― 長崎発中国行の第
1号は上海で何をみたか ―
The first visit to Shanghai by the
・
Senzai―maru" in 1862
YOKOYAMA Hiroaki
一 千歳丸の上海派遣 今か ら140年前の1862年,す
なわち文久二年 に徳川幕府は官船の千歳丸 を上海へ派遣 した。 1854年の開国以来, 8年
にして初の中国派遣船である。1862年5月27日 (文久二年四月二十九 日) に長崎を出航 し, 6月
3日 (五月六 日)に
上海へ到着 した。長崎か ら上海へ8日 ほどかかった。 鎖国時代の長崎は中国からの唐船貿易が盛んに行われていたが,
日本人が中国に渡 ることは禁 じ られてお り,漂
流を除けば,
日本人が中国を正式に見聞するのは2世
紀が りであった。 帰国のために上海を出帆 したのは 7月31日 (七月五 日),長
崎へ戻 ったのが 8月 9日 (七月十 四 日)。 約2カ
月間,使
節団は上海に逗留 した ことになる。千歳丸は幕府が長崎で購入 したイギ リス商船 (「船号アル ミスティス」lArmistice)で, 3本
マス トをもつ358トンの帆船である。派 遣された 日本人は役人,従
者,医
師,唐
通事,阿
蘭通詞,長
崎商人,炊
夫,水
手な ど51名。それ に船員はイギ リス人を中心に16名。従者のなかに幕末最大の志士の1人
である高杉晋作がいたこ とは有名である。 千歳丸の派遣 目的,派
遣への政策決定,中
国 との交渉過程,貿
易業務等については,こ
れまで の研究 にまかせ る2として,こ
こでは残 された様 々な上海見聞録を通 し,
日本人が初めてみた上 海,中
国,な
いしは中国人へのイメージを明 らかにし,明
治期に形成された 日本人の中国観の原 点を探 り出したい。 二8人
の見聞録 千歳丸で上海に派遣された人々のなかで,見
聞録を残 しているのは現在確認で きるもの として は次の8人
である3。 高杉 晋作(長
州藩) 中牟 田倉之助 (佐賀藩) 納富介次郎(佐
賀藩) 日比野輝寛(高
須藩) 峰潔 (源蔵)(大
村藩) 名倉予何人(浜
松藩)単早
宏 山 横 「 遊清五録 」 『 中牟 田倉之助伝 』 「 上海雑記 」 「 贅 就録」「 没鼻筆語 」 「船 中 日録」「 清 国上海見 聞録」 「 海外 日録」「 支那 見聞録」-197-松 田屋伴吉
(長
崎商人) 「唐国渡海 日記」「 唐国渡海 日録」 岩瀬弥四郎(阿
蘭小通詞並)
「文久酉戊上海記録」 何 といって も最大の著名人は高杉晋作である。「遊清五録」は「航海 日録」「上海掩留 日録」 「続航海 日録」「長崎澄留雑録」「 内情探索録」「外情探索録」等か らなる。中牟 田倉之助につい ては,「上海行 日記」等の5本
の記録が残 っているようであるが,そ
れをもとに書かれた伝記に, 部分的に紹介されているに とどまっている。他に著名人 としては,実
業家 として活躍 した薩摩藩 の五代友厚 (才介)が
水夫 として参加 しているが,記
録は残 していないようである。 三 上海租界の繁栄 悠久の歴史を誇 る中国にあって,上
海は新 しい衝である。長江河 口に近い上海に,城
壁で囲ま れた県城が造 られたのは明の時代,1553年
4でぁった。理 由は倭寇の襲撃か ら上海を守 るためで ある。 しかし現在のような中国最大の都市 となる起点は,い
うまで もな く1842年に結ばれた南京 条約で上海が開港 となってか らである。それまでの上海はいわば寒村の一つであったが,
とくに 1845年か ら租界が形成され,イ
ギ リス,フ
ランスを中心 とする西欧列強の手で,近
代都市形成が 始まった5。 上海は中国の都市であって も,中
国人の都市ではなかった。千歳九が上海 に入港 し た時,す
でに租界建設開始か ら17年経 ってお り,西
洋商館が立ち並んだ異様な光景を見 ることが で きた。一種のコロエアル都市であった。上海は中国屈指の新興商業都市 とな り,世
界の船が集 まる貿易都市で もあった。多 くの内外商船が上海港のある黄浦江 (長江の支流)を
行 き交い,黒
煙を吐 く外国軍艦 も威風を見せていた。 その繁栄する異様な光景を初めて 日にした千歳丸の 日本人は驚 きの連続であった。 まず長江をのぼって呉訟か ら支流の黄浦江に入 った千歳丸が 目にしたものは,狭
い黄浦江に浮 かが無数の船舶であった。帆船の長いマス トが林立 し,遠
くが見通せないはどであった。中国船 はジャンクと呼ばれる小さな帆船が主流であろう。現在 も帆をおろしたジャンクのマス トが黄浦 江に林立 している光景をみることができる。 大村藩の峰潔はその光景を次のように記 している。 「遥かに眺望するに諸国商船六百余艘集,其
柱上遠 く臨むに冬山の林の如 し。中に火輪舟五六十 余般あ り。砿大なるは英仏の二艘な り。船長約二十六七間大砲五十柱備の蒸気軍艦なり」6(峰
) 商船に交 じって蒸気軍艦,す
なわち幕末の 日本を驚かせた黒船 も碇泊 していたのだ。 「昼四時過,上
海の港に着船す。此処川横十町長四十町許の処,各
国の夷船輻壌 し,清
国の艇舶 数知れず。帆橋の連立する恰も林の如 く,実
に繁花の地な り」7(峰
) 「鋭橋」 とは帆船のマス トのことである。「繁花の地」 と驚いたのは峰潔一人ではない。納富 介次郎,名
倉予何人,中
牟 田倉之助 も同じように船舶で混雑する黄浦江の姿に驚愕 している。 「黄浦中来舶するところの蛮船百余舟。中に軍艦十四五艘も有るべし。且唐船の碇泊する幾千と 云ふ数を知 らす。帆楢の多きは万頃の麻のごとし」8(納
富) 「右岸には西洋諸国の商船櫛比し,壮
観を極た り。実に支那諸港中第一繁 昌な り所 と聞し故,左
も有べきな り」9(名
倉) 「帆橋林立して前岸を望む能わず,数
万の船舶江中に泊する事綿 々として,我
二里余に亘れ り。 本港の盛なる吾浪華の比に非ず」Ю(名倉) 「上海滞在之洋船百艘も可有之欺。唐船は一万艘も可有之欺。誠に存外之振にて候事」11(中牟 田 ) 船舶数は各人各様で,若
千「 白髪三千丈」的表現に似たいい加減な数を並べているが,上
海の 繁栄が りを伝 える表現は,ど
れ もこれ もほぼ同じである。-198-岩瀬 弥 四郎 が 5月 10日の「 上海港碇泊外航船数」 を明記 してい る認。軍艦 はイギ リス
13,フ
ラ ン ス3,ロ
シア1の17艘,商
船 は イギ リス53,フ
ラン ス41,ハ
ンプルグ8,支
那5な
ど合計 120艘 。 他 にデンマー ク,ス
ウ ェーデン,オ
ラン ダ,プ
ロ/セ
ン,ノ
ル ウ ェー,イ
スパ ニア,ロ
シア,
日 本 な ど各 国の商船 で賑 わ って いた。 出帆 した長 崎 も 日本唯― の国際港 であ ったが,比
較 す るのが恥 ず か しか つたのであ ろ う,比
較 の対象 にす らして いない。浪華 (大阪港)を
あげて い るが,「 比 に非 ず」 とい う。 商 人 の松 田屋 伴吉 は,「 世界一番 」 の賑 や か さ と表現 してい る。欧米 を知 らないか ら,世
界 と は中国を指すのか もしれない。 「 呉訟 江 よ り上 海迄五 里斗 之処 は,唐
漁 舟誠 に沢 山,数
不 相知,世
界一番 之賑 成処 と相 見 へ」弼 (松田屋) 驚 くのはおびただ しい船舶 の数 だけで はない。 マ ス ト林立 の 向 こうには,新
し く立 ち並 が洋館 が忽然 と目に入 る。高杉晋作は,上
海城 に入 る手前 の両岸 に見 える民家 は 日本 の風景 とほ とん ど 変 わ らないが,租
界 に並 が各 国の商館 は城 閣の ようで,そ
の壮大 な様 を筆 では表現 しがたい,
と 感嘆 してい る。 「 五 月六 日,早
朝川蒸気船来,引
本船,左
折朔江,両
岸民家風景殆我邦無異,右
岸有米利 堅商館, …午前断到上海港,此
支那第一盛津港,欧
羅波諸邦商船軍艦数千艘碇泊,橋
花林森,欲
埋津 日, 陸上則諸邦商館紛壁千尺,殆
如城 閣,其
広大厳烈不可以筆紙蓋 也」M(高
杉) 日比野輝寛はその形容 を次の ように表現 し,最
後 に一旬詠 って い る。 「 各国の商館相連 り,碇
泊の船 その多 きた とへがた し。南方 は連橋林立蓋 くる処な し。千歳九各 国の船 間を走 る十里余,岸
を離 る,里
余 に して下錨す。江 は満抹 皆船 な り。陸 は家屋 比麟,何
ぞ 盛 な るや。 帆橋林立沙無辺 。終 日去来多少船。請看街衡 人不 断。紅塵 四合与雲連。 憶従曾有大清患。市利網収老沸姦。休言上海繁幸地。多少蕃船梱載逮。」b(日
比野) 以上 は,静
か に黄浦江へ滑 り込 んだ千歳丸船上 か ら眺めた上海の景観であ る。 川面 に映 る夜景 も綺麗 だ ったのだろ う。高杉晋作 は「 光景,昼
の如 し」 とい う。「 入夜,両
岸 燈影泳水波,光
景如昼」弱(高杉) 宿 は租界 にあ る蘭館 (オラン ダ領事館)附
近 のホ テル宏記洋行 であ った。租 界 の商館附近 は素 晴 らしい繁華衝 に映 った。 「我旅亭 は即此蘭館 の隣宅 にて宏記 と云夷 国造 りの家 を借 り轟旅 とす。此処は川端に して全面の 道幅八九間或 は十 間,江
に沿て往来あ り。此辺は夷人居住以来,新
に町家 な ども建 し処にて,縦
横 に衡路 を割 り,道
幅広 く,随
て街 中も補清潔な り」W(峰
) 「 都 而 上 海 と申所 は 人 間沢 山に,而
透 間無 之,其
中 に舟 場 は積 荷 揚 荷 に而混 雑 な る こ と也 」18 (松田屋) 肩 が触 れ合 うは どの雑踏 が りで,
と くに上海人 に とって も初 めての 日本人であ るか ら,物
珍 し い。ち ょんまげ姿 と帯 刀姿 に人だか りとな って,取
り囲まれた。 「 日本人上陛致 し候処,見
物人群集 り,頓
と 日本に先年異人婦人杯上陸いた し候時 と同様,歩
行 出来かね賑成事也」D(松
田屋) 「 市井 の人,(我
)等
を見んが為めに数百の人,門
に潜 りよ り,縞
に群 り来て我前後 を取囲み, 官人制す るも恐 る ゝ色 な く」20(峰) 物珍 しさで集 ま った人 々をか き分 け,前
へ進 まなければな らなかった。名倉予何人は,ま
さに 江戸 の雑踏 だ とい う。 「 其繁華雑沓 な る事,本
朝江戸 に異 な らず」21(名倉) 一-199-―四 混沌の上海への幻減 一見
,欧
米外国人による租界の建設で栄華を極めているように映った上海であったが,市
中を 徘徊できるようになると,繁
栄の裏で苦悩する上海の姿をしっか りと認識することができた。 高杉晋作をは じめ とした選 りす ぐられた各藩の藩士であるから,武
士の教養を支えていた儒学 の聖地である中国に,ま
だ見ぬ憧れを抱いていたのは十分に理解できる。 ところが,そ
の憧れの 中国の無惨な姿に遭遇 し,彼
らは二様 に愕然 とし,一
種の幻滅を深めてい く。 一言でいえば,清
王朝の衰退 ・衰微が生み出す社会的混乱 と道義的堕落への苛立ち,そ
して西 欧列強による侵略の危機 にたいする清朝の無能さへの絶望感である。裏返せば,開
国か ら倒幕 に 向かう日本の危機状況の もとで,幕
末志士たちが抱いていた危機感か ら生 まれる反応の一つであ る。 実は,1862年
の中国は天下大動乱のまっただ中であった。すなわち太平天国の革命運動が清朝 の天下を根本か ら揺 るがしていた。中国は外にあっては西欧列強の侵略,内
にあっては太平天国 を中心 とする各地の叛乱が,清
朝の支配を弛緩 させていた。 まさに内憂外息である。 この変動期,中
央の皇帝支配が弛緩すれば,各
地は秩序を失 って混乱の極致に直面する。新興 都市 ・上海 も同じであった。太平天国運動は洪秀全を最高指導者 とする宗教結社による清朝打倒 の革命運動であ り,絶
対平等を求める農民運動でもあった。 しかし,そ
れは伝統的な王朝打倒の 革命運動 と異な り,キ
リス ト教をベース とした宗教結社の農民運動でもあ り,い
わば伝統的な儒 赦秩序への意義申し建てで もあった。 1853年,洪
秀全は南京を占領 し,そ
こに太平天国を建国し,具
民族王朝の打倒を呼んだ。上海 は南京の下流にあ り,太
平天国に とってみれば,ま
さに世界へ開かれる重要基地である。太平天 国側は1862年 1月か ら6月 にかけて,第
2次
上海進攻を試みた22。 この危機にあって,清
朝はみずか ら上海を防衛する力を喪失 し,上
海の防衛を新 しい支配者で あるイギ リスやフランスの軍隊に任せた。 イギ リス軍,フ
ランス軍に支援 されたF.T.ゥ
ォー ドの「常勝軍」は太平天国の進攻を食い止めていた。 それは上海の軍事的防衛を外国軍に任せるという,い
わば国家主権を喪失 した異常事態を意味 していた。上海は政治的,経
済的には租界建設に頼 っていたが,太
平天国 との内戦では,軍
事的 にも外国の軍事力に依存 してしまった。 千歳丸が上海を訪れた時は,軍
事的にも混乱期であった。租界は新 しい躍動的な契機を生みだ していたが,上
海の旧い中国人社会には,動
乱からの難民が流入 し,ま
さに無秩序な混乱を生み 出していた。男らかに 日本各地の城下町より混乱,退
廃 していた。その姿に,
日本人は愕然 とす るのであった。租界が放つ光に比べ,そ
こはあま りにも惨めであった。光の影が鮮烈であったか らだ。 上海における衝路の汚さ,上
下水道の欠如など,
日本の街 に比べて劣 る点が多かった。 「徘徊街市,土
人如土橋囲我輩,其
形異故也,毎
街門懸衡名,酒
店茶騨,与
我邦大同小異,唯
恐 臭気之甚両已」23(高 杉) 「土人」 とは地元民 という意味合いであるが,街
並みは 日本 とあま り変わ らなかった。ただ臭 気が強烈であった。高杉晋作がいう臭気 とは何か。 衡中に糞尿が放置 され,呉
臭を漂わせていたか らである。 「上海市坊通路の汚核なること云ふべからず。就中小衡間運のごとき,塵
糞堆 く足を踏むに処な し。人亦 これを掃 くふことなし」24(納 富) 租界は比較的綺麗であったが,一
歩外に出ると,中
国人の街はゴミと糞尿に埋 もれていた。当 ―-200-―時の上海 では
,各
戸 には便所 がな く,屋
内ではオマル で排便 し,そ
れ を処理 していた。 なかには 路上 や空 き地 に穴 を掘 り,用
を達 していた。 そのまま放置 され るこ とも少な くなか った。 この無秩序 な原因は一体何故 か。高杉晋作は急激 な近代化 におけ る貧富の差であ る と語 ってい る。 「 上海 は支那南辺 の海隅僻地 に して,害
て英夷 に奪はれ し地,津
港繁栄 と雖 ども,皆
外 国人商船 多 き故 えな り,城
外城裏 も,皆
外 国人 の商館多きか故 に繁栄するな り,支
那人の居所 を見 るに, 多 くは貧者 にて,其
不潔 な る と難道,或
年 中船す まいにて在 り,唯
富 め る者,外
国人の商館 に役 せ られ居 る者也」25(高杉) 豊 かな外 国人,貧
しい中国人,こ
の コン トラス トが租界 と周辺 の格差 として映 ったのであ る。 峰潔 も,急
速 な租界 の発展が,
日先の利益指 向に走 らせ,地
道 な農業 を駄 日に し,糞
尿 を肥料 とす る農業の伝統 を失 わせた結果であ る とい う,中
国人 の言葉 を紹 介 してい る。 「 上海 中,糞
芥路 に満 ち,泥
土足 を埋め,臭
気鼻 を穿 ち,其
汚稜言 を可か らず。依て上人に此事 を詰 問せ しに以前は斯 くまてなか りしに夷人往来以来,上
海 の繁 昌に従 て斯 く道路 の不潔 にな り しと云。是土人 日前の利に走 り日傭弄を専 らとし,農
業 を切 にせず,不
浄 を棄 て 田畠の肥 しに用 ひざ る よ り自然路傍の尾篭にな りしものな り」26(峰) 糞 尿以上 に多 くの 日本人 を困 らせた問題 は飲用水 であ った。 困 らせ た どころか,命
を落 とす大 問題 であ った。上海 の水 は最悪 であ った。 それ を飲 まざ るを得 な く,下
痢 や コ レラにかか り,合
計3人
が帰 らぬ人 とな った。上海 には上水道 が無 く,井
戸 も少 な く,ほ
とん どが汚濁 された黄浦 江 の濁 水 を使用 す るか らであ る。 「 市 中井戸 を穿 たず。只城 中三 四 ヶ所 あ りと云。依 て皆江水 を汲 て 日用 とす。然 るに江水 重濁 に し直に呑む こと能わず。明磐を以て濁泥の汚物を沈め,而
後漸 く呑む可 し。是我 国の人居留難渋 の第一な り」27(峰) 「 川流濁水,英
人云,数
千碇泊船 及支那 人皆飲此濁水,予
以為,我
邦人始来此地未地気,加
之, 朝夕飲此濁水,必
多可傷人」28(高杉) 「 此度 の上海行,最
も娘苦に堪へざ りしは濁水な り。 …その上 に土人死せ る犬馬家羊の類,そ
の 外総 べて汚稜 な るものを この江 に投 ず る故,皆
岸辺 に漂浮 せ り。ユ又死人の浮 べ る こと多 し。 こ の時 コレラ病の流行盛んな りしに,難
民等 は療養 を加 ふ る こと能 はず。或 は飢渇 に堪 へず して死 す る者甚 だ多 し。又 これ を葬す る ことを得ず。故 に この江 に投 ず るな るべ し。定 にその景様 目も 当て られぬ計 りな り。 尚 これに加ふ るに,数
万 の船舶屎尿の不潔あ り。井は上海衡 中綴か五六所 あ りと云 ふ。然 もその濁 れ る こ と甚 だ し。故 に皆 この江水 を飲 む」29(納富) 黄浦江の濁水 に明然 を加 えて澄 ます以外 に浄化 の方法 はな く,そ
れで も病人は続 出 した。比較 的飲料水 に恵 まれてい る 日本人 に とって,黄
浦江 の濁 水 を飲料 水 にす る現実 は,繁
栄 す る上海 の アキ レス腱 の ように映 ったのであ ろ う。 五 外 国支配 の危機感 上海 に来て多 くの随員藩士 が幻滅 したのは,上
海 防衛 の名の も と,中
国が外 国軍 に蹂躙 され, 多 くの中国人 が西洋人 に長 れ をな し,従
属 に甘 ん じて い る姿 であ った。 いわば中国人 としての誇 り,伝
統,主
体性 の喪失 であ る。 黒船来航 か ら始 ま った 日本の危機 意識 が強 い高杉晋作等 は,ま
さに開国 日本の行 く末 を見極 め るため,先
に開国された中国の視察 を買 って出たのであ る。 そ こで 日のあた りに した現状は,西
欧列強の闊歩 であ り,清
朝 の衰退 であ り,植
民地化 されて ―-201-―い く危機 であ った。 まさ し く
,そ
れは 日本 に とって も反面教師 とな るものであ った。 日本が尊皇 攘夷 か ら開国倒幕へ転換す るなかで,上
海訪 間 は一定 の意義 を もた らした。 まず高杉晋作 は,イ
ギ リス人や フランス人が市 内を闊歩すれば,中
国人 が避 けて通 る姿 を嘆 く とともに,そ
れはいずれ 日本 もそ うな るのではないか とい う危機感を示 している。 「 因熟観上海之形勢,支
那人姦為外国人之便役,英
法 (仏の こ と)之
人歩行街市,清
人皆避傍譲 道,実
上海之地雖属支那,謂
英仏属地,又
可也,北
京去此三百里,必
可存 中国之風,使
親近及此 地,嵯
亦可為慨歎央,因
憶,呂
蒙正諫未太宗,以
親近,不
及遠,豊
不宜也,雖
我邦人,可
須心也, 非支那之事也」30(高杉) 「 我 が邦 人 と雖 も,心
すべ き也,支
那 の事 に非 ず也」 とい うのであ る。卑屈 な中国人 に幻滅 す る と同時 に,列
強 の圧 力の も とにあ る 日本の危機感 をつの らせ るものであ った。 納富介次郎 は,外
国人政屋 を許 してい る中国人 に詰問 した。誰 も反論 で きなか った とい う。 「 何 ぞ洋人跛尼 の甚 しきを制せざる。 これ清朝の却て外夷に制せ らるヽところあ らずや と。皆答 ふ る ところな し」31(納富) 具体的 には,儒
者 であ った施渭南がオランダ人 をみて,畏
れ身 を引いて頭 を下げた。 この光景 を見た納富介次郎 はその卑屈 さに相当なシ ョックを受けた ようである。 「 或 日阿蘭 の コンシ ュル所用あ りて来 り過 ぐ。渭南 これを見て,愕
然 として顔色土の ごとく戦慄 し立つて これを拝す。怪 しんでその故を問へば,渠
れ過 ぐる とき吾 を硯む。その意我憐来 りて貴 邦 の人 と談ずるを悪 しむべ し。 尚久 し くせば,恐
らくはその怒 りにあはん と。 …か くの ごとく異 人 を恐怖する国勢の情態,歎
ず るに堪へた り」32(納富) 上海防衛 の外国軍 は,中
国伝統文化の支柱であ ったはずの孔子廟 を駐屯地 としていた。荒れ果 てた聖堂 をみて,ま
さに中国精神が西洋 に蹂躙 されている象徴 と映 ったのである。 日本人武士の 多 くが,そ
の惨状 を嘆いてい る。 「 到 聖廟,廟
堂 有二,…
賊 変 以来英人居之,変
為 陣営,廟
堂 中,兵
卒枕 銃砲臥,観
之 不堪慨嘆 也」33(高杉) 「 学校 は英 人の陣屋 とな りて聖像 も何処 え散乱せんや影形 も無 く実に哀れなる形勢にて豊に大息 に堪 ざ らんや」34(峰) 孔子廟 は,
日本では儒学 を講 ず る聖堂であ り,だ
か ら「 学校」 と表現 した。 「 英人小銃 を持 して聖廟 を守 る。 …豊 はか らんや,こ
の堂 々たる聖廟英人の住する ところとな り, 学校 に嗜けの声 な くただ刺吹操兵の声あ り。嵯,世
の変ずる何ぞ甚だ しきや。李鴻章数万の兵を ひ きいて野外 に賊 を防 ぐ。それ狐を駆 つて虎をや しなふか。何ぞ失策の甚だしきや」35(日 比野) 「 孔夫子之廟,当
時別所 に変 じ,英
人の陣所 と相成居 申候 由,誠
に可憐也」86(中牟 田) 占拠 されてい るのは,孔
子扇 だけではない。 中国人が住む上海城 は高い城壁 に囲まれ,そ
の城 門は外 国兵 に管理 されていた。 自由に出入 りはで きない。 「 西洋人 え相頼,門
番為致候処 よ り,自
国之城 門を 自国之人出入不叶様相成,賊
乱之末故 とは乍 申,余
り西洋人之勢盛なること,為
唐人可憐。支那之衰微,押
て可知候也」37(中牟 田) 納富 介次郎 も同 じ思いであ った。 「 一 日城 内を徘徊 し日暮れに臨んで帰 らん とせ しに,城
門既 に閉ぢて往来を絶す。仏人等 日本人 と見て,即
ち門を開けて通 らしむ。然 るに土人等 これに乗 じて通 らん とするに敢て許さず。時に 官人 の肩輿に乗 りて外 よ り来 り,仏
人の制上 を開かず往かん とせ し故,仏
人怒 りて持 ちたる杖に て連撃 し,遂
に これを退 き回 らしめ し由c鳴
呼清 国の衰弱 こゝに至 る」38(納富) 中国はまさに亡 国に瀕 してい るに もかかわ らず,中
国人 が危機意識 を欠 いている と,多
くが嘆 いている。太平天 国の叛乱 を 自国の軍隊で鎮圧で きず,外
国軍 に頼 らた不 甲斐 な さ と,危
機意識 ―-202-―の欠如であ る。 それが 日比野輝寛の「 狐 を駆 つて虎 をや しな う」の言美 に表 れている。 だか ら峰潔 は
,五
代十 国時代,夷
狭 (契丹)を
招 き入れ,後
唐 を滅 ぼ した後晋の高祖 ・石敬塘 (漢奸 の代表)を
例 に出 して,外
息 を招 くおそれ を強 く主張 してい る。 「按す るに石敬靖,夷
秋 の 力を借 りて終 に其大患を遺す。今清 国唯其 力を借 るのみな らず,自
ら 其城 を守 る こと能 わず して夷秋 に託 す。去れば他 日患を遺 す こと豊計 る可 んや」39(峰) 六 中国人観 の形成 多 くの見 聞録 に流 れ る トーンは,総
じてい えば,上
海 を支配 す る西欧列強 への警戒心 であ り, それ を許 して い る中国人 への軽蔑心 であ る。 と くに当時 の上海 の特殊性 がその感情 を助長 した と 思われ る。 太平天 国運動 はキ リス ト叛 を掲 げていたか ら,伝
統 的 な儒学文化 への挑戦 とも見 な され,い
わ イず「 長毛賊の叛乱」 (松 田屋伴吉 は「長髪族」 と表現)と
して,日
本人 に も否定 的 に とらえ られ ていた。 その鎮圧 に異教徒であ るイギ リスや フランスに頼 る とは,ま
さに中国文化の敗北であ っ た。 同時 に,上
海 は戦争 と動乱 の時代 が生 み出す経済 難民 の対渦 であ った。 そ こには繁 栄 と貧 困 が同時 に存在 していた。 日本人 に映 った上海 は,発
展 す る西 洋租 界,没
落 す る中国世 界 であ り, その極 めて ク ッキ リ浮 かが対照性 が,
日本人の中国観 を形成 したのであろ う。 悲惨 な生活 を余儀 な くされてい る一般庶民 や兵卒 にたいす るまなざ しは,友
れみを越 えて軽蔑 へ 向か う契機 を見 いだす こ とがで きる。 峰潔 は動 乱期 におけ る食糧備畜政策 の必要性 を唱 えてい るが,そ
の欠如 が上海の悲劇 を生んで い る とみなす。 「 上海 中四方 の難 民群集 す る故,米
価 日々沸騰 し (米百斤 にて銭 九貫文,日
本の相場 にすれば二 十七貫文 に当 る),其
外諸品何れ も高料 にて下践の者 は米或は牛本等の 肉を食す る能はず。今 日 我船 に来 る 日雇 の者 を見 るに恰 も餓 鬼の如 く骨 と皮斗 りて一人 も支第 の肥 たるを見ず」40(峰) このままでは餓死す る。だが,清
国官府 はただ手 を こまねいてい るだけで,無
為無策 だ とい う。 「 按 す るに仁者有 勇央。若 し仁者 此十万 の命旦夕にあ るを見ば必ず憤 発 して是 を救 ん。今一人の 是 を哀れむな く,英
仏等清 国を助 くと雖 も亦利 を是計較 す るのみ にて真 の仁心 にあ らず。故 に此 難民 を見て菅 だ救 ざ るのみな らず,時
に或 は此を凌辱 し少 しも哀憐の情な し。嘆息に堪 へざ らん ゃ」41(峰) 混乱 の責任 は「 真の仁心」 を持 たない官僚 であ る。峰潔 には,単
な る「 嘆息」 に とどま らず, 中国庶 民 を凌犀 す る中国官府 の無策 への凌犀 が に じんでい る。 だ か ら次 の ような言葉 が発せ られ る。堕落 した中国知識人 とは違 った 日本武士 みずか らの優越性 を誇示 す るためであ る。 「 上海の陣屋 に到 て其兵卒 を見 るに士兵 にて41k衣,垢
面,徒
晩,露
頭,無
刀。皆乞食の如 く一人 の勇あるを見ず。斯の如 きは我が一人彼の五人に敵せん。若 し一万騎の兵を率ひて彼を征せば清 国に縦横 せん」42(峰) 一騎 当千の意気込 みを語 るものであ るが,い
わば中国兵卒 にたいす る軽蔑的侮犀表現 は,明
治 期 か ら始 ま る 日本 の大陸政策 の精神 を紡彿 させ る ものであ る。 さすがに高杉晋作は,中
国の衰退 は国策 の誤 りとみなす。 「 支那之衰微者形勢略記 に 申候通候,然
るに如此衰微せ し者何故そ と看考仕候 に,必
克彼れ外夷 を海外に防 ぐ之道を知ざるに出し事に候,其
証拠 に者,万
里之海濤 を凌 ぐの軍艦運用船,敵
を数 十 里 之外 に防 ぐの大砲等 も制 造 成 さず,彼
邦 志士 之訳 せ し海 国 図志 な ども絶板 し,徒
に僻気象 (固睡之説)を
以唱 へ,因
循萄且,空
し く歳月を送 り,断
然太平之心 を改 め,軍
艦大砲制造 し, 一-203-―敵 を敵地 に防 ぐの大策無 き故
,如
此衰微 に至候事也,夫
故,我
日本 にも,已
に覆轍 を踏むの兆有 れ者,速
に蒸気船の如 き」43(高杉) だ か ら高杉晋作 は 日本 も外圧 の危機 に直面 し,中
国の轍 を踏 まない ように,守
旧派 を打倒 し, 強 力な海防策 を講 じる必要性 を痛感 した。 あ ま りに も荒廃 す る上海の中国人世界 をみて,中
国にたいす る一種の憧憬 は薄れて きた ようで あ る。名倉予何人 は中国の現状 を比較的淡 々と紹介 しているが,そ
の他の武士連 中は随所 に,外
夷 に凌犀 されてい る中国への憐れみか ら,柵
弾,絶
望,そ
して侮犀ヘエスカ レー トしてい く様 を 読 み とる こ とがで きる。 それは中国にたいす る 日本の優越性の強調 に もみ るこ とがで きる。 「 一 日施渭南 と云ふ もの来 り,詩
を賦 して扇面 に書す。詩 中納貢の事 と蛮王云 々の句あ りければ, 会津侯 の藩 臣林三郎勃然 として大いに怒 り,即
ちその扇 を拗つて曰 く,我
神 国の天皇 は万古一系 革 命有 る ことな く万邦 に比すべきな し。豊汝が北虜王の類な らんや。憎 き腐儒生甚だ以て無礼な りと云ふ」44(納富) 伝統的な中華 と夷次 の華夷秩序 の もとでは 日本 は東夷 であ る。 中国人か らみれば,天
皇 は当然 なが ら東夷の「 蛮王」 にす ぎない。 ところが万世一系の天皇 は「北虜王の類」 とは違 うという。 北虜王 とは,満
州族 出身の清 国皇帝 を指すのか どうか不 明であ るが,そ
うであれば 尚更の事 であ るが,天
皇 は中国皇帝 を凌駕す る存在 であ る と強調 した こ とになる。 倒幕 の尊皇攘夷派 と対立 す る会津藩の藩 臣の怒 りだけ に興味 を引かれ るが,「 神 国天皇」 を特 殊化 す る国家意識の表 れは この時 か らすでに濃厚 であ った。それが転 じて中国を蔑視 す る契機 に な る兆候 を ここにみ るこ とがで きる。 最近 中国で出版 された馬天喩 の研究書 も同 じような結論 を出 してい る。 「 藩士 たちはかつて『文化の母 国』 として崇めていた心理 が,現
実 を 目のあた りにす るこ とで, 動揺 しは じめた。彼 らが会 った中国人は気概 を失 い,言
動 も自らを卑下 し,藩
士 たちに軽蔑心理 を引 き起 こした」「 上海 を初 めて訪 れた 日本人が抱 いた総体的 な印象は次の通 りである。広大 な 土地 と民,悠
久 の文化伝統 を有す る清国は,す
で に国勢 が衰微 し,民
の気 力 も低迷 して しまった。 洋 々た る大 国は昔 日の輝 きが色褪せ,か
くの ご と く没落 して しまった。西欧列強 に凌犀 され,割
愛 されたのは,す
べ て鎖 国で 自らを閉 じ,民
の気風は閉塞 し,政
治 は腐敗 したか らであ る」 だ か ら「上海行 きで直接視察 して得た ものは『 開国は急がなければな らない』『弊政の改革 は 急 がなければな らない』 とい う感想 であ り,そ
れは ま こ とに真実であ った」 とい う。 さ らに「 清 国内政外交の衰微 は,
日本藩士 に往年の中国への尊敬 を軽蔑 の心理 に変 え,武
士文化のなかに深 く秘 め られていた対外拡張性 を発酵 させた」 と結論づけ る45。 武士文化 の真髄 が対外膨張性 にあ る と断定 す るのは短絡的であ るが,上
海視察 が①亡 国の危機 感 をつの らせ,幕
末 の開 国 ・改革 に走 らせ る一助 とな った こ と,そ
して② 中国蔑視の芽 を育 んだ とい うことは,妥
当な指摘 であろ う。 〔註〕1
岩瀬弥四郎「文久酉戊上海記録」県立長崎図書館蔵, 7頁2
千歳丸に関する日本の主要な研究は次の通 り。 宮永孝『高杉晋作の上海報告』新人物往来社,1995年 春名徹「―八六二年幕府千歳丸の上海派遣」『 日本前近代の国家 と対外関係』苦川弘文館,1987年 沖田一『 日本 と上海』大陸新報社,1943年 古賀十二郎「文久二年徳川幕府が初て官有商船千歳丸を長崎より上海へ渡航せしめた英挙に就いて」 『長崎 と上海』大阪朝 日新聞長崎販売所出版部,1923年 また,中
国では次の 2点 が刊行されている。 ―-204-―王暁秋「幕末 日本人悠様看中国