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博論第三章

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第三章 初等教育の修身科とその他の教科における郷土教育的要素の考察 序 前章の最初にも提起したが、教育というのは近代の国民国家を成立させる重要な制度の一つであり、 国民の質や経済発展、ナショナリズムの構築、道徳教育などに幅広く関わっている。こうした近代化教 育は日本の植民地である台湾で推進された際に、文明開化や国民統合の一環として初等教育の基礎建 設・機関として國語傳習所の設置から始まった。1896(明治 29)年に台湾の 14 個の主要な市町に設置 された國語傳習所の本質と教育目標は、日台言語の通訳人材の育成(國語傳習所甲科)と國語(つまり 日本語)の普及の2 点に集約されるため、地理や歴史、理科などの他の教科目、つまり初等教育におけ る総合的能力の育成は軽視されていた。 國語傳習所が設置された2 年後の 1898(明治 31)年に、國語傳習所が公學校へと改編され、1941(昭 和16)年に國民學校に改編されるまでの約 43 年間、公學校は台湾の子どもが初等教育を受ける機関と なり、台湾の初等教育内容を研究するのには最も重要な期間・機関となっているのである。1898(明治 31)年に府令第 78 号「臺灣公學校規則」が発布され、その第 1 条では「公學校ハ本島人ノ子弟ニ德教 ヲ施シ實學ヲ授ケ以テ國民タルノ性格ヲ養成シ同時ニ國語ニ精通セシムルヲ以テ本旨トス」1と記されて おり、それによると公學校教育の趣旨は道徳教育の実施、実学の教授、國語の精通と3 つの方面に集約 されていると分かる。1904(明治 37)年に府令第 24 號で「臺灣公學校規則」が改正され、「公學校ハ 本島人ノ兒童ニ國語ヲ教ヘ德教ヲ施シ以テ國民タルノ性格ヲ養成シ竝生活ニ必須ナル普通ノ智識技能 ヲ授クルヲ以テ本旨トス」2と記されており、初回の公學校規則の並び順が道徳教育・実学・國語だった ものが國語・道徳教育・実学になっただけで、内容はほぼ同じであると見られる。1912(大正元)年に 府令第40 號で公學校規則が 2 回目の改正が行われ、「公學校ハ本島人ノ兒童ニ國語ヲ教ヘ德教ヲ施シ以 テ國民タルノ性格ヲ養成シ竝身體ノ發達ニ留意シテ生活ニ必須ナル普通ノ智識技能ヲ授クルヲ以テ本 旨トス」3と記されており、前回の改正と比べれば「身體ノ發達ニ留意」することのみ追記された。 1919(大正 8)年 1 月 12 日に勅令第 1 號「臺灣教育令」が公布され、この台湾でのみ適用する教育 基本法が統治開始から23 年目で始めて登場した。その中に公學校に関して第 5 条の「普通教育ハ身體 ノ發達ニ留意シテ德育ヲ施シ普通ノ智識技能ヲ授ケ國民タルノ性格ヲ涵養シ國語ヲ普及スルコトヲ目 的トス」と第 7 条の「公學校ハ兒童ニ普通教育ヲ施シ生活ニ必須ナル智識技能ヲ授クル所トス」4とさ れ、公學校の教授目的が2 箇条に分かれているが、今までの公學校規則の関連規定とほぼ同じであると 見受けられる。この「臺灣教育令」が公布・実施されて 3 年と経たずに、日本内地人と台湾人の共学、 いわゆる「内臺共學」を標榜する「臺灣教育令」の改正(通称「新臺灣教育令」。以下同じ)が1922(大 正11)年 2 月 15 日に勅令第 20 號として公布された。その「新臺灣教育令」の中で公學校に関して第 4 条で「公學校ハ兒童ノ身體ノ發達ニ留意シテ之ニ德育ヲ施シ生活ニ必須ナル普通ノ智識技能ヲ授ケ國民 タルノ性格ヲ涵養シ國語ヲ習得セシムルコトヲ目的トス」5と規定しており、旧教育令で 2 箇条に分か れた規定を再び一つにまとめたことが覗える。 上述したように、こうした公學校に関する規則の改正は1941(昭和 16)年の「國民學校令」の発布 まで5 回行われ、公學校ないし初等教育の教育目的は「國民タルノ性格」の養成にあり、その主な教育 方向或いは形成手段は時期によって少し異なる6が、大方道徳教育の実施、実学の教授、國語の習熟・普 及、身体能力の発達(つまり体育の実施。1912(大正元)年以降追加)という 4 つの方面に集約でき、

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最初の公學校規則とほぼ変わらないのである。 初等教育で重んじられている道徳教育・実学・國語・体育という4 方面は前述した通りであるが、前 章では最も授業比重を占めている國語科の教科書に対する分析を行い、その國語教科書に内包されてい る郷土教育や実学、愛国教育、道徳教育などの諸要素を分析した。本章では國語科と比べると授業比重 が軽いものの、公學校における全教科目の教授趣旨と位置づけできる修身科と、歴史科(時期によって は國史科)や地理科、理科などの他教科、實科(農業科・工業科・商業科を含む)や圖畫科(または手 工及圖畫科)、裁縫科(後の裁縫及家事科)など実学関連教科を中心に論を進める。研究材料として修 身科は1914(大正 3)年以降に発行され始めた修身教科書を取り上げ(1928(昭和 3)年に発行された 第 2 期修身教科書を中心に)、その教科書に内包されている郷土教育的要素を抽出して郷土教育的・多 文化教育的考察を行う。その他の教科の研究材料について、歴史科は1923(大正 12)年以降に発行が 始まり、歴史教科書の内容の基本形が成立した第1 期教科書(しかし 1935(昭和 10)年に発行された 第13 版と第 14 版。その理由は後述する)を中心に論を進め、地理科は修身・歴史科と同様に 1930 年 代前半に発行された第2 期地理教科書を取り上げて教科書の内容分析を行う。理科、實科、圖畫科、家 事及裁縫科などの教科については現存の教科書は殆ど欠落しているため、主に日本統治時代において最 も郷土教育運動に力を注いだ臺中州が発行した『臺中州教育』やその他の補助教材に対する分析を通し て、それらの教科における郷土教育的要素と多文化教育的視点からの考察を行う。 第一節 修身教科書における郷土教育的要素の分析 第一項 全教科における修身科の役割 1898(明治 31)年に公布された「公學校規則」の第 4 条によると「公學校ノ敎科目ハ修身、國語作 文、讀書、習字、算術、唱歌、體操トシ其修業年限ハ六箇年トス」7と記されており、修身科が授業比重 の最も重い國語関連教科(國語作文、讀書、習字)よりも先に提起されている。また同規則の第9 条で は、「德教ヲ施スニハ人トシテ必須ナル德義ノ敎訓ト我國民トシテ必要ナル性格ノ陶冶トニ注意センコ トヲ要ス」8と規定している。すなわち、道徳教育を実施する目的には「人トシテ必須ナル德義ノ敎訓」 と「我國民トシテ必要ナル性格ノ陶冶」があり、前者は社会生活を営むのに必要な基本的徳性の養成で あり、道徳教育であると看做すことができるが、後者は国民精神の養成であり、愛国教育の性質を有す るものであると判断できるのである。この「公學校規則」は1904(明治 37)年に改正され、教科目は 修身、國語、算術、漢文、體操、裁縫(女子のみ)になり、地方の状況によっては唱歌、手工、農業、 商業を増やすことができ、漢文と裁縫を削除することもできる9。新しい「臺灣公學校規則」の第 9 条 は冒頭で「何レノ教科目ニ於テモ德育ニ關聯セル事項ハ常ニ留意シテ教授センコトヲ要ス。德育ヲ施ス ニハ德性ノ涵養ト國民トシテ必要ナル性格ノ陶冶トニ注意センコトヲ要ス」10と記されており、德育、 つまり修身科は公學校における諸教科目の中の一つであるが、その位置づけが他の教科目と明らかに異 なり、他教科を教える際に「德育ニ關聯セル事項ハ常ニ留意」しなければならないため、全ての教科目 をカバーする性質を有していたのである。 修身科の教授趣旨は「教育ニ關スル勅語ノ旨趣ニ基キテ兒童ノ德性ヲ涵養シ道德ノ實踐ヲ指導スル」 ことであり、その相関規定は「此ノ科ニ於テハ初ハ人道ノ要義ニ就キ實踐ニ適切ナル近易ノ事項ヲ授ケ 漸ク進ミテハ國家社會ニ對スル責務ノ一斑ニ及ホシ國法ヲ重シ公德ヲ尚ヒ公益ニ力ヲ盡スノ氣風ヲ助 長センコトヲ務ムヘシ女兒ニ在リテハ特ニ貞淑ノ德ヲ養ハンコトヲ務ムヘシ」11と規定している。これ

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を見ると、修身科が子どもに道徳教育を行う時の最も基礎的・方針的な根拠は「教育ニ關スル勅語」で あると分かる。前述した通り、修身科が全教科目をカバーする性質を有していた教科であるため、修身 科の基礎的・方針的な根拠となるこの「教育ニ關スル勅語」は、日本統治時代の初等教育において最も 基礎的・方針的な存在であると判断でき、日本の戦後に出来た「教育基本法」のようなものであった。 修身科の相関規定を見ると、修身科の教授目的は「人道ノ要義」の実践から「國家社會ニ對スル責務」 の自覚へと拡大し、「國法ヲ重シ公德ヲ尚ヒ公益ニ力ヲ盡ス」などと「奉公」の精神がこの規定に盛り 込まれている。また、「男女有別」という儒教的道徳観である女子の「貞淑」も強調されている。 公學校の各教科の授業時間を見ると、修身科は國語科や算術科などと比べると、突出するイメージが なく、むしろ少ないとも言える。公學校の標準教科目の授業時数を簡略な表で表すと以下の通り(表1 参照)である。 表1:台湾公學校の標準教科目の学年別授業時数表(単位:1 週/時間)12 修身科 國語科 算術科 漢文科 體操科 その他(略) 第1 学年 2 10 4 5 2 -- 第2 学年 2 13 4 5 2 -- 第3 学年 2 14 4 5 2 -- 第4 学年 2 14 5 5 2 -- 第5 学年 2 14 5 5 2 -- 第6 学年 2 14 5 5 2 -- 上表(表1)を見ると、修身科の授業時数は國語科どころか、算術科や漢文科にも及ばず、體操科と 同じく週に2 時間しかなかった。しかし、前述した通り、修身科は全教科をカバーする性質を有してい た教科であるため、授業時数は問題ではない。1902(明治 35)年に『臺灣教育會雜誌』に掲載された 「公學校ノ修身科ニ就キテ」では「國民教育ハ修身科ヲ中心トシ、他學科ガ其レニ歸服セシムヘシ。此 レ近世教育ノ諸大家ガ唱導スル也、益シテ本島ノ教育ニ於テモ其ノ必要ト見ル」13と書かれており、修 身科が公學校の全教科を総括していると分かる。この点について、前章での國語教科書に対する分析に おいて、「道徳教育」項目や「皇国史観」項目(場合によって道徳教育になるため)が存在するわけで、 言い換えれば修身科ないし道徳教育は教科目の垣根を越えて全ての教科目の基礎的存在または中心思 想となるのである。 第二項 修身教科書の内容分析 1914(大正 3)年から臺灣總督府により修身教科書が終戦まで全 3 期が出版・使用され、その出版年・ 書名・巻数を整理したものは下表(表2)の通りである。なお、1910(明治 43)年に臺灣總督府により 『公學校修身科教授資料』全3 巻が発行されたが、教師向けの教授用書であるため、教科書として算入 しない。また、1941(昭和 16)年に出版された『公學校修身書 兒童用(第一種)』は 2 巻しか発行さ れていなかったため、1 期としては算入しない。 表2:修身教科書発行期数表

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期数 初版発行年 教科書名称 巻数 第1 期 1914(大正 3)年 『公學校修身書 兒童用』 1-6 第2 期 1928(昭和 3)年 『公學校修身書 兒童用』14 1-6 第3 期 1942(昭和 17)年 1943(昭和 18)年 『ヨイコドモ』 初等科修身 上、下 1-4 上表(表2)を見ると、第 1 期の修身教科書は約 13 年間、第 2 期は約 14 年間、第 3 期は約 3 年間使 用されたことが分かる。第1 期と第 2 期の使用年間が最も長く、合わせて約 27 年間使用されたが、現 存史料の状況から見ると第2 期の修身教科書は全て揃っており、保存状況が最も良く、またその使用年 間(1928∼1942)において台湾学齢児童の公學校就学率が 29.79%から 61.54%15に高まり、第1 期教 科書の使用年間における就学率を大きく超えているため、本節では第2 期修身教科書を中心に分析して いくことにする。第3 期教科書についてその使用年間が短く、またその出版年が第 5 期國語教科書とほ ぼ一緒なため、道徳教育に関する描写は前章の第5 期國語教科書の「道徳教育」項目と「皇国史観」項 目などを参照すれば一定の情報やイメージが得られるため、本節では省略する。 第2 期修身教科書『公學校修身書 兒童用』は全 6 巻で 1 学年に 1 巻という通年教科書である。その 巻1 には 24 課あるが、「ガツカウ(1-1)」(前章でこの表記について説明したが、「1-1」は巻 1 第 1 課 を意味する。以下同じ)から「コツキ(1-18)」までは絵と課の題目のみで本文が載せられておらず、「シ マツヲヨクセヨ(1-19)」より片仮名による本文が載せられ始めた。巻 2 の「天皇陛下(2-3)」より漢 字が記され始め、巻4 の冒頭に片仮名による振り仮名が付いている「教育勅語」が載せられている。巻 5 と巻 6 の冒頭にも「教育勅語」が載せられているが、片仮名による振り仮名が付いていない。修身は 道徳教育を専ら教授する教科目であるため、自然的・必然的に郷土教育的要素は少ないと考えられるが、 その少ない要素を抽出するには各課における登場人物をピックアップする必要がある。従って、下表(表 3 と表 4)は巻 1 から巻 6 の各課のタイトルとその登場人物(実在人物でない場合は人名の後ろに「*」 を付ける)を製表した結果である。 表3:第 2 期修身教科書『公學校修身書 兒童用』の課名と登場人物表(巻 1∼巻 3) 巻1 のタイトル 登場人物 巻2 のタイトル 登場人物 巻3 のタイトル 登場人物 ガツカウ(1-1) -- べ ん き や う せ よ (2-1) 乃木大將 皇后陛下(3-1) 皇后 ジ コ ク ヲ マ モ レ (1-2) -- し き た り を ま も れ (2-2) 阿秀*、阿 英* 忠義(3-2) 廣瀬武夫 テ ン ノ ウ ヘ イ カ (1-3) 天皇 天皇陛下(2-3) 天皇 約束を守れ(3-3) 廣瀬武夫 コクゴヲベンキヤ ウセヨ(1-4) -- 不 作 法 な こ と を す るな(2-4) -- 孝行(3-4) 渡邊崋山 ヒトノワルグチヲ イフナ(1-5) -- 自 分 の こ と は 自 分 でせよ(2-5) 阿水* 兄弟(3-5) 渡邊崋山 ケ ン カ ヲ ス ル ナ -- 清潔(2-6) 阿秀* わ が ま ま を す る な --

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(1-6) (3-6) トモダチニシンセ ツニセヨ(1-7) -- か ら だ を 大 切 に せ よ(2-7) 木生* 人にめいわくをかけ るな(3-7) 阿秀* キレイニセヨ(1-8) -- 親 を 大 切 に せ よ (2-8) 木生* 整頓(3-8) 阿秀* ノミクヒニキヲツ ケヨ(1-9) -- 兄 弟 中 よ く せ よ (2-9) 阿桂*、木 生* 親切(3-9) 泰一郎、雅 夫 ワルイスヽメニシ タカフナ(1-10) -- 約 束 を つ ゝ し め (2-10) 阿水*、阿 仁* ものごとに慌てるな (3-10) 玉江 イキモノヲイジメ ルナ(1-11) -- 正直(2-11) 木生* 無 駄 遣 ひ す る な (3-11) 木生* ヨイアソビ(1-12) -- よくばるな(2-12) 阿金*、阿 信* 明治神宮(3-12) 明 治 天 皇、昭憲皇 太后 ウ ソ ヲ イ フ ナ (1-13) -- 臺灣神社(2-13) 能久親王 よく働け(3-13) 塩原多助 アヤマチヲカクス ナ(1-14) -- 友 だ ち は 助 け あ へ (2-14) 阿木*、阿 仁* 正直(3-14) 塩原多助 オヤノオン(1-15) -- 人 の 過 を 許 せ よ (2-15) 阿仁*、阿 木* 心 を ひ ろ く も て (3-15) 貝原益軒 オヤノイフコトヲ キケ(1-16) -- 家庭(2-16) 阿仁*とそ の家族 自慢をするな(3-16) 貝原益軒 キヨウダイナカヨ クセヨ(1-17) -- 親戚(2-17) 阿仁* 衛生(3-17) 貝原益軒 コツキ(1-18) -- 隣人(2-18) -- 迷信をさけよ(3-18) -- シマツヲヨクセヨ (1-19) 阿金* と し よ り に 親 切 に せよ(2-19) 阿桂*、木 生* 師の恩(3-19) 張文良* ギヤウギヲヨクセ ヨ(1-20) -- 恩 を 忘 れ る な (2-20) 木生* 友だち(3-20) 文良* ガ ツ カ ウ ノ モ ノ (1-21) -- 辛 抱 強 く せ よ (2-21) 阿木* 自 分 の 物 と 人 の 物 (3-21) 台車夫* ヒトノモノ(1-22) -- 祝日(2-22) -- 共同(3-22) -- ヒトニメイワクヲ カケルナ(1-23) -- 公 共 の も の を 大 切 にせよ(2-23) 木生* 生き物をかはいがれ (3-23) -- ヨイコドモ(1-24) -- 規則に從へ(2-24) -- 博愛(3-24) 瓜生岩子 -- -- よい子供(2-25) 木生* よい日本人(3-25) -- 表4:第 2 期修身教科書『公學校修身書 兒童用』の課名と登場人物表(巻 4∼巻 6)

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巻4 のタイトル 登場人物 巻5 のタイトル 登場人物 巻6 のタイトル 登場人物 皇太后陛下(4-1) 皇太后 大日本帝國(5-1) -- 皇大神宮(6-1) -- 能久親王(4-2) 能久親王 我が皇室(5-2) -- 敬神(6-2) -- 規律(4-3) -- 忠義(5-3) 楠木正成、 楠木正行 國運の發展(6-3) -- 時間を大切にせよ (4-4) 平田篤胤 公益(5-4) 曹謹 國交(6-4) -- 體を鍛へよ(4-5) -- 慈善(5-5) 石井十次 忠君愛國(6-5) -- 禮儀(4-6) -- 衛生(その一)(5-6) -- 祖先と家(6-6) -- 反省(4-7) 瀧 鶴 台 夫 人 衛生(その二)(5-7) -- 男子の務と女子の務 (6-7) -- よ い 習 慣 を 造 れ (4-8) -- 共同(5-8) -- 自立自營(6-8) 高 田 善 右 衛門 女子の心がけ(4-9) 乃木靜子 公德(5-9) -- 職業(6-9) -- 孝行(4-10) 二宮尊德 克己(5-10) 村上專精 發明(6-10) 高峰讓吉 忠實(4-11) 二宮尊德 儉約(5-11) 德川光圀 日新の工夫(6-11) 伊 藤 小 左 衛門 勤勉(4-12) 二宮尊德 勤勉(5-12) 伊能忠敬 趣味(6-12) -- 至誠(4-13) 二宮尊德 師を敬へ(5-13) 伊能忠敬 良心(6-13) -- ヒトノタメニ盡セ (4-14) 呉鳳 禮儀(5-14) -- 反省(6-14) -- 報恩(4-15) 荻生徂徠 親戚(5-15) -- 廉潔(6-15) 乃木大將 恥を知れ(4-16) 伊藤仁齋 同情(5-16) 中江藤樹 報恩(6-16) -- 人の名譽を重んぜ よ(4-17) 杉浦重剛 德行(5-17) 中江藤樹 共存共榮(6-17) -- 法 規 を 重 ん ぜ よ (4-18) -- よく考へよ(5-18) -- 公益(6-18) 和 井 内 貞 行 國旗(4-19) -- 責 任 を 重 ん ぜ よ (5-19) 佐久間勉 地方制度(6-19) -- 公共心(4-20) 金原明善 誠實(5-20) 山口用助 遵法(6-20) -- 志 を か た く せ よ (4-21) 金原明善 廉潔(5-21) 長田德本 教育(6-21) -- 分を守れ(4-22) -- 寛容(5-22) 伊藤東涯 教育勅語(6-22) -- 公益(4-23) 青木昆陽 納税の義務(5-23) -- 教育勅語(つゞき) (6-23) -- 教育勅語(1-24) -- 祝日・祭日(5-24) -- 教育勅語(つゞき) (6-24) --

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よい日本人 -- よい日本人(5-25) -- 教育勅語(つゞき) (6-25) -- 上表(表3 と表 4)を見ると、巻 1 から巻 6 はほぼ皇室の話(例えば「天皇陛下(2-3)」や「皇后陛 下(3-1)」、「皇太后陛下(4-1)」など)から始まり、「ヨイコドモ(1-24)」や「よい日本人(3-25)」な どの道徳教育(場合によっては愛国教育になる)で一年を総括する形で構成されている。臺灣總督府の 『公學校修身書編纂趣意書』16によると、修身書を編纂するにあたって主な4 大徳目は「國民精神ノ涵 養」、「從順」、「誠實」、「勤勞」であり、その中で最も基本的方針となるのは「國民精神ノ涵養」である。 従って、課のタイトルに「∼するな」や「∼せよ」など命令形の文型が多く、そうしたことによって「よ い子供」になり、進んで「よい日本人」になるという「從順」徳目を養成するのである。その他、「約 束をつゝしめ(2-10)」や「正直(3-14)」などの「誠實」徳目と「よく働け(3-13)」や「勤勉(4-12)」 などの「勤勞」徳目も見られる。修身教科書の特徴は、巻の最初と最後の部分、つまり最も子どもに印 象を与えるところを占めているのは、「明治神宮(3-12)」や「我が皇室(5-2)」、「忠君愛國(6-5)」な ど「愛国教育」・「皇国史観」と絡んでいる課である。特に、巻6 の最後に 4 課が「教育勅語」で連ねら れており、「國民精神ノ涵養」徳目に属しておきながら、「皇国史観」にも通じているため、修身教科書 を通して儒教的道徳観を忠君・愛国という領域に昇華させようとした意図が見受けられる。また、「皇 国史観」を強調するために近代国家としての公民教育をも軽視される傾向にある。例えば「國旗(4-19)」 では、「日の丸の旗はわが國の國旗です。祝日や祭日には、國中の學校や家々はもとより、外國にゐる 日本人も皆國旗を立てます。私どもは日の丸の旗を大切にして、そのとりあつかひも、出來るだけてい 重にしなければなりません」17と述べられているが、日本内地の同期国定修身教科書では「私ども日本 人は必ず日の丸の旗を尊重しなければなりません。禮儀を知る國民たるものは、外國の國旗も尊敬しな ければなりません」18と書かれている。つまり同じ課の内容が、日本と植民地・台湾では少し異なる表 現をしている。臺灣總督府が日本内地の国定教科書における最後の「外國の國旗も尊敬しなければなり ません」という文を削除したのは、「日本母国」へのアイデンティティ・向心力を強める、つまり「皇 国史観」のみが図られる一方、世界観・国際観を持つ公民教育の内容が台湾においては重視される内容 ではないと看做されていると考えられるのである。 こうした「皇国史観」が強い修身教科書では、必然的に道徳の例話に出てくるのはほぼ日本の人物と なっている。修身教科書において、皇室を除いて日本の人物が 33 人登場し、それらの事績を模範にし た例話が43 課ある。それに対し、台湾の登場人物(実在人物のみ)は清国時代の呉鳳(「ヒトノタメニ 盡セ(4-14)」)と曹謹(「公益(5-4)」)だけである。施設としては「臺灣神社(2-13)」のみが挙げら れるが、それも日本の神道によるもので、どちらかと言うと日本的な施設で、台湾の伝統的な廟や寺で はないため、地方文化教育としての郷土教育が成立していないと言える。また、巻1 から巻 3 には「木 生」や「阿秀」、「阿水」などの台湾的人名が多く登場しているが、あくまでも虚構人物で道徳を説くた めに登場する人物だけで、地方文化教育や農村教育としての郷土教育が成立していないのみならず、愛 国教育としての郷土教育も成立していない。別の角度から見れば、こうした「木生」や「阿秀」、「阿水」 などの台湾児童は、道徳教育の指導対象であり、模倣対象ではない(模倣対象は 33 人の日本人物と 2 人の台湾人物)と言える。従って、修身教科書における郷土教育的要素は國語教科書より遥かに低いと 言えるのである。

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多文化教育的角度から見ると、「ヒトノタメニ盡セ(4-14)」は國語教科書第 2 期から第 4 期の「呉鳳」 と題された課と内容がほぼ同じ(前章参照)であるが、「身ヲ殺シテ仁ヲナ」19した呉鳳はいわゆる道徳 教育ないし「文明開化」の典範であるが、その典範を作り上げるために「蕃人」こと台湾の原住民は、 「野蛮」や「未開」というイメージを台湾の子どもに与えてしまっている。台湾の郷土文化への差別は 見られないものの、教科書の材料面では明らかに量の落差が出ているため、台湾の文化がカリキュラム に十分に反映されていないと考えられる。また、愛国(皇国)教育的要素が多く、言い換えれば同化教 育的要素が多いため、多文化教育における「民族自決」と全く逆の方向に向いていると見受けられる。 第三項 臺中州の修身科補助教材について 1920 年代中後(つまり昭和初頭)、郷土教育は学校教育の主流となり、学校や地方政府、民間からの 支持を得て、全島的な郷土教育の高まりが起こった。本論文第一章で既述したが、その中で最も郷土教 育に力を注いだのは臺中州である。臺中州では1929(昭和 4)年度から、「教室から教室へ」と「兒童 から兒童へ」という二大キャッチフレーズによって、話方科や修身科、算術科などの教科の地方化・生 活化を目標とした教育改革20が始まった。1930(昭和 5)年、「教育實際化」を標榜し教育内容を改善す る「教育更新五箇年計画」21が提出され、州以下学校職員全体を動員した、台湾教育界における初めて の教育改革運動となり、台湾教育の一大転換期となった。臺中州教育會が出版した『教育實際化』によ ると、台湾は歴史的遺産に欠け、國民教育資料が乏しく、また風俗習慣や文化伝承も日本と異なるため、 国民精神の養成に障害がある22と記され、その打開策として同化原則に基づいた教育方法を通し、台湾 の子どもに「國民精神」を自然と養成していく方法を採るべきだ23としている。「郷土」というのは人々 の生活基盤であり、子どもの国民精神養成にとって最適な場所であるため、公學校は郷土教育の実施に よって一つの郷土振興機関になり、郷土文化生活の質を向上させ、加えて子どもに日本化教材を認めさ せることもできる24。そのため、初等教育における各教科目の郷土教育の実施方式は「教材の郷土化」、 つまり郷土資料で教科書の不足な部分を補う方式なのである。 公學校の修身教科書は全て臺灣総督府によって編纂され、台湾全島で統一された課程内容である。臺 中州は正規の教科書の他に修身科の補助教材として、また「教育實際化」の原則に基づいて『郷土に即 せる新修身書の補充例話』を出版した。修身科は「國民精神ノ涵養」と直結しているため、その教科書 の内容や教授活動にも濃厚な國民色・公民色を帯び、子どもの徳性の養成とその実践に重点が置かれて いる。しかし、修身科は1931(昭和 6)年まで地方化(つまり台湾郷土化)の傾向にあり、前項で分析 した修身教科書の挿絵では、登場人物(特に低学年の教科書では)は台湾風服装を身に纏ったり、台湾 風家屋に住んだり、自然環境は台湾的雰囲気が漂っており25、また登場人物の名前が台湾的人名であっ たりして、台湾の郷土的要素がある程度出されている。しかし、教科書内の登場人物や物語は殆どフィ クションであるため、土着の生活様式や文化を反映するのが難しかったため、臺中州では郷土資料が補 足教材として扱われる26ようになり、公學校の教師は臺中州教育課によって編纂された、道徳教育の実 践を代表する郷土における実話・典範が織り込まれた『郷土に即せる新修身書の補充例話』を使うこと になった。 臺中州教育課が編纂した『郷土に即せる新修身書の補充例話』は、公學校3 年生に適される教科書の 補助教材であり、典範になる人物の選別について、必ず日本人でなければならない或いは必ず台湾人で なければならないなどはせず、「徳性」を基準にして選別したと見受けられる。例えば第2 課「忠義」27

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では、日本人の西口逸馬の人生を例として、忠義を実践する過程を語る話がある。西口は妻と3 人の子 どもの家庭を持ち、幸せな生活を送っていたが、1928(昭和 3)年に子どもの一人が夭折し、残った二 人の子どもが病魔に侵され、妻が看護の過労で倒れた。こうした不幸が続いた中、翌年に西口は勤務演 習招集令を受けるや否や、毅然として軍隊に入って「報國」という道を選び、帝国軍人になるという「最 大義務」を果たすのである。第4 課「孝行」28は、台湾人の何水昌の奮闘を典範にした話である。何水 昌は小さい頃から貧困な家庭で育ち、11 歳になってから家計を支えることになり、14 歳の時に母親が 病没した後、父親を 30 年余り看護した。また第 5 課「兄弟」29は、林德音の大家族を例に取り上げて 兄弟愛の重要さを語る話である。 上述した西口逸馬による「忠義」の表し方は、大我の為に小我を犠牲にする、つまり「滅私奉公」と いう日本式のものであり、前述した修身科の教授目的である「人道ノ要義」の実践から「國家社會ニ對 スル責務」の自覚への拡大が見られ、つまり統治者側の要望に則していると言える。何水昌の孝行は、 前項の第 2 期修身教科書に挙げられた「孝行(3-4)」における渡邊崋山の幸親物語と彷彿とさせるが、 ノンフィクションであるため、公學校の子どもにとってより親身になりやすいと考えられる。林德音大 家族の物語を出したのは、教育を通して台湾社会における旧慣、例えば「過房」30や「螟蛉子」31、養 女、遺産をめぐる兄弟間の闘争などを是正する意図があると考えられる。従って、修身教育の郷土化の 意味は、日本的道徳水準の向上と台湾社会における「陋習」を取り除くことにあるのである。言い換え れば、台湾の「過房」や「螟蛉子」などの民俗慣習を究明せずに改善しなければならない「陋習」と看 做し、教育における「開化」されなければならない対象(林德音ないし台湾人)としている一方、美徳 とされている「滅私奉公」の「忠義」は子どもにとって道徳教育の模倣する対象(西口逸馬ないし日本 人)としている。それを多文化教育的視点から見ると台湾の郷土文化とその探究・保全が軽んじられる だけでなく、「日本ないし主流文化の主体性の増大・台湾ないし非主流文化の主体性の縮小」という同 化要請につながるのである。従って、修身科は府定教科書においても、郷土教育運動または教育實際化 に励んだ臺中州の補助教材においても、郷土教育的要素は全体的に少なく、台湾という地方文化が軽視 される傾向にあると覗える。 第二節 歴史教科書における郷土教育的要素の分析 第一項 歴史教科書の分期と内容分析 歴史(最初は「日本歴史」科だったものが後に「國史」科と改称するのであるが、教科書名と教科目 名以外の総称は便宜上一括に「歴史」と称する。以下同じ)科と次項で考察する地理科は、公學校制度 が発足した当時にはなかった教科目であり、1918(大正 7)年に府令第 17 號「公學校規則中改正」の 発布・施行と伴って地理科が新設され321922(大正 11)年に「日臺共學」を標榜する勅令第 20 號「新 臺灣教育令」の公布・実施によって日本歴史科が新設され33、両教科は共に高学年の第5 と第 6 学年に 週2 時間程度配置された。この二つの教科が存在しなかった時は、國語教科書が代わりに歴史と地理に 関する知識の教授責務を担う34形になっている。 日本歴史科の新設によって1923(大正 12)年に臺灣總督府がその教科書である『公學校用日本歴史』 を編纂・発行した。1933(昭和 8)年に発布された府令第 142 號「公學校規則中改正」によって、次年 度(昭和9 年度)より日本歴史科が國史科に改称され35、その規則中改正に伴って1935(昭和 10)年 に歴史教科書の書名は『公學校國史』に変えられたが、教科書の内容は変更されていなかった。こうし

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た歴史教科書の内容は1937(昭和 12)年に根本的に改版・増補されることになった。太平洋戦争が勃 発した後の1943(昭和 18)年に日本内地で文部省により『初等科國史』が発行されたが、翌年に臺灣 總督府がこの歴史教科書を採用することにした。なお、天皇の「崩御」や戦争の勃発などの諸要素によ って歴史教科書は多くの再版がなされた36。すなわち、例え教科書の書名が同じでも初版の教科書内容 が完全に第8 版の内容と同じではないということである。こうした変遷を踏まえて、歴史教科書は約 3 期に分けて発行されたことが分かる。その分期や初版発行年、書名、巻数を整理したものは下表(表4) の通りである。 表4:歴史教科書発行期数表 期数 初版発行年 教科書名称 巻数 第1 期 1923(大正 12)年 1935(昭和 10)年 『公學校用日本歴史』 『公學校國史』(改称) 上、下 上、下 第2 期 1937∼1938(昭和 12∼13)年 『公學校國史 第一種』37 1∼2 第3 期 1943(昭和 18)年 『初等科國史』 上、下 上表(表4)を見ると、第 1 期歴史教科書は約 14 年、第 2 期は約 6 年、第 3 期は約 2 年使用された ことが分かる。その発行年を見ると、第1 期と第 2 期の境界線はちょうど日中戦争の勃発(1936(昭和 11)年)翌年で、第 2 期と第 3 期の境界線は太平洋戦争勃発(1941(昭和 16)年)の約 1 年余り後で あるため、歴史教科書の編纂は戦争の勃発と密接な関係を持っていると考えられる。第2 期と第 3 期の 歴史教科書の使用時期が相対的に短く、その発行年も前章で考察した第4 期と第 5 期の國語教科書とほ ぼ一致しており、前章の「日本事物」と「皇国史観」を参考すれば一定の情報が得られ、なお全3 期の 歴史教科書の内容に大きな変化・変動がないため、本節では取り扱わないことにする。全3 期の歴史教 科書の内容が大きな変化・変動がないということは、第1 期で基本的な形が定まっているということで ある。従って、本節では基本的な形が定まった、かつ最も長く使用された第1 期の歴史教科書を取り上 げて分析を行う。しかし、前述した通り、第1 期歴史教科書の改版が多くなされ、現存の史料も版毎に 欠落した巻38があるため、第1 期の歴史教科書の課について上巻の内容を 1935(昭和 10)年の第 13 版 (第14 版の上巻が第 13 版の上巻と内容が変わっていないことと仮定する)にし、下巻の内容を 1936 (昭和11)年の第 14 版にする形を採る。それらを整理したものは下表(表 5)の通りである。 表5:第 1 期歴史教科書『公學校用國史 第一種』の内容 『公學校用國史 第一種』上巻(第13 版) 『公學校用國史 第一種』下巻(第 14 版) 課番 タイトル 課番 タイトル 1 天照大神 29 織田信長 2 神武天皇 30 豐臣秀吉(一) 3 日本武尊 31 豐臣秀吉(二) 4 神功皇后 32 德川家康(一) 5 仁德天皇 33 德川家康(二) 6 聖德太子 34 德川家光

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7 天智天皇と藤原鎌足(一) 35 德川光圀 8 天智天皇と藤原鎌足(二) 36 新井白石 9 聖武天皇 37 德川吉宗 10 和氣清麻呂 38 松平定信 11 桓武天皇と坂上田村麻呂 39 尊王論 12 弘法大師 40 攘夷と開港 13 菅原道真 41 井伊直弼 14 後三條天皇 42 孝明天皇 15 源義家 16 平清盛 17 平重盛 18 源頼朝 19 後鳥羽上皇 20 北條時宗 21 後醍醐天皇 22 楠木正成 23 新田義貞 43 明治天皇 一 明治維新 二 征臺の役と西南の役 三 憲法發布 四 明治二十七八年戰役 五 條約改正 六 明治三十七八年戰役 七 韓國併合 八 天皇の崩御 24 北畠親房と楠木正行 44 大正天皇 25 菊池武光 45 今上天皇 26 足利義滿 -- -- 27 應仁の亂 -- -- 28 戰國時代 -- -- 上表(表5)を見ると、第 1 期の歴史教科書は教科名である「日本歴史」ないし「國史」の通り、全 編天皇を中心とした日本の歴史で貫いて、タイトルで台湾が出ているのは第 43 課の二「征臺の役と西 南の役」のみである。それぞれの課を詳しく読むと、台湾と関連しているのは、第 31 課の「豐臣秀吉 (二)」と第34 課の「德川家光」、第 43 課「明治天皇」の二「征臺の役と西南の役」とその四「明治二 十七八年戰役」とその八「天皇の崩御」の5 課である。 第31 課の「豐臣秀吉(二)」では、秀吉が日本国内を平定した後、外国との交通を開拓するためにフ ィリピンと台湾に使節を派遣して通好を求めようとした39と述べられ、日本と台湾の結びつきに関して はこの課で初めて描写されている。第 34 課の「德川家光」では、日本が海外への発展は鎌倉時代末期 から室町時代の間に始まり、台湾の歴史が知られるようになったのもこの時期であり、「蕃人」しかい なかった台湾は、この時期から「我國」の人や明国の人が次々と来て、「秀忠將軍の代に於ては、和蘭おらんだ人 が安平、臺南地方、西班牙す ぺ い ん人が基隆きーるん、淡水地方を佔據してゐます。山田長政が暹羅し あ むで功名を立て、濱田 彌兵衛や へ ゑが臺灣に來て和蘭人を懲罰することもこの時期の出來事であります…<中略>…鄭氏三代二十 餘年、清により滅亡し、此の後二百餘年を清國は此の島を統治する」40と述べられ、台湾が外来者によ って「発見」から統治される過程を簡略に書かれている。台湾を「発見」する時点において、「我國」 こと日本と明国はほぼ同じであると描写されていることは、その後清国によって200 余年間統治されて

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いたと言えども、最初に台湾を「発見」したのは明国とほぼ変わらないと強調している。すなわち、台 湾をシナ大陸政権(明国、清国)との関連性を弱め、日本との連結を強めようとしたのである。また、 濱田彌兵衛の「オランダ人懲罰」は、徳川秀忠将軍時代では日本が既に台湾である程度の権力を持って いる暗喩が入れられていると考えられる。 第43 課「明治天皇」の二「征臺の役と西南の役」では、「牡丹社事件」41を取り上げ、1871(明治 4) 年に海上で遭難した69 名の日本漁師が台湾南部の恒春半島に漂着し、その中の 54 名が牡丹社の「蕃人」 に殺害された事件について、当時宗主国である清国はこの事件に対して台湾を「化外の地」(教化の及 ばぬ地)として責任を負わなかったため、1874(明治 7)年に西郷從道が「征臺軍」を率いて牡丹社を 始め多数の「蕃社」を征服したが、清国がこれに抗議して日本との示談が行われた後、「五十萬兩」42 賠償することでこの事件の幕が閉じられた43と述べられている。この課は日本内地で使われる歴史教科 書『尋常小學國史』に入れられていないため、台湾の子どものために特別に編纂された内容であると分 かる。その内容を見ると、清国が台湾を領有する主権を積極的に主張しないことによって、台湾に対す る統治態度の「怠慢さ」が強調されている。言い換えれば、前宗主国の清国の統治が相対的に悪かった ことで、現宗主国の日本の統治が相対的に良いことになると図ろうとされたのである。 第43 課「明治天皇」の四「明治二十七八年戰役」の一部に、いわゆる「臺灣平定」が描かれている。 台湾は下関条約によって日本の新領土になったが、島内の「我が命に從はない」人に対して天皇が北白 川宮能久親王を派遣した。北白川宮能久親王は近衛師団を率いて台湾北部の澳底で上陸し、基隆、臺北、 新竹、彰化へと南下・平定していった。その途中に能久親王が病気になったが、前線に立って軍隊を指 揮していた。しかしその病気が日に日に重くなったため、能久親王は10 月 28 日に臺南で病死した。な お、臺北市の臺灣神社は彼を祀るために建立されたところである44と述べられている。この課では北白 川宮能久親王にまつわる実話を取り上げ、彼が死ぬまで天皇の命令を貫こうとした勇ましさと忠君の心 が描かれており、道徳教育や皇国史観の意味合いが強い一方、台湾に関する描写は統治に従わず、忠君 で慈悲深く、勇ましい北白川宮能久親王を「死なせた」人々と平定されていた地名のみである。 第43 課「明治天皇」の八「天皇の崩御」では、1910(明治 45)年に明治天皇が病気で倒れた際に、 「南の臺灣から北の樺太まで」の人々は心の底から天皇の全快を祈っていた45ことが述べられている。 この課における台湾に関する記述は、前の4 つの課より少なく、たったの二文字であるが、台湾が日本 の国土であり、また台湾人が日本人でもあるという表現から見ると、1922(大正 11)年に発布された 「新臺灣教育令」が標榜する「日臺共學」や同化政策方針が覗える。 以上を総括的に見ると、第1 期歴史教科書は第 1 課「天照大神」、第 2 課「神武天皇」の神話から第 44 課「大正天皇」、第 45 課「今上天皇」(昭和天皇)まで天皇を中心軸として日本の歴史を述べていき、 つまり日本の歴史は皇国史観によって成り立っていると見受けられる。こうした皇国史観に基づいて台 湾に関する描写は、台湾を統治する前では日本の外交史の一部(例えば第31 課の「豐臣秀吉(二)」と 第 34 課の「德川家光」)であり、台湾を統治する後では日本ないし天皇による台湾経営史(例えば第 43 課「明治天皇」の二「征臺の役と西南の役」とその四「明治二十七八年戰役」)であると分かる。す なわち、日本歴史または皇国史観という枠組みの中に、日本と台湾との歴史的な関わりを入れていく編 纂方式を採っているが、前宗主国こと清国の統治の悪さを出すことによって現宗主国こと日本の統治の 良さを醸し出し、また、天皇の「皇恩」を浴びた台湾の人々は第43 課「明治天皇」の八「天皇の崩御」 では、天皇の病気が治れるよう祈っていると述べられ、つまり台湾は天皇の「恩澤」によって「文明開

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化」されていると描かれているのであり、台湾の子どもに日本(皇国)に対するアイデンティティを抱 かせようとするのである。こうしたプロセスの中、台湾という存在は背景的・支流的な存在となってし まっているため、地方文化教育や農村教育としての郷土教育的要素が全く存在せず、残ったのは愛国教 育的要素のみである。またそれを多文化教育的視点から見ると、台湾の文化どころか、台湾そのものは 日本という中心的存在を成り立たせるための支流的・傍系的存在となってしまい、「文化解釈権」を含 む文化の平等は期待せず、「民族自決」も望めないのである。従って、歴史教科書は全教科の中で皇国 史観的要素が最も高い一方、郷土教育的要素・多文化教育的要素共に最も低い教科であると言える。 第二項 臺中州の國史補助教材について 前述した日本歴史科ないし國史科は、皇国史観的要素が最も高く、郷土教育的要素が最も低い教科で あるが、教育實際化や郷土教育運動を大いに推進した臺中州ではどのような場面を迎えるのだろうか。 1936(昭和 11)年の『臺中州教育』によると、臺中州教育會は多くの人を動員して『郷土史回顧』 という教科書補助史料を編纂したが、その「郷土史」というのは、北白川宮能久親王が臺北から臺南へ と南征しにいった際に、臺中を経過した場景を指す。臺中州教育會の調査隊は能久親王の南征ルートを 辿り、当時の進軍を見た人たちのところに訪れ、彼らの口述によって当時の能久親王の「英姿」や軍隊 にまつわる逸話などを記録して文章にしたものである46。何故郷土史がこうした位置づけになったかと いうと、「郷土史が國史を立たせ」る存在であると臺中州教育會が明確に提起したからである。1933(昭 和8)年の『臺中州教育』に掲載された「歴史教育實際化」に対する討論では、郷土史を教授する目的 は、國史を立たせる存在であり、差別がないという皇室の恩澤や日本国民の異民族に対する包容性、外 来文化との同化融和などにある47と述べられている。例えば草屯公學校によってデザインされた「國史 科の郷土化教授」では、第 5、6 学年の教授内容は國史年表や神武天皇東征の模型製作、日本精神振興 資料の収集、帝國偉人集の編纂などで、高等科の教授内容は文化年表や明治維新年表、偉人肖像など48 あるため、郷土化というのは名ばかりで、実は國史の教授となったのである。一方、台湾本島の「郷土 歴史」に関する内容は、地理科の「地方沿革」部分に置かれ、國史科の教授内容に属されていない。 以上を見ると、臺中州の歴史教育の實際化運動(または郷土化運動)は、國史を成立させる補足的存 在となってしまい、つまり皇国史観の前で公學校の歴史教科書と同じく傍系的・支流的存在になってい るのである。台湾史ないし郷土史は日本史の下に位置づけられ、日本人参与の有無によって教材として 選ばれるか否かの要件となる。台湾早期歴史の曖昧化や「臺灣民主國」の史実、統治初期の武装抗日事 件などの出来事は、つまり「良き」日本統治にとって不利な事柄は載せられないことになっている。臺 中州が編纂した『郷土史回顧』で強調されているのは、北白川宮能久親王が反乱平定に対する犠牲精神 と天皇が台湾の人々に対する「恩澤」である。言い換えれば、歴史教科の郷土化は上述した人物や出来 事についての編纂・教授であり、台湾郷土の人物や出来事についての発掘ではなかったのである。歴史 教科は日本の建国神話や歴代天皇、聖哲賢人、近代日本の形成などの皇国史観を主体としているため、 台湾の子どもがこうした系統的な日本歴史や伝統文化を学習した結果、「國民精神ノ涵養」の助長はも ちろんであるが、子どもが持っている台湾の伝統的文化や郷土文化を自ら軽視することになることも考 えられる。多文化教育的視点から見ると、歴史教科は異なる文化の平等や共存共栄を軽んじ、主流的文 化である日本(皇国)文化のみを高く据え置いて教えるため、多文化教育的要素がほぼ存在していない と考えられる。

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第三節 地理教科書における郷土教育的要素の分析 第一項 地理教科書の分期と内容分析 地理科は公學校制度が発足した当時にはなかった教科目であり、1918(大正 7)年に府令第 17 號「公 學校規則中改正」の発布・施行と伴って地理科が新設され49、前節の歴史教科と同じく高学年の第5 と 第6 学年に週 2 時間程度配置されたのである。地理科が存在しなかった時は國語教科書が代わりに地理 関連知識を教授している。府令第 17 號「公學校規則中改正」によると、地理科の設置理由は「本島人 に帝國臣民たる名譽と幸福とを知らしむる為、我國の情勢を知らしむる必要がある」50とされ、1920(大 正9)年 9 月 1 日の地方制度改正に伴って翌年 4 月に府令第 75 號「公學校規則改正」が発布され、そ の中に地理科の教授目的や方法に関して「地理ハ本邦及本島ト直接ノ關係ヲ有スル地方ノ自然及人文ニ 關スル知識ノ一般ヲ得シメ本邦國勢ノ大要ヲ理會セシメ處世上必須ナル事項ヲ知ラシムルヲ以テ本旨 トス…<中略>…本島ノ地勢、氣候、區劃、都會、産物、交通等ヨリ始メ漸次本邦ニ及ホシ進ミテハ本 島ト直接ノ關係ヲ有スル南支那、南洋其ノ他ノ地方ニ關スル事項ノ大要ヲ授クヘシ…<中略>…授クル ニハ成ルヘク實地ノ觀察ニ基キ又地球儀、地圖、標本、寫真等ヲ示シテ確實ナル知識ヲ得シメムコトヲ 要ス」51と規定している。この規定を見ると、地理科の教授方針は実地観察に基づき、地球儀や地図、 標本、写真などによって「確實ナル知識ヲ得」ることが重んじられ、つまり実学的精神が重視されてい るのである。また、その教授法は台湾の地理に関する知識対する理解から日本、南中国、南洋地方、世 界へと「内から外」の同心円式教授法に基づいていると分かる。しかし、教科の設置理由は「帝國臣民 たる名譽と幸福」を台湾の子どもに理解させるためであるとされている。 臺灣總督府が編纂した地理教科書は全3 期に分けられ、最初に発行されたのは 1921(大正 10)年の 『公學校地理 兒童用』である。地理教科書と前節の歴史教科書と異なる点は、歴史教科書のような十 数回以上の頻繁な改版は行われていなかったことが挙げられる。下表(表6)は全 3 期の地理教科書の 初版発行年、書名、巻数を製表したものである。 表6:地理教科書発行期数表 期数 初版発行年 教科書名称 巻数 第1 期 1921(大正 10)年 『公學校地理 兒童用』 巻1∼2 第2 期 1931(昭和 6)年 『公學校地理書』52 1∼2 第3 期 1941(昭和 16)年 『公學校地理書 第一種』 巻1∼2 上表を見ると、第1 期の地理教科書は約 10 年間、第 2 期も約 10 年間、第 3 期は約 4 年間使用され たと分かる。しかし、第1 期教科書の巻 2 は未だ出土しておらず、第 3 期教科書の使用時間も短いため、 本節では修身・歴史教科書と同様に1930 年代に発行する教科書、つまり第 2 期の地理教科書を取り上 げて内容の分析を行う。なお、歴史教科書と同じく版毎に欠落しているものがあるため、下表(表7) は1931(昭和 6)年に発行された初版の巻 1 と 1933(昭和 8)年に発行された第 3 版の巻 2 を用いて 第2 期地理教科書の課を製表したものである。

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表7:第 2 期地理教科書『公學校地理書』の内容 『公學校地理書』巻1(初版) 『公學校地理書』巻2(第 3 版) 課番 タイトル 課番 タイトル 1 大日本帝國 2 臺灣地方(一) 3 臺灣地方(二) 一、臺北州 二、新竹州 三、臺中州 四、臺南州 五、高雄州・澎湖廳 六、臺東廳・花蓮港廳 1 奥羽地方 一、區域 二、地勢 三、産業 四、交通 五、都邑 4 臺灣地方(三) 5 九州地方 一、區域 二、地勢 三、産業 四、交通 五、都邑 六、薩南諸島・琉球列島 2 北海道地方 一、區域 二、地勢 三、産業 四、交通 五、都邑 6 中國地方 一、區域 二、地勢 三、産業 四、交通附瀬戸内海の交通 五、都邑 3 樺太地方 一、區域 二、地勢 三、産業 四、交通 五、都邑 7 四國地方 一、區域 二、地勢 三、産業 四、交通 五、都邑 4 朝鮮地方 一、區域 二、地勢 三、産業 四、交通 五、都邑 5 關東州 6 我が南洋委任統治地 8 近畿地方 一、區域 二、地勢 三、産業 四、交通 五、都邑 7 大日本帝國總説

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9 中部地方 一、區域 二、地勢 三、産業 四、交通 五、都邑 8 アジヤ洲 一、總論 二、支那 三、東南アジヤ 四、印度 五、シベリヤ 9 ヨーロツパ洲 10 アフリカ洲 11 北アメリカ洲 12 南アメリカ洲 13 大洋洲 14 世界と日本 10 關東地方 一、區域 二、地勢 三、産業 四、交通 五、都邑 15 地球の表面 上表(表7)を見ると、地理教科書の編纂・教授方式は、巻 1 では最初の日本領土概要である「大日 本帝國(1-1)」から始まり、次に台湾に関する 3 課、九州地方、中国地方、四国地方、近畿地方、中部 地方、関東地方へと次第に広がっていき、巻2 ではその続きで奥羽地方、北海道地方、樺太地方、同じ 植民地である朝鮮地方、日本が扶植している関東州、南洋統治地へとつないで「大日本帝國總説(2-7)」 でひとまとめ、次にアジア、ヨーロッパ、アフリカ、北アメリカ、南アメリカ、大洋洲へと世界を一巡 した後に「世界と日本(2-14)」と「地球の表面(2-15)」でまとめ、つまり「近いところから遠いとこ ろへ」や「内から外へ」という同心円的な教授方式を採っており、地理教育の郷土化・実際化原則53 一致していると分かる。こうした系統的・実学的な編纂方式を採用しているため、台湾に関する記述も 必然的に多くなると考えられる。実際、上表(表7)には入っていないが、現在出土している第 1 期の 巻1 において台湾を記述する課は全 9 課の中に 8 課54、すなわち約88.89%を占めていることから見る と、地理科の郷土化・實際化程度は最初から高かったと分かる。第2 期教科書では台湾関連内容が 3 課 に減らされたものの、他の地方より多く占めているため、郷土化程度が相対的に高いと見受けられる。 「臺灣地方(一)(1-2)」では位置や面積、人口、地勢、気候、産業、交通、行政区画などを含む台 湾の概況を説明している。「臺灣地方(二)(1-3)」は、臺北州・新竹州・臺中州・臺南州・高雄州と澎 湖廳・臺東廳・花蓮港廳、つまり「地方制度改正」がなされた後の「5 州 3 廳」についてをそれぞれ説 明する内容である。「臺灣地方(三)(1-4)」では、農業や畜産、林業、水産業、工業、鉱業、商業など の産業を紹介した次に海陸交通や郵便、電信、電話などの交通関連事項を説明している55。以上を見る と、地理教科書における台湾関連記述は、「地勢的地理」の紹介まで留まっており、「歴史的・人文的地 理」があまり提起されていなかったと見られる。すなわち、一つの地方の人口や産業は紹介するが、何 故人口が増減したか、何故こうした産業が興ったかについては追究しないということである。「近いと ころから遠いところへ」や「内から外へ」という教授法は地理教育の郷土化・実際化原則に沿っている が、「歴史的・人文的地理」が欠けているため、地方文化教育や農村教育としての郷土教育が一定の程 度でしか成立していないと考えられる。別の角度から見ると、「内から外へ」の同心円的教授法は、小 さな郷土(=台湾)から大きな郷土(=日本)へと認識していく過程と看做すことができるため、小さ

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な郷土を愛することがやがて大きな郷土を愛することになれる、つまり台湾を愛することが日本全体を 愛することに拡大できるのである。すなわち、愛国教育としての郷土教育的側面が、地理教科書の編纂・ 教授方式から覗えるのである。こうした内容を多文化教育的視点から見ると、台湾的要素が相対的に多 く占めているため、マイノリティ文化がカリキュラムに反映することがある程度見受けられるが、「歴 史的・人文的地理」要素とその中に内包している文化的要素の欠如によってマイノリティ文化を軽視す る傾向にあると考えられる。また、地理科の設置理由である「帝國臣民たる名譽と幸福とを知らしむる」 ことを見ると、多文化教育的局面の一つである「民族自決」と全く異なる方面に向いていると分かり、 「歴史的・人文的地理」が存在していないのも理解できると考えられる。 第二項 臺中州の地理補助教材について 臺中州は地理科教育の郷土化・実際化について、実地観察と実地調査の精神に基づき、「一般教材の 郷土化」と「郷土教材の利用」と二つの教授ポイントがある56と指摘している。言い換えれば、それは 都市や農村、山村、漁村などそれぞれの生活形態だけでなく、各地の産業や交通、地形、気候、土地、 地方沿革など「自然的地理」と「歴史的・人文的地理」を一緒に取り扱わなければならないということ である。府定の地理教科書と異なる点は、臺中州は地理教育を行う際に、単に教科書の中の知識を暗記 させるに留まらず、「歴史的・人文的地理」の教授と実地観察ないしフィールドワークを重視している。 前項で提起した府定の地理教科書の各課の内容は、大概地域・地勢・気候・産業・交通・都邑に分け られている。臺中州が重視するポイントの一つである「一般教材の郷土化」は、一般教材つまり教科書 の内容を持って実地で観察した結果と比較・対照をし、すなわち教科書の内容がただの活字ではなく、 実際に目の前にあるという直観教育法57を採っているのである。例えば府定の地理教科書の「九州地方 (1-5)」では、九州の有名な阿蘇山と温泉を紹介しているが、臺中州の草屯公學校は臺中州南投郡にあ る大屯山を例に取り、それぞれの火山口の面積や九州と南投郡の総面積との比較、九州の平野・河川と 臺中州の平野と濁水溪や大肚溪、大甲溪、大安溪などとの比較などを通して、子どもに地理教育を行う ことが挙げられる。こうした教育法によって、子どもは身近な例によって九州の火山や平野、河川に対 してイメージできるのみならず、自らの郷土にある火山や平野、河川に対する理解も一層深まることに なると考えられる。また、九州島の海岸線が長く良港も多く、それの面積や交通、人口、生産物などの データを台湾のデータとの比較によって、子どもに自分の郷土の発展程度に対する関心を喚起すること もできる58。外国地理について、学習の視野が広くなるため、郷土との対照を重視する他に「郷土」の 定義と範囲を日本とし、外国地理と比較・対照するものとなっている。例えば海外の移民状況や移民地 の良否、貿易関係、輸出入商品、交通航路などに関する比較と解説をなされ、「大きな郷土」である日 本の対外関係を認識させ、台湾の子どもを「世界観を持つ日本公民」として育成する59のである。 もう一つの臺中州が重視するポイントの「郷土教材の利用」は、子どもの日常生活に関わっている事 物をなるべく教材として使用し、または子どもの生活経験に基づいた郷土調査をさせることである。例 えば家という住宅自身や近辺環境、家屋の構造、家近辺の地形、気候などに対し、観測や読図、図画の 練習・調査をさせ、その得られた結果で郷土の地理知識を学習・比較する総合的学習活動ができる。こ うしたフィールドワークや総合的学習活動によって、子どもが郷土への理解と愛着の向上が図られる60 のである。実際の例を挙げると、臺中州の鹿港第二公學校では「公民的郷土地理教授豫定表」が定めら れ、第6 学年第 3 学期の「課外活動」コマで上述した総合的学習活動が行われ、1 回 3 時間の授業を 8

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回(8 日)行われると規定している。その内訳には鹿港の区画や自然地理、「人文的地誌」、「人文的地理」、 「我々の覚悟」などのテーマに分けられた授業が挙げられ、その郷土調査ないしフィールドワークを通 して集められた資料は、『郷土誌』の材料として編集されることもあり、地理科の郷土化教育の重要な 参考資料となっている61。しかし地理科は前述した通り、高学年にしか配置されていない教科目である ため、低学年の場合は國語教科書でその穴を埋める仕組みになっている。臺中州では低学年の子どもに 國語科や修身科などで地理関連の内容を教える際に、郷土教材や校外指導を利用してその地理知識を教 授することになっている。例えば國語教科書(以下の例は第3 期國語教科書の課)における「私ドモノ 庄(3-4-8)」や「市場(3-6-14)」、「臺灣(3-7-5)」、「茶(3-7-13)」、「暴風雨(3-7-18)」、「塩ト砂糖(3-8-14)」、 「臺灣の果物(3-8-20)」などの課を教える際に、教師はその相関する地理資料を提示して内容の補足を 図る62ことになっている。 以上を見ると、臺中州の教育郷土化・實際化が地理科教育において強調しているのは、府定の地理教 科書と自らの郷土(臺中ないし臺灣)との比較・対照を通して子どもの理解を図る「一般教材の郷土化」 と、教科書内の叙述だけでなく、自らの周りに実際にある教材を見つけ出すという「郷土教材の利用」 の2 点である。この 2 点は共に実地調査・直観教育を重視しているため、子どもが学んだのは「地勢的 地理」に留まらず、「歴史的・人文的地理」まで拡大していると見受けられる。これは府定の地理教科 書が軽んじている点であり、言い換えれば、地理教科書のみで教室内授業を行うだけだと、地方文化教 育や農村教育としての郷土教育がなかなか成立できないと考えられるのである。また、多文化教育的視 点から見ると、こうした日台地理の比較や対照を抜くと「日本が主体的存在、台湾が支流的存在」とい う同じような結果が得られると考えられる。従って、地理教科書は修身や歴史教科書と比べると、郷土 教育的要素・多文化教育的要素が相対的に高いと見られるが、地方や学校、教師のやり方によって大き く変動するものであると考えられる。 第四節 その他の教科における郷土教育的要素の分析 本章はこれまで道徳教育を担う修身科と歴史科、地理科の教科書を中心に分析してきたが、その他に 理科や實科(農業科・工業科・商業科を含む)、圖畫科(または手工及圖畫科)、家事及裁縫科(または 裁縫科)などの教科(全て高学年にのみ配置されている)がある。しかし、これらの教科の教科書は殆 ど出土していないため、現存している『臺中州教育』を研究材料として上述した教科の郷土教育的要素 について考察し、またそれに対して多文化教育的考察を行っていく。 第一項 理科の教育實際化と補助教材の分析 歴史科や地理科と同様に、理科は公學校が発足した当初になかった教科目である。1907(明治 40) 年2 月に公學校修業年限の変更を主にした府令第 5 號「公學校規則中改正」の発布によって、公學校が 地方の特性や需要によって修業年限が従来の6 箇年から 4 箇年か 8 箇年63に変更でき、その中の修業年 限が8 箇年の公學校には、理科という教科目を加える64ことになった。この時期における理科は修業年 限が8 箇年の公學校にのみ設置されており、すなわち公學校側の方針によって設置随意科目になってい るが、1912(明治 45)年 1 月に「内地では近來時弊救濟の目的で、特に力を實業教育に注ぐ事となり、 初等教育・中等教育で農工商の實科を課するもの、漸次増加の傾向を生じて來た。此處に於て本島でも 此等の事情を斟酌し、實業教育施設の途を開く」65ための改正案が提出され、その主な変更点は修業年

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限が8 箇年の公學校を廃止し、一般の 6 箇年に戻すと共に卒業生が進学するための實業科を設けること である。この改正案によって理科は公學校の常設教科になり、高学年の第5・第 6 学年に週 2 時間程度 配置された66。1912(大正元)年 11 月に公布された「臺灣公學校規則」の第 22 条によると、理科の教 授目的・方法は「通常ノ天然物及自然ノ現象ニ關スル知識ノ一斑ヲ得シメ…<中略>…植物、動物、鑛 物及物理化學上ノ現象中主トシテ兒童ノ目撃シ得ル事項ニシテ成ルヘク農業、商業、工業、家事等實際 生活ニ適切ナルモノヲ選ヒテ教授シ又人身生理竝衛生の大要ヲ授クヘシ…<中略>…成ルヘク實地ノ 觀察ニ基キ若ハ標本、模型、圖畫、實驗等ニ由リ明瞭ニ理會セシムヘシ又迷信ニ關スル事項ハ特ニ説示 シテ之ニ陷ラサラシメムコトヲ務ムヘシ」67と規定している。この文言を見ると、理科教育は地理科の 教育實際化・郷土化と同じく「兒童ノ目撃シ得ル事項」すなわち直観教育、「實際生活ニ適切ナルモノ ヲ選ヒテ教授」や「實地ノ觀察ニ基キ」すなわち郷土教材の利用と一般教材の郷土化を重視している上、 「實驗等ニ由リ明瞭ニ理會セシムヘシ又迷信ニ關スル事項ハ特ニ説示シテ之ニ陷ラサラシメム」と規定 し、台湾の民間における迷信的・宗教的慣習に対して科学的実験を用いて打破することも強調している。 臺灣總督府が出版した『公學校教授要目』によると、公學校の理科の内容は、動物や植物、鑛物、物 理、化學などが含まれており、教材の性質で区別すると、生物教材、鑛物教材、化學教材、物理教材、 氣象教材、生理衛生教材などがある。理科教科書の内容には相当の地方色が見られ、例えば第5 学年第 1 学期に教授される「臺灣の毒蛇」や台湾の保育動物である「白鷺」、「臺灣螢ほたる」68、第6 学年第 1 学期 に教授される「蔗と砂糖」や「樟と樟腦」など台湾特有の動植物が挙げられる69。また、動植物を使う 実験や実地観察を行う際に、台湾の現有品種を優先に考慮すると規定している。 『臺中州教育』によると、理科教育の郷土化の特徴は「大衆化」と「實用化」であると述べられてい る。「大衆化」と「實用化」というのは、子どもへの理科教育はそれぞれの家庭内にも影響を与えられ、 土俗的・非合理的な部分を取り除き、家庭生活の科学化を図るということである。また、こうした科学 的知識は家庭が農家の場合、農作業や農村経営の改善にも影響を及ぼすことができ、それによって郷土 振興にもつながれる。従って、理科教育の郷土化・実際化は「農場・大地・學校」を理科教室にし、教 師が庄民生活品質の改良(例えば倹約や農村経営科学化、家庭生活科学化、職業指導など)の責任を負 うものである70と述べられている。府定の理科教科書は全台湾が共通するものであり、前節の地理科と 同じく地方の特色が省かれることがあるため、郷土教育の教授法はこうした穴を補うことができる。 実地観察や実地調査は理科教育と地理科教育の共通する郷土教育的教授法であり、つまり「郷土教材 の利用」と「一般教材の郷土化」が重視されているのである。『臺中州教育』によると、某公學校教師 が郷土化教授の成果について「子供が教室内で座ったままだと、教師は水成岩や水晶の標本を持つ來て も、子供は興味を示さなかつた。しかし、一旦校外近邊の川邊に連れていつたら、石を拾わせるだけで も黙ったままの子供が一轉して學習興味が高まり、質問も絶えなくなつた」71と語っている。この経験 談から考えると、実地観察・実地調査という郷土教育的教授法すなわち郷土教材の利用は、理科教育に 対してプラス的効果が得られると言える。この実地観察の場所は子どもの生活している郷土の野外が最 も適切であるが、授業の時数や観察場所と学校との距離などの時間的・空間的要素によって、授業の進 捗に合わないこともある。こうした場合、臺中州の公學校では「學校園」(或いは郷土園)を用いてそ の欠落を補うことがある。學校園というのは、公學校内や周辺の空き地を利用して郷土の自然環境に模 擬して建てたものであり、そこで植物の栽培や動物の飼養が行われている。學校園を立てるのが無理な 場合は、教室内観察や宿題などの方法で子どもに夜間や休みの日を利用して観察実験させる72のである。

表 7:第 2 期地理教科書『公學校地理書』の内容  『公學校地理書』巻 1(初版)  『公學校地理書』巻 2(第 3 版)  課番  タイトル  課番  タイトル  1  大日本帝國  2  臺灣地方(一)  3  臺灣地方(二) 一、臺北州 二、新竹州 三、臺中州 四、臺南州  五、高雄州・澎湖廳  六、臺東廳・花蓮港廳  1  奥羽地方 一、區域 二、地勢 三、産業 四、交通 五、都邑  4  臺灣地方(三)  5  九州地方 一、區域 二、地勢 三、産業  四、交通  五、都邑  六、薩南諸島・琉球

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