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キルナーの患者選択の倫理基準: 沖縄地域学リポジトリ

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Title

キルナーの患者選択の倫理基準

Author(s)

山口, 龍之

Citation

沖大法学 = Okidai Hōgaku(14): 71-120

Issue Date

1994-01-14

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/6604

(2)

文献紹介・研究ノート JohnRKilner’'Wholives?,Whodies?--EthicalCriteriainPatient selection”YaleUniversityPressl989 沖大法学第十四号

キルナーの患者選択の倫理基準

山口龍之

米国では臓器移植に必要な臓器が不足しており、複数のレシピエント (受贈者)希望者の中から誰に移植するかをいかにして決定すべきかが大き な議論となっているが、この患者選択の問題は臓器移植にはじまらない。 1960年代中盤よりはじまった人工透析の技術は、その初期において機械の 著しい不足に直面していた。10人に1人の患者しか透析を受けられず、残 りの者は死に直面していたのである。かかる状況下で如何にして患者を選 択するか、という問題は当時において大きな問題だったのである。キルナー 氏は、米国に数ある臓器移植センターから、それぞれのセンターにおける レシピエント選択の基準を調査するとともに、いかなる基準が倫理的に好

ましいものかについて検討を加えたモノローグを発表し髪。

本稿では、この作品を紹介するとともに、作品の背後にある米国の倫理・ 思想的状況を紹介できればと思っている。なお括弧内の頁数は、本書該当 頁を示す。 第一章米国における患者選択の現状(4頁) 1960年中盤に始まった人工透析は、その初年度において約800人の患者に

透析を実施している。当時、透析を必要としていた患者は1万人を下らな=

いものと推計されている。こういった状況は、その後2ないし3年間改善 されず、おおよそ候補者の10%の患者が透析を受けることができたにとど まっている。もっとも候補にのぼらなかった患者の数も含めると3%位が、 一 .『■ロロロロー ー

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透析をうけた、というのが適切であるとの指摘もなされている。いずれに

せよ、状況はすぐには好転せず、誰であろうと助かる可能性があれば透析

が受けられるようになるのは、1970年代も中盤になってからであるという。 こうした透析希望患者の選択の問題は、病院スタッフに大きな課題をな げかけた。誰が透析を受けるべきか、その基準づくりがおこなわれたので ある。上院では、若干の議論がおこなわれたが、結局国家的な基準はつく られず、それぞれの現場で対処する必要が生じていたのである。 こうした状況は、臓器移植にその場をかえて現存している。腎臓、肝臓

の臓器移植はもちろんのこと、最近では心臓移植を希望する患者も年3万

2千人から7万5千人にのぼると推計されながら、1千から2千の心臓が

提供されるにすぎず、誰に臓器を移植するかは、各センターにまかされて いるのが現状である。スタンフォード大学のように移植希望者を厳選して も、年に750人からの移植希望者が移植をうけられないままに死亡するにい たっているところもある。 また、インテンシヴ・ケア・ユニット(集中管理室)に誰が入室できる か、という患者選択の問題もある。誰かが退室しないと入室できないとい う状況は、米国もわが国と変わらないらしい。特にネオナタル・インテン シヴ・ケア・ユニット(新生児集中管理室)に入室できるか否かは、時と

して生死の問題を生起する。ある州では、月に15人からの新生児が集中管

理室への入室をまっているという。限られた予算の中で誰に高度医療を行

うか否かの問題も、患者の選択の問題といえよう。 このように考えてみると、患者の選択の問題は、おおくの場面で曰常的

におこっている問題ということができき。

キルナーの患者選択の倫理基準 第二章選択の基準(13頁以下) ブL1j 第1節選択の基準をもつことの是非 キルナー氏によれば、患者選択の基準を持つことに反対する見解は、六

つの根拠に分けられるという。1)すべての患者は平等に医療を受ける権

-2-

(4)

利を有している。2)選択の基準をもつことは、誰か医療を受けられない 者をつくることになり悲劇を生む結果となる。3)選択の基準を採用して しまうと、実験的医療ができなくなる。4)医学上の適合性のみで十分で ある。5)全員が生きられなければ全員が死ぬべきである。6)基準をつ くらず、その場その場で決定してゆけば十分である。 ところで、これら六つは、それぞれ以下の理由で適切でないと批判され るという。 1)に対しては、すべての患者は平等ではない、と主張される。医療を 受けることに消極的な患者も、積極的な患者も同等に扱う必要がある かどうか、そのほうが疑問だ、というのである。それに、選択の基準 を設けないとすると早い者勝ちということになるが、これこそおかしい。 2)に対しては、選択の基準をつくらなくとも悲劇が生まれることに変 わりはない。 3)選択の基準の中に実験的医療を持ち込むことは可能である6 4)医学上の適合I性がほぼ等しい患者間での選択の基準が求められてい るのである。 5)全員が生きられなくとも、一人でも生き残るべきではないか。 6)基準をつくっておくことは、急いで決定しなければならないとき、 混乱を回避することができる。基準無しに選択してしまうことは、か えって不公平な選択に陥りかねない。 沖大法学第十四号 以上のようなわけで、反対はあるものの患者選択の基準を予め用意しな いセンター(医療機関のことをここでは便宜上センターと呼ぶ)は、米国 ではほとんどないということである。問題は、これらの基準がいかなるも のか、それは誰によっていかに決定されるかであるが、この点については、 不明な部分も多い。基準そのものは持っていても、その適用となると、セ ンターの内部で検討され、おそらく医局によって適用されているのである=ノへ う。しかし、医局の決定そのものカヌ適切だったか調査したり、あるいは、 適切な運用を保障するような機構については、いまのところ検討の対象と なってはいないようである。推測するにセンター内では、病院内倫理委員 -3-

(5)

会に類するものが存在し(実際のところセンターといっても大学の一部で ある場合がほとんどである)、そこである程度の議論はなされているので あろう。しかし、各センターの基準が、いまのところばらばらであり、そ の適用の適正についてまで考慮した制度を議論するまでの余裕があるとも 思われない。そこで、本稿ではキルナー氏の論文にそって、各センターが 採用している基準の当不当についての考察に移っていくこととしたい。 キルナーの患者選択の倫理基準 第2節患者選択の16の指標(19頁) キルナー氏は、米国の臓器移植センターなどで実際に患者選択の基準と

して採用されている基準を抽出した。これらの基準は全部のセンターで同

じように採用されている、という意味ではなく、様々な基準を、表現の差 を取抄してみるとおおよそ16の指標にまとめられるという意味である。全

部のセンターが16の指標すべてを採用しているという意味ではないし、同

様な基準が存在していたとしてもその表現が一致しているというわけでも ない。また、複数の基準を採用している場合(そういった場合がほとんど であると推測されるが)、それらの基準間の関係をどう扱うか、という問 題についてもセンターによって扱いはまちまちである。点数化して総合点 で決定しているところもあれば、アド・ホックに決定しているところもあ るようである。ともあれ、ひとまず、キルナー氏が抽出した16の基準をみ てみよう。 重要性に関する評点(5段階評価による平均値) 最重要 治療の必要性(4.2) (移植などの)医療的処置の成功の確率(4.0) 生命の質(3.8) 当事者の希望の強さ(3.7) 治療によって延命される期間(患者のその後の生存期間予測)(37) 重要 精神的強さ(3.2) 士= -4-

(6)

年齢(2.7) 特別の責任一患者が責任ある立場にいるか(たとえば乳幼児の母)(2.5) さして重要ではないが考慮されろもの 必要な財源の有無(22) 科学の進歩への貢献(20) 患者の社会的価値(2.0) 周囲の協力体制(2.0) 医療費が支払えるか(1.8) 任意的選択(1.8) ほとんど考慮されなし、もの 社会的階層(1.4) 性(1.0) 沖大法学第十四号 選択者が基準として考慮する%(何%くらいの選定者が考慮しているか) ほとんどすべての選定者(コーディネイター)が考慮するもの 生命の質97% 患者の精神的な強さ97% (移植などの)医療的処置の成功の確率96% 治療による延命の期間96% 治療の必要性95% 大多数の選定者が考慮すろもの 患者の希望の強さ89% 年齢88% 多数が考慮するもの 特別の責任一たとえば乳幼児の母69% 必要な財源の有無66% 周囲の協力体制61% 科学の進歩への貢献58% 患者の社会的価値56% ほんのわずかの者が考慮の対象とするもの 一〈 -5-

(7)

患者の支払い能力 任意的選択 社会的階層 まったくといってよいほど考慮されないもの 性 43% 31% 27% キルナーの患者選択の倫理基準 1%

第三章各基準の検討

ここでは、キルナー氏の論文の順に従って、キルナー氏が抽出した基準

のうちで重要と思われるものをアトランダムに検討していく。基準が重複

しているようにも思われるが、それは同じ基準でも視点を変えることで議

論が異なってくるためである。このあと、氏はさらに、この検討の結果か

らいくつかの提言をしているが、。そこでは、ここでのなされた検討が基

礎となっている。 ともあれ、各基準について検討していくこととしよう。 第1節患者の社会的価値(社会的評価)(27頁)

患者の社会的価値(評価)とは、その人が「社会から必要とされている

度合い」、あるいは「社会への貢献の度合い」のことをいう。乳幼児がい

るとか、母子家庭で母親なしには子供の生活は考えられない、といった特

定の人から必要とされるケースとは、区別される。この基準では、会計士

であるとか、外科医が最優先の扱いをうけ、続いて航空整備士、家庭の主

婦といった順位がつけられることとなる。

米国では、1960年代末期から1970年代初期にかけて人工透析を受けられ

る患者の選択の基準として話題となったものである。当時、社会的リーダー

を社会にとって負担となっている人々と区別するために導入された、とい

う。42%の機関がこの基準を採用し、また76%の機関が患者の社会的価値

の基準の変形である患者の「職場復帰の可能性」の基準を採用していたと

いう。功利主義的基準の代表例といってもよいものであろう。多くの病院

=二 -6-

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がかかる基準を採用し、またそのことに病院内では異論がほとんどなかっ たが、患者の側からの支持はほとんどなかったという。 患者の社会的価値を選択の基準とすることを支持する根拠は、社会がそ の構成員を救済する制度をつくる以上、社会にとって好ましい者から救済 をはじめることは何等おかしなことではない、という点に求められようか。 この基準が適用されるのは、社会的なリーダーが患者として現れる場合 に限られる、とする見解もある。そうであるとするならば、社会的リーダー が患者として候補にのぼることはそんなに多くはなく、この基準を適用す ることが大きな社会問題となることも少ないのではないか、ということに なる。また、かかる見解を延長していくと、反社会的人物、たとえば犯罪 者もこの基準によって消極的評価を与えてはどうか、ということにもなる。 沖大法学第十四号 社会的価値という基準に対しては以下の反対意見がある。 (1)社会にとって好ましい者を救済するということであるが、果たしてか かる者を救済することで、社会は利益を得ることが期待できるというの だろうか。「職場復帰の可能性」という類似する基準でも、利益を受け るのは本人であって、社会ではないのではないだろうか。 (2)社会にとって好ましい者という基準は、そもそも暖昧ではないだろう か。家庭の主婦は、社会になんら還元するものがないというのだろうか。 「職場復帰の可能性」というときの職場に家庭は入らないとしたら、それ はなぜであろうか。 (3)犯罪者は、消極的評価を受けるとの見解も、それでは犯罪に対する二 重処罰になる、との立場から反対がある。 (4)社会的評価との思想は、障害者であるとか、貧困に苦しむ人々から希 望を奪うばかりでなく、こうした人たちに対する不当な差別になるので はないか。

(5)社会的評価を基準とすることは、基準が暖昧であり、そのため偏向が=

生ずる可能性が強く、また、運用者による全体主義的運用による社会統 制の手段として利用されかねない、という危険もはらんでいる。 -7-

(9)

社会的評価という基準は、1970年代初頭には、人工透析希望者の選択の 基準として採用されていたが、現在では、それほどの支持を受けていない のは、結局のところ上記のような反対のためであろうか。 キルナーの患者選択の倫理基準 第2節社会階層(42頁) ここでいう社会階層というのは、封建的社会における身分といったもの をさすものではない。しかし、居住地による優先順位の付け方や、幼児を 優先したり、退役軍人を優先するといった範晴のつくりかた一般をさす。 社会階層の基準は27%のセンターでしか支持されていないうえ、基準と しての比重も5段階評価で1.5と軽い。しかし、腎臓などは、海外へ移植の ために持ち出されることがほとんど無いことなどを考えると、まったく基 準として作用していないわけではない。また、米国における退役軍人のた めの健康保険機構の存在も無視できない。軍人は国のために尽くしたのだ から臓器移植等において優先されてもよいではないか、という議論である。 さらにわれわれに無関係でないものとして、消極的評価を受ける可能性の あるケースとして外国人の扱いがある。 社会階層の基準は、患者の社会的価値の基準とは若干ことなるものがあ る。すなわち患者の社会的価値が、患者の個人的問題とされるのに対して 社会階層は、患者個人でどうこうできる問題ではない。個人の倫理にかか わらず、その意味では基準として特殊なものということができよう。もっ とも、居住要件などは、個人の意思でどうにでもなる、という意味では個 人的問題に還元できる部分もある。さらに、個人的次元に還元できる階層 として喫煙者か否かというのもある。 かかる基準が支持される根拠は、以下のようにバラエティーに富んでい る。 (1)医療機構が特定の集団によって維持されることも認められている以上、 こうした特定集団のための医療行為が行われ、そのための基準がつくら れてもよいではないか、という。退役軍人のための病院であるなら、そ ういった人々のための基準があってもよいではないか、というわけであ る。また、この視点から米国外居住者よりも米国内居住者に優先して腎 -8-

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臓を与えようという議論がでてくる。米国の保険機構は、米国内居住者 あるいは米国籍の者のためにあるのだから、外国人で臓器移植を望む者 は、米国に特定期間(たとえば1年間)居住していなければならない、 という基準を設けても差し支えない、というわけである。 (2)社会階層といっても、居住要件は、移植後の処置を完ぺきにすること

で移植が無駄にならないようにする、という意味もある。確かに社会階

層を基準としてもたないピッツバーグ大学では28%もの臓器が外国人に 移植されているという現実がある。社会階層といっても、社会階層に適 した医療を供給することで効率的な医療を行うことを目的としているな らば、かような基準も認められてよいではないか、という議論である。 この視点からは、喫煙者に対して消極的な評価を与えることも差し支 えないこととなる。 沖大法学第十四号 これに対して、かかる基準に対する批判としては次のようなものがある。 (1)社会階層という基準は、患者の社会的価値という基準にある種の一般 化を施したものであり、患者の社会的価値における議論と同様の弱点を 有する。すなわち、患者の社会的価値は、社会への還元を目的としてい るが、社会階層もまた特定の社会階層による社会への還元を暗黙の前提 としている、という議論である。 (2)社会階層を居住要件と読み変えたとき、居住要件を要求しているのは、 摘出した臓器を遠くへ運ぶべきでない、という現実的要求に立脚してい るとするなら、それは裕福な患者のみが、病院の側に移住することで移 植を受けられるということになり、貧富による差別を生むことになる、 という指摘である。 (3)臓器のドナーは、しかし社会的階層によるレシピエントの選択を前提 としてドナーとなったわけではないだろう。社会的階層によるレシピエ ントの選択を是認する思想にはレシピエントから摘出された臓器は、も はやドナーの意思を離れて移植機構を維持している地域共同体のもので あるという意識が見え隠れしている。 (4)ドナーが米国で死んだからといって米国籍の人であるとは限らない。 -9-

(11)

米国で行われる死体からの腎臓臓器移植のうち、外国人に移植される

割合は、5.2%である。これが高い割合であるか否かは、国情によっても

異なるだろう。この割合を5%以下に抑えるべきだ、との見解も強く主

張されている(キルナー氏自身の主張)。 キルナーの患者選択の倫理基準 以下にこの問題を分かりやすくするための事例をキルナー氏があげてい るので紹介しておこう。 20才になるルーマニア人のルイザは、ニューヨークに腎臓の移植を受けるためにやっ てきた。マンハッタンのルーマニア正教会の神父によると、ルーマニアでは不可能な 腎臓移植がここでは可能だという言葉を信じてきたのである。もちろんルイザは、ルー マニアでできるあらゆる医療を受けてきた。 ところがニューヨーク/ニュージャージーの国立腎臓基金の担当者によるとルイザ の場合、彼女が腎臓を移植できるチャンスはきわめて少ないという。けだし、腎臓は 米国内でも不足しており米国籍の患者が優先される場合が多いからである。機関によっ ては州住民に優先権を与えているところもあるという。さらに悪いことにはルイザは、 現金をほとんど使い果たしてしまい、たとえドナーが現れても移植に要する費用を支 払えない状態になっていた。 ルイザに居住、国籍、支払いの要件を免除することはできないだろうか。 第3節財源(56頁)

臓器移植をはじめとする高度医療の実施には、大変な金がかかる。医療

機関や保険機構がこのための財源を作出できないとき、それを供出できる

患者に優先的に医療を施行すべきであろうか。他の患者では、そもそも医

療の実施は不可能であるなら、かかる基準を設けて考慮の対象とすること

もやむを得ないのではないだろうか、というのがここでの問題である。66

%のセンターがこの基準を妥当なものとして支持している。もっとも、か かる基準の重要度となるとわずかに5段階評価で2.2にすぎない。

財源を個人が用意できる者に臓器を移植すべきであるとの議論を正当化

する見解としては以下のようなものがある。

-10-

(12)

(1)医療機関が財源を確保できず、患者の負担でしか医療が行えないなら、 それもやむを得ないのではないか。けだし、医療によって誰が利益を得 るかということよりも、誰であろうと患者が-人救われる方を救われな いよりは選択すべきであるからである。かような理由付けは、功利主義 の原則からも正当化される。すなわち、人の命に11偵位をつけずに反対し ながらも、裕福な方を選択するなら、財源が確保されることにより、将 来において別の命を救い得る可能性を残すから、かかる救済も正当化さ れうるというわけである。功利主義のもとでは、たとえ何名かの命を奪っ ても、それ以上の数の命を救い得るなら、かかる殺人も正当化されるか らである。 (2)富裕者を選択する議論としては、社会契約説的アプローチというのも ある。人々が集まって患者選択の基準をつくらねければならないと仮定 しよう。メンバーは、それぞれ自己の社会的地位については知らないも のとする。不公平な選択の基準は避けたいと考えているとしよう。でき るだけ多くの人々が救済されることが好ましい。ただし、性であるとか、 人種によるといった、特定の人が明らかに差別されるような基準は避け たいとしよう。富裕者を選択することは、貧富による差別として絶対に さけなければならない範曉に入るのだろうか。そもそも、富裕者だから といって、移植を望むとは限らず、また全財産を拠出すれば格段に裕福 でなくとも移植は可能であるとしたらどうであろうか。米国のようにだ れもが裕福になる機会を有していると信じられているところでは、こう いった解釈も可能なのであろう。 沖大法学第十四号 かかる理論に異論を唱える見解としては以下のようなものがある。

(1)第一にあげなければならないのは、功利主義的アプローチに対する批

判であろう。多数の命を救うためなら-人の命を奪ってもよい、という

功利主義の原則をここで持ち出すのは誤っているというのである。候補=

者の中から-人を選び、その者の命を救うことと、選ばれなかった者の

命を奪うことは同じではない、というのである。それゆえ、裕福な者を 選ぶことでより多くの命を救えるとの議論は、一つ一つの命の価値は等 -11-

(13)

しいという功利主義の前提をどこかで誤謬していることになる、という のである。 (2)第二に、医療は功利主義的原理に立って進められるべきでない、との 指摘である。医療は、患者を病気以外の資質をもってして判断すべきで はなく、また治療以降のことを考慮に治療をすべきではない、との批判 である。 キルナーの患者選択の倫理基準 財源の問題を明らかにするため、キルナー氏は次のような仮定的事案を あげる。 米国の大学の医療機関は1960年代に財政的危機に直面する。腎臓、特に透析治療は、 連邦政府より厚い財政的保護を受けていたが、この基金もついに底をついてきた。医 療機関は腎臓移植をすすめてきたが、ドナーが現れるまでの期間、人工透析は必要だっ たし、臓器移植に適さない患者もいた。医療機関の財政的危機に対処するため委員会 が開かれた。 ボブという委員が透析の費用を払っていない患者の数を減らしたらどうか、と提案 した。キャサリンという委員は、透析が必要な患者は少なくとも1年間は治療を続け たいと主張した。1年もあれば腎臓移植を受けられる可能性が開ける、というのであ る。1年以降の透析は有料にしてもやむを得ないというわけである。ビルという委員 は、連邦政府基金をただ乗りしている患者からは費用を徴収すべきだ、と主張した。 もっとも、患者が全財産を使い果たすまで費用を徴収することは避けることには同意 した。 結局、臓器移植の可能性がある者を優先することで全員が合意した。 第4節特別の責任(64頁) 家族、特に自立していない子供のいる患者を優先するという基準は、197

二2年に米国で合衆国政府による基金創出前における透析、英国における透析

において広く採用されていた。その影響か、臓器移植においても特別の責 任(家族の存在)の基準は広く採用されている。集中治療室への受付にお いても多くの外科医がアンケートに対して家族の存在を暗黙の基準として -12-

(14)

採用しているという。

特別の責任の基準は、家族の存在の他にもある。たとえば地震の時にお

いては、医師は誰よりも優先して治療を受けることが一般に認められてい る。それは医師を早急に現場復帰させるためである。 先にあげた調査でも米国の臓器移植センターの69%の人がこの基準を正

当なものとして肯定しており、その重要度の評価においても5段階評価で2

5と高い。 特別の責任を肯定する理由としては次のものがあげられる。

(1)家族が必要としているということは、広い意味で社会が必要としてい

るという意味であり、社会にとってその患者を救うことは有益である、 ということである。 また、家族、特に幼い子供たちは精神的には、本人以上に苦しんでい るといってよいであろう。

(2)災害時における医師であるとか、技術者、科学者、戦時における軍人

などが特別の責任を負う者として選択において優先されるのは、功利主

義の視点、すなわち、その者を救うことでさらに多くの命が救済される 可能性が強いからである。 沖大法学第十四号 特別の責任の基準に対しては以下のような批判がある。 (1)確かに子は親が死ぬことで大変な苦しみを味わう。しかし、このよう

な基準で選択されなかったことを知った患者の苦しみは、子の苦しみよ

りもはるかに大きいのではないか。家族を持ちたくとも持てなかった者 もいよう。また、自分の意思で持たなかった者もいよう。それは個人的 な事情ではないか。 (2)特別の責任という基準で幼児のある者を優先する思想は、家族という 特定の価値に重きをおいている。しかし、人間社会にあっても、家族に よって子育てが行われないところもある。 (3)また、現実の社会にある価値観、すなわち子のいる人を幸せと考える なら、むしろ幸せな人を救うよりは幸せでない人を救うべきだ、との議 論もなりたつ。 C〈 -13-

(15)

ここで議論を分かりやすくするために仮定的事案をあげておこう。 キ ルジョージとドナルドはともに、州立病院の入院患者である。ジョージは33才、重度 ナ 1の精神薄弱者であり3才のときより州の施設で暮らしてきた。ジョージの家族は、20 の 患年以上もジョージに会いに来ていない。ジョージは、身ぎれいにしていること、自分 者 選で食事がとれる、といった身辺自立ができるように教育されていた。25才のときの心 択 の臓病による心停止で、体に若干の麻庫が残った。便の始末に困ることがたまにあっ 倫 理た。 基 準ドナルドは、48才のビジネスマン、地域活動にも熱心な教会にも通う信者で、結婚 しており4人の子の父である。心臓病で軽い麻痒がある。リハビリで手足は動くよう になっている。全快する見込みもある。 病院には、一度に二人以上の心停止に対処する人的、物的施設の用意はない。通常 は、交通事故などで患者が運び込まれても、それで十分だからである。 午前3時、ジョージに心停止が起こった。4分後、心臓救急班が処置にとりかかる。 ちょうどそのとき、ドナルドの心臓も停止する。ほとんど同時に起こった心臓の停止 に、救急医療班はとまどった。救急班の全員が、二人の患者の家族や家庭の事情を知っ ていた。班長が最初に来た者を優先しよう、と言った。全貝その言葉に従った。 救急班の介護を得られずドナルドはまもなく死んだ。ジョージの方は、一時的には 回復したが、翌日の午前8時20分、再び心臓が停止、今度は心臓は再び動きだすこと はなかった。 救急班長の決断は正しかったのだろうか。 第5節年齢(77頁) 米国では高齢の患者は、ここで対象としているような治療の対象からは ずされる傾向にある。全米および州ごとのアンケート調査も、こうした傾 向を肯定している。人工透析、腎臓移植においてこのことは顕著である。 キルナー氏自身の調査でも88%の腎臓専門医が年齢を患者選択の基準にい れることを正当と考えている。5段階評価でも、その重要度は、2.7であ る。

心臓移植にあっては50才ないし55才以下の患者しかレシピエントの候補

○七 -14-

(16)

にしていない。ICU入室においても、若年者が優先される。 こうした傾向は米国にかぎらず世界的傾向であるとの調査結果もある。6 0%の機関が年齢を基準にとりいれている。欧米以外の国、たとえばシンガ ポールやマレーシアでも腎臓病の治療において年齢の基準をとりいれてい る。欧米では、腎臓移植に年齢の基準をとりいれているところは、92%に もなる。 年齢による基準には、特定の年齢で切らずに、単純に年齢の大きいもの からはずしていくものもある。また、非常に若い、乳幼児などをはずすと いう亜種もある。しかし、ここでは一応、特定の年齢で切っていくという ことを前提に話をすすめる。 年齢を患者選択の基準として採用することを正当化する根拠には以下の ようなものがある。 (1)高齢者は治療を受ける体力がないからよい、とするもの。すなわち、 年齢の基準は、医療行為の効果を享受できる者のみが、医療を受けるべ きであるという議論である。年齢は、-種の医療効果の効率をあげるた めの基準である、ということになる。この観点からは、高齢者のみなら ず、幼児も場合によっては治療の対象から除外されることが認められる こととなる。 (2)高齢者になればなるほど、治療行為の効果を享受できる期間が短くな るから、できるだけ、治療の効果を長く享受できる者を選択することが 望ましく、高齢者切り捨ては誤っていない、とする見解。この見解の亜 種として高齢者より若者の方が生命の質が高いとするものがある。 (3)高齢者は、これ以上生きても社会に還元するものが少ない、とする見 解。この見解を押し進めていくと、高齢者に医療を施すことは無駄とい うことになろう。 (4)だれもが高齢者になっていく可能性を秘めており、性による差別や人 種による差別と同等に論じられないとする見解。 (5)人はすべて同等にその生を全うする権利を有しているとしたら、高齢 者よりも若年者を優先することは当然である、とする見解。 沖大法学第十四号 実 -15-

(17)

次に、年齢による基準に反対する見解を紹介しておこう。

(1)高齢者であっても健康で、長生きすることが予測されるなら、前記(1)-

ル(3)の根拠は崩れてしまう。医療によって余命がどのくらい延びるのか、

1ということを問題とするなら、疾病の多い若者よりも問題の疾患を除い

患ては健康な高齢者の方が、長生きし、しカユも社会に還元するものも多い、

者 選というわけである。 択

の(2)年齢による差別と性および人種による差別とは異なるとの議論は、性

理や人種による差別が禁ずべき差別のほんの一部にすぎないことを忘れて

準いる。宗教、信条による差別と年齢による差別を比べるなら、このこと

は明かであろう。宗教や信条は、自分で選んだものであるが、それによ

る差別的取扱いは、禁ぜられるのである。

(3)若者は、高齢者のように多くを生きていないのだから、彼らに機会を

与えるべきだ、との議論に対して、人はみな平等といいながらも、一人

一人の扱いに差を設けるものであり認められないと反論する。

ここでキルナー氏があげる仮定的事例を長いので若干変更して紹介しよ

う。 ある病院の心臓移植患者選定委員会での話である。シム委員長が、5人の候補者の 中からロバート・Aさんを推薦したい、と話だした。

「ロバートさんは53才、3人の成人のお子さんがあり、同じ人とずっと結婚生活を

営んでいます。ロータリークラブのメンバーであり、エルクのメンバーであります。

かってはボーイスカウトの指導者でありました。」 クレーン医師がこれを受けて次のように述べた。

「実際的な視点からもロバートさんは候補者として適切です。彼はインテリで、学

歴も高く、移植についてもよく理解しています。」 ラングフォード婦人が賛成した。 しかし、反対意見がでてきた。

「53才というのは、年をとりすぎているのではないでしょうか。私も52才です。彼

の場合は子供も成人になっています。よい人生だったでしょう。どうでしょう、もつ

○三 -16-

(18)

と若い人に心臓を移植したら。」 同調者がでてきた。 「ロバートさんの共同体に対する貢献は過去のものです。もっと長く社会に貢献で きる人を選びましょう。それにロバートさんの年齢では移植にともなう危険は、若い 人より大きいはずです。」 結局、他の人が選ばれた。 沖大法学第十四号 第6節精神的強さ(95頁) 精神的強さというのは、移植後の治療等にともなう肉体的苦痛や不安に 耐え、日常の生活を続けられるか、という点を問うものである。米国の97 %のセンターが、この基準を支持しており、重要度5段階評価で3.2という 高い値を与えている。人工透析を受ける患者を選択していた時代において は、インテリジェンスと意向の強さという表現で採用されていた。国際的 にも広く認容されている基準である。 かかる基準を認容する根拠としては以下のようなものがある。 (1)精神的な強さがないと、患者は治療の途中で治療を受けることを放棄 してしまったり、一時的な精神障害を起こしたり、さらには自殺するに いたる場合もある。 透析患者の自殺率は、通常の100倍にものぼる。 (2)精神的な強さを欠く者が医療において後者になるのは、社会に対する 貢献という視点からもやむを得ない。臓器移植には高額な医療費がかか る。当事者がまかなわなければ、社会の負担となるのである。 この基準に対する批判としては次のものがあげられる。 (1)精神的強さをどうやってはかるのか、実際の基準として不適正ではな いか。心理テストは、患者の現在の心理状態をはかるにはともかく、将 来、様々なストレスを受けた後の心理を知るには不正確というよりは、 不適当なものでしかない。人工透析の患者選択の歴史において、このこ とは証明されている。雇用における心理テストですら、その結果を採用 の基準とすることには、問題があることが判例でも指摘されているので つ四 -17-

(19)

ある。雇用どころか生死の問題となったとき、心理テストの結果で判定 することは不適切きわまりない。 キ ル(2)精神的強さを医療関係者に対する協力的態度と読み変えると事態は、 ナ 1さらに深亥Iになる。医師に対して、医療体制について苦情をいう者は、 の

鬘移植などに不適切という半I断が下されることにでもなれば、本来なら医

蓑療機関が努力しなければならない患者に対するケアがないがしろにされ

のる恐れもあるからである。 倫 理しかし、精神的強さと、医師に対して協力して医療を継続することが 基 準できるかは、非常に近い位置にあって簡単に区別できるものでない。む しろ、医師による不公正な取扱いの温床になる可能性が強い。 (3)精神的な強さの基準は、適用の仕方によっては社会的に望ましくない 者を排除する方便として使われる恐れもある。身体障害者、精神障害者 などがこの基準で排除される恐れはないのだろうか。 (4)患者の精神的な強さは、家族をはじめとする周囲の協力によるところ が大きいとしたら、周囲の協力体制が得られない人~それは決してそ の人のせいではないはずであるが-は医療を受ける機会を不当に奪わ れることにならないのだろうか。 次に仮定的事例をあげておこう。 オリパーは、57才になる黒人でメソジスト病院の集中治療室に緊急入院していた。 検査の結果、血圧が高く、腎臓が正常に機能していないことが判明した。オリバーは 36才まで鳶職として働いてきたが、その後は仕事をしていない。社会福祉と妻の収入 でなんとか暮らしてきている。 51才のとき蜘膜下出血で6カ月入院していたことがある。くも膜下出血は治癒した が、精神的機能は完全には回復していない。また、その後も継続して、心臓病、失禁、 関節炎などで治療を受けている。アルコール中毒の病歴もある。彼の妻は小児精神病 棟の看護婦で、ときに彼を近所のタバーン(日本のバーのようなところ)に連れ出す 以外は、今度の入院までアパートから出ることはほとんどできなかった。 オリパーは昏睡状態におちいり、食事もとっていない。神経科の医師はオリパーに ● -18-

(20)

重度の脳障害があると判断している。記録からはオリバーには治療に耐える力がない と判断される。しかし、最初の透析の結果は良好で、意識も回復してきており、簡単 な質問には答えられるようになっている。 オリバーの担当のレジデントの医師は、地元の大学病院で人工透析の治療を受けさ せようと思っている。人工透析を受けられる患者の数に限りがあるとしたら大学病院 はいかなる判断を下すべきであろうか。また、腎臓移植においてはどうであろうか。 沖大法学第十四号 第7節周囲の協力体制(105頁) 周囲の協力体制を基準として採用している医療機関は多い。スタンフォー ド、ピッツバーグ、アリゾナといった心臓移植を数多く手がけてる大学で は周囲の協力体制が重要であることを折りに触れて患者の家族に説いてい る。長期間になればなるほど、患者は心理的に不安定になり、物理的にも 援助が必要となる。前出のキルナー氏の調査でも61%のセンターが、この 基準を採用している。もっとも重要度は5段階評価で2にすぎない。 米国以外でも周囲の協力体制を基準として採用しているところは多い。 もっとも婚姻の有無となると議論の分かれるところである。 以下にこの基準を正当なものとする根拠をあげる。 (1)周囲の協力なしにここで問題となっているような医療は成功する確率 が少なくなる。医療行為を成功させるための条件であるならば、問題は ないはずである。 (2)周囲の協力体制は、患者の順調な回復を保障するのみならず、患者の その後の生活が順調にいくであろうということを保障するものであると するなら、それは社会にとって好ましいものである。社会への還元が期 待されるからである。 以下に、この基準に対する批判的見解を紹介する。 (1)批判の第一にあげられるのは、この基準の適用がむずかしい点である。三 すなわち、医療を効果的にすすめる周囲の協力とは何をさすのか。周囲 の協力が医療を効果的にするという科学的データは、ほとんどない。む しろある種の病気では強い家族の絆はかえって患者にストレスを与えて -19-

(21)

しまうことが報告されている。 (2)たとえ家族の支援が重要だとしても、それを形式的に判定する基準は ほとんど存在しないといってよい。たとえば患者が未成年の場合、両親 が離婚していない方が環境として良いと判断してよいのだろうか。両親 が不和な場合よりも、片親でもしっかりと看護できる体制ができている 方がよいであろう。しかし、そういったことを誰がいかにして判断する のだろうか。判断を下す人の個人的嗜好が入り込まないと保障できるの だろうか。 (3)家族の無い人、周囲の環境が複雑な人が救済されないということは、 社会が-つの基準を、望ましいと社会が考える基準を強制していること には、ならないのだろうか。かような思想は危険であり、好ましくない ものである。 (4)周囲の協力体制を要求することは、ときとして社会が患者に与えるべ き福祉をないがしろにすることになりはしないか。 キルナーの患者選択の倫理基準 次にあげる事例は仮定的なものではない。実際に米国で起こりマスコミ で取り上げられ大きな議論をよんだものである。 ジェスは先天性の心臓疾患があり、このままでは長くは生きられなかった。カリフォ ルニア州パサデナにあるハッチントン記念病院の新生児専門の医師らは米国中でもっ とも多くの幼児心臓移植の経験のあるロマ・リンダ大学病院へ早々に転院の手続をとっ た。 ジェスの両親は、ロマ・リンダの精神科医から面接を受けた。ジェスの母親に関す る記録、彼女のソーシャルワーカーからの書類が審査された。病院の患者選定委員会 はジェスを選考の対象からはずした。 選考からはずされた理由は公表されなかったが、両親はハッチントンの医師から 「あなたがたはジェスの移植後の看護には適さないと判断されたのです。なにしろ二 人は結婚していませんから。」と告げられた。母親は17才、父親は26才だった。二人 はこのことをマイケル・カルセルノ神父に相談した。カルセルノ神父はこのことを医 師にあって確認し、全米生存権委員会(NATIONALRIGHTTOLIFECOMMITTEE) ● -20-

(22)

のスーザン・カーペンターに相談した。彼女はことをマスコミに知らせた。 大騒ぎになったが、ロマ・リンダ大学病院は極秘であることを理由にマスコミに弁 明することを拒否した。患者選考委員会のメンバーらは、母親の麻薬の常用が委員会 の結論に影響を与えたと語った。父親の麻薬常用の事実もマスコミに流れた。結局、 移植手術後に両親は、その父母にジェスの監護を依頼する書類に署名することで心臓 移植の候補者となる、ということで決着した。 沖大法学第十四号 第8節治療の必要性(115頁)

治療の必要性でもっとも重要なのは、臓器移植における血液型、細胞毒

性抗体、臓器のサイズである。治療の必要性の基準は、単純である。誰で

あろうと治療によって効果を得られる者を選択しよう、というものである。

95%のセンターで基準として採用されており、その重要度は5段階評価で4

2と高い。

この基準を支持する根拠はあまりにも明白にも思えるが、ともかくも紹

介しておこう。

(1)治療の必要性を検査せずに医療を行うことは、無責任な態度としかい

いようがない。患者に対して誤った希望を与える。

(2)必要性の強い患者こそ、その医療を必要としているのであり、それこ

そが平等な配分といえるのである。患者の生死がかかっているような状

況であっても、必要性が強くなければ、その患者は問題となっている医

療を必要としているとは言えないのである。極端な表現をすれば、死に

直面している患者は問題の医療を必要としていないのである。

治療の必要性の基準にも以下のような批判がある。

(1)必要性をいかにして測るかは容易でない。死に直面しているからといっ

て、治療の必要性はない、と果たして断言できるのだろうか。治療はほ

とんどいつも可能な限り試みられるべきではないのか。

(2)治療の必要性の名の下に、患者に社会的な評価を下してしまう恐れは

無いのか。

たとえば、植物状態に近い患者にも移植といった治療は可能であり、

S -21-

(23)

医学上の視点からは効果をあげるはずであるにもかかわらず、治療上の

必要は少ない、との判定が下される恐れはないのか。

キ ル ナ 1仮定的事例をみてみよう。 の 患 者

選リスター病院の新生児集中治療室は、満床だった。ジョンという新生児は、恐ら

のく2ないし3日で死ぬであろうと予測されていた。もっとも1才未満の幼児の容体は

理変わりやすく、正確な予測をたてることは困難だった。医療チームの医師らはジョン

基 準の脳内出血がひどく、救いようがないと判断していた。

ピーターという新生児が救急で病院へ運び込まれてきた。ピーターは、交通事故で

胸部と頭部に損傷を負っていた。しかし、予後の予測は悪いものではなかった。ジョ

ンの使っているレスピレーターが必要だった。レスピレーターの数は限られており、

ピーターには、ジョンのレスピレーターをはずして使うしかなかった。しかし、ジョ

ンの両親は最後まで医療を続けて欲しい、と希望している。どうすべきだろうか。

第9節差し迫る死(124頁)

患者の中には、臓器移植などの高度医療なしには死が間近な者と、死は

まだだいぶ先の者がいる。死期が間近なことが患者選択の基準として有効

とされるのは、その者を救済しておいても、死期が先の者を後に救済する

ことは可能だからである。しかし、死期がどのくらい近いか、ということ

について、複数の基準が存在しうる。1年未満、1カ月、1週間、1日ど

れも死期が近いことに変わりはない。ドナーが現れにくい臓器などでは、

1カ月でも近い死期といえよう。

以下に差し迫る死の基準を支持する根拠をあげておく。

(1)差し迫る死の基準は治療の必要の基準とともに用いられるとき、次の

ような理論ができあがる。治療を有効に行い得る者が複数いるとき、死

期が近い者から治療をすべきであることは、効率的である。けだしより

多くの者の命を救い得るからである。

(2)死が差し迫っている者から治療していくことは、倫理的にも是認され

る。死期が差し迫っていることの判断は容易でない、との批判もあろう。

究 -22-

(24)

しかし、死期が近づいているとの基準は、延命治療を中止する基準とし てカリフォルニア州の自然死法にも規定されている。 沖大法学第十四号 次に批判的見解の根拠を紹介しておく。 (1)死が差し迫っている患者のために何年も治療の機会をまっている患者 が後回しにされることは妥当か。 (2)差し迫った死の基準は、医師の思惟的な判断の対象になりやすい。今 の医学でも、死期を正確に予測できない場合は多く、そういった場合、 医師の思惟的判断に左右されることになりかねない。 (3)差し迫った死の基準は、治療が後回しにされる者にも治療の機会が回っ てくるとの信条がもとになっていろ。しかし、そんな保障は本当にはな い。臓器移植では多くの患者がドナーが現れる前に死を迎えているので ある。 (4)差し迫った死のためにかえって治療を断念することもある。いったい どの時点でそれが起こるのか、この問題は、差し迫った死の基準の裏返 いつ しの問題である。そこで、ここでは、いったU、何時から治療を放棄する か、について考察しておかなければならない。 それは、死期が近いということで治療が決定された後に、より先順位 の患者が現れたときの問題である。-度下された決断は覆すべきではな いのか。しかし、そんな理由はどこにもないのではないか。実際、集中 治療室から危険が去っていない患者が別の病棟に移されることは、めず らしくはなかった。しかし、それは時として患者の死をも意味する。か ような行為は患者に対する殺人にならないのか。差し迫った死の基準の 射程(適用範囲)は、暖昧で、適用が困難である。 仮定的事例をあげておこう。 ナし ノヘ シャード婦人はニューヨーク病院へ心臓病で入院した。彼女は高齢で生き延びられ る可能性は少なかった。しかし、少しづつ彼女の容体は集中治療室の中で回復にむかっ ていた。ところが、ある日、予測もしなかった出来事が起きた。集中治療室は満床だっ -23-

(25)

た。ところが、そのとき若い患者が救急で運び込まれてきたのである。医師達は考慮 の末、シャード婦人を一般病棟に移すことにした。そこは、40人の患者に看護婦が二 人と準看護婦が-人というところだった(ちなみに集中治療室では、患者二人に看護 婦が-人つく)。 一般病棟に移って3時間もしないうちにシャード婦人は死んだ。レスピレーターの 管がはずれたのだった。そういうことは前にも起こっていた。ただ、今回は誰もそれ に気がつかなかっただけである。彼女の死は、彼女の義理の娘がたまたま見舞いに来 ていて発見された。 数週間後、集中治療室の空きベッドが-つになった。高齢の男性が救急で運び込ま れてきた。心臓発作である。心肺蘇生術(CPR)が試みられた。心音は検出されなかっ た。しかし、多くの医師と看護婦の努力で患者は息を吹き替えした。担当医は、患者 は集中治療室に移されるべきであることを知っていた。しかし、担当医はそうしなかっ た。一般病棟へ送ったのである。患者は癌にかかっており、高齢だったからである。 経験から集中治療室のベッドには一つしか空きがないが、それは間もなく運び込ま れるであろう患者のために開けておかなければならなかったからである。 二時間後、患者は死んだ。心臓が停止したのである。集中治療室でなら助かってい たかもしれない症状であった。 キルナーの患者選択の倫理基準 第10節医療的処置の成功の確率(回復の可能性)(135頁)

(移植などの)医療的処置の成功の確率が高い患者が選択される仕方に

ついては、二つの方法がある。最低限の基準として、すなわち成功率の低 いものについては、選択の対象としない、とするもの(これは医療の必要

性と同じ意味をもってくる)と、一応の成功率は認めながら、その中から

患者を選択する基準として採用しようというものである。前者については、

治療の必要性の節で検討したのでここでは繰り返さない。問題は成功率の

高い患者を優先すべきか、というものである。

米国では、この基準は96%のセンターで支持されており、重要度につい

ても5段階評価で4.0を獲得している。この基準を支持する根拠は次のよう なものである。

(1)成功率の高い患者に医療を施すことは、その患者が少し待てばまた機

九七 -24-

(26)

会がめぐってくるような場合でないかぎり妥当なものである。けだし、 そうすることで救済される命の確率が高まるからである。功利主義の原 則から導き出される帰結である。 (2)患者の治療に当たっては、成功の確率の高い治療方法を選択すべきも のであることは論をまたないであろう。それなら患者選択にあたっても 成功率の高い患者から治療を行っていくべきである。 (3)社会にとっても救済される患者の総数が高まることは望ましいことで ある。成功率の高い患者から救済していけば救済される患者の総数は多 くなる。 沖大法学第十四号 これに反対する見解の根拠は以下のようなものである。 (1)治療が成功しても他の疾病を有している患者は、長生きしないことが 予測される場合、それでもかかる患者を治療すべきであろうか。すべき だとすると、成功の確率の根拠たる(3)や(1)は根拠を失うことにならない か。すべきでないとなると、成功の確率の高い患者を選択すべきだとの 議論は、(2)の根拠を失うことになる。 (2)成功率の高い患者から救済していくことは非人間的ではないだろうか。 患者は誰であっても同様に扱われる権利をもっているのではないだろう か。そうすると、たとえ多くの患者を結果として救えるとしても、その 方法が不公平なものであっては、賛成することはできない。実際にも成 功率が低いとして拒否されるであろう患者は、健康保険にも加入できな いような社会の最貧層に属することが多い。彼らはすでに健康保険にも

加入できずに苦しんでいるのである。また、成功率の低いとされる層に

は、身体障害者も多く含まれるのが現実である。彼らもまた、除外され ることになる。高齢者も、高齢であるというだけで除外されてしまう可

能性がある。これは、他の基準ですでに消極的評価を受けているのに、

二重に評価されることになり、一層不利になる。

(3)成功率を測ることは困難である。患者二人を比べてどちらがより医療

の効果が得られやすいか、ということを判断できるか疑問である。また、

患者は自分を有利な立場にもっていくために、本当のこと、たとえば過

九一〈 -25-

(27)

去の病歴など告げないという戦略を選択することも起こりかねない。 キルナーの患者選択の倫理基準 仮定的事例をあげておく。 生後4日の新生児が呼吸困難のため病院で最後のレスピレーターを使用していた。 新生児には染色体異常が見つかっており、この異常は、発達遅滞とその他様々な症状 をよぶことが知られていた。もっとも、様々な研究から、新生児は1才の誕生日を迎 えることはもちろん、障害をもったままで成人するまで生き続けることが予測された。 病院内倫理委員会が開かれた。担当小児科医が両親との話し合いについて報告した。 母親は子供の命をあきらめるわけにはいかないと主張した。父親はむしろ、子供が正 常に成長することが保障できないなら、子供になにも医療的処置を施さないで欲しい と要望した。担当医は、父親の意見を支持した。担当の看護婦は、子供の命は守るべ きだと強く主張した。子供には生きる権利があると。彼女は、両親がめんどうをみな いつもりなら、自分が養子にしてめんどうをみてもよいといった。 小児科のレジデントからレスピレーターを使いたい旨の電話が入ってきた。誰もが、 問題の新生児を他の病院へ転院させることは危険が大きいという点については意見が 一致していた。しかし、レスピレーターなしには、第二番目の新生児が死んでしまう ことも明らかだった。もっともレスピレーターを取り付けても生きられる可能性(1 年生存率)は50%というところだった。病院はいずれの新生児にレスピレーターを使 うべきだろうか。 第11節治療による延命の期間(144頁) 治療でどれくらい延命効果が期待できるか、延命される期間はどれくら いかは、治療上の重要な関心事である。1972年、人工透析に関する調査で は、71%のセンターが延命の期間を患者選択の基準として何らかの方法で

考慮している。同じ調査によると腎臓移植については、96%のセンターが

基準として採用している。しかも重要な事項として5段階評価で3.6の値を

得ている。心臓移植についても同様のことがいえる。キルナー氏の調査で

も96%のセンターが基準として採用しており、5段階評価で3.7の評価を与

えている。 聖 -26-

(28)

治療による延命の期間の基準は、大切な臓器や医療施設を利用すること で患者をできるだけ長く生きさせること、と明確に定義しているものもあ れば、あまり治療の効果が望めない患者を排除するとしたものもある。基 準としては、け)延命が望めないようなら医療をすべきではない、という ときの延命としての最低限の期間を定めるものと、(イ)患者の候補の中か ら選定する基準として使うものの二つがあるが、いずれの場合もそのまま では得られなかったであろう時間の長さが焦点となる。 こうした基準を正当化する根拠として以下のものがあげられる。 (1)延命するということは、それだけ社会に貢献し、あるいは、それだけ 多くの人の命を救うことにつながる。延命効果があまり期待できないの に高度医療を行えば、短期間のうちに再び高度医療を行わなければなら なくなることが予測されるが、それでは本人の苦痛も大きく、また社会 的にみても無駄が多い。 (2)延命の可能性は、治療の成功という表現で記述されることもある。た とえばエイズ患者あるいはHIVポジティヴの患者、その他の病気のあ る患者が、選択からはずされるのは、それだけ治療の効果をあげたいか らである。米国では世論調査でも38%の人が上記のことを肯定してい る。 (3)治療の必要性の基準では、延命の期間までは考慮に入れられないが、 社会に対する貢献という視点からは、延命による期間まで考慮に入れる ことで、一層効率的な運用がはかられる。 沖大法学第十四号 これに批判的な見解は、次のような点を問題とする。 (1)延命される期間で命の質を比べるということは、そもそも誤っている。 命が消えかかっているときに、治療でどのくらい延命されるか、その長 さを比べるなどもっての他である。それゆえイタリーやスウェーデンで は、延命の期間で患者を選択するとする基準は激しく非難されている。 (2)延命の期間が長い方が好ましい、とする根拠はない。それぞれの命は、 その重要さにおいて同等であり、人は生きるということについて同等の 権利を有しているのである。そうして「生きられる」という権利は、こ 茜 -27-

(29)

れから何年生きられるかによって変わるものではない。 (3)病気が重く治療処置を施されても延命が期待できない患者は、治療の 必要性の基準で除外されるであろう。さらに病気が重い患者から先に治 療を受けるべきであるとの基準が適用されるとするなら、治療の必要性 の基準と、差し迫った死の二つの基準で足り、延命の期間の基準は必要 ないのではないか、という議論もある。 (4)治療の対象となっている病気以外の疾患がある患者を除外しようとす るのは、こうした患者の看護が大変だからではないだろうか。別の言い 方をすれば、こうした患者は社会にとって価値が低いから除外されよう としているのではないか。しかし、こうした社会からの評価に対して批 判があることは、すでに見てきた通りである。また、高齢者を区別する ことに対する批判にも現れている。 (5)アルコール中毒患者に対する腎臓移植は、この基準をもってして拒絶 されるべきであろうか。中毒患者がアルコールを絶つ決心をしている場 合、この基準をもってして選択の対象からはずすべきではない。しかし、 アルコールを移植後も飲用するようならば、長く生きることは期待でき ない。しかし、こうしたことは、治療の必要性の問題として扱うべきで ある。 (6)最後に余命の予測が困難であることがあげられる。特に複数の疾病を かかえている患者の場合は、正確な予後の予測は不可能に近い。同じ患 者に対して複数の医師が大変に異なる延命期間を予測したという報告も ある。的確な予測もできないのに、人の命をかような基準で選択しても よいのか、と批判される。 キルナーの患者選択の倫理基準 仮定的事例をあげよう。 アリゾナのヴァルデズ地域病院は、地域で唯一集中治療室のある医療センターだっ た。同様の施設のある病院といえば85マイルはなれたソモラ郡に行かなければなかっ た。もちろん集中治療の必要な患者がそんな距離を耐えることはなかった。 ある日、65才になるハリーという患者が救急で病院へ運び込まれてきた。自宅の庭 ブ‐し -28-

(30)

にいたときに急に具合が悪くなったというのである。救急治療室でハリー氏は医師の 質問にきちんと答えていた。心臓周辺の血液は取り除かれ、グリコシドが投与された。 様態は安定した。夜になると突然に心臓に細動(不規則な動き)が襲ったが、処置が なされると様態は再び安定した。 集中治療室に入室させるべきだ、とエレン医師は主張した。しかし、フランクリン 医師は同意しなかった。彼は高齢だし、すでに3度も心臓麻癖を起こしている。他に も何か疾患があることはまちがいない。彼は心臓が悪いのにダイエットをしていない。 ようするに、今後それほど長生きするとは思えないということだ。 エレン医師が、集中治療室に入室できないとなると、余命はさらに短くなる、と主 張した。 それでもフランク医師は、譲らなかった。これから集中治療室を必要とする患者が 現れる可能性は高い。おそらくその患者は、助けられればハリーよりも長く生きるだ ろう。そのときになって集中治療室からハリーを動かすことは今よりもむずかしいだ ろう。 エレン医師は、それでも、果たして別の患者が現れるか否かわからないのに、集中 治療室を使わせない理由が納得できないと反論した。そこまで延命の期間の基準に固 執する必要があるのだろうか。 沖大法学第十四号 第12節患者の生命の質(152頁) 患者の術後の生命の質(QOL)を基準に患者を選択していこうというもの

である。類似する基準として最低限の生命の質が保障されない限り、医療

を行わないとするものもある。しかし、ここでは患者の生命の質が高い患

者を優先すべきである、という基準をさすこととする。人工透析を受けて

いる患者が将来において腎臓移植を受けられれば、より質の高い人生をお

くれるであろう。こうした患者は、患者の生命の質が高いと評価されるこ とになる。

患者の生命の質は、米国ではキルナー氏の調査によると、もっとも支持さ

された基準である。97%のセンターが支持しており、重要度に関しても5

段階評価で3.8を得ている。特に、新生児集中治療室の入室に関してはこの

患者の生命の質の基準は広い支持を受けている。臓器移植についても支持

-29-

(31)

が高いことはいうまでもない。 正当化の根拠は以下のようなものである。

(1)患者が医療によってより質の高い余生を送れるとしたら、それは患者

にとってのみならず、社会にとっても好ましい。けだし、その患者は社

会復帰して、社会の構成員として活躍することが期待されるからであ

る。

(2)患者の生命の質については、患者に自己決定権がある。しかし、高い

生命の質を求めることが一般的に認められるなら、高い質が期待できる

患者を選択していくことは、矛盾ではない。

キルナーの患者選択の倫理基準 患者の生命の質の基準に反対する根拠を次にあげる。

(1)患者の生命の質を一定の基準の下、順位をつけるのは誤っている。患

者の生命の質は、患者自身が決定するものであって、他者が順位をつけ

ていく性質のものではない。

(2)現実にも、患者の生命の質をある基準の下にII項位をつけることは困難

である。患者の術後の生命の質を正確に予測することは、今の医療では

困難である。また、余命たとえば余命の長さと治療後の生活の質をどう

やって比較するのか。

(3)他者が患者に代わって患者の生命の質をはかる客観的な基準をつくる

ことは困難である。けだし、各人で生命の質に関する考え方は様々だか

らである。生命の質は、客観的なものではなく、主観的なものだからで

あろう。ある調査では、医師、患者、看護婦でそれぞれ異なる評価を下

している、という結果が指摘される。

英国での話題になったケースがある。デレックという患者に対する透析

リストからの除去をめぐるものである。デレックは、ホームレスで生命の

質も高くなかった。しかし、透析を受けるようになってからは、食欲も回

復し、よく眠れるようになったという。ところが病院の担当者によると、

デッレクは痴呆のように振る舞い、暴力的で、不衛生な身なりをした患者

で、検査の間に自慰行為をするありさまだったという。これに対してホー

ムレス収容所の担当者は、デレックの病院での態度は、見知らぬ場所で恐

ナ山 -30-

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