 (thinking)が 全人格 を制御す るという考 えを共有 して お り

,ま

た両者 とも

,知

性 による心理的過程 の制御 の拡大が人間が発達す ることであるとみな して いると述べている。すなわち

,ス

ピノザはその著 ″エチカ″のなかで

,感

情や熱情の奴隷 であ るよ うな人間を特 に斥 けている。スピノザは

,自

分 の情熱 を制御 し

,了

解 しうる人間精神 の能力のなか に

,こ

の制御が可能 になる方途 を見 い出そうとしている。 もし知性が

,感

情 に関する明晰で紛れ も ない知識 をもっていれば

,知

性 は感情 を制御す ることをしだいに学ぶであろう。最初 は漠然た る原 始的感情が

,つ

いには知性 により了解 され

,そ

の ようにして感情 は制御 され るようになる。言葉 の 狭い意味 において

,わ

れわれは

,わ

れわれの行 なっていることを理解す るかぎりにおいて行動す る のである。 同様の見解がヴィゴツキーにおいて もみ られ る。 もっとも

,ヴ

ィゴツキーは

,以

上の ような考 え をよ り心理学的に洗練 し

,感

情以外のあ らゆる心理過程 にも広げたわ けであるが。すなわち

,ヴ

ィ ゴツキーのいわゆる低次心理過程 と高次心理過程 の考 えがそれである。た とえば

,記

憶 は幼児では 偶然的印象 に依存する原始的で自然的な記憶であるが

,個

体発生の過程で思考

,

とりわけ言語行為 が発達す るに ともない

,記

憶 はしだいに構造化 され制御 されはじめる。いわゆる自然的記憶か ら論 理的記憶への発達である。記憶 を含 むあらゆる心理過程の知性化が

,言

語行為の発達 によって成 し 遂 げられるとす るこのヴィゴツキーの見解 は

,実

はヴィゴツキー理論 の批判点の1つになっている のだが

,そ

れについては後述することにす る。ス ピノザにおける知性が

,ヴ

ィゴッキーで は言語行 為 に置 き換 えられてい るのは容易 に見て とれる。 しか し

,実

はこの点 にこそ両者の差異があるので ある。スピノザでは感情 を理解す ることが

,感

情 を制御す るための十分条件であったが

,ヴ

ィゴツ キーの場合 は

,高

次の文化的感情 を発達 させ るものは言語行為であ り

,自

然的感情 を制御 す るの も 言語行為であ り

,さ

らに原始的な感情 を倫理的批判 へ と高 めるの も言語行為である。

(4)

高取憲一郎:心理学 におけるパ ラダイム転換 と今 回の ヴ ィゴツキー研究 以上の説明 は

,ス

ピノザがヴィゴッキーに与 えた影響 の 1つ である知性主義(intellectualism)に ついてであった。さて

,影

響の第2点は

,一

元論 あるいは決定論 とい うことである。スピノザ は〃エ チカ〃第

3部

の序言で次のように述べているより「感情 な らびに人間の生活法 について記述 した大抵 の人々 は

,共

通 した自然の法則 に従 う自然物 について論 じてい るのではな くて

,自

然の外 にある物 について論 じてい るように見 える。実に彼 らは自然の中の人間 を国家の中の国家のごとく考えてい るように思われ る。なぜな ら彼 らは

,人

間が自然の秩序 に従 うよ りもむ しろこれを乱 し

,ま

た人間 が自己の行動 に対 して絶対の能力 を有 して自分 自身以外の何 ものか らも決定 されない

,

と信 じてい るか らである。」このような,自然の一部 としての人間,自然の一部 としての心理過程 とい う理解 は, ザイデル も指摘す るように '° デカル ト問題 の解決 を準備 したわけであるが

,ヴ

ィゴッキーに対 して も大 きな影響 を与 えないわ けにはいかなかった。 ヴィゴッキーは

,ス

ピノザの一元論的見解 に触発 されて次のように述べてい る!°「弁証法的心理学 に とっては

,精

神 は,ス ピノザの表現 を用いれば, 自然以上の ものではない し

,あ

るいは国家の中の国家の ような もので もない。精神 は自然 その もの の一部であ り

,わ

れわれの脳 の機能すなわち高度 に組織 された物質 と直接結 びついている。すべて の自然 と同様 に

,精

神 は創 られたのではな くて

,発

達の過程 において進化 したのである。」 ただ

,こ

こで 1つ 付 け加 えてお きたいのは

,ヴ

ィゴッキーは研究生活の最後 まで

,低

次心理過程 と高次心理過程の区別 と連関の問題 では思い悩 んだ とされてお り,ブルシ リンスキーにいたっては, ヴィゴッキーは低次 と高次の心理過程 をあ まりに も厳 しく区分 しす ぎるとして

,ヴ

ィゴッキーを三 元論者 として批判 しているよ°実 は,この問題 は十分 に検討がカロえられ るべ き重要な論点 を含んでい るので

,節

を改 めて述べることとして

,こ

こでは

,ヴ

ィゴツキーがスピノザの一元論か ら影響 を受 けたことを確認す るに とどめてお く。 第3の影響 は

,知

的道具の使用 という点である。ス ピノザは,″知性改善論″において

,真

理 を明 示する方法が不可能な ことを主張す る懐疑論者たちを論駁 して

,次

のような議論 を展開す るよ°「 さ てどんな種類 の認識が我々に とって必要かを知 っての上 は

,我

々が認識すべ きものをこうした認識 によって認識 す る道すなわち方法が講ぜ られな くてはな らない。 これがなされ るためにまず注意す べきは

,

この際無限につづ く探究 はあ り得 ない ということである。すなわち

,真

理探究の最上の方 法を見出すためにはこの真理探究の方法 を探究す る他の方法が必要でな く

,ま

た第二の方法 を探究 するために他の第二の方法が必要ではない

,こ

のように して無限に進 む。実際 こうした仕方では, 我々は決 して真理の認識 に到達 しないであろう

,い

,お

よそ どんな認識 にだって到達 しないであ ろう。 この関係 は確かに物的道具 における関係 と同 じであって

,こ

の後者の場合同 じ工合 に議論が なされ得 る。すなわち

,鉄

を鍛 えるためにはハ ンマーが必要であ り

,ハ

ンマーを手 に入れ るために はそれを作 らねばならず

,そ

のためには他のハ ンマー と他の道具が必要であ り

,こ

れ を有するため にはまた他の道具 を要 し

,こ

のようにして無限に進 む。 しか しこうした仕方で

,人

間に鉄 を鍛 える 力がない ことを証明 しようとして も無駄であろう。事実

,人

間 は

,最

初 には生得の道具 を以て

,若

干の極 めて平易 な ものを

,骨

折 って且つ不完全 にではあったが作 ることが出来た。 そ してそれ を作 り上 げて後

,彼

らは他の比較的むずか しい ものを,上ヒ較的少 い骨折 りで比較的完全 に作 り上 げた。 こうして次第 に最 も簡単 な仕事か ら道具へ

,更

にこの道具か ら他の仕事 と道具へ進んで

,彼

らはつ いにあんなに多 くの且つあんなにむずか しいことを

,わ

ずかな骨折 りで成就 す るようになった。 そ れ と同様 に

,知

性 もまた生得の力 を以て

,自

らのために知的道具 を作 り

,こ

れか ら他の知的行動 を 果す新 しい力 を得

,さ

らに これ らの行動か ら新 しい道具すなわち一層探究 を進 める能力 を得

,こ

う して次第 に進 んでついには英知の最高峰に達す るようになるのである。J

(5)

この引用部分 は

,ブ

ィゴッキーの有名 なテーゼの うちの 1つ である

,人

間行動の基本的文化的形 態 としての道具 と記号 (言語

)の

使用 を思い出 させ る。 しか も

,そ

の発達 とい う視点 もすでにスピ ノザのなかに登場 している。 また

,こ

の部分 は

,第

2の影響 としてすでにふれた一元論 あるいは決 定論 とも関連 している。ザイデルが,この箇所 の説明 として述べているように 'の 感性的一対象的活 動における道具の発達

,な

らびに思考における知的道具の発達 は

,一

個同一の思考す る物体 の

,一

個同一の自然の二つの作用様式であ り

,ス

ピノザにおいては思考が独立 した実体 としてではな く, 自然つまり実体 の属性 として とらえられていた ことの現われであ り

,

まさしくここにこそデカル ト 問題の解決が存 していたか らである。 以上見て きた ように

,ス

ピノザはヴィゴツキーの理論形成 にわれわれが想像 していた以上 に深 く 浸透 していた ことが明 らかである。 この点 を鋭 く分析 したVeerの 功績 は大 きい。 次 に,ブィゴツキー とミー ドの類似性へ と話 を移 そう!° ヴィゴツキー もミー ドもともに社会的相 互作用か ら精神の発生 をとらえる点で

,き

わめて類似 しているわけだが

,Veerに

よれば

,彼

ら2人 ともデカル ト哲学の二元論 に反発 してヘーゲル哲学へ転向 した ということで

,こ

の点で も同様の軌 跡一― デカル トか らヘーゲルヘのパ ラダイム転換―― を描 いている。 もっとも

,ヴ

ィゴツキーの場 合には

,ヘ

ーゲルに加 えてス ピノザ

,さ

らにマル クス

,エ

ンゲルスの弁証法的唯物論 に媒介 され て いるし,ミ ー ドの場合 には

,ヘ

ーゲルに加 えてジェームズ

,デ

ューイなどのプラグマテ ィズムに媒 介 され ていることは周知の とお りである。 さて

,そ

れでは両者の類似性 について具体的 にみていこう。 ミー ドの ″精神・ 自我・ 社会″の中 の以下のような一節

,す

なわち「ヴン トが した ように

,ま

ず精神の存在 を前提 とす るな らば

,精

神 の起源や精神間相互作用 は神秘的な ものになって しまう。 しか し逆 に

,社

会的な経験過程が精神の 存在 よ り以前 にあると考 え

,精

神 の起源 を社会的過程 にお ける個人間の相互作用か ら説明す るなら ば

,精

神の起源 も精神間相互作用 も神秘的で不可思議な ものではな くなる。精神 は

,社

会的過程 あ るいは経験の文脈 における身ぶ りの会話 によるコ ミュニケーションを通 じて発生す るのであ り

,コ

ミュニケーションが精神 を通 じて発生す るのではないよ〕とい う部分が

,ヴ

ィゴツキーの精神間機合と か ら精神内機能への発達

,す

なわち社会的平面か ら心理的平面への移行 という見解 と一致 している ことを見て とるのは容易であるし

,常

識的である。 ところが

,Veerは

そこで分析 を とどめないで さ らに進んでい く。 それ は

,コ

ミュニケー ションにおける語の意義の問題 に関わ る重要な提起 を含 ん でいる。 すなわち

,上

述 した類似点 とも半ぼ以上重複するのだが

,Veerに

よれば,ミ ー ドは精神の起源の 問題について`声身ぶ り″(VOCal gesturs)という概念を提出しているV°それによれば

,子

どもは絶 えず身ぶ りを産出し

,そ

うすることにより周囲の大人を刺激 している。大人はこの身ぶ りを身ぶ り として解釈 し

,適

宜それに対 して働 きかえす。子 どもの発達のある時点で

,子

どもは自分の身ぶ り が意味をもっていることを理解す る。そうすれば身ぶ りは子 ども自身にとって意味 をもつことにな る。 これ と同様の場面が

,ヴ

ィゴツキーにおいて も「高次精神機能の社会的発生」 として指示身ぶ り を例 として描かれている子ゆヴィゴツキーは,この箇所 を

,子

どもの文化的発達の3つの基本的段階 と呼んで

,ヘ

ーゲルの行なった分析 を利用す るな らば として次のように述べている。簡略化するた めに

,要

約 して記す ことにす る。指示身ぶ りの発達 には

3段

階ある。第

1段

階 は

,子

どもは何か を 把握 しようとして手 を空中にさし出すが失敗す る。第

2段

階は

,第

1段

階のさし出 された手の状 態 を母親が解釈 して子 どもを助 けてやることか らくる状況の本質的変化である。子 どもの把握動作 の

(6)

554

高取憲一郎 :心 理学 におけるパ ラダイム転換 と今 日のヴィゴツキー研究 失敗 は

,動

作の対象か らは何の反応 もひき起 さなか ったのに

,母

親 という他人 か ら反応があったわ けである。つまり

,母

親 は子 どもの運動 を指示 として意味づけたのであ り

,そ

の場 の状況の中に他 人 によ り初 めて意味が もちこまれたのである。 ここではぅ指示身ぶ りは他人のための身ぶ りにな っ ている。第

3段

階は

,子

ども自身が自分の身ぶ りを指示 として とりあつかいは じめる段階である。す なわち

,自

分の身ぶ りの意味 を理解す る段階である。要するに

,初

めは他人 のために存在 した意味 が自分 自身のために存在 するようになった

,す

なわち

,他

人 を介 して自分 自身の意味 になったわ け である。 この箇所 は

,

ミー ドのすでに述べた部分 との類似性 のゆえに重要なばか りではな く

,そ

の中でヴ ィゴツキーが前言語的段階 における大人 と子 どもの相互作用 を扱 っているとい う点 において も検討 の価値がある。 というのは

,ヴ

ィゴ ツキー理論 に対す る批判の 1つ に

,ヴ

ィゴツキーは社会的相互 作用 を言語行為 を伴 な うもののみに限定 しているとい うものがあ り砕 それに対する反論 にもなるか らである。ヴィゴッキー自身 は

,指

示身ぶ りは子 どもの言語発達 において きわめて重要な役割 を演 じ

,行

動のあ らゆる高次の形態の非常 に古い期礎であると述べて

,指

示身ぶ りと言語発達の連関 を 主張 し

,さ

らに

,上

に述べた子 どもの文化的発達の3つの基本的形態 を言語行為の発達の3つの基 本的形態 と同一な もの とみなしている。すなわち,「まず最初,語は,意味 を もたなければな らない。 すなわち

,事

物 との関係 をもち

,語

とそれが意味す るもの とのあいだに客観的関連 ができねばなら ない。 それがなければ

,語

のそれ以上の発達 は不可能である。その後

,こ

の語 と事物 とのあいだの 客観的結合 は

,大

人 によって子 どもとのコ ミュニケー ションの手段 として機能的に利用 されねばな らない。 その後でのみ

,語

は子 ども自身に とって も意味 をもった もの となる。語の意義 は

,こ

のよ うにして はじめは他人 に とって客観的に存在するものであ り

,そ

と後子 ども自身 に とって も存在 し はじめるのである。大人 と子 どもとの言語的 コ ミュニケーションのあらゆる基本的形態は

,後

にな つて精神 的機能 となる脅)こ の箇所の語 を,先に述べた指示身ぶ りと置 き換 えれば,語と事物 (すな わち語の意味す るもの

)と

意義 の3つの構造 と同様の構造が

,指

示身ぶ りと事物 (すなわち指示身 ぶ り動作 が把握 しようとした対象

)と

意味の間の構造 として見 い出される。 以上のように

,大

人 と子 どものあいだに とり行 なわれ る社会的相互作用 による高次精神機能の社 会的発生のメカニズムを解 く鍵概念 を

,語

の意義の獲得 に求めたのは

,Veerの

卓越 した洞察力のた まものであるが,Wertschもさすが にここに着 目していな舒)Wertschに よれば,大人 と子 どもの相互 作用のなかで子 どもが学習するものは語の意義(word meaning)で ある。子 どもを とりま く社会環 境 とは

,体

系的な意義のシステムか ら成 る言語共同体 (speech community)でぁ り

,語

の意義 はこ のような共同体 において存在 している。 さらに

,語

の意義の学習は

,レ

オ ンチェフの言 うところの 内的平面の形成 を意味 している。また,Wertschは ,マ ルクスの資本論の方法 とヴィゴツキーの方法 の類似性 を探究す るときの鍵 は語の意義 にあるという注 目すべ き論点 を提出 しているがγDこの問題

,研

究の分析単位の問題

,さ

らには活動 と交通の問題 にも関連 をもって くる重要な論点なので, 後 ほど検討 を加 えよう。 さて

,以

上少 し長 く述べて きたように

,

ミー ドとヴィゴッキーの間 には大 きな類似性が見 られる のであるが

,こ

れは

,両

者が ともにヘーゲルの哲学

,

とりわけ ″精神現象学″か ら大 きな影響 を受 けているためだ とVeerは述べている。Veerに よれば

,ヘ

ーゲル ″精神現象学″では

,対

人間相互作 用のない ところでは自己 も自己意識 もない とい う考 え方が主張 されているし

,ま

たヘーゲル に とっ ては

,自

己は決 して直接的に与 えられた ものではな くて

,社

会的につ くり出 された ものである。 ミー ドとヴィゴッキーは

,

ともに直接的にヘーゲルか ら影響 されている面 と

,

ミー ドの場合 はプ

(7)

ラグマティズム

,ヴ

ィゴツキーの場合 はマル クス主義 の屈折 を経たヘーゲルか ら影響 を受 けている 面の両面 を合わせ もっているのが特徴であると

,Veerは

結論づけている。 これ までの ところで

,ヴ

ィゴツキーヘのヘーゲルの影響 については十分認識 していただ けた と思 う。 そこで

,次

に節 を改 めて

,今

日のヴィ.ゴツキー研究の動向のなかか ら問題 となっている論点 を とり出 し検討 を加 えてみよう。

3.ヴ

ィゴツキー研究における論点

この節は

,オ

ラングのVeerと 米国のWertschの所説 をとりあげて

,現

在彼 ら

2人

が何 をその問題 意識 としているか をみてい くことにする。彼 らは

2人

とも30才代 の若手 ヴィゴツキー研究者 であ り, その旺盛 な研究活動 と鋭い研究対象への切 り込 み方 という点 において

,今

日世界で最 も優 れたヴィ ゴツキー学者であると思われるか らである。 Veerは

,ヴ

ィゴツキー理論 に向けられた批判 として

,①

経験論

,②

観 念論

,③

折衷主義 の

3点

を あげ

,①

と③ は根拠薄弱であるが

,②

は将来の検討課題であると述べているV° それ はどういうこと か とい うと

,観

念論であると批判する人たちはヴィゴ ツキーの記号の理論 はレーエ ンの反映論

,す

なわち

,思

考 を高度 に発達 した物質の産物 とみな し

,思

考 と物質 は切 り離す ことがで きない とした 理論 と矛盾す ると考 えるのである。周知のように

,ヴ

ィゴツキーによれば

,社

会的相互作用(交通) の過程 において記号 (語の意義

)は

大人か ら子 どもへ と伝達 され る。 しか し問題 は

,い

かにして こ れ らの記号が物質 に関係するか

,物

質 を反映す るかが明 らかではない。 さらに

,も

し文化が記号 を 介 して大人か ら子 どもへ と伝 えられるとす るな らば

,精

神の発達の起源 は主体一客体 の相互作用の 結果 というよ りも主体―主体の相互作用の結果 とみなされ る。″思考 と言語″の初版 の編者 コルバ ノ フスキー も

,序

文ですでにこの ことを指摘 している。すなわち

,彼

によれば

,ヴ

ィゴツキー理論 に おける記号 は労働 や実践的活動 と結びついていない

,

と。以上がヴィゴツキーを観念論 とみなす論 調である。また

,Veerは

他の論文で甲 ヴィゴツキー理論 がスター リン時代 に抑圧 されたの は,以 上 見て きたように記号 (語の意義

)と

物質の結 びつ きが不明であ り

,子

どもの発達が物質世界 とは無 関係 に

,大

人 と子 どもの間の社会的相互作用の結果 とみなされた こと

,そ

のためにヴィゴツキーの 主体―主体 アプローチは観念論だ とみなされたためであると述べている。Veer自 身 は

,そ

の ような 批判 か らヴィゴツキー理論 を擁護す ることは可含ヒだ と考 えているが

,彼

によれば

,ヴ

ィゴツキーの 弟子たちは擁護す るかわ りに

,ヴ

イゴツキー理論の誤 りを批判するという立場 をとった。 それが レ オンチ ェフを代表 とするハ リコフ学派の活動理論であった。 さて

,レ

オ ンチェフのヴィゴツキー批判 は ″活動・意識 。人格″の中で激 しく行なわれているが, もう少 し後で くわ しく検討することにして

,ヴ

ィゴツキー理論 に対する別の批判点 をみてみ よう。 Veerと IJzend00rnは,ヴィゴツキーが高次心理過程 と低次心理過程 とを区別 した ことに対 して厳 しく批判 しているY° ヴィゴツキーによれば

,高

次心理過程 とは

,た

とえば

,論

理的記憶

,創

造的イ マジネーション

,言

語的思考

,意

志 による行為 の制御 な どの

,い

わゆる文化的・能動的過程 であ り, 低次心理過程 とは

,た

とえば

,直

接的知覚

,不

随意 的記憶

,前

言語的思考な どの

,い

わゆる自然的・ 受動的過程 である

?9そ

して

,前

者の高次心理過程 は記号 によ り媒介 されてお り,そ の起源 は社会的 である。すなわち

,大

人 と子 どもの社会的相互作用の結果であ り

,言

語行為が関与 しているかいな いかが

,両

者 を分 ける決定的な分水嶺である。 このヴィゴツキーの見解 に対 して

,Veerた

ちは次の ように批半Jする。すなわち

,ヴ

ィゴツキーは

(8)

高取憲―郎 :心 理学におけるパラダイム転換 と今 日のブィゴツキー研究 精神発達 における文化の影響 は

,社

会的相互作用のみによって与 えられ ると考 えているが

,そ

うで はな くて

,子

どもが周囲の事物 ととりかわすモノ と子 どもの間の能動的相互作用 も忘れて はいけな い。 この相互作用 を通 じて

,子

どもは環境 に関す る知識 を獲得 し

,そ

れによって心理過程 (と くに ヴィゴツキーのいわゆる自然的過程

)が

発達 させ られ るのだか らである。 さらに

,Veerた

ちは

,ソ

ビエ トの心理学者たちか らも次のような

3点

にわたる批判が

,こ

の点 に 関 して行 なわれていると述べている。それは

,ま

ず第 1に

,ハ

リコフ学派 (レオンチェフ

,ザ

ポロ ジェッッ

,ボ

ジョヴィッチ

,ガ

リペ リン

,ジ

ンチェンコな ど)の行 なった もので

,ヴ

ィゴツキーは, 低次心理過程 を自然的 とか受動的 とみなしたが

,そ

れ は実 は誤 りで

,た

とえば知覚 も知覚的行為 と して とらえられねばならない例 にみられ るように,合ヒ動的な ものである。第 2に

,ヴ

ィゴツキーは 社会 的相互作用 を言語行為 に媒介 されるもののみに限定 してお り

,内

面化が開始 され る以前の社会 的相互作用 (たとえば

,ブ

ラジル トンとかブーロワな どの研究 している前言語的段階の社会的相互 作用 など

)を

無視 している。 この点 も

,ヴ

ィゴッキーが

,言

語行為の要素の入 っていない心理過程 は自然的で生物学的であるとす る見解 に由来 している。第3に

,以

上 みてきたように

,低

次 と高次 を厳 然 と区分することは

,新

たな二元論 をもちこむ可能性がある。 もちろん,ブィゴツキー自身 は, 本稿の第

2節

においてすでに述べたように

,二

元論 には反対 しているわ けだが

,ブ

ル シ リンスキー の手にかかれば

,ヴ

ィゴツキーは二元論者 にされて しまうのである。 このように

,ヴ

ィゴ ッキーは精神の発生 と発達 における言語行為の役割 を強調 したのに対 して, 彼の弟子たちは

,言

語行為 に代 えて活動の役割 を前面 に出す ことによ り

,1930年

代 にヴィゴツキー 理論が観念論 と批判 された事態 を避 けた,とVeerた ちは考 えている。さらに

,Veerた

ちは

,ヴ

ィゴ ツキーの精神発達への主体―主体相互作用アプローチは

,主

体―客体 アプローチを無視 ないし弱 め るということにより

,マ

ルクス とエ ンゲルスの見解 に反す ると述べてい る。 以上の ような論義 には,Veerの共同研究者であるIJZendoornの 意見が影響 していると思われ る。 というのは

, IJzendOOrnは

現在 はVeerと同 じ オラングのライデン大学の教授 であるが

,

出身 は

Holzkampの

主宰するベル リン 自由大学であり

,

レオンチェフ理論 に依拠するCritical Psychology (Bёrlin school)の陣営 に属す るか らである。 そこで

,レ

オンチェフのヴィゴツキー批半」を検討 してお くことが

,実

はVeerと IJzendoornの ヴィ ゴツキー批判の核心を解 く鍵で もあるし

,ま

た最初 にふれたヴィゴツキー理論 は観念論であるとす る説の根拠 を明 らかにす ることに もつながるのである。 レオンチェフは,″活動・意識・人格″の第

3章

においてヴィゴッキー批判 を展開 しているが

,そ

の少 し前の部分 ではル ビンシュテイン批判 を行 なっている。 レオンチェフの活動理論か らみれば, ブィゴツキー もル ビンシュテインも同様 の欠陥

,す

なわち活動の概念 によって理論全体が一貫 して 統一的に とらえられていない という欠陥 をもっている とされ るわ けであるが

,ま

ずル ビンシュテイ ン批判の部分 にふれてお こうS° ル ビンシュテインは

,実

践的活動 は心理学の研究対象であるが,それは実践的活動が感覚

,知

覚, 思考な ど要す るに主体 の内的な心理過程

,心

理状態 とい う形 をもった独 自な内容 として心理学の研 究対象 となるにす ぎない と主張す るが

,レ

オンチェフによれば

,そ

れは一面的な考 え方である

,

と され る。なぜな らば

,ル

ビンシュテインの見解では

,主

体 のあ らゆる内的な心理過程 の内容や成立 の経過 に活動が関与 している とい う根本的な事実が捨象 されているか らである。つまり

,内

的な心 理過程 を研究 しようとすれば

,そ

の内的過程 を生 み出 した外的な対象的活動 を研究せ ざるをえない のであ り

,研

究対象に含めざるをえないのである。 ここで レオ ンチェフが述べていることは

,要

(9)

るに

,外

的活動 も内的活動 もともに心理学の研究対象であるべ きであつて

,た

とえば内的心理過程 を含むかぎ りでの外的対象的活動のみを研究対象にすべ きであるとか

,あ

るいは心理学研究 は外的 活動 その ものの研究 にまで手 をのばさな くともよい とか とす る見解 は誤 りであるということである。 なぜならば

,活

動 は

,対

象的現実の中に主公 を置 き

,こ

の現実 を主観性 とい う形 に変換す るという 機能 をもっているがゆえに

,活

動 (内外 を区別 しない)ん ゞ′い理学の対象 になるか らである。 次にヴィゴツキー批判 をみてみよう伊

Dレ

オンチェフは当然の ことなが ら,ヴィゴツキーの語の意 義 についての まさにヴィゴツキー理論の中核 にメスを入れ る。レオ ンチ ェフによれば

,語

の意義 と いうのは活動の中の一部 を切 り取 つているだけにすぎず

,意

義の研究 をすすめていつて も

,た

とえ ば思考過程 についてはなるほ ど少 しは解明で きるか もしれないが

,思

考過程のすべてにわたつて解 明がすすむ とは考 えられない。思考過程 といえども意義 を媒介 に して解明で きるよ りもはるかに広 大な内容 を有す るものであ り

,ヴ

ィゴツキー も″思考 と言語″の中で認めているように

,意

義のみ に頼 つていては動機づ けの側面

,情

―意領域 までカバーで きない。 そ こで

,も

う一度問題 をひっ く り返 さねばならない。すなわち

,対

象的活動 というカテゴ リーに回帰 し

,こ

のカテゴ リーを内的な 過程,つ まり意識の過程 にまで押 し広げなければならない。Zinchenkoの 表現 を借 りれば,意義 は精 神の分析単位 にはな らない。道具 に媒介 された行為(tOO卜mediated action)こ そが精神の分析単位

になるのであるより 初めに述べたル ビンシュテイン批判 と同様 に

,レ

オ ンチェフの考 えは外的活動 と内的活動 は共通 な活動であ り

,意

義 も活動の一部 として考 えられなければならず

,意

義だけの突出は誤 りであると いうことである。 レオ ンチェフにおいては

,内

的活動 は外的活動か ら生 まれた ものであって

,両

活 動は原則的に結 びついてお り

,相

互移行的関係 にあるのである。要す るに

,従

来のデカル トーロッ ク主義的分割法であるところの

,外

的・ 肉体的活動の属す る外的世界 と内的・ 心理的世界 という図 式は

,対

象的実在 とその観念化 され転化 した形態 と主体 の活動 (内的

,外

的活動の双方 を含む

)と

いう分割法 に席 をゆず らねばな らない。 以上見て きた ように、Veerた ちの批半」点 はレオンチェフにその理論的背景 をもちなが らも

,ヴ

ィ ゴツキー理論 における言語行為至上主義 をついた ものであ り

,ひ

と言でいえば

,社

会的相互作用か ら活動への重心移行 によ リヴィゴツキーの欠陥,すなわち観念論的側面 を補お うとす るものである。 一方,Wertschは これ とはまった く対照的に,ヴィゴツキーの本質的部分 である社会的相互作用 と 語の意義の理論 を積極的に押 し広げようとす る。Wertschが,語の意義 にヴィゴツキー理論 とマルク スの資本論 の方法論的類似性 を解 く鍵 を見 い出 し,ま さにZinchenkoのいうところの分析単位 として

意義を重視していることはすでにふれた。さらに別の論文においても

'9 WertSChは

分析単位として言

語 的 コ ミュニ ケー シ ョン (linguiStic communication)を あげて い る。 そ こで は

,行

為 (actiOn)を

分析する3つ のレベル として①個人的レベル

,②

微社会学的レベル

,③

巨社会学的レベルの

3水

準 を設定して,これら

3水

準を統合するものとして言語的コミュニケーションを考えているS°このWertsch の構想はまだ素描的なものにすぎず今後の展開が待たれるが,いずれにしてもWertschの 場合は,言 語的コミュニケーション

,言

語行為

,語

の意義 といった

,す

でにみてきたように

,ヴ

ィゴツキーが 観念論であるとして批判 されている部分を突出させて今後の研究構想 を思い描いているのである。 4。 今 後 の問題 さて

,前

節の議論をひと言でまとめてしまえば

,活

動 と交通をめ ぐる問題 として一括 されるよう

(10)

高取憲一郎:心理学 にお けるパ ラダイム転換 と今 日の ブィゴツキー研究 に思われ る。かつて筆者 は

,ソ

ビエ トで行なわれたレオンチェフとロモフを中心 とする活動 と交通 論争 について紹介 した ことがあるよ° しか し,本稿の文脈のなかで新 たな視点か らあの論争 をながめ てみれば

,レ

オ ンチェフ理論 に対す るヴィゴッキー理論の側か らの批半」であ り

,そ

れに対 するレオ ンチェフ側 か らの反批判であった と位置づけられるように思われる。 ところで

,か

の論争 は明確な決着のつかぬ うちになん とな く立ち消 えになって しまった感がある が

,わ

れわれ としては少な くとも前節で問題 にされた論点 についてだけはなん らかの方向性 を示 し てお きたい ものである。 その糸 口を

,わ

が国の哲学者たちの最近の研究 に探 ってみることにする。 言語哲学者尾関周二 は,″言語 と人間″の中でわれわれが ここで必要 とす る議論 の材料 を与 えて く れているよ

0尾

関 によれば

,語

の意味(われわれの用語では語の意義)は

,反

映論 とコ ミュニケー シ ョン論の両方の観点か ら統合的 につかわれるべ きであるという。すなわち

,指

示身ぶ りを発生的背 景にもつ対象指示機能 と

,相

互的身ぶ りを発生的背景 にもつ社会的規範機能・ 調整機能の両者が統 合 された ところに語の意味が生 まれ るとされ る。われわれの これ まで して きた議論 にひ きつけて考 えると

,論

の意義 とい うのは

,単

にコミュニケー ション過程のみに関与 しているのではな く

,モ

ノ を反映す る対象指示機能 も合わせ もっているのである。その点で

,記

号 (語の意義

)は

モノ と結 び ついていない とい うすでに紹介 した批半Jは当 らないであろう。 さらに尾関の議論 を追 ってみよう。尾関 は

,労

働 と言語的 コ ミュニケーシ ョンの関係 については 次のように考 えている。「われわれの見地か らす ると

,一

方でプラグマテ ィズムを哲学的背景 にもつ コミュニケーション論者の多 くは

,社

会生活の全体 的理解のためにはあ まりに 〈労働〉 を軽視・無 視 しているように思われ るし

,他

方で

,従

来のマル クス主義の通念 は

,逆

にくコミュニケー ション〉 を軽視 。無視 しているように思われるのである。 しか も

,後

者 にかん して問題 なの は

,

しばしば労 働が人間 にとって重要 な意義 をもつ とい う当然の確認 をテコに

,あ

らゆる人間活動 を労働活動の構 造 をモデルにして理解 しうるかのような論調が これ まで多 く見受 けられることであろう。子の さらに

,労

働 と言語的 コミュニケー ションの差異 として,(1)道具 は操作主体 に とって外的存在で あるのに対 して

,言

語記号 は内的存在であること,(動労働の場合 は

,人

間の側か らの労働対象への 働 きかけはつねに自然科学的意味での因果関係 という性格 をもつのに対 して

,言

語的 コ ミュニケー ションの場合 は

,話

し手か ら聞 き手への働 きか けは決 して対象の法貝U的因果 を認識 し

,そ

れ をふ ま えた上での働 きか けではない, とい うことが指摘 されている。 以上の ことか ら尾関 は

,労

働 は 〈共同化〉を ともな う〈対象化活動〉であ り

,言

語的 コ ミュニケー ションは 〈対象化〉 を ともなう 〈共同化活動 〉であるとす る。そして

,両

者 をこのように理解す る ことにより

,お

のおのはその独 自性 をもちつつ も

,ま

た不可分 に内的な仕方で運関 してい ると考 え るのである。 このように見 て くると

,前

節のVeerや

Wertsch,さ

らにはレオンチェフな どの見解 は

,い

ずれ も 労働 とコミュニケーション (交通

)の

一面的な理解か ら生ずる一面的な見解であるというそしりは まぬがれない。ただ

,第

2節

で引用 したヴィゴッキーの指示身ぶ りに関す る記述の部分 は

,尾

関の 言 う労働 とコミュニケーションの統合 とい う視点か らみて も

,再

度検討 を要す ると思われ る。 とい うのは

,モ

ノを指示する運動 (指示身ぶ り

)に

対 して

,他

人 との相互作用のなかで他人か ら意味が 与 えられるとブィゴツキーは述べ るわけだが

,そ

こには

,大

人 と子 どもとの コ ミュニケー ションば か りではな く

,指

示身ぶ りというモノを指向す る

,す

なわち反映す る活動 も当初 か ら存在 している ことが明 らかに語 られているか らである。ヴィゴッキーの考 える社会的相互作用は

,主

体―主体 の 関係 だけではな く

,主

体一客体の関係 も初 めか ら含 んでいるのである。 また

,こ

の点で は

,Veerが

(11)

ヴィゴッキーの最近接発達領域 を説明す るときの記述の中にも同様の見解が認められる働 すなわち, Veerに よれば

,最

近接発達領域 とは

,大

人 と子 どもの社会的相互作用のなかで

,子

どもの もつ生活 概念が大人の もつ科学的概念 によって変形 され

,よ

り高次の水準 にひき上 げられ ることである。一 般的に

,大

人 と子 どもの相互作用においては

,子

どもとモノの関係 により獲得 された生活概念 と子 どもと大人の関係 によ り獲得 された科学的概念が織 り合わ されている。このようにVeer自 身 もヴィ ゴツキーの社会的相互作用 を主体―主体関係 と主体―客体関係の両者が織 り合わされた構造 として とらえているのである。 以上述べて きた ことか ら考 えて も

,私

見 によれば

,ヴ

ィゴッキー理論 においては

,

もともと労働 とコ ミュ■ケー ション (交通

)が

統合的に とらえられてお り

,ま

た語の意義 にして も反映論 とコ ミ ュニケーション論の視点が統合 されていると思 うのである。 いずれにして も

,心

理学 におけるパ ラバイム転換 を関題 にす るとき

,わ

れわれはヴィゴツキーを 徹底的に研究 し

,彼

の提起 した古 くて新 しい問題 を現在の地点か ら再検討することが必要 になって きている。それ は

,ヴ

ィゴツキーにおいて

,デ

カル ト的パ ラダイムか らヘーゲル的パ ラダイムヘの 転換が行なわれた とい う理由ばか りではな く

,ヴ

ィゴツキー自身の夭逝のために完全 には行 なわれ なかった と思われるヘーゲル的パ ラダイムか らマル クス的パ ラダイムヘの転換が ヴィゴツキーにお いて生 じていたか らである9 江

Markova,I,ュ 物タプをηtt T肋軽免ち,″ブ カηど酔鱈らChichester,JOhn Wiley&Sons,1982

たとえば, Vygotsky,L S,,ν物ブカ sοσカゥ ∫ T/9♂ 力υ9ιψη¢″サゲ カをル″タッε力ο10gicα′´℃θPSSG

Cambridge: Harvard University press, 1978

たとえtゴ, Wertsch,J Vi(ed),勁 ¢θοη俣抄ナリr,♂チヵゲ妙 ヵsοク″チ´Sycttο′9=)ち New York:Sharpe,1981

また,1980年シカゴで開催されたブィゴッキーに関するシンポジウムをもとにしたWertsch,」

,V(ed.),効

θO%η%珍″蒻 σαチカ η,,ηグ じ9酔ゲ万οη 手 レ3ζOサSカカ η ル/弓ク♂εチ

9S,New YOrk:Cambridge Vniversity Press,1985, Veer,R van der,C″カクク/¢″θ9とw力″ ∫Dι 励¢ο陶¢υク″晩 9チ S力琺 ヽV01ters―NOOrdhoff Groningen,1984

1JZendoor■,M.H van,Veer,R van der,オイαテ″θ%″ %?ηんQ′ θ力″♂,′´ッ肋ο,09:VygOtskij,HOlzkamp,

Riegel,New YOrk:Irvington,1984,

た とえば,波多野誼余夫(編),認知心理学講座

4,学

習 と発達,東京大学出版会

,1982

所収 の稲垣佳世子

論文,三宅なほみ論文,また,天岩静子 (編)ピアジェ派心理学の発展 Ⅱ,国土社

,1982

所収 の佐伯畔論

文 な どを参照。

Veer, R van der, Ecarly periOds in the 、vork Of L S Vygotskij : the influence of Spinoza, In M.

Hedegaard,P Hakkarainen&Y Engestrttm(eds)L♂ ,々万,9F,ηブカα肋ゲηg ο″,s♂″″チ″♂う盗ぬAarhusi

PsykO10gisk lnstitut,1984お よびIJZendOorn, I H van,Veer,R van der(1984)

Scheerer,E Gestalt psychology in the Soviet Union I The period of enthusiasm ρψ力ο乃節骸′だ盗9,「れ,

1980,41,113-132 Scheerer,E.Lu a memorial issue(edttoriaり,Ps7励ο〕ο」cα′P盗¢απ力,1980,41,101 --102

(6)に同 じ

Veer,R.van der,Similarities betM′ een the theories of G H Mead and L.S Vygotskij:an explanationP

Lezing gehouden op de Third Annual h/1ceting of Cheiron EurOpe,Rome,September 1984

レブイチ ン,ブィゴ ッキー学派:ソビエ ト心理学 の成立 と発展,モス クワ,プログレス出版所,1984。 (6)│こ同 じ ス ピノザ,エチカ (上),出波文庫,165頁。 ⑪ ⑬   硼 側 ⑫

(12)

560

、 高取憲一郎:心理学 におけるパ ラダイム転換 と今 日の ヴィゴツキー研究

CD ザイデル,マルクス主義 とスピノザ主義,唯物論, 8号 ,1977,157買。

tゆ ブィゴッキー

,全

集I,モスクワ:ペダゴギカ,1982,187頁。(露語)

(10(4)のIJzendoorn,Veer(1984)お よびVeer,R,van der,&I」 zendoorn,M.H.van,Vygotsk筍 's theOry Of the

higher pvchological processes i some criticisms,Pr2ηαη五ルク,9ク物¢″ち1985,28,1-9,

10

スピノザ,知性改善論,岩波文庫,28-29買。 こり 10に 同 じ

10(9)に 同 じ

(10 Mead,G H M携琥sワア α″″Sο♂″ウ,ChiCago:University of Cllicago Press,1934,p 50,

90 Mead,GHTル

クカわM少力 9ア ″ι´/2S♂″ちChiCago:University of chicago Press.1980,お よびa修

勿″ゲυ″″α′,″ブ肋♂sοじ力′s?ヶ Chicago:University of Chicago Press,1982.

90

ブィゴツキー,柴田義松 (訳),精神発達の理論,明治図書,1970,210-212頁。

9)19のVeer&IJzendoorn(1985)お よび(4)のIJzendOOm,Veer(1984)。

909つのブィゴツキー (1970),212買 。ただし訳文は一部変更 した。

120 WertSCh,J V.&Stone,C.A,The concept of internalization in Vygotsky's account of the genesis of higher mental ftlnctions,InJ Vヽ VertSCh(ed)C″ ′″牝 ω″物″″ゲιαチわη,,%〃 θ岬 ,"ο″ ∫レ3gοチSカカ%

夕¢夕もψ♂じサカ♂与New York:Combridge University Press,1985,pp.162-179, 1251 WertSCh,J V Introduction,In J,V Wertsch(ed)1985,pp l― -18

120 Veer,R van der,In defence of VygOtskij:an analysis of the arguments that led to the condemnation

of the cultural―historical theory, Paper presented at the second Cheiron Europe conference on the

history of the social and the behavioral sciences, Heidelberg,septelmber 1983

1271 Veer,R van der,Vygotskij and activity theory,Liden, april 1985

90 10のVeer&IJzendoOrn(1985)

90 東独のKl もブィゴツキーの低次,高次心理過程に対応すべ き2種 の学習タイプを分類 している。Kl ,F,

Are learning processes evolutionary invariantP An unproved assumption in psychology of learning

re sited,ZPッ θ力ο′,1982,190,4,381-391

00

レオンチェフ,活動 と意識 と人格,明治図書,1980,75-76頁。

00 同上書,81-83買。

1321 ZinchenkO,V P,Vygotsky's ideas about units fOr the analysis of rnind,In J V Wertsch(ed)1985 pp

94-118.

00 WertSch,」 V.&Lee,B,The multiple levels of analysis in a theory of actiOn,IP/η,η つ¢υ9ιo,η¢ηち1984,

27, 193-196

00

もう少 しくわ しい検討は,拙稿 ソビエ ト心理学における言語の問題 :ブ ィゴツキー学派を中心にして

,現

代 と唯物論, 9号 ,1985,40-57頁 を参照。 0け 拙稿「活動 と交通」論争についての一考察,心理科学,1981, 4鬱 】 1-7。 00 尾関周三,言語 と人間,大月書店,1983。 9り 同上書,160-161買。 00(4)の IJZendoorn,Veer(1984)の 58-62買。

00

この点で,尾関 (1983)の ヘーゲルの(対象化〉の典型が言語的精神活動におけるそれに見 られるのに対 し て,マルクスの く対象化〉は物質的生産労働活動において見られるとする指摘 (184頁)は示唆的である。

(13)

Abstnct

MaFk6Vム (19821 inSsted the llecesslty tO tttnsform tlle― ptthological studieS'on Cartttan ttradigmS

into HOgelian paradigms

ln the early penods in tHs century,Vygotslcy already tFanSfOrllled his idett fFOm Cart∝ ian ttamevork

れto Hegettin frameWoFk,aIId―五Iso intO Mar an framework,

すodav,there are two points under dk℃u罫 on in the VygOtSkian rettarch.●Ist,Vygotskiな n theOFyる an

idealism.because he ttFolagly stresstt the imp。■ance― of.social ilateFaCtiOnj communication and wOrd

meaning,That itt his stlbiect―Subiect―appFoれh iS‐idO江ism,and h is necessary for us to ttStOre sttbiect―

Obi∝ t relations,■amely,act ity.Second,on he contraFy tO tte Fir軒 ;word meaning and lねguistic comlnunicatibII are thought‐ to be the key concept for approaching the― human behaviors,

However, these two points have commo■ これortconing&That isi vord meaning is not tten aS the unification of reflection and coHlェ nunicatio■,and labour and commu cation are not seen to be relativdy

,Ixdependent bltt in■ erly rel.ated each othei Thatisllaも Ottr mutt be understood to beく Obiec1lFying acti t♪ with(co■aboratiolly ,and linguistic coコ Ⅲunicationれ ust be understood to beくёo■aるorating act ity〉

with(o研ectifyilag〉 .

It is nece∬ary foF uS tO recogllizethe―Vygotslcian theOry frOm he stand poillt of unification Oflabour and ●ommunication,because Vygoお kian theOry has enough― viewっol●ts as such.

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参照

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