近代日本における工業教育の発展 : 手島精一の工業教育論を中心に
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(2) 目次 第1章 明治期工業教育の概観 第1節. 幕末維新期の工業教育. p. 1. 第2節. 明治期の高等・中等工業教育. p. 4. 第3節. 伝習所・企業内技術教育. p. 9. 第4節. 工業名種学校. p. 13. 第1章 注. p. 16. 第2章 手島精一の工業教育論 第1節. 殖産興業のための工業教育. p. 21. 第2節. 中・下級工業学校の必要性. p. 26. 第3節. 工業道徳の向上. p. 32. 第4節. 手工教育と実習の重視. p. 39. 第5節. 女子の職業教育. p. 45. 第2章 注. p. 50. 第3章 手島精一の工業補習教育野 壷1節. わが国の実業補習教育の疇矢. p. 59. 第2節. 欧米の補習教育の理解. p. 64. 第3節. 工業補習教育論. p. 68. 第3章 注. p. 78. 第4章 明治期工業教育における手島精一の役割 第1節. 教育博物館とのかかわり. p.85. 第2節. 万国博覧会とのかかわり. p.93. 第3節. 東京(高等)工業学校とのかかわりp.102. 第4章 注. 謝辞. p. 116.
(3) 第1章 明治期工業教育の概観. 本論文は、明治期から大正期にかけて、今日の日本の工業発展の基礎を築 いた中・下級の工業労働者養成に努力し、日本の「工業教育の父」とも呼ばれ た手島精一[嘉永2(1849)年∼大正7(1918)年]の工業教育論が、どのようなも. のであったか、また、それがどのような背景の下で生まれ、日本の工業教育 の発展に如何に貢献したか、等を明らかにすることを目的とする。このため、 まず、本章では明治期の工業について、先行研究の成果を基に、その概観を. しておきたい。ややもすると総花的な記述になるおそれなしとしないが、手. 島の工業教育への取り組みやその実践等を検討するためには、こうした鳥 秘図も必要であろうと思われるからである。. 第1節 幕末維新期の工業教育 幕末から明治初期にかけてのわが国は、あわよくば日本を植民地化せん とする西欧列強の侵入をくい止めるため、必死の努力を続けていた。そのた めには封建体制を速やカ)に打破し、国全体を行政的に統一した上、産業を興. し国力をつけること、世界に通じる法をもち、外国の脅しに屈しない武力を 持つこと、が必須の条件であった。ここに強大な工業力と組織化された工業 教育の必要が生じた。したがって、日本の工業教育は国防的意識から出発し. たものとも言えるであろう。このことに関して高田由夫は次のように述べ ている。. 明治政府は西欧資本主義の東洋侵入に対抗するために封建 体制を打破し、先進国からの軍備、新生産方法の移植育成を 企図し、近代的統一国家の実現を期さねばならなかった。この ような国際的、国内的危機のもとに、日本の近代工業は国防的. 観念をもつ軍事工業を中心とする重工業関係のために、その 特異な発足をみたのである。q). わが国の近代的工業、及びその教育は明治維新になって突然取り入れら 一1一.
(4) れたものではなく、我が国産業革命の原点とも言われる嘉永3(1850)年の佐 賀藩の反射炉建設以来(2)、オランダ、イギリス、フランス、ドイツなどの力. をさまざまな形で借りていた。すなわち、幕末すでに、佐賀藩等はオランダ. から造船術を学び、薩摩藩はイギリスに16名もの技術習得のための留学生 を送っている。また、幕府は横須賀造船所の建設に当って、あるいは、その横 須賀畏舎の伝習に当って、フランスに力を借りている。さらに、開成学校の 教員としてドイツから技術者、教育者を受け入れている。 このうち、佐賀、薩摩の二藩の例について、三好信浩のr日本工業教育成立 史の研究』(3)をもとに、もう少し詳しく見てみる。まず、佐賀藩等のオラン. ダからの伝習についてであるが、本格的には安政2年から同6年まで第一次 から第三次にわたって行われた。オラシダ国革から幕府に贈られた不一ム ビング号(Soembing)という洋式船を教材に、第一次、ペルス・ライケン(Pels. Ricken)一等士官以下22名、第二次カッチンデイーケ(Willem Kattendijke). 班長以下33名によって行われた。参加者は幕臣勝海舟ほか130名。内訳は佐 賀48人、福岡28人、薩摩16人、長州15人、津12人、熊本5人、福山4人、掛川1人. であった。学習内容は大きく分けて1)航海術関係、2)砲術関係、3)兵術関 係、4)医術関係、5)基礎関係、であった。参加者のなかで佐賀藩が、参加人. 数の点でも参加準備の点でも一番熱心であったといわれている。この伝習 はオランダ側から専門的に見れば、必ずしも成功とは言い難かったようだ が、次の点で三好が高く評価しているのは頷ける。. そこでの科学の修練や技術の錬磨のもたらした影響は計りし れないものがあった。長崎海軍伝習は、武士階級が、はじめて、 航海、運用、船具、造船というような西洋の技術的科目について、 理論と実習の両面から指導をうけることがk’きたこと、しかも、. それらの近代的技術が数学や窮理学などの基礎的学問と関連 づけて教授されたこと、の二点で画期的な意義がある。(4). つぎに薩摩藩のイギリス留学生派遣についてみてみる。この計画は五代 友厚(才助)(5)によって元治元年にだされた「五代才助上申書」に基づくも. のである。(6)この派遣は幕府が、まだ鎖国政策を取っていた慶応元年三月 のことで、16名の留学生は変名でグラバー商会(Glover and Co.)の汽船に 一2一.
(5) 乗り込み、上海に向かった。留学の目的は海軍測量術、海軍機械術、陸軍学術、 文学、医学、化学、特に海軍技術の習得であった。他に欧州各国で軍艦、銃砲、. 鋳貨・農耕・紡績などの機械買い付けの任務を持つ者もあった。彼らはマン チェスターでプラット兄弟商会(Pratt Brothers Co.)製の紡錘機を買い付 けた。薩摩藩はこのあと慶応2年∼3年にかけて、細長ホーム(E.Z. Holme)以下. 7名の技術者を招いてその指導を受けている。これは我が国が紡績業の近代 技術を機械、技術共に移植した最初である。(7). これらの外国技術の導入は一連のものではなく、各藩が互いに他と無関 係に、それぞれの時期の状況によってバラベラに輸入を図っていることは 興味深い。我が国に取り入れられた近代工業技術は他に、長崎造船所、釜石 製鉄所、鹿児島紡績所などにおいてみられ、主として大砲、軍艦をはじめと. する軍事兵器を作り出すため、幕末において既に導入がなされていた。従っ て新政府が取った政策は、幕府や、薩摩、佐賀、長州など西国の雄藩が、幕末. に採った施策の流れを汲むものである。これについて、三好は次のような見 方をしている。. 佐賀藩では、蘭学寮から海軍学寮へ至る技術教育の展開がみら れ、薩摩藩では国内的・国際的な遊学と技術者招致による技術 導入(移 植)が図られた。両藩のとったこれら二つの施策は、 やがて明治新政府によって継承発展させられることになる。(8). ゼ 幕末の技術教育としては、斎藤健次郎によると、「科学的知識をもった官 吏を養成する蕃所調所、開成所の系統と、新技術を身につけた職工および職 工長を養成する横須賀畏舎の系統の二つがあった。」という。(g)それら二つ. の系統を代表する学校の工業教育をそれぞれ見てみると、まず先の蕃書調 所、開成所の働きであるが、三好の前掲書によると、次の三つがあると云 つ。(10). 1)天文方以来の翻訳事業が継承されたこと 2)翻訳した蘭書をもとに技術の研究開発がなされたこと 3)人材を教育するという機能があったこと 蕃書調所は文久2(1862)年に洋書調所となり、同3(1863)年、開成所と名前 一3一.
(6) を変えた。尚、学科としては次のようなものがあった。 ・語学関係 和蘭学、英吉利学、仏蘭西学、独逸学、魯西亜学 ・専門関係 天文学、地理学、究理学、数学、物産学、化学、器械学、 画学、活字(、、). これらの科目を見る限り、特に専門的な技術に関するものは、ほとんどな い。それよりはその技術習得の基礎となる語学、数学に重きが置かれていた のであろう。. 後者の横須賀蟹舎を設置した同製鉄所の場合は、日本最初の洋式工場、長 崎製鉄所とは異なり、日本人自身による技術の自立化が目指され,それをフ. ノ ランスが援助した。幕府と駐日フランス公使ロッシュ(Leon Ro6hes 1809∼ 1901)の間で交わされた「横須賀製鉄所設立原案」には、「日本政府は他年内. 国人ヲシテ仏人二変リテ造船事業二当ラシムル為メ造船所内二軸校ヲ興 シテ技士及技手タルベキ人材ヲ養成スベシ」との言葉があった。(12). 溶鉱炉建設から本格的な造船までを企図した横須賀製鉄所は、幕府の崩 壊によって、志し半ばにして挫折した。しかし、この「土蔵付売り家」(、3>と. 言われた幕府のドックは、「明治国家の海軍工廠となり、日本の造船技術を 生み出す母体」となった。(、4). 第2節 明治期の高等・中等工業教育. 明治に入ってからの、わが国の科学技術は、まだ先進諸国の模倣や応用程 度であった。しかし、高等工業教育は大きく分けて、学理研究主体のものと. 実技主体のものとに分かれていたといえる。開成学校と工部省工学寮がそ の轟轟であった。その下に中等工業教育の萌芽としての製作学教場、結果的 に、やや上級の階層の教育にあたることになったが、中等工業教育のモデル. 校としての東京工業学校等があった。. / .. 明治新政府が国家の立て直しにあたって、まず、行ったことは旧幕府や諸. 藩の施設の接収による工業の活動であり、それを促進するための教育の組 織化であった。. 明治政府は、工場、鉱山、鉄道、通信などを官営すると共に、 一4一.
(7) 道路、橋梁、河川、港湾などのいわゆる一般的労働手段を 国家管理の下に建設し、所有した。(、). 明治国家の殖産興業の役割を担って作られた工部省は「百工勧奨ノ事ヲ 掌り、兼テ鉱山、製鉄、灯明台、鉄道、伝信機等ノ事ヲ管シ」四月、八月に工 学、勧工、鉱山、鉄道、土木、灯台,造船、電信、製鉄、製作の十寮と測量司を置. いた。(2>そのあと、工部省は外国人に代えて殖産興業の任に当てるため、. 工業教育機関を作り人材養成を図った。明治4年、イギリスで工学を学んだ 山尾庸三の計画により、工部省工学寮(明治10年工部大学校と改称、明治18. 年東京大学に工科大学として吸収合併される)を設けることにしたのがそ れである。最初、予科2年、本科2年に分れた技術伝習校であり、工部省が「工. 部二奉職スル工業士官ヲ教育スル」(8>ために設けようとした教育機関で あった。学科としては土木、機械、造家(建築)、電信、化学、冶金、鉱山の七つ. があった。その後、明治6年目イギリスから都検として招いたヘンリー・ダイ アー(Henry Dyer,1848∼1918)以下の指導の下、イギリスの大学課程をまね. た教育計画をたてた。修業年限は6力年とし、全寮制で理論と実習の一致を 目指す技術教育を行なうことにした。開成学校(東京大学)の教育がドイツ. 式で理論研究に重きを置いたのと対照的であった。 ここで、明治2年、開成所に入学した、のちの初代工科大学長、古市公威の 伝記(4)によって、当時の開成学校の状況を見てみると、およそ次のようで あったことがわかる。. 開成所の復興以来、其の校舎の位置を転ずること数次なり しが、開校当時は既に築地の旧幕府海軍所より神田錦町 旧幕府開成所趾に移され、学校議事取調掛内田正雄氏開 成所頭取と為り、教授、教授試補、凡そ三十人、外国雇教師 若干人あり、学科は講習、語学、数学の三科に分れ、講習は 地理、歴史、物理を含み、語学は一に伝習と称し、初め英語. 及び仏語なりしも、尋で独逸語を加へ、数学は加減乗除の. 初歩より、幾何代数に及ぶ。凡そ此の三科は生徒をして兼 修せしむるを本則とす。(5). 一5一.
(8) 開成学校の前身、開成所は1860年に開かれ、幕府崩壊後、明治元(1868)年. 開成学校として復活した。創設時、生徒は幕府あるいは各藩の選抜生に限定 されていた。「学制」発布後、明治6(1873)年、専門学校となり、法学校、化学. 校、工学校、諸芸学校、鉱山学校を設置していた。年無は予科3年、本科3年で あった。(理科のみ、本科4年)明治10年、東京大学と校名を改称した。(6). さて、工部大学校に話はもどるが、この学校は工部省の資金面での強力な バックアップを受け、明治の新国家建設に大きな力を発揮した。その成功は、. ダイアーを通してイギリスの工業教育へ刺激を与えた。三好信浩は、このこ とを「ブーメラン現象」と呼ぶ。この点につL>ては、三好の著書『ダイアーの 日本』に詳しい。(7). また、製作学教場については、後の章でも述べるが、当時、開成学校の教師 兼顧問であったドイツ人ゴットフリート・ワグネル(Gottfried Wag6ner、 r831∼1892)の建議によって設置されたことで知られている。ここには予科、. 本科2自由の課程をおいた。製煉、工作の二学科に分かれ、当初、61名の生徒. を入学させ実習に重きをおく中等工業学校の直江として期待された。しか し、3年後の明治10年、本科卒業生を出さぬまま、廃校となってしまった。. 製作学教場の廃止’についての手島精一の述懐によると、「其頃は未だ世人. の考えは甚だ幼稚かつ不穏当で、工業の真意義がわからない。…(略)…こ んな事に金を費すのは馬鹿げている、というような意見が多く、そして遂 に∴・(略)…廃止することになったのです」(8)とあるので、職人の仕事は、. 「たたきあげでするもの」「職人に学問は要らない」という考えが、未だ日. 本国中に蔓延していたのであろう。その上、当時はまだ日本の工業も十分発. 達しておらず中級工場技術者の需要に結び付かなかったのである。 同じく、明治5年、英学校として創設された新潟学校は、同9年、百工化学の教 育を開始したが、3年後の明治13年、これをやめた。_. こうした情勢の中ではあったが、文部省の九鬼隆一文部大輔、浜尾新専門 学務局長、手島精一東京教育博物館長楽等は、r文部省雑誌』を初めとする各. 種文教雑誌に中等工業教育機関の必要を訴える意見を発表し、それらの早 期設置のためのキャンペーンを張っていた。 後の章でもふれるので、詳しくは述べないが、明治14年、福岡孝弟文部卿. が三條實美太政大臣に出した「職工學校を東京に設置すべき件に付伺」に は中等の職工学校を作るべき理由が長文で書かれている。(g)要約すると、 一6一.
(9) 1)細民の子弟に役立つ技術をつけさせれば品行も善くなり、世の中の 利益にも繋がる。. 2)従来の徒弟奉公による技術習得は非能率的で、このままでは、これま. で評価の高かった日本固有の技術も廃るであろう。 3)日本の産業を起こすには、まず学術を収め、その実施をすることが大 切である。. 4)そのためには全国の工業学校のモデルとしての職工学校を東京に作 り、工業学校の教員を養成しなくてはならない。. これによって明治14(1881)年、官立東京工業学校が設置された。初代校長. は、イギリス洋行帰りの正木退蔵であらた。彼は留学中に英国産業革命の 状況を目の当たりにして、ジョン・ラスキン(John Ruskin)やキングスレ・一一. (Charles Kingsley)の影響をうけ、職工教育の必要を感じたのではないか. という東京高等工業の校友会雑誌の記事が、斎藤健次郎によって紹介され ている。(10). 官立東京工業学校は、第二代校長手島精一の方針によって実習を重視し、. 午前座学、午後実習というシステムを取った。修業年限は予科1年、本科 3年で当初、本科は化学工芸と機械工芸の2学科のみであったが、のち、手島 校長の工業教育振興プランに則り、染織、窯業、電気、図案、建築など、次々と. 学科を増やしていった。一時は世間の工業教育への無理解から生徒も集ま らず廃校問題が出るほどであった。しかし、井上毅文相、手島校長を初めと. する関係者の努力と日清、日露の戦いの結果などから、国力をつける上での 工業学校の役割が再認識され、工業教員養成所・徒弟学校・工業補習学校な. どを併置するほどになった。やがて、東京高等工業学校を経て東京工業大学 になる。この間、全国の工業関係の学校に多くの教貫を送り込み、本格的な 工業教育の裾野を広げて行く。 これら中等より、やや上級の学校に対し、現場第一・kRの職工や徒弟のため. の学校は必要性が叫ばれながらもほとんど無かった。理由は、前述のように 日本の資本主義はまだ未発達で、本格的な工場も少なく工業技術も従来の. 職人労働に頼る段階を出ていなかったためである。その数少ない教育施設 の一つが、明治19年に東京商業学校付属として設置された商工徒弟講習所 であった。ここには職工科、夜学科、別科が置かれ、職工科は修業年限3年、 一7一.
(10) 別科は2力年であった。のちに、校名を職工徒弟学校と改称した。手島精一に よると「文部省は工業学校を兎角に嫌って、縁故のない商業学校へ、附けて 置いたのでありまして、工業学校の方から、言えば侮辱でありまずけれども、. …(略)…職工徒弟学校が職工學校の附属としてk加わったのであります,」 (1、)ということで、手島が東京工業学校の校長となると同時に其の附属校 となった。大正9年、徒弟学校規定の廃止により消滅する。. これら本格的な工業系の学校とは、やや性質を異にするが、ゴットフリー ト・ワグネルの分類する学校等位(、2>によると、職業的に細分化した単科的. 専門職業学校として位置づけられる京都画学校をとりあげる。これは製作 学教場が普通百工学校の代表であったのに対し、特定の職業分野のベテラ ンを教師とするもので、産業界と密接な関係を持っていた。例えば画工、機 織工・木工・機械工など職業領域ごとに学校を作るというものであゴた・京 都画学校は明治13年に東宗(日本写生画大和絵科)、西宗(西洋画科)、南宗. (文人画科)、北宗(狩野雪舟派の科)の4科を持つ修業年限3力年の学校とし. て発足した。入学者は原則として14歳以上、各科定員は20名、計80名を入学 させた。のち、学科改編を行い、彫刻、工芸図案、漆工科も置いた。明治34年に. は京都市立美術工芸学校となり、独特の工業学校として発展した。(、3)明. 治20年設立の金沢工業学校も諸種の工芸教育を授け、北陸地方で、京都画学 校と同じように大きな役割を果たした。 明治新政府は維新のために莫大な財政支出を必要とし、また、その後に続 く混乱、例えば、西南の役の戦費を捻出するための紙幣濫発の結果まねいた. 極端なインフレにより社会不安をきたし、明治14年から18年ごろまで極端 な不況が続いた。. また、政府は身分制度を廃止し、富国強兵、殖産興業のスローガンを掲げ. 技術教育にあたろうとしてはいたが、現実には学力の面からも学資の面か らも、それら教育施設への入学は一般庶民には殆ど手の届かぬものであり、. 入学生の多くは新体制のなかで活路を見いだそうとする旧士族出身者で あった。(14). 国力を高めるための産業も初期には、なかなか発達しなかったが、明治18 年ごろには不換紙幣の整理、官営工場の民間払い下げ、農商務省の設置など、. 政府の努力もあり産業界は急速に発展してきた。 従来の手工業的企業も、競争に打ち勝つため、しだいに機械を導入し、そ 一8一.
(11) のため旧体制の崩壊は一層早まり、従来の日本の手工業を支えてきた親方、 弟子の関係の中での技術伝承は次第に廃れ、科学的知識、原理に基づく技術 者養成が組織的に行われるようになってきた。 この後、明治26、7年の日清戦争のころ、普通教育の枠組みがほぼ完成し、. 政府は産業教育に本格的に取り組み始める。明治26年の実業補習学校令、同 27年の実業教育費国家補助法、同32年の実業学校令と、つぎつぎに政策、方 針が示される。明治36、7年の日露戦争後、実業学校が飛躍的に増え、産i業界. に多くの中級技術者を送り込むことになる。猪木武徳によると、明治32(18 99)年の実業学校令制定後、それらは大別して次のようになる。. i機械、電気などの工業技術の学科と実習を教授する工業学校 li工業徒弟の育成をめざす徒弟学校 皿女子に裁縫などを教授する学校(徒弟学校であったが後に職業学校). il農業学校. V水産学校 Vi商業学校 ni商船学校(、5). これらの他に実業教育を行ったものには、手島精一が大いに関わった実 業補習学校がある。これは明治26(1893)年の「實業補習學校規定」に基づい. て発足したもので、小学校卒業後、職場に入り学ぶ機会のない人々に基礎 学力、職業能力、道徳などを身に付けさせようとしたものであった。第一次 世界大戦後、学校数:、生徒数ともに大幅に増加したが、昭和元(1926)年、青年. 訓練所と合併、昭和10(1935)年青年学校となっている。詳しくは章を改めて 述べることにする。. 第3節 伝習所・企業内技術教育. 近代的産業を起こすためにも工業技術者の不足を痛感した新政府は、当 初の外国人技術者の雇傭が財政的にあまりにも大きな負担となったために、 それらを自国民でまかなうことを決意した。そのための二つの方法、 一9一.
(12) 1)日本人若者の海外研修派遣 2)自国内での外国人技術者による技術伝習 を考えた。しかし、これらは最初、主として工学寮(工部大学校)、あるいは開. 成学校(東京大学)など、工業教育指導者や高級技術者養成を意図したもの が中心であり、技師、技手、職工など現場第一線の技術者養成までが、一度に、. 大量にできたわけではない。 しかし、それら中、下級の技術者養成も前記、横須賀造船所内の横須賀法 要の例のごとく、旧幕時代から細々と始まってはいた。これについて、もう 少し付け加える。 先にも触れたが、幕末、慶応元(1865)年、幕府の勘定奉行兼外国奉行小栗. 忠順らの努力により、横浜に建設され左造船所の中の横須賀塁舎は、明治3 年になって復活された。ベルニュー(F.L. Verny)以下50人を越えるフランス. 人技術者の指導によって、平民の子弟をも受け入れ技術教育をする伝習所 であった。細谷俊夫によると、「生徒を技師伝習生、技手生徒に分け、学理と. 実習とを研修させる技術教育を開始している。」(bなお、明治9年の技術伝 習生の教育課程を見ると、そこでは、学年毎に次のような学習内容があっ た。(2). 1年実数学、幾何学、代数学、仏学、製図学、 2年幾何図学、三角術、幾何曲形学、究理学初歩、舎密学初歩、仏学、製図学、. 3年器械学、物理及び諸器具学究、理学後部、舎密学 4年造船学(木部生徒に限る)蒸気・器械学(鉄部生徒に限る) 製帆学(藤縄与具生徒に限る)健康学、仏学、製図学。. こうした技術伝習生が、その力を発揮した例どして、明治10(1878)年、京. 都から大津までの鉄道敷設に携わった鉄道技術者の速成教育機関、工技生 養成所の卒業生の場合を見てみる。鉄道という完全な輸入施設の場合、先例 が無いことから当初外国人技術者に頼り、当時100人を越える彼らに支払う 人件費は莫大であった。すなわち、鉄道頭井上勝の月給350円、鶴見駅長40 円の時、外国人技師長850円、同機関士200円であったという。このため日本. 人の力でやろうとしたが、工学寮や工部大学校は養成期間が長く間に合わ ない。やむなく短期養成のため、鉄道局は大阪駅本屋の階上を教室にして工. 三生養成所を設けた。一定の知識や経験を身につけた人々の中から工事の 一10一.
(13) 設計・施工の管理者を養成する機関であった。工事はいくつかの区間ごとに. 責任者をきめ各責任者に統括させたが、これら責任者は工技生養成所の卒 業生であった。この工事の場合、r部設計、助言のほか、ほとんど外国人の力 に頼らず加茂川橋梁以外の設計、線路の選定・土工くさらに逢坂山トンネル の設計・施工はすべて日本人が担当したという。(3>. こうした技術教育施設は、他にも、安政2(1855)年に設立された最初の伝 習校、長崎伝習所や同じく明治4(1871>年、旧幕府の軍事施設、関口製造所に. ベルギー人を師として設けられた銃工教育所、明治元(1868)年に作られ高 峰譲吉も学んだ大阪舎密局、明治3(1870)年設立され自然科学のほか機関学、 造:船学も教授:した海軍兵学寮、明治元(1868)年設立の沼津兵学校などがあ る。. 他に新政府の大蔵、民部両省が官営模範工場として明治5年に操業を開 始し、製糸、染色、織物などの新技術の伝習を図ったフランス式の富岡製糸. 工場、工部省が明治6年、赤坂に設置したイタリー式製糸工場S女子伝習所 などがある。これら官営模範企業は、斎藤健次郎によると(4>、新政府の「殖. 産興業政策といわれるものであるが、そあ工業教育論は一方において士族 授産問題を工業教育において解決、あるいは軽減しようとする意図を含む とともに、他方伝統的な徒弟教育とを関連づけようとする配慮を含んでい た」(5)とのことである。. 福沢諭吉もこの士族授産に関しては積極的な発言をし、明治16(1883)年9. 月、報知新聞の社説に連続5日間にわたって筆をとらて「士族授産は養蚕製 糸を第一とす」なる長文の論説を掲げた。事実、富岡製糸工場への応募女性、. の多くは士族の子女であったという。 このような工場内、あるいは工場に付設された技術伝習所、訓練施設を細. 谷の唱える「学理と実際とを平行的に教授し、かつ比較的長期間に亙って 組織的な教育を施すことを学校教育の特性とみる」(6>という定義にあては. めれば、短期間に速成的に自社の利益向上を主たる目的として、技術のみの 指導が行われた点、「学校教育」としては、はみ出す部分も多かったであろう。. しかし、時代の要請に応えて近代的技術の移植とその育成に大きな働きを した事において、一定の評価がなされて当然であろう。細谷によると、これ らのなかで「従業員を対象とし、当該工場のための教育を施す施設として もっとも歴史の古いものは、紙幣局(明治11年印刷局と改称)に設けられた 一11一.
(14) 弓場であろう」(7)とのことである。これに類するものとして、このほかに. 工部省をはじめ各省で修技工、伝習所を設けていた。それらの主なものは電 信修技塁、製鉄寮内蟹舎、勧工寮内女子伝習所などである。なお、ここで触れ た戯場について細谷は、「幼年技工を対象とし普通学科のほかく図学、画学、. 機械運用などの専門学科によって技術教育を施すものと、幼年男、女工を対 象とし、読書、作文、算術などの学科によって補習教育を施すもの、とに別れ ていた」と述べている。(8). 「企業内教育施設が比較的早くから組織化されたのは、紡績製糸等の工 場の寄宿舎内に設けられた女子教育あ施設である。」(6,産業の近代化がま. だあまり進んでいない時代にあって早くから機械化に踏み切扶工場組織 になっていた紡績、生糸等関係企業では、若い人材を確保するためにも義務 教育も終えていない幼年女性やその親に、「我が社にくればきちんとした教. 育も受けられるし…」という誘いの言葉をかけて勧誘していたことであろ う。企業内教育施設としては「大日本紡績株式会社が明治22年に設置したの が恐らくその噛矢といえよう」(、。)と、同じく細谷は述べている。. 「明治30年以後、女子工員に読書、算術を授け、同36年以後これに裁縫を加 え…同42年に教育部を設け」(、、)女子教育に力を注いだのは京都府何鹿郡 綾部町(現綾部市)に本拠をおいた郡是製糸(現グンゼ)である。ここでは社. 長波多野鶴吉の信仰に基づき、教婦制度により宗教を強制はしなかったが キリスト教精神による教育をほどこした。波多野は「至誠」と「勤労」という. 二つの徳目を会社経営のよりどころとし、社員の薮育に力を入れた。彼は 「良き糸は、よき工女が作るものなり。故に精良なる糸を製出せんとする点. より考ふるも工女の教育は大切なりと思ふ。いはんや人としての教養を思 ふにおいてをや」(、2)と述べ、教育を事業経営の中心に据えた。. その他、明治27年から明治末期までの間、東京の門燈学校、府立実科学校、. 大阪の関西商工学校に選抜工員を委託した小野田セメント、芝浦製作所、石 川島造船所、東京瓦斯の例がある。また、明治43年、幼年職工養成所を設置し. た日本製鉄業界の草分け、八幡製鉄所などの例が、前記細谷のr技術教育概 論』のなかに挙げられている。(13>. 府県単位では、明治6年越ランスへ織物伝習生として派遣されていた佐倉 常七が織物器械を買収して帰国し、翌7年、京都府設立の織物工場で機械操. 作の技術を伝習した。この工場は新技術を求め近畿地区のみならず、近隣 一12一.
(15) 地区から派遣されてくる多くの伝習生を受け入れた。「10年には規模を拡大 し、織殿と改称されたが、織殿は「欧風の織法を弘」め、維新当時一時衰退し た西陣企業をして「再び進歩の端緒を啓」かせ、我が国「織物学校の鼻祖」と 称されている。」(、4). その他、明治20年には講習生を全国から170名も集めた足利織物講習所、 明治19年設立の和歌山染色講習会、20年設立の八王子織染学校、同じく石川. 県工業学校などがある。このうち、足利織物講習所は学術科と実業科に別 れ、学術科は修業年限3年(明治20年改正して予科2年、本科2年とし、本科を 機織科、色染整理科に分ける)であった。入学資格は小学中等科卒業程度 「年齢14年以上25年以下」とされ、実業科は2年、「入学資格ハ年齢ヲトハス品 行方正ナル者」と規定された。色染整理科の科目は、工業化学、色染整理論、 器械論、工場実習、(図画1年、英語2年)。教育内容は織物業に直接必要な教科. によって占められた。(、5>これらは「東京職工学校の如く国家的な見地か. ら職工長あるいは教員養成を目指すというような立場で設立されたもので はなく、同業組合を母体として企業防衛技術摂取、信用回復を目途として設 立されたものである。」q6)このような織物講習所の設立に際しては、農商 務省が各業地に技師を派遣し指導に当たり、農商務省の技術的指導、援助が 講習所の設置に大きく貢献したと言われている。(17). 最後に足利織物講習所を含め、この種類の学校の主なるものを一覧とし て本章の[注]に示しておいた。(、8). 第4節 工業各種学校 各種学校とは、現行の学校教育法でいう「第1条(小学校、中学校、高等学校、 大学、高等専門学校、盲学校、聾学校、養護学校、幼稚園 筆者注)に掲げる以 外のもので、学校教育に類する教育を行うもの」をいう。(、)これらの学校は. 複雑な法規制をうけずに弾力的に教育的創意を生かすことができるので、 常に時代の要請に応じた教育をすることができる、という特徴を持ってい る。. 細野俊夫の研究によると、「工業各種学校としてもっとも歴史の古いもの は攻玉社高等工学校であろう」という。(2)その攻玉社高等工学校は文久3 一13一.
(16) 年、旧鳥羽藩士、近藤真琴により「攻玉塾として創設され、蘭学、数学、航海術. の三科を教授した。明治に入って商船蟹と改称し、海上及び陸地の測量手の 教育に当ったが、明治19年(1886年)一般土木技師として必要な教育を開始 した。」(3). 明治21(1888)年、帝大総長渡辺洪基によって東京の築地に創設された工 手学校は土木、機械、電工、造家、造船、採鉱、冶金、製造舎密というような近. 代的8学科を持っていた。修業年限は予科6カ月、本科1年で、当時としては 珍しい夜間学校として始まった。、. 更に、明治35(1902)年関西商工学校が平賀義美によって、同36年東京商工 学校が山下谷次によって、また、電機学校が扇網真吉、広田精一によって、そ れぞれ設立された。. これら工業各種学校は学校ごとに特色を持ち、明治27年、実業教育費国 庫負担法成立以前の我が国、官立中等工業学校の不足を補う働きをした。 以上見て来たたように、明治期の工業教育は,幕末期からの遺産を多少は. 引き継ぎつつも、それまでの我が国に殆ど存在しなかったような新しい技 術を人々に身につけさせ、富国強兵、殖産興業を達成するために、新政府の. 指導者や工業教育関係者を中心に必死の取り組みがなされた。東京大学、工 部大学校を頂点とする工業技術教育は、当初、下賎のものとしてほとんど一 般の理解が得られなかった。しかし、その後、啓蒙も進み、官私立のさまざま. な中、下級の工業技術教育施設ができる中で、理解も徐々に進み次第にその 対象者の枠を広げていった。そして意志と能力を持つものは、条件が許せば、. 一般庶民でも受けいれられるものになってきた6技術教育担当者も外国人 がほとんどという状況から、日本人自身によるものへと変化したが、洋行帰 りの者、国内で伝習を受けた者を中心に、十分に任務を果たすものが多かっ た。また、国際的に日本の地位が向上するとともに、工業者のモラルの向上. が叫ばれ、その生産品も西欧の粗悪な模倣を卒業して、日本の技術力が世界. からある程度の評価を受けるような品物を作り出せるようになってきた。 明治28年清国との戦いに勝利をえたわが国は、明治30年、金本位制を採用 し、一応、世界の資本主義国の一員となった。しかしこれは自力で得た地位. と言うよりも、清国からの賠償金に支えられたもの、と言ってもよいもので あった。この結果、日本の資本主義は他国との競争に勝つために海外への 一14一.
(17) 進出を余儀なくされた。国内的には国有鉄道の建設、延長、電信、電話の発達 があり、銀行、保険、紡績、精糖、鉱業などの民間企業も大いに発展した。. 文部省はこの状況下で工業教育に特に力を入れ、明治27年の実業教育費 国庫補助法をきっかけに、実業学校令、専門学校令を公布した。実業教育国 庫補助法は産業の発達とともに、全国各地に多くの工、農、商の実業学校を 発足させた。また、実業学校令はその種類を工業、農業、商業、商船および実. 業補習の各学校と規定した。近代日本の実業教育はこの体制で進んでいく ことになる。. 一15一.
(18) 第1章明治期工業教育の概観 [註]. 第1節 幕末維新期の工業教育. 1)高田由夫「日本中等工業教育の発生過程」(r日本大学人文研究所紀要』. 1966年12月置p.75 2)海野福寿r技術の社会史3』有斐閣昭和57年 p.35. 3)三好信浩F日本工業教育成立史の研究』風間書房昭和57年p.84 4)同上pp.89∼90 5)五代友厚(ゴダイ・トモアツ1866∼1918)実業家鹿児島の人、生麦事件. で寺島宗則等とともにイギリスの捕虜となる。のち英国に留学。帰 国後、参与、外国事務局判事、会計官を歴任。実業家に転じ鉱山業、 製藍業に励む。のち、大阪商法会議所議長となる。(日置晶一『日本. 歴史人名僻典』名著刊行会昭和48年p.372大意) 6)前掲『日本工業教育成立史の研究』p.167. 7)同上 8)同上. p.170 pp.172∼173. 9)斎藤健次郎「明治期における中等工業教育の研究(その一)」(r宇都宮. 大学学芸学部紀要』第1部15)p.24’ 10)前掲r日本工業教育成立史の研究』p.94. 11)同上. p.95. 12)同上. p.32. 13)亀掛川博正「幕府における骨仏政策と横須賀製鉄所」(三好前掲書p.32. より引引) ・小栗上野介の言葉 「建設の推進に当って、幕府当局者が一徳川氏、一幕府ということを 離れ、国家百年の大計のため、国防の充実、近代産業の移植をめざし、. 進んで先進国の高い技術の導入をはかり」の文からもわかるように、 小栗上野介らは幕府崩壊を予感してはいたが、巨大なドックは幕府とい う売り家に附属した立派な土蔵(ドック)となるだろうと考えた。. 14)司馬遼太郎r明治という国家』[上]日本放送出版協会1996年 p.62. −16一.
(19) 第2節 明治期の高等・中等工業教育. 1)海野福寿r技術の社会史 3』昭和57年p.24 および p.69表1「旧幕藩営工場の推移」より抜粋. ・新政府による旧幕府、各藩施設接収一覧表. ①幕府. 関口製作所. e ”. 石川島造船所. ⇒. 砲兵本廠 兵部省造船局製造所 、石川島造船所. 水戸藩 ③ 薩摩藩. 集成館. 鹿児島大砲製作所. ④幕府. 浦賀造船所. 閉鎖. @ tl. 横須賀製鉄所. 工部省横須賀造船所. @ tt. 横浜製鉄所. 工部省横浜製作所. o ”. 長崎製鉄所. 工部省長崎造船所. ⑧ 佐賀藩. 製鉄機械三. 工部省赤羽製鉄堅. ⑨薩摩藩. 滝ノ神火薬製造所. 陣軍火薬製造所. oo tt. 敷根火薬製造所. 陸軍火薬調整所. ⑪ 長州藩. 萩鋳造所. 陸軍萩製造所. ⑫加賀藩. 製鉄所. 工務省兵庫製作所. ⑬ 和歌山藩. 弾薬製造所. 陸軍和歌山火工所. ⑭三太郎左衛門輸入火薬製造機械. 陸軍板橋火薬製造工場. 2)唐沢富太郎編著r日本の近代化と教育』第一法規昭和53年p.77 3)細谷俊夫r技術教育概論』東京大学出版会1978年’p.114 4)古市公威(フルイチ・コウイ1853∼1934)土木工業の恩人. 旧姫路藩士の子として生まれる。明治8年フランスに留学。帝国大学 学長を務めた。日本最初の工学博士。男爵、貴族院議員(B置昌一『日本. 歴史人名解典』名著刊行会昭和48年p.802犬意) 5)斎藤健次郎「百工技術と中等工業教育」(宇都宮大学学芸学部r研究論集』. 第一部17)p.24 6)前掲『技術教育概論』p.114. 7)三好信浩rダイアーの日本』福村出版1989年 一17一.
(20) 8)東京工業大学編刊r東京工業大学六十年史』昭和15年p.54 9)手島工業教育資金団編鐘r手島精一先生伝』昭和4年pp.80∼84 10)斎藤健次郎「明治期における中等工業教育の研究(その一)」 {宇都宮大学学芸学部r研究論集』第一部15(第2分冊)}p.32. [この外初代校長正木退蔵によるイギリスのポリテクニックpolytechnic 教育の影響が考えられる。東京高等工業学校(職工学校の後身)の校友 会誌r蔵前自治』には、. 「正木先生は…英国に於て明治四年以来教育を受けた人 である。…それが所謂御役人生活に入らずして身を教育 界に投じたのである。均しく身を教育界に投ずるにしても 普通教育の世界に行かずして特に一般より劣等視されて 居た職工教育に身を投じられたのであった。思うにこれは. 正木先生が英国留学中に目の当たり英国産業革命の状況を 目撃し、当時英国の世界を動かして居たジョン・ラスキン. やキングスレイ等の諸説に動かされて職工教育の必要を 感じ、遂にサー・ヒリップ・マクナスの工業教育論に共鳴し たるに原因するのではあるまいか。」と述べている。 11)煎掲『手島精一伝』p.117 12)斎藤健次郎「明治期における中等工業教育の研究(その一)」{宇都宮大. 学学芸学部r研究論集』第一部15(第2分冊)}p.29. 次に注目すべきは、ワグネルが学校の物料、用具類を陳列するに. 当って学校等階をのべていることである。これによれば実業教育 機関は普通百工学校、専門職業学校の二種類から成るものと考え られている。専門職業学校は職業的に細分化した単科的な学校、. 普通百工学校は一般的な職業陶冶をする学校であると見ることが できる。. 13)同上 p.29 14)前掲r東京工業大学百年史』pp; 116∼117. ・旧士族の上級学校生徒在籍率. 明治23年7月14日付け官報による東京工業学校卒業証書授与式の記 一18一.
(21) 事に基づき、士族、平民を分類し計算した。. ・機械科卒業生21名のうち、士族14名 ・同左 ・染工科. 8名. ・陶器破璃工科 ・製品科. 2名. 〃 7名 ・同左. 5名. 選科1名のうち1名. 〃 2名. 〃 4名 ・同左t〃 1名. 〃 0名 ・同左. 〃 1名. 〃0名 〃 1名 〃 1名. 総合計卒業生41名のうち、士族.28名(約68.3%). 15)猪木武徳r学校と工場』読売新聞社1996年 p.47. 書3節 伝習所・企業内技術教育. 1)細谷俊夫r技術教育概論』東京大学出版会1978年p.115 2)斎藤健次郎「百工技術と中等工業教育」(宇都宮大学学芸学部. 『研究論集』17)p.24. 3)海野福寿r技術の社会史3』「西欧技術の移入と明治社会」有斐閣 昭和57年pp.117∼119 4)前掲「百工技術と中等工業教育」p.28. 徒弟制度との決別が近代工業教育の特質であり、日本の工業の大部分は、. 軍需産業を中心に西欧技術の導入によって近代化を図ろうとしていた が、富岡製糸場などは、上記論文p.27、「日本の伝統的製糸技術を身につ. けた人々、製糸技術を身につけたいと考えている少女達に技術伝習を行 い」に見られるように、日本の伝統的技術も近代工業の中で生かそうと の意図はもっていたと思われる。. 5)同上 p.27 6)前掲『技術教育概論』p.116 7) 同上. p. 155. 8) 同上. p. 155. 9) 同上. p. 155. 10) 同上. p. 155. 11) 同上. p. 155. 12)グンゼ株式会社『グンゼ株式会社八十年史』昭和53年p.114 13)前掲『技術教育概論』p.157 一19一.
(22) 14)高田由夫「日本中等工業教育の発生過程」(r日本大学人文研究所紀要』. 1966年12月)p.76 15)同上 pp.80∼81 16)斎藤憲次郎「明治期における中等工業教育の研究(その一)」{宇都宮. 大学学芸学部r研究論集』第一部15(第2分冊)昭和40年}p.35 17)前掲「日本中等工業教育の発生過程」p.80. 18)同上. P.86より抜粋した学校教育として組織化された染・織. 講習所等の一一覧を示す。. 〈各地の染、織物講習所一覧〉・. 創立年度. 名称. 校名変更. のち. 明治18年. ・足利織物講習所. ・栃木県立工業学校(県立)県(32). 回 19年. ・京都染工 〃. ・京都市立染織学校(市立)同上*. 回 年. ・桐生織物 〃. ・山田第一高等小学校附属実業. 補習学校(町立) 同 年. ・伊勢崎織物〃. ・伊勢崎染織学校(私立). 同 年. ・山梨県南・北都留郡色染所・南都留染織学校(郡立). 同 遠. ・和歌山染色講習所. 図 20年. ・八王子織物〃. 同 22年. ・米沢染色 〃. 同 27年. ・福井染織伝習所. 県(32). 同上 郡(34). ・紀州染織学校(私立). ・八王子染織学校(私立) ・山形県工業学校(市立) ・福井染織学校(私立). 府(36). 県(33). 同上. 「のち」欄の県、郡、府は[立]を省略。数字は明治の年数を表す。*ママ(市立). 第4節 工業各種学校. 1)r六法全書』第八章雑則 第八三条[各種学校]岩波書店昭和63年 2)細野俊夫r技術教育概論』東京大学出版会1978年 p.147. 3)同上. p.147. 一20一.
(23) 第2章手島精一の工業教育論. 第1節 殖産興業のための工業教育. 手島精一が明治3(1870)年∼同7(1874)年までの最初の洋行時から当時の欧. 米先進諸国を理想国家としていたのは、それらがいち早く、組織的な教育の. 力によって工業を盛んにし開明富強の国家を形成していたからである。明 治十六年r東洋学芸雑誌』に発表した彼の「職業教育論」の冒頭には、文明. のすばらしらしさを称えると共に、わが国の職業教育の不十分さを嘆く言 葉がある。. 看よ、是れ世界は今方に愛遷の時なり。古人の曾て夢にも看 ざりし蒸氣力は汽車を陸に走らし、汽船を水に翔けしめ、電. 信は乃ち数万里の遠きを瞬間に通ずるの如き、其他學術に工. 業に農業に往くとして平ならざるはなく屈寛尚ほ逞あらざ るなり。故に日く、世界は今方に攣遷の時なりと。斯く世界. の事物は大に愛遷せりと錐も其影響の未だ全く教育に及ばず して、方今最も須要なる職業教育の如きに至りては措きて問 わざるものの如きは一に何ぞや。(D. 明治12年の調査によると、全国学齢男女の数、5、371、883人中、就学者 2、210、607人、不就学者3、160、776人であり、この就学率(男女)は即ち学齢. 人員の40%強で、早筆就学率は60%強である、と彼は嘆く。これら不就学者は、. 「父兄の業務を助けんがために止むを得ず学に就く能はざるものあらん。. …(略)…此種の子弟には至近なる普通教育と共に、他日其業務に有用な る学科を教えるを以て教育の真面目とは為すべきなり。其の有用とは何ぞ、 即ち職業教育躍れなり」と、職業技術教育の重要性を強調している。そうす. ることが国家として輸入に頼らず必需品を国内生産し、民衆が貧しさ故の 犯罪を犯すことを防ぐ方法であると、白耳義(ベルギー)、独国の例を引きな がら述べている。(2). さらに、彼の理想とする国の一つ、独逸が何故強いかという理由として、 一21一.
(24) 一つは軍人が勇敢であること、もう一つは工業が発達していることを挙げ、 戦いに勝つには工業の進歩がなければならぬこと、そして、軍事上からだけ. でなく国を建てるには工業が尤も必要であると主張する。当時のドイツは 確かに手島が憧れるとおり、飛行機、飛行船を含む最新鋭の武器をもち、国. 家としての組織が整い世界の一流国であった。手島の言葉を借りれば「独逸 は各般の事業に達し緻密である。」(3>日本も明治維新以来着々と力をつけ、 日清、日露の二つの戦争に勝ち、世界の一流国を目指していた。そこで彼は、. 「日本が世界の一等國に列する今日、自螢の道として工業を盛んにせねばな らぬ。一歩進んで申せば工業をもって國是としてもよいとおもう。」と言い 切る。(4)この時点の手島は、彼のすべてを日本の工業振興にかけているか にみえる。事実、彼は生涯を工業教育にかけ、「自分の私利の為に、目的を左 右するようなことになるごとは、はなはだ心苦しい、私は始終一貫して、工. 業教育工業の発展といふことに身をゆだねて攣わらぬことにしたい素志で あるから、ご親切はありがたいが、…(略)」と他の世俗的栄達の誘いも断っ ている程である。(5>. 手島が初めて工業教育に関わったのは、東京:職工学校ができ、まだ、彼が. 校長になる前で、本人の言によると、「私の就任前八年の間、全部ではありま. せぬが、3、4年の間は、商議員をして如何したならばあの學校に於ける工業 教育が盛んになるだらふかといふことに就て、考へて居ったのです。それが. 私の工業教育に從朝する手初めでありました」㈹とのことである。彼が文 部省の官僚として、ロンドン衛生博覧会に参加していた頃で、海外からの示 唆を受けることも多かったと思われる。たとえば、手島がロンドンより帰国 後の明治19年、r教育時論』8月15日号に発表した「實業教育論」では、明治18. 年の日本と英国の歳入を比較し、同じ島国で人口割合も似た国なのに、英国 は430、000、087円多い、何故かと疑問を投げかけ、それは「學理ヲ磨用スル實. 業ノ大二論戦リテカアルノ致ス所ナルハ面疽識者ノ許ス所ナリ…(略)… 欧米諸國ノ實業教育如何ヲ看ルニ朝命此教育ノ必需ヲ畳リシヨリ此種ノ學 校ヲ設ケザル國なし…」(7)と、実業教育の世界の趨勢を語っている。また、. 工業教育体系のサンプルとして下記に挙げているものも欧州のものである。 彼の生涯の工業教育企画は、ほぼ、これに近い。. 「1)高等技藝學校(工科大畑 直前、技監養成) 一22一.
(25) 2)中等實業學校(東京職工學校のような學校)普通實業學校、織物學. 校、工業用美術學校 3)徒弟學校(良工を養成足利織物講習所、商業暴富付属商工徒弟講習 所のような學校) 4)夜三校(豊間仕事がある:職工に業務に関する學科を教える學校) 5)女子職業學校(12、3歳以上の女子に實業を教える) 手島はこれらを説明するのに、「實業教育」[職業教育]も使っているが、 『手島精一先生遺稿』の中で次のように「容物教育」が良いと述べている。. 文學又は無形の學問に反封ずる教育を實業教育と云ひ、職業 教育と云ひ、又は技藝教育と云ふ。…(略)…他日主として學. 校に於て學幸したる事柄を以て、直に職業となさんとする科 を授くるの教育には、職業教育なる語は當らざるに非ず。… (略)…實業教育並に職業教育の名称穏當ならずとするときは、 何れの名掌骨なりと云はば、技藝教育の名構梢穏當なる醸し。. …(略)…而して之を英語に訳すればtechnical education にして…(略)(8). この当時、日本は独立国とはいえ、まだ、国内外の大きな利権をほとんど 外国人に握られており、莫大な利益をみすみす失っていた。例えば、手島の 説明によると、海外諸国と商品売買するとき、外食人による委託販売のため、. 年間180万円もの手数料を支払っており、また、日本が海外に売る品物は主 として、織物、陶器、蒔絵、生糸、茶、金属、乾魚など、一・部人工の物のほかは、. 天然自然の物で、学理を加えたものはほとんどなかったという。また、「外國 の富貴なる原因は主として工商業の力旺盛なるに依るならん」(g)であり、. 工業力を強めることにより加工収益を得ることが重要であると主張する。 これについて彼は一般大衆にも分かりやすい説明をしているので、それを みてみる。. 曾て聞く、二反の土地は米穀を植ゆるときは、其収穫の金額 僅八圓なりと錐も、之を桑園となし、幽幽葉を以て養翼する ときは、六十圓を得ると云ふ。又壼圓の鉄棒を馬蹄となすと 一23一.
(26) きは、其債僅に武圓なり。之を縫針となすときは七十圓を得、. 之を小刀の刃となすときは六百五十七圓を得、又之を時計の スプリングとなすときは、五萬圓を得るといふ。(西洋の工業 家の説による)(10>. 彼はこれによって、優れた工業技術がいかに多くの利益をもたらすかを 訴えたかったのである。それができる豊かな国の代表としての英国と、まだ そのレベルに達し得ない貧しい国、日本を比較し、「以て學理と技能を要す. るの人工を加ふるときは、富麗益多きを見るべし。斬れ本邦と英魂と富貴の 差を生ずるを知るに足らん」(、Dと慨嘆している。そして、日本の固有工 業も速やかに研究に基づく学理応用をするよう促している。明治41年∼42年 にかけての東京高等工業学校のr學校一覧』には「新奮工業統一の徴候」と 題する学校長報告を載せ、次のように書いている。. 各種の工業は學理の薬用に依りて其発達顯著なるは當然 のことなりとす。然るに我工業は由来素質のみを主として 進歩し、學理を不問に付し去りしは、…(略)…近時我教. 育ある技術家は、其知識を外素式の工業にのみ薬用せず能 く學理を咀嫁して之を固有工業に朦用するもの増加し、新 製品を案出等の傾向あるにいたれり。又固有工業者も漸時 曹慣の不可なることを覧食し、學理鷹用に熱誠なる輩少な からず。洵に欣ぶべき機運なりとす。此の時に於て技術者た. るものは其知識庶用の途は海外に於ける工業のみに非ざる は勿論なることを更に大に畳醒して、我固有工業に就ても. 研究を積むときは學理を磨用すべき鯨地窪々としてあるべ きことを忘るべからず。(、2>. 彼の見解によれば、わが国の工業は明治維新以後著しい発展を遂げたけ れども、残念なことに、今なお、固有工業の外に模倣工業(、3)があり、その多. くを外国からの輸入、あるいは模倣にたよっていることは恥である、このよ うな日本の傾向にたいする警鐘として、彼はドイツ皇帝の国産奨励の10ケ 条(、4)を示し、わが国も内国品の需要を増し進んで海外輸出を図るべきで、 一24一.
(27) それが国家発展上最も大切なる手段であると説く。このような手島の考え 方の根底にあったのは、彼自身その人の書翰を額に入れ校長室に掲げるほ どに心酔していた明治26年当時の文部大臣、井上毅の主張であり、手島自身 が次のように述べている。. 日本で何が一番必要であるかと言えば工業である。何とな. れば今Bは、凡そ精巧なもの、又學理を鷹用した物品は殆ど 海外あ供給を受けて居るではないか。而してその日本は単に 原料をその儘外蓋に輸出ずるに過ぎない。わずかに織物だと か、或いは陶磁器だとか、その他金属製品といふものは海外. に出し得るのであるが、他の物は悉く鬼斗の供給を受けて居 る。斯う云ふことでは國は立たないではないか」といふこと が、井上子爵の主張であった。(15). それと同時に手島は、日本人が優秀な自国製品があっても、むやみに横文. 字ブランドの外国製品を欲しがるがために、それに乗じて日本品をあたか も外国製品であるかのように装って販売する商工業者の不道徳を責めてい る。外国製品に憧れるのは国民の好奇心と自国製品への愛の欠如のためだ と言っている。反面、国産品が歓迎されないのは(引用者注日本の製品に). 「其の品質の優良でないもののあることも亦、忘れるべからざる事実である 」(、6>と率直に認めている。材料精選の上、もっと製造上の注意をし、わが国. の製品をわが国の需要者の気風に適うように改良して、価格にふさわしい 品質を維持するよう工業者に促してもいる。手島の国産奨励の三ケ條は、. 1)国産品の需要を奨励すること。 2)技能を向上せしむること。 3)価格を低廉ならしむること。(、7). であり、これによって外国品依存から脱却できるとした。(、8). 彼はとにかく、国家と国民の利益のために工業思想を普及させ、また発展 させることを生涯の目的としていたので、「告白の開明を進め富強を致すの 大要具たる理學の振興のため」「高等に属せざるものにして、且つ、之を普 一25一.
(28) 及ならしめんとするの考案」(、g>と云うのを披露している。以下、長文のた. め説明の箇所は現代文で要約した。「. 」のみ原文を引用した。. 1.「三面なる理科上の鈍痛書の襲行を奨勧すること」. 我が国では科学に関する書籍の出版が少ない。通俗的な書籍が人々. の気持を高めるのに効果がある。科学の振興を図ろうとするなら 分かりやすい外国の書籍を翻訳出版せよ。 2.「理科或は技術に凶事する人は公衆に向って理科上の演説をなすこと」 昼間仕事をしている人、読書力のない人には講演会が一・番効果的で. ある。老若男女を問わず、科学が日常めささいなことにまで関わりが あることを知らせよ。 3.「學校兄鮎並に教師をして理科を學ばしむるの便を開くこと」. 児童は機械の運転、動物の活動等に探求心が盛んである。科学に関. する事物について実物を示し作文させるのもよい。都会の高等小学 校同志が近い所では理科専門の学士を巡回指導させると効率的だ。. 科學の進歩は日新月歩である。府県で地区毎に教師対象の理科講 習を開いて研修させるのがよい。. これらのことは実際に手島が教育博物館に勤務中、或いは校長在職中に 実行し成果を挙げていた事である。(2。)彼自身がやっていたことは、次の ような事であった。. (1)工業教育資料などを外国の本から翻訳編集すること。 (2)国の内外かう各種標本を集あ展示すること。. (3)新しい機器についての取り扱い講習会をすること。 (4)学術講演会を開くこと。. このように、精力的な活動を続けていたので、その経験に基づく意見を披 渥したものと思われる。. 第2節 中・下級工業学校の必要性. r東京工業大学百年史』によると、明治維新政府が日本の近代化のために 一26一.
(29) 明治初年に打ち出した文教政策は次の三点に要約されるという。(、>. 1)国民の知的水準の向上を目指す初等普通教育の普及 2)指導者の養成を目的とした高等専門教育機関の整備 3)欧米の先進的科学技術の速成的習得 工業教育に限って言えば、このうちの1)は一応除外するとして2)に当 てはまるものは工部大学校、開成学校である。工部省の実質的リーダー伊藤 博文の援助のもと、山尾庸三、ヘンリ■一一・ダイアー等の努力により質的に高. い成果を収めたことは三好信浩の研究に詳しい。(2) 3)についても、上記二つの高等教育機関が多くの「お雇い外国人」を雇って. 短期間に成功を収めたことは、よく知られているところであ66この速成的 技術習得については、高等専門教育機関だけでなく中等専門教育機関でも 試みられた。すなわち、明治7(1874)年、東京開成学校内に設置された製作学 教場がその一つである。(3). 明治5年の「学制」にうたわれながらも、近代的工場の本格的発達もない まま、新政府に疎んじられていた中級の労働者養成が、開成学校のお雇い外 国人ゴットフリート・ワグネル(Gottfried Wagener 1831∼1892)の大木文部. 卿への建議によってようやく実現したのである。ワグネルは、. 凡そ一国の富を増進するには主として工業の発達を図るべく、 工業の発達を図るには、先ず低度の工業教育を盛にして工業 上、最も必要な職工長其他の技術者を養成しなければならぬ(4). という趣旨の建議書を書いている。. 尚、ワグネルはこの製作学教場の設立建議書に限らず、工業教育振興につ いていくつもの建議をし、寄田啓夫の研究によると、「機会ある毎に種々の 建議を提出し本邦の開発に勉められたり」との賛辞を得ているという。(5) 製作学教場は製煉(化学)、工作(機械)の二科に別れ、予科2年、本科2年の. 4年課程の学校であって、当初、開成学校の施設、スタッフを利用することを 計画した。年齢、身分等の規定はゆるやかで発展が期待されたが、明治10 (1877)年2月、卒業生を2回出しただけで廃校にされた。「製作學教場の如き. 卑近實用のものを併置することは専門学校としての体面を得たるものでは ない」(6)というのがその理由であった。「卑近実用のもの」という言葉の三 一27一.
(30) に、「そのようなものは学校の名に値しない。」という拒絶反応のような響き が感じられる。. 確かに、この当時の世間の人々の職人、工業などに対する見方は偏見に満 ち、卑しい職業であるかのような見方をし、官吏、軍人などへのあこがれが. 強かった。手島精二が東京工業学校長となった明治23年以降でも、入学希望 を持つ一人の少年が手島に面会した際、. 私の性質として何うしても工業學校へ這入って器械の方の修 業をしたいと思ひますが、宅の母が何うしても許して呉れま せん。…(略)…母の申すには器械や織物は職工のすることで、. 大工や左官と同じ仕事だから死んだお父さんに奏しても相済 まない。家は士族だから是非軍人におなり。それがいけなけれ ば何かお役人になる稽古をしたが宣いと申されます。(7>. という話が手島によって嘆きと共に語られている。当時の工業蔑視の風潮. を示す今一つの例を挙げれば、明治23年の東京工業学校卒業証書授与式に おいて、吉川文相は次のように述べている。. 帝廟ノ工業技藝ハ今尚ホ幼稚二属シ他ノ事業二比スレハ其ノ. 発達進歩甚タ遅漫ナルヲ免レス蓋シ其ノ因テ然うシムル所 以ノモノアラン熟々年少子弟ノ情勢ヲ観察スルニ封建ノ鯨習. ヲ襲ヒ動モスレ短期ラ心ヲ政海ノ波瀾曲馬キ而シテエニ從ヒ. 商ヲ営ミ勤勉労働以テ其一身ヲ立テ國家二丈センコトヲ欲 スル者甚タ箪ナリ之識者ノ常二慨嘆スル所ナリ(8>. また、工場の数がまだまだ少なく、中堅技術者の需要も少なかったのであ ろう。明治35(1902)年の農商務省編集のr工場通覧』op統計によると、20世紀. に入り、工業化が加速したその時点ですら、職工数、千人を越える大工場は 日本全国で33しかなく、そのうち、綿糸工場が20、しかも工員のうち八割は 女子工員であったという(g>。それより25、6年前の明治初期には、中堅技術. 者といえども、工場に就職することはかなり困難であったと思われる。さら に. ls根本的に文部省自身に中等の技術学校をなんとか育てようという強 一28一.
(31) い意欲が未だ、十分に無かったのではないかという疑いもわく。手島自身、. フィラデルフィアの万国博覧会で、後にロシア法と呼ばれるロシアの工業. 学校の学理、実習の一致を目指した共同作業教育による実習作品を見て大 きな衝撃を受け、次のように書いている。. わがB本に於ても工業教育が大いに必要である、どうしても 日本は農業本位だけでは國は立つまいと深く感じましたので、. 長官の田中文部大輔などにそれぞれ建議をしましたけれども …(略)… 田中文部大輔に於いては悪いとは言はぬが、未だ 機運が熟さぬ”といふような模様でありました。(、。). 文部省としても、混迷期、当面の初等教育あ普及と大学での上級指導者養 成に、より比重をおかざるを得なかった、と言うのが実情ではなかっただろ うか。. このように、ワグネル等の努力によって設置された中等の工業学校、製作 学教場は大きな成果を生まぬまま廃校となった。しかし、急速な工業化を進. めるわが国にとって、家内工業⇒軽工業⇒重工業へと次第に発展してい く過程で、中等工業学校の必要性がまったく否定された訳ではなく、文部省. 内の工業教育推進論者、文部大輔九鬼隆一、専門学務局長浜尾新、教育博. 物館長補手島精一等の努力は続いた。明治11年フランスのパリでおこなわ れた万国博覧会へ参加した九鬼、手島はそこで再び日本も工業教育施設を 早急に設置しなければならないという大きな刺激を受けた。このことにつ いて手島は次のように述べている。. 明治9年より僅か4年ばかりでありまずけれども、西洋諸國 に於ては理科學応用の道が段々と開けて、佛蘭西に於ては 先ず小學校に手工科を置くやうになり、又佛國の農商務省 では工業學校の如きものを建て、頗る工業教育に力を入れ て居ったことを博覧會で見ました。それと共に彼の露西亜. が例によって自國の工業學校生徒の成績品を陳列して居り ましたが、それが又亜米利加の人はこれを余程羨望して居 るのが、私の感を深くした。菰に於て私はどうしても、我が 一29一.
(32) 日本も工業に関した教育を施設せねばならないといふ感を 更に深くしたのであります。(1D. 明治13年12月、彼らの努力が実を結び教育令改正(明治12年9月「教育令」 制定)となった。その第二条には「職工学校」がとりあげられ、「職工学校ハ百. 工ノ出航ヲ授クル所トス」(第八条)と説明されている。(12)明治14年4月. には文部省が東京:職工学校設立の旨を布達することになる。この時に文部. 卿福岡孝弟から太政大臣三條藩士に出された「職工學校を東京に設置す べき件に付伺」は工業教育の必要性をよく表した文である。(、3). この趣旨を受け明治15年東京職工学校が設立され、正木退蔵が初代校長 となった。その後、明治19年東京商業学校付属職工徒弟講習所、京都染物講 習所、足利織染講習所。明治20年金沢工業学校、八王子織物染色講習所、同. 21年工手学校等、公私立の中等職業教育施設が設立され、工業現場第一線の 職工、職人を養成することになる。. ただ、この東京職工学校は、上記の伺いに見られるように 1)細民の子弟が小学校卒業後、学ぶ機会がないので、普通科目の再教. 育を含めて専門教育を施すこと 2)空しく時を過ごし効果が上がっていない徒弟制度を改革し、学術. と実地訓練を併せた方法で、各土地の状況に即した伝統的工芸を. 振興すること 3)全国の職工学校のモデルとなり、その教員を供給すること という三つの目的で設置されていたが、この点については、r東京工業大学 百年史』は疑問を投げかけ、他の学校とは性格を異にする面があることを指 摘している。(14). ここで注目すべきは、「伺」には職工養成を目標とするとなっているが、 明治18年8月に制定された「東京職工忙中規則」によれば、「職工登校ノ師範. 若クハ職工長タル者二必須ナル諸般ノ工芸等ヲ教授スル」を目的とし、更に 翌15年6月の規則改正では、「職工學校ノ師範若クハ:職工長製造所長井ルヘ キ者」を養成することが目的とされる。「伺」に見られる限りでは「職工養成」. であったが、規則ではすでに専門学校としての性格を全面に打ち出し、「平 職工」ではなく、「職工長」の養成である事を強調している。とすると、中堅の. 職工あるいは、低位の職工を養成したい、という当初のもくろみは崩れ、そ 一30一.
(33) れより、やや高いレベルでの人材養成になったことになる。 この理由について考えてみると、r東京工業大学百年史』の大要、次のよう な説明が参考になる。すなわち、明治14年に出された東京職工学校設立伺は、 次のような6項目に要約できる。. 1.小学校を卒業した細民子弟の防貧教育 2.模擬的徒弟教育の是正、職工教育の充実. 3.日本工業経営者の愚心ならしむること 4.工業の挽回 5.全国職工学校の模型たらしむること,. 6.全国職工学校の教員の養成. このうち3は工業振興の担い手としての工業経営者の創出にあること の宣言であったこと。5.は全国各府県に作られようとした工業学校に「其基. 準を挙示」する必要があったこと。6.は東京職工学校が府県の職工学校の 教員を養成する工業高等師範になるべき使命があったこと。したがって「東. 京職工学校は全国の職工学校と同位置の模範だるにとどまらずそれより優 位に立ち他の工業機関を指導する」必要があった。(、5). これらの点から考えて「伺」の時点ですでに、東京工業学校は専門学校レ. ベルにすべきだと考えられたのであろう。 この傾向は、この後もしばらく続き、手島自身が力を入れ29年に設立され た大阪工業学校も、手島が明治24年4月にr教育時論』に掲載した「大阪市二. 工業糞垂ヲ設立ノ必要ヲ論ズ」の中で述べた設立趣旨とは結果的に異なり、 やや高い層の技術者を養成することになる。上で述べたことと重なるが、手 島の気持ちが良く表れているので一部を引用する。. 夫レ国利民福ヲ増進スルニハ、殖産興業ノ道ヲ抗スルニ若ク ナシ。殖産興業ノ道ヲ開カント欲スルニハ、マズ工業ヲ熾ニ スルニアリ。工業ヲシテ熾ナラシムルハ他ナシ、主トシテ三. 二要スル技術者ヲ多ク養成スルニアリ、蓋シ技術者二在テハ、 其高等ノ技術者ヲ養成スルニハ、工科大學ノアリ、其學理實. 業ヲ併修セシムルニハ巳二東京工業學校ノ設ケアリ、然リ而 ウシテ高等ノ技術者以下ヲ要スルコト多キハ勿論ナリト難モ、. 一31一.
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